2009年06月18日

第三章 越中国の寺子屋総論

一、概要
民間の教育機関である寺子屋は、越中国でも藩政末期に数多く設立され、加賀藩も文政七年二月「御学政御修補に付、四民共御教導之儀は孝悌を先といたし候より外無之、凡人は先入主と成候而、幼少之折覚込候儀は其習生涯透り申ものゆえ第一蒙養を重んずる事に候」と達し、幼少教育の重要性を強調していた。町部はもとより郡部の住民は、仕事上の理由からも子供たちを熱心に寺子屋へ通わせていた。寺子屋といっても寺によるものは、だいたい主に他に開く師匠がいない地域で開塾するに止まる。師匠(私塾では先生、寺子屋では御師匠様)の職業は各地域の特徴と密接に関わり、寺子屋専業者は稀であった。それでは入塾から卒業までを眺めることにしよう。
@師匠選び
師匠を選ぶ基準を、当時の父母は師匠の人格・人望及び文字の筆法に置いていた。例えば砺波郡福田町(現高岡市)では寺子屋師匠が自筆の手本を各家庭に届け、父母は各手本の筆跡を比較しそれに師匠の人格も考慮に入れて決定し、後で師匠が訪問した際に返事をしたそうである。従って師匠には手本に誤りが無いよう、常に研鑽を怠らないことが大切であった。また七夕で飾った牡丹や菊等の造花を未就学児童に配りそれを受け取れば入門の意思と見做す、という地域もあったようである。書流は御家流が最も多く、他には持明院流等である。漢様(唐風)は稀であったが伝わっている。
A入塾
だいたい地元の有志が師匠であるため、採算や収支をそれほど重視せず運営しているため、父母の経費負担は少なく済んだ。入塾時には父母が子供を正装させ連れて行き、師匠に束修(物納可能)を渡すだけでなく、門弟には菓子類を配ることが常であった。謝儀は中元と歳暮の二回のみで、現金なら身分に応じ、物納なら白米一・二升や季節の野菜、魚などでよく、児童の糞尿という所もあった。寺子屋によっては別に畳料や炭料を納めた。師匠からは七夕や歳徳の手本を渡される所もある。 
入塾期は節句の翌日(三月四日、九月十日)が多く、男子は八・九歳から三〜六年間在籍した。女子の就学者は男子より少なかったものの、九・十歳から三年間ほど寺子屋通いをしている。また学則・学規を定めていた規模の大きいところも少なからずあった。
B授業
 師匠や地域により各々特長があるものの、概ね上級生が諸役に任じられて下級生を指導し、師匠は個々の学習進行状況を把握して課題を与え、激励した。
 まず仮名各種を覚えた後に往来物等の教科書を用いて学ぶが、師匠が寺子一人一人に手書きで渡す所が多く、また広徳館などで開発・編纂した物も使われた。これは絵図入りで興味を引きつつ、教訓話(心学)・地理・歴史・手紙文等を文例に、書写させる事で道徳教育と実学を兼ねた学習が出来るように工夫されている。更に中には素読を取り入れたり、上級者に漢籍を学ばせた師匠もいた。素読では解釈を加えず、習字教材や専用教材でまず師匠か上級生が範読し、それから一斉に素読した後に、各自が上級生の指導の下に暗唱する、という方法がよく採られた。
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 教材の進め方の一例をあげると、書写はまず仮名や数字・日記・名頭・町盡等から入り、国盡・商売往来・消息往来等へ進んで、実語教・童子教・千字文等で修了する。その後志望者へ四書(大学・中庸・論語・孟子)の素読を、始業前後に行った。
 この他に算術(珠算)を取り入れていた所もあり、加減乗除を基本に、有志者には開平・開立、八算以上へも進んだ。だが専門の珠算塾に通わせる父母も多かった。
 寺子は寺子屋に硯・硯箱・筆墨・文鎮・水入・拭布・墨挟等を自分の文庫に入れて置いてあり、通学時には草紙・弁当・下足札・上履き・雨具等を持参した。教室は男女に分かれていて、一脚三人掛の机(当初は飯台を使用)を使用した。大規模な寺子屋であると、良い席を確保するため朝早く登校して書物を置き、一旦帰宅したそうである。
 授業は八時頃より四時頃までだが、以前や以後に選択科目として漢籍素読や算術または謡曲などを開講した。習字では一般に藤巻という太筆を使った大字が奨励され、紙は土市または山田紙を用いた。初学者は上級生が手を取って書かせ、次に爪の痕を付けながら指先で書き示し、やがて独力で書けるように誘導した。また家では灰書・小糠書で練習した。一通り練習を終えたら清書をして、合格したら次の手本へ進んだ。
 一例を示そう。富山四方の寳山堂でのある日である。朝は食事前に町内単位で集団登校して朝学習をする。定座役が机を並べ、検断役が硯、草紙、手本を並べさせ、水を注いで墨を磨らせる。ただ磨らせるのではなく、その間に名頭や村名を読ませる。やがて調べ役が「墨上げよ」と号令すると皆は手本を開いて草紙に書き出す。朝食の時間が来ると、早く登校した町内から先に戻ることになっていて、目付役が「一番町いかっしゃい」「二番町いかっしゃい」と呼び立てる。
 朝食が終わって再登校すると、師匠が「師匠はん」「シーシー」の声の中で登場し、調べ役が無駄な食物や不用品を持っていないかを調べる。そして授業が始まり、大学・論語・女大学の読みを習う者は前に出て教わり、手習いの者は長番が回り訂正したり、行儀を直す。昼食の時間になると、朝と同様帰宅するが、夏には水判という判を腕に押して帰す。それは水遊びをしたらすぐ分かるようにするためである。午後に戻ると入口の庭で、長番が判調べをし、消えていると帳面に付けられる。
 午後の授業は清書が中心である。書いたら師匠の所へ持って行き直される。そこで「上々也」「上々見事也」「大上々見事也」の評価であれば次へ進む。山田紙を六折り(商売往来や消息往来は八折り)にし、端に前の手本の末の字を書き、下に姓名、裏に月日を記して提出すると、師匠はこれに自筆で手本を書いて明朝に渡す。清書が終わると次は九九の練習になる。師匠か取締役が主唱し、一同が和して唱える。一通り終わると長番が「しまわっしゃいやー」と発声し、道具を文庫に入れて、机とともに周りに積み上げる。ここで女子は礼をして退出、男子は机を背にして座り反省会をする。中央に師匠が座り、両側に取締と長番が並んで、目付はその日に悪いことをした者がいたら帳面を差し出す。これを見た師匠は、灸や尻叩きなど罰 を与えることになる。この後謡曲を習って、挨拶をして帰宅する。
C行事
 寺子屋には一般に夏休み(七月六日から二十五日)と冬休み(十二月二十一日から翌年正月二十日)があり、中には終業日に「上り仕舞」と称して、未明に登校し蝋燭を点して手習いをした後で、夜明けに用具を納めて師匠の訓示を受け各自が文庫等を持って帰宅する、という所もあった。なお、郡部では農閑期や夜間に集中して学習する場合が多かった。
 七夕の行事は多くの地域で盛大に行われている。桐の葉に文字を書いて供え、夜川に流して書道の上達を祈った。また献灯や字懸 などをする地域もあった。竹には短冊の他に牡丹・菊・菖蒲の造花や御殿・山等の模型を、女子も衣紋を作って吊し、胡瓜や茄子などを山のように供え、太鼓の伴奏で七夕の歌を唄い、町も夜中まで賑わった。
 五節句には清書の審査会があり優秀順に張り出された。正月には床の間の天神像や軸の前で試筆し、左義長の火に投じて上達を祈願した。また地域の神社で祭礼がある時には清書を奉納した。高岡では四月二十五日に関野神社境内の天満宮祭礼、富山では浄禅寺の天満宮(現於保多神社)の祭礼、放生津では曼陀羅寺の祭礼、砺波郡では水島(現小矢部市)の天満宮の祭礼等である。
 菅原道真命日の二十五日には毎月天神祭りを行う所もある。寺子の家庭は三十文ずつ賽銭を出し費用に充て、正面に幕を張り天満宮の絵を掲げ、神酒・鏡餅・菓子等を供え、寺子の席書(清書)を張り出す。師匠から訓話を聞き、その後で一同は神酒や草団子などを分け合い帰宅した。
 これらの行事は師匠と寺子の親睦会を兼ねている。天満宮の祭礼には、三〜五文の謝礼を各家庭から師匠が受け取るが、昼食会の費用に充てられている。節句ごとにも各人二〜五文の謝礼をする場合があるが、煎餅を寺子に配ることで返礼とした。地域差はあるが、行事があるたび師匠は寺子と会食するのが常であった。
D試験
 寺子屋の中には、毎月晦日に習熟しているかどうかを確認するため、「つごもり」というその月に学習した内容を試験する所もあった。ただ一般的には師匠が個々の寺子の到達状況を把握して、進度を決めていた。
また清書などで高い評価を受けた時は、父母が同門に生菓子等を配る程名誉な事であった。
E役付
 寺子は長幼や能力で役付けされ、新入生や下級生の面倒を見た。名称は長番・取締役・目付など寺子屋によって異なるが、授業準備から寺子の指導、懲戒まで万端を取り仕切った。
F卒業
 就学年限には特に決まりはないが、ほぼ三〜五年で課程を修了するか、家庭の事情で中途卒業になった。その時には父母が出頭して在学中の礼を述べ、同門一同に挨拶した上で子供を引き取り帰宅した。
二、寺子屋統計
 『日本庶民教育史』(乙竹岩造編)という大著がある。ここには大正四年六月より六年六月にかけ、全国で寺子屋教育経験者にアンケート調査をした結果が載っている。調査は、アンケート用紙を友人知己に託す・全国各男女師範学校最上級生徒が長期休暇で帰省の折りに三日を割いて調査してもらい回送してもらう、という方法で行われた。ただし調査の際には男は男の古老、女は女の古老に当たるものとした。配布数は一万二千余り、その内回収できたのは男二千五百四十人分・女五百五十人分の計三千九十人分であり、内訳は師匠及び補助者八十三人・寺子三千七人である。この中の富山県分は、天保より明治までの師匠男四人・寺子男五十四人と女十人で、別に一つの寺子屋から十人の報告があったがこれを一つとして数えている。アンケートの富山県分をグラフ化したものを史料として示した。
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【註釈】
●書風
 御家流は和流の一派であり、青蓮院尊円法親王創始の青蓮院流が江戸時代に大衆化したものと伝えられる。公文書の書体であった。
 持明院流も和様書体であり、室町時代の持明院基春の流派といわれる。
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        (佐々木志頭磨)
●寺子屋教科書
 端手本、名頭、商売往来、村名附、消息往来、千字文、国盡、町盡、実語教、諸證文、書翰文、寺子教訓書、庭訓往来、文章規範、童子教、農業往来、名物往来、宿駅名、銭日記、米日記、定書、加越能往来、熊谷状、百人一首、女今川、女大学、四書五経、大学、唐詩選、孝経、十八史略、蒙求、唐宋八家文 等
※五経とは易経・詩経・書経・礼記・春秋のこと。
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●字懸
 短冊を付けた大竹を押し立て太鼓で囃したてて村を通行すると、饗応される時もある(文化以前は富山町でもあった)。一行は通行中に「字懸」の声がかかると「やろう」と応じ、文字クイズを出された(大の字の上に一字を冠すると何という字になるか、等)。もしここで答えられなければ小旗を折られたり奪われたりし、答えられると師匠の評価が上がり入門者も増えたという。
●罰則例 
 食止 昼食なし
 留置 放課後も残って勉強
 鞭撻 竹竿で鞭撻
 謹慎 師匠の座傍で正座 
 掃除 教場や便所の掃除 
 破門 放校処分 
 警告 家庭に通知し訓戒
 他には、直立・線香を持って直立・席上直立・縄縛・灸・筆や文鎮をくわえる、といったものもあるが、実際は留置がほとんどで、打ったり縛ったりは極めて稀、よほどの者には筆や文鎮をくわえさせた。
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