2009年06月18日

註釈

●杉木郷学所の句読
 杉木郷学所の句読には、島新村島田孝之、三谷村西蓮寺三溪、古上野村幾太郎、岡御所村永勝寺幸迹(?)、西部金屋村高畠脩蔵、桜町村儀一郎、頼成村順平、神島村柴田宗兵衛、筆生には、矢木村根尾次七郎、大門村末永宗七郎、太郎丸小野左吉郎、安川村坂井好之亟、算術には、頼成村弥兵衛、神島村宗兵衛、長田彦三郎、光明寺村義左衛門があたった。
●砺波の俳・歌人
 藩政後期には、河村田守と門下の清水有道や加藤知足など、五島雅名・雅直・柳之舎、小幡蓼牙・為積と門下の中村遅平、女流では高畠家の御旅屋内室、河村富治子、為積の妻小幡歌子などを輩出した。
●太田俳壇 
 太田地区からは俳人を多く輩出している。唐金屋安念家からは四代目安兵衛(号志鈎)、五代目清左衛門(号南水)と妻もん女(実家は金子家)、六代目安兵衛(号雪江)が俳諧で知られ、特に雪江(天明六年〜嘉永五年二月十一日)は住居を桃李窟と名付け、太田俳句の基礎を作った。弘化頃に『其梅集』を刊行する。弟は金子家へ入って十七代目宗右衛門(号露仙)を養育し、従兄弟は川原屋安念次郎左衛門(号迎貨)である。他には入道家の忠兵衛(号二王堂)と長男の忠美(号二水)や、漢詩も能くした上田家の市郎兵衛(号乙宇)等がいる。天保十五年には千光寺観音堂に句額が奉納された。 
●石崎謙(天保十四年〜明治三十六年)
 林村小島生まれ。金沢で漢籍や医術を学んだ後に京で儒学を神山鳳陽、医術を村田順蔵に入門する。文久二年六月射水郡海老江浦に開院するが、明治元年に加賀藩から招聘され、家塾も開いた。廃藩後も引き続き石川県に勤め、学制頒布の際には自宅を小学校の校舎に提供する。明治十一年に司法省の民法編集委員になり、更に元老院議長に富山分県の建白書を提出する。十六年に辞し『加賀藩史稿』を編纂しながら前田家の侍講を務め、三十四年に帰郷し漢学を教え、三十六年一月三日に没する。三十九年碑が小島に建てられた。なお、石崎氏の祖は美濃国土岐氏である。 
●野沢俊冏(嘉永六年〜昭和八年)
 新屋敷出身で、文久二年に仏門に帰依し独学で研学に励む。明治二十年開塾し、その後に上京して泰寿院・浄土院・慈眼院・浄土宗光雲寺住職、伝通院貫主に就任し紫衣緋衣を賜る。後増上寺重役。東京浄土宗学本校、芝中学校(現大正大学)、淑徳女学校を創立した。郷里の林村へ書籍を寄贈し、千三百円の寄付をする。 
●文化人の多い上野屋 
 本家六兵ヱは伯芝の俳号をもった趣味人、分家七之丞の養子になる子の山田彦一(天保元年三月〜明治三十一年七月)も俳号麦里、聴水園墨痴とも号し、画も能くした。家業は酒屋で、福野町長に選ばれる。
●滝田俊吾(明治二十九年〜昭和二十年)
 河辺純三の子息で正三と四郎の弟。従兄で小矢部津沢蓑輪の滝田孝弟(明治十二年〜昭和三十二年、村長、県議会議員、県立礪波高等女学校創設者)の養子に入る。軍医大佐で陸軍病院長を歴任した。なお孝弟の弟吉郎(明治十四年〜昭和三十五年)は日本海海戦で巡洋艦日進の砲術長、第一次世界大戦では地中海に駆逐艦艦長として出動し、イギリスから勲章を受けている。
●武部家 
 寛文十三年十村に任じられる。祖は清原武則で、子孫の宣行長男宣衡は、能登武部村に配流の後に三清村へ移った。十一代目尚志(文政十二年〜明治四十四年)の長男和正は三清村村長、次男其文は弟堅の養子になり、衆議院議員に選ばれる。
●石崎和善(嘉永元年〜明治三十九年、号蘋洲、俳号歩水)
 十代目石崎市右衛門の五男で、福光村の九代目石崎善右衛門を継いだ。萬延元年加賀藩に召され兵術を学び、文久二年銃卒助教授に任じられた。慶応元年宮永菽園に漢籍を、今井保に雅楽を学び、江戸へ出た。帰郷後に実業界で活躍しつつ、福光小学校の創立に尽力する。五男猪四一(号光瑶)は竹内栖鳳門下の画家である。 
●福光書道 
 上原怡蹟(七代目上原三益) 代々医者、享保十年没 
 石崎世璋 享和二年没 
 有沢東海(尾山屋七代目) 宝暦十年城端生まれ。家業は質屋等だが高山で医を学ぶ。文化十三年没
 石崎五柳(平兵衛)海保青陵の門下、酒造業、文化十四年没
 石崎子温寛(肝煎喜兵衛) 海保青陵、中嶋棕隠門下 
 清水一教 嘉永二年没 
 石崎石鼎(清吉)酒造業 明治七年教員、十二年八月没
 松村精一郎知幾(西荘) 明治二十四年没 等
●中守衛筆塚(野上水月寺) 
 本名は赤田善右衛門で、享和三年金沢で生まれる。父の儀左衛門と共に前田弾香家臣であったが、嘉永二年致仕し、安政四年善徳寺の書役として約二十年勤めた。 
 筆塚は明治十五年六月門人により建てられている。ただし寺子屋師匠であるとの確証がなく、本文には含めていない。
●加賀騒動 
 大槻伝蔵朝元(元禄十六年一月一日〜寛延元年九月十二日、後内蔵允) 加賀藩足軽大槻七左衛門の三男で、叔父長兵衛の婿養子に入る。享保元年に藩主世子前田吉徳の御部屋付御居間坊主を皮切りに出世を重ねる。世子が六代藩主に就任すると三千八百石人持組に進み、財政再建を取り仕切ることになった。そこで倹約策のため新格を立て、軍用金を取り崩すのだがこれが批判を浴びる。延享二年に吉徳が脚気で卒するや、看病不行届として左遷・蟄居となった。三年後の寛延元年四月に五箇山配流となり、まもなく自刃する。小鳥の丸ぐり用小刀を使っている。藩の調べで牢内に刃物・衣類・金子の差し入れが見つかり、責任は役付きの者一同にかかってくる。牢番伝兵衛は刎首験し切りになり、入牢する者も出た。利賀谷村祖山村十村野原家二代伊右衛門も七年間入牢の末宝暦四年に役を罷免され、以後野原家は二度と十村役に就けなかった。
●今石動の文化人
・深山加右衛門(字孟明、陸渾、号壷峯)漢詩人、宝永元年〜享保七年に今石動奉行篠島主馬清政の与力を勤めた後、金沢へ移住。 
・碓井次郎左衛門 文化頃漢詩人
・内山充積(字高仲、号壷谷)漢詩人 
・光願寺 十三世養宇円称(号芹山)和歌を能くし、伏木勝興寺二十三世土山沢映と歌会の交流がある。養子十四世徳称(号白南)は伊勢神宮神職の石部清直と杉井久重、京の国学者福田美楯に師事して、漢詩・和歌・俳句を学ぶ。元治元年六月七日和歌の会を催し、更に三日間で千首を詠み、愛宕神社に奉納した。石動小学校創立にも尽力した。子息十五世受称も和歌を能くした。 
・桂井順平 文政四年八月に生まれ、和歌を祖父久成と養宇徳称、華道を伯父久道に学ぶ。点茶にも通じていた。明治二十九年十一月乗光寺に歌碑が建てられる。五男健之助(号未翁)は俳人。 
・牧田一芳 今石動の野島屋与右衛門。天保八年六月に川原町に生まれ、金沢の大夢や雪袋に俳句を師事し宗匠となる。活花でも円盛斎海梁と号す。明治四十三年一月七十三歳で没。 
・太田信岑(号鳩石) 埴生の十村、後に戸長、村長。俳句を能くした。明治三十四年十一月没。 
・宮永以足(号笘露庵) 十左衛門の孫として下川崎に生まれる。大坂で篠崎小竹に師事し俳句を学んだ。養子に行き富樫孤平。 
・中島壮吾 宮永其園の子息、宮永良蔵の従弟で勤王の同志。中島正文は孫。
●碓井治郎左衛門顯古 
 今石動町の中島嘉平次の弟で、加賀国鶴来町碓井幸右衛門の養子になる。猪飼敬所に入門し、帰郷して家業を継ぐ。元治頃京の志士と信書を往復する。明治元年十二月十五日六十九歳で没。 
●源平合戦以前からの旧家瀬島家 
 小矢部には源平合戦以前からの旧家が現存し、鷲ケ島の瀬島家もその一つである。伝承では庄川堤に二軒あった家の一つだという。熱心な浄土真宗本願寺派の門徒で龍太郎(明治二〜昭和二十二年)は明治二十二年第三師団歩兵第七連隊に一兵卒で入隊し、日露戦争では乃木第三軍第七師団兵站監部副官・少尉にまで昇進する。帰郷後は西砺波郡書記、若林村助役、松沢村村長(大正十四年〜昭和九年)を歴任する。長男松男は市議会議員、三男龍三は陸軍中佐で関東軍参謀、シベリア抑留から帰国後は伊藤忠商事取締役等を歴任する。その岳父は二二六事件で岡田啓介首相の身代わりになった松尾傳蔵大佐である。(『瀬島龍三回想録〜幾山河』平成七年、扶桑社等を参照) 
●童子手習教訓誓詞の条(小矢部市) 
 先ず朝起きて機嫌よく手水をつかい目を覚し膳に居てよそみず菜の善し悪しき必らず小言申しまじきこと 
一、父母に時宜をいたし手習所へおもむくこと 
一、道すがら人の噂、雑談いたすべからざること 
一、戸障子あけたてあわたゞしく走り歩くこと 
一、我が席すわり行儀正しきいたすべきこと 
一、机によりかゝり筆の軸を噛み雑言いたすべからざること 
一、筆紙墨みだりに費やし白い手足衣装を墨にて穢すこと 
一、高声高笑不行儀にして身の居住をくずすこと 
一、師の掟を背き兄弟子の指図をもちいず我がのゝなること 
一、読書並びに手本の読み不心得にして片言まじりつまずくこと 
一、手本書物の読み日々復し習ひたかむべきこと 
一、相弟子のまじわり楽に言葉づかいきれいにて致し教え含むこと
一、そうじて物さわがしく喧嘩口論いたすまじきこと 
 但し、文字のたずね、謡、算術のさたはかくべつのこと 
 右の条、常に心かくべき第一、手習学問いたすべきものなり 時に文化六年巳正月 
[これには光西寺檀家むろや太右門の署名がある。同寺のものであろうか。] 
●小山家 
 福岡町土屋の素封家。祖は下野国小山小四郎朝政で、源頼朝に従う。室町時代に結城の乱に巻き込まれ土屋八日市嶋に逃れる。その後小矢部川西に移った。寛永八年三月二十一年に十一代目半兵衛が十村に任じられ、子息嘉兵衛の代まで務めた。藩政後期の素軒は高岡石堤長光寺雪象の門弟であり、学規を所蔵していた。手書きの習字手本が残されている(ただしこれが素軒自身の練習用である可能性もあり、寺子屋師匠には含めなかった)。 
●斉藤蔵摂(天保六年〜明治三十五年)
 浄永寺住職経将の次男。幼い頃より漢籍の素読を学び、兄を助けて文久元年素読を教えた。更に宗学や漢学を能登でも講じ、明治四年私塾を開いた。 
●測量用方位盤の製作 
 石黒信由が考案した軸心磁石盤の改良型でバーニア目盛(三百六十度を細分化)付きであり、全国に三台(新湊、七尾、東京)あるが、少なくとも七尾と東京のは高岡で製作されたものであり、刻印からすると七尾のは錺屋清六の作である(新湊市博物館発表)。
●高岡町の小学校 
 東之…六年八月二十日極楽寺 
 中之…同年同月二十一日聖安寺
 南之…七年二月十日御貸屋跡 
 西之…同年六月十三日宗泉寺 
 北之…同年同月十八日法光寺 
 →統合 育英…八年三月
●高岡を訪れた詩人たち 
 文政四年大窪詩仏が金沢への往復の途次に立ち寄る。 同年冬稲毛屋山が詩仏を追い掛け来訪する。天保二年夏から秋まで浦上春琴(備前の人、名選、字伯挙)が片原横町広乾寺に滞在する。
●日尾家(立野) 
 清作(文政二年五月〜明治二十二年四月、通称藤四郎、号梅圃)は十村手代、明治五年六月戸長になる。十七歳高岡で医術を学び、大聖寺藩儒坂井梅屋に儒学を学んだ後に金沢で藤田容齊に就いた。天保六年六月来訪した坂井梅屋より庭前の梅樹に因んだ号を授かった。また書は五十嵐篤好に就き、俳句は南無庵分器の添削を受け、自らも和歌や俳句を懇切に教えたという。諸本を手写し、著書もある。 
 清太郎(号温済)は謹厳を実践した人で、漢籍を金沢の藤田容齊に学び、後に大坂で藤沢南岳に就いた。更に書を巻菱湖の三体千字文で練習し、寝具の裏になぞるため裏地が破れたという。維新後に戸長、初代立野村長になった。後に貧窮児童就学奨励金二千円を寄付し基金とした。寺子屋を開いていた可能性があるものの、確証はない。
●氷見の俳人・漢詩人 
 有名な俳人には、元禄に阿尾の大沢六兵衛(号路青)、宇波の扇谷春太郎(号一扇)、海人、享保・元文に有磯庵拾貝(後に雲石坊懐龍)、源友(了然斎、江金堂)等、明和に南上町の日名田屋伊兵衛(号馬十)、文化・文政頃より新町の七尾屋小右衛門(周泰、布世丸)、湊町の紺屋伊左衛門(号六葉)、北八代の中村理助(号斗山、七窓)、中町の菓子屋安東瀬兵衛(号晴天、晴風)と同名子息(号青阜、紫東園)、中伊勢の医者北浦半次(可水)、天保頃よりに新町の松村屋神杢仁左衛門(号済美)と同名の子息(号余慶堂熈斎)、弘化頃に南上町の高辻屋清八(号月守、月守庵野乙)、安政前後より稲積屋伏脇作兵衛(号晏如、柳翠、禾汀)と養子の弥三平(号旅伯)、中村屋長沢徳八郎(号梅笠、茶屋)と子息次右衛門(号和亭、二松庵)等がいる。また嶋尾家累代も俳句をし、佐左衛門(号米露)、佐太郎後に佐左衛門(号清湘)、三郎(号湘月)、鉄(号月弓)が有名である。田中屋権右衛門は月江の号で俳句、雪嶋の号で漢詩を詠んだ。墨絵や彩色の美人画も能くし、日記『応響雑記』は一級の史料。安政六年没。
 三代北越伊左衛門(天保六年〜明治三十五年)、武内文右衛門、浅井浅右衛門の三人は有坂兵九郎に漢籍・書を学び、日名田長福寺住職籍明(通称二日様)に真宗と俳句の教えを受けた。その後床鍋村民に俳句を手解きしている。 
●広沢周斎の添削指導 
 弘化四年正月ヨリ明治十四年二月迄習字手本差出シ者男女合計五拾五名 
●廣沢小学校就学生徒心得 
 塾ニ於テ學業ヲ鍛冶セント生徒ハ教師之命令ヲ尊守シ、互ニ孫攘ヲ主トシ、苟モ争議ノ挙動アルベカラス、孜々勉強ニ学術ノ進歩セン事ヲ企望スヘシ 
 明治十年六月 
●石庭伝右衛門 
 中新村の肝煎。小杉小白石の石川一秀に嫁いだゑゐは、この家で四書五経を学んでいる。ただしこの村は天保四年家数九軒(折橋家文書)に過ぎず、寺子屋ではなく個人的な花嫁修業の一環と思われる。
●大島の文化人 
 浅井島村から北野村へ分家した十村折橋家小右衛門の孫小左衛門(後に甚助、由助、寛政三年五月四日〜安政三年七月二十七日、号雄山、清狂)は京の浦上春琴に画を学び、花鳥風月を得意とした。師が来訪の折りは自宅に招いている。 南高木津田家分家の三代目長三郎(天保十一年〜昭和三年)は二十代に隣村高木村石黒信基に算学・測量術・天文暦学を学ぶ。加賀藩による敦賀から琵琶湖までの運河掘削計画にも参画し、明治八年に伏木港の測量、二十七・八年に金沢から京都までの道路測量に携わった。子息雅之も東亜天文学会の創設に参画し、後年呉羽山に備え付ける四十二p天体望遠鏡を製作した。
●藤井右門直明(享保五年〜明和四年八月二十一日) 
 父は小杉町津幡江屋吉平(元赤穂藩江戸家老藤井又衛門宗茂)。浅野家改易後に浅野大学に従い来越し、津幡江村宅助の許に寄宿する。その後宅助縁戚の小杉町金森八三郎の世話になり、同家付近に家を構えて津幡江屋吉平と称し、大手崎の赤江屋九郎平の娘を娶った。長男吉太郎は十六歳で上京して伊藤紹述に学び、剣を染谷正勝に入門する。富山藩主前田正甫第六子利寛の猶子として地下諸大夫藤井大和守忠義の養子に入り、直明と称した。正六位下大舎人、後に養父を嗣ぎ従五位下大和守に任じられる。竹内式部と交流していたため、宝暦の大獄で郷里に避難し、右門と変名して売薬行商を装い九州まで尊王思想を広めた。明和元年甲府から江戸へ入り、山県大弐と接触するが、同四年八月二十一日に梟首となる。享年四十八歳。
●下条屋の祖 
 本家は現新湊の渡辺家。正応頃に高岡から移住する。代々安兵衛を襲名した。二十二代安兵衛は本江村から入婿し、その四男が小杉に別家、五男安之助は放生津の片口屋を興した。 
●石川家 
 祖は南朝遺臣で河内国石川村石川義純で、子息義昌が北陸に逃れて牧野村に住む。昌一が下村大白石に転じ村役人になる。二十代目三郎右衛門は元和八年郡縮役、二代から六代まで十村を務めた。四代子息芳昌は小杉小白石に別家して代々医者を務める。七代から本家も医者になり、濟美を代々名乗る。天明三年に家を妹一家に譲って小杉新町に移り、御郡役所御用医師になった。次代に一時金沢へ移るが戻って医院を開く。大白石では又次郎が文政三年新田才許に任じられて以後、孫の代まで山廻役等を務めた。維新頃小杉新町の石川家では跡を継ぐ男子がなく、廃藩後に金沢から二十二歳の玉造小右衛門子息八三郎(号乾山、岸石、嘉永五年三月十日〜大正十四年九月十四日)を婿養子とする。明倫堂に学び、二十一歳より医業の傍ら句読・漢学をも講じ、六年八月和親小学校でも教えた。正學寺に碑がある。明治二十四年七月に婦負郡長沢村数井氏の懇請で移住した。小白石の昌徹(号五柳園主碧波、丸々坊)は白石小学校を創立し、五男日出鶴丸(明治十一年〜昭和二十二年、生理学者)は大白石の戸籍を嗣いだ。
●舘成章玄龍(寛政七年〜安政六年、字君慶、号北洋)
 三箇三拾三ケ村に生まれ、舘芸陵の養子。十四歳で富山藩医大野玄格に学び、文化十一年華岡青洲の門に入る。江戸へ出るが、文政六年に養父の病で帰郷し、外科医として名が広まった。著書もある。孫が高岡上川原町木津家の哲二(明治二十二年〜昭和四十三年)で、舘家に養子として迎えられる。鳥取・石川・東京で知事を歴任し、昭和十三年内務次官、二十二年富山県知事、二十六年参議院議員となった。 
●関守橋本家 
 寛永十八年に作内が赴任し、十四俵を受ける。以降、作左衛門、又右衛門、作七郎、伴右衛門と続き、次の作内は勇猛義道居士と諡される程の人物で、十六俵に加増されている。作七郎、次も作七郎で、改心流剣術免許皆伝の腕前であった。明治二年に関所廃止が通告され、その後十三ケ村戸長や細入村初代村長に就任する。子息の恒作も第三代村長であった。また同じ関守の吉村家とは、長年縁組を通じて強い絆を有していた。
●深見(深美)六郎右衛門 
 初代は能登国門前町近く深見村の出身で、立山温泉湯元である。十代目は藤原頼雄の名で和歌や俳句を能くした。また書を京の天満宮二十六世に学び、元許中家皆伝を受ける。弘化二年九月二十五日七十三歳で没した。妻のきみも和歌を詠む。文久三年八十一歳で没した。
●上市の文化人 
 小柴伊左衛門(号松斎) 祖は飛騨国出身で前田家に仕え、山室の江口に住んだ。八右衛門が上市に移り、江口屋の屋号で薬種業を開く。俳句・茶の湯・活花・書道を能くした。明治二年に没する。
 岡部智中(嘉永六年〜昭和七年八月) 家業を顧みず和算、特に幾何図の研究に夢中となり、稗田神社に成果を奉納した。 
 堀清平(嘉永六年〜明治三十二年七月四日、号二喋) 幼時より数学を学び、長じて教育に従事して、明治二十三年四月湯神子小学校に勤務した。三十三年十一月に碑が建てられる。 山田長宣(東平、号新川、文政十年八月十七日〜明治三十八年十一月四日) 玄東の孫であり、医者の父玄隆(俳号ありそ)長男。明治二年明倫堂教授、四年に石川県美川町で書と漢籍を講じる。十一年東京に移り『日本野史』を編集する。
 黒川村医者で漢詩人でもある山田治助(玄龍)は文政二年に長崎で西洋医学を学ぶため、妻子を同道して赴いた。この子が後の黒川良安で、父子共に蘭語を吉雄権之助、医術をシーボルトに学んだ。良安は高島秋帆にも就き、父母が天保五年二月に帰郷後も学習を継続し、同十一年加賀藩青山将監に五十石で仕える。後に江戸の坪井信道に入門して塾頭、弘化三年八十石で加賀藩医になった。 
 浄瑠璃が天保末より大流行し、竹本文声(宍戸清右衛門)や竹本島太夫(初代は酒井勘助、二代は石黒留次郎)がいる。 
吉田平吉(享和四年〜明治九年)は宮川村江上で直四郎三男。祖は吉田神社の出。文化十三年浄泉寺福井充賢と上京し、写生を四条派紀広成に師事して廣均の号を貰う。後に天保十年貫名海屋と松村景文に学び、紀州家から公均の号を賜った。維新後も東京で作品を残している。生家では吉田善次が明治7年まで寺子屋を開いていたともいうが、確証がないため一覧表には記載しなかった。 
●滑川の文化人 
 上杉景勝家臣桐沢無理助尚元は慶長四年松倉に移り治右衛門と名乗る。同六年滑川に移住し、綿屋となった。二代九郎兵衛は寛永二年加賀藩御旅屋、同十九年本陣の指定を得る。五代尚庸(号蛙子、蓮蛙)は俳人で、天和三年大淀三千風が来宿した。九代尚昭(栗本居士)は和歌を能くした。 
 青山勝右衛は慶長九年妻と子の長十郎を伴い氷見阿尾村から滑川に移る。後に奥州南部右京太夫に仕官が決まり、妻子と別れた。妻は桐沢家二代九郎兵衛に嫁ぎ、長十郎は養子となるが、やがて別家し、綿屋青山九郎右衛門を称す。三代昌保(号酉干丸)は桐沢家から入り、尚庸は実弟。共に俳諧に秀でた。七代昌茂は和歌に秀で、岩城家からの養子十代九郎衛門や十一代荘蔵昌房(安永六年〜天保三年、号百爾)も俳諧で名を知られた。碑もある。 
 旅篭屋で町肝煎の河瀬屋には、元禄二年七月十三日松尾芭蕉が宿を取った。組合頭の七代彦右衛門(号知十)は連句集『早稲の道』を編集する。浦方肝煎を務めた松村屋宗右衛門(号史耕)もこれに参加している。 
 他に神職十四世且尾嘉寛や専長寺二十二世梅原義芳は和歌で、本広寺九世神保了慶(号幻来)や大伴家持の子孫と称する小林村十村宝田家三代宗兵衛(号香堂)及び売薬業鷹取嘉重郎(号合矣、書斎を一層楼)は俳句で名を残した。 
 称永寺十一世恵浄三男恵遵(徳妙)こと蜷川観月(寛政元年〜嘉永元年)は京で岸岱の門に絵画を学び、岸派にとどまらず円山派の写実や四条派の軽妙な筆致も取り入れた画を描いた。 
●寺子の遊び 
 天下落とし…机で階段を作り、拳を闘わせ、勝者は上段で天下、下段は乞食となる。
●寺子屋での試験 
 字明かし…文字の扁・作り・冠を挙げ、漢字を覚えているか試験する。
●魚津の俳人 
 宝暦頃、荒町の葉茶屋で肝煎役岸本藤右衛門(号倚彦、知済、海市舎、小貝庵)は美濃国各務支考に学び、画も描いた。天明頃、増川屋こと小幡与八郎(号泗筌)は『魚津古今記』を著した。自邸に三浦樗良が滞在している。佐渡屋こと浦方肝煎の結城勘右衛門(号侶岸)も有名。文化・文政頃には、荒町の木綿商大正寺屋又右衛門(号太翼)、大梅屋こと角川町の寺崎橘蔵(号孤山、弘風軒)、小竹屋伊十郎(徐風)等が活躍した。橘蔵の長男橘次(文化十四年〜明治二十五年六月、号靄村、木母屋)は俳句を梅室等に師事し、詩・書・薮内流茶道・華道を能くした。弟の仁右衛門(号花弟、観舎人)も俳人として名をあげ、絵画にも優れた才を見せた。草庵は梅茶園。明治四十四年十月八十歳で没した。藩政末期の魚津は俳句が教育の普及とともに大衆へ浸透し、句会が多く催されている。 
 藩政末期に金屋町三ヶ屋作兵衛(酒造業)は陽明学を研究した。末三ヶ野を開墾したものの、慶応三年に藩から地元民への売却を命ぜられ、明治ニ年のばんどり騒動(農民一揆)後に入牢・家産没収となった(玉川信明『越中ばんどり騒動』)。
●大島忠蔵維直(字無害、号贄川、居所は三古堂)
 魚津に生まれ、金沢の叔父の家へ養子に入る。二十三歳で昌平黌へ入り、寛政四年に明倫堂の助教、文政十二年都講、大小将組へと進み、天保五年七月に致仕する。同九年閏四月に七十七歳で没。
●黒部の俳人 
 天明に三日市の上嶋屋徳左衛門(号六雅)は加賀千代尼とも交流があり、肝煎の嶋屋二代目又四郎(号求呂)も俳諧で知られた。文化・文政には十村神保嘉一郎(号横雲)は句会を開く。安政頃、十村手代北山伝三郎(号西園恕兮)は諸国を行脚し俳句を詠んだ。医者の小林元章(号玄々堂不及)も俳句を読み、仙台から俳諧で知られた文器が来訪すると、本多吉十郎(号嶺松)が師事した。後に三日市町長となる平井順吾(号敬哉、慶哉)も俳句を詠んでいる。安政四年秋に泊の俳人金森洞雨の養子で出羽国海野家出身の金森禎作(号立器)が句会を開くと、三日市、生地、魚津の俳人達が参加した。明治四年魚津に移住し、花蕚社を結成することになる。 
●朝日町の文化人 
 天保十五年に十村となって棚山野を開墾した伊東彦四郎(俳号松屋)や境関所足軽渡部久作(俳号蕪木)等がいる。宝暦六年春松任から俳人千代尼が、久作の母と懇意にしていた関係で渡部家に滞在している。舟川新村藤井辰右衛門昌弘は石黒信由門で測量に従事。
●入善の俳諧 
 米沢家(祖は源義朝臣米沢主計守利光)二代目紋三郎元昭(号応斉)、三男で三代目与平次養子与四郎元清(字君貌、号徳容、玉樹斉)、その甥で五代目半左衛門元保(字楽只、号省斉)は薮内流茶道も能くし、六代目紋三郎元義(号節堂、冬生)、長男の七代目与四郎元通(号漸斉)、次男裁二郎元即(号蘭谷、竹酔)、八代目紋三郎元寛(号国華)、弟紋三郎元随(号歌石)はいずれも俳人。 
 岡家(祖は山名家家臣で、出石落城後和倉に移住した彦兵衛を初代、弟は秋庭綱典の養子で後の沢庵)六代目与左衛門(号如峰)は稲香庵社中を結成した。 
 竹内家(岡家二代目の弟竹内兵左衛門を初代)四代目弥三右衛門(号松塢)、野島家(祖は宇奈月愛本八重堀城主で、前田家に従い雲雀野郷士)久兵衛(号柳斉)、脇坂家(祖は大坂夏の陣で豊臣方の将で、砺波郡内島に住み、明和四年舟見に移って本陣を務める)孝平(号貴和)なども俳人として名高い。 
●八尾の文化人 
 俳句・狂歌では文化・文政頃より芳澤蟻道子、禅定屋禅勝、西池屋、面谷屋赤椿、桐谷屋知立、山屋石亭、小原屋其柳、翠田貴山、古川屋稀水、益山一宇、吉友其翠等がいる。華道では池坊主小野専定門弟深道屋佐吉(号松隨)とその妻が知られている。茶道では弘化・嘉永頃から川倉屋八兵衛、紺屋徳右衛門、廣瀬養順等が裏千家の門であった。謡曲では安政頃、紺屋治郎左衛門と治右衛門、室屋與四兵衛、菓子屋喜兵衛、大久保屋角兵衛、乗嶺屋甚三郎等がいる。浄瑠璃では嘉永頃に小谷屋安兵衛、山岸屋佐七郎、桶屋庄之助、掛畑屋善兵衛等を輩出した。美術では天保頃に狩野派や長谷川等叔に師事した紺屋安兵衛(号春甫)が活躍し、東町曳山の塗箔等の仕事は今に残されている。 
 その他、忘れてはならない偉人に、摩島助太郎元泰(字子毅、号松南)がいる。摩島家十一代惇仲の弟で、京で若槻幾斉の門で学んだ後に、佐久間象山に師事する。『日本海防論』を著すが、入獄を余儀なくされ、天保十年五月四十二歳で没した。
●東岩瀬にある筆塚 
 岩城正則の筆塚以外に、東出町一里塚内の筆塚(川上儀平)、現尾島家前の筆塚(舘町組合頭尾島屋か)があるが、寺子屋を開いていた確証が無いため、本文一覧表には記載しなかった。 
●内山家伝「門文」 
 天保十年路峯が書き残し、慶応三年年彦が補筆した。 
 その昔、京の嵯峨と内山両氏に“白鷹のとどまる所にわれを鎮座せしめよ”との神託が下り、御神体を背負って鷹の後を追うことになった。諸国を巡り、飛騨高山にやってきたら、婦負野の森に鷹が停まった。そこでその森に社を建てる。これが八幡宮の起源で、代々嵯峨家が神職となり、内山家は隣村百塚村宮尾に住むことになったという。 


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第四章 寺子屋の師匠 続き〜婦負・新川

七、富山市
旧山田村域
●特色
 農業地域であり、農閑期に少人数を教える形態であった。鍋谷には寺子屋が無かったが、四・五人がわが子に仮名や名頭消息往来及び珠算等を教えている。その際に子供の友達が一緒に勉強していたと伝えられている。
●師匠の略歴
康楽寺 白井谷康楽寺六世住職瀧野諦龍(天保三年〜明治四十四年)は村民子弟の教育に尽力し、読み書きだけではなく、珠算も教えた。明治七年に研知小学校の創設に奔走する。四月二十七日教員首座に就任、後に水島小学校教員になる。能書家で達磨の絵が上手であった。二十六年五月門弟達は村の入口に筆塚を建立した。
菅田家 小島に開塾し、近村の白井谷中瀬 中村 道島皆杓からも通ってきた。四郎治(文政九年〜明治二十五年)は絵をよく描き、明治七年四月二十七日小島小学校の首座教員に就任する。門弟には慶応元年生まれの大阪天王寺師範学校教授加藤茂がいる。
田中八郎平(文政九年〜明治二十五年) 父の八郎兵衛は大蛇退治で評判になり、富山藩主前田利幹に招かれ次第を語り、藩主が様子を画家に描かせた墨絵を一枚賜る。次の前田利保も山田温泉入湯の折りに立ち寄って聴した。文政十二年孝行であるとして藩主より褒賞されている。
八郎平も明治二年に御郡奉行より孝子を褒賞され、五貫匁を賜る。学問に熱心で、村人から招かれて講話をしたり、寺子屋を開いて住民子弟を教育する。学制頒布後に小谷小学校を設立し、村の生活改善にも努めた。また「太鼓踊り」を創案したり、副業に養蚕を勧めて産業発展に努力した。二十三年村民は県知事藤島正健の勧めで碑を建立した。
竹村家 宿坊宇沢蓮村の竹村文右衛門が子息の文六に教えていた所、友達が四五人付いてきた。やがてこれが拡大し、柳川等からも集まり、十余人を抱える寺子屋に成長する。没後に寺子達は八尾町諏訪神社付近山田権次郎に預けられた。
やがて文六が再興し、農閑期に教えるようになる。
旧細入村域
●特色
 富山藩にとり重要な街道筋であるこの地域では、寺院や公職にある家が中心になって住民子弟の教育を行った。更に高度な内容を求める者は、富山町の高橋篤、八尾の宮腰甚四郎、大沢野須原の浄光寺や小羽の村中氏、神岡東茂住の柿下氏に入門した。
●師匠の略歴
赤座家 猪谷で代々富山藩の吟味役を勤め、寺子屋を開いて住民子弟の教育にも貢献する。珠算も教えた。三代目の久四郎は楡原小学校庵谷分校を設置した。
住吉家 楡原で寺子屋を開き、代々継承した。住吉家二十四代孫蔵(号遠山)は八尾で宮腰甚四郎に師事して四書まで学び、学制頒布後に楡原小学校を自邸に創設した。
橋本家 猪谷で代々関所の関守役を勤める。
寺子屋を設けると片掛以南から寺子が通ってきた。特に猪谷や蟹寺が多かった。珠算も教えている。学制頒布後に作七郎は猪谷小学校を自邸に設置した。
寺院 片掛の三寺では各々寺子屋を開いていたが、学制頒布後は大淵寺住職弘道、西念寺住職孝友、円龍寺が協力して片掛小学校を設立した。
旧大沢野町域
●特色
 寺院が多く教育に当たり、教科書には米之覚 名頭 東里村附 西里村附 細入村筋 国盡 商売往来 童子教 実語教 頼母子証文 借用証文唐詩選などが用いられている。上級者の中には富山の臨池居(小西家)や學聚舎(岡田家)へ進む者もいた。
●師匠の略歴
広瀬仁右衛門 祖は猿倉城主。上杉謙信に攻められ飛騨国広瀬村籾塚に移り、その後笹津に帰農した。仁右衛門は寺子屋を開き、村民子弟の教育に尽力する。学制頒布直後の明治五年に笹津小学校創設に奔走し、六年九月自邸を使い開校する。十二年八月自邸を戸長役場とし、二十二年七月から二十六年六月まで大沢野村助役、三十六年十月五日から十一月二十六日に短期間ながら村長を務めている。
法雲院 芦生村の日蓮宗寺院で、明治四年に東猪谷関所施設を払い下げて改築し、一時寺子屋を開いていたという。
旧大山町域
●特色
 文化人として深見六郎衛門がいるものの、農事多忙で、決して教育に熱心でもないが、福沢では真宗の両寺院が農閑期や夜間を使ってであろうか、村民子弟に文字を教えている。学制頒布後に上滝地域ではいち早く学校建設に動き、明治五年九月十日市姫社付近に未認可のまま克己小学校を設立し、翌年八月十五日に認可を受けた。
一方福沢では寺子屋があるためかえって住民に関心が薄く、藤村与平や五十嵐小三郎が人々を説得し、六年十月ようやく推誠小学校設立に漕ぎ着けた。
旧婦中町域
●特色
 この地域は農村であり、農閑期を利用して学習する者が多かった。
例えば鵜坂村では富山の臨池居へ通う者がいたとはいえ、農事期の地元寺子屋への通学者は二名程にすぎない。
速星では子供が九九を知っていると重宝がられたという。ここでの教育には寺院が大きく関わっていた。
 師匠への謝礼は夏に素麺二 三百匁や銭二 三十文、他に魚や餅米で済ませた。また年に三四度川で魚を捕まえ、樽桶に入れて勝手口から贈る家もあった(鵜坂村)。
●師匠の略歴
永善寺 小倉の永善寺下寺広吉庵住職織田是空(号即水)は文政六年十月六日に生まれる。父は令観。弘化二年十月三日京で本願寺に修業し、文久二年八月三十九歳で寺を継いだ。寺子屋を開き、十歳から十四・五歳男児に往来物までを教えた。保内村高善寺以北や富川村からも通学している。寺子は茣蓙の上に座り、机の前で大声で朗読し、山田紙や六折の書手本を用いて何回も書き方を練習して、暗記したら次の手本へ進んだ。最上席者は棒役に任じられ、懲戒の特権が与えられた。また毎年一回張清書を行い、元旦には定められた文句を試筆させ、上包を施し歳徳大明神等の表書きをして水引をかけた上で、自宅の梁上に掲示させた。中元 歳暮は白米一二升や寺子の糞尿及び季節の野菜であった。
 明治六年十月二十六日教導職試補に就任する。寺自体は明治二十三年八月に高岡小川へ移ったが、堂宇は小杉町椎土に保存され、明治七年七月建設の筆塚が春日社に残されている。
各願寺 古里村長沢各願寺二十世秀澄は安政頃に夜学を開き、漢籍までを教えた。
喜左衛門 宮川村羽根で寺子屋を開く。寺子は上流家庭の男児であったという。
光圓寺 古里村長沢光圓寺では天保から安政にかけて、長沢 蓮花寺 川原 小川から寺子を集め、教育に努めていた。山下孫太郎も門弟の一人であり、光圓寺の教育を引き継いで、明治二年官吏に登用されるまで続けた。
光善寺 下条武部光成が寺子屋を開き、子息玄成が継承する。玄成は天保四年に剃髪し、同十一年光闡寺を開創する。
元治元年十一月十一日寺号と住職の正式許可が下り、光善寺を開基したが、慶応三年八十四歳で没する。漢籍や文字の筆意、人倫 仏道をも教諭した。寺子は安田 友坂村富山から通学する。明治二十五年九月二十二日に筆塚が建てられている。
西念寺 上井沢西念寺住職龍沢芳流(文化十年〜明治三十七年)は、智芳の次男に生まれる。八尾の妙善寺善解室に学び、明治三年司教、二十三年勧学へ昇進する。同門には轡田浄福寺邑崎師道三男の龍塚忍誠がいる。門弟により頌徳碑が明治二十六年三月に建てられた。
仁兵衛 音川村では、従来三ノ瀬大権寺や外輪野願念寺で冬に漢籍を教えていたが、上級者のための寺子屋であり、初級者用の教育機関が村にはなく、羽根の若松家へ二三人、長沢の光圓寺や山下六兵衛に冬だけ五人が通っていた。他に富山や八尾で漢籍を学ぶ二・三人がいた。そこで桜峠の奥村與三郎は冬季に砺波郡の栴檀野一ノ谷村から算術で知られる仁兵衛を招き、自家の子弟や村内の二・三人が加減乗除 開平開立幾何学等を教わった。また算盤のみを学ぶことはないだろうから、読み書きもあったと思われる。
西岡善五郎 持田で寺子屋を開く。青山松治により碑が建てられている。
野上惣平 分田で元治頃に開塾する。学制頒布後は分田小学校を自邸に創設し、教員に就任した。
舟木家 慶応二年に道場村松原の富彌は村民子弟の教育のために寺子屋を開いた。しかし公務が多忙になったため、父の一衛が替わって教えた。寺子は下井沢 道場 田屋 田屋新 中名蔵島及び速星村麥島 笹倉から通い、明治六年二月二十七日道場小学校へと改めた。
丸山忠三郎 古里村長沢で開塾する。自宅の二階に夜学を開いて、漢籍まで教えていた。
万芸寺 広田万芸寺十二世巧厳は文政十年に生まれる。教育にも従事し、明治以降少講義、学階助役、空華校総監に就任する。子息は巧雲で、明治四十一年七月頌徳碑が門弟により建てられた。
若松家 天保の頃、羽根で医者の周仙が寺子屋を開いた。漢学に通じていて、音川村や宮川村からも寺子が通った。門弟は百人余であった。
四十五歳で没すると、安政六年に筆塚が建てられている。子息市郎は文久頃に再興し、明治六年まで継続する。長沢新 下村 羽根 小長沢から寺子が通い、合計五十人程であった。
旧八尾町域
●特色
 町部では町人文化が成熟し、寛永の頃から寺子屋が設けられていた。農村部では夜間や農閑期に寺院や村役人が中心になり教育に力を入れていた。教科書には、請取状 送り状 名頭 村名盡 国盡 商売往来 頼母子証文 借用証文 庭訓往来 消息往来千字文等を用い、藤巻という太筆で書くのが普通であった。町部では毎月二十五日に天神祭りがあり、寺子の家が三十文ずつ出し合い費用に充てた。また月の晦日に「つごもり」試験を行う寺子屋もあった。
一方農村部では農閑期や夜間に、机を運び、竹行李を抱えて通学したそうである。杉原村では寺院で十三・四歳女児に裁縫 機織り 茶の湯 活花を教えている。
●師匠の略歴
池田三朗 通称は小倉屋宗三郎。能書家として知られ、天保から明治初年まで男女を教えた。
保内村には寺子屋が無いため、高善寺以南からも通って来た。明治六年四月二十五日聞名寺で潤身小学校が開かれた際は教師になっている。城ケ山公園に頌徳碑が建てられた。
大坪屋新右衛門(号春水) 糀屋源衛門に学び、井出正水の書風を能くした。杉原村の井田黒田、保内村高善寺以南からも通って来た。天保十年四十二歳で没した。
掛畑での手習い 卯花村では茗ケ原の子息は妙覚寺、小原 瀧脇 桐谷 小井波の子息は光雲寺、上笹原 下笹原角間の子弟は八尾町へ通ったが、掛畑と上黒瀬には寺子屋が無い。そこで村民は掛畑の民家を借り寺子屋師匠(姓名不明)を招いて、子弟教育を行った。
金泉寺屋六兵衛(号梧山) 名は上野慶泰。富山出身で糀屋源衛門に学び、江戸で儒家 書家の細井広沢に師事する。能書家であり、門弟も多かった。
糀屋源右衛門(号李唐) 佐々木志頭(津)磨の書風を得手とし、安永八年に西町で開塾する。算盤も教えた。寛政十三年十月二十六日付の墓碑がある。門弟には大坪屋新右衛門、根辻屋嘉七、金泉寺屋六兵衛等がいる。
佐々木左近 伝わる処では寛永九年八尾村少兵衛は桐山村佐五右衛門の助言で、加賀国小松から牢人佐々木左近を招き、真宗大谷派聞名寺庫裏の一部を借りて、読み書き算盤の塾を開く。地元以外に桐山村や付近村落から通学した。
真通寺 三ツ松真通寺住職十四世友山唯崇(力道)は天保五年に開塾し、明治七年四月十日堂宇に鶴声小学校が創立された。行照門弟で長女の婿唯然(天保元年〜明治二十八年二月)が十五世を継ぎ、京で宗学を講じ、本願寺学階司教に就任している。没後に勧学位を授けられ、坊内に碑が建てられた。
多田庄兵衛頼忠、黒田忠蔵正義 両人とも庵谷関所の関守で、大長谷村南部の教育に従事した。なお、同村では東原村才善、内名村中川、島地村岩佐、中山村武藤、栃折村孫四郎の各氏が習字手本を子弟に与え、文字を教えたことが寺子屋の初めであった。その他上流者二 三人が八尾へ、北部は徳圓寺、法流寺、真通寺に通っている。
辻屋 寛永十年に開塾し、童集庵と称した。三百人近くが通っていたこともある。明治五年の師匠は嘉右衛門である。
野積五ケ寺 野積は八尾町や富山へ通う者もいるほどで、読書への需要はあるのだが、農村のため農閑期一・二ヵ月が学べる期間であった。そこで専念寺、浄明寺 光西寺 善福寺光現寺の五ケ寺が教育に当たり、教科書には名頭 国盡 村盡を用い、算盤の加減法も教えた。仁歩村からも通学者がいた。
乗嶺屋 苗字は大西で、元禄の頃に開塾する。三十名ほどは最低でも通学していて、明治前後には儀平、太助と継承された。その頃には算盤も教えている。なお剣術も能くした大西太郎兵衛の浄円寺坂で蕎麦屋が天狗に只食いされた話を聴き退治した伝承(若衆の悪戯であったが小猿の所為として庇った)がある。関連のある人物であろうか。
長谷川家 寛延五年に開塾する。最後の師匠は儀三郎である。本表では能登屋儀平を分けて表記しているが、長谷川家の屋号は能登屋であり、かつ両者は同じ町であることから、あるいは儀平と儀三郎の間に血縁関係があるかもしれない。
平野伝兵衛 祖の夏野右大臣清豊(『凌雲集』編纂者の一人)は摂津国平野を賜り、豊宗の代に苗字を平野と改める。大永頃に宗則が八尾乗嶺に御領地の取締のため赴任した。そのまま定住し、富山藩から十村役に任じられた。紙会所の運営や国境問題で活躍する。また村民子弟の教育にも尽力した。
廣橋屋 上新町で元禄四年に開塾する。明治前後の師匠は重郎左衛門で、算盤も教えていた。
法流寺 上野村(現中村)法流寺住職砂川大愿(大原姓)が開塾する。明治七年四月十日上野小学校が堂宇に設立されている。
山田屋 元禄の頃から諏訪町に開塾している。明治前後は権次郎、権七と継承され、その頃には算盤も教えていた。
渡辺(部)嘉兵衛 祖は城生斎藤氏家臣の渡部源蔵であり、落城後井田村で蟄居していた。
孫の治郎兵衛は飛騨国高山の押上屋から妻を娶り、寛永十三年八尾開町時に東町下ノ丁に移った際にその関係で押上屋を称した。鍛冶屋とも称すが紙商人である。寺子屋も開き、珠算や謡曲までも教えたそうである。
渡辺佐五兵衛 祖は源満仲長男頼光の四天王の一人渡辺綱で、子息竹綱が朝廷御領の八尾薄島に移住する。正治元年長綱が野積谷布谷に移って代々佐五兵衛を名乗り、富山藩十村役に就任する。寛文七年飛騨国境論争で担当となり雄弁を振るうが、江戸の評定所での裁きに敗れた。しかも出張中に放火され、家が炎上している。天和から貞享にかけ御扶持人になり、享保 文化 文久に十村役に就いている。文化七年九十八石を持ち、これは山村最大であった。村民子弟教育にも力を尽くしている。
※詳細不明の師匠
上野直蔵 西町の上野姓は金泉寺屋である。とすると、直蔵は六兵衛の子孫であろうか。可能性は高いがはっきりしない。
江木新次郎 この師匠については『日本教育史資料九』(文部省、明治二十五年)をそのまま引用したのだが、江木姓は八尾町の明治元年名簿で確認できない。では江本姓ではどうかというと、東町には宮腰屋がある。初代が宮腰村市兵衛分家で享保頃の弥三右衛門(豆腐屋)、二代重次郎、三代庄次郎(紙問屋 質屋 為替米商)、四代庄次郎(慈善家で道を玉石で舗装したことでも知られる)、五代庄次郎(味噌 醤油醸造、重次郎を宮腰村友次郎を東町に分家)、六代伊平、明治で七代信好、となっている。見た通りどこにもそれらしい人物はいない。とすると他の町ではどうか。すると西町に江本新次郎という名前が確認できた。この人物こそ大坪屋であり、新右衛門の子孫が寺子屋を継続させていたと解釈するなら可能性は高くなる。だが文久三年に閉塾したとすれば疑問が残る。ただし『富山県教育史上巻』(昭和四十六年)によればどのような根拠か分からないが文久三年に開塾になっている。いずれにせよ推測の域は超えない。
能登屋儀平 長谷川家を参照。
宮腰甚四郎 この師匠も推測するしかないのだが、細入村の楡原辺りから寺子が通っていること、宮腰姓(あるいは屋号か)であること、とを考えれば、宮腰村に開塾していたであろうことが推測できる。とすれば江本家の縁者かもしれないが、断言は出来ない。
旧富山市域
●特色
 富山藩領の富山町と郡部及び周囲の加賀藩領を併せて富山市が形成されている。藩政期にはこれら各地で教育が普及し、領民子弟の多くが寺子屋へ通っていた。
 富山町では教科書に薬名帖や調合薬附等も使用して薬都ならではの教育が行われ、文化年間の売薬業発展に寄与していた(『富山の売薬文化と薬種商』)。女児も寺子屋やお針屋に積極的に通っている。
また師匠には士分(本表では足軽身分も含める)が多いのも特徴であり、その背景には危機的な藩財政と借上げがあったと思われる。
分限帳に同姓の家が多いため人物を特定できないが、足軽身分ばかりではないようである。なお西村氏は藩校教師の西村政蔵であるかもしれない。臼井氏は蘭医の臼井典膳(小森桃塢門下)かも知れないが、そうであれば医塾(荒町)である。
●師匠の略歴
富山町
朝倉藤太 祖の久平は越前一乗谷朝倉左衛門大輔義景の八男藤平景良に連なり、天正年間富山に来住して足軽として五人扶持を受けた。和算家の高木広当門人に朝倉藤太諸良がいる。藤太の父平治は吉見弥八郎の弟久五郎で、朝倉家の養子になる。文化三年十七俵を受け、天保五年町役所物書、同六年御徒組格勘定所小算用役、同八年勝手方下附筆役を勤めた。藤太も扶持十七俵を受け、開塾して町人子弟を教えた。安政四年八月二十四日金札大量発行に伴う混乱の責で御勝手方懸御先手廻組を解任され、隱居を余儀なくされる。開塾はその頃か。
市田拙庵 屋号は萬屋。平吹町で寺子屋を開く。塾舎は平屋の長屋で、寺子は板の間に筵を敷いて勉強に励んだ。
菊園(元名八百、号梅園、梅林園) 松平志摩守(豊後杵築藩か出雲母里藩)家臣佐々登の娘で、富山藩主九代前田利幹の側室になる。天保二年四月飛騨高山の田中弥兵衛大秀に学び、女児に読書 裁縫茶道等を教育した。広徳館の一室を用いていたことを意味する記録もある。士分の娘以外も受け入れた。布瀬村十村高安定義の娘貞子はここで学んだ後、戸出で女寺子屋を開いている。安政二年四月十五日没。利幹との子のうち利阜は豊後府内藩主松平近信、利民(号竹圃)は和歌や本草などに優れた。天保二年四月十二日に起きた大火の様子を描写した自筆の軸が高岡市立図書館に所蔵されている。
北川正賀 藩への届けの中に北川久太郎がいる。昇平の末期養子であり、天保九年には二十俵を受けている。昇平成善と改め、明治二年には三十一歳二十俵、内家知事席筆役御旧記方である。開塾した北川正賀とはこの人物ではないか(正賀は号とも考えられる)。
木屋 藤井町で天保五年に理太郎が開塾し、姓は七高、安田善次郎も通う。子息理右衛門が継承。明治四年頃には二人で教えているが、理右衛門と先代理太郎かそれとも子息となのかは不明である。
小柴氏 富山藩士の小柴姓で物書や広徳館に関わった人物に、明和六年の十左衛門がいる。普請所支配物書足軽であった。孫の与兵衛は広徳館奏楽方である。ここから推測すると塾を開いていても不思議ではない。念のために明治に師範学校を卒業し、郷土史家である直矩の家系があるものの、可能性は低いように思われる。
近藤士専 陽明学の私塾を開いた近藤潜庵は富山に来たのが嘉永五年四月であることから、年代が合わないので違うと思われる。加賀本藩藩主の御前に門弟を引率できたり、宗匠という記載もあることから、富山藩士では連歌師の近藤光明の可能性が強い。富山藩の連歌秘伝は浅尾卜山元昌、富田尚明、佐脇良輔、佐脇良世と受け継がれる。良輔は文政十二年五月に上洛して北野別当職宗匠林静坊法眼岱山から奥義を伝授された。更に天保九年近藤光明へ、安政四年子息の岡崎良次乙彦へ渡される。乙彦は国学者であり、万葉集を研究して明治二年『曽理廼綱手』を著し、高沢瑞信は大いに触発されている。於保多神社宮司となる山田方雄が継承し、子息で神宮皇学館学長山田孝雄に引き継がれた。さて、山田方雄『旧事回顧録』では、連歌の会が山崎茂承や近藤光明を師とし、清水町の光明の下屋敷で月に一度開かれた。光明は格段に秀でていたという。
森林堂 別名森田屋。場所は旧舟橋今町(現在は愛宕町)で、明治三十六年の川筋大改修まで神通川左岸にあった。森田家の祖市郎右衛門は、藩祖前田利次に従い先手足軽として富山に移住。伝太夫氏房の時には三十五俵を受け、勘定所頭取に就任する。屋敷は千石町。開塾した直右衛門忠則は安政七年分限帳では五十一歳、十七俵毎年金一両を受け、明治二年に商法局下僚であった。塾では自身を含め三人で教えていたようであり、家族であろう。養子定太郎をもらうが、実子三郎直寛(字子隠、号北涯)が天保十二年に生まれる。白井流剣術に秀で、広徳館や壮猶館で漢籍や英学を学ぶ。書は市河米庵や稲垣碧峰に師事した。向学心を藩から評価され、銀十枚を下賜されてもいる。エリート集団新調組への加入も許された。明治元年の北越出兵では五番隊小司令士として十三人を率い奮戦する。六月二十一日の休戦翌日払暁、越後福島村で砲丸を腰に受け戦死した。弟の正之助直則が家督を嗣ぎ、塾も受け継いだ。男児百五十人女児五十人が通い、六年に婦負郡第一番小学校(十一年から履新小学校)創設時に、塾舎を提供した。自身も教師になり、後には履新小学校で教師主座に就任している。兄の遺児三人を養育し、長男健太郎直宗は漢学を学び、秋田県知事官房主事や内務省神社課長を歴任する。次男定之助宗正は士族稲垣家に入り、大正四年富山市長に選任されている。一女イシも高桑家へ嫁いだ。
杉江藤吉 天保九年分限帳には御料理人組二十俵とあり、安政七年には御料理人方頭取で金銀受払二十俵及び隔年で庖丁代七十五匁九分渡されている。開塾は安政の頃であろう。
田近家 田近鉄也が開塾し、子息健蔵の代には百人程の寺子を抱えた。元治頃に経営を広徳館教師の高橋篤に譲渡している。
鳴泉草堂 上野又右衛門既白は能書化として知られ、漢籍や医術にも通じていた。川原町に塾を開き、町人子弟の教育に従事する。子息幸太郎可保(文政六年三月八日〜明治六年三月八日、号華山、延年)は大野介堂に師事し、父を助けて寺子を教えた。漢籍や釋道(仏教)医道に通じ、妻も貞淑であったため、藩は嘉永三年三月八日に夫妻を褒賞し、金若干を下賜した。三男煕(安政二年三月〜昭和三年、字敬止、号復堂)は国学 漢籍書を父に学び、小杉良孝の養子に入った後も学業を積んで、中学校教員として教育に専念した。
臨池居 全国的に名が知られた寺子屋である。安養坊出身の小西鳴鶴(号祖川)が明和三年に西三番町で始めた。士分ではなく四代前から安養坊に住んでいたといわれる。間口八間奥行十五間で、階上に約六十畳(約百u)の女児席、階下に百畳(約百六十五u)の男児席を有する堂々たる学舎である。鳴鶴はここで寛政頃に約四百人の門弟へ、心学や書を教えた。 
 子息達二有斐(号石樵)は仕官し天保元年三月に俵御徒歩組入、篆刻方並広徳館書写方を兼任し、同六年七月訓導並、翌年正月に訓導へ昇進している。塾名を、後漢の張芝が硯の水を自由に得られるようにと池に臨んで家を構えて書に専念したので池の水が墨汁になった、という故事を引いて臨池居と付けた。一階を三区切りし、上 中 下の三学級と別に武士の一組を設け、三尺の通路をはさみ師匠の居室を置いた。学習者が余りに多いため、二部三部で授業をしたそうである。上級者には四書五経 日本外史日本政記等で教えている。最初は先代の延長上で私塾であったが、やがて寺子屋の色彩が濃くなり、小西屋とも呼ばれるようになっていく。
教室には幅一尺長さ六尺の三人用机が常備されていて、寺子は文庫を持って寺入りした。有斐は俳諧にも秀で、また礼式や謡曲に通じていたので、放課後に希望者や一般町人に手解きしている。門弟中には後の画家谷口藹山もいる。
 長男文二有實(号石峰)は天保七年二月昌平黌に留学し、佐藤一斉と塩谷宕陰に漢学を、細川林谷に篆刻を、巻菱湖と男谷燕斉に書道を学んだ。十一年十二月広徳館書会方篆刻方に就任、嘉永三年七月訓導に任じられ、同五年正月家督を相続する。十八俵を受け新番徒歩入りし、元治元年九月学正に昇任して前田利聲の表扈従横目裏預を兼ねる。慶応二年四月文学書道心懸出精に付き三俵加増され、明治二年十一月三等教師に就任している。四年二月先年来書籍出版等節盡力大儀と賞せられ、金千疋を授与された。明治二十年九月二日に七十二歳で没。
 子息の有英は幼少であり、そこで弟が中継ぎすることになった。次弟順二は岡田家にいるため、善二有義(号小石)が重責を担うことになる。安政五年三月江戸で安積艮斎や大沼沈山等に漢学を、中沢雪城と桑名松霞に習字を、細川林谷に篆刻を学び、剣術も千葉 桃井榊原等で修練したため、書は中條流免許、剣は北辰一刀流免許皆伝の腕前である。帰郷後訓導に就任し、慶応元年十一月学正へ進む。翌年十二月新調組入りし、明治二年二月から東京で勤務する。五月十一ケ区市中取締所で応接方を勤め、七月藩主帰藩の前後警衛に当たる等、多忙を極めた。十一月三等教師試補に任じられるが、三年九月史生庶務懸に転じ、十一月東京詰を命じられる。なお閏十月改正之處萬機盡力大儀の旨、金二千疋を受けている。東京では権大属心得庶務方、翌月権少属庶務方を勤めるが、遊学を許され四年二月に帰郷し、学校上等生になった。
 塾を引き継ぎ、小西屋風の書を確立した有義の指導は厳しく、常に六尺の竹竿のような鞭を持ち、怠けることを許さなかった。それは肉体を鞭打ち苦しみぬいてこそ知識がよく身に付く、という信念からであり、父母からも支持されていた。蜷川行道の追想録で授業の概要が分かる。師匠は後頭部に髷を結い、上下顎に天神髭を蓄え、陣羽織に黒袴姿である。朝食前に四書五経 史記左伝の素読が師匠に代わり最上級生により行われ、不明点のみ師匠に尋ねた。一旦朝食のために帰宅し、再び登校して直筆手本で書を午後四時まで学ぶ。小西屋では楷書 行書 草書 隷書篆書の順で練習した。特に優れた寺子は山王町日枝神社と柳町於保多神社の各春季大祭に奉納する大行灯に揮毫をすることが許された。漢籍の輪講が週に一度あり、十人程度の最上級生が十八史略や史記等を講述し、師匠から講評と批判を受けた。有志者には作詩の添削指導をし、二三人の寄宿生には撃剣も教えていた。一階は師匠一家の居所があり、寄宿舎は二階の一部に設けられている。明治二三年男児六百人の内寄宿生は近村からの三十人程であった。別に女児が二百人程通っている。
 学制頒布直後は男児五百人 女児七十五人程になるが、七 八年頃小学校則に準拠し、習字 読書 算術修身の四科目に再編し、漢籍の講読に力を入れて詩の指導を行った。それまで休日が一六の日であったのを、十年頃には日曜日に改めている。
だが十八年の大火で教室の縮小が余儀なくされ、小学校教育の普及により二十二・三年頃には寺子数が減少、毎日の出席者は在席の八割程度であった。それでも百二・三十人は小学校放課後に通い、他にも手本を使って自宅学習する者がいた。 
 有義は二十八年一月二十五日に没するが、富山県尋常師範学校教師央二有英(号揖山)により火災に遇う三十二年まで継続し、その流れは共立薬学校へと受け継がれた。有實有義兄弟を讃える「小西伯叔兩先生遺徳碑」を建てる計画は大火で延期され、昭和八年十月ようやく於保多神社に完成した。門弟の富山市長井上政寛と衆議院議員岡崎佐次郎及び有志者二百十二人によるもので、碑文は師匠友人で日向の人安井朝康の撰である。
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海辺地区
新井弥助 水橋小路村の元僧侶で、寛政の頃に能筆で知られ、三郷で最初の寺子屋を開く。沖村酒井弥三は門弟である。
岩城正則(寛政七年一月十五日〜安政元年二月、号硯寿、宗寿) 祖が奥州豪族岩城家で新川郡で十村を務めるなど勢力のあった岩城一族の系列と思われる。上杉家医者隆平の孫英信が高田藩医となり、藩の改易後は道常が富山藩の藩医、常隆も仕官し滑川に居住した。次々代隆春分家が寛信で、宝暦三年正月十三日に東水橋に移る。その孫が正則で、文化八年に十七歳で上京し、吉益南崖に医術を学んだ。同十年三月に帰郷し開院しつつ、寺子屋を開き教育に貢献した。風流人であり謚は梅隠。医者としては妙薬「薬王樹」を調合した。慶応二年天神町天満宮境内に筆塚が門弟により建立される。子息嘉寛(享和三年〜明治二年四月十八日、号猷輔、硯寿、玄寿、子誠)も父と同門紀州華岡青洲の春林軒で学んだ。
浦屋徳右衛門 四方で教育に従事する。読書の算盤を教えた。栂野一昌の師匠であり、塾は一昌へ継承された。
大嶋屋 東岩瀬で開塾。藤兵衛の名乗り。質屋を営み、天明頃に蔵宿を兼ねる。安政六年に質屋を廃業し、寺子屋と蔵宿に専念した。門弟で昌平黌に学び旗本神保山城守や加賀藩奥村左京家に学問で仕えた永井龍夫源奏(初代岩瀬小学校長、明治四十一年七十八歳で金沢に没)の履歴書によれば、江戸の杉原平助へ入門する嘉永四年四月以前に大嶋清太より指導を受けた。また父の病で神保家を致仕して帰郷する文化二年の翌年三月に善之介(清太の継承者)へ「勤学」している(元治元年十一月奥村左京家の素読方教授に就任)。
金森家 屋号は金剛寺屋。市田袋に寺子屋を開く。師匠は宗右エ門や宗左衛門という名である。
毫照寺 水橋小出村毫照寺住職菅野観導は草書を得手とし、村の教育に従事する。子息智恩は京で算盤を習得し、帰郷継承後三・四十人を教えた。その次の恵融は狩野派の画風でも知られ、良智小学校で雇教員となった。
沢田家 明治初年に現岩瀬小学校辺りで久耕と平八が分担している。前者は五十名の寺子を抱え、後者(妻と共同か)が女児三十名程に手習いと裁縫を教えていた。
竹山屋 仁左衛門が東水橋で寺子屋を開き、又六が継承した。場所は新町或いは稲荷町か。
原恒意 三郷の医者で、新川郡の十村伊東彦四郎から小沢屋と一緒に庸軒流茶道を学んだ。寺子屋師匠として碑がある。
寳山堂 四方では教育が普及し、男児は読み書き 算盤、女児は山崎三平の母、酒井せつ、栂野もと(一昌の母か)、永井つる、浜崎さつに裁縫礼式を教わった。寳山堂は栂野一昌が開く。祖は今川義元の臣栂野左兵衛安昌で、子息の安孝が酒造業を始めた。以後、義昌 安憲 安義 永昌彦昌(彦八)と継承され、代々町年寄を務めている。彦昌は四方漁民の窮状を救うため郡奉行湯原宗兵衛(御馬廻二百五十石)に訴えた。
当時魚の商いは問屋を通じていたが直売も大目に見られていた。だが湯原は藩財政再建で問屋への課税を強化するため直売りを規制し、直売したい者は百塚の御勘定所で口銭を支払うべきものと達した。そこで彦昌は直談判に及ぶ。問屋との板挟みになった奉行としては、秩序が崩れて争いの元になることを危惧しこれを拒んだところ、彦昌は面前で懐剣粟田口吉兼で切腹する挙に出て救済を懇願した。これが藩主前田利幹の耳に入り、善処するよう担当役場に指示したという。
 子息一昌は二歳で父を喪う。母や浦屋徳右衛門に学び、天保四年寺子屋を開く。「足りとせば雀でもよし梅の花」と詠み、号を梅雀とした。
寺子は間口四間奥行六間の学舎に筵を敷いて学んだ。一階は男児、二階は女児の教室である。師匠は正面の高い半畳に座し、選ばれた役々に手伝わせて教えた。というのも若い頃視力をほぼ失っていたからである。それでも一糸乱れず寺子を統率し、放課後には謡曲も教え、毎年春と秋には席書、正月二十五日 三月五月の節句と七夕には会食を饗応し、七夕行事を盛大に行っている。かなり指導力があったのであろう。その上父の威信が加わっているのである。明治十四年に門弟三百余名で碑を建てた。現在は四方小学校校庭にある。
 子息の彦麿も父の薫陶を受け四方小学校の校長に就任し、また自邸に家が貧しく上級学校へ行けなかった若者を抱えて面倒を見、進学させた。しかし決して家計は楽でなかったそうである。
中老田 呉羽地区
嶋倉与茂三郎 祖は射水郡東部から婦負郡北部にかけて勢力を持った土豪である。本家は現在の西光寺周辺に居住していたが、分家の与茂三郎(宝永八年二月二十七日没)がこれを継承し、五代・六代は富山藩十村、七代は十村格に任じられた。九代は明治二年十二月十七日焔土作方勢子役・付役次列となり、四年八月村長兼副戸長に就任する。また寺子屋を開き、これが現在の寒江小学校の前身である。三十一年七月二十八日没。婿豊孝は四方栂野一昌の外孫である。
瀧口四郎平、龍口源七郎 寒江村では農閑期や夜間に寺院による手習いがあったが、本郷 大塚 中沖 野田の住民子弟は隣村下村や八幡村へ通い、野口 野村北二ツ屋の住民子弟は住吉村石川銀右衛門源吾のもとへ通い、他には二三人が富山へ通っていた。ただし出席日数は年中の1/3〜2/3程度であったという。そこで瀧口四郎平と龍口源七郎は、藩政末期に二十〜四十人の寺子を集め、年中無休で教えた。瀧口家の祖四郎兵衛は長尾能景や武田信玄に従い、十五歳の時に大塚に土着した。竜江寺を造営し、寛永十六年に四十五歳で没した。四代目から十村役に任じられている。
辰巳貞斉 長岡では藩政末期に恒田宇平と与次右衛門が寺子屋を開いていたが、明治初年に京都から医者の辰巳貞斉が舟橋新に移住し、医業の傍ら住民子弟に読み書きを教えた。
田中可成、真野成次 中老田で文化十一年頃であろうか田中可成が城石平左衛門宅で開塾する。善右エ門の三男で、十歳から継母に育てられ、家事手伝いの合間に読書に励む。二十歳から十年間僧を志して夜に高岡で苦学し夜明けに帰宅することがしばしばであった。その所為か三年間病床に臥すが、読書は忘れなかった。ただし特定の師に就くということはなかったようである。壮年になってから教育に従事し、天保十年一月三十日八十一歳で没した。真野次右衛門成次が門弟を受け継ぎ、弘化嘉永頃より自邸で本格的に教える。海内果うみうちはたすもここで学んだ。成次は明治十年に八十五歳で没するが、門弟により両師匠の筆塚が建てられている。
森田清風 海内果の兄で、明治元年に中老田で開塾する。海内果や本庶瑞雲等と協力し、六年八月八日自邸で菁莪小学校を設立した。
広田 新庄地区
安藤屋市右衛門 富山藩領に住み、加賀藩領新庄新町に借宅して開塾した。日蓮宗富山正顕寺の旦那であり、開塾にあたり藩境を跨がるため元禄十七年に役人が人物調査をし、その報告書が残っている(加越能文庫)。
太源寺 下野村太源寺住職大花入蔵は、文久元年に本堂で寺子屋を開き、農閑期を使い読み書きと算盤を教えた。長座 加役平座に分け、大半は三年間通学するが、半年という寺子もいた。明治六年十一月堂宇に下野小学校を設立した。
竹内常右衛門惟直(号竹叟) 荒川四軒町に開塾する。代々加賀藩の新川郡山廻足軽で、富山境目筋洩れ物改方を兼帯していた。常右衛門は書画を能くし、学制頒布後に新庄小学校に勤務し、算術教科書を編纂している。八年に自塾を筆算塾此君閣へ変更した。
平岡森栄 文久元年に新屋村八幡宮神職の家に生まれ、村の教育に従事する。明治十三年に新屋小学校校長に就任した。
堀江家 鍋田村で代々肝煎を務め、村民子弟の教育にも従事した。教科書として使用した孟子巻一 二 四 五、論語巻三 四 五 六 七 八 九十、寺子状大日本状之文安政六年、御文章嘉永二年、大学嘉永二年、中庸、庭訓往来明治六年三月十三日が残っている。
盛田与四右衛門(号波及) 俳句を能くし、新庄新町に開塾する。門弟は記念碑を建て、秋にはそこで「師匠様祭り」をしていたという。
山田秀平 父の秀蔵は俳句に通じ、加賀藩に仕えて新庄に住み、長棟亀谷の鉱山事務を執っていた。秀平は富山藩士秋山志摩之助の家臣となり、経書を考究する。その後新庄に戻り寺子屋を開いた。間口五間奥行七間の大部屋で教え、寺子は朝早く登校して良い場所を確保するため書物を置き、一度家に戻って食事をしてから再び登校した。明治六年から二十年三月まで藤木と上富居で小学校教師として勤務する。新川神社境内に父子の碑がある。
富南地区
岡田甚蔵 星井町の人。明治二年三月青柳新で開塾する。場所が手狭になったため、十月に林崎に移り新築した。六年八月十五日に林崎小学校となる。
教蓮寺 真宗本願寺派石田の教蓮寺は祖が二宮兵庫助叔父祐源である。山法師となり諸国を巡り、兵庫助菩提所真言宗大通寺下寺祐屋坊を創建した。これが寺の基になった。二十二世祐海の時に改姓する。さて石渓鶴寿は父行寂を嗣いだ後に寺子屋を開く。三男暁昇(明治二十三年九月一日〜昭和三十八年二月四日)は八日町円照寺巧証の養子として第二十五世に就任し、戦後金沢大学で教育学部長を務めた。
樫年堂(樫の屋) 月岡新千俵の神職笹岡家は現在の大山町出身で、祖は近江一ノ宮建部神社の坊僧。代々医術と鍼にも通じていた。元禄頃より寺子屋を開き、十三世久豊の時に役割を終えた。明治四十二年九月二十三日切掛松下に季隆・久豊二代の頌徳碑が建てられた。塾舎は月岡小学校に転用されている。
後藤豊蔵 小屋島(現上今町)の医者で、藩政末から明治五年まで教育にも従事した。十七年五月より自由党党員として活動している。
誓教寺 押上の誓教寺住職紫快辨が寺子屋を開き、教山が継承した。
中土家 祖は桃井直常の家来中野久治で、太田用水の渕に帰農し中土甚右衛門となる。享保から元文にかけ衰退するが、宝暦頃に再興して文化・文政頃に藩主休所に指定された。天保九年甚右衛門は十村格に子息甚兵衛も同十四年肝煎に任じられる。両人とも能筆であり、算術・医術・易に通じていたため、請われるまま村民子弟を教えていた。しかし弘化二年に何らかの不都合から追放処分を受け、同五年に許されて持高を回復している。
法輪庵 開発の曹洞宗尼寺で、明治十六年に寺号を得る。開基は智覚明慧尼であり、トエラ(寺の意か)先生と呼ばれていたのはこの人物か。数少ない女師範の一人である。大正八年没。
横越家 宮保の式内社熊野神社社家。京の唯一神道吉田流本家から秘伝「事相方内傳草案」を受けた。二代に渡り教育に従事した。
四津谷彦十郎(文政七年〜明治二十三年) 父は新保村の彦右衛門。富山町で学び、嘉永頃にで開塾する。寺子の便を図るため「四ツ谷」に改姓した。明治六年閉塾後は戸長や村会議員を務める。二十七年三月彰徳碑が建てられた。
その他の地区
内山年彦 宮尾の内山家は布目村郷士であったが、次郎右衛門昌峯(天文九年没)は大永享禄頃、宮尾で新田開発に取り組み、そこから四代目の仁右衛門安峯(明暦元年没)は苗字帯刀を許され、十村に任じられた。宝永四年に九十六歳で亡くなった五代治右衛門高峯は、神通川の川筋が変わってそれまでの川筋が沼沢地になったので、そこを新田開発する。しかし六代治右衛門好峯は検地で増税され、田畑を切高したため、享保十四年草高が三百石に減少した中で隠居した。そこで七代治右衛門逸峯は改作に全力を挙げ、延享二年六百石に回復させる。先代はこれを見届け、同五年に八十三歳で没する。逸峯は大坂の有賀長伯に国学を学び、和歌を京の武者小路実岳に入門して大伴の姓を賜った程の文人である。安永九年に八十歳で没した。八代治右衛門季峯(文化十四年没)を継いだ治右衛門路峯は文政六年御扶持人十村に任じられ、十代源次郎秀峯は父が六十七歳で没した嘉永三年に富山藩士となって、千石に拡大していた家督を年彦春峯に譲り、次男豪逸(小池春香)を連れて別家する。安政元年に四十八歳で没した。小池春香は明治二年に三十二歳史生職(俸十四俵)で会計懸として十六俵を受けている。
 安政七年年彦三十歳の時に御扶持人十村に進み、螻哉と号し岡田呉陽と親しく交わった。慶応四年に家屋を新築し、柳原草堂と名付ける。明治十四年に草場船山を京都から招いて、欅の大額に堂名を認めてもらい広間正面に掲げた。村民子弟の教育にも尽力し、明治五年に塾舎を改良して二十一畳敷二間と十二畳敷二間を教場、七畳半敷一間を事務所に改めた。これは窪美昌保の寺子屋と合流し、小学校を設立する下準備であろう。ただしこの年年彦は第十三戸長として二年間八尾に赴任している。また新川県沽券取調係として地租改正にも取り組んだ。男子が無く、弟小池春香の長男松世を三女稲香子に配して家を嗣がせた。松世(元治元年〜明治二十年、号外川)は後に衆議院議員(明治三十一年〜三十五年八月)に選ばれ、多くの会社で公職に就いた。子息の季友(明治二十一年〜昭和五十六年)も昭和二十年まで村長を務める。農地改革で多くの土地を手放した。妻の量子はアララギ派の歌人である。
窪美家 金山新村で医院を開く傍ら、寺子屋を開く。草島村からも寺子が通った。学制頒布後に昌保は内山年彦から小学校創立の意義を熱心に説かれ、明治五年三月三日に内山家に合流する。昌保と小池春香が教員になり、八月正式に宮尾小学校となる。生徒は四 五十人であった。
荘厳寺 奥田では荘厳寺が地域の中心であり、教育機関でもあった。明治六年八月六日に奥田小学校が設立されている。
松本泰造 椎土で医院を開く傍ら、教育にも従事した。漢籍も教え、後に押川小学校教員に就任した。
八幡神社 八幡の神職嵯峨家は教育にも尽力し、百塚、十人程草島村、寒江村本郷 大塚 中沖野田等周辺の村々から多くの寺子が通って来た。漢籍も交え授業内容は高度に及んだそうである。定賢(定肩)の代に役割を終えた。内山家とは伝説を共有している。
 定賢(定肩)は初め慶肩と名乗り、父慶明から神典を学び、富山の島林家(後に藩医となる文吾か)で儒学と書法を学ぶ。文政五年に父の後を継ぎ従五位下・陸奥守、明治六年七月二十五日に七十五歳で没。子息慶賢と門弟達で、明治二十八年一月に碑を建立した。
若林常猛(天保十四年〜明治四十年、号快雪) 代々富山藩の御細工人組象眼彫七々子方を務め、十人扶持銀二枚を受ける宇兵衛の次男として生まれた。岡田呉陽に学んだ後、江戸で日下部鳴鶴(大正十一年十一月二十七日没)に師事する。柔術も能くした。文久三年二十一歳の時に新保村福居へ移り、寺子屋を開く。明治十年より三年間大久保小学校で校長に就任し、十六年岡田呉陽の後任として師範学校の書道教授になり、富山中学校教諭を兼任した。十九年大阪府師範学校に転じ、二十一年四十六歳で東京の華族女学校教授に任じられる。二十年間奉職した後に麹町平河町に居を構え、岩崎小弥太の美術顧問をしている。五十五歳の時に建てられた顕彰碑が富山太郎丸土宮神社にある。
八、上市町
●特色
 立山町と一体で、師匠も出張している。現在上市町に残されている寺子屋所蔵書から、漢籍には四書五経 小学 孝経 古文真宝 十八史略 文章規範唐詩選 日本外史 日本政記 国史略 唐宋八家文 三体詩近思録などを用い、算学では塵劫記が一般的に使われていたことが分かる。ここから相当な学習段階に到達した子弟が上市にいた事を見て取れる。また常福寺境内には「上市寺子屋由来の碑」がある。
●師匠の略歴
池田嘉市郎(号静斉) 山本源三に学び、師匠没後に碑を建てている。寺子屋を開いて教育に従事し、明治五年まで続けた。子息松次郎(明治八年〜昭和三十二年)は三十年に父の名を襲名し、陸軍第九師団の郷土部隊を支援し続けた。
亀谷家 静観(天明五年〜嘉永二年、号楽子)は医者で漢籍に通じていた。弘化二年に同志二十三人と医術研鑽を目的に立本社を組織した。
その長子が良山(文化十二年〜明治十四年、号雲岫)で、医者を継ぐ。諸国を巡り医術を高め、漢学を学ぶ。帰郷後に開塾した。
 子息の龍二(嘉永六年〜昭和十五年一月二十七日、号寛、守拙、三杉道人)は富山で岡田呉陽に師事し、十八歳で代師範を務めた。昌平黌で三年間川田甕に就き、蘭医術と漢学を考究する。病を得て帰郷し、無料施薬を行う傍ら教育に努めた。学制頒布後には一旦父と私立小学校を設立し、興文小学校と合わせて自邸二階に女子部を置き、初代校長に就任した。その後公園脇に漢学塾研精書院を開き、亡くなる前日も門人に、作詩は平易に万人に判りやすいのを上とする、と教示していた。各宗の経典を通読して、文字に関する起源や歴史に通暁し、著書には『守拙存稿』『越中古今詩鈔』『漢学諸派考』や医学書がある。伯父秀栄(天明七年〜弘化三年三月十四日、号雅仏)は高野山で修業し、文政十年十二月十一日修禅院主、天保二年二月二十七日僧福院主になった。
郷田繁治(弘化三年〜慶応三年九月一日) 父は右衛門で長男。八歳で萩中宗貞に学び、十一歳の時には藩から賞せられた。十七歳で塾を開き門弟数十人を抱えるが、二十一歳の若さで没した。明治二十九年四月碑が建てられている。
高峰守斉(天保八年〜明治三十八年) 弓庄舘村で漢法医として医療に従事する傍ら寺子屋を開き、珠算も教えた。寺子は立山町東谷からも通っている。学制頒布後に自邸を弓庄舘小学校とした。十七年碑が白岩川畔近くに建てられる。
谷口静一(安政四年〜明治二十六年) 父は利田村鉾木の出で、十村結城家の手代を務めた。子息静一も手代を継ぐが、ばんどり騒動や廃藩に遭遇する。教育にも従事し、明治二十二年六月音杉村村長に選ばれたが、任期中に没している。
萩中宗貞(文化十三年〜明治六年) 新屋の萩中喜右衛門の子息に生まれ、二十五歳で分家し、三十歳の時に医院と寺子屋を開く。五百人程の門弟がいた。
春山一覚(天保十五年〜大正六年) 大岩山日石寺十四世住職春山一覚は水戸田の生まれで、養子に入った。不幸な子供十数人を弟子として養育し、明治に入ると行者窟を設けた。詩文や書を能くし、立山町の日置寺へ出向き、教育に従事している。
広田家 文城は漢法医として村の医療に努める傍ら、教育にも従事していた。子息智眼が医院と寺子屋を引き継いでいる。
藤田作(嘉永五年〜明治四十一年六月八日) 湯神子に生まれ、父の作左衛門(文政七年〜明治二十五年)は村の発展に尽くした功労者。作も立山町の日置寺へ出張し教育に当たった。明治六年自邸に興原小学校を設立し、教員に就任する。西南の役が勃発すると西郷軍参陣を図ったが遅参し果たせず、落人の話から触発され、自由民権への関心を深めた。十三年学校を従弟の作隆に委ね、石川県議会議員、二十二年白萩村村長、二十九年上新川郡会議員に選ばれる。頌徳碑は父と伴にある。子息義為(明治十一年〜昭和十二年)も大正三年から約二十年村長を務め、昭和二年に県会議員に選出された。
本覚院 前身は真宗古刹真興寺で、住職花崗天龍が寺子屋を開く。明治五年堂宇を黒川小学校(恭倹小学校)とした。門弟により碑が建てられている。
桝田喜七郎(号楽園) 祖は松倉野の升田村から万治頃に柿沢村へ移住した。寛保以来肝煎を務め、十六代目喜三八は文化年間に金沢城二ノ丸火災の際に私財数百金を献じた。喜七郎は嘉永四年三月十二日に柿沢村野崎達の次男として生まれ、喜三八の養子に入る。富山で岡田呉陽に学び、村民子弟の教育にも従事した。明治八年以降戸長や郡会議員などを歴任している。長男は実家野崎家に入り、次男諧太郎(明治七年〜昭和九年)は四十二年から大正七年柿沢村村長、翌年県会議員。三男隆(明治九年〜昭和二十五年)は二十二年六月舘村上田家へ入り、三十二年四月柿沢村村長、三十六年十一月郡会議員に選任されている。
増田与三左衛門 横腰弓庄村で天保の頃に寺子屋を開いた。文久三年に没すると、門弟は「いろは唯因法」の文字を文覚に依頼して碑を建てた。
山田玄東 地域医療に従事しながら寺子屋を開く。漢学にも通じ、上級者には四書五経や文選の素読を行った。門弟には明光寺住職行照がいる。子息玄隆や孫の新川も文人であった。
山本家 源蔵(号芳信)は寺子屋を開いて住民子弟の教育に尽力し、子息は源蔵の名を嗣ぎ寺子屋を継承した。明治十三年まで続けている。
結城豊次 本家の祖は白河結城(現福島県)城主結城祐広で、南朝の忠臣である。帰農して以後七代目惣右衛門は、寛政五年に福田村(立山町)に移り十村に任じられる。その弟小右衛門が神田村へ分家して、長男が豊次である。安永七年に生まれ、天保二年に新田才許役、同十三年弓ノ庄組(弘化四年に平十村になったとする本もある)、嘉永二年御扶持人十村並 島組才許、翌年弓ノ庄組才許と進み、ついに御扶持人十村へ昇格した。村民子弟の教育には天保の頃(文化文政期とする本もある)より当たっている。塾名を真理舎と名付けた。金沢城南日堅の筆で碑が建てられている。子息の甚助は天保から嘉永にかけて山廻役と弓ノ庄 島両組当分才許を兼ね、安政三年平十村に就任し、明治二年まで弓ノ庄組才許を務めた。孫の杢は石川県会議員である。
吉田観竜 外村や山回り役を務めた吉田家の系列。明示六年に徳隆小学校を置く。
若林一萬 天保五年に生まれ、漢方医療に従事しつつ、寺子屋を開いて住民教育にも尽力した。
九、立山町
●特色
 この地域では各地で寺子屋教育が熱心に展開され、特に明治以降急増する。夜学しかなかった東谷村等でも富山の臨池居へ通う者がいた。
また七夕行事が盛大に行われ、五百石では近辺の村々の寺子屋から寺子が集まり、清書を展示し優劣を争う「字かけ」をした。
寺田では他の寺子屋の寺子と出会うと問答比べを行い、勝った方は負けた方の短冊を折り取った。女児は寺田の今村ツネ等のお針屋に通っている。なお寺子屋や寺子屋師匠は学制頒布以後、小学校とその教師に移行する例が多かった。また嘉永生まれの寺田村金岡権吉は能筆で算術にも優れ、役所に勤めている。
●師匠の略歴
石原兵作 大窪で生まれ、富山の岡田栗園に学んだ。村の教育に尽力するが、明治五年新川県教育所に入学し、翌年前沢盛徳小学校分校盛徳学校(後の廣敬小学校)を自邸に開いた。
大畑家 上段宮村(現上宮)で宝暦頃に理右衛門が開塾する。これを文政の頃に権六が継承した。寺子は福田 上中 石坂以南の上段方面 上金剛寺 下金剛寺 末野田 米道 寺坪 末谷口下田等、広範囲から通った。
岡本六右衛門 栃津村に居住し、下田で開塾し通勤した。
翁家 六郎谷翁宗家で、祖翁少の裔中村四郎三郎等は越後に居し、上杉軍の越中攻略で移住する。代々が医者久右衛門や久左衛門を襲名し、村人からは「オモテの家」「久左衛門どん」と呼ばれていた。久右衛門は上市の医者萩中家から養子に入り、その後寺子屋を開いた。夜学を開いていたという史料もある。子息の源指(文久三年〜昭和四年十二月二十九日、号泰生庵)は五歳で父の生家萩中家の宗貞に学び、漢学者の五島文栄から薫陶を得た。伯父大野玄格に漢方医術を教わる。十四歳で一通りの修業を卒え、十七歳の時に内務省から漢方医免許を受けた。同時に父の寺子屋を継承しているが、維新以後は医業に専念していたようである。性格は謹厳で、近在からは「山神様」と呼ばれていた。次男は作家の久允(明治二十一年〜昭和四十八年二月十四日)で、五歳の時に父から大学や論語を教わっている。 
北村伝吉(天保四年七月〜明治四十一年七月、号梅坡、画号勝山) 大森蔵本新の北村家十一代当主。京で狩野勝山に入門し絵画を学ぶ。帰郷後に肝煎に就任しつつ寺子屋を開いて、住民子弟の教育に尽くした。明治二十三年六月に碑が建てられている。「壇の浦合戦の六曲屏風」等の画があり、富山の画家木村立嶽とも交遊した。碑が西大森大橋にある。
窪美家 高野東野で安政の頃に養鼎が開塾する。その後明治六年まで、昌保(号凹凸庵、嘉永六年〜大正七年)、滝治と受け継がれ、住民子弟の教育に貢献している。後年碑が建てられた。昌保は東大医科を卒業して総曲輪に開院する。史学研究や蜃気楼の文献を集めたことでも知られる。
金剛寺 下段金剛寺住職長谷川嶂雲は、この地で唯一寺子屋を開き、教育に尽力した。下段では東部が満法寺、西部は五百石や大森村、北部が沢新の村崎勇三郎へ通っていた。
佐伯家 岩峅寺の佐伯志津摩は、文久の頃に道痴の寺子屋を復興した。教科書には仮名 名頭 銭日記 米日記 村名盡 消息往来 商売往来、更に上級者に四書五経左伝等を用いた。珠算も教授している。寺子は宮路 栃津 中野からも通い、だいたい十二三歳から二十歳までが学んでいた。元治元年からは岩見が継承し、明治五年まで教育に当たった。三年には碑が建てられている。雄山神社前の旧明星坊に二十七年二月知白翁の「筆魂祠」が建てられる。この人物については何も記録が無く、明星坊か志津摩の号であると考えられている。六年九月二十九日佐伯敬治邸に小学校を設立した。
酒井周斉 五百石松本開で開塾する。仮名文字 数字 苗字盡 名頭 国盡庭訓往来等を教科書に用い、油断している寺子へは鞭で打ったが、この厳しさが父母から好評であった。明治五年に松本小学校を自邸に設け、十九年に松本致遠小学校が出来るまで教育に携わった。二十年に没し、天満宮境内に碑が建てられる。
種徳小学校 寺田極楽寺で明治六年十月に林宗七邸に種徳小学校を設立すると、林幹(嘉永〜明治、寺田村在住)、原恒順(明治二十年四月一日から寺田小学校長、三郷の寺子屋師匠で医者原恒意との関係は不明)、今村ツネ、深見安次郎、越田辰次郎、池田巌が教員に就任している。
白井関兵衛 日中で教え、記徳碑が建てられている。徳右衛門と記された本もある。
信行寺 西大森の信行寺住職元智令厳は寺子屋を開き、明治五年まで継続する。その後堂宇で格知小学校(大森小学校)が創立した。
善入寺 釜ケ渕米道の善入寺十世住職龍雲は、藩政末に寺子屋を開き、明治初年まで継続した。
道痴 天保の頃に開塾する。漢学に通じ、能筆で知られ、岩峅寺で八 九年間教えた。
中邨主一 釜ケ渕野村で寺子屋を開く。「中邨主一翁先生碑」が建てられている。
野島平三郎 藩政後期に大森村で寺子屋を開く。次男の喜兵衛(嘉永二年一月生まれ)は西芦原の農事改良に努力している。
日水芳郎 利田塚越で開塾する。後年碑が建てられた。
日置寺 日中の日置寺では寺子屋師匠や知識人を招き、長年地域教育に当たっていた。日中 柴山 日中上野 福田 上中 石坂 女川新 上市町赤木 大塚新 中村新野徳新から通学し、大畑理右衛門と権六 平野徳輪 春山一覚 酒井憲三 塩野元達稲垣兼太郎 浅井昌博 藤田作 久田錬兵衛 西田作平杉谷専之丞といった師匠が協力した。萩中ツネは女児教育を担当し、後に種徳小学校で教えている。杉谷専之丞は明治六年十月十日宮村小学校長に就任した。春山一覚 酒井憲三 塩野元達は日中小学校教員になった。上中の西田作平は明治十九年コレラで亡くなり、願船寺に参光碑が建てられた。
平井重右衛門 高野江崎新で開塾する。子弟関係もよく、能筆であったようで、明治十五年に追善碑と広山筆塚が建てられた。
藤田謹之新(別名政次郎、号玉鼎斉) 和田曾我(石田)で開塾し、村の教育に尽くした。後年碑が建てられた。
前沢盛徳小学校 菰原の泉清兵衛、道新の野島周蔵、草島の相原頼温は各自で寺子屋を開いていたが、小学校の設立に協力し合い、前沢盛徳小学校を創設する。野島周蔵は慶応元年に碑が建てられている。門下に漢詩人橘有鄰(慶応元年九月一日〜昭和十一年五月七日、号詩竹)がいて、明治五年から七年に学んでいる。そこから小学校設立後も寺子屋が継続されていたことが分かる。
松井温山 寺田新で住民子弟の教育に尽くし、碑が建てられている。
松尾甚兵衛 東谷四谷尾の医者で、夜学を開いて初等教育に努める。後に碑が建てられた。
松本小学校 松本の菅野深證と外沢端新の藤木養堂は小学校設立に尽力し、松本小学校を酒井周斉の塾に置くことに漕ぎ着けた。藤木養堂はここで教えている。
満法寺 上段上宮の満法寺住職平野観龍は嘉永の頃に寺子屋を開き、それを徳輪が受け継ぎ、明治五年まで教育を続けた。寺子は下段東部からも通って来た。六年十月十日堂宇を小学校に提供する(九月の記録もある)。
村崎勇三(号一茶) 高野沢新の医者であり、村の教育にも尽力した。下段北部からも寺子が通って来た。後年碑が建てられている。
十、舟橋村
●特色
 農事で多忙な地域であり、二軒が残された碑により確認できるだけであるが、門弟は多かったようであり、幼年から青年に至るまで教育している。
●師匠の略歴
稲田六三郎(文化七年一月〜明治十七年十一月) 竹内村に生まれ、父は与七郎。初め竹雄徳右衛門を名乗り、後に六三郎と改めた。農業の合間に書物などで学び、やがて住民子弟に教えるようになった。算術を能くし、加賀藩から肝煎役に任じられ、新川郡の測量方に就任する。安政五年二月の大地震で常願寺川の堤が決壊した事を憂い、高原野と末三箇野を耕すことで今後の災いを除いた。この功で藩から白銀若干をもって賞せられている。明治二年のばんどり騒動では、十村朽木家の手代として一揆勢と対峙した。明治六年地租改正に尽力し、測量方として門弟数十人を率い田畑を測った。二十一年十月に碑が建てられ顕彰されている。
十一、滑川市
●特色
 町人文化が成熟していた町であり、享保以降は売薬業も盛んになったことも関係してか、寺子屋が以
前から多く設けられていて、町役人は元和(一六一五〜一六二四)の頃より教育に携わっていた。
●師匠の略歴
今尾屋重助 規模の大きな寺子屋を営み、仮名文字 数字を覚えさせた後、十干十二支 村附 宿附 商売往来 国盡 消息往来 状之文 実語教 辧状庭訓往来で学ばせた。女児には女大学を用いている。毎月二十五日には些少の蝋燭料で天神講の行事をし、菅公の肖像に礼拝した。また三月二十五日に北野村天満宮へ参詣する日と決まっていた。
大掛屋三郎右衛門 武士であったが元和の頃町人に転じ、町役人として町の発展に尽くした。寺子屋教育はその一環であろう。
四歩一屋 元武士本藤喜左衛門は天正慶長頃台網場を開発し、四歩一屋の祖となった。寛文二年二代四郎兵衛が蔵宿となり、宿肝煎に就任する。元和六年喜左衛門法西(小兵衛)は浦方肝煎に就いた。甚左衛門は元禄の頃に寺子屋を開いている。
長泉寺 天台宗寺門派長泉寺八世義勝(字仙應)は経書を研究し、儒学に造詣が深かった。明治六年に『論語詳細』を著す。九世義行(字惟孝)は寺子屋を開き、町の教育に尽力した。十世義成(字周應)は医者になり、教員にも就任した。明治十一年開達小学校の女児分校が置かれた。
成瀬伊左衛門 屋号は市江屋。寺子屋を開き、学制頒布の後も明治三十七八年頃まで未就学児童を自塾に集め、手習いを継続していた。没後には大態善吉が継承し、大正に入っても字や珠算を草廬で教えていた。
十二、黒部市
旧黒部市域
●特色
 句会が開かれ、各村で識者が教育にあたった。不自然ではあるが、八心大市比古神社桜井家以外に寺社の開塾が確認できない。
●師匠の略歴
車屋吉右衛門 祖は石田館の館主である。生地で慶応年間に百名程を教えた。
峯村家 三日市で十村神保氏の手代をしていた長次郎(号蘭甫)は俳人であり、俳句額を牧野神明宮に奉納している。御家流の書を能くし、天保の頃に寺子屋を開く。仮名を覚えさせたら名頭 村名宿名 国盡 商売往来 寺子屋教訓書 農業往来 消息往来 実語教 童子教 日用状の文 庭訓往来 今川教訓書 義経腰越状楠教訓書等を用いて教えた。ただし中等以下は消息往来までであり、上級者へは読方を口授していた。帳番横目の役を設けて下級生を教えさせたので、百六十人もの寺子を抱えることが出来た。在籍年数は三年程であったという。子息長次郎が継承し、四・五十人程を教えている。
山原松兵衛 天保の頃に萩生村八幡宮近くで開塾する。明治十年十月二十四日に没したが、十六年五月に筆塚が建てられた。
旧宇奈月町域
●特色
 農事に多忙で人口も少なく、この地域独自の寺子屋は無かった。学制頒布後に住民の手で夜学が開かれている。
●師匠の略歴
夜学 明治六年浦山の善巧寺を使用し、住民子弟のため夜学が開かれた。翌年に願蓮寺に移り、生徒呼び寄せ人足十人を九銭の手当てで雇い、農業の手伝いを終えた児童を呼びに回ったそうである。
十三、魚津市
●特色
 魚津町は魚津郡代(在住)と町奉行所が置かれた町であり、それゆえ寺子屋師匠に足軽身分が多い点は他地域と異なるところであった。女児の寺子屋通いも特別なことではなかった。
 『魚津町誌』によると、以呂波(平仮名)や片仮名を覚えて日記に入り、名頭 町村名 宿名 国盡 物産往来 商売消息往来などに移って、書簡文回章を習熟させた。女児には女大学や女今川を用いている。春秋の束修は上等が八百疋 中等が二朱 下等が一朱程であった。
●師匠の略歴
伊藤刑部 祖は奥州武士で、島尻村に定住する。藩政初期に十村肝煎を務め、代々刑部を襲名する。三代目は三ヶ国十村頭、四 五代平三郎は無組御扶持人、六代平右衛門は享保九年御扶持人大布施組才許であるが、七代目は病気がちで衰微した。八代目刑部は寛政二年に高岡蓮花寺村等五十石を拝領し、山廻役、九代目刑部左衛門は天保の頃、十代目刑部は弘化から明治まで山廻役に就任している。寺子屋を開いたのはこの十代目と考えられる。明治六年十一月嶋尻小学校を自邸に創立し、首座教員に就任する。その後片貝谷村長に選ばれた。
加藤家 魚津町大字十人町(現東小路)の足軽。常右衛門が開塾し、弘化から嘉永にかけ常之丞が継承した。
加藤家 十人町の足軽。市右衛門は金沢加賀藩士早田儀左衛門より書を学び、土師流を得意とした。文政頃に開塾し、算盤も教える。男児百十名女児二十名程が通っていた。嘉永頃に養子の准八郎が継承し、男児百十名 女児十五名程が通っている。
小塚数右衛門 四十人町(現紺屋町)の足軽で魚津郡代役所付下士兼捕亡係。八・九歳頃に加藤市右衛門に学び、その後二十年間金沢で原勘右衛門、富山で恒川泰蔵に師事した。弘化元年開塾し、算盤も教える。男児百名女児三十名が通った。謡曲も手本を書いて教示した。学制頒布後、魚津明理小学校で習字を教え、二十一年二月十八日八十歳で没した。
佐々木徳右エ門 東布施村五ケ村には寺子屋が無く、明治五年に村々で協議し、村の有力者で書に優れた現布施爪の佐々木徳右エ門に頼み、自宅で寺子屋を開いてもらった。翌年そのまま釈迦堂小学校に移行した(大石九左衛門邸に創立したと書いてある史料もある)。
沢田家 十人町の足軽である。書家として名を知られていた六左衛門が天明八年に開塾すると、男児七十名女児六十名程が通い、算盤も練習した。長子栄左衛門は父に学び、天保頃に塾を再興している。男児七十名女児五十名程が通い、戸島吉太夫や吉田与三右衛門もその中にいた。
椎名三郎 祖父は十二貫野等山野開削の名手道三、父は新田裁許を勤めた孫市。明治三年早月川筋堤防調役、同五年新川県第四大区小四区戸長、同七年第六大区副区長等を歴任した。子息敬太郎は足尾銅山で病没。
高田従兵衛 十人町の足軽。臼井源右衛門(金沢加賀藩士で歌人 臼井長左衛門憲成の関係か)に学び、弘化の頃に寺子屋を開く。算盤も教えた。
山越弥次右エ門 島尻で寺子屋を開き、村の教育に尽力した。碑が建てられている。
十四、朝日町
●特色
 新開地もあって明治前後に急増し、村盡や消息往来等を用いて書くことを中心に教えていた。従って読みや算盤は軽
視されていたようである。
●師匠の略歴
松林寺 泊の曹洞宗松林寺住職大円は寺子屋を開く。楠公父子の事績を称賛していた。師匠の影響を受けた門弟に上町綿屋の加藤屋次郎兵衛子息謙次郎がいる。十七歳で江戸へ行き歴史を学んで、大和国十津川の文武館で尊王論を講じていたが、幕府の追求を受け、三十六歳で自刃した。
高田硯安 大家庄村で医業の傍ら教育し、明治六年自邸に小学校を置いた。
十五、入善町
●特色
 他から移住して独創的な教育を実践した師匠により、村民は強く影響されたようである。寺子屋が次々に興され、村に教育が広まった。脇坂家などに残された教科書には、いろは手本 書上手本はもとより、三体広千字文 世話千字文 寺子読書千字文 国盡 本朝三字教 庭訓往来 商売往来 自遣往来 消息往来実語教 単語篇、上級者向けの論語 本能寺合戦 傷寒訳通主方 妙薬奇覧などがある。
●師匠の略歴
一瓢(演暢) 氷見の寺院で次男として生まれ、京で易行院法海(明和五年〜天保五年八月七日)に学ぶ。その後舟見に移り寺子屋を開いた。雲雀山念興寺に住み、一室の弘誓庵を教室に三十余年の間教育に尽くした。門弟には脇坂長蔵と孝平(師の百回忌法要祭文で門弟代表)、藤川五郎平(五郎兵衛)、坂本玄仙、道増源兵衛等がいる。天保八年八月八十余歳で没した。
善称寺 伝えによると寺子屋は開いていたが、文久二年の火事で文書類は残っていない。明治六年六月四十番小学校を堂宇に創設した。
中塚長助 天保末期に青木から道増源兵衛の塾に学び、氷見で覚えた蓑作りの方法を師匠と地元住民へ伝える。これがこの地方の冬の副業になったそうである。ある日蓑を売りに魚津へ行った折り、川宗紙店で紙を求めた所、あまりに見苦しい身なりのため店員に嘲られ、千字文を読んでみるよう言われたので、朗々と読んでみせた。すると高位の役人が民情視察に来たと思った店主が、礼服を着用し三方に白紙を乗せて平身低頭で非礼を詫びたという。学制頒布後も教育はやめず、門弟は寄付金を募り新屋を建て、謹んで師に贈った。
明治九年春病気で伏せ、門弟一同は急ぎ三月頌徳碑を竣工すると、九月に没する。県会議員川瀬八郎、医者滝本久兵衛、村長本多清次郎、で滝本助造はここで学んでいる。
道増源兵衛 飯野道古の農家に生まれる。九歳で上原の正覚寺住職光林に学び、後舟見の一瓢に師事した。師の一瓢を馬に乗せ、三里程の道を和漢古今の書や経世理財について調査し、妻帯の後も農閑期に舟見を訪れては、師に学んでいたそうである。寺子は入善各地 村椿からも通学し、源兵衛も意気投合すると、寺子各人の特性を生かした指導をした。恬淡清廉の人で、家屋敷を売り払って物置小屋に住んでいた。御影石の筆塚が残っている。
脇坂長蔵 祖は近江国浅井郡脇坂の出で、太郎右衛門安貞。新田才許 山廻役脇坂家の分家で、自身も天保十年より山廻を務めた。一瓢に学び、舟見で住民子弟の教育に従事した。

※未確認の寺子屋
 昭和五十六年に前田英雄・布村徹両氏が文献調査している(『富山県の教育史』)が、今ここでは原典に当たれたもの、裏付けが取れたもの、複数の文献に取り上げられているものを原則所載したため、先の調査結果と若干異なっている。そこで今後の参考として未確認のものを記しておく。なお誤記と思われるものは除外してある。( )内は拙者の調査。
 入善町 青木 浄慶寺(開祖新蔵は石山合戦に功があるが、本寺准如に従わず裏方教如に心を寄せたため慶長二年七月斬首となった。寺には寺子屋開設についての伝承はない。明治六年六月第四十番小学校を善称寺と分置した)
 同 古谷津右衛門(明治六年六月から七年八月まで入善小学校の雇教員となる)
 同 田原(現在町内にこの姓はないが、古文書では確認できる)
 滑川 本町 上野屋時次郎(上野與三郎や元禄年中に蔵宿を務めた上野屋仁左衛門、宝永から享保にかけ組合頭を務めた上野屋宗四郎と何らかの関係があるかも) 
 富山市 今泉 ? (十村斎藤家は今泉城に入った織田方の将斎藤新五の末裔で、真言宗泉花寺の開基)
 同 布瀬 ? (御扶持人十村高安家は橘諸兄の末裔で、二代目は楠木正成の孫。本願寺派順正寺がある)
 同 草島 誓乗寺(この寺名はない。草島は加賀藩領新川郡と富山藩婦負郡が混在し鎮守も共有する。大谷派西元寺がある)
 上市町 柿沢 吉田観龍(明治六年自宅に徳隆小学校を創設し、校長に就任する)
立山町 谷口 和田喜兵(天保十三年八月東谷村谷口に生まれ、明治三十一年一月から三十七年一月まで東谷村長を務める。紫雲英の栽培と植樹を行った。大正七年七月没)
 同 日中 鳥居三右衛門 明治四〜六年(現在の鳥居家に寺子屋師匠であった伝えはない)
 八尾町 三田 佐藤嘉四郎 明治五〜六年(保内村で村会・郡会・県会議員や村長を歴任した佐藤元五郎[明治二年〜昭和十二年]の縁戚か) 
 細入村 猪谷地蔵堂(橋本家のことか)
 小矢部市中央町 長福寺(十四世恵月は既述。寺に寺子屋開設の伝承はない)
 福岡町 土屋 小山素軒(十村を務めたこともある素封家。現高岡石堤長光寺十七世東林との付き合いが深く、手習手本が残っているが、自身或いは自家の練習用なのか門弟用であるのかは判らない)
posted by ettyuutoyama at 18:28| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第四章 寺子屋の師匠〜砺波・射水

一、砺波市
旧砺波市域
●特色
 砺波郡の中心地で、寺院 神社 医者、その他多くは役付 有力者が従事した。重点を置いたのは習字であり、平仮名 片仮名 数字の他に教科書には十干十二支 村盡 往来物 千字文を用い、上級者の素読には実語教や四書等を使用していた。俳句や歌なども盛んであった。明治六年頃にはすでに簡易小学校があったことを確認できる(太田村入道忠兵衛、北般若村林太郎右衛門など)。
●師匠の略歴
上田謙斉 名は仁十郎。祖泉(現礪波市)出身で、医者の修業をする。五鹿屋荒高屋に移り、小幡増水と協力して上流家庭の子弟に小学や四書五経を用いて素読までを教えた。
遠藤喜三郎 神島で開塾する。明治維新以後副戸長を務める。学制頒布の際、節文小学校の教員となった。
小倉孫左衛門 祖は石山本願寺の門徒として天正の頃活躍し、その後は不動島を開き小倉の土居に住んだ。孫左衛門は金沢で漢学を学び、天保の頃に鷹栖で四書五経までを教えた。天保十四年に碑が建てられる。
小倉定見 長崎で清国人から眼科術を学び、帰郷後に鷹栖で開院する。文政頃より教育にも携わった。建てられた塚には「花に暮れてしばしば花の明かな」とある。
小野惣二 太郎丸で組合頭を務めながら、教育に従事する。後に門弟は筆塚を建てた。
小幡増右衛門 余西佐久平に師事し、五鹿屋荒高屋で十一月初旬から三月二十五日までの農閑期に教えた。ヒバ地蔵堂に碑が建てられた。
小幡増水 天保四年生まれで、父は小幡増右衛門。上田謙斉と共に漢籍までを教えた。
小幡宗平 嘉永六年に生まれ、五鹿屋荒高屋で明治三 四年頃農閑期に二年間教えた。
柏樹三郎右衛門(籌山義運) 文化元年生まれ、五鹿屋荒高屋で中流以下の村民子弟が通った。明治二十八年に没。十二年三月碑が建てられている。
金子宗右衛門(文政三年〜明治十九年八月十五日、号露仙) 金子家は古くからの土豪で、藩政期五代目と六代目は十村に任じられた。十五代目宗右衛門の次男として生まれた半兵衛は六歳で父を喪い、二年後親戚の安念安兵衛(号雪江)弟が入婿して十六代目を継ぐ。天保四年に兄半次郎が没し、家を継ぐ立場になった(後年十七代目宗右衛門を襲名)。弘化三年十村島助九郎より村組合頭に任じられ、明治十年まで務めた。その後は村会議員に選ばれ、十八年まで治水 コレラ対策 検地等に奔走した。旅を好み、近畿 江戸 四国等を周遊する。俳諧集も出した。学制頒布まで村民教育にも尽力し、五年には学務委員になって太田郁文小学校の創設に努力する。
河合三介 東野尻野村島で開塾する。明治九年東島に碑が建てられた。
河合多母津 神島で代々神職を勤める家で、国学者で能書家でもある。漢方医でもあった。寺子は林や鷹栖出から通学している。
川田七四郎 新明村に開塾した。野村島の河合頼定(安政五年〜大正十三年)は五歳で入門し、後に医者になっている。明治に入って筆塚が作られている。
厳照寺 栴檀野福岡厳照寺住職西脇興顕は教育にも尽力し、明治十九年七月碑が建てられている。
清原庄兵衛 初代は弘治二年に新明へ移住し開拓する。子孫は肝煎を務めた。碑がある。
小鍛健斎 藩政後期に開塾する。嘉永元年に碑が立てられた。
西慶寺 般若頼成にあり教育にも尽力する。明治十五年五月に門弟により建てられた「善永先生之碑」がある。
斉藤宗庵 祖は小矢部の福住村から移住して福泉屋と称す。柳瀬新で代々医者を務めた。祖父宗玄は天保七年五月十六日華岡青洲の大坂分塾合水堂に入門している。宗庵も医者で、教育にも貢献した。大正七年六月に碑が建てられる。
佐藤家 佐藤喜右衛門は出町で組合頭を務めつつ、教育にも携わった。子息喜三治が継ぐ。
真行寺 江波で代々寺子屋を開いたという。維新前後には寺中の朝日新左衛門家屋を補修して使用し、明治十年には矢部村境の隆文小学校を移した。
佐伯円次右衛門 東宮森で医者をしながら寺子屋を開いていた。地蔵堂境内に碑があり、藩政末から開いていたとの伝えがあるが、医者を継いだ子の秀作が苗加村の河辺正三(陸軍大将)従姉妹を妻にしたということからすれば、実際は明治前半から中期のことであろう。
杉下碧(天保二〜明治三十八年) 日詰の杉下家四代目で、文久元年半雪居、野鶴に入門し、明治元年に俳号青嵐を授かる。後に掃月庵西蘭と号した。俳諧宗匠であるとともに、漢学や蘭学(医薬)を修め、小学校教員を務めた。水島でも開塾したとある。
専念寺 八世平野順照(元文二年〜文政三年九月十八日、号雄水)は清廉かつ謹厳で知られ、五男でありながら継承した空月(天明四年〜天保十年十二月四日、号蟻術庵)は父に学び、仏教を講じた。一方で瑞泉寺からの講演依頼は断っている。庫裏前に草庵を設け、御堂廊下に本願寺雲華(豊前の人)筆の蟻術庵と書いた大額を掲げた。唐金屋雪幸もここに来て句会を開いている。十一世玄照(文政十年〜明治二十七年十一月四日、名一画、号東華)は幼年より詩を能くし、能筆で知られていた。蟻術庵を用いて寺子教育に努めた。まず自筆手本で変体仮名等の仮名 数字から入り、十干十二支 村盡 千字文 百姓往来 四書五経へと発展させた。また行 草書を基本とし、楷書は上級者が練習した。珠算は置算や八算見九の加減乗除を習熟させた後、土地丈量等の実践的なものから開平 開立まで教えた。経蔵を建築し、本堂を広げ、土蔵の傍らに茶室を設けた。華厳に精しく、本山より三度賞せられ、越中総代組長になる。教校係兼教授、高岡教校に教鞭を執り、その後は自坊で僧侶を教育している。八世以降の住職を記した「招喚坊雄公之碑」を建立し、業績を讃えている。明治五年五月に新川県庁に家塾設立願いを提出し、僧侶の存在意義を習字・読書・文明の風俗を教え、人材を育成することにあると記している。
善兵衛 苗字は出分で、二代目善兵衛より三代が師匠を務めた。三代目は庄下高道の熱心な真宗信者で「阿弥陀の善兵衛」と呼ばれた。幼年時父に就き、また母の実家が三谷(庄川)にあるため西蓮寺でも学んだ。文政年間に家庭生活の心得書を著し、仏教を通じた修身を説いた。安政六年に没する。四代目は組合頭 肝煎、維新後は組合長 副戸長 戸長と進み、明治十二年二月には矢木村外七ヵ村を束ねる戸長役場で用係に就任した。明治十五年七月十三日に没した。
宗八 藩政末期に庄下大門で開塾する。正行寺裏に碑がある。
高畠文伯 出町の医者。能書家として知られ、読み書きを教えた。文吾と記した本もある。京で医術を学び、新中町で嘉永から明治二十年頃まで開院する。御郡所御牢舎医師を務めた。俳句も能くし、号は巨渕である。養孫文太郎は井波税務署に勤務した。
中居三郎 天保六年に生まれ、二十四歳の時に五鹿屋五郎丸で、一月初旬から三月下旬の農閑期を利用し、七年間教えた。
藤井四右衛門 中野で開塾する。後に村長。明治十二年五月碑「正心明」が建てられている。藤井家の祖小右衛門は福光宗守城主で、永禄六年上杉軍により落城の後家臣の畑仁右衛門、横山長次郎、清原甚右衛門、飯田忠右衛門、今井兵助、高松八兵衛とともに移住し、中野村を開いたとも伝えられている。
藤井長太郎 安政六年八月二日生まれ。中野の藤井家一門で醸造業を家業とし、四右衛門に学ぶ。後に村会議員、村長、県会議員などを歴任した。
松田快禅(嘉永四年〜昭和十七年七月十五日) 芹谷千光寺で修業し、河合平三に漢学を学ぶ。壮年時歩行が困難になり寺を辞すが、請われるまま開塾すると山田村 金山村 石動町からも通学してきた。自筆教本で手紙文の読解と書写をさせた。千光寺境内山門傍に碑がある。
水野達治(嘉永六年〜明治四十一年) 桃井皐元に八年学び維新後開塾する。入門者の年齢は比較的高かったそうで、筆塚が建立。十八年琢成小一等授業生、二十二年五鹿屋村収入役、三十三年助役就任。
水上理平(文化七年〜明治十八年) 初代は寛永四年に中野村へ来住する。文久元年に山廻裁許になり、庄川・小矢部川支配役に任じられ、十村へ進む。子息の良作は高岡信用金庫頭取。明治三十三年五月に碑が建てられた。
宮崎小左衛門 文化八年に生まれ、通称は十太郎。鹿島で十二月初旬から三月下旬までの農閑期に教えた。寺子は三・四冬で卒業するのが常であった。没後碑が瑞光島で元治元年に建てられた。
桃井光玄(義徳、号皐元) 祖は守護大名の桃井家に連なる。代々野村島の医者であり、皐元も京で医術を学んだ。農閑期に読み書き算術を教える。明治二十年十一月碑が建てられた。
山本氏 栴檀山五谷に生まれ、俗称を小谷家といったが、名は不明。盲人であるにも関わらず、読み書きを指導していた。
吉田和右衛門(文政八年九月二十日〜明治二十年八月十二日) 号は水底庵、、芳樹園、龍石、幼名平吉、父和右衛門の長男に生まれる。金沢で梅室門の大橋卓丈に俳諧を学び、安政五年俳諧集『藁綴』を刊行する。画も能くし、神社に絵馬を奉納した。寺子屋を開くと近隣村々より寺子が通った。多くの句を残し、絵も描き、手品の趣味があったという。改姓して黒田となる。
余西家 五鹿屋五郎丸の余西佐久平が、読み書きを三十二年間教え、その後は子息二人が継続して教えていた。次男佐久平の門弟は、明治十一年五月に師匠の碑を建てている。
旧庄川町域
●特色
 この地域は村役人が識者であり、教育にも従事していた。沖田兵吉、森田助七、その他左に記す師匠の碑が残っていることから、師弟関係の深さが忍ばれる。また師匠役も南部源三郎が隠尾城主の後裔であったり、但田九左衛門の出た但田一族は但馬国但田村の真宗門徒で本願寺の寺侍であり、井波瑞泉寺建立後に警護役と松明役としてやって来た、というように由来のある人物が当たったりしている。
●師匠の略歴
沖田兵吉 青島村上村で二十名程に教える。没後、明治二十七年三月井波町光教寺雄上良伯手蹟で碑が建てられる。
光照寺 東山見の光照寺十八世住職師道は書や詩に秀で、寺子は金屋や青島から通学した。坊内に頌徳碑がある。明治六年八月二十一日堂宇を済南小学校に提供した。弟真利は天井絵や襖絵で有名。
斉藤家 祖は石山合戦で活躍した瑞泉寺支配斉藤刑部の一門で、藩政期に代々青島で十村手代や村役人を務める。藩政後期に治兵衛(号暁臺)は井波町の与五郎(寺子屋か個人的かは不明)に学び、中田町木沢源五郎の手代として金屋岩黒村御用所に勤務する。能書であり寺子屋を開く。冬季の農閑期を利用し集中的に教え、寺子は上村 下村 示野より九十名程が通う。碑が建てられた際の碑文は高岡木町の称徳寺住職による。孫の平治(天保四年六月十六日生まれ、明治四十五年二月に隠居し庸志と改名、号暁峰)が十八代目を継ぎ、三清村武部家の手代を務めながら、寺子屋も継承する。毎年一・二ヶ月ほど帰宅した際に集中して教えた。門弟は明治二十六年八月碑を先代に並べて建てた。碑文は福野町の崎良平による。明治五年第五大区区会所租税方書算役、七年小一区戸長、十八年金屋岩黒村等十四ケ村の戸長、二十二年初代青島村長に選ばれ二十二年間務めた。生花や書画も好み、村で初めてランプを使ったとも伝わる。長男嘉麿と孫の平三も青島村長を務めている。
藤井家 雄神神社神職藤原氏の藤井家は、文化頃六十二代従五位下備中守秀直(安永六年十月相続)の代に教育にも従事し、三十余名を教えた。文政十一年十月十日に没した後は、明治初年まで妻の鈴子と子息幸麿が継続している。門弟は父子塚を建て顕彰した。
二、南砺市
旧福野町域
●特色
 砺波市と同様に、寺社や医者、町 村の有力者が携わることが多い。俳諧が盛んで、能書家を輩出する土地である。寛政の頃に句会が頻繁に行われた。それだけ知識人がいた地域である。
●師匠の略歴
新井伊右衛門 高儀村字御旅屋島で組合頭を務め、教育には安政の頃から携わっていた。明治六年に高儀村学区取締になっている。二十年十月二十二日六十六歳で没すると、二十六年師のため野尻古村用水の辺りに石碑を建てた。
勝田吉兵衛(文化十年〜明治二十年八月三十一日、号竹翁、徳里、明治三年五月吉治と改名) 東山見村金屋で生まれ、二日町村へ移住して十村役菊池家の手代になった。弘化四年十二月御収納米改良の功が認められ、藩から銀十五匁を拝領する。野尻村に移って土師流や御家流の書を能くし、明治三年からは苗加村等でも教育に当たった。明治五年六月砺波郡第十八番大区小二区戸長に就任し、翌年野尻村学区取締になった。子息宇吉郎が塾の様子を語った所によると、手本は四日単位で次の物に進み、清書の評価は紅殻で線を付けて表し、佳良は二本線、次は一本線であった。謝儀は米五升から一斗、正月と盆暮れに豆 小豆 胡麻 餅米二升程、天神講にも少しの包銭があったそうである。
 子息の宇吉郎(嘉永四年十月四日〜明治四十二年十二月五日)は父に就き、その後漢籍を福富春涯に学ぶ。また北宋の文人政治家蘇軾(号東坡)の詩 書から大いに学んだという。文久三年銃卒の訓練を経験し、三年間小隊長を勤めた。その後は十村役手代見習を経て、維新後明治十二年野尻村外十三村戸長役場書記に就任し、翌年学務委員になる。十七年七月に戸長、二十二年十二月十七日より二十年三ヵ月村長として村の発展に尽くした。
河合喜世志 野尻村神職の家に生まれる。天保頃に開塾した。書風は土師流に近く、明治六年十一月から十二年三月まで野尻小学校(八年四月遷喬小に合併、九年三月近思小として分離)教員に就任した。十三年七月邸内に天神堂が建てられ、大正初に石武雄神社境内に改築された。毎年八月十六日に祭祀が継続されている。
河辺次郎左衛門光正(文政九年七月六日〜明治十四年九月二十六日、号雪州) 祖は近江国苗鹿の武士で弘治二年前田利家に属す。永禄四年次郎左衛門が砺波郡に移り、その地を苗加と名付け帰農した。元禄三年苗島村に移って十村石黒組才許になり、以後安永二年まで五代にわたり努めた(寛文七年石高三百七十石)。父は苗加村川辺中蔵で、苗嶋村次郎左衛門尚重の養子になる。富山で漢学を大野 佐伯両家で修学、市河米庵には書を学んだ。寺子屋を開き算盤も教える。門弟は苗島大曲がりに碑を建て師を顕彰した。砺波郡算用聞役、明治三年には五箇山の小谷 利賀両組裁許十村を経験する。
河辺純三 安政三年に生まれ、金沢で竹下塾に漢学と国学を学ぶ。農業の傍ら読み書きを教え、後に教員になった。子息の正三(明治十九年〜昭和四十年)は陸軍大将、第一軍司令官兼航空本部長に就任、虎四郎(明治二十三年〜昭和三十五年)は陸軍中将、参謀次長。インパール作戦に深く関わった。
空泉寺 石田村空泉寺安達家十九世住職弘岸(字之達、号雪嶺)は非凡の才で信望を集め、文化十三年十一月十八日五十八歳で没した。二十世弘西(字思明、号石溪)は十七世智光の系譜で、文政初年に雲龍山(富山別場)の主となり、京で浄土論を説いた。天保六年九月二十七年六十八歳で没する。嘉永三年七月に碑が建てられた。二十一世弘音は能書家で、多くの子弟を教育した。後に神能と月交替で教えた。寺子は石田 田屋 広安 八塚 安清 森清から通ってきた。明治六年十月二十四日自坊を石田小学校(翌年一月率性小学校と改称)にし、教員に就任した。
五島家 浦町薬舗鷹栖屋であり、四代にわたって寺子屋師匠を努めた。最後の三六こと寛平(号潤亭)は、弘化から明治にかけ毎年四十〜五十人を教え、上級者には四書へ進ませた。俳句 書画 生花 謡曲も能くした才人であった。安居寺公園に句碑がある。次の二代目寛平は桜蔭書屋を設け、明治二十四年に郵便局長になった。三十七年十二月に四十九歳で没する。子息寛平は明治十八年十月十二日に生まれ、金沢英学院を卒業して福野農学校で英語講師となる。父の後任として明治三十八年から昭和二十九年まで郵便局長も務めた。
柴田方中 浦町の医者で、号は元寿。父の金蔵も京で学んだ医者で、号は東陽(東洋)。元治二年の西方寺境内、砺山句碑建立無尽講にも参加している。
神能善四郎 広安村で開塾。後に安達弘音と交替で教え、寺子は月別で交互に通学した。明治十年自宅が率性小学校になった。
武部和尚 三清は福野と井波の境で所属も曖昧かつ武部姓の多い地域であるが、便宜上福野町とした。明治二年二月の凶作に際し、細民二百名が親作へ納める米の減額を哀願している。
等覚寺 住職河合増林(寳林、号保齋)は天保頃から教育にも従事し、書風は土師流に近いもの
である。医者も兼ねていた。明治七年五月十八日六十七歳で没。十年十一月坊内に碑が建てられた。
長岡勘右衛門(号静芳、成鳳) 代々経師(表具)を生業とし、武者絵などが得意であった。能書家でもあり、教育に従事した。明治初年に文部省より表彰される。十三年に没した。
福富家 福富家の屋号は二日町屋であり、二代目平左衛門こと与太郎(字真平、子衡、号翠園、春涯、有章)は俳人であり能筆家でも知られ、天保の頃町内で開塾する。上級者は漢籍に進ませた。門弟は数十人、居宅を有樹館と名付けた。子息三代目平左衛門こと勝太郎又は定愨(字伯宣、号錦園)は父から経学や詩文を学び、崎良平にも師事し漢学を修めた。父子は京の漢学者劉君平とも交際があった。書風は米庵流である。明治二十八年十一月に門弟は恩光寺坊内に父子の碑「雙美之碑」(碑文崎良平)を建てた。
古瀬佐兵衛 上川崎村で文化の頃に開塾する。高参寺門前に顕彰碑が建てられた。
村元甚蔵 安政の頃に下吉江村で開塾し、明治七年二月自宅を下吉江小学校とした。
旧福光町域
●特色
 俳句や書などが盛んな地域であり、地方では寺を中心に住民子弟の教育に努めていた。私塾や郷学の活動も活発であり、小学校が明治五年から創立されている等、教育には理解のある地域であった。
●師匠の略歴
氏家庄助 福光西町に開塾した。能書家で珠算も教える。門弟は師匠を頌し「庄助塚」を建てている。明治六年自宅階下を小学校仮授業所に提供した。
片山重助(佐助)(号遊亭) 安政元年に福光町内で開塾する。屋号は江田屋。能書家であり、画にも通じていた。門弟は西町に筆塚を建てる。後に坂本山に移した。慶応二年に没。
本敬寺 祖谷本敬寺十三世住職庵芳運は、明治三年から教育にも従事し、六年二月に白山坊舎の一部を小学校に改め、自身が教員になった。大正十二年十月に碑が建てられている。
旧城端町域
●特色
 城端町は寺の町であり、教育にも寺が多く関わっている。また井波町と同様宝歴から寛政にかけて芸術が絢爛の華を咲かせた。俳句では金沢から梅室(桜井能充)門の宗匠大夢(直山宗四郎)が嘉永五年に天満宮菅公九百五十年祭に滞留し、詠進俳句の撰者になっている。水月庵の北隅には津幡屋良平(画号堀川雪郷、雪江、俳号巨山)の筆塚がある。七代小原几好とも交際のある俳諧人であった。書にも薫其昌流と頼山陽流に秀でた宗林寺の糸屋伊藤一曹(号袴腰山樵逸叟)がいる(明治初年に郵便局長)。
●師匠の略歴
有川文助 出丸出身で、城国寺前に民家を借り、男女に教えた。妻も女児に裁縫を教授した。
海乗寺 北野村海乗寺住職利波豊賢は金沢から養子に入り、弘化 安政の頃に書や珠算、上級には四書を教えた。祖は平家の落人。利波臣の分脈ともいう。稲垣姓で大鋸屋村上田の真言宗山伏であったが、文明十三年に北野三ケに移り、貞享三年寺号を許される。明治以後に天満宮社掌となった。ここの豊賢は歳から考えると、直枝(天保九年〜明治三十二年)の先代であろう。直枝子息も豊賢で俳号は仙泉。後に明治三十年富山県師範学校を卒業し、翌年神明宮(明治以前は山伏相善寺)社掌井頭家に入っている。
寛貢 元会津士族で、旅僧になり諸国を巡って城端山田村に留まる。そこで書 珠算や俳句を教えた。門弟には明治四十一年に村長兼信用組合長になった大窪の西村三助(俳号松林)等がいる。
専徳寺 金戸で明治維新以後も寺子の教育に尽力し、六年自坊を金戸小学校に提供した。
宗林寺 以前より寺子屋を開き、教育に従事していた。ここを借りて師匠になったのが佐伯直吉で、週に一度は夜学も開いていた。寺子の年齢は十一 二から十五 六歳が多く、稀に八 九歳がいた。授業には天変地異 西洋夜話 窮理図解などもとり入れ、父母は寺入時に師匠へ鮮魚、同門には生菓子を配り、中間 歳暮 五節句に礼金を修めた。明治六年に小学校長取扱に就任している。
旧井波町域
●特色
瑞泉寺十一世浪化が元禄七年に京で芭蕉に入門していることもあり、俳句などの町人文化が成熟し、寺子屋教育も町人が主導権を取っていた。主に商家や村役人が兼業で従事している。 
●師匠の略歴
岩倉仁兵衛 屋号は坪野屋で、北川に開塾する。明治五年に碑が建てられた。
宇野甚之助(号霞條) 屋号は塩屋で八日町で開業していた。旧家であり代々俳句に秀で、自身も井波俳壇で活躍した。明治五年井波八幡宮境内に門弟が謝恩碑を建てた際、自筆の句「名にしらばしらばや梅の咲くところ」が刻まれた。表は田川才助筆「以義達道」である。
 宇野家の祖は源頼親で、頼治の時に大和国宇智郡宇野村に居住し宇野と称す。その後に戦国の混乱の中で庄兵衛宗治が天正年間に井波へ避難し、以後宇野家は塩屋を屋号にして大いに栄える。甚之助もその一門であろう。俳人も多く輩出し、樗良門下の治良助(号木吾、松琴亭)や孫の治良助(号樹庭)以後の当主次四郎(号樹峯)、次四郎(号井里、久敬堂)は著名である。中紅染や井波紬織、後に醤油醸造を家業にしていた。井里は田川才助や小川大夢に学び、瑞泉寺台所門の長屋太鼓部屋(非番近習の部屋)で大夢の講義を陪聴する暇に詩会を開いている。明治六年四月に井波小学校に勤務し、校長に昇任して十六年に退職、その後は助役や銀行重役を務め、大正十年三月八日に七十二歳で没した。
亀田家 代々清玄寺で村役人を務め、天明年間に十三代目が開塾した。十五代三郎右衛門(文政四年〜明治二十年)の頃は、井波に止まらず福野からも多く通っていた。
斉藤八郎 代々医者を務めた家で、時代からすると孫八郎のことであろうか。明治十五年に筆塚が建てられている。十一年に生まれてすぐ井口家から入った養子八郎(号素影)は幸田露伴門下で、高浜虚子の同人である。
名倉仁兵衛 屋号は岩倉屋で北川に開業していた。明治五年に門弟が北川神明宮境内に碑を建立した際に、自筆の「筆博芸」が刻まれた。
箭原家 今里で五代目伊兵衛が開塾する。六代目久蔵がこれを継いだ。明治二十二年今里神明宮境内に門弟一同が謝恩碑を建てている。
山見八幡宮 神職を勤める山森一麿は能筆家であり、御家流の書風であった。教育にも力を入れていたが、明治六年に二十歳で没する。弟雄男が志を継ぎ、三十年頃まで不就学者を集めて知識を授けた。
 山見八幡宮は明治元年まで修験宗三寳印末派實相院権大僧都であり、一麿の父は天保二年に寳住院来教の免許を受けている。祖は源氏で、明治元年八月一麿が復飾し山森姓を名乗った。
旧井口村域
●特色
 住民の多くが農業従事者であり、寺院が文化と教育の中心であった。
●師匠の略歴
光徳寺 井口の光徳寺住職恵実は住民子弟の教育に力を入れ、年間を通じて寺子屋を開いていた。寺子は男子で十三 四から十七 八歳、寺入時に師匠へは酒肴料 寺子一同には生菓子か赤飯を配る。謝儀は専ら金銭で支払われ、春に畳代 秋に炭代を納めた。授業では仮名 数字 苗字 村盡 消息往来 百姓往来 千字文等を順々に教えた。「定」を作って寺子を戒める一方で、天神講等の行事を通じて師弟関係を深めた。
旧平村域
●特色 
 村役人や素封家では、名頭 名物往来 消息往来等を買い求め、子弟の学習に用いている。また一般村民にも、忠臣蔵 加賀騒動 石山合戦記等の軍談語りで文字を覚えた者もいたそうである。だがここ庄川東側の村には流刑地があり、その地に住む人々は流刑者から文字を習った。小谷や大崩島では藩士や流刑者に学んだ者が師匠になって住民子弟に教えている。明治維新後には識字者の需要が増え、各地で寺子屋が設置された。小栗栖や田向等の念仏道場(本願寺派と大谷派が共存)にも設けられ、男子が合計して三・四十名は学んでいたようである。関連して、『富山県教育史』に「野原うしちま」という語があるが、よくわからない。 
●師匠の略歴 
瑞願寺 史料には下梨の瑞願寺で井波から宇野という師匠が出張し、男子十数名に教えたことが記されている。この人物は宇野甚之助であろう。なお瑞願寺は瑞泉寺の大谷派帰参に大功がある寺である。
流刑人 五箇山の流刑人は殿付けで呼ばれて扶持米の給付があり、平小屋入りであれば居村内を出歩いてもよかった。そのため村民子弟から請われるまま学問を教授する者もいた。文政五年九月から安政三年六月まで篭渡や大崩島に流されていた林与八郎(御鷹匠伝左衛門の次男)は習字手本として村盡を残している。嶋村の丘村隆桑は流刑人から字を習い、勧められて金沢や長崎で医術を修得し、明倫堂で教鞭を執る。廃藩後に『養蚕弁論』を著し、石川県へ産業振興を建白した。この流刑人は桑原君(甚)平(文政九年十月二十日から天保十一年七月十二日、平小屋)という伝承もあるが、矢木清四郎(御徒、安政四年六月八日から明治元年三月二日平小屋九尺×二間)かもしれない。矢木は村の若者に字を教え、初代村長になる池田庄次郎もその一人である。田向村の水元作平も流刑人から医術を学び、明治初年に種痘を行っている。この人物は篠田余太夫(御馬廻組、文政十三年九月二十日から安政五年十一月十日平小屋二人扶持)であるかもしれない。篠田は嘉永元年に疫病で亡くなった村人の墓碑を書いている。大崩嶋の流刑人に学んだ山下弥兵衛は杉尾小学校で教員に就任する。この流刑人には井関達之助(定番御徒)と鍋屋藤吉(嘉永六年六月十五日〜明治元年三月二日平小屋一人扶持 塩薪代二分二厘)が考えられるが、前者は御縮小屋入りであることから、後者である可能性が高い。篭渡村岡田耕作と嶋村沢山三六も流刑人に学び、嶋村小学校の教師になる。沢山は矢木であるとして、岡田は横井大次郎(嘉永三年十一月八日から二人扶持平小屋)かもしれない。お膳の蓋に米糠をまいて字を教えたという。横井は村人に苗字を付け、獅子舞の棒踊り「なぎなたどり」を教え、道場天井絵の画き手や彫刻手を指導したという。猪谷村の室嶋屋四郎右衛門(嘉永六年六月十五日から平小屋、文久二年四月配所替)は謡曲を教えていた。また刑期開けの嘉平という人物が教えているが、流刑人の名簿にはこの名はない。『富山県教育史』には大槻伝蔵も教えたことになっているが、禁錮牢に入れられているため、多くの村人と接触したとは思えない。
旧上平村域
●特色
 寺子屋数が少ないのは住民数から致し方なく、読み書きはむしろ必要とされていた。それは仏教に裏打ちされた地域行事への情熱から来ているように思われる。人々は積極的に祭りの詞を作り、節に乗せて唄った。
●師匠の略歴 
行徳寺 開基は蓮如より道宗の名を授かった高名な僧。その後裔が鳳龍で、単に読み書きに止まらず、優秀者には四書五経まで教えていた。明治九年十月二十一日没。
生田長四郎 生田家は細島で代々村役人を務め、長四郎は父長次郎より読み書きや開平開立 利息 圭朶 倍朶といった実用的な珠算を教わり、道宗鳳龍より四書五経を学ぶ。その後村民教育に尽力し、維新後は明治五年に組合長、翌年初代村長に就任した。産業を興すため明治十一年、弟の水上善治らと協力し小谷川の水力を利用した水車式製糸工場を設立した。なお、水上善治は安政元年から福野町の柴田元寿に学び、万延元年から金沢で河波有道の門で学んでいる。
中谷豊平 種痘担当医を務め、平村へも出張した。村の教育にも尽力し、二代目村長(明治三十八年六月十三日〜四十二年六月)に選ばれた。子息の豊充(明治十八年〜昭和二十年)も医者になり、村長(大正十一年一月二十日〜昭和三年六月七日)や郵便局長に就任した。
水上久左エ門 旧加賀藩士で、道宗鳳龍の没後に明治十年藤井長右衛門邸で寺子四人と共に継承する。この四人は全員高等科を卒業している。十一年西赤尾小学校の創立後は翌年まで教員として務めた。
旧利賀村域
●特色
 寺子屋の無い地域である。住民は必要に応じ他郷に出て学んだり、村役人の師弟は親から実学を教わる程度であった。ただし西勝寺の五谷山文庫には筆跡が違う文政二年七月記の「五箇山往来」と付属の「加越能名物往来」「八尾往来」が残っている。寺子屋はないが、教科書は写されて流通していたのではないだろうか。大勘場口留番惣(宗)八郎は読・書に秀でていた。
三、小矢部市
●特色
 今石動町内には奉行所に与力五人 足軽三十人がいるくらいで、町人文化が成熟していた。元禄十四年六月芭蕉十哲の一人、美濃国各務支考が観音寺住職濫吹の許に三ヵ月逗留し、享保二年に同寺に獅子堂を建てていることから俳句が盛んであった。郡部では十村や十村手代及び肝煎役等の有力者が村民子弟の教育に従事していた。地域的に寺院が多いことにも特徴がある。また父子で従事している寺子屋も複数見受けられ、地域に根付いていることが分かる。
●師匠の略歴
大谷家 七社村の大谷義右衛門は藩政後期に村民子弟の教育に従事し、良(了)哉は明治中頃まで継続している。
大野八兵衛 千石で開塾し、七十歳で没した。安政三年八月に門弟により顕彰碑が建てられる。
柏卯三郎 金屋本江で十村茂太郎に就き書を学び、その後に開塾する。
加茂家 水島村で苗島組十村手代や鳥見役を勤める。庄左衛門(号青州)は金沢で学び、帰郷後開塾し、農閑期に二百名が遠方からも通った。ただし夏季は二十名ほどに激減するが、農業地域としてはいたしかたなかった。子息の沢水が継承するが、弘化四年九月二十二日三十八歳で没した。その弟である青翠も自宅で開塾し、五 六十人の寺子を教えた。書を金沢で高田江清に、画を法眼泉玄に学ぶ。明治三十九年に七十七歳で没した。兄の碑は弘化五年、弟の碑は慶応三年冬に建てられている。
川口斎孝 元加賀藩士で、生まれは河北郡磯部村。東蟹谷平田村で開塾し、近隣から寺子が集まった。明治十五年から小学校教員に就任し、二十年四月一日から校長を歴任している。大正二年八月顕彰碑が建てられた。
光雲寺 今石動町元門前町光雲寺住職の村上真澄は寺子屋教育にも尽力し、弟もこれに協力した。
光西寺 西島村で代々の住職が教育に従事し、立島順翁は明治中頃まで継続した。
榊原家 荒見崎(高岡)出身の元熊野神社神主。愛宕寺同行で教勝院と称して付近の神社の神官を務めていた。荒見崎村神明宮や今石動町の鉄砲町で開塾した。藩末の当主左右次の妻で、高岡の熊野神社宮崎家から嫁いだ満都廼(弘化四年〜明治二十七年)は漢詩を能くし、明治二十七年八和町永伝寺に碑が建てられた。
筱岡貞次(安政元年〜大正十四年) 水島村で加茂家に学んだ後に開塾した。廃藩後に村長、村会議員や郡会議員、明治三十六年からは県会議員と地方政治に活躍した。碑が大正七年に建てられている。子息貞次(明治十七年〜昭和三十三年)は旭醤油の創業者で、村長や県議会議員に選ばれた。
篠岡与四郎(号東洲) 水島で十村手代を勤める。金沢で大井流書道を小竹五郎左衛門に学び、帰郷後開塾した。廃藩後は水島小学校に勤務した。
島谷長次郎 東蟹谷の平田村で豪農の家に生まれる。村民教育に尽力し、廃藩後は村長に就任した。
浄教寺 興法寺の浄教寺十三世住職霊純は寺子教育にも力を入れ、継いだ子息の慈雲は明治の中頃まで教え続けた。三十年六月に山門横へ石碑が建てられている。
砂田有信(安政六年十二月〜昭和四年五月八日) 小神の砂田清作の三男に生まれ、大坂で懐徳堂に学ぶ。帰郷後に中新田で漢籍を交えながら教育に努め(金屋本江からも通学)、夜は十二 三〜二十五歳の青年相手に石名田等で夜学を開いた。旧正得村には明治三十四年一月三十日(三十五名、予算二十五円)、石名田村には三十四年(十八名、予算十七円)に創設し、昭和十三年十月蔵書百六十冊は図書館へ寄贈されている。大正七年九月石名田夜学に通った人々により碑が建てられた。
住田家 鷲島村の医者。五兵衛尚斎が藩末に開塾し、小島村の医者杉下家から入った五兵衛周斎が継承した。子息喜正は松沢村長。尚斎の紀徳碑が文久元年神明社境内に、周斎の碑が明治二十年に建立されている。
西蘭斉 砺波林村の医者杉下碧(号西蘭、掃月庵)が開塾する。林村でも教えていたという記述もあり、明治六年に林小学校の創立に尽力した。
高瀬五左衛門親正 今石動町奉行所で留書役を勤める三十五俵の足軽で父は五兵衛。上新田町で町人子弟の教育にも従事した。明治九年に門弟が筆塚を観音寺坊内に建立した。
高瀬彌六左衛門定久(号千鳥堂、筌水) 祖は寛文頃今石動に赴任。定久は彌六左衛門を嗣ぎ二十俵。正水の書風を金沢で高田家に学び、兵学を研究しながら教育に努めた。天保十二年一月二十日四十六歳で没した。子息は愛水で、塾を継承したようでもあるが、詳細は不明。弘化三年九月門弟により後谷に碑が建てられる。高田一清(号貞山、天保九年加賀藩書写方、同十三年百石)の手になるものである。
長平 五社村で十村の手代を代々勤め、その傍らで教育に従事していた。役目柄算学に通じていた。 
長澤良庵 十村長田家でお抱え医者を務めながら、藩政末期から明治初年まで長田家と共に村民子弟の教育に努めた。明治十二年八月碑が建てられる。
長田茂太郎 長田家は金屋本江の土豪であり、元和頃に衛門が横山長知の給人知長百姓になる。子息長左衛門が承応元年十村に任じられて以来、代々十村を務めた。天保十三年に御扶持人並に進んだ金右衛門は砺波郡佐加野(高岡市)の困窮を救ったことでも知られる。明治維新後に長澤と改姓した。糸岡組支配は嘉永元年の忠左衛門、文久二年金右衛門、二年から三年までの茂太郎である。茂太郎は村の教育にも尽力した。文格と号した人物はこの茂太郎であろうか。
日光孫兵衛 日光家十三代目で、芹川村で十村手代を勤め、縄張役であった。そのため算学や測量学に通じ、文久年間には肝煎役を務めながら寺子屋も開業した。書も能くする。明治三十二年に門弟と養子孫平により碑が建てられる。
沼田直次郎(天保十四年〜明治三十四年、号白鶴) 彦左衛門を名乗り、十三歳の時金沢で高田江清に書と漢籍を学ぶ。帰郷後水島で開塾し、廃藩後に水島小学校で教員を勤めた。明治十三年四月に碑が建てられている。子息の彦左衛門は、明治四十四年から大正四年まで水島村長を務めた。
長谷川家 水島村で代々神明社神職。十三代従五位下日向守有文は文政五年七月に開塾し、前口十二間の塾舎は遠方の寺子のために宿泊施設を備えていた。鷹栖や津沢から寺入している。子息豊後守政一郎は医者でもあり、安政三年塾を継承している。明治六年には津沢町小学校周旋方を努めた。
藤田屋 紺屋町で寺子屋とお針屋を兼業していたが、後に同町の小矢部屋(大規模)、上新田村の長福寺、鍛冶町の太田屋と並んで、専門のお針屋に改組した。
松波喜平(号菊所) 福町(上町)で薬種商を営み、漢籍にも通じていた。廃藩後は申義小学校の十等訓導に就任する。明治九年に門弟は神明社に碑を建てた。
丸山彦十郎 宮島で代々肝煎を努める家に生まれ、村民子弟の教育に尽力した。明治二十年冬存命中に岩崎村で筆塚が建てられている。
宮五右衛門長二 明治初年に小神で開塾し、鷲ケ島 茄子島 野寺からも寺子が通っていた。
四、高岡市
旧高岡市
●特色
 高岡町には商人の子弟が多く、珠算に力を入れていた。また謡が盛んで、男児は将来交際上必要なため、毎日師匠の口移しで一つずつ教える寺子屋もあった。四月二十五日には関野神社境内天満宮の祭礼に清書を奉納するのが恒例行事で、神主が社殿内に貼り出し、縦覧に供した。また師匠は昼食会を催して子弟の情を温める日でもあった。七月七日の七夕も盛大に行っている。一般的に謝礼は中元 歳暮の二回で、各二 三〜五匁ないし品物で納め、師匠より七夕または歳徳の手本を受け取った。天満宮への奉納時に三〜五分、節句ごとに二〜五分の謝礼を受ける師匠もいるが、昼食や煎餅で返すことになっていた。別に炭代などの雑費が一匁以内であった。 
 高岡町内の寺子屋のほとんどは町人が営み、郡部では寺が開塾する場合もあったが、総じて町人有志が教育に携わっている。また女児教育にも理解があり、二軒の女寺子屋やお針屋の萩野私塾(〜明治十七年)、女子好逑私塾(千木屋町、金森彦次郎 千代、五十余人)、車ツネ(宮脇町)に通っていた。明治八年には片原町の御貸屋跡に小学校が統一される。
●師匠の略歴
青江家 中田の青江善右衛門は、天保十一年に現在農協支所がある場所で開塾し、養子善右衛門が明治まで継続していた。別に青江伝四郎の名を記した本もある。
飴屋六左衛門 定塚町で寺子屋を開く。史料には同町の町頭で飴屋六右衛門という人物がいて、二十九歳のときの寛政四年に賞せられて、町奉行所から金子百疋が贈られている。縁者と推測されるがそれ以上のことはよくわからない。
有磯神社 横田町で代々有磯神社で神主を勤める従五位下上田家は石見守藤原正喬の末裔で、倶利伽羅の埴生神社(木曽源義仲が戦勝祈願をした神社)神職であったが、上杉軍に追われて北島村(現高岡)へ移住し、北嶋神社と本務社 西部村社を兼務していた。その後伊勢守正綱(〜貞享二年六月)が横田に移って正八幡宮を本務社とした。 
 伴貫は書や和歌に通じ、御家流書道の塾を開いた。後継ぎがいないまま寛政八年正月に没したため、同十一年になり作道村(現新湊)道神社の宮川直矩次男迪彝が入った。天神講を組織し、寺子屋師匠としても多くの寺子を抱え、その中から寺子屋師匠も輩出している。天保七年五月に五十六歳で没した。長男悌信(文政六年〜明治十二年)は漢学を長崎浩斎に学び、五十嵐篤好から御家流を皆伝された。明治六年に横田町で小学校が創立されたため、塾は閉じられた。
石川友二効明(文化十四年〜明治十九年九月十四日、号竹影、文藻) 初め友右衛門と名乗る。父豊右衛門は藩老前田土佐守家に仕え、筆生役を勤めた。友二も職を継ぐが。早々に致仕し、天保六年戸出に移住して、当時若林組十村の五十嵐篤好に国学と算学を学んだ。書風が広瀬旭荘の流派で能書家であったため、住民に請われて開塾する。明治六年から十八年十二月二十五日まで小学校に勤務し、県から賞せられ木盃を受けた。十四年十一月に碑が建てられ、自筆「我ながら思へば宇礼し天地のミちは奇しき御霊にそ阿る」が刻まれた。
梅津善一(文政四年一月〜明治十九年) 明治維新前後に酒屋善五郎から改めた。立野で肝煎役を務める傍ら、男児に読み書きを教える。仮名 日記 名頭 村盡 商売往来 消息往来 日用文等を用い、太字より細字へ進んで、優秀な寺子は師匠の補助をした。学制頒布以後も教えている。篠島久太郎(号復庵)もここで学んでいる。
大沢七平 屋号は飴七屋。子孫の方によれば祖は櫛田の農家であったそうだが、高岡の定塚町、現大仏の近くへ移住して、藩政末頃には指物屋を始めるが、七平が寺子屋を開いていたのはその前であろうとのことである。役場に勤務し、古城公園の管理をしていた。明治十九年没。
大坪正三 祖は公家侍の大坪中務で、禁裏北国御用を務めた。二代目の助左衛門は御扶持人であり、娘は前田利長の側室で満姫を産む。その子孫である分家の八十次、のちの正三は父の跡を継ぎ弘化元年から嘉永元年まで山廻役、文久元年に小矢部川筋庄川並射水郡海辺潟廻主附などを歴任しつつ教育に尽力する。明治二十二年に初代二塚村長に就任した。
尾崎家 先祖は能登国長一族で、尾崎兵部丞忠連が石堤に移住した。八代目藤左衛門の時に医者の宗潅が分家し、子息仁左衛門も医者になる。その子息の玄達(寛政八年〜安政六年、号栢山、国華)は、文化の頃に長崎でオランダ人より蘭方、原蕉斉に漢方を学ぶ。実兄が亡くなり帰郷し家業を継いだ。能書家でもあり塾を開き、住民子弟に教えた。子息の治三郎(天保七年十二月十四日〜明治三十三年、明治五年までは文斉)が明治六年九月に自塾を石堤小学校に改めるまで継承した。長光寺の織田雪操(後に宝性寺十八世)と石堤小学校の教員になった。後年に浅井小学校天守堂の時刻を報せる太鼓を設計している。玄達の弟晋三(号蒼川)は金沢で私塾を開き、明倫堂教授を勤める。後に石川県第一師範学校教授になり、『新選字海』等を著した。
岡本久米吉 戸出の北町で寺子屋を開く。屋号は石丸屋であった。弘化五年に三十歳で没している。
金谷家 屋号は金屋。片原町に佐次右衛門が寺子屋を開く。継承したのは子息の佐一郎で、明治九年に近隣の育英小学校が生徒増加で収容が困難になった際、暫定的に一部の児童を引き受け自塾を仮校舎とした。翌年私立小学校の認可を得るが、女児小学校(怡柔小学校)と三つの分教場(木町、横田町、立横町)が設立され、十一年八月に役割を終えた。
加納屋 七代目武兵衛美貞(字有芳)は木町で代々町役人を務めた家に生まれ、文化十四年に父弥平治の跡を継ぐ。書を父に学び、絵画を堀川敬周に師事した。また中川菱香とは友人である。木町舟見、横目、肝煎等の要職を歴任し、町民子弟のため書と珠算の塾を開く。町内の大半は通ったと伝わっているので、相当数の寺子が在席していたのであろう。嘉永六年十月に隠居し、子息の弥平次に全てを譲る。父から書を学び、天保十一年七月十八歳で町会所物書手伝に就任したのを皮切りに、父の後任で肝煎になり、安政二年九月縄手町及び地子木町肝煎を兼任する。五年十一月には父子の「木町委細帳」と名付けられる旧記調筆の労で表彰された。嘉永三年から四十五歳で没する慶応三年まで、自塾で書を中心に教授し続けている。
願性寺 戸出竹の真宗大谷派寺院。文化八年に院家に昇進した。三十二世住職法重は明治前後、地域教育に貢献している。
願乗寺 姫野願乗寺の鼎護城(天保十二年七月三日〜明治四十二年三月十八日)は、自坊の他に金屋の堀田家、中曽根の土肥清助宅、新湊の乗念寺で教えていた。金沢で柱時計を購入して時限表を作成し、規則正しい運営を心がけたという。
菊池武邦 戸出で代々の算用聞の家であり、分家に福野・野尻村御扶持人で、国学や漢学を能くした菊池六郎右衛門(号静斉)やその弟で和算に通じた橘五郎興之が出ている。七代武邦は父の代に借上げが頻繁なため高を切り売りして傾いた家産を立て直すことに尽力しつつ、村の教育にも当たる。子息則政は加賀藩医吉益北洲に学び、嘉永六年に開業する。正義堂の設立にも当たった。
木下周造(号東庵) 戸出の東町で医者をやりながら、寺子屋を開いて教育にも従事する。屋号は木下屋を称した。
桑山家 屋号は梅染屋。本家は守山の桑山家で玉泉が敬業堂の主事になっている。御馬出町で開塾したのは源太郎で、子息の二作は塾を継承した。
顕証寺 二塚林新本願寺派顕証寺五世桜井法順は林新村若林長四郎の次男竹次郎である。下佐野西養寺十二世教勇(文化元年〜明治三十一年)に師事し、安政二年に四世慧流を継いで住職になる。漢方医師として薬も調合し、漢玄斉という号も用いている。住民子弟の教育に尽力し、明治三十一年に没した。
廣済寺 笹川廣済寺十八世福田立道(文化元年〜安政三年七月四日、諱慶慧、号石雲)は、尺伸堂に学び、高野山で月照阿闍梨に三年就いた。また詩を大窪天民を聘して学び、篆刻を細川林谷、挿花を池之坊専定より教わる。嘉永元年得業に任じられた。村民子弟の教育にも尽力する。
西念寺(文政十二年五月〜明治八年十月十四日) 立野村西念寺十三世福田順翁の次男順了は、比叡山で天台を学び、天文にも通じていた。兄が夭折し十五世となって、教育にも務めた。明治六年四月一日寺内に小学校が創設された。
笹原家 後に原姓に改める。源平板屋町絹屋の当主は代々権九郎を襲名し、六代白年は塾を開いて書を教えた。養子の辰省こと雀斎(別号北湖)は養父に学んで寺子屋を引き継いだ。漢籍にも通じ、高岡学館講師を務め、後に東・西之小学校が設立された際には東之校長に就任する。辞職後も自塾で教え続け、明治十九年十二月に七十六歳で没した。 子息の遂(初め孟省、号青軒)も高岡学館で句読師を経験し、西之校長に就任する。また自塾を明治私塾と名付け、学制に準拠して学級等の規定を設けた。校長辞職後は塾教育に専念し、十四年に文部省表彰を受けた。二十三年十月五十九歳で没した。
塩崎家 屋号は指物屋。総本家宗四郎家の祖は信濃国塩崎城の守護職小笠原貞宗の後裔と称す。応永七年長秀は国人蜂起で京へ逃れるが、一族には越中二上山麓で居を構え千石町一帯を開墾した者もいて、孫の宗資の代に塩崎を姓にし、やがて前田氏支配時に十村となった。この分家が宗之助で、四代目の重兵衛は横田町で商売の傍ら教育にも従事する。以後五代目清太郎重兵衛、六代目勝次郎重(十)兵衛(〜明治四年没)、七代目静一重郎平(〜明治十九年没)と受け継がれた。絵も能くした七代目(号静逸 碧峯)は二百余名の寺子を持ち、他にも謡曲・茶道・俳諧を学ぶ町人門弟百名余を有した。明治十六年に自塾を横田町小学校とし、十七年六月宗泉寺に設けられた西之小学校の教員に就任した。
朱屋源左衛門 伝えによれば先祖は槍術に優れた武士で、越後で浪人した後に諸国を槍術を指南しながら流浪した。やがて前田家に仕え利長に従い高岡町へやって来たという。老年のため致仕して町人になり、以後代々町肝煎を務めた。坂下町に寺子屋を開いたのは十代目源左衛門であろう。文久三年三月に没した。
宗兵衛 黒田村の農家で、貞享の頃に寺子屋を開く。その後数代継承されたという。『越中二塚史』には、松尾芭蕉が宗兵衛の田植えを見て「早乙女が泣く子の方へ植えてゆく」と詠んだことが記されているが、真偽は不明である。
大永寺 住職永顕の弟野田興顕は南条の上佐野で開塾する。明治六年四月門前佐野村に小学校が創設された。
高尾家 二塚村白山社の神職を代々勤める。村民子弟の教育にも尽力し、弘化元年に継承した七十四世信孝(享和二年〜明治二十年)は従五位駿河守、明治五年まで塾を続けた。
龍田周造 上佐野で明治六年まで教え、その後は佐野小学校の訓導に就任した。南磯一郎(嘉永六年〜明治二十八年)も門人。
竹内甚三郎 立野で明治五年に夜学を開き、教育に尽力する。到達度により童子教・実語教・四書五経・十八史略等を用いた。
武田貞子 文化十一年に富山布瀬村の十村役高安豊助定義を父に生まれ、富山で菊園を師に読み書きと裁縫や茶道を学ぶ。山廻役を務める竹村屋の武田長兵衛に嫁ぐが、家運が傾き、夫も元治元年に亡くなる。三男一女を抱え、貞子は途方に暮れる間もなかった。習得した学識を生かすことを考え、女児専門の寺子屋を開いたのである。すると上流家庭の子女が多く通い、大いに賑わった。明治七年十一月または八年九月に没したが、長男は既に山廻役を経験し、次男は横田町の塩崎家へ、三男は福光村の石崎家へ養子に行き、娘も地元吉田家に嫁ぎ、皆豪家であった。
高畠次郎右エ門貞造 落合村肝煎を務め、兵四郎の寺子屋が閉じられた後に開塾する。祖は前田利家に仕えた武士で、その後帰農した。落合村北條氏流光證寺との関係が深い。貞造の父秋平は京で医術を学び、帰郷開院後も泉伏翼から書を、西村太仲から算学を学び、更に大坂で蘭医術を研鑽している。弘化二年一月二日六十一歳で没。長男が貞造で、日遷小学校教員に就任する。弟信貫は軍医、長男脩は林村石崎(吉)三郎(後の謙)に漢学、後富山藩医吉房玄徹に医術、藤田憲に漢学を学び、明治五年十一月慶応義塾で英語を学び、九年大学南校、十三年東京大学で医学を学んで軍医に就任した。次男順は日遷小学校教員、大正六年十月から十一年三月まで北般若村村長。
長光寺 石堤長光寺住職織田(小田)家は、初代が織田陸奥守氏知で、出家し超円と称した。応安二年天台宗より真宗に改宗し、以後代々継承されて十七世雪象(天明六年〜天保十二年、字公鮮、善調伏、号東林、雲松、公谷)が住職になる。父廓静(号観蓮閣)や京で善智北溟(字子雲、号望雪楼主、後に下牧野の東弘寺十七世)に学び、漢詩も能くした。帰郷後には北溟が享和二年八月に興した是性庵の詩会に参加するが、添削指導を大窪詩仏に請うた。文政四年に詩仏来遊の際は自坊に案内している。天保三年本願寺法世子師範を任じられ上京し、その後は九年間安芸 越後 江戸へも布教を命ぜられた。天保三年閏十一月の広島出張の折りに紀行文『泛登無隠』を著している。寺子屋を開き、書斎を如須弥斎と名付け、文政十年六月に「如須弥斎学規」と「座右銘」を制定する。仏教書籍の著作もある。子息蔵海は天保十三年に坊内に顕彰碑を建てた。
長念寺 須田の長念寺十六世住職の南木恵雄(弘化三年〜明治三十年四月二十三日)は寺子屋を開き、明治前後の地域教育に尽くした。明治六年掇英小学校の設立に当たり、醍醐村の名づけ者でもある。明治三十二年三月に碑が建てられた。祖は楠家臣であり、そこから「南木」の苗字がついたという。
土倉家 中田の土倉宗左衛門(号和風)は俳句を能くし、天保六年に寺子屋を開いて、地域教育に尽くした。これを養子の宗七郎が継承し、慶応初年まで開いていた。
常木宇太郎 西部金屋村肝煎を務め、常木大助家の縁戚。兵四郎の寺子を引き受けた。次男は高畠秋平の門弟で婿になり分家した篠島貞輔(師の命で紀州春林軒に学ぶ)の養子となった高畠次太郎。
常木大助 祖は平家の落人で、初代隼人が落合村に定住する。吾助の代に西部金屋に移り、小祠を建て毎年九月十四日を祭礼日と定め守護神とした。これが神明社(常木宮)となる。ここから十一代目善蔵は大助を襲名するとともに隼人とも称す。泉伏翼に書を学び、俳号は雲溪。天保十年一月二十一日五十五歳で没。兵四郎の寺子を引き受けたのは孫の大助であろう。明治二十二年七月二日から二十四年四月九日北般若村初代村長に就任する。長男哲平も三十八年四月十一日から四十年十二月十日、四十二年五月五日から四十四年六月二十三日に村長となった。次男木平は西砺波郡で教員を歴任し、縁戚の常木宇太郎家の勝平を養子とした。
鳥山屋次郎兵衛 鳥山家は源義家から義国 新田義重 里見義俊 義成 伊賀守鳥山時成、と続く名家で現群馬県太田市の新田郡鳥山村を根拠としていた。十二代成忠が三河国御油に移り、十三 四代は松平家、十五代精信は豊臣秀吉に仕える。氷見小竹に移住した後に高岡へ移り、小竹を名乗る。十六代次右衛門以降は木町肝煎等の要職を代々務めた。十七代は父と同名だが、十八代次左衛門から二十二代次左衛門まで交互に名乗る。二十一代次右衛門(善五郎)は御用商人として日章旗を掲げ船運業を行っている。享保十六年九月二日没。二十二代から鳥山に戻し、倶利伽羅山長楽寺に大般若経六百巻を寄進している。なお衆議院議員敬二郎は二十九代である。
 さて寺子屋を開いていた人物だが、片桐一男氏の調べでは、長崎浩斎が文化四年九歳で鳥山屋次左衛門に手習いを学ぶ、となっている。長崎家と鳥山家は縁戚であり、長崎家初代玄澄の妻と養子二代玄貞妻は鳥山家から嫁したが、長崎家譜では次郎兵衛娘となっている。これは鳥山家譜とは食い違う。次左衛門や次右衛門娘なら分かる。 
 次左衛門の名乗りは延享元年三月二十八日に亡くなった二十二代が最後で、二十三代から二十八代までは平四郎と次郎兵衛を交互に名乗っている(二十七代は平四郎改め次郎兵衛)。とすれば浩斎とは時代が異なり、符合するのは二十六代次郎兵衛である。寛政十年正月に地子町肝煎 木町横目役、同年木町御用銀才許人、文化七年九月二十六日から十年四月二十二日まで古手屋肝煎を兼ね、同十一年一月二日没した。思うにそれまで次左衛門を名乗ることしばしばであったことから、町内ではそのように呼ばれていたのかもしれない。念のため、二十七代平四郎(文政十三年から次郎兵衛)が木町横目役に初めて任じられるのは文化十一年三月六日である。 
野江作右衛門(号文庵) 横越で明治前後に寺子屋教育に努めた。 
野口津次郎 代々吉久の御蔵番士。明治前後に寺子屋を開いていた。 
長谷川和七郎 代々吉久で御蔵番士を勤め、天保から嘉永にかけて寺子屋教育にも尽力した。
林豊右エ門 北般若で兵四郎の寺子屋子弟を預かった。子息の豊宗は高岡中学校と師範学校第二部を卒業し、東般若尋常小学校の首席訓導に就任する。その妻で般若野村生まれのたきゑも師範学校を卒業して、柳瀬尋常高等小学校の教員に就任する。
兵四郎 西部金屋村肝煎を務めながら、村民子弟の教育に尽力し、算盤までを教えていた。寺子は広範囲に及び、相当な人数を抱えていたようである。しかし明治二年には家運が衰退し、継続が困難になるに至る。その後新規に開設された寺子屋へ寺子は分散収容された。なお北般若では、明治七年二月に区会所を光證寺に置き、秋元村速恩寺に小学校を開設し、光證寺前住職北條恵祐を教員に招聘した。
牧宗平 代々吉久の御蔵番士で、放生津往来に面した所にあった。文久から明治五年まで教育に力を尽くし、伏木小学校の吉田五十穂校長(大聖寺出身、慶応義塾卒業)から講習を受け、十七年に興仁小学校で準訓導に就任する。子息の良一は長谷川病院の長谷川徳之に学び、二十五年に能町小学校準訓導及び初代校医に就任した。
増山屋九左衛門 木舟町に開塾。文化十三年に篤行者として奉行所から表彰され、銀二枚目を賜った。
神子高たか 真言宗醍醐寺派末寺で不動明王を本尊とする大福院は木津に移る前、今の片原町にあったが現在は通りの名になっている。住職権大僧都阿闍梨正寿院盛元は先代で再中興の二世権大僧都金寿院大智の下で修業し娘婿になった。その娘すなわち妻が神子高たか(文政元年〜明治十九年七月十三日)である。幼い時から金沢で学び、歌も能くした(雪ふれば木ごとに花ぞ咲にけり いづれを梅と分きておらまし)。天保四年二十六歳で女児専門の寺子屋を開き、習字や女大学 百人一首の素読及び商売往来を講義した。寺子は百三十人から二百人程で町内女児の大半が通っていたであろう。毎日午前七時から一時まで院内を教場とした。謝礼は盂蘭盆会と歳暮に十〜二十銭または物納のみである。明治七・八年頃には片原横町の町奉行所御貸家跡に建てられた育英小学校で教員に就任するが、塾教育は継続した。
村田三郎 伏木で書のみで開塾し「てならいこう」と呼ばれていた。門下生の藤井能三(弘化三年九月二十一日〜大正二年四月二十日)が明治六年一月二十一日付けで新川県参事三吉周亮に提出した「小学校取設伺」で「元伏木、元古国府ニ従来是アル所ノ寺小屋一般ニ御指留之御下令有之度候。右寺小屋ハ習学許ニテ読書算術モ無之候間、師弟共一併ニ学校ニ相集メ其師ヲ当分等学校教師ニ相雇申度候。左候ハハ被指留候寺小屋モ指当リ活計ニ困迫候様ノ儀モ有之間敷ト奉存候」(原文通り)とされ、二十五日に県がこれを承諾したため一旦閉塾し、月給二円で習字担当に就任した。しかし地元住民の要望で再開し、二十四年まで継続した。小学校の授業料が月十銭であるのに対し、四銭と低額であり、未就学者もここへは通っていた。この頃は塾でも算盤や修身・読本も取り入れている。
 授業は午前八時から習字、昼一時間を挟み午後には三時まで他の教科を交互に行った。手本は師匠の直筆で、いろは 変体仮名 名頭 苗字盡 町村盡 十干二支と進め、上級者には商売往来を用いた。ただし解釈は無く、ひたすら書き続け、新しい手本を書いてもらう時だけ師匠の前で読みを習った。多くの寺子屋同様清書には優劣が付けられ、また漢字一字から多くの苗字や名前を創作した。寺子は入門時に小さな机を一脚作ってもらい、紺の上張りを付け道具一式を風呂敷に包んで腰に付け通学し、薄暗い教室で男児四・五十人、女児は二階で二・三十人が、荒筵の上に座って勉強する。家では糠や灰で練習した。師匠はなかなか厳しく、罰則には罰金が伴っていた。例えば墨汁を畳にこぼすと二文、小便をもらすと三文、嘘をつき便所へ行くと二文、という具合である。便所へ行くときには他の寺子が一人付いて行き、数を十数える間に出てこなければ、足が痛くて逃げ出したものと見做されたのである。その他には清書を全部壁に貼り、授業料を納めた寺子のものから剥がしていく、といったことも行われていたと元寺子の証言にある。今では考えられないが、当時これがまた父母の信頼を得たのかもしれない。
吉田彦三 屋号は氷見屋。享保より代々才兵衛を称し、木町で横目 町肝煎 御用銀才許 瑞龍寺山門御造営勘定役 木町舟見等の町役人に就任した。彦三は寺子屋教育にも従事し、珠算や小唄までも教える。明治七年に閉塾して、守山町で小学校の教員を数か月、その後商売に専念した。明治二十八年九月十七日四十五歳で没した。
若杉氏 吉久新町で開塾する。御蔵番士が寺子屋を開いていたこの地域で、ただ一軒の商家による寺子屋である。本家は吉久の若杉屋。
旧福岡町域
●特色
 俳句が盛んな地域であったが寺子屋の開設時期は遅く、明治前後に急増している。寺院や移住士族が関わった。
●師匠の略歴
神代貢 能筆であり、赤丸で開塾した。俳句や和歌にも通じていた。
岸野与平 十村の手代を勤めながら、明治前後教育に従事する。医者の井村宅を借りて教えていた。寺子は男子だけであったが、最大百人程が通っていた。
西照寺 京の山科にいた小野篁子孫良實が、承久の変に敗れてこの地に来る。宝治元年に真言宗の寺を建て、その後浄土真宗に改め本願寺派から大谷派へ変わる。伝えによれば寺子屋を早くから開いていたようであり、明治に至った。
榊原氏 元加賀藩士であることから、榊原誠斉とも考えられるが、だとすれば明治二十年頃に単身移住したことになり、やや遅いような気もする。誠斉は謡曲宝生流を能くした通人であった。
浄永寺 上向田の浄永寺十六世住職宝音は住民子弟の教育にも尽力し、弟斉藤蔵攝もまた明治六年から十四年まで杭志小学校で教鞭を執った。
長安寺 長安寺九世住職朝順則(天保十二年〜明治二十七年)は、周辺に寺子屋が無いことを憂いて開塾する。珠算や上級者に大学 論語の素読も行った。内室では女児も二十人程が学んでいた。順則の実家は高岡立野西念寺で、住職順翁の六男であった。宗学と漢学を学び、元治元年に養子に入ったのである。明治六年四月堂宇を開良小学校とし、自ら訓導に就任した。
西村太源 太元とも書く。西村太冲の子息というが、確認できなかった。名前から縁者であるようには思われる。長安寺下寺の住職として金沢から転勤し、清水町の自坊で開塾した。漢学に通じ、文久元年に朝順則、島倉宗平、小栗利平等と末友村から僧月海を招き、雅楽同好会暢日連を結成した。
美濃屋治三郎 明治維新後に三原賢二宅を借りて開塾し、後に四十万郵便局二代目局長になった。
五、氷見市
●特色
 町部では町人文化が成熟し、漢学 国学 心学や俳諧 茶道等が人々の嗜みになっていた。寺社が活発に活動していた地域でもあり、積極的に布教 説教を行っていた。そのため寺子屋の存立する環境が整っていて、専業も可能であった。寺入時期は三月四日と九月十日で、塾則が整備されている塾も少なくない。珠算も取り入れられ、他に謡曲等が一般町人にも教授されていた。女児には朝日の宇波み乃井や田中安兵衛の妻、陸田茂吉の妹等お針子屋が礼 縫を教え、多くが学んだ。
 一方農・漁村では寺社の奉仕的な寺子屋が主で、農閑期のみの授業かつ寺入時期も不定であった。珠算も欠くことが多いが、謝儀は収穫 豊漁時に農作物や魚を持っていけばよかった。
●師匠の略歴
朝日屋又三郎 現朝日本町で専業の寺子屋を開く。七夕には町中を七夕を持って回る「飾り物廻り」をした。千手寺に碑がある。
有坂兵(平)九郎と北越伊左(右)衛門 戦国期に松之丞と竹之丞という落武者が、数十人の部下と共に床鍋の地に落ちのび、山峡を切り開いて帰農する。これが有坂家の祖である。末裔の有坂兵九郎が文化・文政に開塾し、没後に三男岩次郎こと北越伊左衛門が継承する。兵九郎の碑は床鍋にある。
安敬寺 惣領の安敬寺住職藤光は寺子屋も開き、珠算も稽古させた。また女児には裁縫なども手ほどきするが、これは家人の手伝いによるものかもしれない。
安専寺 懸札安専寺住職松金顕静は明治六年に寺子屋を開設する。子息の得雄が手伝い、八年まで継続した。並行して小学校の設立に尽力している。豊富な書籍を蔵していたことでも知られていた。
糸家 屋号は和泉屋。本家は上泉村の農家で、その祖は守山城主神保氏の家臣であった。六郎右衛門は安永八年から天明三年まで町肝煎を務めながら寺子屋を開き、子息六兵衛文介(安永四年〜嘉永六年、号昇斎)は医者になり、塾を継承した。寺子が収容しきれず、板敷の縁から外へはみ出す程の盛況であり、上級者には漢書・漢詩も講じた。八幡社に碑が建てられている。子息六平は明治初年に塾を再興して、二十七年に閉鎖するが、要望により四十年初めまで続けられる。それは公立小学校への就学者が少ないからであり、初等教育を塾が代行し、中学年から至誠小学校へ編入させることを狙いにしていた。
大西彦右衛門 中波の旧家で代々漁業と農業を生業としていた。彦右衛門は天保元年に生まれ、幼少時に父母を亡くし、祖父母に育てられた。姿村で広沢周斎に学び、脇の明厳寺仏島から漢文を修得した。また算学を広上村(大門)の九左衛門に師事した。慶応三年三十七歳で組合頭、明治二年肝煎役、六年戸長に就任した。網元としても麻苧台網を考案し、従来の藁網に替えて文久元年に敷設する。元治元年から慶応三年には合計四統を敷設している。明治二年に教育の普及を意図して寺子屋を開くと、中村や脇から寺子が通った。七年には彰文小学校に改める。その際室内が暗いため、私財三千円を投じて自宅前の空地に新校舎を建てた。更に氷見町で私立大西女学校を創設し、長女つな(号桑海)と次女ちよが裁縫と習字の教師を務め、修身 読書 作文 算術は金沢から教師を聘した。総計五百人の生徒が通ったが、長女が病気、次女が結婚したため十六年秋に閉校を余儀なくされた。大正三年に八十三歳で没した。子息は広沢周斎の孫娘と結婚した。 
広西寺 仏生寺の広西寺住職小谷露秀は寺子屋教育に力を注ぎ、明治八年まで仮名・名頭・村名盡・商売往来・消息往来等を教えた。
光楽寺 床鍋の光楽寺住職武田楞耀は北越伊左衛門の寺子を引継ぎ、北越宅で(?)明治十九年まで教えていた。雅楽を取り入れていたことに特徴がある。
佐原久平 飯久保で農業をしながら、寺子屋を開く。仮名 童子教 実語教 名頭 村名盡 商売往来等を使用していた。その後塾舎は小学校へ移行している。
紹光寺 池田の紹光寺住職甘庶櫟堂は教育にも貢献し、上級者は四書五経等へも進めた。後に池田村水哉小学校の主座教員に就任する。
浄善寺 中村の浄善寺住職鷺森十遠は、新川郡野沢新村の西光寺に生まれ、滝山義浄に学ぶ。養家で寺子屋を開いた。更に地域の人々は華道 茶道 俳句の手ほどきを受けている。
高野元礼 文化十三年八月十日に生まれ、医者として安政五年八月十七日に代々の元礼を襲名し、江戸の坪井信道のもとで学ぶ。同七年三月三日に桜田門外の変での負傷者救護にもあたった。帰郷後は医者として、また教育者として活躍し、明治二十八年三月二十五日に没。子息定行(天保十四年八月二十一日〜大正二年十月十六日)は医者であり、山の小学校で初代校長を務めた。
長楽寺 中尾の長楽寺住職竹里向岸は教育にも尽力し、珠算も練習した。
長沢六良兵衛 長沢家の本家は代々味噌醤油醸造を業とする旧家で、その分家にあたる。慶応二年九月に上日寺で建立された碑には「手習は坂に車を押すごとく ゆだんをすればあとへもどるぞ」と刻まれている。妻はお針屋を開き、夫婦で教育に従事していた。
名苗竹次郎 文久元年生まれ。後に片折十次郎とも名乗る。明治に入り開塾し、育成小学校でも教えた。
広沢周斎(文化十三年六月十五日〜明治二十七年一月十一日、号虻州、清泉堂) 灘浦姿村(町から北西方九.七qの漁村、村高三百四十石、天明六年六十三軒)で算用聞を務める「どうもさ」(藤右衛門)と呼ばれた家で七代目として生まれ、書を巻菱湖、算学を高木久蔵に学ぶ。家業は古手古道具商や酒販・金融。天保元年十一月に十五歳で九歳の男児を頼まれて教えたのが最初で、同五年自宅を塾舎に改築し、同十一年に塾則も整備した。その後薮田の屋敷秀了が開塾したことに触発され、漁村を生活困窮から救うには教育が必要との信念を抱いたともいう。男女四百四十人を明治十七年まで教え、うち弘化四年正月から明治十四年二月まで百五十七人であった。能登国佐々波村や徳丸村からも泊込みで来ている。授業では習字手本を渡し、上級者には漢籍も用いた。明治九年に閉鎖し中田村の小学校と合流する手筈であったが、村民がこれを許さず翌年私立廣沢小学校の認可を受けた。十五年に閉めるが十七年まで教育は継続し、没後直後の二十七年七月には碑が建てられた。
 授業日数は師匠の都合で毎月朔日 四日 七日 十日 十三日 十六日 十九日 二十日 二十五日 二十八日の計十日間朝と昼の二度開いた。寺子の訓育は通常寺子筆頭の帳付役がすることになっていて、登下校時に一人一人の報告を受け、声掛けをした。寺子には五〜十五歳の男女がいて、九・十歳が各二十五%であることから、男女九〜十二歳が適齢であることが分かる。在学期間は四年が最多であった。寺子の在籍者数は、天保元年から明治四年まで平均毎年二十人だが、最多が元治元年の四十四人、最小が天保十年の七人であった。明治五年に一挙二十三人が入塾して三十八人になる。十年には四十五人であった。四年から十七年の平均は三十九人になった。続柄は長男が全体の四十八%、次男を含めれば七十四%であり、女児は十一%であった。鏡磨や小間物行商が盛んな土地柄であるため、自作農以外の出身も多い。出身村は中田村 中波村 大境村 小境村等十八村に及んでいる。姿村周辺からは二百十四人、能登から手本をもらって不定期通学する寺子は七人で、弘化四年から明治十四年手本で学習する寺子は百五十七人いた。寺入時期は最初十一月が最多で九十二人、正月五十七人、十月二十四人、以下三月 十二月 二月の順、稀に五月と七月といった具合であったが、地域の理解が深まるにつれ三月 五月 七月も増えている。
屋敷磯右衛門泰治(文化十年〜明治三年、号秀了) 薮田で漁業をしながら、安政の頃に開塾する。手書きの村名盡等を用い、女児には女消息往来を使った。上級者には四書五経 十八史略 太平記を講義し、算術も点竄(代数)まで練習した。謡曲も指導し、遠方からも集まった。阿尾八幡宮に碑がある。
吉井家 祖は高岡から御座町へ移住し、高岡屋を屋号に代々薬種業を営んでいた。次郎左衛門は浦方銭取立方加役や布印判押入批肝煎に任じられ、嘉永三年三月から蔵宿封切舟見にも就任した。寺子屋を開き、一般町人へも謡曲を教授した。七夕には盛大に飾り物廻りをしている。次郎右衛門(号三恕)が継承し、安政から明治初年にかけ教育に尽くした。俳句や漢詩にも通じ、三室続きの屋敷を開放しても収容できない程多くの寺子を抱えた。上日寺には碑がある。長男の妻は新湊から嫁し、明治二十七年までお針屋を開いている。三十〜五十人が通い、授業料は二円、通学期間は一年間であった。上日寺に「おしえ細工」の掲額が残っている。
六、射水市
旧新湊市域
●特色
 藩政末期に寺子屋が一挙に設立されている。俳諧等町人文化が発達した町であるため、子弟教育には町人が主導権を取っている。ただ残された史料が少なく、詳細が分からない寺子屋が多い。
●師匠の略歴
石黒家 作道久々湊で兵助が文化十年に開塾し、子息に受け継がれ明治五年に至る。
往還寺 放生津町内の往還寺住職大磯覺琳が寺子屋を開き、明治初年まで子、孫と受け継がれた。
佐野家 屋号は菊屋。喜三右衛門が放生津町内に開塾し、子息が継承する。塾舎は間口が三間 奥行十間の二階建てで、師匠の居室を別に合計五室を教室に用い、百人程が通った。
善休寺 作道野村の善休寺住職岡野周融が寺子屋を開くと、これまで近辺に無かったこともあり寺子が急増する。そこで習熟別に三組に分けた。初級が丙組で、平仮名 名頭と童子教の読みを学び、珠算は乗九九を覚えた。次に乙組へ進んで村盡 国盡を書写し、四書の読みを大学から始め、算盤の加減法を練習した。上級が甲組で、商売往来と消息往来を書し、四書を引き続き読んだ。珠算は乗除まで修得した。更に最上級の組があり、実力のある門弟の希望者は、五経の素読や国史略 十八史略等を読んだ。
専念寺 本町で教育にも従事する。明治六年筆塚「墓碣銘」が建てられた。
中瀬家 放生津町内に三左衛門が開塾し、子息に受け継がれた。網元中瀬家の縁者かもしれない。
橋田半左衛門 七美八島で八島新村の医者松永氏の寺子屋を慶応二年に継承する。書を農閑期や夜間に集中して教授した。学制頒布以後に共和小学校の教員に就任している。
旧大島町域
●特色
 領域が限定されていて、かつ農事が多忙であったせいか不活発である。、各村の指導者が十人前後の寺子を相手に少人数で、あるいは事実上個人別に指導していたそうである。松丘善四郎、礒部清九郎、松田権右衛門等、小島 北高木 八塚 中野 若杉 北野の有志九人は、明治六年に学校設置の誓願を行い、十一月に知新小学校設置を成し遂げた。
●師匠の略歴
福田三右衛門 福田家の五代目(九代目義雄は大島町長)を継ぎ、中野で明治初年まで寺子屋を開いていた。地域内で唯一漢籍まで教授し、十八史略 唐詩選 孟子等を用いた。農業より力を入れていたそうである。
円広寺 円海は新開発村の園木仁平の嫡男に生まれた。幼少より学問を好み、家督を弟に譲り寺子屋を開く。妻もお針屋を開き、女児を教えている。実家の檀那寺である新湊金屋迎西寺の念仏道場としての性格を持っていたようで、明治八年に円海は同寺の使僧の資格を取り、自宅を円広寺とする。本堂は能登羽咋から持ってきたそうである。二十年四月から三十二年十一月まで新開発簡易小学校の仮校舎(二十五年明倫小学校)となった。
成川与次平 小林で開塾する。教科書には庭訓往来等を用いている。
旧大門町域
●特色
 この地域では寺社が積極的に教育に関与している。謝礼は盆暮れに分に応じて米や銭で支払い、時折豆 小豆 餅 菓子等を持っていった。
●師匠の略歴
朝山紋平 錦町の菓子屋朝山家五代目。嘉永五年から明治六年四月まで寺子屋を開き、八月大門雄山小学校教員に就任した。
稲垣示 棚田で作男五人を雇用する七百石から八百石程の農家で、嘉永二年八月二十日又平の長男として生まれた。銃や剣にも秀で、選抜され壮猶館で二年励んだ後に小杉で銃卒を指揮している。帯刀を許され、文久の頃に十人口を受けた。維新後三年間野上文山に師事し、明治六年新川郡小学講習所に入学する。翌年に卒業し、水戸田 大門 棚田で小学校教員になる。十年頃には石川県農学講習所に入学した。やがて政界に入り、自由民権の活動家として名を馳せて、衆議院議員にも選ばれた。自宅の大広間を使って住民子弟を教えたのは父の病気で家業を継いだ十一年頃であろう。
折橋家 十村折橋家の分家で、伊右衛門が西町で開塾する。孫の伊二まで継続し、寺子百人程度が通っていた。塾舎は間口四間 奥行十間で、師匠の部屋を別にし階上に一室 階下に三室を教室に用いた。
加藤作右衛門 村の開発者松本家の末裔で、文政元年に荒町で開塾する。明治二十年九月に筆塚「活筆走龍蛇」が建てられた。
櫛田神社 松原の櫛田神社四十三代目宮司山本周忠は、安永七年に大門領域で最初の寺子屋を開く。博芸で詩に優れ能筆家でもあり、多くの文献を所有していた。文政二年まで教え続けている。
 四十五代目宮司宮川直通は寺子屋継承を決意し、文政三年から教育に従事する。学制頒布後は串田広成小学校の教員に就任した。明治四十一年に筆塚が建てられている。
佐伯伝左衛門(号文才、菊賀) 田町の佐伯家四代目で、俳諧を能くした。文政二年から嘉永二年まで教育に従事した。
高橋九平 広上の旧家高橋家七代目の九右衛門は寺子屋教育に尽力し、公道小学校設立の際は田所市郎平に協力した。勘造と記した本もある。
田所市郎平 広上の素封家で、広教寺を借りて開塾する。明治六年四月公道小学校を寺坊に設立した。
佃貢 二口で漢方医と農業をし、寺子屋を開いた。寺子に鍛練を課したことに特徴があり、隣村からも通ってきた。年齢に応じ行程を図り、降雨の暗夜に山を登らせ、氏名の記された名札を持って帰らせ、翌日師匠が行って点検し、勇怯を勧戒した。また降雪の日に薄衣を纏って雪中を歩かせたり、戸外に立たせたりと試練を与え、春と秋には山で獣の追い方、木登や伐採を教え、橋上を渡り、梯子に登り、塀を越し、川を渡り、舟を漕ぎ、岸を躋り、といった避災 護身 応急処事の方法を身に付けさせた。師匠自らも六十余歳にして率先し、雪中鍛練の時には太刀を携え子弟を鼓舞した。
寺本吉二 布目沢で村役人を務め、安政五年に開塾する。明治六年以降は串田広成小学校の教員に就任し、更に家庭の事情で就学できない住民子弟を自宅に集めて教えた。十八年八月に筆塚が建立された。
堀家 水戸田で三代に渡って教育に従事し、孫次は明治六年七月水戸田洗耳小学校の教員に就任した。
蓮光寺 本村の蓮光寺十四世住職櫛本誉浄は、弘化三年から安政六年まで自坊で住民子弟の教育に尽力した。
旧小杉町域
●特色
 射水郡行政の中心であり、町人が積極的に開塾する。藻谷家では漢詩・俳句・和歌を能くした。女児の教育は小杉新町の倉田、滝田といったお針屋が専ら受け持っていた。
●師匠の略歴
油屋長兵(平)衛 本開発の出身で、文化末年に三ケで開塾する。
塩屋助三郎 能書家で知られ、三ケで元治元年に寺子屋を開いた。
渋谷清二 屋号は松枝屋。三ケで慶応の頃に開塾し、明治九年に和親小学校の教員に就任した。
下条屋小七郎 戸破で慶応の頃に開塾する。明治六年に和親小学校の教員に就任した。
富永延(円)造 戸破の佐野屋嘉右衛門の養子で、富永と改姓する。慶応の頃に寺子屋を開き、明治六年に和親小学校の教員に就任した。
西野与兵衛 屋号は土代屋。天明の頃に婦負郡土代村から戸破に移住する。山下の姓も使った。
松長与五郎(号陶庵) 開発屋本家の初代太郎兵衛は今開発村から小杉新町に移住し、酒造や質商をしていた。別家した太三郎は松夫と号す俳人である。二代太郎兵衛の代で五百八十九石余の田畑と銀五十貫匁を所持するまでになり、村方へ肥料代を融通している。寛延四年に相続した三代太郎兵衛は千石を目標に励み、別名前分を含め千三百石持高を達成する。安永二年山廻役に就任し、翌年十一月に次男与五郎に質屋を任せ、商いを覚えさせた上で百二石を与えて分家させた。 
 この初代(明和六年〜文政五年)は俳句を能くし、号を鴬一といった。二代与五郎が陶庵である。天
明三年に本家で生まれ養子に入る。寛政四年十歳で長福寺別庵に通い、享和元年雄山(島林文吾)に師事し、同三年に金陵黄石( 岡野黄石か)から書を学んだ。文化二年富山で鐘山(佐伯有融)より漢詩の教授を受ける。三十歳前半では高岡の開正寺住職宣名に就いた。寺子屋を文政末に開き天保に至る。三代目与五郎は陶斉と号して小杉で漢詩隆盛の基を築いた。なお本家六代太郎兵衛(文化十三年九月一日〜嘉永三年三月)も詩文に秀で、号は坦斎。嘉永三年に生まれの七代目太作(号立西)は初代の小杉町長となる。 
松元(本)泰造 池多に開塾する。春日社上に明治十八年八月十四日門弟が碑(「松本」とある)を建てた。
水上弥三郎(天保十二年〜明治初年、号北莱) 阿波徳島生まれで、武田勇次郎という武士であったが
風雅の世界に入る。加賀藩に仕えていたという説もあるが、天保十二年に小杉三ケへ到って定住する。
書 南画 詩 俳諧 茶の湯 活花 陶芸を能くし、特に伊万里風小杉焼の陶工として作品を残してい
る。手崎の水上屋弥三郎の養子になり、阿波北莱や赤絵勇次郎とも名乗った。更に松長陶庵の寺子屋を継承して、教育にも尽力した。水源町に筆塚がある。 
守山屋清平 稲積屋万蔵とも名乗る。戸破で天保の頃に開塾した。かなり盛況であったという。 
山田托渡 北手崎で寺子屋を開く。文政七年十一月十三日付で筆塚が建てられている。 
横堀家 金山上野の孫平は寺子屋を安政元年(五年と記した文書もある)に開き、明治三年に子息の庄八が継承した。五年浄土寺小学校の教員になり一部を自宅に置く。その後戸長、村長、郡会議員に選ばれる。 
若林家 若林鹿左衛門は屋号が若林屋であり、寛政十年町物書に就任しつつ開塾し、文化十二年に没。六左衛門(号花山)が継承し、明治五年八月竹林寺横に門弟により筆塚が建てられた。 
旧下村域
●特色
 農業地であり寺子は男児ばかりであるが、教育には力が入っていた。名頭 国盡商売往来等を教科書に使い、特に売薬行商の関係で習字が重視されている。束修に酒肴(料)を師匠へ、餅 赤飯煎豆を同門寺子へ渡した。謝儀には銭での納入が多く、米 味噌 野菜魚あるいは労力を提供した家もあった。春には畳代、晩秋に炭代を納めた。ただし貧困家庭へは一切を免除し、習字用品を貸与するのも慣例であった。また寺子は天神講を年数回と月の二十五日に開き、席書や師匠から訓話を受けた。 
●師匠の略歴
岩木太左衛門魯直(天明二年〜安政五年七月二十七日、号権斉) 大白石村に生まれ、五十九歳なってから江戸で御家流の書を学んだとも、三十八歳で帰郷し開塾したとも伝わる。漢籍や珠算も教えた。岩木教習所とも唱え、看板には「御家流幼稚筆道稽古處」 (現存)と掲げていた。
関原九郎平直入 最初総兵衛、父の名を相続する。那須半左衛門に学び、師匠の没後文久元年八月に寺子屋を開くと、名声は寒江村にまで及んだ。明治五年学制頒布以後に習字教員になる。門弟たちは三十四年に来遊中の井上圓了に揮毫をもらい頌徳碑を建設した。
竹脇甚五郎 岩木教習所で書を学び、師匠を継承した。明治五年十月七日に没した。
那須半左衛門蘇直頁(文化三年〜文久元年八月一日) 祖は那須資隆で、大江村から下村へ移住し帰農した。幼少時より足が不自由で農業をするのに支障があった。これを憂いた父は学問で身を立たせてやろうと思慮し、富山の恒川泰蔵の許に学ばせた。親の願いを違えず成績は優秀で、帰郷後に寺子屋を開いて、日々百数十人を教えた。名声は寒江村にまで及び、本郷・大塚・中沖・野田等からも通学してきている。更には手本だけをもらって家で学んでいる男女児が数多いた。
広瀬太郎左衛門信道(寛政十年〜嘉永五年三月四日、字伯路、号北園) 祖先は丹羽五郎左衛門と伝えられる。摺出寺村熊西宇兵衛に学んだ後、各地で経書を学び、京の人豊原氏と下村加茂の真宗正覚寺十一世慶翁から音楽の手解きを受けた。岡田栗園や宮永裳涯と交友する。文政二年父と同様組合頭に就任し、天保十五年(弘化元年)に田地割のとき用水路を改良し、水路を通して潅漑事業を行ったことでも知られている。また下村駅の再建のため、宿継御貸米七百石を藩から拝借し、その一部で宿救済基金として草高に百五十石を購入した。毎夜住民子弟を集めて教育に努め、経史も講じ人倫を諭したと伝えられている。明治十一年十一月には広瀬文哲により「北園先生之碑」が建てられた。
広瀬文哲郁(字文哉、号竹塢) 富山町石黒兵二の三男で、十九歳の時に広瀬信道の弟伊八郎の養子に入る。漢籍・詩文・書を能くし、富山町の横地元丈より種痘術を教わる。これは膿を取って植える方法であったようである。京都や東京に遊学し、伊藤博文や山岡鉄太郎たちとも交わった。教育にも尽力して、明治六年忠告小学校で校長に就任する。その後小杉町に移り、書や漢籍を教授する。三十五年九月八日に没した。
三澤吉郎 那須半左衛門に師事し、師匠の没後文久元年八月一日に寺子屋を開いた。慶応元年に塾を閉じて金沢で医術を学ぶ。その後石動町大谷龍玄の養子に入り医業に従事した。
posted by ettyuutoyama at 18:20| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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