2009年06月18日

第二章 越中各地の郷学と私塾・算学と僧が学んだ学塾 続き

三、算学塾
 私塾や寺子屋とは違い、読み書きとは違う算学一科目を教える塾がある。幼少者には珠算を中心に、青少年には珠算を用いて和算を教え、一部は実践的に応用し改暦や測量等にも従事していた。特に薬都富山町では関孝和の関流が盛んで、八算・見九・雑割・相場割・利息割・差分・盈明・材割・交会・方程式・開平開立・点竄等が学ばれていた。
@砺波郡
 砺波鷹栖の四谷儀平は、藩政末期から明治初年に六十人の門弟へ珠算を教えた。開平開立まで進み、余技として置立の引算練習をしていた。栴檀野一ノ谷の仁兵衛は婦中の音川村に招かれ教えている。
 城端蓑谷の佐々木半四郎も同時期に算学を教え、藩の碁盤割り・検地にも従事した。
 福光西勝寺村の佐々木藤左衛門(寛政十二年〜明治十二年)は砺波郡縄張役と村肝煎を努め、検地に従事すること四十年、明治三年に藩から表彰され、鷹栖村で五石を受けた。算学で知られ、著書もある。その子息信平(幼名和三郎)も父から習字や算学を学んだが、体が弱く農業には不向きであったため、明治二十七年二十八歳の時、福光の郵便局初代局長になった。
 福光小山の佐々木吉左衛門秀綱(頼成村湯浅定繁の門)の門弟には、礪波小杉の中沢兵三郎嘉親や福野田尻の金田与平治等がいる。
 福野森清の高儀兵平(折橋小左衛門門弟)は北野天満宮に算額を奉納する。頼成村湯浅定繁(五十嵐篤好の門)一門は和算家として知られ、広瀬舘の湯浅権蔵高繁・豊蔵直繁の兄弟は、安政六年に福光八幡宮、湯浅重右衛門は明治十五年に小坂村社に算額を奉納した。
 城端の西村太冲篤行(号審之、得一館)は、明和四年西下町で商人蓑谷長兵衛(蓑谷村から移住)の子に生まれ、天明三年十七歳京で医術を学びつつ、西村千助遠里より天文暦学を学んだ。同七年九月二十二日に師が七十歳で没し、門弟一同から推挙され、後継者として西村を名乗ることになった。翌年に大坂で麻田剛立への入門を願い、寛政元年に許される。ここで高橋至時や間重富等後に幕府天文方で寛政改暦を行う者達と同門になり、以降親しく交際することになる。寛政十一年三十三歳藩主前田治脩に召され、明倫堂で天文学を講ずるが、陰陽の講義を望んだ藩の希望とは異なったため、京へ戻る意向を伝える。辞任は止むを得ずとしても、優れた人材を手放したくない藩は説得に努め、結局城端に住み毎年金五両を給する待遇で留まった。文化六年まで宗林寺町に医院を開き、天体観測をしていた。伊能忠敬との接触を図ったが、機密漏洩を恐れた藩から止められている。その後金沢に移り、文政四年七月四十一歳で十五人扶持を受け、寺社奉行下で藩医の身分になった。金沢分限絵図の作成を計画していた藩は、翌年正月より遠藤数馬高mの指揮下に作業を開始した。師匠の太冲もこれに参画し、天保元年十二月に完成を見る。また文政六年時制の改訂を行い、十三分割法から十二分割法に改める。同八年より毎年気朔暦を製した。天文学を教え、門下には茶室康哉、米室白裕、城端白蒔絵師の小原治五衛門宗好、石黒信由、大橋作之進等錚々たる人物がいる。著書も多く残し、天保六年五月二十一日六十九歳で没した。長男十一郎は京で西村遠里の跡を継ぎ、次男長兵衛は城端の蓑谷家を嗣ぐ。遺業を引き継いだのは四男政行佐左衛門で、藩医になり天保六年七人扶持を受ける。気朔暦を継続して作り、金府日時用略を提出した。天保七年九月十五日には氷見で天体観測もやっている。
 戸出の竹村屋七郎右衛門(寛政四年九月〜天保四年十一月、字子范、号仲宝)こと菊池橘五郎与之は石黒信由に学び、文化五年一(五)月と同十一年十一月に算法の秘法を解答する。同十年三月高瀬神社に算額を奉納した。同三年四月二十三日の横町大火後の復興に尽力し、文政七年十二月に所方算用聞役に就任する。著書も残している。門弟には福野の大屋和一郎厚以や福光の源五兵衛正尚等がいる(両人とも文化十年福光宇佐八幡宮に算額を奉納)。縄蔵村の長尾弥左衛門矩道(寛政十一年〜明治二年)も門弟で、縄張人として礪波郡や能登で活動する。門弟を多く抱え、天保八年細木村の五ヶ村神社・安政三年縄蔵村の細木神社に算額を奉納したのは、門下の山田野出村の西甚蔵好徳である。
 古戸出の大野彦次郎(幼名彦太郎、号豊庫)も石黒信由門弟で、天保元年三月に縄張役・測量掛に就任し、後に金沢へ移る。文化十年三月に安居の観世音堂に算額を奉納した。
 今石動の岩尾滝村岩村善右衛門(文化十一年一月〜明治三十年四月)は、岩尾滝村山田長次郎五男で今石動上野村岩村四郎兵衛次女いとを娶る。明治十三年愛宕神社絵馬堂に横百三十四p・縦七十七pの算額を奉納し、十九年三月『伝開算目録』を出版する。門弟には斎田外次郎や若宮七三郎等がいる。
 立野では笹川の石黒信由門人黒木義則が天保後期に国学や算学を研究して二十代で算額を奉納する。五十嵐篤好の門人高田嶋村大井源五郎(文政八年〜明治四十一年)は後の立野村長源与八、山田俊秀、篠島豊次郎等の門弟を持ち、新川郡五十三ケ村に出張して測量業務に励んだ。公正を重んじた人で、碁や将棋が趣味であったと伝えられている。また中保太平は明治初年に算木を用いた算学塾を開いた。
 他にも放寺村肝煎で文政二年縄張役に任じられた清都彦右衛門や、五十嵐篤好門人で文化十一年三月に金沢野町の天満宮へ算額を奉納した横腰村の矢後助右衛門がいるが、門弟を持った確証はない。
A射水郡
 新湊には十村の石黒家がある。宝暦十年十二月二十八日に生まれた藤右衛門信由(号高樹、松香軒)は、三歳より祖父に養われ、天明四年八月十五日藤右衛門を襲名した(持高八十八石四斗八升)。天明二年十一月十九日中田高寛に入門し算学を学ぶ。また西村太冲から天文暦学を、宮井安泰から測遠術を教わった(寛政十三年免許皆伝)。本多利明の洋算研究書を門人河野久太郎を通じて入手する。磁石盤を考案し、それを高岡御馬出町の銅工である錺屋清六が製作した。寛政七年射水郡縄張役、文化十四年新田才許に就任し、測量や絵図製作に従事した。享和三年八月三日伊能忠敬と会い、翌日測量に同道している。文政十三年六月郡売薬方主附、天保六年に遠藤数馬の下で十七年かけた三州地図を完成し、翌年七月十五人扶持郡年寄に進むが、八月二十七日御用番御年寄前田美作守の指示で魚津改方同心から米隠匿の嫌疑をかけられる。同四年以来凶作が続いているにもかかわらず、石黒家の経営が拡大していることからきた疑いであった。そして十二月三日七十七歳で没する。その時の持高は五百九十石七斗二升六合(内石黒家縮高天保五年十一月三百六十五石二斗五升)であった。
 次男信易(寛政元年九月九日〜弘化三年一月二十日)が跡を継ぎ、文化十三年縄張役、翌年肝煎に就任する。算学は父に学び、文化五年八幡宮に算額を納している。また同九年から天保六年にかけ領内六十三ヶ所を測量し、地図を作成した。高木村(小矢部)の河端太助政秀、堀田村(氷見)の一河彦次郎波索、柳瀬村(礪波)の堺井権右衛門圭逸、上牧野村(高岡)の大野弥三郎雉里などの門弟を抱えたが、病気がちのため、嗣子信之(文化八年十二月十四日〜嘉永五年十二月十三日)が代理で活動する。
 信之は天保七年七月に新田才許と蔭聞役及び絵図方御用を仰せつかる。弘化三年には幕吏で和洋算に通じていた内田五観に書簡で入門する。藩には測量や検地での功績を認められ賞せられた。嘉永三年四十才の時に平十村に進み、六月海防のため藩の海岸巡見に随行、翌年加越能三州海岸絵図を作成した。
 長男の信基(天保七年四月一日〜明治二年九月十八日)も十一歳で父と共に内田五観に入門し、上野国群馬郡斎藤宜義(和田寧の門下)に師事する。円理について研究し、安政三年二十一歳で倶利伽羅不動堂に算額を奉納した。同五年叔父北本栗や弟筏井甚蔵と遊歴の数学者法道寺善から教えを受けた。文久二年にはスウィフトタットル彗星の観測に成功し、同三・四年に暦を作成する。測量術の著書として『田地割制度』を著した。公職にあっては、嘉永六年七月新田才許・測量方御用に就任、九月より測量・改修工事等を行い、信由の三州絵図を修正する。安政五年二十三歳で絵図方御用になり、十一月幕府外国奉行巡察用の地図を作成した。文久元年イギリス船海路測量御用、同三年軍艦絵図方御用、慶応二年加賀国金岩港を測量、翌年越前国敦賀から琵琶湖への運河計画を立て測量する。五月海岸製鉄所の見分、七月幕府外国奉行の海岸見分に同行する。同四年御台場建設のため設計・計測をする。 
 信易の次男与三八(天保三年九月十九日〜明治十九年九月二十一日)は、嘉永五年二十一歳の時に高木村北本家に養子に入り、半兵衛、半蔵(造)、栗と名前を改める。号は水明や乾坤一草堂主人。富山で佐伯櫻谷に学び、安政末年に江戸で関流直系内田五観に入門し、関流算学免許目録皆伝となる。大坂で教えながら著書も出すが、帰郷し文久三年三十二歳で加賀藩郡奉行直支配として軍艦發機丸に乗船、測量と絵図作成に従事した。この時将軍徳川家茂上京があり、海路の警備に当たって、兵庫に下船し陸路帰郷している。慶応三年に運河計画に携わり、新田才許、砺波郡・射水郡才許里正、測量方・絵図方御用等に任じられた。また明治三年八月高岡で地検方有用の学科や算術を十村子弟に教授し、藩より賞せられている。その後も六年新川県第十六大区戸長、地券取調掛、八年地租改正掛、九年高岡町地租改正掛、十二年石川県議会議員と数々の要職に就いた。
 信由の娘婿といわれる二塚の筏井四郎衛門満好にも門弟が多かった。二十四代仁左衛門の八男でありながら家を継ぎ、西広上村肝煎を努めた。天保六年十月二十四日に没している。高岡の沖七右衛門正之、上市吉助繁勝、宮丸六郎右衛門尹時、米嶋平助少春、熊木九郎三郎美英、佐野弥四郎秋善、黒田長次郎唯水、筏井哲次郎満直、東広上村(大門)の竹田喜左衛門吉成等が門弟である。子孫の満晴(明治六年に六十三歳で没)も門弟を有していた。
 信之の子息で信基の弟甚右衛門(天保十年二月〜明治四十三年十月五日)は二塚村上伏間江筏井家の養子に入る。甚造と改め、算学を江戸から来た法導寺善に、漢学を野上文山と園田朝弼に学んだ。村肝煎を努め、運河事業にも関わった。明治十九年に越中汽船会社社長に就任した。
 東条には石黒信由門弟の十村役折橋小左衛門義浚がいる。下村の遠藤文三郎之貫や森清村(福野)高儀兵平由英等射水郡と砺波郡で門弟を持っていた。 
 また広上には、氷見の大西彦右衛門に算術を教えた九左衛門がいた。
 高岡横田今町の医者市姫屋は俳句や算学も能くし、門弟も有していた。孫の林五郎兵衛義清(幼名政太郎、号五雲軒五卓)は文久三年十一月一日に生まれ、十八歳の時に江戸や京で医術を学ぶ。帰郷し開院する合間に、付近の子弟に算術を教えた。安政二年門弟のため『算学稽古記』を著す。天文・暦・博物・農学に通じ、近所から明日の天気まで聞かれたという。俳諧を金沢の大橋卓文に学び、佐賀野屋伝右衛門と交際した。明治十年聖安寺に寿碑が建てられ、二十七年九月一日七十五歳で没した。
 二上村光蓮寺に生まれた栂森観亮(弘化三年八月十七日〜明治二十二年五月三十日)は、八歳で三部経を誦読し、文久三年三月加賀国二日市、大聖寺で算学と天文学を学んだ。翌年京で暦学にも通じた佐田介石や中谷桑南に就き宗乗を学びつつ算学、特に天文学を肥後の人海石や紀伊の人祖南の書を読んで学ぶ。父が没したため帰郷し寺院を継承すると共に医院を開き、算学も教授した。洞窟で採光を研究し管天儀や囘照儀等を製す。明治七年には合寺問題で五年間滞京し、解決に尽力している。
B新川郡
 水橋では売薬が主産業のため珠算が盛んであり、肘崎仁重郎や広野屋弥三郎といった和算家がいた。水橋の売薬商の家に生まれた伊藤吉郎祐義は富山の高木吉兵衛に学び、河川の改修や農政を担当し、安政六年九月二十二日に没。明治維新前後には新堀村の宮田延平、金尾村の伝右エ門、的場村の立尾甚吉(天保元年七月七日生まれ)が開塾している。下砂子坂村には久世源作義胤(文化五年〜明治八年七月十四日、本姓橘、字中之、号梅堂、一二三堂等)がいる。辻村家から久世家に入り、母は黒川良安の叔母。富山の中田家や高木久蔵に算学を学び、天保九年関流八伝の免許を得る。父の跡を継ぎ弘化二年より山廻役等を歴任する。明治三年に央と改名し、翌年里正次列、土木掛を務めた。七年には地租改正を担当するが、翌年五十四歳で没した。算学の普及にも力を入れ、測量に関する著書も多い。門人は各郡に跨がっている。石黒家でも学んだと書いた本もある。曲淵村堀田義祐は毫照寺住職菅野智恩(二世、京で珠算を学び、寺子屋には三十四人が通学)に入門し、和算塾を開く。地租改正にも尽力し、明治九年十一月には同寺に碑が建てられた。明治二十八年十二月十日七十五歳で没。
 西岩瀬でも、保科茂八郎が天保四年に珠算・算術を専門に教える玉梅堂を開き、明治五年には男子四十人・女子十人が通っていた。町年寄を努め、茂八焼の陶芸で名を知られていた。翌年に閉塾している。
 滑川の熊林村には宝田家から松倉城主の末裔椎名家に養子に入った椎名道三(安田山道三、寛政二年〜安政五年五月五日)がいて、実家の兄宗兵衛(号香堂)と協力して測量・開拓に尽力しているが、特に決まった師匠や弟子はいなかった。
 入善小摺戸では福沢政次が農業の傍ら天保の頃より珠算・算術を教えている。泊では長右衛門定規が算術を教えた。小間物の行商で下総国に行った際、山武郡正気村の関流算学者植松是勝に師事した。
 文政四年九月末に泊の脇本陣・蔵宿で関流和算を学んだ小沢屋与三衛門を、遊歴の和算家 山口倉八和が訪れ、町中から関心のある人々が集って勉強会が開かれた。高岡では石黒信由とも会っている。
 明治維新後には筆算を用いた洋算が入ってきた。小学校で算術が導入されたからであるが、新庄町の竹内惟直は明治八年に専門塾此君閣を開き、広範囲から門弟を集めた。
C婦負郡
 富山町普泉寺前には、詳細な江戸絵図を作成したため幕府から注意を受けた(寛文十年十二月)と伝えられる、藤井半智長方がいる。 遠近道印おちこちどういん、図翁とも呼ばれ通称六郎兵衛、絵画能力に優れ書物屋を営み、貴重本の写本を大名に販売していた。越中国(富山?)に寛永五年前後に生まれ、長崎又は京で測量術を学び江戸に住むが、貞享三年五十九歳から元禄三年六十三歳の間に富山藩医に就任したようである。加賀藩甲州流兵学の有沢永貞に測量術と絵図作成技術を伝え、やがてそれが安達弼亮により富山藩へ伝えられた。宝永七年から正徳元年までは存在が確認されている。金二十両を受け、明暦大火後の江戸復興計画に関与したとも言われるが、確証はない。
 松本武太夫逸應は独自に算学で一派を形成した富山藩士(?)であり、門弟には近郷逸良、小西屋久兵衛、八重崎屋和三郎等がいる。また近郷門下に村杉屋宇兵衛、米屋甚助、立石勘十郎、米屋市左衛門等がいる。一門の多くが算額を奉納したが、天明三年九月頃中田高寛により不完全を指摘される。
 長柄町に藩士中田高清の子息として生まれた文蔵高寛(元文四年三月二日〜享和二年十一月五日、号文敬、孔卜軒)は十四俵の軽輩ではあるが、広瀬吉兵衛より乗除を学び、その後に藩士松本武太夫にも師事する。入江兵庫脩敬著の和算書が木村羽(卯)左衛門宅にあると聞くや、頼んでこれを借りて勉強した。そんな高寛の努力を藩主前田利與は認め、安永二年に江戸の山路主住(関流直三伝)の許に入門させること六年、師の没後は子息之徽と門弟の米沢藩士藤田定資に八年就いた。帰郷すると桃井町に算学塾を開くと、伊勢国・飛騨国高山・大聖寺等からも門弟が集まり数百人を数えた。高弟三十六人には石黒信由や高木広当等の名もある。七十六部百三冊もの書を著した。子息源兵衛高傍も父に算学を学んだ。
 高木屋吉兵衛も塾を持ち、そこへ岩城吉兵衛が入門してきた。後の高木吉兵衛広当である。中田高寛にも師事し、算学を普及させた。
 子息久蔵允胤も弟子を持ち、その中に稲野三重郎盛胤(号怡寛)がいる。中田高寛門下の石黒九兵衛(栄之進)直綱から算学を学び、その後高木父子に師事して文化十二年五月に見題免許を得る。長柄町に算学塾を開いた。明治四年正月十五日に七十二歳で没する。子息直矩は父から算学を学び、将来を嘱望されたが、元治元年六月一日四十歳で没した。
 算用吏の加賀藩士に瀧川家と三好家がある。天明七年生まれの瀧川新平有乂(号子龍、崇山)は、、本多利明に学んで算用場に勤めた。嗣子秀蔵友直(文化十三年〜文久二年二月二十九日、号子益)も算用吏を勤め(四十俵)、次子金蔵正直は三好乙三郎賢能の養子になるが早世し、三男善蔵質直(四十俵、明治十三年十一月十一日五十九歳で没)が替わりに入る。富山へ赴任した際に子息の松太郎貞行(号醉月)が泉町で算学塾を開いた。後に八尾や高岡税務署へ勤務した。明治四十五年四月五日に五十七歳で没した。
 他にも、臨池居小西家の分家が、本家の門弟に算術を教えている。
 八尾の大長谷では、山口太郎右衛門、桂甚六、宮崎安次郎、長谷川三四郎が、休日や夜間に珠算を村の青年達に教えていた。
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四、学塾 仏教教義の教育・研究は浄土真宗の勢力が強い越中国で盛んに行われ、特に氷見が熱心であった。本講座では仏教学を宗学、宗学を教える機関を学塾と呼ぶこととし、宗派ごとに見ていくことにする。
@浄土真宗本願寺派
 氷見下伊勢の西光寺住職六世善空安貞は門弟の教育に尽力する。延宝五年に生まれ、学林二代能化知空に学ぶ。倹約に努め、安い紙を求めて八尾に買いに行くこと暫しと伝わる。また立山登山の際に空中で三尊の姿が現れ、同行者たちが合掌礼拝するのを余所に、一人魔の所作と見破ったという。元文二年の臨終に際して、学塾の経営と宗学の発展を青山義教に託した。七世を嗣ぐことになる岩垣善意こと善意芳山(元禄十一年〜安永四年二月二十三日、号尺伸堂、無人閣)は、稲積村農家大坪三左衛門の子息として生まれ、安貞に学んだ後に養子になり、義教と京に学ぶ。元文二年四十歳で住職に就き、翌年法橋並びに権律師に任じられる。十二月に自坊に義教の後援で尺伸堂を設立し、出張講義も行った。門弟数は五百人を数え、多くの著書があった。宝暦五年義教が能化職就任で多忙になったため、その門弟を預かっている。門弟簿には寛政元年から文政十二年まであるので、学塾はその後も継続していたことが分かる。養子八世善譲芳什(享保七年〜宝暦九年、字子恭、号北湖)、養子九世善済(享保二十年〜寛政元年、字若楫、号忘機)と続き、十世は養子の善容義霜(宝暦十年〜天保三年、字子明、別名慶哉)で、門弟には智雄(知雄)などがいる。七代勧学智洞や古国府勝興寺住職闡郁等と三業惑乱に積極的に関わったため、文化三年に幕府より脱衣追放の判決を受け、天保元年には江戸で幽閉、三年に七十二歳で没する。以後尺伸堂は衰退する。
 氷見論田の願生寺住職十五世滝山義浄(文政三年〜明治十九年三月一日)は、矢田部大誓寺に生まれた。十五歳で氷見町円満寺住職義淳から究学の心を教わり、嘉永元年京で本願寺に学ぶ。明治七年大講義に任じられ、国内を回り学問を奨め、仏教の教えを説いた。また自坊に安祥閣を設立し、明治十年代の門弟帳によれば、石川・長野・新潟各県からも学びに来ていたことが分かる。 
 氷見南上の円満寺住職九世青山義教(元禄七年〜明和五年)は、能登国羽咋四町村小原家四代目治兵衛吉道の子息に生まれ医者を志すが、宝暦四年十一歳で出家して円満寺に入った。西光寺の安貞に学んで、京に芳山と学問に出るが、勉強を怠り無駄使いをしたことが知れ親戚や檀家に厳しく戒められた。ここで心機一転し学問に励み、ついには五代目能化職に任じられるまでになった。自坊に大心海を設立し、門弟を育成すると共に多くの著書を残した。十世義淳(別名玄天、字教曜)は漢詩や和歌に優れ、弘化二年に没する。十一世義天は書画に秀でたが、嘉永五年に大心海が焼失し、その上弟子が嘉永七年と安政二年に曹洞宗光禅寺雲水相手に大喧嘩する事件を起こす。次の義浄(文化十四年〜明治十九年)は義天没後に覚円寺持浄の門下に入る。
 現新湊朴木の覚円寺住職十七世随念持浄(天明三年〜安政六年十二月二十三日)は戸出村報恩寺に生まれ、寛政八年義霜に入門し、三十三歳で塚原村覚円寺に入寺した。大心海門で越後国興隆と僧朗に学んだ後宗学を自坊で講じ、曇華屈と名付ける。明治二十年には勧学を追贈された。門下には孫で氷見薮田光福寺十五世薮波浄慧(嘉永五年〜明治三十九年九月)や、縁戚で宇波慈光寺生まれの熊無憶念寺十七世滝水薫什(天保十一年〜明治三十九年十月)がいる。二人とも高岡の待賢室でも学び、同志として農業改良と教壇改革に尽力するが、明治二十四年に僧籍を剥脱される。覚円寺には二人の顕彰碑が建てられた。
 上市明光寺住職十四世霊潭(元禄二年〜明和六年)は、京で小矢部埴生出身の華厳宗鳳潭、本願寺派二代能化知空、大谷派初代講師慧空に学んだ後享和二年二十九歳で帰郷し、宗学教育に当たった。高岡の専称寺で講義し僧樸等の門弟を育てた。著作は二十一部五十四巻を数える。僧鎔は養子。
 宇奈月浦山の善巧寺僧鎔(雪山慶叟、享保七年〜天明三年、字子練、号雪山、空華、甘露、仰峯)は市江村(現富山市)渡辺彦左衛門の子息で、旅行中の霊潭に見出だされ、十一歳で得度、二十一歳で善巧寺に入った後、京で陳善院僧樸(霊潭に学び、京で修学する。米を炊く時間まで惜しみ研究に努め、「生米僧樸」の異名を取った)に入門し、上首になった。師の臨終に際し蔵書を譲られ、宝暦八年三十六歳の時、本願寺の強い勧めで自坊の東隣に甘露室を建て、そこに空華学寮(空華廬)を設立する。明和二年に十三条の掟書きを定め、学業の大切さを説いた。著書も残し、門弟は二百三十七人、墓前入門者も六十二人いて、空華派と言われるほどであった。天保十二年に碑が建てられている。
 空華廬を継いだ門弟は、滑川高柳明楽寺住職十三世柔遠(字子帰、号柳渓)で、十年間は出張し新規入門者も師の門弟としていた。また大蔵経募財を始めるまでの十四年間は講義謝礼全て空華廬に納めていた。その後自坊に移して門弟教育に力を入れ、講義録も残っている。門弟は百八十一人だが、没後に四百九人が入門の扱いを受けている。また門下の印定と印持の兄弟・巧便・令玄・行照は勧学、目云(大和国滝上寺に入寺し学寮華蔵閣を設置)は司教に任じられている。継承者の道隠は三業惑乱で古義派の中心で、文化三年七月退隠処分となる。義諦は安居の講者になった。
 八尾茗ケ原妙覚寺住職の玉潭(享保七年〜天明二年七月二十三日)も自坊に善解室を設立している。摂津国泰厳に入門し、著書も『安楽集伝灯録』六巻等九部がある。その後を可乗、浄中が嗣ぎ、その長男巧便(天明二年〜嘉永四年八月一日、号浄信、荷沢)は寛政六年十三歳で柔遠の門に入り、道隠にも学ぶ。天保九年に勧学に就任し、著書も三十六部を数えた。三百七十六人の門弟を持ち、中から勧学に就任する僧も出ている。御前講の命を受け上洛し、学林で没した。
 上市中小泉明覚寺二十世住職智眼(寛政十年〜明治元年十月十二日、号消除房)は、十八世正秀四男に生まれ、幼少時乳母の不注意で左手の指と掌が癒着してしまう。しかし屈折する事無く京や美濃国行照の金華寮や僧鎔・柔遠の著書に学び、自著数十部と門弟数百人を持った。寺坊は長兄が嗣がず叔父廓了が十九世になっていたが、文政十二年に亡くなりその跡を継ぐ。坊内に四間×六間の学寮を建設し、二十人内外がここで講義を受けていた。六十二歳で助教に就任。晩年に勝興寺から講義の依頼があるものの、病気で出来なかったため、大意を書に認めて送ったのが絶筆になった。没後に司教の学階を贈られた。 
 三日市専徳寺十四世泰順の次男印順(文政元年八月十日〜明治二十二年七月十八日)は、九歳で三部教を習う。翌年に上市の広田文城に経書・史学・句読を学び、十六歳で富山通坊空華の社中に加わる。この年に上洛し学林に入り、その後八年間諸国を巡り学問に励んだ。天保十三年十月に帰郷し、十二月二十日婦負郡光雲寺に養子に入った。二十五歳の時である。翌年二月に再上洛し、嘉永四年助教に就任する。四十二歳で養父月海の跡を継ぎ十六世になると、四間半×六間の学寮を建てて仏母堂と名付け、巧便の学寮をここに移して継承した。明治六年まで続け、三百八十余人の門弟を有す。中には越前・加賀・美濃・大和・肥後から来た修業僧もいた。十八年空華教校総監、十九年別院知堂、二十年勧学に就任した。
 水橋東天神町照蓮寺十五世の藤枝令玄(安永四年〜嘉永二年八月二十一日)は大山町福沢大福寺門徒の家に生まれ、照蓮寺の養子となる。寛政五年六月柔遠に入門して天台・大乗の教えを考究し、自坊に学塾玄々堂を開いた。天保十四年勧学に任ぜられ、三十年教育に専心する。門弟は四百人余、弘化三年学校代講を務め、観念治門を講じる。また本願寺奥書院で諡註八番問答を論じた。嘉永二年八月二十一日七十五歳で没。子息令道(十六世、十八世)と玄應(十七世)も高名。
 富山下飯野光専寺十三世宗照の長男で継承した日影達照(文化十年〜明治十二年九月十二日)は覚玄とも称し、杳旭や行照(美濃国願誓寺)に学ぶ。嘉永頃に自坊に学舎護法室を建て、慶応二年経蔵の獅吼蔵を整備して門弟数百名を教育する。明治元年司教、十一年権大講義となる。著書も多く、二十四年三月十六日に勧学を贈られた。
 砺波郡の現高岡中田常国の専竜寺住職第九世顧行は、加賀国河北郡倉尾に生まれ、芳山に学んだ。三業惑乱の際は水波寺院総代として鎮定に努めた。本堂建立にあたり矢来を九尺に広げて講義処とし、後戸を六尺にし御内陣を狭めて所化(生徒宿泊設備)に当てた。
 庄川金屋光照寺十六世高桑慶道次男の師道(文化十二年〜明治十八年、字金溪子)は君章、緑天とも名乗り、十四歳の時に石堤長光寺雪象に学び、二十二歳で十八世住職に就任する。安政六年寺内に消雲塾を設け門弟教育に努めた。明治七年八月司教に任じられ、「散善義深心釈」を講じた。没後の二十四年三月十六日に勧学を贈られている。
 水戸田村市井村光照寺住職永護(文化九年七月十七日〜明治二十五年二月十六日、姓公文名)は、一切経を研究し、明治維新後に金沢綜練教校や水波教校で教鞭を執る。後に自坊で宗学を教え、二十二年に司教、二十五年に勧学・堂班内陣上座等に就任するが、直後に没する。
 真宗二派は明治に入ると組織的な宗学教育を企図する。大谷派が九年に越中教校を設立したのに対し本願寺派も各府県ごとに一・二校を設置することを目標とした。富山で空華教校が九年諏訪川原に開校し、高岡でも十四年十月に伏木古国府勝興寺庫裏を使い水波教校を設けた。対象が射水・砺波両郡の寺院子弟であったことからの名称であった。科目は越中教校に準じたが小規模で、毎年十人程の卒業であったという。校舎は十八年秋高岡片原横町の旧酬恩舍、二十四年秋桜馬場の旧高岡病院、二十六年秋古城公園内旧射水郡会議事堂を転々とし、二十七年十二月富山の空華教校と合併し、徳風教校となり翌年一月富山の諏訪川原に開校したが、やがて閉校する。
A浄土真宗大谷派
 高岡の横川原町開正寺住職八世自然(字子牽)は、宝暦八年自坊に雲処堂を設立し、学寮・経堂を建 設した。秋と冬に大会を催し、舶来の教典も集めた。詩集『高陵風雅』(明和四年)の選者としても知 られる。
 九世宣明(号巴陵)は寛延三年三月五日砺波郡太美村小院瀬見(福光)農家山口家に生まれる。八歳で加賀国了現に漢籍を学び、十八歳で京の大谷派高倉学寮に留学した。そこで慧琳、随慧に学び、南都・初瀬の名刹を巡り、学匠・倶舍・唯識・唯摩・勝鬘等の大乗教学を研究する。そのため倶舍宣明と言われ、高倉学寮で唯識論「瑜伽師地論」を講じることになった。天明二年開正寺に入り、雲処堂で講義をする。門弟は『隷名記』によれば四百五十五人を数え、美濃・尾張・三河、果ては九州からも集まった。寛政三年学階の擬講、同五年嗣講、文化八年講師へと進む。文政四年五月七十二歳で没し、境内に碑が建てられた。著作も五十部余りある。寺務を退いた後は円乗院と称した。
 門弟に上市稗田の円満寺住職霊暀正慶(安永四年〜嘉永四年)がいる。八歳で京に学び、十六歳で経典を講義するほどの俊才であったが、更に学問を重ね文政七年五十歳で嗣講に就任する。六十六歳で眼を患い、二年後には失明状態になったが、嘉永二年十一代講師に進み、頓成事件で揺れる宗派にあり同四年に『愚禿鈔』を安楽椅子に乗せられ講義する。自坊に洗心寮を設立し、著述も八十六部を数えた。
 今石動上新田長福寺住職恵月鳳麟(寛政九年〜文久三年八月十三日)も高倉学寮で宣明に師事し、寮司、文久元年嗣講へ進む。興福寺や延暦寺でも倶舎宗・唯識宗・天台宗等を学び、その後自坊で宗学を教えた。同三年に『選択集』を講じ、江戸でも浅草本願寺に於いて浄土論を講義するが、その最中に倒れる。主著は二巻あり、院号は乗光院。
 同じく高倉学寮で宣明に学んだ高岡の光誓寺住職亮空は、文政元年に寮司、後年に擬講へ進む。夏季の一定期間に学僧を集め『勝曼経』を講じた。著書は二部ある。天保二年二月十四日没。
 氷見新町の円照寺住職二十三世菊地静誓(号鎧遊)は、嘉永元年に現在の西礪波郡水島村勝満寺に生まれ、十四歳で円照寺に入る。富山で岡田栗園に、金沢で医家永山平太に学んだ後、京で漢学者広部鳥道や石井発三郎に師事した。その上で改めて宗学を京で修め、明治二十二年権中助教に就任する。全国の寺院を回り教義を伝える合間に、自筆手本で読み書きも見ていた。
 宗派は明治九年に越中教校を設立する。高岡でまず片原横町の超願寺を暫定校舎とし、十一年博労畳町に洋式校舎を新築する。予科三級・本科三級を置き、一学級を各六ヵ月とし三か年で修了するものとした。その後も存続していた・ が、明治十二年の大火で灰燼に帰した。その後十九年と二十一年に改正し、予科が一年・本科が四年になる。二十六年の宗派の学制改革で廃止された。
Bその他
 閑雲国常(安永七年〜安政六年九月六日、字真厳、号雲荘、碧蓮道人、瑞現蒙軒)は能登国鳳至郡山是清村の今村家次男で、曹洞宗大本山総持寺塔中の東源寺住職印宗に従い剃髪得度し、住職に就いた。その後に江戸で亀田鵬齋に入門して経書と詩文を学び、帰郷途次に下村海翁寺で碧厳集や経書等を講じる。その際、瑞龍寺十六世活湛が聞いていて招かれる切っ掛けになった。やがて京洛外の大昌寺や了峯寺、摂津国高槻城北太会部村伊勢寺、美濃国大垣金昌寺の住職を経て、文政五年に瑞龍寺十八世に就任した。頼三樹三郎も訪れている。老後は川口村谷昌寺に隠居した。
【註釈】
●修三堂の名前の由来
 君子は其の身を安んじて而して・後に動き、其の心を易めて而して・後に語り、其の交を定めて而して後に求む。君子は此三者を修む。・故に全し。(易経) 
●高岡町人の出自 
高岡は町人の町ではあるが、元武芸者という家は結構ある。御馬出町金子家は初代から四代まで武芸者であった。四代の家平(元和三年〜享保八年)が医者に転身して高岡で開院する。以後代々特に小児科を専門にしている。安永八年には前田教千代の診察もする。この時共に診察したのが木舟町松田教之助であり、副腎ホルモン治療をしたという。祖は小田原北条氏家老職で、尾張守憲秀は北条氏政に不満を持ち、小田原開城の切っ掛けを作った。子息弾三郎秀也が京で医を学び、金沢や氷見に住み、次の三知が高岡へ移る。教之助孫正之助は粟田家へ嫁いだ娘の子で、俳人でもある。 
●富山藩の心学講話 
文政三年三月藩は町人向けに忠孝の講話会を寺町にある円隆寺(天台宗)で開いた。反魂丹商人及び町々には出来るだけ出席するよう申し渡し、複数回催したようである。
●宮永習(字三省、号棠涯)
正好の八男。天文や算学に通じた。『海防策』の著書がある。 
●寺院の郊外移転 
 高岡では昭和三十年以降に寺院と商店街との美感調和が問題になり、利屋町の聖安寺が横田町に移動、水波仏教会館が桜馬場から八丁道へ移動、開正寺が川原町から五十辺へ移動などと続いている。
●五十嵐家
 祖は越後国蒲原郡伊加良志神社神職で、慶長年間に砺波郡立野村に移って、内島村を開拓した。寛永十二年に次郎助が十村に任じられ、十九年福田組才許十村となった。八代目孫作は文化年間新川郡舟倉野(現大沢野町)と室山野(滑川市)の新田開発に従事し、小豊次もこれを手伝っていた。十代目作次右衛門は能登に転勤し、鹿島郡と羽咋郡で組十村に任じられた。嘉永二年に砺波郡に戻り、五位組才許十村となって、十一代目小豊次も継承して明治に至る。石高は享保十一年六百八十二石。九代目篤好の頌徳碑は昭和五年に建てられている。 
●坪井信良(文政六年八月二十八日〜明治三十七年十一月九日) 
 八代目養順の次男。母は長崎玄庭の娘。天保十一年三月京で小石元瑞、同十四年一月江戸で坪井信道(萩藩医二十五石)に就き、婿養子に入る。広瀬旭荘に漢籍、大坂で緒方洪庵に蘭学を学んだ。弘化から明治十年にかけ九代目に書簡を定期的に発信し、高岡町の有力者はこれを基に時事研究を行っている。嘉永六年十一月家督を嗣ぎ、三十一歳で越前藩松平春嶽の公医、安政五年蕃書調所教授補、慶応二年に将軍家奥医師に駆け昇った。大坂城に入るが、徳川慶喜と大坂城を脱出し、軍艦開陽で江戸へ戻る。水戸、静岡と徳川家に従い、静岡病院を開院する。廃藩後明治七年十二月東京府病院院長に就任する。『医事雑誌』を発刊し、著書も多い。子息の正五郎は・理学博士で人類学者として名をなし、孫の誠太郎と忠二も共に理学博士。
●算学(関流、中西流、宅間流)
 吉田光由『塵劫記』の寛永十八年版は解答を載せない「遺題」であり、各算学者が独自に解いて自著に載せるというものであった。そのため一挙に難化し、大陸の天元術を使い算木を並べて一元高次方程式が必要となった。磯村吉徳『算法闕疑抄』がその到達点である。しかし関孝和は筆算を使い、文字を導入することで、算盤や算木の制約から離れ、複雑な方程式や円理・幾何までも取り扱えるようにした。一般に和算はここから始まる。流派継承者は建部賢弘、門下に松永良弼、その門下に山路主住が出て、関流免許制度が整備された。門下の藤田貞資は最上流を立てた会田安明と激論を交わしつつ、算学に「用の用」「無用の用」「無用の無用」の三種があることを指摘した。同門の安島直円は二重積分まで発明するが、既に算学は「用の用」から離れ、算額奉納を競っていた。また解説の詳しい独習書が発売され、門流の結束が弛みつつあった。
●時制改訂
 加賀藩は承応元年に日の出日の入り前の一時を一時半にし、夜・昼を区切って午前午後に余時を入れていた。文政六年八月に幕府や他藩同様十二分割に改めたが、城下は混乱し、翌年七月十日前田齊廣が麻疹で亡くなると、改革を担った教諭局の寺島蔵人等十三人が解職、齊廣の隠居場竹沢御殿も取り壊され、遠藤数馬も罷免された。十二月に時報は旧に復した。
●石黒信由門弟(越中各地に算額を・奉納した弟子のみ)
金屋三郎右衛門吉賢 金屋
高井藤左衛門持翰 川口村・新湊
蔵田文右衛門峯昌 今井村・新湊
高瀬宅次郎矩重 放生津
伊藤六右衛門長辰 石丸村・礪波
高井茂兵衛信房 宮袋村・新湊
谷道仁兵衛挙英 布目村・新湊
折橋義吉則之 北野村・小杉
山崎善次郎寛重 薮田村・氷見
折橋小左衛門義浚 東条郷・小杉
汚道沙門一尋 五位・福岡 
五十嵐小豊次厚義 
松儀鉄五郎義府 浦山・宇奈月
菊池橘五郎與之 戸出 
清都彦右衛門春連 放寺村・高岡
林宗右衛門実森 西部金屋村 
大野彦次郎豊庫 古戸出 
藤井辰右衛門昌弘 舟川新・朝日
折橋九郎兵衛坤 浅井郷・大門
島崎十次郎政秋 堀岡新村・新湊
鷹杉権右衛門尹寿 同右 
石黒藤助信易    (『算学鉤致』巻之下) 
●三業惑乱(寛政九年〜文化三年)
 蓮如「お文」にある「タノム」の語の解釈を巡って本願寺派内で起こった対立。流血の事態になり幕府も介入する。新義派(願生派・学林派)は祈願・請求の意味(弥陀の救いを請い求める)と解釈し、身・口・意(三つの行為)をかけて願わねばならないとした。古義派(信楽派、在野派)は頼・憑・恃・恃の意味(信順帰命)と解釈し、仏の救いを間違いないと信じ「あてたより」にするものであるとした。十九世本如の出した「消息」で新義派は誤りとされ落着する。越中国では新義派が西部に力を持つ尺伸堂、古義派が東部に力を持つ空華廬であり、対立を深めた。特に氷見の門徒は文化十四年五月まで従わなかった。
●「尺伸」の典拠
 易経の「学種を尺伸に下す」より採り、尺伸堂は学・信・行の三門一体を旨とした。
●空華廬掟書 末尾の心得 
 剃頭染衣之名と相成申上ハ不惜身命之奉仕御互ニ相心得懇申度事ニ候。然ハ遊手竊食して一生悠々として光陰を送申事自他同しく本意にあらず一句一字なりとも修学之志を立て遺法を護持し奉り一大事ニ後生仕損□申間敷様ニ各々御心掛可被下候
●能化(本願寺派)
 十三代良如は寛政十五年に学林を創設し、その総長の職名。三業惑乱で文化四年に廃止。文政七年一月に勧学を置いた(五月任期一年の年預勧学職を設け、魚津照顕寺九世杳旭、九年細入片掛西念寺恵航が就任する)。
●講師(大谷派)
 寛文五年に学寮(宝暦四年高倉学寮と改名)を創設し、その総長の職名。 
●頓成事件
 頓成は能登国に生まれ、霊暀の門に学ぶ。井波町光教寺住職を経験した。師と異なり深信自力説を唱える(他力信心の相の両面を表した二種の深信の内、機の深信を勧めることは自力を勧めることになるという説)。機の深信とは、自分を省み我が身は根機つたなくして永久にこの苦海を脱することが出来ないと深く信じることである。一旦は認められるも、嘉永五年七月の裁決で異義とされ、それでも主張し続けたため明治になって宗門から破門された。明治八年四月に一ヵ月立山町千垣の祐教寺に滞在している。越中国では氷見と新川に頓成派が多かった。
●雲処堂のその後
 文政四年六月の高岡大火で本堂庫裏経蔵学寮等が類焼し、宣明長男自慶が文政十二年に再興するが、経蔵は未設立のままで九月に没した。
●福光の郷学所設置願書 
 明治二年九月
書付を以御願申上候
福光村領字舘跡与申所竿除之地二御座候而以前者建物御座候得とも追々破損仕天保年中以来明地ニ相成森二相成居候ケ所御座候就而ハ今度右舘跡二仮建仕郷学所二致度尤農業稼方之障リ不相成時節年着之者心得之為読書為仕度左候得ハ左之通リ定日取図リ申度奉存候
 毎月隔日 素読 三八 連講
右之通御聞届被成下候様奉願上候尤入費者私共申談相弁可申候間此段宜敷被仰上可被下候以上
 明治二年巳九月
 得能小四郎殿 
 石崎彦三郎殿
●杉木教学所の設置
 明治二年十月
一、教授所雑用与して入学之面々より、上ハ一季百目、下者五拾目宛指出可申事
但、一季五拾目宛難指出程之身元之人々ハ、拾匁或ハ弐、三拾目宛与歟、其身元二応シ迷惑不仕様二指出可申事
一、入塾之面々ハ、一日白米五合二菜代弐匁宛一月毎二指出可申、尤膳・椀・夜具・油・炭・机持参之事
一、講師.句読師賄方、館中入費を以可相弁事
一、入塾之面々自宅ょ菜等取寄候儀堅ク無用之事
一、酒ハ都而講師始取はやし候儀堅ク無用之事
一、飯焚等を以入塾之面々等肴等買求候義一円不相成候事
一、入塾之面々平日戸外不相成、休日ニハ夕六ツ限リニ立戻典礼江案内可及事
但、無拠向有之節者、出入共典礼等江案内之事
一、出席之面々、出座帳ニ交名可書記事
一、館中都而袴着用之事
一、座列不可有混雑事
一、講師壱人、句読師三人之外、壱飯たり共館中ニ而賄不申事
一、社長ハ白米五合宛入立、菜代請不申事
一、生徒之内弐人宛当直相立、館中掃除給事等講師より命候事
一、油之儀句読師以上ハ相渡、其余指出不申、行燈丈ケ指出可申事
一、料紙筆疊不用之分指出不申事
一、都而はきもの雨具類身出之事
一、飯焚之外小使無之事
 年中賄方
一、朝飯 飯 香の物
一、昼飯 右同断
一、タ飯 飯 味噌汁野菜有合之品 香の物

平欤皿欤
但、朔日 四日 六日 九日 十一日 十四日
十六日 十九日 廿一日 廿四日 廿六日
廿九日

 賄日十二日之事      (「教授所規則 明治二年十月」菊池文書)
教学所定法張紙
一、主付人番日二は早朝より出勤、教諭方江引合之上引取可申事
一、都而学ビ候儀は其行状二可用儀二候得ぱ、舘内は勿論自他二不限、謙譲和順ヲ始メ万事無疎略、聊不当之仕業無之様第一二相心得可申事
自然不法ケ間敷儀及見聞候得バ、品二寄局江御達可申候事
一、生徒等無謂欠座曁無礼之儀於有之は、人々手前及穿鑿、是亦其品二寄局江相達可申事
一、生徒着舘直様筆生江案内記帳之上、詰合主付教諭方江会釈、聖像江拝礼、句読席江出、素読等可致候事
一、属殿方御出座井書記衆中等御見廻り之節、詰合主付押請致、出座人等之様子可申達事
一、生徒人翌日之指支前日二相知れ居候ハゞ、其段主付人江申達し、指懸リ候儀は翌日其委曲詰合主付江可申達候事
一、生徒人着館之上一切戸外不相成、弁当持参之人は其刻限打揃食用可相弁事
一、生徒人精惰之趣日々及見聞、教諭方曁主付人示談之上、甚敦二至候而ハ其所置可致事
一、生徒人毎日出座素読等有之内、食後暫時休刻運道等之儀は見通し可申候得共、相図之上又候相励可申候事
右之条々堅ク相守可申事
 教学所教諭方
明治三年三月
 主付
● 待賢室
謹テ建議奉伺候
前月御県庁御布令ノ太政官懇々切々勧学ノ御告諭、実二国家文明富強ノ基本確立シ給ヘル指麾歟ト忝奉感佩候。何レ近々小学校御取立、文部省学則モ御下ケ可有之、抃舞ノ至二不堪候。然ルニ御見聞ノ通、当地ハ全ク僻陬ニモ非ス、人民モ真ノ頑固ニモ非レトモ、沿襲ノ弊ニヤ苟安怠惰ノ者不尠、是恐クハ、各地父老中ノ有志有学ト称セラレン者ノ文明ノ御趨意二暗ク、子弟二諭スノ方策二苦慮セサル故歟ト悔愧ノ至二候。草芥学民文山憂悶ノ余リ、官校相立候迄聊官ノ鴻意ヲ奉拝承徴意ヨリ四課ヲ立テ、如何ナル貧民愚蒙タルトモ日用不可不知ノ事件ヲ摘取シ授与仕度奉存、韮才ヲ不顧奉伺上候。第一二制札講談是天理人道ノ大本ナレハ、之ヲ自ノ心膓トセサル者ハ、危二臨テ義ヲ忘ルノ禍アルヘシ。之ヲ補フニ三宇経等適宜二授ント奉存候。第二ニ御代々ノ天皇ノ国称漢諱序次是亦国家ノ大本ニシテ、国称タニ暗キ者ハ夏冬両時ノ御祓祝辞、誦センニ文字二瞠着シロ誦二佶屈ス。折角ノ手習モ何ノ所用モナキコトニ相成候。且ツ次序ニ暗キ時ハ、鎌倉以来幕府ノ興亡ヲ以テ、漢土王者ノ興亡二比擬シテ、之ヲ政本ト誤認スル癖ヲ生ス。故二之ヲ授諭シテ次、太政官八省院府県ノ官名、及三府七十二県、及禁中年時ノ諸祭、御一新以来新官知ノ神名丼二其所由、及式内神社等之ヲ授与仕、第三二通俗要文是亦政体二関渉ス。当時ノ世態ヲミルニ、吉凶ノ書札ヲ書ナカラ、御布告ノ文書ヲ不読得シテ官意ヲ誤者不尠。又当時ノ通俗文章ヲミルニ、国音漢文共失シテ、徒二浮華ヲ表シテ其案少、皇漢洋ノ三学二聊モ其益ナシ。可歎ノ至二候。依テ一通書札ヲ読者ハ御布令書モ読得ル様二、俗文ヲ裁正シ授度候。第四二算道、是幼童ノ所知ハ浅近二候ヘハ、別二策ヲ労セス候也。
右四課ヲ以テ、十歳以上十五歳以下ノ幼童ヲ村役人ヨリ申諭シ、朝五時ノ一時ヲ限リ私塾二相詰メ、一六ヲ休日トシテ余ノ四日二配当シ、其日数凡半年トシテ指授卒業仕度、最一里以外ノ村里ハ幼童ノ往返モ便ナラス、更二各地父老ノ卓見モ可宥之筈二候ヘハ、私ノ関渉スル所二無之候。此儀内分居村役人二申談候処、役人モ相喜周旋可仕ト被申候間、右ノ方策邪正曲直御裁判被成下、若御政体相障義モ無之、且幼童其益モ顕ハレ候ハゝ、近境ヨリ遠境二至リ十七八ノ両区ノ幼童二及ホシ、駿駸々タラシメント奉存候。乍去至急行屈兼候ヘハ、偏二私菲徳ノ所令然ト御仁免可被下候。布件御出張所ノ御威光ヲモ奉願上度候ヘトモ、何レ御布令ノ通近々小学校相立候儀二候ヘハ、夫迄ノ小方策ヲ以テ御出張所ノ御告諭モ灘願上奉存候。猶課程書一紙相添奉呈上候間、是又邪正曲直御裁判ノ程奉希上候。誠惶々々。
壬申九月十二日(明治五年) 第十八大区二番組湶分
 野上文山
高岡御出張所
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