2009年06月18日

第四章 寺子屋の師匠〜砺波・射水

一、砺波市
旧砺波市域
●特色
 砺波郡の中心地で、寺院 神社 医者、その他多くは役付 有力者が従事した。重点を置いたのは習字であり、平仮名 片仮名 数字の他に教科書には十干十二支 村盡 往来物 千字文を用い、上級者の素読には実語教や四書等を使用していた。俳句や歌なども盛んであった。明治六年頃にはすでに簡易小学校があったことを確認できる(太田村入道忠兵衛、北般若村林太郎右衛門など)。
●師匠の略歴
上田謙斉 名は仁十郎。祖泉(現礪波市)出身で、医者の修業をする。五鹿屋荒高屋に移り、小幡増水と協力して上流家庭の子弟に小学や四書五経を用いて素読までを教えた。
遠藤喜三郎 神島で開塾する。明治維新以後副戸長を務める。学制頒布の際、節文小学校の教員となった。
小倉孫左衛門 祖は石山本願寺の門徒として天正の頃活躍し、その後は不動島を開き小倉の土居に住んだ。孫左衛門は金沢で漢学を学び、天保の頃に鷹栖で四書五経までを教えた。天保十四年に碑が建てられる。
小倉定見 長崎で清国人から眼科術を学び、帰郷後に鷹栖で開院する。文政頃より教育にも携わった。建てられた塚には「花に暮れてしばしば花の明かな」とある。
小野惣二 太郎丸で組合頭を務めながら、教育に従事する。後に門弟は筆塚を建てた。
小幡増右衛門 余西佐久平に師事し、五鹿屋荒高屋で十一月初旬から三月二十五日までの農閑期に教えた。ヒバ地蔵堂に碑が建てられた。
小幡増水 天保四年生まれで、父は小幡増右衛門。上田謙斉と共に漢籍までを教えた。
小幡宗平 嘉永六年に生まれ、五鹿屋荒高屋で明治三 四年頃農閑期に二年間教えた。
柏樹三郎右衛門(籌山義運) 文化元年生まれ、五鹿屋荒高屋で中流以下の村民子弟が通った。明治二十八年に没。十二年三月碑が建てられている。
金子宗右衛門(文政三年〜明治十九年八月十五日、号露仙) 金子家は古くからの土豪で、藩政期五代目と六代目は十村に任じられた。十五代目宗右衛門の次男として生まれた半兵衛は六歳で父を喪い、二年後親戚の安念安兵衛(号雪江)弟が入婿して十六代目を継ぐ。天保四年に兄半次郎が没し、家を継ぐ立場になった(後年十七代目宗右衛門を襲名)。弘化三年十村島助九郎より村組合頭に任じられ、明治十年まで務めた。その後は村会議員に選ばれ、十八年まで治水 コレラ対策 検地等に奔走した。旅を好み、近畿 江戸 四国等を周遊する。俳諧集も出した。学制頒布まで村民教育にも尽力し、五年には学務委員になって太田郁文小学校の創設に努力する。
河合三介 東野尻野村島で開塾する。明治九年東島に碑が建てられた。
河合多母津 神島で代々神職を勤める家で、国学者で能書家でもある。漢方医でもあった。寺子は林や鷹栖出から通学している。
川田七四郎 新明村に開塾した。野村島の河合頼定(安政五年〜大正十三年)は五歳で入門し、後に医者になっている。明治に入って筆塚が作られている。
厳照寺 栴檀野福岡厳照寺住職西脇興顕は教育にも尽力し、明治十九年七月碑が建てられている。
清原庄兵衛 初代は弘治二年に新明へ移住し開拓する。子孫は肝煎を務めた。碑がある。
小鍛健斎 藩政後期に開塾する。嘉永元年に碑が立てられた。
西慶寺 般若頼成にあり教育にも尽力する。明治十五年五月に門弟により建てられた「善永先生之碑」がある。
斉藤宗庵 祖は小矢部の福住村から移住して福泉屋と称す。柳瀬新で代々医者を務めた。祖父宗玄は天保七年五月十六日華岡青洲の大坂分塾合水堂に入門している。宗庵も医者で、教育にも貢献した。大正七年六月に碑が建てられる。
佐藤家 佐藤喜右衛門は出町で組合頭を務めつつ、教育にも携わった。子息喜三治が継ぐ。
真行寺 江波で代々寺子屋を開いたという。維新前後には寺中の朝日新左衛門家屋を補修して使用し、明治十年には矢部村境の隆文小学校を移した。
佐伯円次右衛門 東宮森で医者をしながら寺子屋を開いていた。地蔵堂境内に碑があり、藩政末から開いていたとの伝えがあるが、医者を継いだ子の秀作が苗加村の河辺正三(陸軍大将)従姉妹を妻にしたということからすれば、実際は明治前半から中期のことであろう。
杉下碧(天保二〜明治三十八年) 日詰の杉下家四代目で、文久元年半雪居、野鶴に入門し、明治元年に俳号青嵐を授かる。後に掃月庵西蘭と号した。俳諧宗匠であるとともに、漢学や蘭学(医薬)を修め、小学校教員を務めた。水島でも開塾したとある。
専念寺 八世平野順照(元文二年〜文政三年九月十八日、号雄水)は清廉かつ謹厳で知られ、五男でありながら継承した空月(天明四年〜天保十年十二月四日、号蟻術庵)は父に学び、仏教を講じた。一方で瑞泉寺からの講演依頼は断っている。庫裏前に草庵を設け、御堂廊下に本願寺雲華(豊前の人)筆の蟻術庵と書いた大額を掲げた。唐金屋雪幸もここに来て句会を開いている。十一世玄照(文政十年〜明治二十七年十一月四日、名一画、号東華)は幼年より詩を能くし、能筆で知られていた。蟻術庵を用いて寺子教育に努めた。まず自筆手本で変体仮名等の仮名 数字から入り、十干十二支 村盡 千字文 百姓往来 四書五経へと発展させた。また行 草書を基本とし、楷書は上級者が練習した。珠算は置算や八算見九の加減乗除を習熟させた後、土地丈量等の実践的なものから開平 開立まで教えた。経蔵を建築し、本堂を広げ、土蔵の傍らに茶室を設けた。華厳に精しく、本山より三度賞せられ、越中総代組長になる。教校係兼教授、高岡教校に教鞭を執り、その後は自坊で僧侶を教育している。八世以降の住職を記した「招喚坊雄公之碑」を建立し、業績を讃えている。明治五年五月に新川県庁に家塾設立願いを提出し、僧侶の存在意義を習字・読書・文明の風俗を教え、人材を育成することにあると記している。
善兵衛 苗字は出分で、二代目善兵衛より三代が師匠を務めた。三代目は庄下高道の熱心な真宗信者で「阿弥陀の善兵衛」と呼ばれた。幼年時父に就き、また母の実家が三谷(庄川)にあるため西蓮寺でも学んだ。文政年間に家庭生活の心得書を著し、仏教を通じた修身を説いた。安政六年に没する。四代目は組合頭 肝煎、維新後は組合長 副戸長 戸長と進み、明治十二年二月には矢木村外七ヵ村を束ねる戸長役場で用係に就任した。明治十五年七月十三日に没した。
宗八 藩政末期に庄下大門で開塾する。正行寺裏に碑がある。
高畠文伯 出町の医者。能書家として知られ、読み書きを教えた。文吾と記した本もある。京で医術を学び、新中町で嘉永から明治二十年頃まで開院する。御郡所御牢舎医師を務めた。俳句も能くし、号は巨渕である。養孫文太郎は井波税務署に勤務した。
中居三郎 天保六年に生まれ、二十四歳の時に五鹿屋五郎丸で、一月初旬から三月下旬の農閑期を利用し、七年間教えた。
藤井四右衛門 中野で開塾する。後に村長。明治十二年五月碑「正心明」が建てられている。藤井家の祖小右衛門は福光宗守城主で、永禄六年上杉軍により落城の後家臣の畑仁右衛門、横山長次郎、清原甚右衛門、飯田忠右衛門、今井兵助、高松八兵衛とともに移住し、中野村を開いたとも伝えられている。
藤井長太郎 安政六年八月二日生まれ。中野の藤井家一門で醸造業を家業とし、四右衛門に学ぶ。後に村会議員、村長、県会議員などを歴任した。
松田快禅(嘉永四年〜昭和十七年七月十五日) 芹谷千光寺で修業し、河合平三に漢学を学ぶ。壮年時歩行が困難になり寺を辞すが、請われるまま開塾すると山田村 金山村 石動町からも通学してきた。自筆教本で手紙文の読解と書写をさせた。千光寺境内山門傍に碑がある。
水野達治(嘉永六年〜明治四十一年) 桃井皐元に八年学び維新後開塾する。入門者の年齢は比較的高かったそうで、筆塚が建立。十八年琢成小一等授業生、二十二年五鹿屋村収入役、三十三年助役就任。
水上理平(文化七年〜明治十八年) 初代は寛永四年に中野村へ来住する。文久元年に山廻裁許になり、庄川・小矢部川支配役に任じられ、十村へ進む。子息の良作は高岡信用金庫頭取。明治三十三年五月に碑が建てられた。
宮崎小左衛門 文化八年に生まれ、通称は十太郎。鹿島で十二月初旬から三月下旬までの農閑期に教えた。寺子は三・四冬で卒業するのが常であった。没後碑が瑞光島で元治元年に建てられた。
桃井光玄(義徳、号皐元) 祖は守護大名の桃井家に連なる。代々野村島の医者であり、皐元も京で医術を学んだ。農閑期に読み書き算術を教える。明治二十年十一月碑が建てられた。
山本氏 栴檀山五谷に生まれ、俗称を小谷家といったが、名は不明。盲人であるにも関わらず、読み書きを指導していた。
吉田和右衛門(文政八年九月二十日〜明治二十年八月十二日) 号は水底庵、、芳樹園、龍石、幼名平吉、父和右衛門の長男に生まれる。金沢で梅室門の大橋卓丈に俳諧を学び、安政五年俳諧集『藁綴』を刊行する。画も能くし、神社に絵馬を奉納した。寺子屋を開くと近隣村々より寺子が通った。多くの句を残し、絵も描き、手品の趣味があったという。改姓して黒田となる。
余西家 五鹿屋五郎丸の余西佐久平が、読み書きを三十二年間教え、その後は子息二人が継続して教えていた。次男佐久平の門弟は、明治十一年五月に師匠の碑を建てている。
旧庄川町域
●特色
 この地域は村役人が識者であり、教育にも従事していた。沖田兵吉、森田助七、その他左に記す師匠の碑が残っていることから、師弟関係の深さが忍ばれる。また師匠役も南部源三郎が隠尾城主の後裔であったり、但田九左衛門の出た但田一族は但馬国但田村の真宗門徒で本願寺の寺侍であり、井波瑞泉寺建立後に警護役と松明役としてやって来た、というように由来のある人物が当たったりしている。
●師匠の略歴
沖田兵吉 青島村上村で二十名程に教える。没後、明治二十七年三月井波町光教寺雄上良伯手蹟で碑が建てられる。
光照寺 東山見の光照寺十八世住職師道は書や詩に秀で、寺子は金屋や青島から通学した。坊内に頌徳碑がある。明治六年八月二十一日堂宇を済南小学校に提供した。弟真利は天井絵や襖絵で有名。
斉藤家 祖は石山合戦で活躍した瑞泉寺支配斉藤刑部の一門で、藩政期に代々青島で十村手代や村役人を務める。藩政後期に治兵衛(号暁臺)は井波町の与五郎(寺子屋か個人的かは不明)に学び、中田町木沢源五郎の手代として金屋岩黒村御用所に勤務する。能書であり寺子屋を開く。冬季の農閑期を利用し集中的に教え、寺子は上村 下村 示野より九十名程が通う。碑が建てられた際の碑文は高岡木町の称徳寺住職による。孫の平治(天保四年六月十六日生まれ、明治四十五年二月に隠居し庸志と改名、号暁峰)が十八代目を継ぎ、三清村武部家の手代を務めながら、寺子屋も継承する。毎年一・二ヶ月ほど帰宅した際に集中して教えた。門弟は明治二十六年八月碑を先代に並べて建てた。碑文は福野町の崎良平による。明治五年第五大区区会所租税方書算役、七年小一区戸長、十八年金屋岩黒村等十四ケ村の戸長、二十二年初代青島村長に選ばれ二十二年間務めた。生花や書画も好み、村で初めてランプを使ったとも伝わる。長男嘉麿と孫の平三も青島村長を務めている。
藤井家 雄神神社神職藤原氏の藤井家は、文化頃六十二代従五位下備中守秀直(安永六年十月相続)の代に教育にも従事し、三十余名を教えた。文政十一年十月十日に没した後は、明治初年まで妻の鈴子と子息幸麿が継続している。門弟は父子塚を建て顕彰した。
二、南砺市
旧福野町域
●特色
 砺波市と同様に、寺社や医者、町 村の有力者が携わることが多い。俳諧が盛んで、能書家を輩出する土地である。寛政の頃に句会が頻繁に行われた。それだけ知識人がいた地域である。
●師匠の略歴
新井伊右衛門 高儀村字御旅屋島で組合頭を務め、教育には安政の頃から携わっていた。明治六年に高儀村学区取締になっている。二十年十月二十二日六十六歳で没すると、二十六年師のため野尻古村用水の辺りに石碑を建てた。
勝田吉兵衛(文化十年〜明治二十年八月三十一日、号竹翁、徳里、明治三年五月吉治と改名) 東山見村金屋で生まれ、二日町村へ移住して十村役菊池家の手代になった。弘化四年十二月御収納米改良の功が認められ、藩から銀十五匁を拝領する。野尻村に移って土師流や御家流の書を能くし、明治三年からは苗加村等でも教育に当たった。明治五年六月砺波郡第十八番大区小二区戸長に就任し、翌年野尻村学区取締になった。子息宇吉郎が塾の様子を語った所によると、手本は四日単位で次の物に進み、清書の評価は紅殻で線を付けて表し、佳良は二本線、次は一本線であった。謝儀は米五升から一斗、正月と盆暮れに豆 小豆 胡麻 餅米二升程、天神講にも少しの包銭があったそうである。
 子息の宇吉郎(嘉永四年十月四日〜明治四十二年十二月五日)は父に就き、その後漢籍を福富春涯に学ぶ。また北宋の文人政治家蘇軾(号東坡)の詩 書から大いに学んだという。文久三年銃卒の訓練を経験し、三年間小隊長を勤めた。その後は十村役手代見習を経て、維新後明治十二年野尻村外十三村戸長役場書記に就任し、翌年学務委員になる。十七年七月に戸長、二十二年十二月十七日より二十年三ヵ月村長として村の発展に尽くした。
河合喜世志 野尻村神職の家に生まれる。天保頃に開塾した。書風は土師流に近く、明治六年十一月から十二年三月まで野尻小学校(八年四月遷喬小に合併、九年三月近思小として分離)教員に就任した。十三年七月邸内に天神堂が建てられ、大正初に石武雄神社境内に改築された。毎年八月十六日に祭祀が継続されている。
河辺次郎左衛門光正(文政九年七月六日〜明治十四年九月二十六日、号雪州) 祖は近江国苗鹿の武士で弘治二年前田利家に属す。永禄四年次郎左衛門が砺波郡に移り、その地を苗加と名付け帰農した。元禄三年苗島村に移って十村石黒組才許になり、以後安永二年まで五代にわたり努めた(寛文七年石高三百七十石)。父は苗加村川辺中蔵で、苗嶋村次郎左衛門尚重の養子になる。富山で漢学を大野 佐伯両家で修学、市河米庵には書を学んだ。寺子屋を開き算盤も教える。門弟は苗島大曲がりに碑を建て師を顕彰した。砺波郡算用聞役、明治三年には五箇山の小谷 利賀両組裁許十村を経験する。
河辺純三 安政三年に生まれ、金沢で竹下塾に漢学と国学を学ぶ。農業の傍ら読み書きを教え、後に教員になった。子息の正三(明治十九年〜昭和四十年)は陸軍大将、第一軍司令官兼航空本部長に就任、虎四郎(明治二十三年〜昭和三十五年)は陸軍中将、参謀次長。インパール作戦に深く関わった。
空泉寺 石田村空泉寺安達家十九世住職弘岸(字之達、号雪嶺)は非凡の才で信望を集め、文化十三年十一月十八日五十八歳で没した。二十世弘西(字思明、号石溪)は十七世智光の系譜で、文政初年に雲龍山(富山別場)の主となり、京で浄土論を説いた。天保六年九月二十七年六十八歳で没する。嘉永三年七月に碑が建てられた。二十一世弘音は能書家で、多くの子弟を教育した。後に神能と月交替で教えた。寺子は石田 田屋 広安 八塚 安清 森清から通ってきた。明治六年十月二十四日自坊を石田小学校(翌年一月率性小学校と改称)にし、教員に就任した。
五島家 浦町薬舗鷹栖屋であり、四代にわたって寺子屋師匠を努めた。最後の三六こと寛平(号潤亭)は、弘化から明治にかけ毎年四十〜五十人を教え、上級者には四書へ進ませた。俳句 書画 生花 謡曲も能くした才人であった。安居寺公園に句碑がある。次の二代目寛平は桜蔭書屋を設け、明治二十四年に郵便局長になった。三十七年十二月に四十九歳で没する。子息寛平は明治十八年十月十二日に生まれ、金沢英学院を卒業して福野農学校で英語講師となる。父の後任として明治三十八年から昭和二十九年まで郵便局長も務めた。
柴田方中 浦町の医者で、号は元寿。父の金蔵も京で学んだ医者で、号は東陽(東洋)。元治二年の西方寺境内、砺山句碑建立無尽講にも参加している。
神能善四郎 広安村で開塾。後に安達弘音と交替で教え、寺子は月別で交互に通学した。明治十年自宅が率性小学校になった。
武部和尚 三清は福野と井波の境で所属も曖昧かつ武部姓の多い地域であるが、便宜上福野町とした。明治二年二月の凶作に際し、細民二百名が親作へ納める米の減額を哀願している。
等覚寺 住職河合増林(寳林、号保齋)は天保頃から教育にも従事し、書風は土師流に近いもの
である。医者も兼ねていた。明治七年五月十八日六十七歳で没。十年十一月坊内に碑が建てられた。
長岡勘右衛門(号静芳、成鳳) 代々経師(表具)を生業とし、武者絵などが得意であった。能書家でもあり、教育に従事した。明治初年に文部省より表彰される。十三年に没した。
福富家 福富家の屋号は二日町屋であり、二代目平左衛門こと与太郎(字真平、子衡、号翠園、春涯、有章)は俳人であり能筆家でも知られ、天保の頃町内で開塾する。上級者は漢籍に進ませた。門弟は数十人、居宅を有樹館と名付けた。子息三代目平左衛門こと勝太郎又は定愨(字伯宣、号錦園)は父から経学や詩文を学び、崎良平にも師事し漢学を修めた。父子は京の漢学者劉君平とも交際があった。書風は米庵流である。明治二十八年十一月に門弟は恩光寺坊内に父子の碑「雙美之碑」(碑文崎良平)を建てた。
古瀬佐兵衛 上川崎村で文化の頃に開塾する。高参寺門前に顕彰碑が建てられた。
村元甚蔵 安政の頃に下吉江村で開塾し、明治七年二月自宅を下吉江小学校とした。
旧福光町域
●特色
 俳句や書などが盛んな地域であり、地方では寺を中心に住民子弟の教育に努めていた。私塾や郷学の活動も活発であり、小学校が明治五年から創立されている等、教育には理解のある地域であった。
●師匠の略歴
氏家庄助 福光西町に開塾した。能書家で珠算も教える。門弟は師匠を頌し「庄助塚」を建てている。明治六年自宅階下を小学校仮授業所に提供した。
片山重助(佐助)(号遊亭) 安政元年に福光町内で開塾する。屋号は江田屋。能書家であり、画にも通じていた。門弟は西町に筆塚を建てる。後に坂本山に移した。慶応二年に没。
本敬寺 祖谷本敬寺十三世住職庵芳運は、明治三年から教育にも従事し、六年二月に白山坊舎の一部を小学校に改め、自身が教員になった。大正十二年十月に碑が建てられている。
旧城端町域
●特色
 城端町は寺の町であり、教育にも寺が多く関わっている。また井波町と同様宝歴から寛政にかけて芸術が絢爛の華を咲かせた。俳句では金沢から梅室(桜井能充)門の宗匠大夢(直山宗四郎)が嘉永五年に天満宮菅公九百五十年祭に滞留し、詠進俳句の撰者になっている。水月庵の北隅には津幡屋良平(画号堀川雪郷、雪江、俳号巨山)の筆塚がある。七代小原几好とも交際のある俳諧人であった。書にも薫其昌流と頼山陽流に秀でた宗林寺の糸屋伊藤一曹(号袴腰山樵逸叟)がいる(明治初年に郵便局長)。
●師匠の略歴
有川文助 出丸出身で、城国寺前に民家を借り、男女に教えた。妻も女児に裁縫を教授した。
海乗寺 北野村海乗寺住職利波豊賢は金沢から養子に入り、弘化 安政の頃に書や珠算、上級には四書を教えた。祖は平家の落人。利波臣の分脈ともいう。稲垣姓で大鋸屋村上田の真言宗山伏であったが、文明十三年に北野三ケに移り、貞享三年寺号を許される。明治以後に天満宮社掌となった。ここの豊賢は歳から考えると、直枝(天保九年〜明治三十二年)の先代であろう。直枝子息も豊賢で俳号は仙泉。後に明治三十年富山県師範学校を卒業し、翌年神明宮(明治以前は山伏相善寺)社掌井頭家に入っている。
寛貢 元会津士族で、旅僧になり諸国を巡って城端山田村に留まる。そこで書 珠算や俳句を教えた。門弟には明治四十一年に村長兼信用組合長になった大窪の西村三助(俳号松林)等がいる。
専徳寺 金戸で明治維新以後も寺子の教育に尽力し、六年自坊を金戸小学校に提供した。
宗林寺 以前より寺子屋を開き、教育に従事していた。ここを借りて師匠になったのが佐伯直吉で、週に一度は夜学も開いていた。寺子の年齢は十一 二から十五 六歳が多く、稀に八 九歳がいた。授業には天変地異 西洋夜話 窮理図解などもとり入れ、父母は寺入時に師匠へ鮮魚、同門には生菓子を配り、中間 歳暮 五節句に礼金を修めた。明治六年に小学校長取扱に就任している。
旧井波町域
●特色
瑞泉寺十一世浪化が元禄七年に京で芭蕉に入門していることもあり、俳句などの町人文化が成熟し、寺子屋教育も町人が主導権を取っていた。主に商家や村役人が兼業で従事している。 
●師匠の略歴
岩倉仁兵衛 屋号は坪野屋で、北川に開塾する。明治五年に碑が建てられた。
宇野甚之助(号霞條) 屋号は塩屋で八日町で開業していた。旧家であり代々俳句に秀で、自身も井波俳壇で活躍した。明治五年井波八幡宮境内に門弟が謝恩碑を建てた際、自筆の句「名にしらばしらばや梅の咲くところ」が刻まれた。表は田川才助筆「以義達道」である。
 宇野家の祖は源頼親で、頼治の時に大和国宇智郡宇野村に居住し宇野と称す。その後に戦国の混乱の中で庄兵衛宗治が天正年間に井波へ避難し、以後宇野家は塩屋を屋号にして大いに栄える。甚之助もその一門であろう。俳人も多く輩出し、樗良門下の治良助(号木吾、松琴亭)や孫の治良助(号樹庭)以後の当主次四郎(号樹峯)、次四郎(号井里、久敬堂)は著名である。中紅染や井波紬織、後に醤油醸造を家業にしていた。井里は田川才助や小川大夢に学び、瑞泉寺台所門の長屋太鼓部屋(非番近習の部屋)で大夢の講義を陪聴する暇に詩会を開いている。明治六年四月に井波小学校に勤務し、校長に昇任して十六年に退職、その後は助役や銀行重役を務め、大正十年三月八日に七十二歳で没した。
亀田家 代々清玄寺で村役人を務め、天明年間に十三代目が開塾した。十五代三郎右衛門(文政四年〜明治二十年)の頃は、井波に止まらず福野からも多く通っていた。
斉藤八郎 代々医者を務めた家で、時代からすると孫八郎のことであろうか。明治十五年に筆塚が建てられている。十一年に生まれてすぐ井口家から入った養子八郎(号素影)は幸田露伴門下で、高浜虚子の同人である。
名倉仁兵衛 屋号は岩倉屋で北川に開業していた。明治五年に門弟が北川神明宮境内に碑を建立した際に、自筆の「筆博芸」が刻まれた。
箭原家 今里で五代目伊兵衛が開塾する。六代目久蔵がこれを継いだ。明治二十二年今里神明宮境内に門弟一同が謝恩碑を建てている。
山見八幡宮 神職を勤める山森一麿は能筆家であり、御家流の書風であった。教育にも力を入れていたが、明治六年に二十歳で没する。弟雄男が志を継ぎ、三十年頃まで不就学者を集めて知識を授けた。
 山見八幡宮は明治元年まで修験宗三寳印末派實相院権大僧都であり、一麿の父は天保二年に寳住院来教の免許を受けている。祖は源氏で、明治元年八月一麿が復飾し山森姓を名乗った。
旧井口村域
●特色
 住民の多くが農業従事者であり、寺院が文化と教育の中心であった。
●師匠の略歴
光徳寺 井口の光徳寺住職恵実は住民子弟の教育に力を入れ、年間を通じて寺子屋を開いていた。寺子は男子で十三 四から十七 八歳、寺入時に師匠へは酒肴料 寺子一同には生菓子か赤飯を配る。謝儀は専ら金銭で支払われ、春に畳代 秋に炭代を納めた。授業では仮名 数字 苗字 村盡 消息往来 百姓往来 千字文等を順々に教えた。「定」を作って寺子を戒める一方で、天神講等の行事を通じて師弟関係を深めた。
旧平村域
●特色 
 村役人や素封家では、名頭 名物往来 消息往来等を買い求め、子弟の学習に用いている。また一般村民にも、忠臣蔵 加賀騒動 石山合戦記等の軍談語りで文字を覚えた者もいたそうである。だがここ庄川東側の村には流刑地があり、その地に住む人々は流刑者から文字を習った。小谷や大崩島では藩士や流刑者に学んだ者が師匠になって住民子弟に教えている。明治維新後には識字者の需要が増え、各地で寺子屋が設置された。小栗栖や田向等の念仏道場(本願寺派と大谷派が共存)にも設けられ、男子が合計して三・四十名は学んでいたようである。関連して、『富山県教育史』に「野原うしちま」という語があるが、よくわからない。 
●師匠の略歴 
瑞願寺 史料には下梨の瑞願寺で井波から宇野という師匠が出張し、男子十数名に教えたことが記されている。この人物は宇野甚之助であろう。なお瑞願寺は瑞泉寺の大谷派帰参に大功がある寺である。
流刑人 五箇山の流刑人は殿付けで呼ばれて扶持米の給付があり、平小屋入りであれば居村内を出歩いてもよかった。そのため村民子弟から請われるまま学問を教授する者もいた。文政五年九月から安政三年六月まで篭渡や大崩島に流されていた林与八郎(御鷹匠伝左衛門の次男)は習字手本として村盡を残している。嶋村の丘村隆桑は流刑人から字を習い、勧められて金沢や長崎で医術を修得し、明倫堂で教鞭を執る。廃藩後に『養蚕弁論』を著し、石川県へ産業振興を建白した。この流刑人は桑原君(甚)平(文政九年十月二十日から天保十一年七月十二日、平小屋)という伝承もあるが、矢木清四郎(御徒、安政四年六月八日から明治元年三月二日平小屋九尺×二間)かもしれない。矢木は村の若者に字を教え、初代村長になる池田庄次郎もその一人である。田向村の水元作平も流刑人から医術を学び、明治初年に種痘を行っている。この人物は篠田余太夫(御馬廻組、文政十三年九月二十日から安政五年十一月十日平小屋二人扶持)であるかもしれない。篠田は嘉永元年に疫病で亡くなった村人の墓碑を書いている。大崩嶋の流刑人に学んだ山下弥兵衛は杉尾小学校で教員に就任する。この流刑人には井関達之助(定番御徒)と鍋屋藤吉(嘉永六年六月十五日〜明治元年三月二日平小屋一人扶持 塩薪代二分二厘)が考えられるが、前者は御縮小屋入りであることから、後者である可能性が高い。篭渡村岡田耕作と嶋村沢山三六も流刑人に学び、嶋村小学校の教師になる。沢山は矢木であるとして、岡田は横井大次郎(嘉永三年十一月八日から二人扶持平小屋)かもしれない。お膳の蓋に米糠をまいて字を教えたという。横井は村人に苗字を付け、獅子舞の棒踊り「なぎなたどり」を教え、道場天井絵の画き手や彫刻手を指導したという。猪谷村の室嶋屋四郎右衛門(嘉永六年六月十五日から平小屋、文久二年四月配所替)は謡曲を教えていた。また刑期開けの嘉平という人物が教えているが、流刑人の名簿にはこの名はない。『富山県教育史』には大槻伝蔵も教えたことになっているが、禁錮牢に入れられているため、多くの村人と接触したとは思えない。
旧上平村域
●特色
 寺子屋数が少ないのは住民数から致し方なく、読み書きはむしろ必要とされていた。それは仏教に裏打ちされた地域行事への情熱から来ているように思われる。人々は積極的に祭りの詞を作り、節に乗せて唄った。
●師匠の略歴 
行徳寺 開基は蓮如より道宗の名を授かった高名な僧。その後裔が鳳龍で、単に読み書きに止まらず、優秀者には四書五経まで教えていた。明治九年十月二十一日没。
生田長四郎 生田家は細島で代々村役人を務め、長四郎は父長次郎より読み書きや開平開立 利息 圭朶 倍朶といった実用的な珠算を教わり、道宗鳳龍より四書五経を学ぶ。その後村民教育に尽力し、維新後は明治五年に組合長、翌年初代村長に就任した。産業を興すため明治十一年、弟の水上善治らと協力し小谷川の水力を利用した水車式製糸工場を設立した。なお、水上善治は安政元年から福野町の柴田元寿に学び、万延元年から金沢で河波有道の門で学んでいる。
中谷豊平 種痘担当医を務め、平村へも出張した。村の教育にも尽力し、二代目村長(明治三十八年六月十三日〜四十二年六月)に選ばれた。子息の豊充(明治十八年〜昭和二十年)も医者になり、村長(大正十一年一月二十日〜昭和三年六月七日)や郵便局長に就任した。
水上久左エ門 旧加賀藩士で、道宗鳳龍の没後に明治十年藤井長右衛門邸で寺子四人と共に継承する。この四人は全員高等科を卒業している。十一年西赤尾小学校の創立後は翌年まで教員として務めた。
旧利賀村域
●特色
 寺子屋の無い地域である。住民は必要に応じ他郷に出て学んだり、村役人の師弟は親から実学を教わる程度であった。ただし西勝寺の五谷山文庫には筆跡が違う文政二年七月記の「五箇山往来」と付属の「加越能名物往来」「八尾往来」が残っている。寺子屋はないが、教科書は写されて流通していたのではないだろうか。大勘場口留番惣(宗)八郎は読・書に秀でていた。
三、小矢部市
●特色
 今石動町内には奉行所に与力五人 足軽三十人がいるくらいで、町人文化が成熟していた。元禄十四年六月芭蕉十哲の一人、美濃国各務支考が観音寺住職濫吹の許に三ヵ月逗留し、享保二年に同寺に獅子堂を建てていることから俳句が盛んであった。郡部では十村や十村手代及び肝煎役等の有力者が村民子弟の教育に従事していた。地域的に寺院が多いことにも特徴がある。また父子で従事している寺子屋も複数見受けられ、地域に根付いていることが分かる。
●師匠の略歴
大谷家 七社村の大谷義右衛門は藩政後期に村民子弟の教育に従事し、良(了)哉は明治中頃まで継続している。
大野八兵衛 千石で開塾し、七十歳で没した。安政三年八月に門弟により顕彰碑が建てられる。
柏卯三郎 金屋本江で十村茂太郎に就き書を学び、その後に開塾する。
加茂家 水島村で苗島組十村手代や鳥見役を勤める。庄左衛門(号青州)は金沢で学び、帰郷後開塾し、農閑期に二百名が遠方からも通った。ただし夏季は二十名ほどに激減するが、農業地域としてはいたしかたなかった。子息の沢水が継承するが、弘化四年九月二十二日三十八歳で没した。その弟である青翠も自宅で開塾し、五 六十人の寺子を教えた。書を金沢で高田江清に、画を法眼泉玄に学ぶ。明治三十九年に七十七歳で没した。兄の碑は弘化五年、弟の碑は慶応三年冬に建てられている。
川口斎孝 元加賀藩士で、生まれは河北郡磯部村。東蟹谷平田村で開塾し、近隣から寺子が集まった。明治十五年から小学校教員に就任し、二十年四月一日から校長を歴任している。大正二年八月顕彰碑が建てられた。
光雲寺 今石動町元門前町光雲寺住職の村上真澄は寺子屋教育にも尽力し、弟もこれに協力した。
光西寺 西島村で代々の住職が教育に従事し、立島順翁は明治中頃まで継続した。
榊原家 荒見崎(高岡)出身の元熊野神社神主。愛宕寺同行で教勝院と称して付近の神社の神官を務めていた。荒見崎村神明宮や今石動町の鉄砲町で開塾した。藩末の当主左右次の妻で、高岡の熊野神社宮崎家から嫁いだ満都廼(弘化四年〜明治二十七年)は漢詩を能くし、明治二十七年八和町永伝寺に碑が建てられた。
筱岡貞次(安政元年〜大正十四年) 水島村で加茂家に学んだ後に開塾した。廃藩後に村長、村会議員や郡会議員、明治三十六年からは県会議員と地方政治に活躍した。碑が大正七年に建てられている。子息貞次(明治十七年〜昭和三十三年)は旭醤油の創業者で、村長や県議会議員に選ばれた。
篠岡与四郎(号東洲) 水島で十村手代を勤める。金沢で大井流書道を小竹五郎左衛門に学び、帰郷後開塾した。廃藩後は水島小学校に勤務した。
島谷長次郎 東蟹谷の平田村で豪農の家に生まれる。村民教育に尽力し、廃藩後は村長に就任した。
浄教寺 興法寺の浄教寺十三世住職霊純は寺子教育にも力を入れ、継いだ子息の慈雲は明治の中頃まで教え続けた。三十年六月に山門横へ石碑が建てられている。
砂田有信(安政六年十二月〜昭和四年五月八日) 小神の砂田清作の三男に生まれ、大坂で懐徳堂に学ぶ。帰郷後に中新田で漢籍を交えながら教育に努め(金屋本江からも通学)、夜は十二 三〜二十五歳の青年相手に石名田等で夜学を開いた。旧正得村には明治三十四年一月三十日(三十五名、予算二十五円)、石名田村には三十四年(十八名、予算十七円)に創設し、昭和十三年十月蔵書百六十冊は図書館へ寄贈されている。大正七年九月石名田夜学に通った人々により碑が建てられた。
住田家 鷲島村の医者。五兵衛尚斎が藩末に開塾し、小島村の医者杉下家から入った五兵衛周斎が継承した。子息喜正は松沢村長。尚斎の紀徳碑が文久元年神明社境内に、周斎の碑が明治二十年に建立されている。
西蘭斉 砺波林村の医者杉下碧(号西蘭、掃月庵)が開塾する。林村でも教えていたという記述もあり、明治六年に林小学校の創立に尽力した。
高瀬五左衛門親正 今石動町奉行所で留書役を勤める三十五俵の足軽で父は五兵衛。上新田町で町人子弟の教育にも従事した。明治九年に門弟が筆塚を観音寺坊内に建立した。
高瀬彌六左衛門定久(号千鳥堂、筌水) 祖は寛文頃今石動に赴任。定久は彌六左衛門を嗣ぎ二十俵。正水の書風を金沢で高田家に学び、兵学を研究しながら教育に努めた。天保十二年一月二十日四十六歳で没した。子息は愛水で、塾を継承したようでもあるが、詳細は不明。弘化三年九月門弟により後谷に碑が建てられる。高田一清(号貞山、天保九年加賀藩書写方、同十三年百石)の手になるものである。
長平 五社村で十村の手代を代々勤め、その傍らで教育に従事していた。役目柄算学に通じていた。 
長澤良庵 十村長田家でお抱え医者を務めながら、藩政末期から明治初年まで長田家と共に村民子弟の教育に努めた。明治十二年八月碑が建てられる。
長田茂太郎 長田家は金屋本江の土豪であり、元和頃に衛門が横山長知の給人知長百姓になる。子息長左衛門が承応元年十村に任じられて以来、代々十村を務めた。天保十三年に御扶持人並に進んだ金右衛門は砺波郡佐加野(高岡市)の困窮を救ったことでも知られる。明治維新後に長澤と改姓した。糸岡組支配は嘉永元年の忠左衛門、文久二年金右衛門、二年から三年までの茂太郎である。茂太郎は村の教育にも尽力した。文格と号した人物はこの茂太郎であろうか。
日光孫兵衛 日光家十三代目で、芹川村で十村手代を勤め、縄張役であった。そのため算学や測量学に通じ、文久年間には肝煎役を務めながら寺子屋も開業した。書も能くする。明治三十二年に門弟と養子孫平により碑が建てられる。
沼田直次郎(天保十四年〜明治三十四年、号白鶴) 彦左衛門を名乗り、十三歳の時金沢で高田江清に書と漢籍を学ぶ。帰郷後水島で開塾し、廃藩後に水島小学校で教員を勤めた。明治十三年四月に碑が建てられている。子息の彦左衛門は、明治四十四年から大正四年まで水島村長を務めた。
長谷川家 水島村で代々神明社神職。十三代従五位下日向守有文は文政五年七月に開塾し、前口十二間の塾舎は遠方の寺子のために宿泊施設を備えていた。鷹栖や津沢から寺入している。子息豊後守政一郎は医者でもあり、安政三年塾を継承している。明治六年には津沢町小学校周旋方を努めた。
藤田屋 紺屋町で寺子屋とお針屋を兼業していたが、後に同町の小矢部屋(大規模)、上新田村の長福寺、鍛冶町の太田屋と並んで、専門のお針屋に改組した。
松波喜平(号菊所) 福町(上町)で薬種商を営み、漢籍にも通じていた。廃藩後は申義小学校の十等訓導に就任する。明治九年に門弟は神明社に碑を建てた。
丸山彦十郎 宮島で代々肝煎を努める家に生まれ、村民子弟の教育に尽力した。明治二十年冬存命中に岩崎村で筆塚が建てられている。
宮五右衛門長二 明治初年に小神で開塾し、鷲ケ島 茄子島 野寺からも寺子が通っていた。
四、高岡市
旧高岡市
●特色
 高岡町には商人の子弟が多く、珠算に力を入れていた。また謡が盛んで、男児は将来交際上必要なため、毎日師匠の口移しで一つずつ教える寺子屋もあった。四月二十五日には関野神社境内天満宮の祭礼に清書を奉納するのが恒例行事で、神主が社殿内に貼り出し、縦覧に供した。また師匠は昼食会を催して子弟の情を温める日でもあった。七月七日の七夕も盛大に行っている。一般的に謝礼は中元 歳暮の二回で、各二 三〜五匁ないし品物で納め、師匠より七夕または歳徳の手本を受け取った。天満宮への奉納時に三〜五分、節句ごとに二〜五分の謝礼を受ける師匠もいるが、昼食や煎餅で返すことになっていた。別に炭代などの雑費が一匁以内であった。 
 高岡町内の寺子屋のほとんどは町人が営み、郡部では寺が開塾する場合もあったが、総じて町人有志が教育に携わっている。また女児教育にも理解があり、二軒の女寺子屋やお針屋の萩野私塾(〜明治十七年)、女子好逑私塾(千木屋町、金森彦次郎 千代、五十余人)、車ツネ(宮脇町)に通っていた。明治八年には片原町の御貸屋跡に小学校が統一される。
●師匠の略歴
青江家 中田の青江善右衛門は、天保十一年に現在農協支所がある場所で開塾し、養子善右衛門が明治まで継続していた。別に青江伝四郎の名を記した本もある。
飴屋六左衛門 定塚町で寺子屋を開く。史料には同町の町頭で飴屋六右衛門という人物がいて、二十九歳のときの寛政四年に賞せられて、町奉行所から金子百疋が贈られている。縁者と推測されるがそれ以上のことはよくわからない。
有磯神社 横田町で代々有磯神社で神主を勤める従五位下上田家は石見守藤原正喬の末裔で、倶利伽羅の埴生神社(木曽源義仲が戦勝祈願をした神社)神職であったが、上杉軍に追われて北島村(現高岡)へ移住し、北嶋神社と本務社 西部村社を兼務していた。その後伊勢守正綱(〜貞享二年六月)が横田に移って正八幡宮を本務社とした。 
 伴貫は書や和歌に通じ、御家流書道の塾を開いた。後継ぎがいないまま寛政八年正月に没したため、同十一年になり作道村(現新湊)道神社の宮川直矩次男迪彝が入った。天神講を組織し、寺子屋師匠としても多くの寺子を抱え、その中から寺子屋師匠も輩出している。天保七年五月に五十六歳で没した。長男悌信(文政六年〜明治十二年)は漢学を長崎浩斎に学び、五十嵐篤好から御家流を皆伝された。明治六年に横田町で小学校が創立されたため、塾は閉じられた。
石川友二効明(文化十四年〜明治十九年九月十四日、号竹影、文藻) 初め友右衛門と名乗る。父豊右衛門は藩老前田土佐守家に仕え、筆生役を勤めた。友二も職を継ぐが。早々に致仕し、天保六年戸出に移住して、当時若林組十村の五十嵐篤好に国学と算学を学んだ。書風が広瀬旭荘の流派で能書家であったため、住民に請われて開塾する。明治六年から十八年十二月二十五日まで小学校に勤務し、県から賞せられ木盃を受けた。十四年十一月に碑が建てられ、自筆「我ながら思へば宇礼し天地のミちは奇しき御霊にそ阿る」が刻まれた。
梅津善一(文政四年一月〜明治十九年) 明治維新前後に酒屋善五郎から改めた。立野で肝煎役を務める傍ら、男児に読み書きを教える。仮名 日記 名頭 村盡 商売往来 消息往来 日用文等を用い、太字より細字へ進んで、優秀な寺子は師匠の補助をした。学制頒布以後も教えている。篠島久太郎(号復庵)もここで学んでいる。
大沢七平 屋号は飴七屋。子孫の方によれば祖は櫛田の農家であったそうだが、高岡の定塚町、現大仏の近くへ移住して、藩政末頃には指物屋を始めるが、七平が寺子屋を開いていたのはその前であろうとのことである。役場に勤務し、古城公園の管理をしていた。明治十九年没。
大坪正三 祖は公家侍の大坪中務で、禁裏北国御用を務めた。二代目の助左衛門は御扶持人であり、娘は前田利長の側室で満姫を産む。その子孫である分家の八十次、のちの正三は父の跡を継ぎ弘化元年から嘉永元年まで山廻役、文久元年に小矢部川筋庄川並射水郡海辺潟廻主附などを歴任しつつ教育に尽力する。明治二十二年に初代二塚村長に就任した。
尾崎家 先祖は能登国長一族で、尾崎兵部丞忠連が石堤に移住した。八代目藤左衛門の時に医者の宗潅が分家し、子息仁左衛門も医者になる。その子息の玄達(寛政八年〜安政六年、号栢山、国華)は、文化の頃に長崎でオランダ人より蘭方、原蕉斉に漢方を学ぶ。実兄が亡くなり帰郷し家業を継いだ。能書家でもあり塾を開き、住民子弟に教えた。子息の治三郎(天保七年十二月十四日〜明治三十三年、明治五年までは文斉)が明治六年九月に自塾を石堤小学校に改めるまで継承した。長光寺の織田雪操(後に宝性寺十八世)と石堤小学校の教員になった。後年に浅井小学校天守堂の時刻を報せる太鼓を設計している。玄達の弟晋三(号蒼川)は金沢で私塾を開き、明倫堂教授を勤める。後に石川県第一師範学校教授になり、『新選字海』等を著した。
岡本久米吉 戸出の北町で寺子屋を開く。屋号は石丸屋であった。弘化五年に三十歳で没している。
金谷家 屋号は金屋。片原町に佐次右衛門が寺子屋を開く。継承したのは子息の佐一郎で、明治九年に近隣の育英小学校が生徒増加で収容が困難になった際、暫定的に一部の児童を引き受け自塾を仮校舎とした。翌年私立小学校の認可を得るが、女児小学校(怡柔小学校)と三つの分教場(木町、横田町、立横町)が設立され、十一年八月に役割を終えた。
加納屋 七代目武兵衛美貞(字有芳)は木町で代々町役人を務めた家に生まれ、文化十四年に父弥平治の跡を継ぐ。書を父に学び、絵画を堀川敬周に師事した。また中川菱香とは友人である。木町舟見、横目、肝煎等の要職を歴任し、町民子弟のため書と珠算の塾を開く。町内の大半は通ったと伝わっているので、相当数の寺子が在席していたのであろう。嘉永六年十月に隠居し、子息の弥平次に全てを譲る。父から書を学び、天保十一年七月十八歳で町会所物書手伝に就任したのを皮切りに、父の後任で肝煎になり、安政二年九月縄手町及び地子木町肝煎を兼任する。五年十一月には父子の「木町委細帳」と名付けられる旧記調筆の労で表彰された。嘉永三年から四十五歳で没する慶応三年まで、自塾で書を中心に教授し続けている。
願性寺 戸出竹の真宗大谷派寺院。文化八年に院家に昇進した。三十二世住職法重は明治前後、地域教育に貢献している。
願乗寺 姫野願乗寺の鼎護城(天保十二年七月三日〜明治四十二年三月十八日)は、自坊の他に金屋の堀田家、中曽根の土肥清助宅、新湊の乗念寺で教えていた。金沢で柱時計を購入して時限表を作成し、規則正しい運営を心がけたという。
菊池武邦 戸出で代々の算用聞の家であり、分家に福野・野尻村御扶持人で、国学や漢学を能くした菊池六郎右衛門(号静斉)やその弟で和算に通じた橘五郎興之が出ている。七代武邦は父の代に借上げが頻繁なため高を切り売りして傾いた家産を立て直すことに尽力しつつ、村の教育にも当たる。子息則政は加賀藩医吉益北洲に学び、嘉永六年に開業する。正義堂の設立にも当たった。
木下周造(号東庵) 戸出の東町で医者をやりながら、寺子屋を開いて教育にも従事する。屋号は木下屋を称した。
桑山家 屋号は梅染屋。本家は守山の桑山家で玉泉が敬業堂の主事になっている。御馬出町で開塾したのは源太郎で、子息の二作は塾を継承した。
顕証寺 二塚林新本願寺派顕証寺五世桜井法順は林新村若林長四郎の次男竹次郎である。下佐野西養寺十二世教勇(文化元年〜明治三十一年)に師事し、安政二年に四世慧流を継いで住職になる。漢方医師として薬も調合し、漢玄斉という号も用いている。住民子弟の教育に尽力し、明治三十一年に没した。
廣済寺 笹川廣済寺十八世福田立道(文化元年〜安政三年七月四日、諱慶慧、号石雲)は、尺伸堂に学び、高野山で月照阿闍梨に三年就いた。また詩を大窪天民を聘して学び、篆刻を細川林谷、挿花を池之坊専定より教わる。嘉永元年得業に任じられた。村民子弟の教育にも尽力する。
西念寺(文政十二年五月〜明治八年十月十四日) 立野村西念寺十三世福田順翁の次男順了は、比叡山で天台を学び、天文にも通じていた。兄が夭折し十五世となって、教育にも務めた。明治六年四月一日寺内に小学校が創設された。
笹原家 後に原姓に改める。源平板屋町絹屋の当主は代々権九郎を襲名し、六代白年は塾を開いて書を教えた。養子の辰省こと雀斎(別号北湖)は養父に学んで寺子屋を引き継いだ。漢籍にも通じ、高岡学館講師を務め、後に東・西之小学校が設立された際には東之校長に就任する。辞職後も自塾で教え続け、明治十九年十二月に七十六歳で没した。 子息の遂(初め孟省、号青軒)も高岡学館で句読師を経験し、西之校長に就任する。また自塾を明治私塾と名付け、学制に準拠して学級等の規定を設けた。校長辞職後は塾教育に専念し、十四年に文部省表彰を受けた。二十三年十月五十九歳で没した。
塩崎家 屋号は指物屋。総本家宗四郎家の祖は信濃国塩崎城の守護職小笠原貞宗の後裔と称す。応永七年長秀は国人蜂起で京へ逃れるが、一族には越中二上山麓で居を構え千石町一帯を開墾した者もいて、孫の宗資の代に塩崎を姓にし、やがて前田氏支配時に十村となった。この分家が宗之助で、四代目の重兵衛は横田町で商売の傍ら教育にも従事する。以後五代目清太郎重兵衛、六代目勝次郎重(十)兵衛(〜明治四年没)、七代目静一重郎平(〜明治十九年没)と受け継がれた。絵も能くした七代目(号静逸 碧峯)は二百余名の寺子を持ち、他にも謡曲・茶道・俳諧を学ぶ町人門弟百名余を有した。明治十六年に自塾を横田町小学校とし、十七年六月宗泉寺に設けられた西之小学校の教員に就任した。
朱屋源左衛門 伝えによれば先祖は槍術に優れた武士で、越後で浪人した後に諸国を槍術を指南しながら流浪した。やがて前田家に仕え利長に従い高岡町へやって来たという。老年のため致仕して町人になり、以後代々町肝煎を務めた。坂下町に寺子屋を開いたのは十代目源左衛門であろう。文久三年三月に没した。
宗兵衛 黒田村の農家で、貞享の頃に寺子屋を開く。その後数代継承されたという。『越中二塚史』には、松尾芭蕉が宗兵衛の田植えを見て「早乙女が泣く子の方へ植えてゆく」と詠んだことが記されているが、真偽は不明である。
大永寺 住職永顕の弟野田興顕は南条の上佐野で開塾する。明治六年四月門前佐野村に小学校が創設された。
高尾家 二塚村白山社の神職を代々勤める。村民子弟の教育にも尽力し、弘化元年に継承した七十四世信孝(享和二年〜明治二十年)は従五位駿河守、明治五年まで塾を続けた。
龍田周造 上佐野で明治六年まで教え、その後は佐野小学校の訓導に就任した。南磯一郎(嘉永六年〜明治二十八年)も門人。
竹内甚三郎 立野で明治五年に夜学を開き、教育に尽力する。到達度により童子教・実語教・四書五経・十八史略等を用いた。
武田貞子 文化十一年に富山布瀬村の十村役高安豊助定義を父に生まれ、富山で菊園を師に読み書きと裁縫や茶道を学ぶ。山廻役を務める竹村屋の武田長兵衛に嫁ぐが、家運が傾き、夫も元治元年に亡くなる。三男一女を抱え、貞子は途方に暮れる間もなかった。習得した学識を生かすことを考え、女児専門の寺子屋を開いたのである。すると上流家庭の子女が多く通い、大いに賑わった。明治七年十一月または八年九月に没したが、長男は既に山廻役を経験し、次男は横田町の塩崎家へ、三男は福光村の石崎家へ養子に行き、娘も地元吉田家に嫁ぎ、皆豪家であった。
高畠次郎右エ門貞造 落合村肝煎を務め、兵四郎の寺子屋が閉じられた後に開塾する。祖は前田利家に仕えた武士で、その後帰農した。落合村北條氏流光證寺との関係が深い。貞造の父秋平は京で医術を学び、帰郷開院後も泉伏翼から書を、西村太仲から算学を学び、更に大坂で蘭医術を研鑽している。弘化二年一月二日六十一歳で没。長男が貞造で、日遷小学校教員に就任する。弟信貫は軍医、長男脩は林村石崎(吉)三郎(後の謙)に漢学、後富山藩医吉房玄徹に医術、藤田憲に漢学を学び、明治五年十一月慶応義塾で英語を学び、九年大学南校、十三年東京大学で医学を学んで軍医に就任した。次男順は日遷小学校教員、大正六年十月から十一年三月まで北般若村村長。
長光寺 石堤長光寺住職織田(小田)家は、初代が織田陸奥守氏知で、出家し超円と称した。応安二年天台宗より真宗に改宗し、以後代々継承されて十七世雪象(天明六年〜天保十二年、字公鮮、善調伏、号東林、雲松、公谷)が住職になる。父廓静(号観蓮閣)や京で善智北溟(字子雲、号望雪楼主、後に下牧野の東弘寺十七世)に学び、漢詩も能くした。帰郷後には北溟が享和二年八月に興した是性庵の詩会に参加するが、添削指導を大窪詩仏に請うた。文政四年に詩仏来遊の際は自坊に案内している。天保三年本願寺法世子師範を任じられ上京し、その後は九年間安芸 越後 江戸へも布教を命ぜられた。天保三年閏十一月の広島出張の折りに紀行文『泛登無隠』を著している。寺子屋を開き、書斎を如須弥斎と名付け、文政十年六月に「如須弥斎学規」と「座右銘」を制定する。仏教書籍の著作もある。子息蔵海は天保十三年に坊内に顕彰碑を建てた。
長念寺 須田の長念寺十六世住職の南木恵雄(弘化三年〜明治三十年四月二十三日)は寺子屋を開き、明治前後の地域教育に尽くした。明治六年掇英小学校の設立に当たり、醍醐村の名づけ者でもある。明治三十二年三月に碑が建てられた。祖は楠家臣であり、そこから「南木」の苗字がついたという。
土倉家 中田の土倉宗左衛門(号和風)は俳句を能くし、天保六年に寺子屋を開いて、地域教育に尽くした。これを養子の宗七郎が継承し、慶応初年まで開いていた。
常木宇太郎 西部金屋村肝煎を務め、常木大助家の縁戚。兵四郎の寺子を引き受けた。次男は高畠秋平の門弟で婿になり分家した篠島貞輔(師の命で紀州春林軒に学ぶ)の養子となった高畠次太郎。
常木大助 祖は平家の落人で、初代隼人が落合村に定住する。吾助の代に西部金屋に移り、小祠を建て毎年九月十四日を祭礼日と定め守護神とした。これが神明社(常木宮)となる。ここから十一代目善蔵は大助を襲名するとともに隼人とも称す。泉伏翼に書を学び、俳号は雲溪。天保十年一月二十一日五十五歳で没。兵四郎の寺子を引き受けたのは孫の大助であろう。明治二十二年七月二日から二十四年四月九日北般若村初代村長に就任する。長男哲平も三十八年四月十一日から四十年十二月十日、四十二年五月五日から四十四年六月二十三日に村長となった。次男木平は西砺波郡で教員を歴任し、縁戚の常木宇太郎家の勝平を養子とした。
鳥山屋次郎兵衛 鳥山家は源義家から義国 新田義重 里見義俊 義成 伊賀守鳥山時成、と続く名家で現群馬県太田市の新田郡鳥山村を根拠としていた。十二代成忠が三河国御油に移り、十三 四代は松平家、十五代精信は豊臣秀吉に仕える。氷見小竹に移住した後に高岡へ移り、小竹を名乗る。十六代次右衛門以降は木町肝煎等の要職を代々務めた。十七代は父と同名だが、十八代次左衛門から二十二代次左衛門まで交互に名乗る。二十一代次右衛門(善五郎)は御用商人として日章旗を掲げ船運業を行っている。享保十六年九月二日没。二十二代から鳥山に戻し、倶利伽羅山長楽寺に大般若経六百巻を寄進している。なお衆議院議員敬二郎は二十九代である。
 さて寺子屋を開いていた人物だが、片桐一男氏の調べでは、長崎浩斎が文化四年九歳で鳥山屋次左衛門に手習いを学ぶ、となっている。長崎家と鳥山家は縁戚であり、長崎家初代玄澄の妻と養子二代玄貞妻は鳥山家から嫁したが、長崎家譜では次郎兵衛娘となっている。これは鳥山家譜とは食い違う。次左衛門や次右衛門娘なら分かる。 
 次左衛門の名乗りは延享元年三月二十八日に亡くなった二十二代が最後で、二十三代から二十八代までは平四郎と次郎兵衛を交互に名乗っている(二十七代は平四郎改め次郎兵衛)。とすれば浩斎とは時代が異なり、符合するのは二十六代次郎兵衛である。寛政十年正月に地子町肝煎 木町横目役、同年木町御用銀才許人、文化七年九月二十六日から十年四月二十二日まで古手屋肝煎を兼ね、同十一年一月二日没した。思うにそれまで次左衛門を名乗ることしばしばであったことから、町内ではそのように呼ばれていたのかもしれない。念のため、二十七代平四郎(文政十三年から次郎兵衛)が木町横目役に初めて任じられるのは文化十一年三月六日である。 
野江作右衛門(号文庵) 横越で明治前後に寺子屋教育に努めた。 
野口津次郎 代々吉久の御蔵番士。明治前後に寺子屋を開いていた。 
長谷川和七郎 代々吉久で御蔵番士を勤め、天保から嘉永にかけて寺子屋教育にも尽力した。
林豊右エ門 北般若で兵四郎の寺子屋子弟を預かった。子息の豊宗は高岡中学校と師範学校第二部を卒業し、東般若尋常小学校の首席訓導に就任する。その妻で般若野村生まれのたきゑも師範学校を卒業して、柳瀬尋常高等小学校の教員に就任する。
兵四郎 西部金屋村肝煎を務めながら、村民子弟の教育に尽力し、算盤までを教えていた。寺子は広範囲に及び、相当な人数を抱えていたようである。しかし明治二年には家運が衰退し、継続が困難になるに至る。その後新規に開設された寺子屋へ寺子は分散収容された。なお北般若では、明治七年二月に区会所を光證寺に置き、秋元村速恩寺に小学校を開設し、光證寺前住職北條恵祐を教員に招聘した。
牧宗平 代々吉久の御蔵番士で、放生津往来に面した所にあった。文久から明治五年まで教育に力を尽くし、伏木小学校の吉田五十穂校長(大聖寺出身、慶応義塾卒業)から講習を受け、十七年に興仁小学校で準訓導に就任する。子息の良一は長谷川病院の長谷川徳之に学び、二十五年に能町小学校準訓導及び初代校医に就任した。
増山屋九左衛門 木舟町に開塾。文化十三年に篤行者として奉行所から表彰され、銀二枚目を賜った。
神子高たか 真言宗醍醐寺派末寺で不動明王を本尊とする大福院は木津に移る前、今の片原町にあったが現在は通りの名になっている。住職権大僧都阿闍梨正寿院盛元は先代で再中興の二世権大僧都金寿院大智の下で修業し娘婿になった。その娘すなわち妻が神子高たか(文政元年〜明治十九年七月十三日)である。幼い時から金沢で学び、歌も能くした(雪ふれば木ごとに花ぞ咲にけり いづれを梅と分きておらまし)。天保四年二十六歳で女児専門の寺子屋を開き、習字や女大学 百人一首の素読及び商売往来を講義した。寺子は百三十人から二百人程で町内女児の大半が通っていたであろう。毎日午前七時から一時まで院内を教場とした。謝礼は盂蘭盆会と歳暮に十〜二十銭または物納のみである。明治七・八年頃には片原横町の町奉行所御貸家跡に建てられた育英小学校で教員に就任するが、塾教育は継続した。
村田三郎 伏木で書のみで開塾し「てならいこう」と呼ばれていた。門下生の藤井能三(弘化三年九月二十一日〜大正二年四月二十日)が明治六年一月二十一日付けで新川県参事三吉周亮に提出した「小学校取設伺」で「元伏木、元古国府ニ従来是アル所ノ寺小屋一般ニ御指留之御下令有之度候。右寺小屋ハ習学許ニテ読書算術モ無之候間、師弟共一併ニ学校ニ相集メ其師ヲ当分等学校教師ニ相雇申度候。左候ハハ被指留候寺小屋モ指当リ活計ニ困迫候様ノ儀モ有之間敷ト奉存候」(原文通り)とされ、二十五日に県がこれを承諾したため一旦閉塾し、月給二円で習字担当に就任した。しかし地元住民の要望で再開し、二十四年まで継続した。小学校の授業料が月十銭であるのに対し、四銭と低額であり、未就学者もここへは通っていた。この頃は塾でも算盤や修身・読本も取り入れている。
 授業は午前八時から習字、昼一時間を挟み午後には三時まで他の教科を交互に行った。手本は師匠の直筆で、いろは 変体仮名 名頭 苗字盡 町村盡 十干二支と進め、上級者には商売往来を用いた。ただし解釈は無く、ひたすら書き続け、新しい手本を書いてもらう時だけ師匠の前で読みを習った。多くの寺子屋同様清書には優劣が付けられ、また漢字一字から多くの苗字や名前を創作した。寺子は入門時に小さな机を一脚作ってもらい、紺の上張りを付け道具一式を風呂敷に包んで腰に付け通学し、薄暗い教室で男児四・五十人、女児は二階で二・三十人が、荒筵の上に座って勉強する。家では糠や灰で練習した。師匠はなかなか厳しく、罰則には罰金が伴っていた。例えば墨汁を畳にこぼすと二文、小便をもらすと三文、嘘をつき便所へ行くと二文、という具合である。便所へ行くときには他の寺子が一人付いて行き、数を十数える間に出てこなければ、足が痛くて逃げ出したものと見做されたのである。その他には清書を全部壁に貼り、授業料を納めた寺子のものから剥がしていく、といったことも行われていたと元寺子の証言にある。今では考えられないが、当時これがまた父母の信頼を得たのかもしれない。
吉田彦三 屋号は氷見屋。享保より代々才兵衛を称し、木町で横目 町肝煎 御用銀才許 瑞龍寺山門御造営勘定役 木町舟見等の町役人に就任した。彦三は寺子屋教育にも従事し、珠算や小唄までも教える。明治七年に閉塾して、守山町で小学校の教員を数か月、その後商売に専念した。明治二十八年九月十七日四十五歳で没した。
若杉氏 吉久新町で開塾する。御蔵番士が寺子屋を開いていたこの地域で、ただ一軒の商家による寺子屋である。本家は吉久の若杉屋。
旧福岡町域
●特色
 俳句が盛んな地域であったが寺子屋の開設時期は遅く、明治前後に急増している。寺院や移住士族が関わった。
●師匠の略歴
神代貢 能筆であり、赤丸で開塾した。俳句や和歌にも通じていた。
岸野与平 十村の手代を勤めながら、明治前後教育に従事する。医者の井村宅を借りて教えていた。寺子は男子だけであったが、最大百人程が通っていた。
西照寺 京の山科にいた小野篁子孫良實が、承久の変に敗れてこの地に来る。宝治元年に真言宗の寺を建て、その後浄土真宗に改め本願寺派から大谷派へ変わる。伝えによれば寺子屋を早くから開いていたようであり、明治に至った。
榊原氏 元加賀藩士であることから、榊原誠斉とも考えられるが、だとすれば明治二十年頃に単身移住したことになり、やや遅いような気もする。誠斉は謡曲宝生流を能くした通人であった。
浄永寺 上向田の浄永寺十六世住職宝音は住民子弟の教育にも尽力し、弟斉藤蔵攝もまた明治六年から十四年まで杭志小学校で教鞭を執った。
長安寺 長安寺九世住職朝順則(天保十二年〜明治二十七年)は、周辺に寺子屋が無いことを憂いて開塾する。珠算や上級者に大学 論語の素読も行った。内室では女児も二十人程が学んでいた。順則の実家は高岡立野西念寺で、住職順翁の六男であった。宗学と漢学を学び、元治元年に養子に入ったのである。明治六年四月堂宇を開良小学校とし、自ら訓導に就任した。
西村太源 太元とも書く。西村太冲の子息というが、確認できなかった。名前から縁者であるようには思われる。長安寺下寺の住職として金沢から転勤し、清水町の自坊で開塾した。漢学に通じ、文久元年に朝順則、島倉宗平、小栗利平等と末友村から僧月海を招き、雅楽同好会暢日連を結成した。
美濃屋治三郎 明治維新後に三原賢二宅を借りて開塾し、後に四十万郵便局二代目局長になった。
五、氷見市
●特色
 町部では町人文化が成熟し、漢学 国学 心学や俳諧 茶道等が人々の嗜みになっていた。寺社が活発に活動していた地域でもあり、積極的に布教 説教を行っていた。そのため寺子屋の存立する環境が整っていて、専業も可能であった。寺入時期は三月四日と九月十日で、塾則が整備されている塾も少なくない。珠算も取り入れられ、他に謡曲等が一般町人にも教授されていた。女児には朝日の宇波み乃井や田中安兵衛の妻、陸田茂吉の妹等お針子屋が礼 縫を教え、多くが学んだ。
 一方農・漁村では寺社の奉仕的な寺子屋が主で、農閑期のみの授業かつ寺入時期も不定であった。珠算も欠くことが多いが、謝儀は収穫 豊漁時に農作物や魚を持っていけばよかった。
●師匠の略歴
朝日屋又三郎 現朝日本町で専業の寺子屋を開く。七夕には町中を七夕を持って回る「飾り物廻り」をした。千手寺に碑がある。
有坂兵(平)九郎と北越伊左(右)衛門 戦国期に松之丞と竹之丞という落武者が、数十人の部下と共に床鍋の地に落ちのび、山峡を切り開いて帰農する。これが有坂家の祖である。末裔の有坂兵九郎が文化・文政に開塾し、没後に三男岩次郎こと北越伊左衛門が継承する。兵九郎の碑は床鍋にある。
安敬寺 惣領の安敬寺住職藤光は寺子屋も開き、珠算も稽古させた。また女児には裁縫なども手ほどきするが、これは家人の手伝いによるものかもしれない。
安専寺 懸札安専寺住職松金顕静は明治六年に寺子屋を開設する。子息の得雄が手伝い、八年まで継続した。並行して小学校の設立に尽力している。豊富な書籍を蔵していたことでも知られていた。
糸家 屋号は和泉屋。本家は上泉村の農家で、その祖は守山城主神保氏の家臣であった。六郎右衛門は安永八年から天明三年まで町肝煎を務めながら寺子屋を開き、子息六兵衛文介(安永四年〜嘉永六年、号昇斎)は医者になり、塾を継承した。寺子が収容しきれず、板敷の縁から外へはみ出す程の盛況であり、上級者には漢書・漢詩も講じた。八幡社に碑が建てられている。子息六平は明治初年に塾を再興して、二十七年に閉鎖するが、要望により四十年初めまで続けられる。それは公立小学校への就学者が少ないからであり、初等教育を塾が代行し、中学年から至誠小学校へ編入させることを狙いにしていた。
大西彦右衛門 中波の旧家で代々漁業と農業を生業としていた。彦右衛門は天保元年に生まれ、幼少時に父母を亡くし、祖父母に育てられた。姿村で広沢周斎に学び、脇の明厳寺仏島から漢文を修得した。また算学を広上村(大門)の九左衛門に師事した。慶応三年三十七歳で組合頭、明治二年肝煎役、六年戸長に就任した。網元としても麻苧台網を考案し、従来の藁網に替えて文久元年に敷設する。元治元年から慶応三年には合計四統を敷設している。明治二年に教育の普及を意図して寺子屋を開くと、中村や脇から寺子が通った。七年には彰文小学校に改める。その際室内が暗いため、私財三千円を投じて自宅前の空地に新校舎を建てた。更に氷見町で私立大西女学校を創設し、長女つな(号桑海)と次女ちよが裁縫と習字の教師を務め、修身 読書 作文 算術は金沢から教師を聘した。総計五百人の生徒が通ったが、長女が病気、次女が結婚したため十六年秋に閉校を余儀なくされた。大正三年に八十三歳で没した。子息は広沢周斎の孫娘と結婚した。 
広西寺 仏生寺の広西寺住職小谷露秀は寺子屋教育に力を注ぎ、明治八年まで仮名・名頭・村名盡・商売往来・消息往来等を教えた。
光楽寺 床鍋の光楽寺住職武田楞耀は北越伊左衛門の寺子を引継ぎ、北越宅で(?)明治十九年まで教えていた。雅楽を取り入れていたことに特徴がある。
佐原久平 飯久保で農業をしながら、寺子屋を開く。仮名 童子教 実語教 名頭 村名盡 商売往来等を使用していた。その後塾舎は小学校へ移行している。
紹光寺 池田の紹光寺住職甘庶櫟堂は教育にも貢献し、上級者は四書五経等へも進めた。後に池田村水哉小学校の主座教員に就任する。
浄善寺 中村の浄善寺住職鷺森十遠は、新川郡野沢新村の西光寺に生まれ、滝山義浄に学ぶ。養家で寺子屋を開いた。更に地域の人々は華道 茶道 俳句の手ほどきを受けている。
高野元礼 文化十三年八月十日に生まれ、医者として安政五年八月十七日に代々の元礼を襲名し、江戸の坪井信道のもとで学ぶ。同七年三月三日に桜田門外の変での負傷者救護にもあたった。帰郷後は医者として、また教育者として活躍し、明治二十八年三月二十五日に没。子息定行(天保十四年八月二十一日〜大正二年十月十六日)は医者であり、山の小学校で初代校長を務めた。
長楽寺 中尾の長楽寺住職竹里向岸は教育にも尽力し、珠算も練習した。
長沢六良兵衛 長沢家の本家は代々味噌醤油醸造を業とする旧家で、その分家にあたる。慶応二年九月に上日寺で建立された碑には「手習は坂に車を押すごとく ゆだんをすればあとへもどるぞ」と刻まれている。妻はお針屋を開き、夫婦で教育に従事していた。
名苗竹次郎 文久元年生まれ。後に片折十次郎とも名乗る。明治に入り開塾し、育成小学校でも教えた。
広沢周斎(文化十三年六月十五日〜明治二十七年一月十一日、号虻州、清泉堂) 灘浦姿村(町から北西方九.七qの漁村、村高三百四十石、天明六年六十三軒)で算用聞を務める「どうもさ」(藤右衛門)と呼ばれた家で七代目として生まれ、書を巻菱湖、算学を高木久蔵に学ぶ。家業は古手古道具商や酒販・金融。天保元年十一月に十五歳で九歳の男児を頼まれて教えたのが最初で、同五年自宅を塾舎に改築し、同十一年に塾則も整備した。その後薮田の屋敷秀了が開塾したことに触発され、漁村を生活困窮から救うには教育が必要との信念を抱いたともいう。男女四百四十人を明治十七年まで教え、うち弘化四年正月から明治十四年二月まで百五十七人であった。能登国佐々波村や徳丸村からも泊込みで来ている。授業では習字手本を渡し、上級者には漢籍も用いた。明治九年に閉鎖し中田村の小学校と合流する手筈であったが、村民がこれを許さず翌年私立廣沢小学校の認可を受けた。十五年に閉めるが十七年まで教育は継続し、没後直後の二十七年七月には碑が建てられた。
 授業日数は師匠の都合で毎月朔日 四日 七日 十日 十三日 十六日 十九日 二十日 二十五日 二十八日の計十日間朝と昼の二度開いた。寺子の訓育は通常寺子筆頭の帳付役がすることになっていて、登下校時に一人一人の報告を受け、声掛けをした。寺子には五〜十五歳の男女がいて、九・十歳が各二十五%であることから、男女九〜十二歳が適齢であることが分かる。在学期間は四年が最多であった。寺子の在籍者数は、天保元年から明治四年まで平均毎年二十人だが、最多が元治元年の四十四人、最小が天保十年の七人であった。明治五年に一挙二十三人が入塾して三十八人になる。十年には四十五人であった。四年から十七年の平均は三十九人になった。続柄は長男が全体の四十八%、次男を含めれば七十四%であり、女児は十一%であった。鏡磨や小間物行商が盛んな土地柄であるため、自作農以外の出身も多い。出身村は中田村 中波村 大境村 小境村等十八村に及んでいる。姿村周辺からは二百十四人、能登から手本をもらって不定期通学する寺子は七人で、弘化四年から明治十四年手本で学習する寺子は百五十七人いた。寺入時期は最初十一月が最多で九十二人、正月五十七人、十月二十四人、以下三月 十二月 二月の順、稀に五月と七月といった具合であったが、地域の理解が深まるにつれ三月 五月 七月も増えている。
屋敷磯右衛門泰治(文化十年〜明治三年、号秀了) 薮田で漁業をしながら、安政の頃に開塾する。手書きの村名盡等を用い、女児には女消息往来を使った。上級者には四書五経 十八史略 太平記を講義し、算術も点竄(代数)まで練習した。謡曲も指導し、遠方からも集まった。阿尾八幡宮に碑がある。
吉井家 祖は高岡から御座町へ移住し、高岡屋を屋号に代々薬種業を営んでいた。次郎左衛門は浦方銭取立方加役や布印判押入批肝煎に任じられ、嘉永三年三月から蔵宿封切舟見にも就任した。寺子屋を開き、一般町人へも謡曲を教授した。七夕には盛大に飾り物廻りをしている。次郎右衛門(号三恕)が継承し、安政から明治初年にかけ教育に尽くした。俳句や漢詩にも通じ、三室続きの屋敷を開放しても収容できない程多くの寺子を抱えた。上日寺には碑がある。長男の妻は新湊から嫁し、明治二十七年までお針屋を開いている。三十〜五十人が通い、授業料は二円、通学期間は一年間であった。上日寺に「おしえ細工」の掲額が残っている。
六、射水市
旧新湊市域
●特色
 藩政末期に寺子屋が一挙に設立されている。俳諧等町人文化が発達した町であるため、子弟教育には町人が主導権を取っている。ただ残された史料が少なく、詳細が分からない寺子屋が多い。
●師匠の略歴
石黒家 作道久々湊で兵助が文化十年に開塾し、子息に受け継がれ明治五年に至る。
往還寺 放生津町内の往還寺住職大磯覺琳が寺子屋を開き、明治初年まで子、孫と受け継がれた。
佐野家 屋号は菊屋。喜三右衛門が放生津町内に開塾し、子息が継承する。塾舎は間口が三間 奥行十間の二階建てで、師匠の居室を別に合計五室を教室に用い、百人程が通った。
善休寺 作道野村の善休寺住職岡野周融が寺子屋を開くと、これまで近辺に無かったこともあり寺子が急増する。そこで習熟別に三組に分けた。初級が丙組で、平仮名 名頭と童子教の読みを学び、珠算は乗九九を覚えた。次に乙組へ進んで村盡 国盡を書写し、四書の読みを大学から始め、算盤の加減法を練習した。上級が甲組で、商売往来と消息往来を書し、四書を引き続き読んだ。珠算は乗除まで修得した。更に最上級の組があり、実力のある門弟の希望者は、五経の素読や国史略 十八史略等を読んだ。
専念寺 本町で教育にも従事する。明治六年筆塚「墓碣銘」が建てられた。
中瀬家 放生津町内に三左衛門が開塾し、子息に受け継がれた。網元中瀬家の縁者かもしれない。
橋田半左衛門 七美八島で八島新村の医者松永氏の寺子屋を慶応二年に継承する。書を農閑期や夜間に集中して教授した。学制頒布以後に共和小学校の教員に就任している。
旧大島町域
●特色
 領域が限定されていて、かつ農事が多忙であったせいか不活発である。、各村の指導者が十人前後の寺子を相手に少人数で、あるいは事実上個人別に指導していたそうである。松丘善四郎、礒部清九郎、松田権右衛門等、小島 北高木 八塚 中野 若杉 北野の有志九人は、明治六年に学校設置の誓願を行い、十一月に知新小学校設置を成し遂げた。
●師匠の略歴
福田三右衛門 福田家の五代目(九代目義雄は大島町長)を継ぎ、中野で明治初年まで寺子屋を開いていた。地域内で唯一漢籍まで教授し、十八史略 唐詩選 孟子等を用いた。農業より力を入れていたそうである。
円広寺 円海は新開発村の園木仁平の嫡男に生まれた。幼少より学問を好み、家督を弟に譲り寺子屋を開く。妻もお針屋を開き、女児を教えている。実家の檀那寺である新湊金屋迎西寺の念仏道場としての性格を持っていたようで、明治八年に円海は同寺の使僧の資格を取り、自宅を円広寺とする。本堂は能登羽咋から持ってきたそうである。二十年四月から三十二年十一月まで新開発簡易小学校の仮校舎(二十五年明倫小学校)となった。
成川与次平 小林で開塾する。教科書には庭訓往来等を用いている。
旧大門町域
●特色
 この地域では寺社が積極的に教育に関与している。謝礼は盆暮れに分に応じて米や銭で支払い、時折豆 小豆 餅 菓子等を持っていった。
●師匠の略歴
朝山紋平 錦町の菓子屋朝山家五代目。嘉永五年から明治六年四月まで寺子屋を開き、八月大門雄山小学校教員に就任した。
稲垣示 棚田で作男五人を雇用する七百石から八百石程の農家で、嘉永二年八月二十日又平の長男として生まれた。銃や剣にも秀で、選抜され壮猶館で二年励んだ後に小杉で銃卒を指揮している。帯刀を許され、文久の頃に十人口を受けた。維新後三年間野上文山に師事し、明治六年新川郡小学講習所に入学する。翌年に卒業し、水戸田 大門 棚田で小学校教員になる。十年頃には石川県農学講習所に入学した。やがて政界に入り、自由民権の活動家として名を馳せて、衆議院議員にも選ばれた。自宅の大広間を使って住民子弟を教えたのは父の病気で家業を継いだ十一年頃であろう。
折橋家 十村折橋家の分家で、伊右衛門が西町で開塾する。孫の伊二まで継続し、寺子百人程度が通っていた。塾舎は間口四間 奥行十間で、師匠の部屋を別にし階上に一室 階下に三室を教室に用いた。
加藤作右衛門 村の開発者松本家の末裔で、文政元年に荒町で開塾する。明治二十年九月に筆塚「活筆走龍蛇」が建てられた。
櫛田神社 松原の櫛田神社四十三代目宮司山本周忠は、安永七年に大門領域で最初の寺子屋を開く。博芸で詩に優れ能筆家でもあり、多くの文献を所有していた。文政二年まで教え続けている。
 四十五代目宮司宮川直通は寺子屋継承を決意し、文政三年から教育に従事する。学制頒布後は串田広成小学校の教員に就任した。明治四十一年に筆塚が建てられている。
佐伯伝左衛門(号文才、菊賀) 田町の佐伯家四代目で、俳諧を能くした。文政二年から嘉永二年まで教育に従事した。
高橋九平 広上の旧家高橋家七代目の九右衛門は寺子屋教育に尽力し、公道小学校設立の際は田所市郎平に協力した。勘造と記した本もある。
田所市郎平 広上の素封家で、広教寺を借りて開塾する。明治六年四月公道小学校を寺坊に設立した。
佃貢 二口で漢方医と農業をし、寺子屋を開いた。寺子に鍛練を課したことに特徴があり、隣村からも通ってきた。年齢に応じ行程を図り、降雨の暗夜に山を登らせ、氏名の記された名札を持って帰らせ、翌日師匠が行って点検し、勇怯を勧戒した。また降雪の日に薄衣を纏って雪中を歩かせたり、戸外に立たせたりと試練を与え、春と秋には山で獣の追い方、木登や伐採を教え、橋上を渡り、梯子に登り、塀を越し、川を渡り、舟を漕ぎ、岸を躋り、といった避災 護身 応急処事の方法を身に付けさせた。師匠自らも六十余歳にして率先し、雪中鍛練の時には太刀を携え子弟を鼓舞した。
寺本吉二 布目沢で村役人を務め、安政五年に開塾する。明治六年以降は串田広成小学校の教員に就任し、更に家庭の事情で就学できない住民子弟を自宅に集めて教えた。十八年八月に筆塚が建立された。
堀家 水戸田で三代に渡って教育に従事し、孫次は明治六年七月水戸田洗耳小学校の教員に就任した。
蓮光寺 本村の蓮光寺十四世住職櫛本誉浄は、弘化三年から安政六年まで自坊で住民子弟の教育に尽力した。
旧小杉町域
●特色
 射水郡行政の中心であり、町人が積極的に開塾する。藻谷家では漢詩・俳句・和歌を能くした。女児の教育は小杉新町の倉田、滝田といったお針屋が専ら受け持っていた。
●師匠の略歴
油屋長兵(平)衛 本開発の出身で、文化末年に三ケで開塾する。
塩屋助三郎 能書家で知られ、三ケで元治元年に寺子屋を開いた。
渋谷清二 屋号は松枝屋。三ケで慶応の頃に開塾し、明治九年に和親小学校の教員に就任した。
下条屋小七郎 戸破で慶応の頃に開塾する。明治六年に和親小学校の教員に就任した。
富永延(円)造 戸破の佐野屋嘉右衛門の養子で、富永と改姓する。慶応の頃に寺子屋を開き、明治六年に和親小学校の教員に就任した。
西野与兵衛 屋号は土代屋。天明の頃に婦負郡土代村から戸破に移住する。山下の姓も使った。
松長与五郎(号陶庵) 開発屋本家の初代太郎兵衛は今開発村から小杉新町に移住し、酒造や質商をしていた。別家した太三郎は松夫と号す俳人である。二代太郎兵衛の代で五百八十九石余の田畑と銀五十貫匁を所持するまでになり、村方へ肥料代を融通している。寛延四年に相続した三代太郎兵衛は千石を目標に励み、別名前分を含め千三百石持高を達成する。安永二年山廻役に就任し、翌年十一月に次男与五郎に質屋を任せ、商いを覚えさせた上で百二石を与えて分家させた。 
 この初代(明和六年〜文政五年)は俳句を能くし、号を鴬一といった。二代与五郎が陶庵である。天
明三年に本家で生まれ養子に入る。寛政四年十歳で長福寺別庵に通い、享和元年雄山(島林文吾)に師事し、同三年に金陵黄石( 岡野黄石か)から書を学んだ。文化二年富山で鐘山(佐伯有融)より漢詩の教授を受ける。三十歳前半では高岡の開正寺住職宣名に就いた。寺子屋を文政末に開き天保に至る。三代目与五郎は陶斉と号して小杉で漢詩隆盛の基を築いた。なお本家六代太郎兵衛(文化十三年九月一日〜嘉永三年三月)も詩文に秀で、号は坦斎。嘉永三年に生まれの七代目太作(号立西)は初代の小杉町長となる。 
松元(本)泰造 池多に開塾する。春日社上に明治十八年八月十四日門弟が碑(「松本」とある)を建てた。
水上弥三郎(天保十二年〜明治初年、号北莱) 阿波徳島生まれで、武田勇次郎という武士であったが
風雅の世界に入る。加賀藩に仕えていたという説もあるが、天保十二年に小杉三ケへ到って定住する。
書 南画 詩 俳諧 茶の湯 活花 陶芸を能くし、特に伊万里風小杉焼の陶工として作品を残してい
る。手崎の水上屋弥三郎の養子になり、阿波北莱や赤絵勇次郎とも名乗った。更に松長陶庵の寺子屋を継承して、教育にも尽力した。水源町に筆塚がある。 
守山屋清平 稲積屋万蔵とも名乗る。戸破で天保の頃に開塾した。かなり盛況であったという。 
山田托渡 北手崎で寺子屋を開く。文政七年十一月十三日付で筆塚が建てられている。 
横堀家 金山上野の孫平は寺子屋を安政元年(五年と記した文書もある)に開き、明治三年に子息の庄八が継承した。五年浄土寺小学校の教員になり一部を自宅に置く。その後戸長、村長、郡会議員に選ばれる。 
若林家 若林鹿左衛門は屋号が若林屋であり、寛政十年町物書に就任しつつ開塾し、文化十二年に没。六左衛門(号花山)が継承し、明治五年八月竹林寺横に門弟により筆塚が建てられた。 
旧下村域
●特色
 農業地であり寺子は男児ばかりであるが、教育には力が入っていた。名頭 国盡商売往来等を教科書に使い、特に売薬行商の関係で習字が重視されている。束修に酒肴(料)を師匠へ、餅 赤飯煎豆を同門寺子へ渡した。謝儀には銭での納入が多く、米 味噌 野菜魚あるいは労力を提供した家もあった。春には畳代、晩秋に炭代を納めた。ただし貧困家庭へは一切を免除し、習字用品を貸与するのも慣例であった。また寺子は天神講を年数回と月の二十五日に開き、席書や師匠から訓話を受けた。 
●師匠の略歴
岩木太左衛門魯直(天明二年〜安政五年七月二十七日、号権斉) 大白石村に生まれ、五十九歳なってから江戸で御家流の書を学んだとも、三十八歳で帰郷し開塾したとも伝わる。漢籍や珠算も教えた。岩木教習所とも唱え、看板には「御家流幼稚筆道稽古處」 (現存)と掲げていた。
関原九郎平直入 最初総兵衛、父の名を相続する。那須半左衛門に学び、師匠の没後文久元年八月に寺子屋を開くと、名声は寒江村にまで及んだ。明治五年学制頒布以後に習字教員になる。門弟たちは三十四年に来遊中の井上圓了に揮毫をもらい頌徳碑を建設した。
竹脇甚五郎 岩木教習所で書を学び、師匠を継承した。明治五年十月七日に没した。
那須半左衛門蘇直頁(文化三年〜文久元年八月一日) 祖は那須資隆で、大江村から下村へ移住し帰農した。幼少時より足が不自由で農業をするのに支障があった。これを憂いた父は学問で身を立たせてやろうと思慮し、富山の恒川泰蔵の許に学ばせた。親の願いを違えず成績は優秀で、帰郷後に寺子屋を開いて、日々百数十人を教えた。名声は寒江村にまで及び、本郷・大塚・中沖・野田等からも通学してきている。更には手本だけをもらって家で学んでいる男女児が数多いた。
広瀬太郎左衛門信道(寛政十年〜嘉永五年三月四日、字伯路、号北園) 祖先は丹羽五郎左衛門と伝えられる。摺出寺村熊西宇兵衛に学んだ後、各地で経書を学び、京の人豊原氏と下村加茂の真宗正覚寺十一世慶翁から音楽の手解きを受けた。岡田栗園や宮永裳涯と交友する。文政二年父と同様組合頭に就任し、天保十五年(弘化元年)に田地割のとき用水路を改良し、水路を通して潅漑事業を行ったことでも知られている。また下村駅の再建のため、宿継御貸米七百石を藩から拝借し、その一部で宿救済基金として草高に百五十石を購入した。毎夜住民子弟を集めて教育に努め、経史も講じ人倫を諭したと伝えられている。明治十一年十一月には広瀬文哲により「北園先生之碑」が建てられた。
広瀬文哲郁(字文哉、号竹塢) 富山町石黒兵二の三男で、十九歳の時に広瀬信道の弟伊八郎の養子に入る。漢籍・詩文・書を能くし、富山町の横地元丈より種痘術を教わる。これは膿を取って植える方法であったようである。京都や東京に遊学し、伊藤博文や山岡鉄太郎たちとも交わった。教育にも尽力して、明治六年忠告小学校で校長に就任する。その後小杉町に移り、書や漢籍を教授する。三十五年九月八日に没した。
三澤吉郎 那須半左衛門に師事し、師匠の没後文久元年八月一日に寺子屋を開いた。慶応元年に塾を閉じて金沢で医術を学ぶ。その後石動町大谷龍玄の養子に入り医業に従事した。


posted by ettyuutoyama at 18:20| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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