2009年06月18日

第五章 明治維新後の教育行政


文部省設置と学校設立
 慶応三年十二月九日朝廷は将軍徳川慶喜の辞職を許し、王政復古が宣言された。翌年一月に鳥羽伏見で旧幕軍は敗れ、ここに約七百年続いた武家支配、徳川家康以来約二百六十年続いた幕藩体制は完全に倒壊した。
 三月五箇条の御誓文で今後の方針が指し示された。直ちに京の学習院が再興され、皇学所と漢学所を創設し、「国体を弁明し名文を正し」「漢土西洋の学を以て共に皇道の翼」となることが宣せられた。 
 明治二年東京の昌平黌を大学と改称して全国の教育行政を統べさせると共に、皇漢両学所を廃した。更に開成所を大学南校、医学所を大学東校に改め、京都に小学校を設けた。府県には「府県施政順序規則」を頒布して小学校の設置を命じ、読書算で手紙や計算の知識を教え、講談で忠孝の思想を与えるべきことを説いた。そこで全国に暫定的な変則学校が設立されていく。その多くは寺子屋等からの移行であった。
 三年二月大学規則と中小学校規則を発令、東京に小学校六校が設けられた。
翌年七月大学を廃して文部省を設置し、廃藩置県に伴い府県の学校も統括下に入れる。初代文部卿には大木喬任が就任、五年八月太政官布告で学制が頒布された。
以後フランスの制度を範に、本格的な校舎・教科書・学習計画を持った学校が作られていく。一方寺子屋は激減し、過渡期の措置として小学私塾の扱いで存続が認められるが、学制に則ることを必須とした。やがてわずかな私塾や未就学者のための塾を除き、姿を消していくことになる。
寺子屋・私塾の統制
 四年十一月の布告で全国各府県の学校を統括下に置いた文部省は、翌五年三月十四日の文部省第六号付達で
「但府県学之外皆私塾トス。唯一家或ハ二家迄子弟ヲ教候者ハ家塾ニ属シ候間私学之数ニ算入セス」
と私塾を定義付けた。学制案は六月の太政官裁定を経て、八月三日文部省第十三号付達により全国へ頒布されると共に、太政官布告第二百十四号「学事奨励に関する被仰出書」で念を押している。その一方で私塾に対しても統制に乗り出す。九月二日文部省付達第二十四号で「第四十三章ノ末左ノ但書ヲ加フ。但家塾ハ地方官ニテ之ヲ聞キ届毎年二月八日取集メテ督学局ニ出スヲ法トス」と規定する。これに則り、十月二日文部省付達第三十号で私学・私塾の開学を許可制とした。
新川県の場合 富山藩では明治維新以後も生徒の留学を継続させた。大学南校への留学生は士族入江鷹之助、千秋一郎、林志藝二、高畠里美、佐々間多、卒の磯部四郎(大参事林太仲の実弟)である。西京(京都)への遊学生は士族田尻虎雄と高澤誠で、獨逸学を専攻した。自費留学生は士族富田快山と平民庶人卒二十名がいる。
 廃藩置県以後、富山県は七尾県の一部を併せて、五年九月二十五日新川県に改組される。教育機関として小学校が設立され、中学校は正則中学校である明治十八年の富山県中学校創立まで変則中学校(文部省の教則で授業する学校)であった。六年に井波で私立変則中学校の設置が認められ、十年に致遠中学校が富山町に設立される(生徒減少で十三年二月休校)。その他に、商業教育のため十八年私立富山英語学校(富山市、英語・簿記等)、十九年鳳崗学校(高岡市、物理・簿記・算術)、二十三年富山簿記学校(富山市)、二十四年北陸簿記学校(富山市)が設けられ、私立英学会が富山、高岡伏木、滑川にできている。
 小学校に関し、新川県は六年一月学制実施の告諭、七月学区・学校の設置計画策定、九月小学校生徒心得を受け、十二月に新川県小学教則を制定する。しかし就学率は寧ろ藩政時代より低下したようである。六年の人口六十二万九千四百五十四人の内学齢は十万三百三十五人であったが、就学者は二万三千九年四月四百一人であり、就学率は二三・三二%(全国二八%)である。翌年は就学者が二万七千九百八十六人で、就学率が二十七%(全国三十二%)、内訳は男二万四千二百八十二人・就学率四十六%(全国四十六%)であるが、女三千七百四人・就学率七%(全国十七%)にすぎない。理由の一つには授業料を徴収すると発表したことにある。実際は八年で県内三百二十二校中徴収したのは四十四校のみで、あとは寄付金で成り立っていたのであるが、寺子屋では特に定めを設けなかったのであるから、印象は良くない。寺子屋から小学校に移行した所ではそれほどの心理的抵抗はなかったであろうが、改めて設けた場合には師弟関係が薄いため出席率も低くなるであろう。また半年や一年で来なくなる地区も多かったという。
 六歳から下八〜三級までの三年間は義務、下二〜上五級の三年間は任意であり、上四〜一級は四年の夜学であった。一月と夏休みの後に各々入学期を設け、年齢が過ぎた者も八級から始めさせた。六月と十二月に進級試験があった。なお転学は認められなかった。 
 文部省は全国を八大学区に分け、一大学区は三十二中学区とし、新川県は五中学区に分かれている。一中学区には二百十小学区があった。十二年九月の教育令でこのような学区制が廃止され、町村単一または連合で設置することになった。就学年齢は六歳から十四歳で、その内義務を十六ヵ月としたが、十三年十二月の改訂では義務三年に戻す。十四年五月三等に分けて初等と中等が各三年・高等二年で、義務は初等のみとする。学区と行政区画にズレがあったが、十七年頃には是正される。十九年四月森有礼文部大臣は小学校令を布令し、尋常・高等各四年に分けて義務を尋常四学期(現在の学年)と定める。これで初等教育の形はほぼ完成をみた。
●学制の変遷
明治五年八月文部省(正則) 
 下等六歳〜九歳四年 
 上等十歳〜十三歳四年 
六年新川県学事取調書 
 実態に合わせ正則(町用)ではなく変則(村用)を採用する。 
九年四月新川県学規 
 下等小学校をそのままにし、上等小学校を各一大区に一校、別に男児の就学困難者のために季節制の夜学を設けた。
十二年一月石川県小学科準則 
 簡易速成科 三年、六等級、 
 一日三時間 
 下等小学 四年、八等級、 
 一日三・四時間 
 上等小学 四年、八等級、 
 一日五時間 
●学制頒布に基づく小学校設立の告諭
明治六年一月
 明治六年一月学制二基キ管内毎大区二一小学校ヲ設立セ
ンコトヲ告諭ス其略二日ク今般学制ヲ発行シ普ク子弟ヲシテ学術ヲ勧励セシメラル、所以ノモノハ各自其天賦ノ知識ヲ発舒シ才芸ヲ長進シ大ハ以テ天下有用ノ器トナシ小ハ以テ一家ノ営業ヲ盛昌ニシ将来人生ノ幸福ヲ全フセシメ給ハンカ為ナリ是ヲ以テ全国ヲ分チ八大学区トシ一大学区ヲ分チ三十二中学区トシ一中学区ヲ分チニ百十小学区即チ全国ヲ通シテ五万三千七百六十小学校トス由是観之本県ノ如キ亦大凡中学十校小学二千百校ヲ設クヘキノ比例ナリ然シテ県下今日ノ勢二就テ之ヲ論スレハ則其十分ノ一モ猶旦置クヘキコト難キモノアリ雖然教育ハ土地開化ノ一大要事ニシテ須臾モ忽セニスヘカラサレハ木県其実際ノ情勢ヲ斟酌シ先ツ学制大凡百分ノ一即チ毎大区ニ一小学校ヲ置ントス其レ区戸長等管内人民ト協同商量シ学校ヲ設クヘキ至便ノ地ヲ撰ミ以テ開申スヘシト尋テ各区々戸長等ト謀リ小学校ヲ置クヘキノ地ヲ定メ未タ学舎アラサルノ地ハ仮ニ寺院等ヲ貸リ以テ学校二充ツ其地名ヲ左ニ開列ス
第一大区 第二大区 入膳村
第三犬区 生地村 第五大区 水橋町
第六大区 上市町 第七大区 東岩瀬
第八大区 下大久保村 第十一大区 四方町
第十二大区 愛宕町 第十三大区 八尾町
第十四大区 下村 第十五大区 小杉新村
第十六犬区 吉久新村 第十七大区 湶分村
第十八大区 高岡町 第二十大区 氷見町
第廿一大区 加納村 第廿二大区 戸出村
第廿三大区 福岡町 第廿四大区 今石動町
第廿五大区 杉木新町 第甘六大区 井波町
第廿七大区 福光村
〔石川県史料九十旧新川県誌稿三 国立公文書館内閣文庫蔵〕
●明治十年就学率(「文部省年報」)
富山七六・六三% 新湊七〇・四八% 高岡六三・四五% 井波六二・三〇% 福光五六・七二% 氷見五四・七四% 東岩瀬四九・一三%
城端四六・六二% 滑川四四・〇二% 泊三九・九八% 魚津三二・七六% 福野三一・四七% 今石動二三・一一% 平均五〇・〇三%



posted by ettyuutoyama at 18:31| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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