2009年06月15日

第六章 天保期の蘭(洋)学

 蘭学者は身分や藩等を越えて「蘭学社中」という仲間集団に帰属意識があった。そして「社中」を通じて「日本」という共同体を遠望していた。それゆえ、日本の国益に尽くしているのだという衿持を持っていたのである(前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学』平成十八年、平凡社)。
 加賀藩・富山藩とも西洋の知識は江戸藩邸からもたらされていた。当時から江戸は情報の集積地であって、長崎から多くの海外情報が書籍を通じて一般民衆にも伝わっているし、当然参勤交代で江戸へ赴任した藩士が帰国の際、土産として持ち帰った結果地方へも広まっている。
 向学心旺盛な人々は蘭学・洋学に関心を強く持つ一方で、一定の距離を置くバランス感覚も持ち合わせていた。十代目富山藩主 前田利保(寛政十二年〜安政六年)は、天保八年物産方を設置し薬草栽培を行い、自らも岩崎常正、宇田川榕庵に本草学を学んで、大名・旗本の同好会である赭鞭会を毎月主催するほどの学問好きであった。
 『前田文書』は次のように記している。

 御十代利保公、天保年間ノ頃、蘭学ニ執心セラレ、其頃江戸市街ニ宇多川榕庵ト云ヘル蘭学家ニテ舎密学ニ秀デタル人アリケルヲ、折々聘セラレテ、其学ヲ勉強セレケル故ニ、蘭書モ追々購求セラレケル。其後旧幕ノ奥医師畑中善良、外ニ薩藩曽将酋トカ云ヘル仁モ折々召さサレケル。就中同席ニハ筑前博多公黒田備前侯ト懇親セラレ、蘭書ノ林娜(リンネ)氏トイヒル書ヲ一部、両公ニテ購求セラレ、屡前後ヲ繰替熟覧セラルゝ事モアリ。尤此書ニハ甚ダ勉強セラレ、該訳解数多抜萃セラルレドモ、惜哉完全ナラズ。又物印満(ウエンマン)草木図解ノ訳書ヲ以、和漢ノ草木品類ニ適当セラレシ訳解ヲ許多アレドモ、其全ク纏リタル不見ヘバツニ其書目ヲ洩シヌ。
 
 また『前田利保行略』には、「宇多川榕庵、小野蘭山、曽将道ニ従テ蘭学ヲ修メ花戸及ビ江戸近傍ノ草木ヲ聚メ、猶白々ニ諸処ニ採収シ、浅近ナル草木ノ名ハ大抵覚知シ、常ニ座右ニ諸書ヲ積ンデ、其名ノ当否ヲ正明ニセンコトヲ之レ務メトス」とある。
 著書には、よく知られているもので『本草通串』『本草通串証図』、和歌でもサークルを主催し鳳凰連と名付けて『詩の大綱』等を出版し、本草関係では他に『蘭説直見』『蘭説直見或問』がある。 
 このような学問好きの利保は、蘭学をどのように観ていたのだろうか。『龍沢公御随筆』に所収されている「世物語」にはこうある。
 
 今の世は西にかたむいたやうで、蘭学が流行して、かのごつとの造化の説をなま聞にしていふ者がたんとある。其内天文は、みな漢も和も我しらず蘭説に引入られて、天経惑門など、もと西洋の説に拘泥ながら、異端とも思はぬ事じゃ。世界を中に置て南さがり、空がぐるゝと回る事だとするが原及びない天上の事ゆへ、心にはかる斗で、どうでもいはるゝものじゃ。
 又仏法でも天文の事が伝はらねば蘭説に随って解くけれども、蘭説の天文では立に天をまはす事故天上に極楽なく、地中に地獄がない事じゃ。是をば弁へず、この天文の説を用へながら地獄じゃといふて説示し、三十三天など云て、尤らしく法文するはおかしい事じゃ。
 
 まさに天保頃の人々の感覚を代弁していると見ていいだろう。

前田利保 寛政十二年に八代目藩主前田利謙の次男として江戸に生まれた。母は利謙正室の侍女で江戸町屋の娘である。文化八年閏三月五日に九代目利幹の養子となって、文政元年九月に富山へ入る。天保六年十一月十五日藩主に就任した。領民救済に腐心し、財政危機と藩内対立に苦悩しつつ、安政六年八月十八日に富山で没。六十三歳であった。赭鞭会 医薬神の神農が赤い鞭(赭鞭)で草を叩いて汁を舐め効き目を調べた、という故事にちなんで命名した。 
曾盤(宝暦八年〜天保五年二月二十日 字士放、煥郷、号庸山、昌遒、占春、永山、永年) 父は庄内藩侍医の曾昌啓、祖は福建省の出で、長崎に代々住み、医者・通事を務める。江戸に生まれ、多紀藍渓に医を、田村藍水に本草を学ぶ。寛政四年薩摩藩江戸邸で侍医となった。子息の愿も薩摩藩医で本草を能くする。
天経惑門 著者は明の遊子六で、清初(1675年)に出版。地円説など西洋の天文学を基に書かれ、須弥山説をとる当時の仏教界に衝撃を与えたという。渋川春海が改暦の参考に用いる。
三十三天 六欲天の一つで、須弥山の頂上にある天。中央に帝釈天、頂きの四方に各八天人がいる。もとはヴェーダ神に由来する。

明治維新直前の洋学 それが攘夷の嵐が吹き荒れる頃になると、蘭学・洋学に対する捉え方が変化してくる。国学が全国的に普及する一方、洋学研究が当然になり、それは医学の分野に止まらず、軍事研究を通じて流入してきた。慶応頃に洋服は外国人だけのものではなくなり、横浜等の開港地からじわじわと人々の生活に取り入れられてくる。幕府海陸軍ではイギリス軍やフランス軍のユニフォームを真似た軍服が作られ、将校の中には髷を落としたものもいた。加賀藩と富山藩にも洋服は軍服の形を借りて入っている。
 もちろん人々には新しい物好きの面はあったに相違ないが、南蛮貿易の頃とは異なって、寺子屋や私塾による教育が一般に普及した結果、識字率が高かったこと、国学や儒学等の哲学思想の訓練が伝統・歴史感覚を涵養したことにより、徒な西洋礼賛にはつながらなかった。西洋の文物の流入がキリスト教への改宗を伴うものではなく、この点で支配層が改宗して西洋を丸ごと受け入れ植民地になっていった諸民族とは本質的に異なるところである。
 明治の文明開化以前よりわが国には優れた文化があり、越中国にも歴史があり、文化が根付いている。したがって西洋文明をしっかり受けとめる素地と土台は出来ていたのであり、維新以降の急速な欧化に対応し得たといえるだろう。


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第五章 絵画と写真

 越中国では藩政期に蘭画や写真術が入った形跡が無く、全て明治以降のことである。しかし加賀藩として観るならば、写真術は化学研究とも相俟って深化・普及している。
絵画 加賀藩の西洋画で残っている最初は、寛政三年「阿蘭陀畫寫」六枚である。これは一六一七年にオランダの詩人Joost van den Vondelの寓話集”De Vorstelijke Warande Der Dieren"(Amsterdamの出版業者の求めで作成し、原版はBrugesの銅版彫刻家Marus Gerartsが製作。挿絵が百二十五枚あり、そのうち百十六枚が驢馬の図)にある驢馬を模写したもので、矢田四如軒が描き、山口爲範がアルファベットを写した。字形には誤りが見られるものの、日本画の趣は微塵に感じさせない出来栄えである(『石川縣史』第三編、五百頁を参照)。
 加賀藩と富山藩の絵師で蘭画(洋画)を描く人はいなかったが、泥絵を用いた真写法はあった。
 遠藤高mの多くの著書に『写法真術』六巻や『真写弁』、『鏡影発理』がある。『写法真術』(文政元年〜嘉永三年)には、文政元年に西洋の書籍を参考に考案した写法のことが載っている。これはカメラ・オブスキュラの原理で、実際に描いた絵を障子の穴から人に見せて感想を聞いているし、竹沢御殿から河北潟北面を見た絵も描いている。
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遠藤はこの写法を観積法と名付け、西洋の立積(立体図)と同法であると説明した。遠藤は加越能三州図や金沢分間絵図の作製で中心に位置し、石黒信由や西村太冲とも親しいことから、両人の影響も強かったと思われる。妻の定や母にも自画像があり、嘉永三年に三男の遠藤勘(勧)三郎は、両親の肖像画をこの手法で描いているし、ハワイやカムチャツカへ漂流した次郎吉等の絵を『時規(とけい)物語』に載せている。
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(参考) 加賀藩の洋算
 洋算が加賀藩に入るきっかけは本多利明の招聘と、短期間ながら金沢に来たことであろう。その後軍艦操練のため萩出身の戸倉伊八郎が雇われ、西洋数学を講義し、和算の瀧川友道に学んだ関口開が戸倉に触発され、外国語を独習して英米の数学書を研究している。明治二年『英人ハットン数学書』、『英人チャンバー算術書 上下』、明治三年『點竄問題集 上下』、明治四年『数学問題集 上下』など、明治十四年六月まで多数出版した(明治十七年四月十二日、四十三歳で没)。
写真術 まず大野弁吉という発明家を紹介しよう。享和元年十月に京の五条通り羽根細工師の子として生まれ、叔父で延暦寺吏人の佐々木右門の養子になり、佐々木薫(別名義時)と名乗る。中村屋弁吉とも称して、一東または鶴寿軒と号した。未確認の伝説では、蘭館出入りの従僕となり、シーボルトの身辺雑用をしていたところ、シーボルト事件が起こったため急ぎ退避しなければならず、妻が加賀国石川郡大野の中村屋の生まれであるため、天保二年に移住して稲荷町に居住した、という。蘭館職員名簿にはその名がないため事の真偽は分からない。洋算を教えながら、さまざまな発明をなしている。そのいくつかを列挙するならば、精巧な彫刻、四条派の絵画、ゼンマイ仕掛けの飛び蛙、水素ガスを入れた飛ぶ鶴、蟹の置物、等があり、ライターやピストルまで発明したそうだ(これらの中には他人の手になる者もあるかも)。著書に『一東視窮録』があり、そこにはボルタ電池の仕組みや真空ポンプの原理、エレキテル、無尽灯、自噴水、歩度計、盃台等の図面が記されている。他の書物から引き写されたものもあるが、それでもこれだけ勉強した人物はそういない。
 弁吉には写真術の心得もあり、蘭館で身に付けたそうだが、写真機を製作して、天保十五年以前に三十歳の妻うた(明治十九年没)を撮影している。水戸の徳川齊昭とも写真術を通じて交流があり、嘉永三年に齊昭が印影鏡(ダゲレオタイプ)で弁吉を撮影している。また文久二年に当時十五歳の藤井信三を撮影し、米林一光は弁吉に入門して写真術を学んで小池兵治に伝授した。本多家家臣高山一之も写真術の伝授を受け、明治三年に上堤町に写真館を開業している。銭屋五兵衛とも親しく、何かと支援を受けていたようだ。事件後には遺族を慰め、写真も残している。また福沢諭吉や大鳥圭介、渋沢栄一等とも親交があったという。壮猶館舎密方御用手伝への就任を打診されるが固辞し、福井藩からの誘いも断る。明治三年五月十九日に七十歳で没した。
 また金沢の黒岩翁が写真術を独自に習得し、廃藩直前藩主に従って上京、春木町の江戸屋敷に住み、後に本郷弓町で開業している。
藤井信三(弘化三年〜明治二十三年十一月十九日、号鏡水) 石川郡大野村出身。弁吉に学び、維新後に弁吉の親書を持って上京し、星亨を訪ねて、明治三年に開成学校に入る。横浜税関文書課長に就任し、致仕後は弁護士に転身し、更に富士製紙会社の設立に参加した。弁吉撮影の写真は曾孫の伸三がニエプス百年展に出品した際、郵送途中に紛失したという。
米林八十八(文化十年〜明治二十二年、別に一光) 京より弁吉家の番頭を務め、共に移住する。天保六年まで弁吉の下で修業し、嘉永頃に七尾等で奇物営業をし、文久頃藩御用器械師となる。維新後に硝子店を開いた。門下には大聖寺藩舎密方の小池兵治があり、明治九年仲町に開業する。
高山一之 本多周防守家来で二人扶持・銀八十目であったが、文久三年に銀百二十目に加増される。弁吉に学び、明治二年巽御殿で藩主前田慶寧と養嗣子利嗣の写真を撮影したという。 
舎密局と写真局 壮猶館内にあった舎密局は、慶応三年春に卯辰山で養生所が創設されたことから、子来坂の側へ移された。主な仕事は化学実験をして諸薬品を精製することで、硫酸・硝酸・塩酸の他に、舎利別(bitter saltか)・丁幾(caryophilliか)・越幾斯(spiritか)や蒸留水・膏薬類も作っている。責任者は既に記した高峰精一(蚕の蛹から硝酸カリを取り出すドントル、パーカッションカップに成功する)で、係員には丘村隆桑や遠藤虎次郎、旗文次郎等がいる。この内丘村隆桑は、本名が丘村隆介といい、平村の嶋村で生まれた。流刑人(桑原君平か)に学び、勧められて金沢や長崎に留学する。その後に帰郷し、文久二年十一月十五日壮猶館舎密方御用手伝に就任し、化学実験に明け暮れる日々を過ごした。廃藩後には『養蚕弁論』を著し、石川県へ産業振興の建白書を提出している。
 写真局は慶応三年に舎密局の横、玉免ケ丘に設立され、明治四年まで存続している。割場附足軽の吉田好之助は明治三年二月に修業より戻って、写真係御用に就任した。廃藩後は金沢の観音町に撮影所を設け、富山で写真館を始めた赤尾清長とも親交を持っている。
遠藤虎次郎 吉田好二に写真術を学び、明治五年頃金沢の殿町で写真館を開いた。 
旗文次郎 維新後は金沢の博労町で薬品店を開業し、写真材料も扱った。 
吉田好之助(別名藤原芳貞、通称好二) 二十俵を受け、村沢家から吉田千右衛門の養子。慶応四年に御軍艦方留書を命ぜられるが病気を理由に辞退する。明治二年五月藩から他国修業を命ぜられ、写真術を学んだ。鈴木真一の孫弟子にあたる。 
(参考)ガラス製造
 中新川郡出身の村山源次郎は横浜でガラス製造技術を習得し、帰郷後に富山中町で開業している。
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第四章 洋書の翻訳と兵学の流入

壮猶館 加賀藩では洋書の翻訳に力を注ぎ、その中心となったのは大橋作之進成之である。西村太冲に天文学、本多利明に航海術や海外の知識を学び、文政四年六月十四日に高岡町奉行に就任して、町人教育の振興を図るため、有力町人に働きかけ敬業堂という学校を建設する等、実績をあげた。天保九年七月十八日組外番頭に就任し、三社の自宅を改造して西洋砲術を研究する。そこで藩は嘉永六年八月作之進に西洋流砲術稽古方棟取を命じ、金沢上柿木畠の弓術練習場を廃した上で拡張して火術方役所の所管に入れた。翌年一月に新築を開始し、八月竣成をみて壮猶館と名付けた。
 主宰には、安政元年大橋作之進・前田主馬・岡田與一・横山内蔵助・中村蔀、同二年成瀬主税、岡田條之佐・芝山平右衛門・堀半左衛門、同三年三浦八郎右衛門・小幡和平・武田喜左衛門・姉崎石之助が就任し、藩士はここで最新の砲術を学んだ。蘭学には鹿田文平・安達幸之助(後に英学へ移る)、英学には三宅復一・岡田秀之助があたり、更に幕臣秋山安房家臣で蘭兵学者の佐野鼎(万延の遣米使節団に参加)を稽古方惣棟取に招いた。教員は五・六人で、学費は無料であったが、私費寄宿生も五・六十人いた。学生の総数は不明であるが、安達幸之助が教員の時に最隆盛であったそうである。学科には砲術・馬術・喇叭・合図・洋学(文久二年設置)・蘭方医学(文久二年六月会読開始、明倫堂から蘭方医試験を移管)・洋算(明治元年設置)・航海・測量学等があった。
 更に藩は慶応元年七月に諸士子弟約五十人を洋学修業のため長崎へ派遣することを企図し、実際には十五人程度が赴いた。その中には後の高峰譲吉(十歳)もいる。能登七尾から啓明丸で出立し、玄界灘で暗礁に乗り上げ紀州藩船に救助され、船の修理等で結局四十日かけて着いたという。
壮猶館の会読割 安政元年十一月左之通り会読割
 三、八朝 五ツ半時ヨリ 砲術發揮火機篇
 三、八夕 九ツ時ヨリ 舶砲新論 
 五、十朝 五ツ半時ヨリ九ツ時ヨリ但十五日并大ノ月晦日除之 練卒訓語
 五、十夕 九ツ時ヨリ 熕砲用法 
 右當廿八日ヨリ始リ候
軍艦所 壮猶館の下に航海学を学ぶ西町軍艦所と所口に設置された七尾軍艦所があり、通称梅鉢艦隊を運航する訓練を積んだ。明治四年七月廃止。
黒川良安弼字 父の玄龍が帰郷の後、良安は長崎で高島秋帆等に就き、医学・博物学・天文学・地理学・歴史学・兵学・数学(洋算か)・論理学などを学んだ。秋帆からは書「日進」の二字を贈られ、扁額に掲げている。天保十一年六月二十四歳の時に帰郷することとし、途中萩の青木周弼を訪ねた後に大坂に立ち寄るが、この地で腸チフスに罹ってしまい緒方洪庵宅に滞在することになる。八月にようやく金沢へ着き、江馬雀々翁を訪ねる。才能を惜しんだ江馬は河野久太郎や長谷川源右衛門、加藤九八郎、大橋作之進と相談し、良安を寺町に住まわせ長谷川の推薦で青山将監の手医師(六人扶持)にする。同十二年春、江戸の坪井信道に入門して塾頭になるが、これは緒方洪庵と青木周弼の推薦によるものであった。また佐渡良益を信道の養子にするよう尽力している。頭の解剖を行い、同十五年六月六歳年長の佐久間象山宅へ移って蘭学を象山に教え、替わりに象山と幕臣杉原平助から漢学を教わった。弘化二年二月父母の強い要請で帰郷し、翌年に金沢木倉町で開業する。佐久間象山は良安を信道の辞を添え、自身の松代藩へ推薦し江戸へ招こうとするが、これを知った青山将監は急ぎ加賀藩へ推薦し、七月二十九日御医者として新知八十石を給することにした。同四年御匙に就任する。
 さて加賀藩に就職した良安は天然痘予防に乗り出す。嘉永三年二月十六日明石昭斎を使者に立てて、福井藩の笠原良策より種痘を分苗してもらい、これを自ら長男の誠一郎等に試してみる。また藩主嗣子前田慶寧も幼い多慶若(安政五年四月十九日生まれ)を差出した。結果は良好で、一般への普及を進めていく。翌年河原町に移り、十一月久しぶりに城端を訪れた。
 同五年八月二十八日に干拓中の蓮湖(河北潟)で魚が浮かび、作業を進めていた銭屋五兵衛が逮捕される事件が起きる。そこで良安は黒川元良(名は哲、二十人扶持)、津田淳三、明石昭斎と小舟で漕ぎ出し湖水腐敗の原因を洋書と突き合わせつつ検討し、水底の撹拌や下流を広く深くして新しく河口を開き海に通じるようにすべきことを提案する。
 軍事にも関心を持ち、同六年九月参勤の御供で江戸へ行った折りには、十一月平尾邸内での大砲鋳造に参画する。また韮山代官江川太郎左衛門から砲術や大筒鋳造法について学び、翌年四月に帰郷して八月壮猶館の翻訳方御用に就任した。
 評判が伝わったのか、幕府からの要請を拒めず、安政四年に一時的だが二十人扶持・金十五両で蕃書調所教授手伝へ出向し、杉田成卿や村田蔵六(後の大村益次郎)、箕作阮甫、川本幸民等と共に翻訳を担当している。
 しかし十二月には藩に復し五十石の加増を受け、文久三年に帰郷して軍艦御用を兼務することになった。この時期藩は七尾に軍港や造船所(川崎造船所の前身)の建設を企図し、二百五十トンのイギリス製汽船發機丸を購入した。良安はその仕様書を翻訳している。また医者としても活動を継続し、壮猶館では蘭医書の会読を担当する。元治元年藩主嗣子前田慶寧に従い上洛し、佐久間象山と旧交を温めている。象山は幕命で上京していて、西洋風馬具を付け加賀藩屯所建仁寺に訪ねてきたのである。蛤御門の変が勃発する直前であった。象山遭難はこのすぐ後のことである。慶応元年金沢種痘所頭取に就任し、同三年養生所詰となる。翌年には藩命で製造人体解組(人体解剖模型)の使用法を研究するため、かつて父がそうしたように嫡子誠一郎と長崎へ赴いた。誠一郎はそのままフランスへ留学(明治七年普仏戦争勃発で帰国、その後駐イタリア公使や行政裁判所評定官等を歴任)する。 
 良安は明治二年に帰郷し、翌年医学館主任教師・文学二等教師として、それまでの静淵の号に加え藩知事前田慶寧より自然の号を賜っている。しかし翌四年に廃藩が決まり、八月致仕して公職から退いた。晩年は十八年に東京へ上り、二十三年九月八日七十四歳で没した。 
 また新川郡泊の稲坂家へ養子にいった弟安仙の子譲斎も良安に学び、慶応元年八月に英仏学を志海防主付の許可を得て横浜へ赴いている。
青木周弼 坪井信道に学び、長崎で種痘術を修めた後、朝廷侍医となる。弟の研造(蔵)も信道に学んだ。
長谷川源右衛門猷 百五十石扶持藩士。父は百石扶持の儒者で明倫堂都講準左衛門。書物奉行や南土蔵奉行等を務め、救世策を講じて国防を説いた。本多利明にも師事し、航海術を学ぶ。地理学にも通じ、居室の天井に地球儀を吊していたといわれる。嘉永二年没。
青山与三知次(将監、号碧鮮堂、洪水軒、清陰亭、淇水) 父は隼人、祖父勇次の跡を継ぐ。七千六百五十石を取り、文政六年に家老職、同九年近習御用を兼任する。安政二年に没。斎藤三九郎を招いて大砲を製造した。
加藤九八郎 小原平左衛門の子息時雍で、人持組菊地大学の家臣。同家臣加藤九太夫の養子に入る。柴野美啓に和算、西村太冲に天文暦学を学び、符天暦を校正した。壮猶館に勤務し、製薬・測量・鋳造を担当する。門弟に宮北敬典等がいる。安政六年没。
河野久太郎通義(寛政四年〜嘉永四年、号淡水) 長家の下で百八十石を受ける。文武に秀で、石黒信由に和算を学び、本多利明からは天文や測量学等を書状で学ぶ。近江国の鉄砲鍛冶国友藤兵衛や幕府天文方の足立信頭とも交流があった。高島流砲術を学び、免許皆伝となる。また江戸から翻訳兵書を入手した。二十九歳の時に父と酒二升を携えて西村太冲のもとを訪れている。金沢分間絵図や時法改革、文政八年の彗星観測に参加し、黒川良安が指導する書物研究会でも学んでいる。 
明石恬(字玄憺、号昭斎) 明石随説の四男。江戸で坪井信道に学び、良安にも就く。長家に仕え、藩命で『鋳造大ス奇法』等を訳した。安政六年に四十九歳で没。
津田淳三(文政七年〜明治十二年十月) 藩老横山家家臣長屋権作の子息で、天保十年藩医津田家へ養子に入る。十六歳の時に京で儒学を学び、後に大坂で緒方洪庵に就く。適塾の塾頭も務め、帰郷後は藩侍医に任じられた。黒川良安にも学び、妹婿になった。慶応三年金沢卯辰山養生所後に金沢医学館教授に就任する。 
西洋兵学
 @幕末の西洋兵学 文化以降にわが国の沿岸に異国船が出没するようになり、アヘン戦争の情報が伝わると、国内で海防論議がたけなわとなる。それ故に幕府は天保十二年天文方にオランダの兵書を翻訳するよう命じ、同十四年には宇田川榕庵等により『海上砲術全書』が編纂された。こういった雰囲気は民間でも同様で、弘化三年鈴木春山が『兵学小識』、同四年高野長英が『三兵答古知幾(タクチイキ)』(安政四年鈴木春山も『三兵活法』として出版)、藤井三郎(加賀藩医)が『舶砲新編』、杉田成卿が『熕礟用法』というように、次々と発刊されている。
 これまでのわが国の兵学では、戦国の合戦や朝鮮での戦闘経験を基に、遠方より鉄砲を撃ち、接近して弓を射、最後に槍で決する、という手法を善としていた。しかし西洋を相手では勝手が違う。そこで山鹿素水は『海備全策』『海備セ言』で短兵接戦を説き、藤森弘庵は『海防備論』で沿岸防衛を説いている。しかし情報不足は否めず、近代西洋兵学の本質は理解し得ていない。
 西洋の近代軍事思想が理解される契機となった本に、高野長英訳『三兵答古知幾』と鈴木春山訳『三兵活法』がある。ともにプロイセンの参謀本部将校ブラントが著したものをミュルケンがオランダ語に訳したものを原本にしている。本書によれば三兵とは歩兵・騎兵・砲兵のことで、歩兵は散隊(散兵線)が横隊や縦隊より展開性と運動性に優れていることを指摘し、砲兵の破壊力と騎兵の運動性を生かしつつ、歩兵が最終的に勝利の鍵を握っていることを強調する。こういった考え方は、ナポレオンの採った戦法を分析して得たものであり、ジョミニやクラウゼヴィッツにより展開されていた。なおナポレオンは文政九年天文方高橋景保がカピタンの話を聞き『丙戌異聞』の中で言及し、天保八年に小関三英が伝記『那波列翁伝』を訳して紹介している。幕臣福地源一郎(桜痴)にも慶応三年に訳した三十七則の『那破倫兵法』がある。ここには攻勢防御や決勝点での兵力集中等が載せられている。すでにこの時期には幕府軍が再編成され、フランス教師により訓練されていた。また神奈川奉行所や日田の西国郡代所等ではイギリス式の調練が行われ、諸藩にもオランダ・イギリス・フランスといった国々の兵制が浸透している。
宇田川榕(寛政十年三月九日〜弘化三年六月二十二日、号榕庵、榕菴) 美濃国大垣藩医江沢養樹の長男で江戸に生まれる。文化八年に父の師で津山藩医宇田川玄真の養子になる。同十一年馬場佐十郎からオランダ語の基礎を学び、同十三年吉雄俊蔵(常三)に半年間オランダ語文法を学んだ。翌年に津山藩医となり、『ショメール日用百科事典』を読んで植物学の造詣も深めた。文政九年に幕府の蕃書和解御用として翻訳事業に参画する。天保四年にはリンネの植物分類学を紹介している。同八年ラヴォアジェ化学の体系を紹介し、元素の概念を詳述する。また温泉水の定性分析等化学や電気の実験に明け暮れた。更に西洋の音律や楽譜の研究もしている。
藤井三郎質(文政二年〜嘉永元年八月二十八日、号泉梁) 父は伊勢国庵芸郡野田村の医者藤井周朔長男俊(安永七年四月二十八日〜弘化二年八月八日、字士徳、号方亭)で、兄は宇田川家門人で金沢にて蘭書翻訳に功のあった藤井方亭俊。宇田川家に学んで、文化六年江戸で加賀藩医に就任する。三郎も藩医を継承し、天保十一年に幕府天文台へ出役した。渋川敬直の『英文鑑』を改訂したともいわれ(疑問視する向きもある)、カルテンの著書を『舶砲新編』十一巻として翻訳・出版した。
A加賀藩の兵書翻訳 それでは加賀藩における翻訳事業はどうであったかを見ていこう。兵書翻訳は黒川良安を中心に壮猶館で行われており、良安の娘婿津田淳三は軍器取調係に任じられ、クリミア戦争のセバストポル戦記を訳し、明石昭斎は歩兵操典を訳している。浅津富之助(天保九年〜明治四十二年)は江戸で近代砲術を研究する下曾根信敦に入門し、村田蔵六や高島秋帆からも教えを受けた。壮猶館では英学も教授しながら赤松小三郎と分担して『重訂英国歩兵練法』を訳す。更に軍艦李百里(李白里)の修理に当たり長崎から上海へ赴き、そこからイギリスへ渡っている。また長連恭の手医師明石格庵は幼時に英学を江戸で学んでいて、慶応三年には幕府の海軍伝習所で通訳をしています。
 壮猶館では翻訳書を用いて句読や会読、講義の聴講を行っていた。ちなみに文久二年七尾に設立した軍艦所には毎日三百人が出館し、その内費用自弁の寄宿生が五・六十人いた。
 現在金沢市立図書館に所蔵されている兵書を次に挙げておく。
 「太鼓打方譜」(写二〇丁、十八cm×十七cm)
 「開ケ」「止レ」「進軍」「打方」「打方止」「カケ足」「常足」「集合」「退軍」等での太鼓の打ち方を図示したもの。
 「調練作法次第帳」(安政五年写、十丁、二十四cm)
 「調練之次第」(文久三年写、十七丁)
 「壮猶館歩兵稽古法」(木版刷)
 文久三年に壮猶館が刊行した六冊揃のうち二冊、即ち「小隊の部2」(五十四丁)と「大隊部下」(五十七丁)が現存する。
 また新湊の石黒信由ゆかり高樹文庫に所蔵されている兵書も挙げておく。
 「三兵答古知幾 存巻十一」の写本
 「舶砲新編 存目録巻一、三上・下巻、巻九上巻、巻十上巻」蘭、伊炎葛爾ソ著、藤井三郎訳の写本
 また大橋作之進は河野久太郎や加藤九八郎と共に翻訳書を講究し、藩命で小川家の群吾郎・権之助・兵左衛門も参加している。
下曾根金三郎信敦(文化三〜明治七年六月五日、号威遠、桂園) 長崎や江戸で町奉行を務め、ロシア使節プチャーチンを応接した筒井政憲の次男で、養子に出る。天保十二年幕命で江川太郎左衛門と共に高島秋帆に学ぶ。芝赤羽橋で兵学を教授し、家塾を膺懲館と称し翻訳も行い、号令の和訳に努めた。嘉永六年にペリー艦隊が再渡来した折には銃隊を率い警護に当たった。安政三年講武所砲術師範となり、文久二年に甲斐守に昇って一橋慶喜の上坂に随行する。同三年六月歩兵奉行を兼任し、慶応二年陸軍所修業人教授方頭取になる。著書に『経済弁』『歩操軌範』等がある。趣味が菓子づくりで、甘納豆の創製者ともいう。 
 坂本保富『幕末洋学教育史研究〜土佐藩「徳弘家資料」による実態分析』(平成 16年、高知市民図書館)を参照。
嵯峨寿安(天保十一年〜明治三十一年十二月十五日、号萩浦) 京で医学を学んだ東岩瀬の嵯峨健寿の次男に生まれ、金沢で黒川良安に学び、江戸で村田蔵六に医学と洋兵学を学ぶ。帰郷後に壮猶館で翻訳に従事し、辞して蒲生君平の著書を読む。函館のロシア領事館でギリシア正教司祭と意気投合して両国語の交換教授をした後帰郷する。明治二年ロシア留学の藩命が下り、三年五月函館でロシア艦に乗りシベリアを横断する。四年四月ペテルスブルクに到着し、廃藩後も止まって、十月に岩倉使節団の参議木戸孝允を案内する。七月春に帰国し、開拓使御用掛に就任するが、九年に辞して東岩瀬で医院を開く。二十年になってようやく上京し、文部省でロシア語辞書の編纂事業や参謀本部で翻訳の業務にあたる。三十年には広島の第五師団で開かれたロシア語研究会に招かれている。
B加賀藩の西洋式兵備 加賀藩と富山藩は士卒の調練を西洋式に切り替えていく。その担い手は、加賀藩においては壮猶館、富山藩においては廣徳館であった。
 異国船が近海に出没するようになる文化以降、加賀藩では海防の準備を急がねばならない。しかし長年太平が続いたため、藩には満足な銃砲・火薬の備えがない。そこで藩主前田齊泰を中心に、財政危機の最中にありながら、防衛力の強化に乗り出す。
 天保七年藩老奥村丹後守栄美は、上申書で蘭学の「武備」に関わる書物から「蛮夷之戦法」の状況を学ぶことの重要性を説き、また同年六月には火矢方小川群吾郎から沿岸防備の貧弱さが報告され、更に同十年十二月海防手当方足軽井上源兵衛から、西洋砲との実力差を指摘した報告書が上がってくる。この頃清国とイギリスの間で戦端が開かれており(アヘン戦争)、この情報が伝わると幕府は諸藩へ沿岸防備を督す。弘化二年五月と六月に大小将横目より軍装改新の上申があり、能登中居村鋳物師北村重兵衛は一貫目玉大筒を製し、十月に城内で公表します。青山将監知次は、氷見仏生寺村斎藤三九郎を配下に加えて臼砲(モルチール)を製造し、七月末石川郡打木浜で試射に成功した。更に藩老長大隅守連弘の配下である河野久太郎は弘化四年七月に打木浜で試射に成功、火矢方小川群吾郎や小川七郎左衛門は、江戸から職人を連れ金沢に逗留中の下曾根門人である松下健作正綱(浜松藩士松下壽水の子息)指導下に臼砲や榴弾砲(ホーヰッスル)・野戦砲(カノン)等を製造し、同年九月に能美郡湊浦で試射に成功する。
 河野久太郎 モルチール 十二貫目玉筒 筒重六十八貫目 鉄丸重五貫三百目 台重七十貫目
 ホーヰッスル 六貫目玉筒 筒重百三十五貫目 鉄丸重二貫二百目 車台重二百貫目
 カノン 百五十貫目玉筒 筒重二十六貫五百目 鉄丸重九十八匁 台重三十一貫五百目 但シ、モルチールトホーイッスルノ台車ト金具ハ不十分。 
 小川家 モルチール 十二貫目玉筒 口径六寸六分 二挺 
 ホーヰッスル 六貫目玉筒 口径五寸二分 一挺 
 ハンドモルチール 三貫目玉筒 口径四寸 二挺
 松下健作には九月二十四日に藩から金三十両、下職一人にも三歩が支払われた。
斎藤三九郎(文化九年二月十六日〜明治九年六月十二日) 氷見仏生寺村斉藤家の三男で、兄の弥九郎(篤信斎)を頼り、練兵館で修練する。新左衛門則道とも名乗った。天保十二年八月一日水戸弘道館の落成式に出場し、神道無念流を披露している。高島流砲術も学び、天保十二年五月の徳丸ケ原での演習に兄と共に参加する。水戸藩の実弾演習にも加わった。帰郷してからは長谷川猷の推薦で青山知次に仕え、弘化三年臼砲鋳造が命ぜられる。翌年に長崎に留学した。嘉永四年五月藩老横山遠江守隆章に仕え六十石大砲方となる。安政元年十月から翌年六月江戸で下曾根金三郎に砲術を学び、同三年六月から壮猶館高島流砲術師範を務め、同五年十一月から慶応元年四月京で御門守備にあたる。

 嘉永六年には黒川良安に砲術・大筒等鋳造方研究のため江川家へ入門することが命ぜられ、大筒鋳造方が仰せ付けられる。また大橋作之進も同四年鉄製砲の製作に成功した。中居鋳物師の村山四郎兵衛は同六年に江戸で砲二十門、文久元年に壮猶館御用で鈴見鋳造所にて二十九栂(ドイム、一ドイム=一センチ)砲一門と砲架を製して、以後も砲丸の鋳造に従事する。金沢鋳物師武村彌吉貞敬も火矢方隠密方として文久頃に三十四封加農砲以下数十門を製し、鈴見村鋳造所で大砲数十門を製している。
 高岡町金屋に集住する鋳物師達も、西洋式砲の製造を模索する。弘化三年に藤田勘右衛門が越前国敦賀の鋳物師河瀬甚右衛門から依頼を受け、武生の月光寺の総高一丈八尺五寸の阿弥陀如来像(武生大仏)を鋳造するが、その縁で同末年から元治元年まで丹後国宮津藩の大筒鋳造を請け負うことになる。この時の四分の一設計図が高岡市立中央図書館に所蔵されていて、これには「陸用青銅製五メ戔弾當熕ホ五本ドウ」とあり、口径五寸・全長壱丈三尺・重量七百六拾九メ目である。喜多萬右衛門等も、嘉永の頃に火術方の大橋作之進や家中の本多周防守、横山内蔵助等から野戦筒と砲丸の注文を受けている。他にも大筒図が残っていることから、当時高岡の鋳物師達は総出で大砲と砲丸を作っていたことが分かる。
 火薬製造に関しても壮猶館を中心に硝石作りが進められ、また領内の各十村には資源探査を指示する。これと併行して藩の組織変更も行われ、まず足軽の銃卒化を断行した。安政三年一月二十八日足軽弓組を廃して豊島流やがて酒井流で銃卒を編成する。元治元年七月以降には更に徹底させ、諸士にも大筒稽古を義務付ける。文久二年九月二十七日には藩主より西洋兵器採用が告示された。しかし一方で急激な西洋化に危惧を覚えた前田齊泰は文久三年十二月奥村伊予守栄通(本家で支家から養子へ行く)の提案を受け、「西洋流偏信之者」へ厳重注意をする。これに反発した本多播磨守政均や長大隅守連恭、奥村内膳直温(甥・支家)は海防方主付を辞職する意向を表明した。齊泰は翌元治元年二月に本多播磨守を罷免し、長大隅守を説得するが固辞され、結局三月六日藩主が退き、嗣子慶寧が名代となって、長は留任した(奥村内膳は五月七日三十四歳で没)。最早誰にも流れは止められない。慶応三年正式に慶寧が襲封し、藩組織の改編が徳川慶喜による幕政の大改革に倣って猛烈な勢いで進められた。慶応四年四月十日には在京藩士の惣髪・摘髪を許している。
 九月一日 小松城武具奉行職を廃止する。
 十月四日 輪島・正院・所口の馬廻組を廃止する。
 二十日 定番附同心を廃止し、組附与力を明組与力に加える。
 二十八日 馬廻組を銃隊馬廻組とし、先手物頭を廃止する。銃隊物頭、炮隊物頭を置く。射手を廃し、銃隊馬廻に加える。     
 三十日 定番馬廻組と組外組を全て銃隊馬廻組に編入する。
 十一月八日 足軽子弟千余人を銃手・鼓手に編入する。
 十日 在職中にのみ頭役へ百五十石を給す。
 十二日 諸有司・老病幼弱を寄合馬廻組とする。
 十三日 奏者番に城中交番宿直を命ずる。
 十九日 銃隊幹部の職俸を制定する。
 二十三日 諸士の普請役銀を廃し、兵賦を出させる。普請奉行職を廃止する。
      
 慶応二年六月に与力・徒士で大炮隊を編成し、七月一日には和式銃の異風組廃止を強行した。八月イギリス製エンフィールド銃等の施條銃を導入、同三年十月大小将組・定番馬廻組・組外組を統合し銃隊に編入する。またオランダ式練兵を採り入れ、明治元年イギリス式、三年三月には新政府の諸藩軍制統一の方針によりフランス式に変更した。元年八月士卒陪臣に西洋流大小銃砲を学ばせ、十二月平士以上の鉄砲稽古を義務化している。そのため館内の射場を改築し、標的まで五十間(一間=一.八一m)の距離を取り、一度に銃隊七卒が稽古出来るようにしている。
 沿岸には御台場を建設し、越中国では加賀藩領の生地・伏木・放生津、富山藩領の四方に設営される。その内伏木の御台場は嘉永四年二月に竣工し、五門の備砲は七月十七日に藩御細工人河村政右衛門等二人の手で串岡に新設した火矢蔵に運ばれた。金沢から今石動まで運んで船積みし、高岡の木町で積みかえたのだそうである。ただ内訳には目方百六十貫目余の六貫目筒が四挺・目方三十貫目余の一貫目筒が一挺・目方七十五貫目余の火薬入長持三棹とあり、どうも和筒のようだ。これらは非常時に御台場にまで運んで据え付けることとなっていたが、安政六年四月にロシア艦が湊内に侵入した際には用いられてはいない。慶応三年に幕府の外国奉行菊地伊予守一行が視察にきたときにはすでに撤去されている。生地には嘉永四年九月に築造され、万延元年に宮腰浦から備砲が送られてくる。この時にはこれらを入れておく倉庫がなかったため、とりあえず今年のみ村の撫育米蔵に置くことにしたが、村人から籾を入れられないので来年は別に倉庫を作って移動してほしいこと、また火薬があるので人家から離してほしいこと、の申し入れがあった。そこで翌文久元年にちょうど御台場から百八間離れた龍泉寺浦海岸近くに吉田村と芦崎村が土地争いをしていた場所があったため、ここに三間四方の半二階の土蔵を作っている。砲は臼砲(モルチール)で、六寸六分のものと空丸三十、四寸のものと空丸三十、同じく四寸のものと実丸三十、という内訳で、五門を据えることが出来たにもかかわらず、確認できるのは三門だけで、擬砲を据えたのかもしれない。なお平成七年十二月に黒部市文化財保護審議委員会の建議で復元設置されている。この時に参照された史料は金沢市立図書館所蔵の「兵学に関する図説集」(河野文庫)と「越中生地台場之図」である。外国奉行堀織部正一行は安政二年の正月に巡察し、その後元治元年十月に修築されている。放生津には大筒の搬入はなく、四方に関しては史料がない。なお、氷見沿岸には御台場設営の盛り土をした形跡は絵図から分かるのだが、それまでであったようだ。
 郷土防衛組織として、文久三年に農民・町人からなる銃卒が編成され、これを小隊・中隊・大隊に編制し、イギリス製エンフィールド銃を使った調練が行われた。越中国では今石動・杉木・小杉・高岡・伏木・放生津・氷見・東岩瀬・魚津・生地・泊に置かれ、また地方には出張所を設けている。
 艦船も文久二年イギリス製の蒸気船を横浜で買い上げ、發機丸と名付けました(長さ二十七間・幅四間・七十五馬力・二百五十噸・鋼鉄・檣二本・烟出一本)。その後上海で機関を取り替え、錫懐丸と改称する。この船は翌年五月の瑞龍院二百五十回忌法要に前田齊泰・慶寧父子を乗せて高岡に来て、伏木で観覧を許している。
杉木での調練
・慶応元年の稽古定日
毎月三々 足並・調練  七々 角打  三々・九々 太鼓稽古
 朝六ツ時から九ツ半時
・同三年
毎月三日、十七日 銃卒 三日、九日 太鼓 四日、八日 町立役人
・同四年六月
稽古定日 五、九
 引き続き二日宛日料無しで稽古したい者には許可する。
調練 十五日
C富山藩の西洋式兵備 富山藩にあっても加賀藩支配の下、兵制の改編に力を入れ、藩校廣徳館では慶応元年武を奨励し、砲戦の訓練が相当行われていたことがわかる。
 大筒稽古も弘化以降に川原で盛んに行われ、『町吟味所御触留』によれば、
 弘化四年六月十六日より七日間 布瀬川原で河上兵治が実行
嘉永元年十一月十九日、二十日 塩野で渡辺真左衛門、半田甚左衛門
 同二年七月八日、九日 大久保野で河上兵治
 同五年六月十六日 牛嶋川原で弓術稽古の上覧、十八日 同所で砲術稽古の上覧
    九月十八日 同所で大筒稽古
 同七年・安政元年 五月八日、十一日、十七日 御廊中で御旗本調練
    五月二十六日より五日間 大久保野で今村音一
    六月四日より三日間 大久保野で渡辺順三郎
    閏七月十八日 布瀬川原で調練
    九月二十二日、二十三日 大久保野で渡辺順三郎
 同三年四月から七月の六々の日 布瀬川原で高島流砲術稽古、実際は九月まで実施
    十一月十六日、十七日 布瀬川原で高島流砲術稽古、実際は雨天のため十八日、十九日
 同四年六月二十七日、二十八日 調練
八月四日から六日大仙流稽古、八日から十二日酒井流稽古、十八日・十九日高島流稽古、二十一日から二十四日稲留流稽古
 同五年三月から九月 布瀬川原で高島流大筒稽古
    十月二十六日、二十七日 布瀬川原で高島流大筒稽古
 同六年三月十五日 布瀬川原で酒井流大筒稽古
 同七年・万延元年三月から九月の七々の日 牛嶋川原で高島流大筒稽古
    四月二日 布瀬川原で高島流大筒稽古
 文久元年九月二十七日 磯部川原で川原調練
 元治二年二月二十六日から二十八日 布瀬川原で不動流火炮稽古 
 記されていないもので他にもあったと思われる。これだけ多くを試験的に行い、そのうち高島秋帆の西洋砲術が多く実施されていることが見て取れる。弘化元年正月十二日韮山代官で高島秋帆門人江川太郎左衛門英龍のもとへ、江戸参勤中の富山藩士という殿岡北海が訪れて、砲弾の製法について教示を受けている(「御参府諸用留」『江川担庵全集』別巻二)。これ以後更に四日通っている程熱心だが、この名は青木北海(天明三年正月晦日〜慶応元年六月十一日、又一、復一)が文化十一年三月に家を離れ致仕した後に称したもので、この時には藩士ではない。天保九年硝子製造に成功し、砲丸を硝子で作って水戸藩邸で射撃した伝説も残っている(『越中之先賢』第三輯)。
 また宗藩に倣い文久三年十月農・町人よりなる銃卒を編成し、城下より離れた場所には出張所を置いたようである。明治四年には全部で七番隊まであり、制服を着用していた。エンフィールド銃は着剣できるので、結構西洋的であったと思われる。
 更には硝石製造に努め、四方には御台場を築き、文久元年夏に安野屋村神通川縁り宇梠上ケ場と宇尼寺跡に調練場を設置した。 
 慶応二年十二月藩兵の編成に関し新調組が組織される。同四年閏四月から五月にかけて諸規則を整備し、六月から銃剣の訓練を開始した(最初は三隊編制、維新後は二隊、二年九月一隊に絞り込まれ、十月の職制改編で発展的解消)。同三年高島流砲術の渡辺順三郎を師範役に、廣徳館西に教練所が設立される(明治二年一月十五日廃止、学校附になる)。また製薬方・弾薬方・御筒方六十一人を任じた(明治二年一月十五日器械弾薬方は御武具器械方御用附属)。藩の武器砲筒鋳造には、慶応三年時点で小杉町新町戸破村中町の川波友太郎(文政十二年〜明治三十三年)が担っている。
渡辺順三郎尚義(号停雲) 嘉永二年に異風組入りし、江戸の下曾根家で高島流砲術を学ぶ。帰郷後に砲術師範となり、半田甚左衛門と砲筒鋳造御用掛に就任する。大久保野で試打を行い、千石町に射的場を設置した。維新後には内用方議員となり、廃藩後は師範学校教師を務める。後に旅篭町に私塾を開いた。 
 松下健作は富山藩にも招かれ、田上兵助、金岡勝任、金岡勝亮や和筒不動流の半田甚左衛門・豊太夫等が教えを受けます。更に吉田有宣は宗藩の壮猶館で高島流を見学し、帰藩後に大小砲筒を鋳造した。
 富山藩兵の練兵は、基本的にオランダ式であったようで、北越出兵時の史料にはそうある。
軍楽隊の導入 このような洋式軍隊編成の一環として軍楽隊も導入されている。壮猶館の学科には喇叭や太鼓があることから、藩兵は高度な動きを整然ととることが出来たと思われるし、また銃卒稽古にも太鼓が導入され、これが人々の西洋音楽に触れた最初であろう。喇叭はイギリス式で、明治元年に元軍螺手の吉田勝太郎と小島某等が東京から伝習に来ている。
【参考】
 御家人御鉄砲同心で、馬鹿囃の得意な関口鉄之助と白石大八が、幕末に長崎でオランダ式太鼓を学んで、江戸に戻ってからは大小名・旗本の子息三百人に教授した。太鼓は真鍮胴のものが三両、ブリキ胴のものが一両一分、桶皮胴のものが三分から二分二朱したという。また皮はよく破れ、山羊皮が五十銭、他の物なら二十五銭だったそうだ。
 御鉄砲方や講武所では最初にディンストマルス(早足の時叩く)を習得し、次にヤパンマルス(囃子を加えた日本式行進曲)、コロニヤルマルス、フランスマルスときて、最後にレジントマルスへ進んだという。また関口個人で月謝百疋を取って教えた際は、ロップル(二つ叩)、五つ叩、九つ叩、「エン、テイ」の順で教え、その後これを重複させ習得させた。 
 (篠田鉱造『増補 幕末百話』万里閣書房・昭和四年、横田庄一郎『西郷隆盛 惜別譜』平成十六年・朔北社を参照)
『戊辰戦争再現絵巻』公式サイト
Yankee Doodle アルプス一万尺
posted by ettyuutoyama at 18:45| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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