2009年06月18日

第三章 越中国の寺子屋総論

一、概要
民間の教育機関である寺子屋は、越中国でも藩政末期に数多く設立され、加賀藩も文政七年二月「御学政御修補に付、四民共御教導之儀は孝悌を先といたし候より外無之、凡人は先入主と成候而、幼少之折覚込候儀は其習生涯透り申ものゆえ第一蒙養を重んずる事に候」と達し、幼少教育の重要性を強調していた。町部はもとより郡部の住民は、仕事上の理由からも子供たちを熱心に寺子屋へ通わせていた。寺子屋といっても寺によるものは、だいたい主に他に開く師匠がいない地域で開塾するに止まる。師匠(私塾では先生、寺子屋では御師匠様)の職業は各地域の特徴と密接に関わり、寺子屋専業者は稀であった。それでは入塾から卒業までを眺めることにしよう。
@師匠選び
師匠を選ぶ基準を、当時の父母は師匠の人格・人望及び文字の筆法に置いていた。例えば砺波郡福田町(現高岡市)では寺子屋師匠が自筆の手本を各家庭に届け、父母は各手本の筆跡を比較しそれに師匠の人格も考慮に入れて決定し、後で師匠が訪問した際に返事をしたそうである。従って師匠には手本に誤りが無いよう、常に研鑽を怠らないことが大切であった。また七夕で飾った牡丹や菊等の造花を未就学児童に配りそれを受け取れば入門の意思と見做す、という地域もあったようである。書流は御家流が最も多く、他には持明院流等である。漢様(唐風)は稀であったが伝わっている。
A入塾
だいたい地元の有志が師匠であるため、採算や収支をそれほど重視せず運営しているため、父母の経費負担は少なく済んだ。入塾時には父母が子供を正装させ連れて行き、師匠に束修(物納可能)を渡すだけでなく、門弟には菓子類を配ることが常であった。謝儀は中元と歳暮の二回のみで、現金なら身分に応じ、物納なら白米一・二升や季節の野菜、魚などでよく、児童の糞尿という所もあった。寺子屋によっては別に畳料や炭料を納めた。師匠からは七夕や歳徳の手本を渡される所もある。 
入塾期は節句の翌日(三月四日、九月十日)が多く、男子は八・九歳から三〜六年間在籍した。女子の就学者は男子より少なかったものの、九・十歳から三年間ほど寺子屋通いをしている。また学則・学規を定めていた規模の大きいところも少なからずあった。
B授業
 師匠や地域により各々特長があるものの、概ね上級生が諸役に任じられて下級生を指導し、師匠は個々の学習進行状況を把握して課題を与え、激励した。
 まず仮名各種を覚えた後に往来物等の教科書を用いて学ぶが、師匠が寺子一人一人に手書きで渡す所が多く、また広徳館などで開発・編纂した物も使われた。これは絵図入りで興味を引きつつ、教訓話(心学)・地理・歴史・手紙文等を文例に、書写させる事で道徳教育と実学を兼ねた学習が出来るように工夫されている。更に中には素読を取り入れたり、上級者に漢籍を学ばせた師匠もいた。素読では解釈を加えず、習字教材や専用教材でまず師匠か上級生が範読し、それから一斉に素読した後に、各自が上級生の指導の下に暗唱する、という方法がよく採られた。
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 教材の進め方の一例をあげると、書写はまず仮名や数字・日記・名頭・町盡等から入り、国盡・商売往来・消息往来等へ進んで、実語教・童子教・千字文等で修了する。その後志望者へ四書(大学・中庸・論語・孟子)の素読を、始業前後に行った。
 この他に算術(珠算)を取り入れていた所もあり、加減乗除を基本に、有志者には開平・開立、八算以上へも進んだ。だが専門の珠算塾に通わせる父母も多かった。
 寺子は寺子屋に硯・硯箱・筆墨・文鎮・水入・拭布・墨挟等を自分の文庫に入れて置いてあり、通学時には草紙・弁当・下足札・上履き・雨具等を持参した。教室は男女に分かれていて、一脚三人掛の机(当初は飯台を使用)を使用した。大規模な寺子屋であると、良い席を確保するため朝早く登校して書物を置き、一旦帰宅したそうである。
 授業は八時頃より四時頃までだが、以前や以後に選択科目として漢籍素読や算術または謡曲などを開講した。習字では一般に藤巻という太筆を使った大字が奨励され、紙は土市または山田紙を用いた。初学者は上級生が手を取って書かせ、次に爪の痕を付けながら指先で書き示し、やがて独力で書けるように誘導した。また家では灰書・小糠書で練習した。一通り練習を終えたら清書をして、合格したら次の手本へ進んだ。
 一例を示そう。富山四方の寳山堂でのある日である。朝は食事前に町内単位で集団登校して朝学習をする。定座役が机を並べ、検断役が硯、草紙、手本を並べさせ、水を注いで墨を磨らせる。ただ磨らせるのではなく、その間に名頭や村名を読ませる。やがて調べ役が「墨上げよ」と号令すると皆は手本を開いて草紙に書き出す。朝食の時間が来ると、早く登校した町内から先に戻ることになっていて、目付役が「一番町いかっしゃい」「二番町いかっしゃい」と呼び立てる。
 朝食が終わって再登校すると、師匠が「師匠はん」「シーシー」の声の中で登場し、調べ役が無駄な食物や不用品を持っていないかを調べる。そして授業が始まり、大学・論語・女大学の読みを習う者は前に出て教わり、手習いの者は長番が回り訂正したり、行儀を直す。昼食の時間になると、朝と同様帰宅するが、夏には水判という判を腕に押して帰す。それは水遊びをしたらすぐ分かるようにするためである。午後に戻ると入口の庭で、長番が判調べをし、消えていると帳面に付けられる。
 午後の授業は清書が中心である。書いたら師匠の所へ持って行き直される。そこで「上々也」「上々見事也」「大上々見事也」の評価であれば次へ進む。山田紙を六折り(商売往来や消息往来は八折り)にし、端に前の手本の末の字を書き、下に姓名、裏に月日を記して提出すると、師匠はこれに自筆で手本を書いて明朝に渡す。清書が終わると次は九九の練習になる。師匠か取締役が主唱し、一同が和して唱える。一通り終わると長番が「しまわっしゃいやー」と発声し、道具を文庫に入れて、机とともに周りに積み上げる。ここで女子は礼をして退出、男子は机を背にして座り反省会をする。中央に師匠が座り、両側に取締と長番が並んで、目付はその日に悪いことをした者がいたら帳面を差し出す。これを見た師匠は、灸や尻叩きなど罰 を与えることになる。この後謡曲を習って、挨拶をして帰宅する。
C行事
 寺子屋には一般に夏休み(七月六日から二十五日)と冬休み(十二月二十一日から翌年正月二十日)があり、中には終業日に「上り仕舞」と称して、未明に登校し蝋燭を点して手習いをした後で、夜明けに用具を納めて師匠の訓示を受け各自が文庫等を持って帰宅する、という所もあった。なお、郡部では農閑期や夜間に集中して学習する場合が多かった。
 七夕の行事は多くの地域で盛大に行われている。桐の葉に文字を書いて供え、夜川に流して書道の上達を祈った。また献灯や字懸 などをする地域もあった。竹には短冊の他に牡丹・菊・菖蒲の造花や御殿・山等の模型を、女子も衣紋を作って吊し、胡瓜や茄子などを山のように供え、太鼓の伴奏で七夕の歌を唄い、町も夜中まで賑わった。
 五節句には清書の審査会があり優秀順に張り出された。正月には床の間の天神像や軸の前で試筆し、左義長の火に投じて上達を祈願した。また地域の神社で祭礼がある時には清書を奉納した。高岡では四月二十五日に関野神社境内の天満宮祭礼、富山では浄禅寺の天満宮(現於保多神社)の祭礼、放生津では曼陀羅寺の祭礼、砺波郡では水島(現小矢部市)の天満宮の祭礼等である。
 菅原道真命日の二十五日には毎月天神祭りを行う所もある。寺子の家庭は三十文ずつ賽銭を出し費用に充て、正面に幕を張り天満宮の絵を掲げ、神酒・鏡餅・菓子等を供え、寺子の席書(清書)を張り出す。師匠から訓話を聞き、その後で一同は神酒や草団子などを分け合い帰宅した。
 これらの行事は師匠と寺子の親睦会を兼ねている。天満宮の祭礼には、三〜五文の謝礼を各家庭から師匠が受け取るが、昼食会の費用に充てられている。節句ごとにも各人二〜五文の謝礼をする場合があるが、煎餅を寺子に配ることで返礼とした。地域差はあるが、行事があるたび師匠は寺子と会食するのが常であった。
D試験
 寺子屋の中には、毎月晦日に習熟しているかどうかを確認するため、「つごもり」というその月に学習した内容を試験する所もあった。ただ一般的には師匠が個々の寺子の到達状況を把握して、進度を決めていた。
また清書などで高い評価を受けた時は、父母が同門に生菓子等を配る程名誉な事であった。
E役付
 寺子は長幼や能力で役付けされ、新入生や下級生の面倒を見た。名称は長番・取締役・目付など寺子屋によって異なるが、授業準備から寺子の指導、懲戒まで万端を取り仕切った。
F卒業
 就学年限には特に決まりはないが、ほぼ三〜五年で課程を修了するか、家庭の事情で中途卒業になった。その時には父母が出頭して在学中の礼を述べ、同門一同に挨拶した上で子供を引き取り帰宅した。
二、寺子屋統計
 『日本庶民教育史』(乙竹岩造編)という大著がある。ここには大正四年六月より六年六月にかけ、全国で寺子屋教育経験者にアンケート調査をした結果が載っている。調査は、アンケート用紙を友人知己に託す・全国各男女師範学校最上級生徒が長期休暇で帰省の折りに三日を割いて調査してもらい回送してもらう、という方法で行われた。ただし調査の際には男は男の古老、女は女の古老に当たるものとした。配布数は一万二千余り、その内回収できたのは男二千五百四十人分・女五百五十人分の計三千九十人分であり、内訳は師匠及び補助者八十三人・寺子三千七人である。この中の富山県分は、天保より明治までの師匠男四人・寺子男五十四人と女十人で、別に一つの寺子屋から十人の報告があったがこれを一つとして数えている。アンケートの富山県分をグラフ化したものを史料として示した。
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【註釈】
●書風
 御家流は和流の一派であり、青蓮院尊円法親王創始の青蓮院流が江戸時代に大衆化したものと伝えられる。公文書の書体であった。
 持明院流も和様書体であり、室町時代の持明院基春の流派といわれる。
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        (佐々木志頭磨)
●寺子屋教科書
 端手本、名頭、商売往来、村名附、消息往来、千字文、国盡、町盡、実語教、諸證文、書翰文、寺子教訓書、庭訓往来、文章規範、童子教、農業往来、名物往来、宿駅名、銭日記、米日記、定書、加越能往来、熊谷状、百人一首、女今川、女大学、四書五経、大学、唐詩選、孝経、十八史略、蒙求、唐宋八家文 等
※五経とは易経・詩経・書経・礼記・春秋のこと。
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●字懸
 短冊を付けた大竹を押し立て太鼓で囃したてて村を通行すると、饗応される時もある(文化以前は富山町でもあった)。一行は通行中に「字懸」の声がかかると「やろう」と応じ、文字クイズを出された(大の字の上に一字を冠すると何という字になるか、等)。もしここで答えられなければ小旗を折られたり奪われたりし、答えられると師匠の評価が上がり入門者も増えたという。
●罰則例 
 食止 昼食なし
 留置 放課後も残って勉強
 鞭撻 竹竿で鞭撻
 謹慎 師匠の座傍で正座 
 掃除 教場や便所の掃除 
 破門 放校処分 
 警告 家庭に通知し訓戒
 他には、直立・線香を持って直立・席上直立・縄縛・灸・筆や文鎮をくわえる、といったものもあるが、実際は留置がほとんどで、打ったり縛ったりは極めて稀、よほどの者には筆や文鎮をくわえさせた。
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第二章 越中各地の郷学と私塾・算学と僧が学んだ学塾 続き

三、算学塾
 私塾や寺子屋とは違い、読み書きとは違う算学一科目を教える塾がある。幼少者には珠算を中心に、青少年には珠算を用いて和算を教え、一部は実践的に応用し改暦や測量等にも従事していた。特に薬都富山町では関孝和の関流が盛んで、八算・見九・雑割・相場割・利息割・差分・盈明・材割・交会・方程式・開平開立・点竄等が学ばれていた。
@砺波郡
 砺波鷹栖の四谷儀平は、藩政末期から明治初年に六十人の門弟へ珠算を教えた。開平開立まで進み、余技として置立の引算練習をしていた。栴檀野一ノ谷の仁兵衛は婦中の音川村に招かれ教えている。
 城端蓑谷の佐々木半四郎も同時期に算学を教え、藩の碁盤割り・検地にも従事した。
 福光西勝寺村の佐々木藤左衛門(寛政十二年〜明治十二年)は砺波郡縄張役と村肝煎を努め、検地に従事すること四十年、明治三年に藩から表彰され、鷹栖村で五石を受けた。算学で知られ、著書もある。その子息信平(幼名和三郎)も父から習字や算学を学んだが、体が弱く農業には不向きであったため、明治二十七年二十八歳の時、福光の郵便局初代局長になった。
 福光小山の佐々木吉左衛門秀綱(頼成村湯浅定繁の門)の門弟には、礪波小杉の中沢兵三郎嘉親や福野田尻の金田与平治等がいる。
 福野森清の高儀兵平(折橋小左衛門門弟)は北野天満宮に算額を奉納する。頼成村湯浅定繁(五十嵐篤好の門)一門は和算家として知られ、広瀬舘の湯浅権蔵高繁・豊蔵直繁の兄弟は、安政六年に福光八幡宮、湯浅重右衛門は明治十五年に小坂村社に算額を奉納した。
 城端の西村太冲篤行(号審之、得一館)は、明和四年西下町で商人蓑谷長兵衛(蓑谷村から移住)の子に生まれ、天明三年十七歳京で医術を学びつつ、西村千助遠里より天文暦学を学んだ。同七年九月二十二日に師が七十歳で没し、門弟一同から推挙され、後継者として西村を名乗ることになった。翌年に大坂で麻田剛立への入門を願い、寛政元年に許される。ここで高橋至時や間重富等後に幕府天文方で寛政改暦を行う者達と同門になり、以降親しく交際することになる。寛政十一年三十三歳藩主前田治脩に召され、明倫堂で天文学を講ずるが、陰陽の講義を望んだ藩の希望とは異なったため、京へ戻る意向を伝える。辞任は止むを得ずとしても、優れた人材を手放したくない藩は説得に努め、結局城端に住み毎年金五両を給する待遇で留まった。文化六年まで宗林寺町に医院を開き、天体観測をしていた。伊能忠敬との接触を図ったが、機密漏洩を恐れた藩から止められている。その後金沢に移り、文政四年七月四十一歳で十五人扶持を受け、寺社奉行下で藩医の身分になった。金沢分限絵図の作成を計画していた藩は、翌年正月より遠藤数馬高mの指揮下に作業を開始した。師匠の太冲もこれに参画し、天保元年十二月に完成を見る。また文政六年時制の改訂を行い、十三分割法から十二分割法に改める。同八年より毎年気朔暦を製した。天文学を教え、門下には茶室康哉、米室白裕、城端白蒔絵師の小原治五衛門宗好、石黒信由、大橋作之進等錚々たる人物がいる。著書も多く残し、天保六年五月二十一日六十九歳で没した。長男十一郎は京で西村遠里の跡を継ぎ、次男長兵衛は城端の蓑谷家を嗣ぐ。遺業を引き継いだのは四男政行佐左衛門で、藩医になり天保六年七人扶持を受ける。気朔暦を継続して作り、金府日時用略を提出した。天保七年九月十五日には氷見で天体観測もやっている。
 戸出の竹村屋七郎右衛門(寛政四年九月〜天保四年十一月、字子范、号仲宝)こと菊池橘五郎与之は石黒信由に学び、文化五年一(五)月と同十一年十一月に算法の秘法を解答する。同十年三月高瀬神社に算額を奉納した。同三年四月二十三日の横町大火後の復興に尽力し、文政七年十二月に所方算用聞役に就任する。著書も残している。門弟には福野の大屋和一郎厚以や福光の源五兵衛正尚等がいる(両人とも文化十年福光宇佐八幡宮に算額を奉納)。縄蔵村の長尾弥左衛門矩道(寛政十一年〜明治二年)も門弟で、縄張人として礪波郡や能登で活動する。門弟を多く抱え、天保八年細木村の五ヶ村神社・安政三年縄蔵村の細木神社に算額を奉納したのは、門下の山田野出村の西甚蔵好徳である。
 古戸出の大野彦次郎(幼名彦太郎、号豊庫)も石黒信由門弟で、天保元年三月に縄張役・測量掛に就任し、後に金沢へ移る。文化十年三月に安居の観世音堂に算額を奉納した。
 今石動の岩尾滝村岩村善右衛門(文化十一年一月〜明治三十年四月)は、岩尾滝村山田長次郎五男で今石動上野村岩村四郎兵衛次女いとを娶る。明治十三年愛宕神社絵馬堂に横百三十四p・縦七十七pの算額を奉納し、十九年三月『伝開算目録』を出版する。門弟には斎田外次郎や若宮七三郎等がいる。
 立野では笹川の石黒信由門人黒木義則が天保後期に国学や算学を研究して二十代で算額を奉納する。五十嵐篤好の門人高田嶋村大井源五郎(文政八年〜明治四十一年)は後の立野村長源与八、山田俊秀、篠島豊次郎等の門弟を持ち、新川郡五十三ケ村に出張して測量業務に励んだ。公正を重んじた人で、碁や将棋が趣味であったと伝えられている。また中保太平は明治初年に算木を用いた算学塾を開いた。
 他にも放寺村肝煎で文政二年縄張役に任じられた清都彦右衛門や、五十嵐篤好門人で文化十一年三月に金沢野町の天満宮へ算額を奉納した横腰村の矢後助右衛門がいるが、門弟を持った確証はない。
A射水郡
 新湊には十村の石黒家がある。宝暦十年十二月二十八日に生まれた藤右衛門信由(号高樹、松香軒)は、三歳より祖父に養われ、天明四年八月十五日藤右衛門を襲名した(持高八十八石四斗八升)。天明二年十一月十九日中田高寛に入門し算学を学ぶ。また西村太冲から天文暦学を、宮井安泰から測遠術を教わった(寛政十三年免許皆伝)。本多利明の洋算研究書を門人河野久太郎を通じて入手する。磁石盤を考案し、それを高岡御馬出町の銅工である錺屋清六が製作した。寛政七年射水郡縄張役、文化十四年新田才許に就任し、測量や絵図製作に従事した。享和三年八月三日伊能忠敬と会い、翌日測量に同道している。文政十三年六月郡売薬方主附、天保六年に遠藤数馬の下で十七年かけた三州地図を完成し、翌年七月十五人扶持郡年寄に進むが、八月二十七日御用番御年寄前田美作守の指示で魚津改方同心から米隠匿の嫌疑をかけられる。同四年以来凶作が続いているにもかかわらず、石黒家の経営が拡大していることからきた疑いであった。そして十二月三日七十七歳で没する。その時の持高は五百九十石七斗二升六合(内石黒家縮高天保五年十一月三百六十五石二斗五升)であった。
 次男信易(寛政元年九月九日〜弘化三年一月二十日)が跡を継ぎ、文化十三年縄張役、翌年肝煎に就任する。算学は父に学び、文化五年八幡宮に算額を納している。また同九年から天保六年にかけ領内六十三ヶ所を測量し、地図を作成した。高木村(小矢部)の河端太助政秀、堀田村(氷見)の一河彦次郎波索、柳瀬村(礪波)の堺井権右衛門圭逸、上牧野村(高岡)の大野弥三郎雉里などの門弟を抱えたが、病気がちのため、嗣子信之(文化八年十二月十四日〜嘉永五年十二月十三日)が代理で活動する。
 信之は天保七年七月に新田才許と蔭聞役及び絵図方御用を仰せつかる。弘化三年には幕吏で和洋算に通じていた内田五観に書簡で入門する。藩には測量や検地での功績を認められ賞せられた。嘉永三年四十才の時に平十村に進み、六月海防のため藩の海岸巡見に随行、翌年加越能三州海岸絵図を作成した。
 長男の信基(天保七年四月一日〜明治二年九月十八日)も十一歳で父と共に内田五観に入門し、上野国群馬郡斎藤宜義(和田寧の門下)に師事する。円理について研究し、安政三年二十一歳で倶利伽羅不動堂に算額を奉納した。同五年叔父北本栗や弟筏井甚蔵と遊歴の数学者法道寺善から教えを受けた。文久二年にはスウィフトタットル彗星の観測に成功し、同三・四年に暦を作成する。測量術の著書として『田地割制度』を著した。公職にあっては、嘉永六年七月新田才許・測量方御用に就任、九月より測量・改修工事等を行い、信由の三州絵図を修正する。安政五年二十三歳で絵図方御用になり、十一月幕府外国奉行巡察用の地図を作成した。文久元年イギリス船海路測量御用、同三年軍艦絵図方御用、慶応二年加賀国金岩港を測量、翌年越前国敦賀から琵琶湖への運河計画を立て測量する。五月海岸製鉄所の見分、七月幕府外国奉行の海岸見分に同行する。同四年御台場建設のため設計・計測をする。 
 信易の次男与三八(天保三年九月十九日〜明治十九年九月二十一日)は、嘉永五年二十一歳の時に高木村北本家に養子に入り、半兵衛、半蔵(造)、栗と名前を改める。号は水明や乾坤一草堂主人。富山で佐伯櫻谷に学び、安政末年に江戸で関流直系内田五観に入門し、関流算学免許目録皆伝となる。大坂で教えながら著書も出すが、帰郷し文久三年三十二歳で加賀藩郡奉行直支配として軍艦發機丸に乗船、測量と絵図作成に従事した。この時将軍徳川家茂上京があり、海路の警備に当たって、兵庫に下船し陸路帰郷している。慶応三年に運河計画に携わり、新田才許、砺波郡・射水郡才許里正、測量方・絵図方御用等に任じられた。また明治三年八月高岡で地検方有用の学科や算術を十村子弟に教授し、藩より賞せられている。その後も六年新川県第十六大区戸長、地券取調掛、八年地租改正掛、九年高岡町地租改正掛、十二年石川県議会議員と数々の要職に就いた。
 信由の娘婿といわれる二塚の筏井四郎衛門満好にも門弟が多かった。二十四代仁左衛門の八男でありながら家を継ぎ、西広上村肝煎を努めた。天保六年十月二十四日に没している。高岡の沖七右衛門正之、上市吉助繁勝、宮丸六郎右衛門尹時、米嶋平助少春、熊木九郎三郎美英、佐野弥四郎秋善、黒田長次郎唯水、筏井哲次郎満直、東広上村(大門)の竹田喜左衛門吉成等が門弟である。子孫の満晴(明治六年に六十三歳で没)も門弟を有していた。
 信之の子息で信基の弟甚右衛門(天保十年二月〜明治四十三年十月五日)は二塚村上伏間江筏井家の養子に入る。甚造と改め、算学を江戸から来た法導寺善に、漢学を野上文山と園田朝弼に学んだ。村肝煎を努め、運河事業にも関わった。明治十九年に越中汽船会社社長に就任した。
 東条には石黒信由門弟の十村役折橋小左衛門義浚がいる。下村の遠藤文三郎之貫や森清村(福野)高儀兵平由英等射水郡と砺波郡で門弟を持っていた。 
 また広上には、氷見の大西彦右衛門に算術を教えた九左衛門がいた。
 高岡横田今町の医者市姫屋は俳句や算学も能くし、門弟も有していた。孫の林五郎兵衛義清(幼名政太郎、号五雲軒五卓)は文久三年十一月一日に生まれ、十八歳の時に江戸や京で医術を学ぶ。帰郷し開院する合間に、付近の子弟に算術を教えた。安政二年門弟のため『算学稽古記』を著す。天文・暦・博物・農学に通じ、近所から明日の天気まで聞かれたという。俳諧を金沢の大橋卓文に学び、佐賀野屋伝右衛門と交際した。明治十年聖安寺に寿碑が建てられ、二十七年九月一日七十五歳で没した。
 二上村光蓮寺に生まれた栂森観亮(弘化三年八月十七日〜明治二十二年五月三十日)は、八歳で三部経を誦読し、文久三年三月加賀国二日市、大聖寺で算学と天文学を学んだ。翌年京で暦学にも通じた佐田介石や中谷桑南に就き宗乗を学びつつ算学、特に天文学を肥後の人海石や紀伊の人祖南の書を読んで学ぶ。父が没したため帰郷し寺院を継承すると共に医院を開き、算学も教授した。洞窟で採光を研究し管天儀や囘照儀等を製す。明治七年には合寺問題で五年間滞京し、解決に尽力している。
B新川郡
 水橋では売薬が主産業のため珠算が盛んであり、肘崎仁重郎や広野屋弥三郎といった和算家がいた。水橋の売薬商の家に生まれた伊藤吉郎祐義は富山の高木吉兵衛に学び、河川の改修や農政を担当し、安政六年九月二十二日に没。明治維新前後には新堀村の宮田延平、金尾村の伝右エ門、的場村の立尾甚吉(天保元年七月七日生まれ)が開塾している。下砂子坂村には久世源作義胤(文化五年〜明治八年七月十四日、本姓橘、字中之、号梅堂、一二三堂等)がいる。辻村家から久世家に入り、母は黒川良安の叔母。富山の中田家や高木久蔵に算学を学び、天保九年関流八伝の免許を得る。父の跡を継ぎ弘化二年より山廻役等を歴任する。明治三年に央と改名し、翌年里正次列、土木掛を務めた。七年には地租改正を担当するが、翌年五十四歳で没した。算学の普及にも力を入れ、測量に関する著書も多い。門人は各郡に跨がっている。石黒家でも学んだと書いた本もある。曲淵村堀田義祐は毫照寺住職菅野智恩(二世、京で珠算を学び、寺子屋には三十四人が通学)に入門し、和算塾を開く。地租改正にも尽力し、明治九年十一月には同寺に碑が建てられた。明治二十八年十二月十日七十五歳で没。
 西岩瀬でも、保科茂八郎が天保四年に珠算・算術を専門に教える玉梅堂を開き、明治五年には男子四十人・女子十人が通っていた。町年寄を努め、茂八焼の陶芸で名を知られていた。翌年に閉塾している。
 滑川の熊林村には宝田家から松倉城主の末裔椎名家に養子に入った椎名道三(安田山道三、寛政二年〜安政五年五月五日)がいて、実家の兄宗兵衛(号香堂)と協力して測量・開拓に尽力しているが、特に決まった師匠や弟子はいなかった。
 入善小摺戸では福沢政次が農業の傍ら天保の頃より珠算・算術を教えている。泊では長右衛門定規が算術を教えた。小間物の行商で下総国に行った際、山武郡正気村の関流算学者植松是勝に師事した。
 文政四年九月末に泊の脇本陣・蔵宿で関流和算を学んだ小沢屋与三衛門を、遊歴の和算家 山口倉八和が訪れ、町中から関心のある人々が集って勉強会が開かれた。高岡では石黒信由とも会っている。
 明治維新後には筆算を用いた洋算が入ってきた。小学校で算術が導入されたからであるが、新庄町の竹内惟直は明治八年に専門塾此君閣を開き、広範囲から門弟を集めた。
C婦負郡
 富山町普泉寺前には、詳細な江戸絵図を作成したため幕府から注意を受けた(寛文十年十二月)と伝えられる、藤井半智長方がいる。 遠近道印おちこちどういん、図翁とも呼ばれ通称六郎兵衛、絵画能力に優れ書物屋を営み、貴重本の写本を大名に販売していた。越中国(富山?)に寛永五年前後に生まれ、長崎又は京で測量術を学び江戸に住むが、貞享三年五十九歳から元禄三年六十三歳の間に富山藩医に就任したようである。加賀藩甲州流兵学の有沢永貞に測量術と絵図作成技術を伝え、やがてそれが安達弼亮により富山藩へ伝えられた。宝永七年から正徳元年までは存在が確認されている。金二十両を受け、明暦大火後の江戸復興計画に関与したとも言われるが、確証はない。
 松本武太夫逸應は独自に算学で一派を形成した富山藩士(?)であり、門弟には近郷逸良、小西屋久兵衛、八重崎屋和三郎等がいる。また近郷門下に村杉屋宇兵衛、米屋甚助、立石勘十郎、米屋市左衛門等がいる。一門の多くが算額を奉納したが、天明三年九月頃中田高寛により不完全を指摘される。
 長柄町に藩士中田高清の子息として生まれた文蔵高寛(元文四年三月二日〜享和二年十一月五日、号文敬、孔卜軒)は十四俵の軽輩ではあるが、広瀬吉兵衛より乗除を学び、その後に藩士松本武太夫にも師事する。入江兵庫脩敬著の和算書が木村羽(卯)左衛門宅にあると聞くや、頼んでこれを借りて勉強した。そんな高寛の努力を藩主前田利與は認め、安永二年に江戸の山路主住(関流直三伝)の許に入門させること六年、師の没後は子息之徽と門弟の米沢藩士藤田定資に八年就いた。帰郷すると桃井町に算学塾を開くと、伊勢国・飛騨国高山・大聖寺等からも門弟が集まり数百人を数えた。高弟三十六人には石黒信由や高木広当等の名もある。七十六部百三冊もの書を著した。子息源兵衛高傍も父に算学を学んだ。
 高木屋吉兵衛も塾を持ち、そこへ岩城吉兵衛が入門してきた。後の高木吉兵衛広当である。中田高寛にも師事し、算学を普及させた。
 子息久蔵允胤も弟子を持ち、その中に稲野三重郎盛胤(号怡寛)がいる。中田高寛門下の石黒九兵衛(栄之進)直綱から算学を学び、その後高木父子に師事して文化十二年五月に見題免許を得る。長柄町に算学塾を開いた。明治四年正月十五日に七十二歳で没する。子息直矩は父から算学を学び、将来を嘱望されたが、元治元年六月一日四十歳で没した。
 算用吏の加賀藩士に瀧川家と三好家がある。天明七年生まれの瀧川新平有乂(号子龍、崇山)は、、本多利明に学んで算用場に勤めた。嗣子秀蔵友直(文化十三年〜文久二年二月二十九日、号子益)も算用吏を勤め(四十俵)、次子金蔵正直は三好乙三郎賢能の養子になるが早世し、三男善蔵質直(四十俵、明治十三年十一月十一日五十九歳で没)が替わりに入る。富山へ赴任した際に子息の松太郎貞行(号醉月)が泉町で算学塾を開いた。後に八尾や高岡税務署へ勤務した。明治四十五年四月五日に五十七歳で没した。
 他にも、臨池居小西家の分家が、本家の門弟に算術を教えている。
 八尾の大長谷では、山口太郎右衛門、桂甚六、宮崎安次郎、長谷川三四郎が、休日や夜間に珠算を村の青年達に教えていた。
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四、学塾 仏教教義の教育・研究は浄土真宗の勢力が強い越中国で盛んに行われ、特に氷見が熱心であった。本講座では仏教学を宗学、宗学を教える機関を学塾と呼ぶこととし、宗派ごとに見ていくことにする。
@浄土真宗本願寺派
 氷見下伊勢の西光寺住職六世善空安貞は門弟の教育に尽力する。延宝五年に生まれ、学林二代能化知空に学ぶ。倹約に努め、安い紙を求めて八尾に買いに行くこと暫しと伝わる。また立山登山の際に空中で三尊の姿が現れ、同行者たちが合掌礼拝するのを余所に、一人魔の所作と見破ったという。元文二年の臨終に際して、学塾の経営と宗学の発展を青山義教に託した。七世を嗣ぐことになる岩垣善意こと善意芳山(元禄十一年〜安永四年二月二十三日、号尺伸堂、無人閣)は、稲積村農家大坪三左衛門の子息として生まれ、安貞に学んだ後に養子になり、義教と京に学ぶ。元文二年四十歳で住職に就き、翌年法橋並びに権律師に任じられる。十二月に自坊に義教の後援で尺伸堂を設立し、出張講義も行った。門弟数は五百人を数え、多くの著書があった。宝暦五年義教が能化職就任で多忙になったため、その門弟を預かっている。門弟簿には寛政元年から文政十二年まであるので、学塾はその後も継続していたことが分かる。養子八世善譲芳什(享保七年〜宝暦九年、字子恭、号北湖)、養子九世善済(享保二十年〜寛政元年、字若楫、号忘機)と続き、十世は養子の善容義霜(宝暦十年〜天保三年、字子明、別名慶哉)で、門弟には智雄(知雄)などがいる。七代勧学智洞や古国府勝興寺住職闡郁等と三業惑乱に積極的に関わったため、文化三年に幕府より脱衣追放の判決を受け、天保元年には江戸で幽閉、三年に七十二歳で没する。以後尺伸堂は衰退する。
 氷見論田の願生寺住職十五世滝山義浄(文政三年〜明治十九年三月一日)は、矢田部大誓寺に生まれた。十五歳で氷見町円満寺住職義淳から究学の心を教わり、嘉永元年京で本願寺に学ぶ。明治七年大講義に任じられ、国内を回り学問を奨め、仏教の教えを説いた。また自坊に安祥閣を設立し、明治十年代の門弟帳によれば、石川・長野・新潟各県からも学びに来ていたことが分かる。 
 氷見南上の円満寺住職九世青山義教(元禄七年〜明和五年)は、能登国羽咋四町村小原家四代目治兵衛吉道の子息に生まれ医者を志すが、宝暦四年十一歳で出家して円満寺に入った。西光寺の安貞に学んで、京に芳山と学問に出るが、勉強を怠り無駄使いをしたことが知れ親戚や檀家に厳しく戒められた。ここで心機一転し学問に励み、ついには五代目能化職に任じられるまでになった。自坊に大心海を設立し、門弟を育成すると共に多くの著書を残した。十世義淳(別名玄天、字教曜)は漢詩や和歌に優れ、弘化二年に没する。十一世義天は書画に秀でたが、嘉永五年に大心海が焼失し、その上弟子が嘉永七年と安政二年に曹洞宗光禅寺雲水相手に大喧嘩する事件を起こす。次の義浄(文化十四年〜明治十九年)は義天没後に覚円寺持浄の門下に入る。
 現新湊朴木の覚円寺住職十七世随念持浄(天明三年〜安政六年十二月二十三日)は戸出村報恩寺に生まれ、寛政八年義霜に入門し、三十三歳で塚原村覚円寺に入寺した。大心海門で越後国興隆と僧朗に学んだ後宗学を自坊で講じ、曇華屈と名付ける。明治二十年には勧学を追贈された。門下には孫で氷見薮田光福寺十五世薮波浄慧(嘉永五年〜明治三十九年九月)や、縁戚で宇波慈光寺生まれの熊無憶念寺十七世滝水薫什(天保十一年〜明治三十九年十月)がいる。二人とも高岡の待賢室でも学び、同志として農業改良と教壇改革に尽力するが、明治二十四年に僧籍を剥脱される。覚円寺には二人の顕彰碑が建てられた。
 上市明光寺住職十四世霊潭(元禄二年〜明和六年)は、京で小矢部埴生出身の華厳宗鳳潭、本願寺派二代能化知空、大谷派初代講師慧空に学んだ後享和二年二十九歳で帰郷し、宗学教育に当たった。高岡の専称寺で講義し僧樸等の門弟を育てた。著作は二十一部五十四巻を数える。僧鎔は養子。
 宇奈月浦山の善巧寺僧鎔(雪山慶叟、享保七年〜天明三年、字子練、号雪山、空華、甘露、仰峯)は市江村(現富山市)渡辺彦左衛門の子息で、旅行中の霊潭に見出だされ、十一歳で得度、二十一歳で善巧寺に入った後、京で陳善院僧樸(霊潭に学び、京で修学する。米を炊く時間まで惜しみ研究に努め、「生米僧樸」の異名を取った)に入門し、上首になった。師の臨終に際し蔵書を譲られ、宝暦八年三十六歳の時、本願寺の強い勧めで自坊の東隣に甘露室を建て、そこに空華学寮(空華廬)を設立する。明和二年に十三条の掟書きを定め、学業の大切さを説いた。著書も残し、門弟は二百三十七人、墓前入門者も六十二人いて、空華派と言われるほどであった。天保十二年に碑が建てられている。
 空華廬を継いだ門弟は、滑川高柳明楽寺住職十三世柔遠(字子帰、号柳渓)で、十年間は出張し新規入門者も師の門弟としていた。また大蔵経募財を始めるまでの十四年間は講義謝礼全て空華廬に納めていた。その後自坊に移して門弟教育に力を入れ、講義録も残っている。門弟は百八十一人だが、没後に四百九人が入門の扱いを受けている。また門下の印定と印持の兄弟・巧便・令玄・行照は勧学、目云(大和国滝上寺に入寺し学寮華蔵閣を設置)は司教に任じられている。継承者の道隠は三業惑乱で古義派の中心で、文化三年七月退隠処分となる。義諦は安居の講者になった。
 八尾茗ケ原妙覚寺住職の玉潭(享保七年〜天明二年七月二十三日)も自坊に善解室を設立している。摂津国泰厳に入門し、著書も『安楽集伝灯録』六巻等九部がある。その後を可乗、浄中が嗣ぎ、その長男巧便(天明二年〜嘉永四年八月一日、号浄信、荷沢)は寛政六年十三歳で柔遠の門に入り、道隠にも学ぶ。天保九年に勧学に就任し、著書も三十六部を数えた。三百七十六人の門弟を持ち、中から勧学に就任する僧も出ている。御前講の命を受け上洛し、学林で没した。
 上市中小泉明覚寺二十世住職智眼(寛政十年〜明治元年十月十二日、号消除房)は、十八世正秀四男に生まれ、幼少時乳母の不注意で左手の指と掌が癒着してしまう。しかし屈折する事無く京や美濃国行照の金華寮や僧鎔・柔遠の著書に学び、自著数十部と門弟数百人を持った。寺坊は長兄が嗣がず叔父廓了が十九世になっていたが、文政十二年に亡くなりその跡を継ぐ。坊内に四間×六間の学寮を建設し、二十人内外がここで講義を受けていた。六十二歳で助教に就任。晩年に勝興寺から講義の依頼があるものの、病気で出来なかったため、大意を書に認めて送ったのが絶筆になった。没後に司教の学階を贈られた。 
 三日市専徳寺十四世泰順の次男印順(文政元年八月十日〜明治二十二年七月十八日)は、九歳で三部教を習う。翌年に上市の広田文城に経書・史学・句読を学び、十六歳で富山通坊空華の社中に加わる。この年に上洛し学林に入り、その後八年間諸国を巡り学問に励んだ。天保十三年十月に帰郷し、十二月二十日婦負郡光雲寺に養子に入った。二十五歳の時である。翌年二月に再上洛し、嘉永四年助教に就任する。四十二歳で養父月海の跡を継ぎ十六世になると、四間半×六間の学寮を建てて仏母堂と名付け、巧便の学寮をここに移して継承した。明治六年まで続け、三百八十余人の門弟を有す。中には越前・加賀・美濃・大和・肥後から来た修業僧もいた。十八年空華教校総監、十九年別院知堂、二十年勧学に就任した。
 水橋東天神町照蓮寺十五世の藤枝令玄(安永四年〜嘉永二年八月二十一日)は大山町福沢大福寺門徒の家に生まれ、照蓮寺の養子となる。寛政五年六月柔遠に入門して天台・大乗の教えを考究し、自坊に学塾玄々堂を開いた。天保十四年勧学に任ぜられ、三十年教育に専心する。門弟は四百人余、弘化三年学校代講を務め、観念治門を講じる。また本願寺奥書院で諡註八番問答を論じた。嘉永二年八月二十一日七十五歳で没。子息令道(十六世、十八世)と玄應(十七世)も高名。
 富山下飯野光専寺十三世宗照の長男で継承した日影達照(文化十年〜明治十二年九月十二日)は覚玄とも称し、杳旭や行照(美濃国願誓寺)に学ぶ。嘉永頃に自坊に学舎護法室を建て、慶応二年経蔵の獅吼蔵を整備して門弟数百名を教育する。明治元年司教、十一年権大講義となる。著書も多く、二十四年三月十六日に勧学を贈られた。
 砺波郡の現高岡中田常国の専竜寺住職第九世顧行は、加賀国河北郡倉尾に生まれ、芳山に学んだ。三業惑乱の際は水波寺院総代として鎮定に努めた。本堂建立にあたり矢来を九尺に広げて講義処とし、後戸を六尺にし御内陣を狭めて所化(生徒宿泊設備)に当てた。
 庄川金屋光照寺十六世高桑慶道次男の師道(文化十二年〜明治十八年、字金溪子)は君章、緑天とも名乗り、十四歳の時に石堤長光寺雪象に学び、二十二歳で十八世住職に就任する。安政六年寺内に消雲塾を設け門弟教育に努めた。明治七年八月司教に任じられ、「散善義深心釈」を講じた。没後の二十四年三月十六日に勧学を贈られている。
 水戸田村市井村光照寺住職永護(文化九年七月十七日〜明治二十五年二月十六日、姓公文名)は、一切経を研究し、明治維新後に金沢綜練教校や水波教校で教鞭を執る。後に自坊で宗学を教え、二十二年に司教、二十五年に勧学・堂班内陣上座等に就任するが、直後に没する。
 真宗二派は明治に入ると組織的な宗学教育を企図する。大谷派が九年に越中教校を設立したのに対し本願寺派も各府県ごとに一・二校を設置することを目標とした。富山で空華教校が九年諏訪川原に開校し、高岡でも十四年十月に伏木古国府勝興寺庫裏を使い水波教校を設けた。対象が射水・砺波両郡の寺院子弟であったことからの名称であった。科目は越中教校に準じたが小規模で、毎年十人程の卒業であったという。校舎は十八年秋高岡片原横町の旧酬恩舍、二十四年秋桜馬場の旧高岡病院、二十六年秋古城公園内旧射水郡会議事堂を転々とし、二十七年十二月富山の空華教校と合併し、徳風教校となり翌年一月富山の諏訪川原に開校したが、やがて閉校する。
A浄土真宗大谷派
 高岡の横川原町開正寺住職八世自然(字子牽)は、宝暦八年自坊に雲処堂を設立し、学寮・経堂を建 設した。秋と冬に大会を催し、舶来の教典も集めた。詩集『高陵風雅』(明和四年)の選者としても知 られる。
 九世宣明(号巴陵)は寛延三年三月五日砺波郡太美村小院瀬見(福光)農家山口家に生まれる。八歳で加賀国了現に漢籍を学び、十八歳で京の大谷派高倉学寮に留学した。そこで慧琳、随慧に学び、南都・初瀬の名刹を巡り、学匠・倶舍・唯識・唯摩・勝鬘等の大乗教学を研究する。そのため倶舍宣明と言われ、高倉学寮で唯識論「瑜伽師地論」を講じることになった。天明二年開正寺に入り、雲処堂で講義をする。門弟は『隷名記』によれば四百五十五人を数え、美濃・尾張・三河、果ては九州からも集まった。寛政三年学階の擬講、同五年嗣講、文化八年講師へと進む。文政四年五月七十二歳で没し、境内に碑が建てられた。著作も五十部余りある。寺務を退いた後は円乗院と称した。
 門弟に上市稗田の円満寺住職霊暀正慶(安永四年〜嘉永四年)がいる。八歳で京に学び、十六歳で経典を講義するほどの俊才であったが、更に学問を重ね文政七年五十歳で嗣講に就任する。六十六歳で眼を患い、二年後には失明状態になったが、嘉永二年十一代講師に進み、頓成事件で揺れる宗派にあり同四年に『愚禿鈔』を安楽椅子に乗せられ講義する。自坊に洗心寮を設立し、著述も八十六部を数えた。
 今石動上新田長福寺住職恵月鳳麟(寛政九年〜文久三年八月十三日)も高倉学寮で宣明に師事し、寮司、文久元年嗣講へ進む。興福寺や延暦寺でも倶舎宗・唯識宗・天台宗等を学び、その後自坊で宗学を教えた。同三年に『選択集』を講じ、江戸でも浅草本願寺に於いて浄土論を講義するが、その最中に倒れる。主著は二巻あり、院号は乗光院。
 同じく高倉学寮で宣明に学んだ高岡の光誓寺住職亮空は、文政元年に寮司、後年に擬講へ進む。夏季の一定期間に学僧を集め『勝曼経』を講じた。著書は二部ある。天保二年二月十四日没。
 氷見新町の円照寺住職二十三世菊地静誓(号鎧遊)は、嘉永元年に現在の西礪波郡水島村勝満寺に生まれ、十四歳で円照寺に入る。富山で岡田栗園に、金沢で医家永山平太に学んだ後、京で漢学者広部鳥道や石井発三郎に師事した。その上で改めて宗学を京で修め、明治二十二年権中助教に就任する。全国の寺院を回り教義を伝える合間に、自筆手本で読み書きも見ていた。
 宗派は明治九年に越中教校を設立する。高岡でまず片原横町の超願寺を暫定校舎とし、十一年博労畳町に洋式校舎を新築する。予科三級・本科三級を置き、一学級を各六ヵ月とし三か年で修了するものとした。その後も存続していた・ が、明治十二年の大火で灰燼に帰した。その後十九年と二十一年に改正し、予科が一年・本科が四年になる。二十六年の宗派の学制改革で廃止された。
Bその他
 閑雲国常(安永七年〜安政六年九月六日、字真厳、号雲荘、碧蓮道人、瑞現蒙軒)は能登国鳳至郡山是清村の今村家次男で、曹洞宗大本山総持寺塔中の東源寺住職印宗に従い剃髪得度し、住職に就いた。その後に江戸で亀田鵬齋に入門して経書と詩文を学び、帰郷途次に下村海翁寺で碧厳集や経書等を講じる。その際、瑞龍寺十六世活湛が聞いていて招かれる切っ掛けになった。やがて京洛外の大昌寺や了峯寺、摂津国高槻城北太会部村伊勢寺、美濃国大垣金昌寺の住職を経て、文政五年に瑞龍寺十八世に就任した。頼三樹三郎も訪れている。老後は川口村谷昌寺に隠居した。
【註釈】
●修三堂の名前の由来
 君子は其の身を安んじて而して・後に動き、其の心を易めて而して・後に語り、其の交を定めて而して後に求む。君子は此三者を修む。・故に全し。(易経) 
●高岡町人の出自 
高岡は町人の町ではあるが、元武芸者という家は結構ある。御馬出町金子家は初代から四代まで武芸者であった。四代の家平(元和三年〜享保八年)が医者に転身して高岡で開院する。以後代々特に小児科を専門にしている。安永八年には前田教千代の診察もする。この時共に診察したのが木舟町松田教之助であり、副腎ホルモン治療をしたという。祖は小田原北条氏家老職で、尾張守憲秀は北条氏政に不満を持ち、小田原開城の切っ掛けを作った。子息弾三郎秀也が京で医を学び、金沢や氷見に住み、次の三知が高岡へ移る。教之助孫正之助は粟田家へ嫁いだ娘の子で、俳人でもある。 
●富山藩の心学講話 
文政三年三月藩は町人向けに忠孝の講話会を寺町にある円隆寺(天台宗)で開いた。反魂丹商人及び町々には出来るだけ出席するよう申し渡し、複数回催したようである。
●宮永習(字三省、号棠涯)
正好の八男。天文や算学に通じた。『海防策』の著書がある。 
●寺院の郊外移転 
 高岡では昭和三十年以降に寺院と商店街との美感調和が問題になり、利屋町の聖安寺が横田町に移動、水波仏教会館が桜馬場から八丁道へ移動、開正寺が川原町から五十辺へ移動などと続いている。
●五十嵐家
 祖は越後国蒲原郡伊加良志神社神職で、慶長年間に砺波郡立野村に移って、内島村を開拓した。寛永十二年に次郎助が十村に任じられ、十九年福田組才許十村となった。八代目孫作は文化年間新川郡舟倉野(現大沢野町)と室山野(滑川市)の新田開発に従事し、小豊次もこれを手伝っていた。十代目作次右衛門は能登に転勤し、鹿島郡と羽咋郡で組十村に任じられた。嘉永二年に砺波郡に戻り、五位組才許十村となって、十一代目小豊次も継承して明治に至る。石高は享保十一年六百八十二石。九代目篤好の頌徳碑は昭和五年に建てられている。 
●坪井信良(文政六年八月二十八日〜明治三十七年十一月九日) 
 八代目養順の次男。母は長崎玄庭の娘。天保十一年三月京で小石元瑞、同十四年一月江戸で坪井信道(萩藩医二十五石)に就き、婿養子に入る。広瀬旭荘に漢籍、大坂で緒方洪庵に蘭学を学んだ。弘化から明治十年にかけ九代目に書簡を定期的に発信し、高岡町の有力者はこれを基に時事研究を行っている。嘉永六年十一月家督を嗣ぎ、三十一歳で越前藩松平春嶽の公医、安政五年蕃書調所教授補、慶応二年に将軍家奥医師に駆け昇った。大坂城に入るが、徳川慶喜と大坂城を脱出し、軍艦開陽で江戸へ戻る。水戸、静岡と徳川家に従い、静岡病院を開院する。廃藩後明治七年十二月東京府病院院長に就任する。『医事雑誌』を発刊し、著書も多い。子息の正五郎は・理学博士で人類学者として名をなし、孫の誠太郎と忠二も共に理学博士。
●算学(関流、中西流、宅間流)
 吉田光由『塵劫記』の寛永十八年版は解答を載せない「遺題」であり、各算学者が独自に解いて自著に載せるというものであった。そのため一挙に難化し、大陸の天元術を使い算木を並べて一元高次方程式が必要となった。磯村吉徳『算法闕疑抄』がその到達点である。しかし関孝和は筆算を使い、文字を導入することで、算盤や算木の制約から離れ、複雑な方程式や円理・幾何までも取り扱えるようにした。一般に和算はここから始まる。流派継承者は建部賢弘、門下に松永良弼、その門下に山路主住が出て、関流免許制度が整備された。門下の藤田貞資は最上流を立てた会田安明と激論を交わしつつ、算学に「用の用」「無用の用」「無用の無用」の三種があることを指摘した。同門の安島直円は二重積分まで発明するが、既に算学は「用の用」から離れ、算額奉納を競っていた。また解説の詳しい独習書が発売され、門流の結束が弛みつつあった。
●時制改訂
 加賀藩は承応元年に日の出日の入り前の一時を一時半にし、夜・昼を区切って午前午後に余時を入れていた。文政六年八月に幕府や他藩同様十二分割に改めたが、城下は混乱し、翌年七月十日前田齊廣が麻疹で亡くなると、改革を担った教諭局の寺島蔵人等十三人が解職、齊廣の隠居場竹沢御殿も取り壊され、遠藤数馬も罷免された。十二月に時報は旧に復した。
●石黒信由門弟(越中各地に算額を・奉納した弟子のみ)
金屋三郎右衛門吉賢 金屋
高井藤左衛門持翰 川口村・新湊
蔵田文右衛門峯昌 今井村・新湊
高瀬宅次郎矩重 放生津
伊藤六右衛門長辰 石丸村・礪波
高井茂兵衛信房 宮袋村・新湊
谷道仁兵衛挙英 布目村・新湊
折橋義吉則之 北野村・小杉
山崎善次郎寛重 薮田村・氷見
折橋小左衛門義浚 東条郷・小杉
汚道沙門一尋 五位・福岡 
五十嵐小豊次厚義 
松儀鉄五郎義府 浦山・宇奈月
菊池橘五郎與之 戸出 
清都彦右衛門春連 放寺村・高岡
林宗右衛門実森 西部金屋村 
大野彦次郎豊庫 古戸出 
藤井辰右衛門昌弘 舟川新・朝日
折橋九郎兵衛坤 浅井郷・大門
島崎十次郎政秋 堀岡新村・新湊
鷹杉権右衛門尹寿 同右 
石黒藤助信易    (『算学鉤致』巻之下) 
●三業惑乱(寛政九年〜文化三年)
 蓮如「お文」にある「タノム」の語の解釈を巡って本願寺派内で起こった対立。流血の事態になり幕府も介入する。新義派(願生派・学林派)は祈願・請求の意味(弥陀の救いを請い求める)と解釈し、身・口・意(三つの行為)をかけて願わねばならないとした。古義派(信楽派、在野派)は頼・憑・恃・恃の意味(信順帰命)と解釈し、仏の救いを間違いないと信じ「あてたより」にするものであるとした。十九世本如の出した「消息」で新義派は誤りとされ落着する。越中国では新義派が西部に力を持つ尺伸堂、古義派が東部に力を持つ空華廬であり、対立を深めた。特に氷見の門徒は文化十四年五月まで従わなかった。
●「尺伸」の典拠
 易経の「学種を尺伸に下す」より採り、尺伸堂は学・信・行の三門一体を旨とした。
●空華廬掟書 末尾の心得 
 剃頭染衣之名と相成申上ハ不惜身命之奉仕御互ニ相心得懇申度事ニ候。然ハ遊手竊食して一生悠々として光陰を送申事自他同しく本意にあらず一句一字なりとも修学之志を立て遺法を護持し奉り一大事ニ後生仕損□申間敷様ニ各々御心掛可被下候
●能化(本願寺派)
 十三代良如は寛政十五年に学林を創設し、その総長の職名。三業惑乱で文化四年に廃止。文政七年一月に勧学を置いた(五月任期一年の年預勧学職を設け、魚津照顕寺九世杳旭、九年細入片掛西念寺恵航が就任する)。
●講師(大谷派)
 寛文五年に学寮(宝暦四年高倉学寮と改名)を創設し、その総長の職名。 
●頓成事件
 頓成は能登国に生まれ、霊暀の門に学ぶ。井波町光教寺住職を経験した。師と異なり深信自力説を唱える(他力信心の相の両面を表した二種の深信の内、機の深信を勧めることは自力を勧めることになるという説)。機の深信とは、自分を省み我が身は根機つたなくして永久にこの苦海を脱することが出来ないと深く信じることである。一旦は認められるも、嘉永五年七月の裁決で異義とされ、それでも主張し続けたため明治になって宗門から破門された。明治八年四月に一ヵ月立山町千垣の祐教寺に滞在している。越中国では氷見と新川に頓成派が多かった。
●雲処堂のその後
 文政四年六月の高岡大火で本堂庫裏経蔵学寮等が類焼し、宣明長男自慶が文政十二年に再興するが、経蔵は未設立のままで九月に没した。
●福光の郷学所設置願書 
 明治二年九月
書付を以御願申上候
福光村領字舘跡与申所竿除之地二御座候而以前者建物御座候得とも追々破損仕天保年中以来明地ニ相成森二相成居候ケ所御座候就而ハ今度右舘跡二仮建仕郷学所二致度尤農業稼方之障リ不相成時節年着之者心得之為読書為仕度左候得ハ左之通リ定日取図リ申度奉存候
 毎月隔日 素読 三八 連講
右之通御聞届被成下候様奉願上候尤入費者私共申談相弁可申候間此段宜敷被仰上可被下候以上
 明治二年巳九月
 得能小四郎殿 
 石崎彦三郎殿
●杉木教学所の設置
 明治二年十月
一、教授所雑用与して入学之面々より、上ハ一季百目、下者五拾目宛指出可申事
但、一季五拾目宛難指出程之身元之人々ハ、拾匁或ハ弐、三拾目宛与歟、其身元二応シ迷惑不仕様二指出可申事
一、入塾之面々ハ、一日白米五合二菜代弐匁宛一月毎二指出可申、尤膳・椀・夜具・油・炭・机持参之事
一、講師.句読師賄方、館中入費を以可相弁事
一、入塾之面々自宅ょ菜等取寄候儀堅ク無用之事
一、酒ハ都而講師始取はやし候儀堅ク無用之事
一、飯焚等を以入塾之面々等肴等買求候義一円不相成候事
一、入塾之面々平日戸外不相成、休日ニハ夕六ツ限リニ立戻典礼江案内可及事
但、無拠向有之節者、出入共典礼等江案内之事
一、出席之面々、出座帳ニ交名可書記事
一、館中都而袴着用之事
一、座列不可有混雑事
一、講師壱人、句読師三人之外、壱飯たり共館中ニ而賄不申事
一、社長ハ白米五合宛入立、菜代請不申事
一、生徒之内弐人宛当直相立、館中掃除給事等講師より命候事
一、油之儀句読師以上ハ相渡、其余指出不申、行燈丈ケ指出可申事
一、料紙筆疊不用之分指出不申事
一、都而はきもの雨具類身出之事
一、飯焚之外小使無之事
 年中賄方
一、朝飯 飯 香の物
一、昼飯 右同断
一、タ飯 飯 味噌汁野菜有合之品 香の物

平欤皿欤
但、朔日 四日 六日 九日 十一日 十四日
十六日 十九日 廿一日 廿四日 廿六日
廿九日

 賄日十二日之事      (「教授所規則 明治二年十月」菊池文書)
教学所定法張紙
一、主付人番日二は早朝より出勤、教諭方江引合之上引取可申事
一、都而学ビ候儀は其行状二可用儀二候得ぱ、舘内は勿論自他二不限、謙譲和順ヲ始メ万事無疎略、聊不当之仕業無之様第一二相心得可申事
自然不法ケ間敷儀及見聞候得バ、品二寄局江御達可申候事
一、生徒等無謂欠座曁無礼之儀於有之は、人々手前及穿鑿、是亦其品二寄局江相達可申事
一、生徒着舘直様筆生江案内記帳之上、詰合主付教諭方江会釈、聖像江拝礼、句読席江出、素読等可致候事
一、属殿方御出座井書記衆中等御見廻り之節、詰合主付押請致、出座人等之様子可申達事
一、生徒人翌日之指支前日二相知れ居候ハゞ、其段主付人江申達し、指懸リ候儀は翌日其委曲詰合主付江可申達候事
一、生徒人着館之上一切戸外不相成、弁当持参之人は其刻限打揃食用可相弁事
一、生徒人精惰之趣日々及見聞、教諭方曁主付人示談之上、甚敦二至候而ハ其所置可致事
一、生徒人毎日出座素読等有之内、食後暫時休刻運道等之儀は見通し可申候得共、相図之上又候相励可申候事
右之条々堅ク相守可申事
 教学所教諭方
明治三年三月
 主付
● 待賢室
謹テ建議奉伺候
前月御県庁御布令ノ太政官懇々切々勧学ノ御告諭、実二国家文明富強ノ基本確立シ給ヘル指麾歟ト忝奉感佩候。何レ近々小学校御取立、文部省学則モ御下ケ可有之、抃舞ノ至二不堪候。然ルニ御見聞ノ通、当地ハ全ク僻陬ニモ非ス、人民モ真ノ頑固ニモ非レトモ、沿襲ノ弊ニヤ苟安怠惰ノ者不尠、是恐クハ、各地父老中ノ有志有学ト称セラレン者ノ文明ノ御趨意二暗ク、子弟二諭スノ方策二苦慮セサル故歟ト悔愧ノ至二候。草芥学民文山憂悶ノ余リ、官校相立候迄聊官ノ鴻意ヲ奉拝承徴意ヨリ四課ヲ立テ、如何ナル貧民愚蒙タルトモ日用不可不知ノ事件ヲ摘取シ授与仕度奉存、韮才ヲ不顧奉伺上候。第一二制札講談是天理人道ノ大本ナレハ、之ヲ自ノ心膓トセサル者ハ、危二臨テ義ヲ忘ルノ禍アルヘシ。之ヲ補フニ三宇経等適宜二授ント奉存候。第二ニ御代々ノ天皇ノ国称漢諱序次是亦国家ノ大本ニシテ、国称タニ暗キ者ハ夏冬両時ノ御祓祝辞、誦センニ文字二瞠着シロ誦二佶屈ス。折角ノ手習モ何ノ所用モナキコトニ相成候。且ツ次序ニ暗キ時ハ、鎌倉以来幕府ノ興亡ヲ以テ、漢土王者ノ興亡二比擬シテ、之ヲ政本ト誤認スル癖ヲ生ス。故二之ヲ授諭シテ次、太政官八省院府県ノ官名、及三府七十二県、及禁中年時ノ諸祭、御一新以来新官知ノ神名丼二其所由、及式内神社等之ヲ授与仕、第三二通俗要文是亦政体二関渉ス。当時ノ世態ヲミルニ、吉凶ノ書札ヲ書ナカラ、御布告ノ文書ヲ不読得シテ官意ヲ誤者不尠。又当時ノ通俗文章ヲミルニ、国音漢文共失シテ、徒二浮華ヲ表シテ其案少、皇漢洋ノ三学二聊モ其益ナシ。可歎ノ至二候。依テ一通書札ヲ読者ハ御布令書モ読得ル様二、俗文ヲ裁正シ授度候。第四二算道、是幼童ノ所知ハ浅近二候ヘハ、別二策ヲ労セス候也。
右四課ヲ以テ、十歳以上十五歳以下ノ幼童ヲ村役人ヨリ申諭シ、朝五時ノ一時ヲ限リ私塾二相詰メ、一六ヲ休日トシテ余ノ四日二配当シ、其日数凡半年トシテ指授卒業仕度、最一里以外ノ村里ハ幼童ノ往返モ便ナラス、更二各地父老ノ卓見モ可宥之筈二候ヘハ、私ノ関渉スル所二無之候。此儀内分居村役人二申談候処、役人モ相喜周旋可仕ト被申候間、右ノ方策邪正曲直御裁判被成下、若御政体相障義モ無之、且幼童其益モ顕ハレ候ハゝ、近境ヨリ遠境二至リ十七八ノ両区ノ幼童二及ホシ、駿駸々タラシメント奉存候。乍去至急行屈兼候ヘハ、偏二私菲徳ノ所令然ト御仁免可被下候。布件御出張所ノ御威光ヲモ奉願上度候ヘトモ、何レ御布令ノ通近々小学校相立候儀二候ヘハ、夫迄ノ小方策ヲ以テ御出張所ノ御告諭モ灘願上奉存候。猶課程書一紙相添奉呈上候間、是又邪正曲直御裁判ノ程奉希上候。誠惶々々。
壬申九月十二日(明治五年) 第十八大区二番組湶分
 野上文山
高岡御出張所
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第二章 越中各地の郷学と私塾・算学と僧が学んだ学塾

一、郷学
 藩末より明治初年にかけ、全国各地に学校組織を整えた公立または準公立の教育機関があった(ただし学制に基づくものは除く)。これを本書では郷学と総称することにする。越中国では各郡に次のような郷学を設けていた。
@砺波郡
●教学所 明治二年十月郡治局の内意を受け、御扶持人十村一同が郡治局より創設費千七百文と学舎買入費千七百文を借りて足軽小頭中島弥三平宅(屋敷坪七十歩、畳数五十畳)を買い入れ、学校を設立する。
 河村源助等六人が主付になり、般若野村下山田の河合平三を講師、以下助教・句読授方・筆生役を置く。句読授方には後に越中自由民権で活躍する島新の島田孝之もいた。教育は素読と講義を通して行われ、算術は三年七月から教えた。また本願寺関係の随喜講出目銭と生徒の月謝(一季百匁より五十匁、都合により身分に応じ出金)を資金源として運営されることになっていた。
 生徒数は翌年夏頃を最高に以降減少を辿る。そうなると運営に支障が生じ存続を問う声が出る。意見は縷々あったものの、結局四年十二月閉鎖を決め、借用金は学舎を売却して返済した。
●郷学所 明治二年、福光村新町有志が資金を出し合い、金沢藩の公許を取りつけ学校を設立する。その前身は石黒氏城跡の字館跡右京亮屋敷空地の宮永家私塾栖霞園にあり、隣接地を使って校舎を拡大し、かつての宮永家門弟を収容する。また新たな生徒も募集し、「農業稼方之障ニ不相成時節年若之者心得之為読書為仕度」隔日に素読、三・八の日に連講を行った。
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『福光町史 下卷』
いつごろまで継続したのか不明だが、廃藩と学制発布の中、その役目を終えた。
●申義堂 今石動町では上田作之丞耕(天明七年〜元治元年四月十一日 字叔稼、竜郊、竜野、幻齋)が督教となり文政の頃今石動奉行所の後援の下、学校を創立した。孟子「謹痒序之教申以孝悌之義」から「申義堂」と命名され、与力、足軽はもとより、町人も講義を受けた。学校に掲げられた木額は今も石動小学校にある。上田耕の学風は実用を尚び経済を宗とし書冊を斥け時事を弁論する、というものであり、元小松習学所教授兼藩老本多氏儒臣という公務を退き、野の儒者として藩の要職にあった門弟を通じて藩政に影響力を有していた。この一派を世に黒羽織党という。授業は天保の頃まで継続している。
A射水郡 
●修三堂 高岡町では学問が盛んで、多くの学問所が設立されていた。修三堂(すすがや)もその一つで、富田徳風を中心に、内藤王福、宮崎雪香(室屋次太夫)、大橋侗齋、氏家玄兎(関屋)、佐渡金作、篠原花径(増山屋善兵衛)、粟田秀勃(小間物屋勘右衛門)、市山青羽、田代朴明(棚田屋小兵衛)、藤村壷仙(開発屋庄右衛門)、鷲十(鷲塚屋本家大橋十衛門)、井又(井波屋又七)、蝋七(蝋燭屋七兵衛)、長崎蓬洲、藤田千城(広瀬屋八兵衛)、室屋素千(平右衛門)、飴屋二峯(清左衛門)、石川牛窓(新保屋次郎右衛門)、桑屋尭民(梅染屋源三郎)、後藤白雪、岡嶋玄隆、沢田涼河(沢田屋藤兵衛)、横山雀梅(米屋伊右衛門)、富田春呉(平田屋善左衛門)、津島鷲橋など多数の賛助者を得て、文化三年に設立することにした。影無坂下関村領百余歩を借り受け、三月四日に高岡町奉行所の許可を得る。六日手斧初め、五月一日落成し、三日に開講式を行った。式典には、海保青陵が招かれ、聴衆六十三人の前で論語学而編を講じている。学校掲額三枚の内「修三堂」の題字は皆川淇園、「修三堂」と「求益」は海保青陵の手になるものである。
 堂則「修三則」は次のように定められた。

一、盟外之面々たり共、いつれの先生を招請し此堂へ来会せんとならは、随分御かし申へし
附、席料等かたく不納、聊も勿掛念
一、毎会当番の方、門符を以て、冬青園に鑰を御かり請、堂上よりして茶碗、灰吹、雪隠并定交門外求益坂下ニ至るまで掃除、且退席の跡不作法ならす、火の用心最肝要
一、空心之節持参弁当の外、割烹の設かたく無用之事
右悉知
 執事

 運営は堂経営方主附に室屋素千、飴屋二峯、津島鷲橋が当たり、主宰には富田徳風が就任する。同十四年の徳風没後は茶木屋庄三郎が任じられた。講師には、手島堵庵の門弟脇坂義堂(〜文政元年)を招き専ら心学を講じた。
 富田徳風こと横町屋弥三右衛門の祖は越前朝倉家の臣で、前田利家に仕えた後に利長に従って守山城に入る。その際、横の町に住んだため横町屋を屋号とした。高岡守山中町に移り町人になる。慶長十五年には三人の宿老役(町年寄)の一人であった。そこから五代目弥三右衛門可氏(号震風)は、三十年間町年寄を努め、学殖深い人格者であった。元禄九年六月に子孫へ「座右慎宝」三十七ヵ条を残し、これは徳風により『宜深誌』(二巻)として発刊された。九代目が弥三右衛門美宏(字子順 号徳風、松齋、冬青、晴雪窓、幸廼屋)で、明和三年九月に生まれ、寛政九年町年寄になる。文化九年三月苗字を許され、富田を名乗った。文化十四年二月(富田家文書では正月)五十二歳で没した。
 茶木屋庄三郎の祖は朝倉教景の次男小右衛門栄景で、近江で真野家の養子に入り、永禄十三年の姉川合戦の際に前田利家に従った。朝倉の旧姓が日下氏であったことにちなみ日下を名乗り、晩年高岡に住む。養子の右衛門正栄の妻は富山の、茶ノ木屋出身のため茶木屋を屋号とし、元和六年十月に町年寄として町人になった。九代目が庄三郎で、先代右衛門の養子として横町屋より入った。つまり徳風とは縁戚関係にあったわけである。町役人・町算用役を努め、狂歌や俳諧を能くした。修三堂を主宰し、天保二年四月二十三日に没した。
 さて、修三堂の活動として後世に残るものに『修三堂湯話』三巻と別巻一巻の編纂がある。これは高岡に伝わる孝子節婦等の善行美談を集めたもので、文化四年十二月付の富田徳風序文がある。「節女きみ」「動地六兵衛」など百人の話が平易な文で収録されていて、現在も読むことができる。
 学校は天保の頃までは存続していたと思われる。跡地には大橋侗齋が建てた孝子六兵衛の碑が現存している。
●敬業堂 文政四年六月から天保九年七月まで高岡町奉行を勤めた、大橋作之進成之は、大火災や大凶作の中にも教育が必要であることを痛感し、文政八年に関野神社前にあった詩亭(詩を詠みに来た人の宿泊施設)養老軒を改築し、学校を建設する。堂名扁額は村井豊州(八家で海保青陵の影響を受け藩政に当たった村井豊後守長世か)に依頼し、桑山玉山(梅染屋武兵衛次)を主事に任じて、富山藩より小塚南郊を講師に招いた。十一月一日に開堂式を行った折は町人子弟に孝経を論じられ、町奉行が臨席して激励している。翌年二月には文宣王(孔子)を祭り、明楽を奏した。梅染屋の祖は越前出身の桑山二右衛門玄慶で、兄の知広は千二百石の旗本になっている。御用染物業を請負い、十一代目の当主武兵衛次は道具屋肝煎や御荷物宿を引き受け、文政七年に償銀十枚を受けた。
 しかし奉行が転任した後次第に衰微、廃校になったようである。
●高岡学館 明治元年十二月高岡町奉行土肥隼之助と井上七左衛門は、青少年教育のための学校を創設することを企図し、町奉行公邸に学舎を建てることにした。さっそく町年寄大橋与三市、服部伝兵衛(天野屋)、富田本次郎(平田屋)、津島玄碩、佐渡養順、服部修徳、上子元城、長崎言定、絹屋権九郎を招いて準備を命じ、十三日より数次に渡り服部(天野屋)伝兵衛宅で協議を重ねた。十七日には町会所で句読師の採用試験が行われ、次の六人が合格する。
塩屋喜三次 大学を担当 先祖は鶴来の出身で、津田姓。屋号を鶴来屋とする。高岡百姓町(現横田町)に移り代々弥右衛門を名乗り、三代目が弥右衛門喜三次である。字は操、子薫、号は半村、鶴堂、松齊、寿芳園。寛政九年中川の南家に生まれ、文政の頃に、当時酒造業を営んでいた津田家の養子に入るが、二十七歳で養父を失った。専龍寺の顧行に経文を教わり、島林文吾(号雄山)に詩文を学んだ後京で頼山陽に師事する。書堂を棲鳳楼又は清足軒という。嘉永元年十月十日に山陽の三男三樹三郎鴨崖が高岡の町で国事を議し、小杉の自家造酒屋で宿泊している。また長崎浩齋らと漢詩吟松映房社を興した。更に町算用聞並祠堂銀才許を努める。祠堂銀才許とは瑞龍寺の祠堂銀運用役のことで、当時瑞龍寺は年一割の低利で町民に融資し、寺の財源確保と町の商工業の発展に寄与していた(利息の二分が才許人の手数料で八分が寺社奉行所に入った)。天保の頃には茶苗を宇治から取り寄せ、栽培している。来訪者が多く、、広瀬旭荘が来た際、潤筆料があまりに高いため、「旭荘ではなく欲荘だ」と言った逸話がある。明治四年二月に没した。娘幸子は高峰家に嫁ぎ譲吉を生んでいる。
中条屋六郎右衛門 中庸を担当 初代は砺波郡中条村より高岡に移住した。川上を姓とし代々横目肝煎や肝煎を努めた。六代目の実家は高原屋久左衛門季衡で三男(長男は文九郎)。三六宜方と称し、幼名は寅乙、字は士正、号は達堂、滄洲、仲慮。親類中条屋川上家に入り、六代目を嗣いだ。天保元年三月五日に生まれ、町肝煎や町算用聞並を努めながら、勤王の活動家であったため元治元年八月十五日に捕えられ、金沢で投獄されるが、瑞竜寺橘仙が高岡町にとって欠かせない人物であると弁疏したため一ヵ月で許された。明治五年には第十七大区副市長兼戸長に任命されている。御馬出町より維新後は袋町、坂下町と移り、三十年九月八日に没した。六十八歳であった。
平田屋五左衛門 孟子を担当 本家は鴨島で酒造業を営んでいる富田家で、天保七年二月に町年寄となり祠堂銀才許・蔵宿を努めた善左衛門の、妹婿が五左衛門である。安政七年には十六歳で、町肝煎列役所手伝となっている。
高原屋文九郎 孟子を担当 先祖は飛騨高原城主内匠頭重綱で足利義尚に敗れて逃亡し、越中国三本松で沢田孫右衛門を名乗る。五代目久左衛門が高岡に移り逸見と改姓する。沢田家は弟が嗣いだ。高原屋を称し、代々蔵宿で町役人を務め、十四代目が文九郎(又一)在綱である。号は方舟、舫斎、文政八年に生まれ町肝煎を努める。勤王開国を唱えて志士、小川幸三忠篤 と親しくするが、元治元年八月十五日に捕えられ、金沢に十月二十六日まで投獄されている。妻は山本道斎の妹、妹は長崎浩斎に嫁ぎ、弟は中条屋に養子へ入った。明治八年五十二歳で没する。古城公園御竹薮に川上宜方と並び碑が建てられている。
絹屋権之助 孟子を担当 源平板屋町の代々商業に従事しながら、六代目笹原白年は寺子屋を開いた。その養子は権九郎辰省で、号は北湖。寺子屋も継承し、高岡に東西の小学校ができた折り東の校長に就任した。辞職後も教育に従事し、明治十九年十二月に七十六歳で没した。子息が権之助遂(初名は孟省、号は青軒)が句読師に任じられ、西の小学校長に就任している。二十三年十月に五十九歳で没した。 
棚田屋ェ六 中庸を担当 御馬出町で商業に従事する。安政五年四月六日に町頭となっている。
 二十日に職員を任命した。

 督学五名:大橋七右衛門、岡本清八郎、大橋与三市、服部伝兵衛、富田本(元)次郎
 講師六名:津島玄碩(七十四歳)、上子元城(六十三歳、医者で漢詩人)、佐渡養順(四十九歳)、長崎言定(四十九歳)、服部修徳(四十五歳、医者で荀子に精しい)、絹屋権九郎(五十八歳)
 典籍兼度支三名:石川次郎右衛門、石瀬屋与七郎、三木屋半左衛門
 句読師六名
 典礼二名:室屋小右衛門、三辺屋宋四郎
 書記三名:米屋豊蔵、竹村屋義太郎、関屋平左衛門

佐渡家 先祖は止観寺城主建部佐渡守と伝えられ、慶長十四年に井波から高岡下川原に移住し、その後利屋町に移って医院を開く。四代以降は佐渡養順を襲名し、八代目は出産時の家伝薬「養順湯」を調合したことでも知られている。子息は全て医者。九代目を継ぐ長男は三良で、天保十三年二十三歳の時に昌平黌で学んでいる。次男は将軍家奥医師坪井信良。以下九鬼秀達、建部賢隆、阿波加脩造。
長崎家 先祖は荻原氏。長崎で蘭医を学び長崎医者と呼ばれたため、長崎姓に変えた。代々ゲンテイを名乗り、四代目が玄庭(号蓬洲)、五代目が愿禎(浩斎)、六代目が周蔵言定である。玄庭は明和二年に富山藩士吉川唯右衛門敬明の次男に生まれ養子に入る。十二歳の時に医者松田恕謙(李安山)より大成論や十四経を学んでいる。次男で家を継ぐ浩斎は鳥山屋で学び、また書を研鑽した後に、文化十四年十九歳の時に江戸で大槻玄沢に入門した。更に杉田玄白の子息立卿に就いて研学する。高峰幸菴にも学び、その縁で幸菴は高岡に移住する。富山藩の市河父子にも師事し、書斎誠意堂(五泉堂)で漢学を教授する。有磯神社上田悌信も門弟である。元治元年六十六歳で没した。言定、後の正国は維新後に子息元貞正路に家督を譲り、国学の研究に傾注する。明治六年に射水神社祢宜となるが、翌年八月四十八歳で没した。次男は富山藩大参事林太仲(母が浩斎の娘)の養子に入った忠正である。
服部家 先祖は美濃国郡上郡服部甚吉連久で、前田利家が越前国府中に在城していた時に仕える。利長に従い富山に来るが致仕して天野屋三郎右衛門を称して、御用商人になる。高岡移城に伴い御馬出町に住んだ。伝兵衛は寛文元年に由緒町人になり、四代目伝兵衛は正徳元年御本陣の仕事を賜った。嘉十郎伝兵衛は十三代目である。弘化二年八月九日に三郎左衛門を父に生まれ、孝経・詩文・画・教書を学ぶ。明治元年に家督を嗣ぎ、三年第十七大区々長として貧民救済に努め、五年に郷長兼戸長に就任し、 八年に古城の公園指定を鳥山敬二郎(天保十三年〜大正十五年、後の衆議院議員、高岡市長)や藤井能三(弘化三年〜大正二年)等と共に成し遂げた。しかし華やかな表舞台と家庭は違った。二十七歳の時妻が二十一歳で亡くなり、三年来盲目になった父を十一年間世話をし続けた。自身も肺結核に罹り、十三年三月二十七日三年の闘病の末没した。三十四歳であった。昭和三十年に公園内中ノ島に頌徳碑が建てられた。ちなみに服部南郭(天和三年〜)は二代目三郎左衛門正和の孫である。
服部修徳 医者で儒学を修め、鶴吉とも称し、号は鶴翁・笑鵬亭・治鮒堂。書を講ずるに机上常に本なく其一字を誤ることなし、と評され、詩もよくした。四十歳で夜盲になるが、火事の際に近親の目が不自由な人に背負われ、後庭の小川を渡って避難したことが、当時の高岡で話題になったという。明治十年九月十一日に五十五歳で没。
津島家 医家である。元俊祇董(元禄二年〜明和三年十一月、号景三、三省斎)は京で向井元桂(?)に学び、元文三年十二月法橋の勅許を受けた。弟恒之進(号彭水)は京で松岡玄達に学び、本草学で有名。大坂で宝暦四年十二月に五十四歳で没。元俊子息は景俊(号氷水)、子の玄俊(号鷲橋)は池田錦橋に入門、人格の高さは『修三堂湯話』(『高岡湯話』)が賞める程であったが文久四年三十七歳で没し、その子息猪吉(号帆斎)も大坂で学ぶが、文政七年に二十二歳で早生した。そこで玄俊弟玄逸(安永七年〜文政十年、号竹山、藤樹園)が嗣ぐ。京の法眼山脇道作に師事し脈理に精通するとともに詩も能くした。長男厳俊(号橋東)も詩に優れ著書や詩集があるが、天保十年に早世したため、次男彦逸(文化十年〜文久二年閏八月、号北渓)が嗣いだ。江戸で増島蘭園や小島葆素に学び、著書も多い。叔父元桂(号北岳)も医術を学ぶが、伏見で河田伏水に就いて剣を修業し、江戸で道場を開くが病気で帰郷の途次越後で没した。二十六歳であった。同じく玄勇(号栗斎)も本草学や詩に優れていたが文政四年に二十九歳で没した。
上子家 農家であり、本家の鴨島村三右衛門分家の桃園は商人になった。画が趣味で、子息元城にも画を学ばせるが腕白であり、人の勧めもあり金沢の藩医内藤元鑑に就けて医術を学ばせた。その後、江戸で朝川善菴、大垣の江馬春齢、京の山本永吉や小石元瑞などにも学び、漢蘭兼学した。妙人であり、長崎浩斎等と交流するが、浩斎より前に没した。その子元城(号坦菴)は幼い頃より津島北渓に託されて嘉永七年江戸で御典医小嶋春折に学ぶとともに、眼科を渡辺雄伯に入門した。安政四年に帰郷する。

 明治二年十一月句読師を増員し、新たに五名を任命した。喜多康庵(四十三歳)、沢田早雲(四十二歳、医者で経義に精しく石崎謙の妹婿)、稲浦昌伯、蕭庵(養徳寺)、山本一覚(道斎の弟)である。後に加藤量平を追任した。佐渡養順は高岡学館に朱子の小学首篇から採って立教館の別名を付けた。授業程度は高く、町の上流子弟が通っている。いつまで継続していたかはよく分からないが、四年四月に資治通鑑を購入し、その箱書きに高岡学館主附大橋与三市、服部嘉十郎、富田元次郎の名があり、その頃までは存続していたことを確認できる。
●習学所
 氷見町では元の風雅堂跡地に田中屋権右衛門等の有力町人の俳諧社中が中心に、藩から建築費に仕法銀を用いる認可を取り付け設立する。安政四年十月十三日織田左近家来の兄渡辺清軒が孔子像に焼香の後、大学の三綱領を講釈した。翌年一月十九日の講釈開きには社中の老若長幼三・四十人が出席している。二月十九日には論語の講釈(学而章巧言令色から三省)があった。講義概要は掲示され、学則の用も成したと思われる。
B新川郡
●矯風会講習所 新川郡には郷学は置かれなかったが、明治の御世も三十七年になって滑川の常盤遊廓で芸娼妓教育のため、警察の指導下検楳所に矯風会講習所を設置した。教師には坂下ヨシが就任し、毎週月・木・金曜の正午から二時まで、習字・算術・修身・裁縫を学ばせた。運営費は生徒の授業料と廓内楼主の負担であり、六十人が通っていた。
C婦負郡
●共立義塾 富山市餌指町宣教館(中教院)が新設されたところに、明治六年二月(五年の説もある)共立義塾が設立された。規則は次のように定められている。

 一、入塾ヲ望ムモノハ組合ノ連印ヲ調ヒ組合長印証ヲ出スコト
 一、金銭ノ貸借ヲ禁ズル事
 一、金銭ノ貸借ヲ禁ズル事
 一、疾病七日以上荏苒スル者外宿スル事
 一、総テ各室ヘ他客ヲ招クベカラサセル事
 一、門ノ出入ハ朝第八字ヨリ夜第八字ヲ限ル事
 一、他行ニ日数ヲ費ストキハ其由ヲ塾長ヘ届ケ許可ノ上滞留スル事
 一、各々行状ヲ正シク身体ヲ清潔ニスル事
 一、畳ヲ焼キ或ハ戸障子ヲ破壊スル者ハ償ヲ出ス事
 一、日課ハ講堂ヘ掲示ノ通行得ベキ事

 山田清純や渡瀬恒時等が講師になり、全寮制であった。教科は漢籍の素読・数学・習字であり、月謝 は一円五十銭で食費を含んでいたが、当時にあって高額であった。
 しばらくして士族の有志者で変則中学校を梅沢町の大法寺に開設し、岡田信之等により皇学・漢学・洋学・数学が教えられる。そこで共立義塾はここに合流した。
●女紅場 明治九年十二月桜木町八十四番屋敷遊廓芸妓への教育のため、女紅場が設けられた。習字・読書(小学読本等)・算術(和算)及び裁縫・機織が教えられ、午前九時から午後三時まで開かれた。休みは祝日と毎日曜、教習期間は一年、月謝は毎月四十銭であった。旧藩士大沢弘道が九月に棟取に任命され設立に当たった(十一月第三大区区長に就任)。
二、私塾
 寺子屋が幼少者を対象に、主に習字を通じて読み書きを教えたのに対し、青年層を対象に漢籍等を講義・素読する非公立の塾を、本書では私塾と呼ぶことにする。したがって女子のみの裁縫・礼法専門塾は除いた。
@砺波郡
●栖霞園 郷学の所で記したように、福光に設立した教学所の前身で、宮永氏の私塾である。
 宮永氏は平安初期の鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、十代目七郎国貞が加賀国石川郡宮永村(現松任)を領し、宮永を姓とした。子孫の正意は寛永四年に母妻と越後国の親族を尋ねる途上、砺波郡の安居(現福野)の安居寺に詣でた際、住職の学遍に請われて砺波郡下川崎村(現小矢部)に定住することになる。これより五代目十左衛門正運(享保十七年正月二十五日〜享和三年六月)が宝暦十年に山廻役、砺波・射水両郡の蔭聞横目役、天明四年三郡の産物裁許兼役に就き、産業開発に尽力しつつ本草学に通じ、安永八年朝鮮人参を試培、天明三・四年大飢饉の時に代用食を調査する傍ら、和歌・連歌・俳諧・詩・茶等に通じた才人であった。多くの著作の内、『越の下草』は図書館で読むことができる。
 子息正好も山廻役や新田裁許を努め、著述家でもあり、家財減少の中にあり父の業績を整理し発展させた。
 正好の十一男一女とも学問に優れ、国学を学び勤王の志が篤く、その三男が幼名坦、成人して直三郎で、菽園と号した。十五歳で礼記を独力で読破し、文化十年二十歳の時、京で三宅橘園から経典と皆川淇園の書風を学び、頼山陽と交遊する。その後大坂で、篠崎小竹に師事し、江戸で佐藤一斎と交わり、天保九年に小竹の推薦で熊本の細川家に仕え、大坂で経学を講じていた。嘉永六年に帰郷するが、福光で 前村礼造と普言、甥謹堂等の有志により学問教授を請われる。福光城址右京亮屋敷に小亭栖霞園が建てられ、そこで経学・詩文を教えたが、慶応三年に七十三歳で没した。
 四(五)男通称川崎大(才)五郎、字渕晦、号虞臣 大法寺沙門釈渕晦躍龍こと半仏道人は、幼い時から体が大きく、兄の菽園や弟の暘谷とともに三宅橘園に学んだ。江戸で延岡藩内藤家、後に播磨国で竜野藩に仕えるが、老臣と対立して揖西郡善定村大法寺で剃髪し、赤松氏城址の大倉山で数か月修業を重ねる。一橋家から招請を受けるがこれを断り、天保七年大凶作の折に姫路へ行って施しをした。また紀州高野山で学問し、半儒半仏の思想を構築した(半仏の号)。天保十四年に一旦帰郷するがすぐ上京し、西国へ出立した。嘉永二年に帰郷して前村家の別宅に住むが、翌年に加賀藩儒者大島氏に請われて金沢の龍造寺に逗留する。帰郷後はようやく腰を据え、栖霞園で兄とともに訓育に励むことわずか、安政二年四月五十九歳で没した。
 六(四)男東作(号暘谷)は文化十二年に金沢で医学を修め、福光の医師有沢東海の養子となるが、養父没後に実家へ戻り、京で三宅橘園に学んだ後、江戸で医術を学びなおして帰郷した。貧乏人には無料で診察したという。弘化三年に没した。子息は勤王志士宮永良三で、天保四年生まれ、十四歳の時に医者修業で上京し尊王攘夷の思想に染まり、志士として行動する。慶応三年十二月二十五日捕縛されるが病のため(拷問を受けたとの説も)、自宅に戻されるが亡くなった。三十五歳であった。
●その他の私塾
 礪波の杉木新町で、武部堅(天保七年〜明治十九年)や石崎吉三郎等により漢洋義塾が設立される。両人とも地元の有力者である。武部堅の父は十代目与一郎で天保十三年山見村十村に任じられている。嗣いだ兄尚之(文政十二年〜明治四十四年)は石川県会議員として分県に尽力し、富山県会議長にも就任する。堅も石川県会議員と富山県会議員に選ばれた。養子の其文(文政二年〜昭和四年)は兄の次男で、後に衆議院議員となった。塾は学制頒布に伴い閉鎖されたようである。
 井波町では安政年間に金沢の堀川餌指町に住む浪人で医者ともいう田川才助が寄留し、漢籍を教えている。田川は天保八年六月町奉行に飢饉対策の意見を提出し、海保青陵の『経済話』を推薦した人物である。慶応年間には瑞泉寺十八世勝智(号應正院)が、美濃国原見郡佐波村観音寺住職で儒学者でもある小川元永(号大夢)を招聘し、漢籍や歴史の講義を行った。他にも福岡町上向田の斉藤蔵摂が明治四年に漢学塾を開いている。
 学制発布後は福野町の崎良平(医者)や杉坂敬一(明治六年十月福野第一小学校訓蒙心得)が青年を集めて開塾し、井波町の高瀬神社では金沢士族の野本和彦により社務所で和歌や洋学の講習会が開かれた。また明治十七年にはここで井波と福野の有志十九人が日曜協会を設立し、九月の第一日曜から十九年八月の第四日曜まで満二年間経済・法律・物理・簿記を学習している。崎良平(号缶・九竹・芝水・天愚道人)は福野町川崎屋清兵衛三男。六歳で町の識者西島屋大観と上保柳渓に四書五経を学び、その後宮永菽園や佐伯櫻谷に就き漢学を修める。天保十四年九月京の村田誠斎から内科・産科、紀伊出身の須藤氏から皇漢薬、天文地理学も学ぶ。嘉永四年に帰郷し、本福寺で芝水亭を設けて漢学などを講じ、二日町でも四書五経の素読をする。門弟には衆議院議員西能源四郎もいる。詩や和歌・俳句も能くし、明治以後は小学校建設に尽力した。三十七年二月七十九歳で没。
 今石動では申義堂の督教上田耕が、安政元年に鉄砲町の松永家邸宅で私塾を開き、漢籍を講じた。しかしその直後の六月失脚し、藩から毎年銀十枚を給されることと引替えに金沢より他郷に出ることと門弟教育を禁じられる。文久二年に解禁された後、度々今石動で講義を行った。
 光願寺の養宇徳称(文化十〜明治十二年四月)も地方青年の薫陶指導に努めた。
A射水郡
●小杉の私塾 藩政末期に東町の石川忠義(号乾山)や金山の金森暁山は、漢籍・算学・習字を講じていた。乾山の門には海軍主計中将刑部斎(下村出身)、小杉町長片口安太郎等がいる。
 暁山は祖先が飛騨高山の金森氏で、代々山廻役や新田裁許を努める家に生まれている。今の小杉小学校がある場所に塾を構え、文明開化の思想を先取する講義内容であったという。
 また開発屋に木蘇大夢が寄寓し、漢詩を講じた。これを契機に毎月三日詩会を催すことになり、月三吟社と名付けられた。嘉永元年には頼三樹三郎が小杉新町に来ている。
 明治十年には小杉新町に漢学塾不朽義塾が設立された。松長豊吉、松長太作、藻谷伊太郎、佐渡美成が講師を努めた。
●下村の私塾 表石二郎(安政五年〜大正五年)は、九歳の時より四書五経、算術、測量学を学び、学制発布後は白石小学校で教えた。また二毛作の試作や立山測量にも従事する。更に夜学を開いて、村人に文字や珠算を教えた。今も村全域の地図、書籍及び文書が保存されている。
 摺出寺村の漢方医熊西宇兵衛(号龍庵)は経史を講じ、広瀬太左衛門等が学んだ。
●新湊の私塾 明治の初年に、泉田又右衛門、内藤欽二、山本瑞圓といった識者が集まり、漢籍、英語、算学を教えた。瑞圓は光明寺十二世住職で、哲学や経済学にも通じていた。
●氷見の私塾 氷見町では神職の活動が目立っている。大森定久は文化三年に泉村の神官大森定経の子息に生まれ、若年で家督を相続し、従五位下出雲守を称した。安政四年に高岡関野神社関守一等と山城国向日神社宮司で平田篤胤門下の国学者六人部是香に師事し、六年三月帰郷すると私塾梅之舎を設立し、青年有志に復古神道を基とした、国体の尊厳、尊王の大義を説いた。明治二年から六年まで、神仏分離令のため神主になった元僧侶の教育のため、能越各地に出向いた。二年八月より十一月まで能登一ノ宮気多神社、三年三月から立山雄山神社、四年三月から能登気多神社の権宮司に就任、と多忙を極めた。その後ようやく帰郷し、自塾で国学や歌の道を教え多数の著書も残す。明治十九年に八十一歳で没した。
 平井正明は仏生寺御田神社の神官を代々勤める家に生まれ、幼名を甲太郎という。兄の正武(文化五年〜安政五年)は文政六年に家職を継ぎ、陸奥守を称して北信越七ヶ国を廻り平田派国学を広めた俊英である。藩主前田齊泰御前講義を行い、金三枚を拝領してもいる。
 正明は郷里の生んだ剣聖齊藤弥九郎を慕い、江戸練兵館で文武を修練した。帰郷後には能登国田鶴浜に神道無念流の道場を開くとともに、仏生寺の自宅に白檮之舎を創設して国学を説いた。門弟には多くの神官が育っている。自身も天保三年に兄より家職を譲り受けた。
 子息正承(文久元年〜昭和二年)は高沢瑞穂に学び、明治六年に新川師範学校に入学して第一回卒業生となる。その後、本居宣長の曾孫豊穎に入門して国学を学び、仏生寺一栄校の教員に就任している。昭和五年に頌徳碑が建てられている。
 高沢瑞穂は『友之舎家集』を著した神職秀足の子として文政五年六月北八代で生まれ、幼名は司馬之助。五歳で父を喪った後に叔父に養われ、江戸で平田篤胤の養子鐵胤に学ぶ。漢字の送り仮名の研究を専門とし、大森定久や上水友之とは同志の関係であった。弘化二年に帰郷した後は越中、下総、相模で神職を歴任し、明治二十二年間島に鞆之舎を設立して国学を講じると、県内各地から門弟が集まった。著書も多く、囲碁を余技としていた。三十年二月十四日に七十五歳で没した。
 子息瑞信は弘化元年九月に生まれ、神道無念流を平田正明に就いて修業する。国学を本居豊穎に学んで、明治五年三十五歳の時に七尾県の神社係に就任した。万葉集を研究し『萬葉越路栞』二巻を著している。その後八代や余川などで小学校長を歴任した。大正四年没。
 上水友世は文化八年に十二町の神職吉川家に生まれ、長坂の神職上水家の養子に入った。文久二年に上京して復古神道を学び、帰郷して鹿之舎を開いて青少年に書を教えた。御家流とは違う書体であったという。
 子息友之は江戸の平田鐵胤に和歌と書道を学び、帰郷後は書物を見て「伊須流伎薬」を作り、種痘を施した。祭政一致の思想を説き、廃仏毀釈に熱心であった。遺稿『桃樹栞』がある。
 漢学者の私塾もあった。阿尾の嶋尾三郎は嘉永二年に生まれ、高沢瑞穂の門弟桜井兵部に国学を学んだ。長じて本居豊穎(東宮侍講)に就き、後年に豊穎は嶋尾家を訪れている。北立自由党に参画し、県会議員に選ばれる。湘月と号し、明治二十三年に政界引退後は俳句や茶の道に生き、漢学を自邸竹浪軒で講じた。四十一年五月二十日に六十歳で没する。
 南上町の十五代宮永善左衛門は専業で漢学塾を開いていた。天保から明治初年にかけ大勢の門弟を抱えた。碑が上日寺にある。謚は叔與居士。寺子屋としても機能していたようで、天保五年から慶応にかけ四百九十七人の名があり、珠洲から一人、氷見の村部から十九人(寺社子弟)が来ていた。女児は三十人である。入塾者を集計すると、一月二十七人・二月百十三人・三月四十五人・四月四十四人・八月四十一人・九月二十六人である。
 西井俊造忠は文化九年に大聖寺藩士山口良太夫の子息に生まれ、岐阜の明善院で眼科を学び、京の小石元瑞に就いて蘭方を修める。越前藩医になるが、やがて辞して氷見に開院する。弘化二年には再度上京して元瑞に学び、嘉永三年黒川良安の勧めで種痘を行った。この種痘法は人種痘法というものであった。接種して数日後に針で痘を破り、その膿液を針に塗って児童の尺骨静脈に刺し、上を綿花で覆って包帯をする。七日目に種を取り膿液を採取して別の人に痘苗を移す。この時はまず長崎の頴川四郎八が孫に接種し、桐山天中の三歳になる万治郎、京の日野巫哉、福井の笠原良策、黒川良安、西井忠へ受け継がれている。字を快安、号を三谷といい、詩を吟じ、文人墨客との往来が多く、漢詩を講じた。また明治十二年には致誠小学校初代校長に就任する。二十八年二月に八十四歳で没した。
 光源寺でも漢学を教えていたようである。町年寄で教養人であった田中屋権右衛門も夜学を開いていたようであるが、習字と算術であることから寺子屋に分類できるかもしれない。
 上田耕はここ氷見町にも講義に来る。天保十五年二月から弘化四年三月にかけ度々訪れ、孝子教、中庸、孟子、近思録、荀子等を、毎席十三・四〜十八・九人、最多三十二・三人を前に講じた。費用は弘化二年上田講を作り捻出する。この他文政十年と十一年四月・八月富山藩医で儒学に造詣の深い岡田随筌(瑞仙)は加納屋七右衛門方に招かれ論語・蒙求の会読を行った。天保五年十二月十日には本居家門人で婦負郡金乗坊の静教が来て、十人ほどを相手に百人一首と詞の読みを講じている。さらに林藤破(江戸で古賀精里に学び、明倫堂助教・侍講兼、天保七年八月五十六歳で没)が来たり、天保十三年閏三月富山藩士で書家・俳人成田梅甫(別号照翁)が来たので、人々は文・書の読みを尋ねている。また天保三・四年には田中屋権右衛門等による孟子の勉強会、安政四年長沢子謙等九人が一・七・十二月を除く一と六の日に書物講(懸け銀一会五分)を開いた。
 その他、稲積の浅野茅生、田子の細川菜庵、阿尾の安達松丘斎、乱橋の伊藤(糸)昇斎といった医者が、漢詩や書道を教えていた。脇の寺(明巌寺)でも仏島が漢学を講じ、門弟には中波の大西助右衛門がいる。
●高岡の私塾 高岡町では町人の文化活動が活発であり、規模の大きな私塾があった。
 文化十一年に町の指導者長崎蓬洲と粟田佐久間は富山の漢学者 島林文吾(この頃富山で私塾も開き、眼科として兄の跡に藩医を継承)招き、聖安寺中の安乗寺を借りて、孟子・唐詩選等の学習会を開いた。後に詩人としても名をなす長崎浩斎(蓬洲の嗣子)、粟田庸斎(佐久間の嗣子)、渡辺玄碩、松井藤馬(町奉行小堀八十大夫家来利(理)右衛門子息、昌平黌で学ぶが医に転じ後高峰幸菴の末期養子玄台、号犀江、悟門等)、内藤伊織、 佐渡竜斎(八代目養順)等がここで学んでいる。
 山本仲郎道斎(文化十一年五月二日〜安政二年十二月二十二日)の祖父道仙は加賀藩士を致仕し寛政三年に魚津町で分家開院。婿養子一覚(号樫園)が高岡町の片原町で開院し、その長男として道斎は生まれたが、請われて叔父藩医内藤玄(元)鑑の養子に入り、明倫堂に入学する。十三歳で藩主御前で詩経を講義し賞せられたが、城勤めを嫌い実家に帰ってしまう。昌平黌へも留学し、京で小石玄瑞に医学を学び、頼山陽に師事し、長崎でシーボルトに学んでいる。弘化元年片原町で開院し、嘉永元年三十五歳の折に蝦夷から北陸路遍歴中の頼三樹三郎が道斎書堂牛馬堂を訪れ、約七ヵ月滞留して時局を論じた。妹婿の逸見文九郎等も集まり、思想を堅固にしている。尊王志士藤本鉄石も来訪している。この牛馬堂で道斎は青年への教育に努め、日本外史等の輪読を行った。また著書『静思録』があったが、安政の大獄時に家人によって焼却された。四十二歳で没し、昭和五年に顕彰碑が日蓮宗妙国寺に建てられている。弟の甚造は三木屋寺崎家に入り市右衛門、宗春は兄に代わり内藤家に入って宗安(百五十石)、良順は松田家に入り眼科医の十代目逸斎、万春は家を嗣ぎ一覚を襲名して道斎子息道太郎(後に鼎)を養子にした。
 上田耕は高岡にもやって来た。弘化初年大仏裏地の桑畑を借り、町人教育のための学舍を建てて、桑亭と名付ける。結構隆盛であったが、藩政の関係で嘉永元年に廃された。
 豊後国出身の僧侶野上文山は、文久元年に高岡に来て二塚で養子に迎えられるがそこを出て湶分に居住した。漢詩に優れ、佐渡養順、服部周徳、原北朝、上子元城等の文人たちと交流する。その関係で明治五年九月に待賢室(坂下町西方寺横)の設立を申請し、青年教育に従事した。対象は第十七・十八区の十歳から十五歳以下で、塾には町内や近隣から有力者子が集う。堀二作、稲垣示、島田孝之、石上北天、原弘三、和田格太郎、寺野宗教、豊田拙荘、雄山慈眼、荒木岡三郎、内藤欽二、浅岡貫一、宮崎久など錚々たる顔触れである。朝五時から一時まで授業があり、一・六の日は休日にした。洋学を主とし英語、算術、地理、歴史、理科、習字といった学科を設定し、上級生が下級生を教える形態であった。中田の島田孝之は漢学の師河合神城に転学を勧められ入学している。通称あばら(湶)学校といった。しかし翌年に文山が没し、閉鎖を余儀なくされた。十七年に文山の碑が建てられた。
 回漕業や材木商を営み、山廻役に任じられていた鷲塚屋十代大橋十右衛門(安政六年〜昭和十五年、号二水。分家間斎の四男)は、明治十四年に越中義塾の創設に尽力し、十六年一月私財を投じ木町神社境内に期磨智小学校を建てた(小学校の扁額は前田齊泰の筆になるものである)。十八年に県会議員、三十五年に衆議院議員に当選し、二期努める(政友会)。四十一年政界引退後、開発町で漢学者の大伴学陽を招聘し、自邸で漢学塾を開いた。古城公園の御竹薮に碑がある。 
 明治十四年十一月には旧宮脇町に越中義塾が創設される。老田村出身で東京日報社に勤めていた海内果(嘉永三年〜明治十四年九月二日)は、同志と相益社を結成し「開化は参政に先立つ」と専商主義を唱えた。私塾の設立を図るものの腸チフスに罹り三十二歳で没したため、遺志を受け継いだ同志大橋十右衛門が中心になって、漢学者の園田朝弼と英語学者の和田正脩を教師に招いて開校に漕ぎ着ける。「越中義塾規則」の第一条には設立の目的を「當校ハ洋漢兩學ヲ修メント欲スルモノ々爲メニ必需ノ學科ヲ教授スル所ナリ」とあり、四書の素読が出来るものを対象にし、履歴書・小学校の卒業証書及び証人の保証状があれば入学が許可された。各学年の諸学科は次の通りである。

 第一年生
 第一期 綴書ウエブストル、第一読本ウイルソン 日本外史、文章規範 作文演説毎週一回
 第二期 第二読本ウイルソン、文典ピ子オ 日本外史、文章規範 作文演説毎週一回
 第三期 算術デビス、地理書ギヨー 日本外史、文章規範 作文演説毎週一回
 第二年生
 第一期 萬國史スウイントン、代数學デビス 史記、八大家読本 作文演説毎週一回但英語演説ヲ雑ル乁アルヘシ
 第二期 幾何三角術デビス、物理學スチュアト 史記、八大家読本 作文演説毎週一回但英語演説ヲ雑ル乁アルヘシ
 第三期 米國史アンドルソン、化學ロスコノ 史記、八大家読本 作文演説毎週一回但英語演説ヲ雑ル乁アルヘシ
 第三年生
 第一期 生理學ダアトン、文理學イエツケンボス 左伝、経書 作文演説毎週一回但シ英文ヲ雑ル乁アルヘシ
 第二期 星學ロツクヤル、修身學ウエランド 左伝、経書 作文演説毎週一回但シ英文ヲ雑ル乁アルヘシ
 第三期 地質學デイナ、米国史グリン 左伝、経書 作文演説毎週一回但シ英文ヲ雑ル乁アルヘシ 
 第四年生
 第一期 欧州文明史ギゾー、論理學ゼボン 作文演説毎週一回
 第二期 心理學ヘーブン、経済學フオルセツト 作文演説毎週一回
 第三期 代議政体ミル、萬國公法ウルセー 作文演説毎週一回
 餘科
 法律原料テリー、政事學講述、世態學ケリー、英文学デー

 英語は原書を用いた。一年を、九月から十二月・一月から三月・四月から七月、の三期に分け、午前八時より四時(正午から一時は昼休み)が授業時間であり、授業時間五分前には撃拆が鳴らされた。
 毎期末に試験を行い、百点中の六十点が及第点である。各学年は甲乙丙三組編成を取った。卒業後有志者は餘科へ進むことを許された。日曜と大祭日は休日である。
 入学者は八・九十人程であり、寄宿生徒もいて、投票で寄宿生代表の塾長を一名(任期一年、九月上旬に改選)選び、毎期が始まる時には幹事(職員)・塾長の指揮下で互室交代をした。午前六時起床、七時・正午・六時食事、門限九時と定められていた。
 入校束脩と授業料は一円、寄宿生徒は食費が三円(物価により増減あり)で、十五日前に入校者は全額、他の諸費は半額を納める必要があり、通常は授業料と食費を五日前に納めた。事務は幹事が管理する。教場・障子・器械等を毀損するものは修繕費を弁済せねばならず、飲酒・登楼・喧嘩等猥褻の場所に立ち寄ることを禁止された。
 このように官学に準じた内容で充実した教育を行っていたが、十七年三月の第二回通常県会で富山県中学校の分校を高岡に設ける決議を採択したところ、文部省は一県一中学校の方針を盾にこれを拒絶し越中義塾の存在を否定した。その上前年十二月の徴兵令改定で私立学校の徴兵猶予が廃止されていた。そのため生徒数が減少し、潔く九月の新学年は迎えないことを決めた。
旧砺波郡
 常国の医者松田竹次郎は文政元年二月に生まれ、土倉宗七郎の寺子屋に通った後、加賀藩儒者金岩善文に詩文を学ぶ。医術は父の成道に就き修業した。明治四年より自宅で漢学を教え、多くの門弟を抱える。二十三年に一旦単級小学校の教員になるが、医業に専念するため辞職している。
 下山田の農家河合平三(号神城)は、天保六年六月に伝右衛門の三男に生まれ、七歳の時に富山藩士近藤士専に学ぶ。九歳で藩主御前にて漢籍の講義を行い賞せられた。この時床飾の獅子頭石を拝領している。十六歳で加賀藩士鶴見小十郎に学び、嘉永三年京で梅ケ辻春樵に師事した。安政三年六月に二十六歳で分家し、混放堂を設立して農業の傍ら漢学を講じた。学舍は土蔵(五間×三間)の戸前階上(三間×二間)を用いたが、両側の小窓より僅かに明かりがさす一室であった。それでも門弟は多く、松田快禅等の僧侶や神官子弟、島田孝之や島巌、高畠孫次郎、武部冉(尚)志、大井長平、安念次左右衛門といった後に活躍する人材を輩出した。明治二年に杉木教学所の教員と戸長役に就き、翌年二月二十七日金沢郡治局直支配、六年より中田・頼成・東保新などの小学校創立係になった。十一年十一月二日、四十八歳で没した。
 戸出では、十村河合家十一代目又右衛門欽齊(文化四年生まれ、号雲溪)が瑞龍寺閑雲に書を学び、俳句も能くした。天保初年に浦上春琴が来遊したので、画を学んでいる。吉住村住人常木善増(蔵)は現高岡下関の書家泉伏翼に書を学び、伝授書を授かった。このような教養人を生んだに止まらず、明治元年竹村屋菊池重郎、吉田仁平等が中心になり、正義堂を設立する。
 菊池重郎逸斎(幼名珠洲之助、字則政、号復堂 松東)は天保元年六月二日に生まれ、父は寺子屋を開いていた兵三郎武邦である。弘化二年から嘉永六年にかけて加賀藩医吉益北洲に医術を学び、安政三年まで京で吉益南涯と宗晋哉に更に医術を磨いて、帰郷後に開院する。
 吉田仁平友信(幼名孝作、号琴堂)農家新屋久左衛門長男として、嘉永五年八月五日に生まれ、祖父で国学者の友香と富山藩儒三羽迂堂に学んだ。三十歳で父を亡くしたため、弟九人・妹二人を支える。
 正義堂典禮には「舊習の困弊を洗除し新奇の輕薄に汚染せず既往将来の形勢を考究し相倶に實着に切瑳するを専要とすべきものなり」とあるように志を高く掲げ、神明宮の辺りに開校した。教職員には、読司に菊池復堂と吉田琴堂、読司補に中野雙峰と苗加佳居、その下の社長には荒井君山が就任した。一・六の日に詩会、二・七の日に論語会読、三・八の日に孟子読解、四・九の日を温習に充てて、五の日を休日と決める。正月八日には発会を催して史記や孔子世家の講解及び告諭大意初篇と二篇の副読を行った。また上元の日には試毫会があった。入学生には僧侶の子弟が多く、二十人程であったという。明治五年の学制頒布で役割を終えたようだが、復堂と琴堂はその後も村町の発展に尽くし、三十年九月十日六十八歳、二十二年十一月二十四日三十八歳で没した。
 戸出の中正楽寺諄照を嗣いだ金石諄恵(文化九年五月二十五日〜明治二十六年六月十五日、字公恵、号萬壽院、山澤、柳屋、櫻屋、疎影菴)は宗学、聞香、品茶、書画、篆刻、花卉盆栽に通じ、寺務から退いた後、前庭の桜樹間に小亭を結び、訪れる人に請われるまま学問の相手をしていた。
 五十嵐孫作篤好は寛政五年十二月十六日内嶋村(現東五位)に生まれ、幼名小五郎・次に小豊次、号は水牛齊・香二瀬・蟹瀬・鳩夢・雉岡・鹿鳴花園、文化八年に九代目として十村役に就任するが、文政二年三月農村困窮の責任が十村二十八人に課せられ処断、父は四人の十村と牢死、自身も八月に十八人の十村と能登へ配流になったため、そこで伊夜比盗_社神職舟木連に歌を学んだ。翌年六月赦免、同四年三月復職、七月砺波郡総年寄役に就任する。本居太平にも歌を教授され、京の富士谷御杖を師に仰いだ。文化十二・三年頃には金沢を訪れた近江国の人望月幸智には言霊派文学の教えを受けたが、天保八年の大凶作の折に監督不行届で翌年七月に御役御免で二年間謹慎になる。この間妻を亡くした。安政五年六十六歳の時越中国に入った備後国福山の人千住弘太夫(海養亘)を泊め農業の新説を教わる。だがここにも落し穴が待っていた。流浪人の宿泊を禁じた法に抵触したのである。直ちに閉門を言い渡された。だがかえって学問に力が入り、歌を詠み著述も増えている。翌年に神道論を確立した『言霊旅暁』を著している。石黒信由にも就いて算学を学び、文政八年に允可を得ていた。安政四年十二月新器測量法に関する著作を刊行するが、算学を専門とせず、士分・僧・神官百五十人の門弟には国学を主に講じていた。門人帳には三州の著名人が名を連ねている。御家流の書は高田與八郎祐久を師とし、門弟には高岡有磯神社の上田伊豆守等がいる。閉門解除後は金沢との往復が多く、万延二年正月年賀で金沢へ行ったとき倒れ、二十四日六十九歳で没した。福町村(小矢部)影山直次顕吉と武部伝右衛門隣徳、井波の宇野貞十郎幸道、頭川村(高岡)吉岡虎次國子、木舟村(福岡)安宅長一郎貞賢等は算学の弟子である。
B新川郡
●滑川の私塾 新川郡では医者の活躍が目立つ。滑川では仙庵、杏順といった医者がそうである。他にも高月の専称寺住職玉木興隆や浅野永秀(明治六年九月滑川女子小学校訓導)、松村茂が藩政末から明治初年にかけて、漢籍を各々数十人の門弟に教えている。 
●魚津の私塾 士分荒尾作左衛門(七十石、与力)は上田耕に学び、文化十年田方町に漢学塾を開いた。天保十年頃隆盛を極め、同十四年には男子二十人・女子十人が在籍した。科目は漢籍・習字・算術である。塾は天保十四年に子息義一によって継承されている。
 町人五島宗八は京で学び、安政の頃に荒町で開塾した。門弟は三十人程で、漢籍・習字・算術を教えた(立山町の五島文栄との関係は不明)。
 同じ町内の飯野尚順は父の医業を継ぎ、漢籍に通じていたこともあって、万延の頃に開塾する。門弟は男子三十五人程で、漢籍を講じた。
 大町の医者阿波加脩造(号春塘)は高岡の医者九代目佐渡養順の弟に生まれ、親類の阿波加家(曽祖父宗順が阿波加李仙の弟)に入った。兄弟には坪井信良(良益、号柊里)、九鬼秀達、建部賢隆(光昭、天保元年十一月二十一日〜明治十九年八月三日、号琢斎、緒方洪庵の門弟)がいる。上田耕に学んだ後、嘉永六年大坂で春日寛平、渡辺太郎、広瀬謙吉より経史・詩文を、春日載陽、緒方洪庵、華岡準平より蘭医術を習得する。二十四歳で帰郷し、養父を助けて診療に従事する。安政五年のコレラ流行時には治療法の研究に努め、著書『虎路里贅語』も刊行している。その傍ら漢学塾を開いて教育にも従事する。まず三字経、千字文、孝経を学ばせ、その後に選抜者を四書五経、文章規範、文選へと進ませた。門弟数は明治四年頃に男子三十人であった。この年加賀藩の文学訓蒙に就任、魚津病院の副直を勤める。六年には学校教育にあたり副師範心得に任じられた後、明理小学校校長となる。また習字教科書を開発した。そこには数字の運用法を取り入れたり、日記文を導入部に載せ次第に段階を上げていく、といった工夫が読み取れる。二十七年には衆議院議員に当選し、大正五年八十二歳で没した。
 士分馬場三郎も漢学塾を開き、安政から慶応にかけ門弟二十人を教育した。
●黒部の私塾 生地では藩政末期に願楽寺で漢学塾が開かれ、弘文舍と命名される。廃藩後の明治五年に戸長上坂清三郎等が協議し、塾の継続を決めた。講師には亀田露月とその門弟上坂孫兵衛、鈴木宗順、習字専門の代用講師に東五左衛門を招聘した。翌年三月田村文平宅を改装して移転した上で、六月に精神小学校になる(前田侯爵の命名)。
●入善の私塾 舟見では相模国小田原出身の医者小林光随が諸学を講じた。論語「用之則行、舍之則蔵」から採って、かつ支那風に三文字で庭(丹羽)行蔵(号立訓堂)を名乗り、天保五・六年頃の年末二十七・八歳の頃に、寒中単衣一枚で大家庄柳田の森元貞を訪れた。二人は共に京で吉益東洞の門に学んだ仲間であった。郡年寄並役野島久兵衛も歓迎し、入善神社西南方の大根畑に式台付板葺吾妻屋を建てて住居を提供することにした。撃剣・弓術・易を能くし、やがてアヘン戦争の開始を当てたと有名になったため、これを訝った地元の医者古谷弘齊は、管狐を使って愚民を惑わす行為である、と金沢へ訴え出た。別件で尊王攘夷派梁川星厳等と文通したことが露見したこともあり、弘化三年夏に追放となった。肝煎役米沢善蔵、竹内四郎兵衛、組裁許十村役野島和七郎内手代沢谷善五郎も連座し、金沢の公事場に召喚され半年宿預けの判決を受ける。但し善三と善五郎は役義差支として執行猶予、帰村を許されている。扇谷要齊と長島武右衛門が越後の今町(現直江津港)まで見送るが、中島旅館で余興に船を浮かべ蝋燭の流し火をした所、多くの老若男女が見物したという。医者として調合した胃腸薬聖功丸は、明治末年に売り出されている。門弟には米沢与四郎、米沢耕太、只八一郎、扇谷要齊の孫与三九郎、野島親貞等がいた。
●立山の私塾 五島文栄(人物誌は不明)が明治以降も漢学を講じ、五百石大森村の酒井小平(松本開の開拓者で、明治二十一年に九ヵ村を五百石町として分離し自宅に役場を置いた)が、現在龍光寺がある所の北側に文學舍を設立し、村民子弟の教育にも尽力している。
 漢方医で代々肝煎を勤めた宮崎家(祖先は宮崎時範で、宮崎村から移り帰農する)の重右衛門は陽明学を講じ、門下に宮崎家の分家や隣村の浅生村伊七郎等がいる。
●新庄の私塾 現在富山市の一部を構成するが、藩政時代は加賀藩領新川郡の一部である。ここでは林周平(号周民、揚舟、王愛)が、明治初年に漢学塾を設立した。文政九年八月に周防国岩国で藩士の子として生まれる。高杉普作の奇兵隊に入隊したが、伊藤博文等と対立して脱藩する。豊後国竹田に四年間潜み、その後は耶馬渓羅寺に篭もり沈芥舟の画学編を学ぶ。越中入りして荒川四軒町に住み、神明町に開塾、詩も能くした。二十八年この地を去り、飛騨や伊豆田方郡函南村に居住するが、翌年の九月十九日に没した。
C婦負郡
●富山の私塾 婦負郡全ては富山藩領であり、城下の富山町では前章のように藩の儒官が漢学塾を開いていた。ここではそれら以外の私塾を記すことにする。
 上大工町には士分渡辺佐平太の塾がある。父左平太は寛政八年十月に幼くして相続、文政十年百石、天保六年正月百二十石になり、御歩頭・金穀奉行・御勘定奉行・御倹約奉行等を歴任している。佐平太がいつ相続したのかは分からないが、分限帳によれば安政七年二十九歳で、慶応三年には千石町に住んでいる(しかし明治二年の分限帳には佐平太清智が九十八俵・三十歳と記されている)。
 殿町には藩医真田見竜が開塾した。先祖は信濃国の真田家一門で、伊勢国より元禄頃に新川郡高江村に移って、高江姓に改め医者をする。延享元年富山藩の御匙役に取り立てられ、文政元年に真田姓に復した。見竜は見丈直當の次男として生まれ、天保三年正月に家督を相続する。天保九年時点で三十人扶持の御医者組本道、安政七年時点で四十八歳である。
 藩政末に九州で亀井昭陽と帆足萬里、長崎でも蘭学を学んだ高桑元吉(号金龍、雲峰)が殿町で家塾を開く。医学を専らとしていたかもしれない。坂本龍馬とも親交があったという。
 渡辺順三郎尚義は漢籍・詩・書を学び、停雲と号した。嘉永二年に異風組入りし、江戸で下曽根信敦の門で高島流砲術を学ぶ。帰藩後は砲術師範となり、半田甚左衛門と砲筒鋳造御用掛に就任し、大久保野で試打丁付、千石町に射的場を設置した。維新後には内用方議員に任じられる。廃藩の後師範学校教師に就任し、旅篭町に塾を開いた。
 成田道日徳(宝暦八年〜弘化二年七月二十二日、通称大二、号梅甫、春櫻、照翁)が漢籍や書を教え、氷見窪村の素封家で天文学者六田九左衛門(明和元年〜文政十二年、号布施神龍)も門人である。五歳で佐伯平蔵に学び、入江家へ養子に行くが離縁、十四歳のときに高岡町の道具屋の勧めで京へ出て書家の烏石に就いて書を学ぶ。三十歳で独自の書法を編み出し、著書も多かった。九十歳で京にて没。
また西四十物町に安達常規(天保十年十一月二十一日〜明治四十五年八月六日、号呉峰)が漢学を講じた。明治二十年頃富山師範学校で教えている。子息常正は栃木県師範学校長に就任し、号は九如。
 島林文吾(字季華、号雄山・林文)は代々二十人扶持の藩医(眼科)で、兄島林休意尚寛の養子になる(提出履歴には婿養子)。文化九年に相続し、御医者組、天保三年九月本道兼帯・御番入、文化頃に開塾する。高岡町の内藤王福と旧知で、同十一年に招かれ講義をした。高岡や氷見でも入門者があり、高岡町では津田半村などが門弟、称念寺懶外等とも交際があった。
 梅沢町に沢野氏が開塾しているが、詳細は伝わっていない。
 大塩平八郎の乱にも参加したという伊勢鳥羽出身の近藤士専(号・潜庵)が、嘉永五年四月に富山へ来て開塾する。陽明学と医学を専門としていた。旧姓は太田で、斎藤拙堂(名・正謙、字・有終、通称・徳蔵、寛政九年〜慶応元年七月十五日。昌平黌で古賀精里に学び、津藩の有造館で教え、洋学・種痘などを採用)に詩を学び、明治元年二月五十六歳で没。ただし下山田の河合平三の師であるとしたら、天保十二年には富山にいたことになるため、伝承に誤りがある可能性が高い。
 大野欽一郎の門人である家老・執政の蟹江監物基徳(文政十二年七月〜明治十九年十月十一日、号巻石、長爪、大愚哉)は二十歳の時から四・五年間、町の南郊の従野亭で入江事直明・千秋元五郎茂之と経史の研究をしている。
●八尾の私塾 町人文化が発展した町であり、東町で代々医者をしていた 摩島松南等を輩出している。
 大長谷村でも藩政末から明治初年にかけて青年教育が盛んに行われていた。山口太郎右衛門は算術と経済・社会の現況を年に数回教え、長谷川三四郎は地理・歴史の講話を定日行った。後に尊明小学校の習字教師になっている。喜多四郎左衛門は花房村で代々要職に就き、天保七年の大飢饉の時には野積谷農民の救貧に尽力する。天保末年には十村役に就任した。また村の青年に政治・時事問題を解説し、奨学・督励した。
posted by ettyuutoyama at 17:50| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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