2009年06月18日

第二章 越中各地の郷学と私塾・算学と僧が学んだ学塾

一、郷学
 藩末より明治初年にかけ、全国各地に学校組織を整えた公立または準公立の教育機関があった(ただし学制に基づくものは除く)。これを本書では郷学と総称することにする。越中国では各郡に次のような郷学を設けていた。
@砺波郡
●教学所 明治二年十月郡治局の内意を受け、御扶持人十村一同が郡治局より創設費千七百文と学舎買入費千七百文を借りて足軽小頭中島弥三平宅(屋敷坪七十歩、畳数五十畳)を買い入れ、学校を設立する。
 河村源助等六人が主付になり、般若野村下山田の河合平三を講師、以下助教・句読授方・筆生役を置く。句読授方には後に越中自由民権で活躍する島新の島田孝之もいた。教育は素読と講義を通して行われ、算術は三年七月から教えた。また本願寺関係の随喜講出目銭と生徒の月謝(一季百匁より五十匁、都合により身分に応じ出金)を資金源として運営されることになっていた。
 生徒数は翌年夏頃を最高に以降減少を辿る。そうなると運営に支障が生じ存続を問う声が出る。意見は縷々あったものの、結局四年十二月閉鎖を決め、借用金は学舎を売却して返済した。
●郷学所 明治二年、福光村新町有志が資金を出し合い、金沢藩の公許を取りつけ学校を設立する。その前身は石黒氏城跡の字館跡右京亮屋敷空地の宮永家私塾栖霞園にあり、隣接地を使って校舎を拡大し、かつての宮永家門弟を収容する。また新たな生徒も募集し、「農業稼方之障ニ不相成時節年若之者心得之為読書為仕度」隔日に素読、三・八の日に連講を行った。
FI2442400_0E.jpg
『福光町史 下卷』
いつごろまで継続したのか不明だが、廃藩と学制発布の中、その役目を終えた。
●申義堂 今石動町では上田作之丞耕(天明七年〜元治元年四月十一日 字叔稼、竜郊、竜野、幻齋)が督教となり文政の頃今石動奉行所の後援の下、学校を創立した。孟子「謹痒序之教申以孝悌之義」から「申義堂」と命名され、与力、足軽はもとより、町人も講義を受けた。学校に掲げられた木額は今も石動小学校にある。上田耕の学風は実用を尚び経済を宗とし書冊を斥け時事を弁論する、というものであり、元小松習学所教授兼藩老本多氏儒臣という公務を退き、野の儒者として藩の要職にあった門弟を通じて藩政に影響力を有していた。この一派を世に黒羽織党という。授業は天保の頃まで継続している。
A射水郡 
●修三堂 高岡町では学問が盛んで、多くの学問所が設立されていた。修三堂(すすがや)もその一つで、富田徳風を中心に、内藤王福、宮崎雪香(室屋次太夫)、大橋侗齋、氏家玄兎(関屋)、佐渡金作、篠原花径(増山屋善兵衛)、粟田秀勃(小間物屋勘右衛門)、市山青羽、田代朴明(棚田屋小兵衛)、藤村壷仙(開発屋庄右衛門)、鷲十(鷲塚屋本家大橋十衛門)、井又(井波屋又七)、蝋七(蝋燭屋七兵衛)、長崎蓬洲、藤田千城(広瀬屋八兵衛)、室屋素千(平右衛門)、飴屋二峯(清左衛門)、石川牛窓(新保屋次郎右衛門)、桑屋尭民(梅染屋源三郎)、後藤白雪、岡嶋玄隆、沢田涼河(沢田屋藤兵衛)、横山雀梅(米屋伊右衛門)、富田春呉(平田屋善左衛門)、津島鷲橋など多数の賛助者を得て、文化三年に設立することにした。影無坂下関村領百余歩を借り受け、三月四日に高岡町奉行所の許可を得る。六日手斧初め、五月一日落成し、三日に開講式を行った。式典には、海保青陵が招かれ、聴衆六十三人の前で論語学而編を講じている。学校掲額三枚の内「修三堂」の題字は皆川淇園、「修三堂」と「求益」は海保青陵の手になるものである。
 堂則「修三則」は次のように定められた。

一、盟外之面々たり共、いつれの先生を招請し此堂へ来会せんとならは、随分御かし申へし
附、席料等かたく不納、聊も勿掛念
一、毎会当番の方、門符を以て、冬青園に鑰を御かり請、堂上よりして茶碗、灰吹、雪隠并定交門外求益坂下ニ至るまで掃除、且退席の跡不作法ならす、火の用心最肝要
一、空心之節持参弁当の外、割烹の設かたく無用之事
右悉知
 執事

 運営は堂経営方主附に室屋素千、飴屋二峯、津島鷲橋が当たり、主宰には富田徳風が就任する。同十四年の徳風没後は茶木屋庄三郎が任じられた。講師には、手島堵庵の門弟脇坂義堂(〜文政元年)を招き専ら心学を講じた。
 富田徳風こと横町屋弥三右衛門の祖は越前朝倉家の臣で、前田利家に仕えた後に利長に従って守山城に入る。その際、横の町に住んだため横町屋を屋号とした。高岡守山中町に移り町人になる。慶長十五年には三人の宿老役(町年寄)の一人であった。そこから五代目弥三右衛門可氏(号震風)は、三十年間町年寄を努め、学殖深い人格者であった。元禄九年六月に子孫へ「座右慎宝」三十七ヵ条を残し、これは徳風により『宜深誌』(二巻)として発刊された。九代目が弥三右衛門美宏(字子順 号徳風、松齋、冬青、晴雪窓、幸廼屋)で、明和三年九月に生まれ、寛政九年町年寄になる。文化九年三月苗字を許され、富田を名乗った。文化十四年二月(富田家文書では正月)五十二歳で没した。
 茶木屋庄三郎の祖は朝倉教景の次男小右衛門栄景で、近江で真野家の養子に入り、永禄十三年の姉川合戦の際に前田利家に従った。朝倉の旧姓が日下氏であったことにちなみ日下を名乗り、晩年高岡に住む。養子の右衛門正栄の妻は富山の、茶ノ木屋出身のため茶木屋を屋号とし、元和六年十月に町年寄として町人になった。九代目が庄三郎で、先代右衛門の養子として横町屋より入った。つまり徳風とは縁戚関係にあったわけである。町役人・町算用役を努め、狂歌や俳諧を能くした。修三堂を主宰し、天保二年四月二十三日に没した。
 さて、修三堂の活動として後世に残るものに『修三堂湯話』三巻と別巻一巻の編纂がある。これは高岡に伝わる孝子節婦等の善行美談を集めたもので、文化四年十二月付の富田徳風序文がある。「節女きみ」「動地六兵衛」など百人の話が平易な文で収録されていて、現在も読むことができる。
 学校は天保の頃までは存続していたと思われる。跡地には大橋侗齋が建てた孝子六兵衛の碑が現存している。
●敬業堂 文政四年六月から天保九年七月まで高岡町奉行を勤めた、大橋作之進成之は、大火災や大凶作の中にも教育が必要であることを痛感し、文政八年に関野神社前にあった詩亭(詩を詠みに来た人の宿泊施設)養老軒を改築し、学校を建設する。堂名扁額は村井豊州(八家で海保青陵の影響を受け藩政に当たった村井豊後守長世か)に依頼し、桑山玉山(梅染屋武兵衛次)を主事に任じて、富山藩より小塚南郊を講師に招いた。十一月一日に開堂式を行った折は町人子弟に孝経を論じられ、町奉行が臨席して激励している。翌年二月には文宣王(孔子)を祭り、明楽を奏した。梅染屋の祖は越前出身の桑山二右衛門玄慶で、兄の知広は千二百石の旗本になっている。御用染物業を請負い、十一代目の当主武兵衛次は道具屋肝煎や御荷物宿を引き受け、文政七年に償銀十枚を受けた。
 しかし奉行が転任した後次第に衰微、廃校になったようである。
●高岡学館 明治元年十二月高岡町奉行土肥隼之助と井上七左衛門は、青少年教育のための学校を創設することを企図し、町奉行公邸に学舎を建てることにした。さっそく町年寄大橋与三市、服部伝兵衛(天野屋)、富田本次郎(平田屋)、津島玄碩、佐渡養順、服部修徳、上子元城、長崎言定、絹屋権九郎を招いて準備を命じ、十三日より数次に渡り服部(天野屋)伝兵衛宅で協議を重ねた。十七日には町会所で句読師の採用試験が行われ、次の六人が合格する。
塩屋喜三次 大学を担当 先祖は鶴来の出身で、津田姓。屋号を鶴来屋とする。高岡百姓町(現横田町)に移り代々弥右衛門を名乗り、三代目が弥右衛門喜三次である。字は操、子薫、号は半村、鶴堂、松齊、寿芳園。寛政九年中川の南家に生まれ、文政の頃に、当時酒造業を営んでいた津田家の養子に入るが、二十七歳で養父を失った。専龍寺の顧行に経文を教わり、島林文吾(号雄山)に詩文を学んだ後京で頼山陽に師事する。書堂を棲鳳楼又は清足軒という。嘉永元年十月十日に山陽の三男三樹三郎鴨崖が高岡の町で国事を議し、小杉の自家造酒屋で宿泊している。また長崎浩齋らと漢詩吟松映房社を興した。更に町算用聞並祠堂銀才許を努める。祠堂銀才許とは瑞龍寺の祠堂銀運用役のことで、当時瑞龍寺は年一割の低利で町民に融資し、寺の財源確保と町の商工業の発展に寄与していた(利息の二分が才許人の手数料で八分が寺社奉行所に入った)。天保の頃には茶苗を宇治から取り寄せ、栽培している。来訪者が多く、、広瀬旭荘が来た際、潤筆料があまりに高いため、「旭荘ではなく欲荘だ」と言った逸話がある。明治四年二月に没した。娘幸子は高峰家に嫁ぎ譲吉を生んでいる。
中条屋六郎右衛門 中庸を担当 初代は砺波郡中条村より高岡に移住した。川上を姓とし代々横目肝煎や肝煎を努めた。六代目の実家は高原屋久左衛門季衡で三男(長男は文九郎)。三六宜方と称し、幼名は寅乙、字は士正、号は達堂、滄洲、仲慮。親類中条屋川上家に入り、六代目を嗣いだ。天保元年三月五日に生まれ、町肝煎や町算用聞並を努めながら、勤王の活動家であったため元治元年八月十五日に捕えられ、金沢で投獄されるが、瑞竜寺橘仙が高岡町にとって欠かせない人物であると弁疏したため一ヵ月で許された。明治五年には第十七大区副市長兼戸長に任命されている。御馬出町より維新後は袋町、坂下町と移り、三十年九月八日に没した。六十八歳であった。
平田屋五左衛門 孟子を担当 本家は鴨島で酒造業を営んでいる富田家で、天保七年二月に町年寄となり祠堂銀才許・蔵宿を努めた善左衛門の、妹婿が五左衛門である。安政七年には十六歳で、町肝煎列役所手伝となっている。
高原屋文九郎 孟子を担当 先祖は飛騨高原城主内匠頭重綱で足利義尚に敗れて逃亡し、越中国三本松で沢田孫右衛門を名乗る。五代目久左衛門が高岡に移り逸見と改姓する。沢田家は弟が嗣いだ。高原屋を称し、代々蔵宿で町役人を務め、十四代目が文九郎(又一)在綱である。号は方舟、舫斎、文政八年に生まれ町肝煎を努める。勤王開国を唱えて志士、小川幸三忠篤 と親しくするが、元治元年八月十五日に捕えられ、金沢に十月二十六日まで投獄されている。妻は山本道斎の妹、妹は長崎浩斎に嫁ぎ、弟は中条屋に養子へ入った。明治八年五十二歳で没する。古城公園御竹薮に川上宜方と並び碑が建てられている。
絹屋権之助 孟子を担当 源平板屋町の代々商業に従事しながら、六代目笹原白年は寺子屋を開いた。その養子は権九郎辰省で、号は北湖。寺子屋も継承し、高岡に東西の小学校ができた折り東の校長に就任した。辞職後も教育に従事し、明治十九年十二月に七十六歳で没した。子息が権之助遂(初名は孟省、号は青軒)が句読師に任じられ、西の小学校長に就任している。二十三年十月に五十九歳で没した。 
棚田屋ェ六 中庸を担当 御馬出町で商業に従事する。安政五年四月六日に町頭となっている。
 二十日に職員を任命した。

 督学五名:大橋七右衛門、岡本清八郎、大橋与三市、服部伝兵衛、富田本(元)次郎
 講師六名:津島玄碩(七十四歳)、上子元城(六十三歳、医者で漢詩人)、佐渡養順(四十九歳)、長崎言定(四十九歳)、服部修徳(四十五歳、医者で荀子に精しい)、絹屋権九郎(五十八歳)
 典籍兼度支三名:石川次郎右衛門、石瀬屋与七郎、三木屋半左衛門
 句読師六名
 典礼二名:室屋小右衛門、三辺屋宋四郎
 書記三名:米屋豊蔵、竹村屋義太郎、関屋平左衛門

佐渡家 先祖は止観寺城主建部佐渡守と伝えられ、慶長十四年に井波から高岡下川原に移住し、その後利屋町に移って医院を開く。四代以降は佐渡養順を襲名し、八代目は出産時の家伝薬「養順湯」を調合したことでも知られている。子息は全て医者。九代目を継ぐ長男は三良で、天保十三年二十三歳の時に昌平黌で学んでいる。次男は将軍家奥医師坪井信良。以下九鬼秀達、建部賢隆、阿波加脩造。
長崎家 先祖は荻原氏。長崎で蘭医を学び長崎医者と呼ばれたため、長崎姓に変えた。代々ゲンテイを名乗り、四代目が玄庭(号蓬洲)、五代目が愿禎(浩斎)、六代目が周蔵言定である。玄庭は明和二年に富山藩士吉川唯右衛門敬明の次男に生まれ養子に入る。十二歳の時に医者松田恕謙(李安山)より大成論や十四経を学んでいる。次男で家を継ぐ浩斎は鳥山屋で学び、また書を研鑽した後に、文化十四年十九歳の時に江戸で大槻玄沢に入門した。更に杉田玄白の子息立卿に就いて研学する。高峰幸菴にも学び、その縁で幸菴は高岡に移住する。富山藩の市河父子にも師事し、書斎誠意堂(五泉堂)で漢学を教授する。有磯神社上田悌信も門弟である。元治元年六十六歳で没した。言定、後の正国は維新後に子息元貞正路に家督を譲り、国学の研究に傾注する。明治六年に射水神社祢宜となるが、翌年八月四十八歳で没した。次男は富山藩大参事林太仲(母が浩斎の娘)の養子に入った忠正である。
服部家 先祖は美濃国郡上郡服部甚吉連久で、前田利家が越前国府中に在城していた時に仕える。利長に従い富山に来るが致仕して天野屋三郎右衛門を称して、御用商人になる。高岡移城に伴い御馬出町に住んだ。伝兵衛は寛文元年に由緒町人になり、四代目伝兵衛は正徳元年御本陣の仕事を賜った。嘉十郎伝兵衛は十三代目である。弘化二年八月九日に三郎左衛門を父に生まれ、孝経・詩文・画・教書を学ぶ。明治元年に家督を嗣ぎ、三年第十七大区々長として貧民救済に努め、五年に郷長兼戸長に就任し、 八年に古城の公園指定を鳥山敬二郎(天保十三年〜大正十五年、後の衆議院議員、高岡市長)や藤井能三(弘化三年〜大正二年)等と共に成し遂げた。しかし華やかな表舞台と家庭は違った。二十七歳の時妻が二十一歳で亡くなり、三年来盲目になった父を十一年間世話をし続けた。自身も肺結核に罹り、十三年三月二十七日三年の闘病の末没した。三十四歳であった。昭和三十年に公園内中ノ島に頌徳碑が建てられた。ちなみに服部南郭(天和三年〜)は二代目三郎左衛門正和の孫である。
服部修徳 医者で儒学を修め、鶴吉とも称し、号は鶴翁・笑鵬亭・治鮒堂。書を講ずるに机上常に本なく其一字を誤ることなし、と評され、詩もよくした。四十歳で夜盲になるが、火事の際に近親の目が不自由な人に背負われ、後庭の小川を渡って避難したことが、当時の高岡で話題になったという。明治十年九月十一日に五十五歳で没。
津島家 医家である。元俊祇董(元禄二年〜明和三年十一月、号景三、三省斎)は京で向井元桂(?)に学び、元文三年十二月法橋の勅許を受けた。弟恒之進(号彭水)は京で松岡玄達に学び、本草学で有名。大坂で宝暦四年十二月に五十四歳で没。元俊子息は景俊(号氷水)、子の玄俊(号鷲橋)は池田錦橋に入門、人格の高さは『修三堂湯話』(『高岡湯話』)が賞める程であったが文久四年三十七歳で没し、その子息猪吉(号帆斎)も大坂で学ぶが、文政七年に二十二歳で早生した。そこで玄俊弟玄逸(安永七年〜文政十年、号竹山、藤樹園)が嗣ぐ。京の法眼山脇道作に師事し脈理に精通するとともに詩も能くした。長男厳俊(号橋東)も詩に優れ著書や詩集があるが、天保十年に早世したため、次男彦逸(文化十年〜文久二年閏八月、号北渓)が嗣いだ。江戸で増島蘭園や小島葆素に学び、著書も多い。叔父元桂(号北岳)も医術を学ぶが、伏見で河田伏水に就いて剣を修業し、江戸で道場を開くが病気で帰郷の途次越後で没した。二十六歳であった。同じく玄勇(号栗斎)も本草学や詩に優れていたが文政四年に二十九歳で没した。
上子家 農家であり、本家の鴨島村三右衛門分家の桃園は商人になった。画が趣味で、子息元城にも画を学ばせるが腕白であり、人の勧めもあり金沢の藩医内藤元鑑に就けて医術を学ばせた。その後、江戸で朝川善菴、大垣の江馬春齢、京の山本永吉や小石元瑞などにも学び、漢蘭兼学した。妙人であり、長崎浩斎等と交流するが、浩斎より前に没した。その子元城(号坦菴)は幼い頃より津島北渓に託されて嘉永七年江戸で御典医小嶋春折に学ぶとともに、眼科を渡辺雄伯に入門した。安政四年に帰郷する。

 明治二年十一月句読師を増員し、新たに五名を任命した。喜多康庵(四十三歳)、沢田早雲(四十二歳、医者で経義に精しく石崎謙の妹婿)、稲浦昌伯、蕭庵(養徳寺)、山本一覚(道斎の弟)である。後に加藤量平を追任した。佐渡養順は高岡学館に朱子の小学首篇から採って立教館の別名を付けた。授業程度は高く、町の上流子弟が通っている。いつまで継続していたかはよく分からないが、四年四月に資治通鑑を購入し、その箱書きに高岡学館主附大橋与三市、服部嘉十郎、富田元次郎の名があり、その頃までは存続していたことを確認できる。
●習学所
 氷見町では元の風雅堂跡地に田中屋権右衛門等の有力町人の俳諧社中が中心に、藩から建築費に仕法銀を用いる認可を取り付け設立する。安政四年十月十三日織田左近家来の兄渡辺清軒が孔子像に焼香の後、大学の三綱領を講釈した。翌年一月十九日の講釈開きには社中の老若長幼三・四十人が出席している。二月十九日には論語の講釈(学而章巧言令色から三省)があった。講義概要は掲示され、学則の用も成したと思われる。
B新川郡
●矯風会講習所 新川郡には郷学は置かれなかったが、明治の御世も三十七年になって滑川の常盤遊廓で芸娼妓教育のため、警察の指導下検楳所に矯風会講習所を設置した。教師には坂下ヨシが就任し、毎週月・木・金曜の正午から二時まで、習字・算術・修身・裁縫を学ばせた。運営費は生徒の授業料と廓内楼主の負担であり、六十人が通っていた。
C婦負郡
●共立義塾 富山市餌指町宣教館(中教院)が新設されたところに、明治六年二月(五年の説もある)共立義塾が設立された。規則は次のように定められている。

 一、入塾ヲ望ムモノハ組合ノ連印ヲ調ヒ組合長印証ヲ出スコト
 一、金銭ノ貸借ヲ禁ズル事
 一、金銭ノ貸借ヲ禁ズル事
 一、疾病七日以上荏苒スル者外宿スル事
 一、総テ各室ヘ他客ヲ招クベカラサセル事
 一、門ノ出入ハ朝第八字ヨリ夜第八字ヲ限ル事
 一、他行ニ日数ヲ費ストキハ其由ヲ塾長ヘ届ケ許可ノ上滞留スル事
 一、各々行状ヲ正シク身体ヲ清潔ニスル事
 一、畳ヲ焼キ或ハ戸障子ヲ破壊スル者ハ償ヲ出ス事
 一、日課ハ講堂ヘ掲示ノ通行得ベキ事

 山田清純や渡瀬恒時等が講師になり、全寮制であった。教科は漢籍の素読・数学・習字であり、月謝 は一円五十銭で食費を含んでいたが、当時にあって高額であった。
 しばらくして士族の有志者で変則中学校を梅沢町の大法寺に開設し、岡田信之等により皇学・漢学・洋学・数学が教えられる。そこで共立義塾はここに合流した。
●女紅場 明治九年十二月桜木町八十四番屋敷遊廓芸妓への教育のため、女紅場が設けられた。習字・読書(小学読本等)・算術(和算)及び裁縫・機織が教えられ、午前九時から午後三時まで開かれた。休みは祝日と毎日曜、教習期間は一年、月謝は毎月四十銭であった。旧藩士大沢弘道が九月に棟取に任命され設立に当たった(十一月第三大区区長に就任)。
二、私塾
 寺子屋が幼少者を対象に、主に習字を通じて読み書きを教えたのに対し、青年層を対象に漢籍等を講義・素読する非公立の塾を、本書では私塾と呼ぶことにする。したがって女子のみの裁縫・礼法専門塾は除いた。
@砺波郡
●栖霞園 郷学の所で記したように、福光に設立した教学所の前身で、宮永氏の私塾である。
 宮永氏は平安初期の鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、十代目七郎国貞が加賀国石川郡宮永村(現松任)を領し、宮永を姓とした。子孫の正意は寛永四年に母妻と越後国の親族を尋ねる途上、砺波郡の安居(現福野)の安居寺に詣でた際、住職の学遍に請われて砺波郡下川崎村(現小矢部)に定住することになる。これより五代目十左衛門正運(享保十七年正月二十五日〜享和三年六月)が宝暦十年に山廻役、砺波・射水両郡の蔭聞横目役、天明四年三郡の産物裁許兼役に就き、産業開発に尽力しつつ本草学に通じ、安永八年朝鮮人参を試培、天明三・四年大飢饉の時に代用食を調査する傍ら、和歌・連歌・俳諧・詩・茶等に通じた才人であった。多くの著作の内、『越の下草』は図書館で読むことができる。
 子息正好も山廻役や新田裁許を努め、著述家でもあり、家財減少の中にあり父の業績を整理し発展させた。
 正好の十一男一女とも学問に優れ、国学を学び勤王の志が篤く、その三男が幼名坦、成人して直三郎で、菽園と号した。十五歳で礼記を独力で読破し、文化十年二十歳の時、京で三宅橘園から経典と皆川淇園の書風を学び、頼山陽と交遊する。その後大坂で、篠崎小竹に師事し、江戸で佐藤一斎と交わり、天保九年に小竹の推薦で熊本の細川家に仕え、大坂で経学を講じていた。嘉永六年に帰郷するが、福光で 前村礼造と普言、甥謹堂等の有志により学問教授を請われる。福光城址右京亮屋敷に小亭栖霞園が建てられ、そこで経学・詩文を教えたが、慶応三年に七十三歳で没した。
 四(五)男通称川崎大(才)五郎、字渕晦、号虞臣 大法寺沙門釈渕晦躍龍こと半仏道人は、幼い時から体が大きく、兄の菽園や弟の暘谷とともに三宅橘園に学んだ。江戸で延岡藩内藤家、後に播磨国で竜野藩に仕えるが、老臣と対立して揖西郡善定村大法寺で剃髪し、赤松氏城址の大倉山で数か月修業を重ねる。一橋家から招請を受けるがこれを断り、天保七年大凶作の折に姫路へ行って施しをした。また紀州高野山で学問し、半儒半仏の思想を構築した(半仏の号)。天保十四年に一旦帰郷するがすぐ上京し、西国へ出立した。嘉永二年に帰郷して前村家の別宅に住むが、翌年に加賀藩儒者大島氏に請われて金沢の龍造寺に逗留する。帰郷後はようやく腰を据え、栖霞園で兄とともに訓育に励むことわずか、安政二年四月五十九歳で没した。
 六(四)男東作(号暘谷)は文化十二年に金沢で医学を修め、福光の医師有沢東海の養子となるが、養父没後に実家へ戻り、京で三宅橘園に学んだ後、江戸で医術を学びなおして帰郷した。貧乏人には無料で診察したという。弘化三年に没した。子息は勤王志士宮永良三で、天保四年生まれ、十四歳の時に医者修業で上京し尊王攘夷の思想に染まり、志士として行動する。慶応三年十二月二十五日捕縛されるが病のため(拷問を受けたとの説も)、自宅に戻されるが亡くなった。三十五歳であった。
●その他の私塾
 礪波の杉木新町で、武部堅(天保七年〜明治十九年)や石崎吉三郎等により漢洋義塾が設立される。両人とも地元の有力者である。武部堅の父は十代目与一郎で天保十三年山見村十村に任じられている。嗣いだ兄尚之(文政十二年〜明治四十四年)は石川県会議員として分県に尽力し、富山県会議長にも就任する。堅も石川県会議員と富山県会議員に選ばれた。養子の其文(文政二年〜昭和四年)は兄の次男で、後に衆議院議員となった。塾は学制頒布に伴い閉鎖されたようである。
 井波町では安政年間に金沢の堀川餌指町に住む浪人で医者ともいう田川才助が寄留し、漢籍を教えている。田川は天保八年六月町奉行に飢饉対策の意見を提出し、海保青陵の『経済話』を推薦した人物である。慶応年間には瑞泉寺十八世勝智(号應正院)が、美濃国原見郡佐波村観音寺住職で儒学者でもある小川元永(号大夢)を招聘し、漢籍や歴史の講義を行った。他にも福岡町上向田の斉藤蔵摂が明治四年に漢学塾を開いている。
 学制発布後は福野町の崎良平(医者)や杉坂敬一(明治六年十月福野第一小学校訓蒙心得)が青年を集めて開塾し、井波町の高瀬神社では金沢士族の野本和彦により社務所で和歌や洋学の講習会が開かれた。また明治十七年にはここで井波と福野の有志十九人が日曜協会を設立し、九月の第一日曜から十九年八月の第四日曜まで満二年間経済・法律・物理・簿記を学習している。崎良平(号缶・九竹・芝水・天愚道人)は福野町川崎屋清兵衛三男。六歳で町の識者西島屋大観と上保柳渓に四書五経を学び、その後宮永菽園や佐伯櫻谷に就き漢学を修める。天保十四年九月京の村田誠斎から内科・産科、紀伊出身の須藤氏から皇漢薬、天文地理学も学ぶ。嘉永四年に帰郷し、本福寺で芝水亭を設けて漢学などを講じ、二日町でも四書五経の素読をする。門弟には衆議院議員西能源四郎もいる。詩や和歌・俳句も能くし、明治以後は小学校建設に尽力した。三十七年二月七十九歳で没。
 今石動では申義堂の督教上田耕が、安政元年に鉄砲町の松永家邸宅で私塾を開き、漢籍を講じた。しかしその直後の六月失脚し、藩から毎年銀十枚を給されることと引替えに金沢より他郷に出ることと門弟教育を禁じられる。文久二年に解禁された後、度々今石動で講義を行った。
 光願寺の養宇徳称(文化十〜明治十二年四月)も地方青年の薫陶指導に努めた。
A射水郡
●小杉の私塾 藩政末期に東町の石川忠義(号乾山)や金山の金森暁山は、漢籍・算学・習字を講じていた。乾山の門には海軍主計中将刑部斎(下村出身)、小杉町長片口安太郎等がいる。
 暁山は祖先が飛騨高山の金森氏で、代々山廻役や新田裁許を努める家に生まれている。今の小杉小学校がある場所に塾を構え、文明開化の思想を先取する講義内容であったという。
 また開発屋に木蘇大夢が寄寓し、漢詩を講じた。これを契機に毎月三日詩会を催すことになり、月三吟社と名付けられた。嘉永元年には頼三樹三郎が小杉新町に来ている。
 明治十年には小杉新町に漢学塾不朽義塾が設立された。松長豊吉、松長太作、藻谷伊太郎、佐渡美成が講師を努めた。
●下村の私塾 表石二郎(安政五年〜大正五年)は、九歳の時より四書五経、算術、測量学を学び、学制発布後は白石小学校で教えた。また二毛作の試作や立山測量にも従事する。更に夜学を開いて、村人に文字や珠算を教えた。今も村全域の地図、書籍及び文書が保存されている。
 摺出寺村の漢方医熊西宇兵衛(号龍庵)は経史を講じ、広瀬太左衛門等が学んだ。
●新湊の私塾 明治の初年に、泉田又右衛門、内藤欽二、山本瑞圓といった識者が集まり、漢籍、英語、算学を教えた。瑞圓は光明寺十二世住職で、哲学や経済学にも通じていた。
●氷見の私塾 氷見町では神職の活動が目立っている。大森定久は文化三年に泉村の神官大森定経の子息に生まれ、若年で家督を相続し、従五位下出雲守を称した。安政四年に高岡関野神社関守一等と山城国向日神社宮司で平田篤胤門下の国学者六人部是香に師事し、六年三月帰郷すると私塾梅之舎を設立し、青年有志に復古神道を基とした、国体の尊厳、尊王の大義を説いた。明治二年から六年まで、神仏分離令のため神主になった元僧侶の教育のため、能越各地に出向いた。二年八月より十一月まで能登一ノ宮気多神社、三年三月から立山雄山神社、四年三月から能登気多神社の権宮司に就任、と多忙を極めた。その後ようやく帰郷し、自塾で国学や歌の道を教え多数の著書も残す。明治十九年に八十一歳で没した。
 平井正明は仏生寺御田神社の神官を代々勤める家に生まれ、幼名を甲太郎という。兄の正武(文化五年〜安政五年)は文政六年に家職を継ぎ、陸奥守を称して北信越七ヶ国を廻り平田派国学を広めた俊英である。藩主前田齊泰御前講義を行い、金三枚を拝領してもいる。
 正明は郷里の生んだ剣聖齊藤弥九郎を慕い、江戸練兵館で文武を修練した。帰郷後には能登国田鶴浜に神道無念流の道場を開くとともに、仏生寺の自宅に白檮之舎を創設して国学を説いた。門弟には多くの神官が育っている。自身も天保三年に兄より家職を譲り受けた。
 子息正承(文久元年〜昭和二年)は高沢瑞穂に学び、明治六年に新川師範学校に入学して第一回卒業生となる。その後、本居宣長の曾孫豊穎に入門して国学を学び、仏生寺一栄校の教員に就任している。昭和五年に頌徳碑が建てられている。
 高沢瑞穂は『友之舎家集』を著した神職秀足の子として文政五年六月北八代で生まれ、幼名は司馬之助。五歳で父を喪った後に叔父に養われ、江戸で平田篤胤の養子鐵胤に学ぶ。漢字の送り仮名の研究を専門とし、大森定久や上水友之とは同志の関係であった。弘化二年に帰郷した後は越中、下総、相模で神職を歴任し、明治二十二年間島に鞆之舎を設立して国学を講じると、県内各地から門弟が集まった。著書も多く、囲碁を余技としていた。三十年二月十四日に七十五歳で没した。
 子息瑞信は弘化元年九月に生まれ、神道無念流を平田正明に就いて修業する。国学を本居豊穎に学んで、明治五年三十五歳の時に七尾県の神社係に就任した。万葉集を研究し『萬葉越路栞』二巻を著している。その後八代や余川などで小学校長を歴任した。大正四年没。
 上水友世は文化八年に十二町の神職吉川家に生まれ、長坂の神職上水家の養子に入った。文久二年に上京して復古神道を学び、帰郷して鹿之舎を開いて青少年に書を教えた。御家流とは違う書体であったという。
 子息友之は江戸の平田鐵胤に和歌と書道を学び、帰郷後は書物を見て「伊須流伎薬」を作り、種痘を施した。祭政一致の思想を説き、廃仏毀釈に熱心であった。遺稿『桃樹栞』がある。
 漢学者の私塾もあった。阿尾の嶋尾三郎は嘉永二年に生まれ、高沢瑞穂の門弟桜井兵部に国学を学んだ。長じて本居豊穎(東宮侍講)に就き、後年に豊穎は嶋尾家を訪れている。北立自由党に参画し、県会議員に選ばれる。湘月と号し、明治二十三年に政界引退後は俳句や茶の道に生き、漢学を自邸竹浪軒で講じた。四十一年五月二十日に六十歳で没する。
 南上町の十五代宮永善左衛門は専業で漢学塾を開いていた。天保から明治初年にかけ大勢の門弟を抱えた。碑が上日寺にある。謚は叔與居士。寺子屋としても機能していたようで、天保五年から慶応にかけ四百九十七人の名があり、珠洲から一人、氷見の村部から十九人(寺社子弟)が来ていた。女児は三十人である。入塾者を集計すると、一月二十七人・二月百十三人・三月四十五人・四月四十四人・八月四十一人・九月二十六人である。
 西井俊造忠は文化九年に大聖寺藩士山口良太夫の子息に生まれ、岐阜の明善院で眼科を学び、京の小石元瑞に就いて蘭方を修める。越前藩医になるが、やがて辞して氷見に開院する。弘化二年には再度上京して元瑞に学び、嘉永三年黒川良安の勧めで種痘を行った。この種痘法は人種痘法というものであった。接種して数日後に針で痘を破り、その膿液を針に塗って児童の尺骨静脈に刺し、上を綿花で覆って包帯をする。七日目に種を取り膿液を採取して別の人に痘苗を移す。この時はまず長崎の頴川四郎八が孫に接種し、桐山天中の三歳になる万治郎、京の日野巫哉、福井の笠原良策、黒川良安、西井忠へ受け継がれている。字を快安、号を三谷といい、詩を吟じ、文人墨客との往来が多く、漢詩を講じた。また明治十二年には致誠小学校初代校長に就任する。二十八年二月に八十四歳で没した。
 光源寺でも漢学を教えていたようである。町年寄で教養人であった田中屋権右衛門も夜学を開いていたようであるが、習字と算術であることから寺子屋に分類できるかもしれない。
 上田耕はここ氷見町にも講義に来る。天保十五年二月から弘化四年三月にかけ度々訪れ、孝子教、中庸、孟子、近思録、荀子等を、毎席十三・四〜十八・九人、最多三十二・三人を前に講じた。費用は弘化二年上田講を作り捻出する。この他文政十年と十一年四月・八月富山藩医で儒学に造詣の深い岡田随筌(瑞仙)は加納屋七右衛門方に招かれ論語・蒙求の会読を行った。天保五年十二月十日には本居家門人で婦負郡金乗坊の静教が来て、十人ほどを相手に百人一首と詞の読みを講じている。さらに林藤破(江戸で古賀精里に学び、明倫堂助教・侍講兼、天保七年八月五十六歳で没)が来たり、天保十三年閏三月富山藩士で書家・俳人成田梅甫(別号照翁)が来たので、人々は文・書の読みを尋ねている。また天保三・四年には田中屋権右衛門等による孟子の勉強会、安政四年長沢子謙等九人が一・七・十二月を除く一と六の日に書物講(懸け銀一会五分)を開いた。
 その他、稲積の浅野茅生、田子の細川菜庵、阿尾の安達松丘斎、乱橋の伊藤(糸)昇斎といった医者が、漢詩や書道を教えていた。脇の寺(明巌寺)でも仏島が漢学を講じ、門弟には中波の大西助右衛門がいる。
●高岡の私塾 高岡町では町人の文化活動が活発であり、規模の大きな私塾があった。
 文化十一年に町の指導者長崎蓬洲と粟田佐久間は富山の漢学者 島林文吾(この頃富山で私塾も開き、眼科として兄の跡に藩医を継承)招き、聖安寺中の安乗寺を借りて、孟子・唐詩選等の学習会を開いた。後に詩人としても名をなす長崎浩斎(蓬洲の嗣子)、粟田庸斎(佐久間の嗣子)、渡辺玄碩、松井藤馬(町奉行小堀八十大夫家来利(理)右衛門子息、昌平黌で学ぶが医に転じ後高峰幸菴の末期養子玄台、号犀江、悟門等)、内藤伊織、 佐渡竜斎(八代目養順)等がここで学んでいる。
 山本仲郎道斎(文化十一年五月二日〜安政二年十二月二十二日)の祖父道仙は加賀藩士を致仕し寛政三年に魚津町で分家開院。婿養子一覚(号樫園)が高岡町の片原町で開院し、その長男として道斎は生まれたが、請われて叔父藩医内藤玄(元)鑑の養子に入り、明倫堂に入学する。十三歳で藩主御前で詩経を講義し賞せられたが、城勤めを嫌い実家に帰ってしまう。昌平黌へも留学し、京で小石玄瑞に医学を学び、頼山陽に師事し、長崎でシーボルトに学んでいる。弘化元年片原町で開院し、嘉永元年三十五歳の折に蝦夷から北陸路遍歴中の頼三樹三郎が道斎書堂牛馬堂を訪れ、約七ヵ月滞留して時局を論じた。妹婿の逸見文九郎等も集まり、思想を堅固にしている。尊王志士藤本鉄石も来訪している。この牛馬堂で道斎は青年への教育に努め、日本外史等の輪読を行った。また著書『静思録』があったが、安政の大獄時に家人によって焼却された。四十二歳で没し、昭和五年に顕彰碑が日蓮宗妙国寺に建てられている。弟の甚造は三木屋寺崎家に入り市右衛門、宗春は兄に代わり内藤家に入って宗安(百五十石)、良順は松田家に入り眼科医の十代目逸斎、万春は家を嗣ぎ一覚を襲名して道斎子息道太郎(後に鼎)を養子にした。
 上田耕は高岡にもやって来た。弘化初年大仏裏地の桑畑を借り、町人教育のための学舍を建てて、桑亭と名付ける。結構隆盛であったが、藩政の関係で嘉永元年に廃された。
 豊後国出身の僧侶野上文山は、文久元年に高岡に来て二塚で養子に迎えられるがそこを出て湶分に居住した。漢詩に優れ、佐渡養順、服部周徳、原北朝、上子元城等の文人たちと交流する。その関係で明治五年九月に待賢室(坂下町西方寺横)の設立を申請し、青年教育に従事した。対象は第十七・十八区の十歳から十五歳以下で、塾には町内や近隣から有力者子が集う。堀二作、稲垣示、島田孝之、石上北天、原弘三、和田格太郎、寺野宗教、豊田拙荘、雄山慈眼、荒木岡三郎、内藤欽二、浅岡貫一、宮崎久など錚々たる顔触れである。朝五時から一時まで授業があり、一・六の日は休日にした。洋学を主とし英語、算術、地理、歴史、理科、習字といった学科を設定し、上級生が下級生を教える形態であった。中田の島田孝之は漢学の師河合神城に転学を勧められ入学している。通称あばら(湶)学校といった。しかし翌年に文山が没し、閉鎖を余儀なくされた。十七年に文山の碑が建てられた。
 回漕業や材木商を営み、山廻役に任じられていた鷲塚屋十代大橋十右衛門(安政六年〜昭和十五年、号二水。分家間斎の四男)は、明治十四年に越中義塾の創設に尽力し、十六年一月私財を投じ木町神社境内に期磨智小学校を建てた(小学校の扁額は前田齊泰の筆になるものである)。十八年に県会議員、三十五年に衆議院議員に当選し、二期努める(政友会)。四十一年政界引退後、開発町で漢学者の大伴学陽を招聘し、自邸で漢学塾を開いた。古城公園の御竹薮に碑がある。 
 明治十四年十一月には旧宮脇町に越中義塾が創設される。老田村出身で東京日報社に勤めていた海内果(嘉永三年〜明治十四年九月二日)は、同志と相益社を結成し「開化は参政に先立つ」と専商主義を唱えた。私塾の設立を図るものの腸チフスに罹り三十二歳で没したため、遺志を受け継いだ同志大橋十右衛門が中心になって、漢学者の園田朝弼と英語学者の和田正脩を教師に招いて開校に漕ぎ着ける。「越中義塾規則」の第一条には設立の目的を「當校ハ洋漢兩學ヲ修メント欲スルモノ々爲メニ必需ノ學科ヲ教授スル所ナリ」とあり、四書の素読が出来るものを対象にし、履歴書・小学校の卒業証書及び証人の保証状があれば入学が許可された。各学年の諸学科は次の通りである。

 第一年生
 第一期 綴書ウエブストル、第一読本ウイルソン 日本外史、文章規範 作文演説毎週一回
 第二期 第二読本ウイルソン、文典ピ子オ 日本外史、文章規範 作文演説毎週一回
 第三期 算術デビス、地理書ギヨー 日本外史、文章規範 作文演説毎週一回
 第二年生
 第一期 萬國史スウイントン、代数學デビス 史記、八大家読本 作文演説毎週一回但英語演説ヲ雑ル乁アルヘシ
 第二期 幾何三角術デビス、物理學スチュアト 史記、八大家読本 作文演説毎週一回但英語演説ヲ雑ル乁アルヘシ
 第三期 米國史アンドルソン、化學ロスコノ 史記、八大家読本 作文演説毎週一回但英語演説ヲ雑ル乁アルヘシ
 第三年生
 第一期 生理學ダアトン、文理學イエツケンボス 左伝、経書 作文演説毎週一回但シ英文ヲ雑ル乁アルヘシ
 第二期 星學ロツクヤル、修身學ウエランド 左伝、経書 作文演説毎週一回但シ英文ヲ雑ル乁アルヘシ
 第三期 地質學デイナ、米国史グリン 左伝、経書 作文演説毎週一回但シ英文ヲ雑ル乁アルヘシ 
 第四年生
 第一期 欧州文明史ギゾー、論理學ゼボン 作文演説毎週一回
 第二期 心理學ヘーブン、経済學フオルセツト 作文演説毎週一回
 第三期 代議政体ミル、萬國公法ウルセー 作文演説毎週一回
 餘科
 法律原料テリー、政事學講述、世態學ケリー、英文学デー

 英語は原書を用いた。一年を、九月から十二月・一月から三月・四月から七月、の三期に分け、午前八時より四時(正午から一時は昼休み)が授業時間であり、授業時間五分前には撃拆が鳴らされた。
 毎期末に試験を行い、百点中の六十点が及第点である。各学年は甲乙丙三組編成を取った。卒業後有志者は餘科へ進むことを許された。日曜と大祭日は休日である。
 入学者は八・九十人程であり、寄宿生徒もいて、投票で寄宿生代表の塾長を一名(任期一年、九月上旬に改選)選び、毎期が始まる時には幹事(職員)・塾長の指揮下で互室交代をした。午前六時起床、七時・正午・六時食事、門限九時と定められていた。
 入校束脩と授業料は一円、寄宿生徒は食費が三円(物価により増減あり)で、十五日前に入校者は全額、他の諸費は半額を納める必要があり、通常は授業料と食費を五日前に納めた。事務は幹事が管理する。教場・障子・器械等を毀損するものは修繕費を弁済せねばならず、飲酒・登楼・喧嘩等猥褻の場所に立ち寄ることを禁止された。
 このように官学に準じた内容で充実した教育を行っていたが、十七年三月の第二回通常県会で富山県中学校の分校を高岡に設ける決議を採択したところ、文部省は一県一中学校の方針を盾にこれを拒絶し越中義塾の存在を否定した。その上前年十二月の徴兵令改定で私立学校の徴兵猶予が廃止されていた。そのため生徒数が減少し、潔く九月の新学年は迎えないことを決めた。
旧砺波郡
 常国の医者松田竹次郎は文政元年二月に生まれ、土倉宗七郎の寺子屋に通った後、加賀藩儒者金岩善文に詩文を学ぶ。医術は父の成道に就き修業した。明治四年より自宅で漢学を教え、多くの門弟を抱える。二十三年に一旦単級小学校の教員になるが、医業に専念するため辞職している。
 下山田の農家河合平三(号神城)は、天保六年六月に伝右衛門の三男に生まれ、七歳の時に富山藩士近藤士専に学ぶ。九歳で藩主御前にて漢籍の講義を行い賞せられた。この時床飾の獅子頭石を拝領している。十六歳で加賀藩士鶴見小十郎に学び、嘉永三年京で梅ケ辻春樵に師事した。安政三年六月に二十六歳で分家し、混放堂を設立して農業の傍ら漢学を講じた。学舍は土蔵(五間×三間)の戸前階上(三間×二間)を用いたが、両側の小窓より僅かに明かりがさす一室であった。それでも門弟は多く、松田快禅等の僧侶や神官子弟、島田孝之や島巌、高畠孫次郎、武部冉(尚)志、大井長平、安念次左右衛門といった後に活躍する人材を輩出した。明治二年に杉木教学所の教員と戸長役に就き、翌年二月二十七日金沢郡治局直支配、六年より中田・頼成・東保新などの小学校創立係になった。十一年十一月二日、四十八歳で没した。
 戸出では、十村河合家十一代目又右衛門欽齊(文化四年生まれ、号雲溪)が瑞龍寺閑雲に書を学び、俳句も能くした。天保初年に浦上春琴が来遊したので、画を学んでいる。吉住村住人常木善増(蔵)は現高岡下関の書家泉伏翼に書を学び、伝授書を授かった。このような教養人を生んだに止まらず、明治元年竹村屋菊池重郎、吉田仁平等が中心になり、正義堂を設立する。
 菊池重郎逸斎(幼名珠洲之助、字則政、号復堂 松東)は天保元年六月二日に生まれ、父は寺子屋を開いていた兵三郎武邦である。弘化二年から嘉永六年にかけて加賀藩医吉益北洲に医術を学び、安政三年まで京で吉益南涯と宗晋哉に更に医術を磨いて、帰郷後に開院する。
 吉田仁平友信(幼名孝作、号琴堂)農家新屋久左衛門長男として、嘉永五年八月五日に生まれ、祖父で国学者の友香と富山藩儒三羽迂堂に学んだ。三十歳で父を亡くしたため、弟九人・妹二人を支える。
 正義堂典禮には「舊習の困弊を洗除し新奇の輕薄に汚染せず既往将来の形勢を考究し相倶に實着に切瑳するを専要とすべきものなり」とあるように志を高く掲げ、神明宮の辺りに開校した。教職員には、読司に菊池復堂と吉田琴堂、読司補に中野雙峰と苗加佳居、その下の社長には荒井君山が就任した。一・六の日に詩会、二・七の日に論語会読、三・八の日に孟子読解、四・九の日を温習に充てて、五の日を休日と決める。正月八日には発会を催して史記や孔子世家の講解及び告諭大意初篇と二篇の副読を行った。また上元の日には試毫会があった。入学生には僧侶の子弟が多く、二十人程であったという。明治五年の学制頒布で役割を終えたようだが、復堂と琴堂はその後も村町の発展に尽くし、三十年九月十日六十八歳、二十二年十一月二十四日三十八歳で没した。
 戸出の中正楽寺諄照を嗣いだ金石諄恵(文化九年五月二十五日〜明治二十六年六月十五日、字公恵、号萬壽院、山澤、柳屋、櫻屋、疎影菴)は宗学、聞香、品茶、書画、篆刻、花卉盆栽に通じ、寺務から退いた後、前庭の桜樹間に小亭を結び、訪れる人に請われるまま学問の相手をしていた。
 五十嵐孫作篤好は寛政五年十二月十六日内嶋村(現東五位)に生まれ、幼名小五郎・次に小豊次、号は水牛齊・香二瀬・蟹瀬・鳩夢・雉岡・鹿鳴花園、文化八年に九代目として十村役に就任するが、文政二年三月農村困窮の責任が十村二十八人に課せられ処断、父は四人の十村と牢死、自身も八月に十八人の十村と能登へ配流になったため、そこで伊夜比盗_社神職舟木連に歌を学んだ。翌年六月赦免、同四年三月復職、七月砺波郡総年寄役に就任する。本居太平にも歌を教授され、京の富士谷御杖を師に仰いだ。文化十二・三年頃には金沢を訪れた近江国の人望月幸智には言霊派文学の教えを受けたが、天保八年の大凶作の折に監督不行届で翌年七月に御役御免で二年間謹慎になる。この間妻を亡くした。安政五年六十六歳の時越中国に入った備後国福山の人千住弘太夫(海養亘)を泊め農業の新説を教わる。だがここにも落し穴が待っていた。流浪人の宿泊を禁じた法に抵触したのである。直ちに閉門を言い渡された。だがかえって学問に力が入り、歌を詠み著述も増えている。翌年に神道論を確立した『言霊旅暁』を著している。石黒信由にも就いて算学を学び、文政八年に允可を得ていた。安政四年十二月新器測量法に関する著作を刊行するが、算学を専門とせず、士分・僧・神官百五十人の門弟には国学を主に講じていた。門人帳には三州の著名人が名を連ねている。御家流の書は高田與八郎祐久を師とし、門弟には高岡有磯神社の上田伊豆守等がいる。閉門解除後は金沢との往復が多く、万延二年正月年賀で金沢へ行ったとき倒れ、二十四日六十九歳で没した。福町村(小矢部)影山直次顕吉と武部伝右衛門隣徳、井波の宇野貞十郎幸道、頭川村(高岡)吉岡虎次國子、木舟村(福岡)安宅長一郎貞賢等は算学の弟子である。
B新川郡
●滑川の私塾 新川郡では医者の活躍が目立つ。滑川では仙庵、杏順といった医者がそうである。他にも高月の専称寺住職玉木興隆や浅野永秀(明治六年九月滑川女子小学校訓導)、松村茂が藩政末から明治初年にかけて、漢籍を各々数十人の門弟に教えている。 
●魚津の私塾 士分荒尾作左衛門(七十石、与力)は上田耕に学び、文化十年田方町に漢学塾を開いた。天保十年頃隆盛を極め、同十四年には男子二十人・女子十人が在籍した。科目は漢籍・習字・算術である。塾は天保十四年に子息義一によって継承されている。
 町人五島宗八は京で学び、安政の頃に荒町で開塾した。門弟は三十人程で、漢籍・習字・算術を教えた(立山町の五島文栄との関係は不明)。
 同じ町内の飯野尚順は父の医業を継ぎ、漢籍に通じていたこともあって、万延の頃に開塾する。門弟は男子三十五人程で、漢籍を講じた。
 大町の医者阿波加脩造(号春塘)は高岡の医者九代目佐渡養順の弟に生まれ、親類の阿波加家(曽祖父宗順が阿波加李仙の弟)に入った。兄弟には坪井信良(良益、号柊里)、九鬼秀達、建部賢隆(光昭、天保元年十一月二十一日〜明治十九年八月三日、号琢斎、緒方洪庵の門弟)がいる。上田耕に学んだ後、嘉永六年大坂で春日寛平、渡辺太郎、広瀬謙吉より経史・詩文を、春日載陽、緒方洪庵、華岡準平より蘭医術を習得する。二十四歳で帰郷し、養父を助けて診療に従事する。安政五年のコレラ流行時には治療法の研究に努め、著書『虎路里贅語』も刊行している。その傍ら漢学塾を開いて教育にも従事する。まず三字経、千字文、孝経を学ばせ、その後に選抜者を四書五経、文章規範、文選へと進ませた。門弟数は明治四年頃に男子三十人であった。この年加賀藩の文学訓蒙に就任、魚津病院の副直を勤める。六年には学校教育にあたり副師範心得に任じられた後、明理小学校校長となる。また習字教科書を開発した。そこには数字の運用法を取り入れたり、日記文を導入部に載せ次第に段階を上げていく、といった工夫が読み取れる。二十七年には衆議院議員に当選し、大正五年八十二歳で没した。
 士分馬場三郎も漢学塾を開き、安政から慶応にかけ門弟二十人を教育した。
●黒部の私塾 生地では藩政末期に願楽寺で漢学塾が開かれ、弘文舍と命名される。廃藩後の明治五年に戸長上坂清三郎等が協議し、塾の継続を決めた。講師には亀田露月とその門弟上坂孫兵衛、鈴木宗順、習字専門の代用講師に東五左衛門を招聘した。翌年三月田村文平宅を改装して移転した上で、六月に精神小学校になる(前田侯爵の命名)。
●入善の私塾 舟見では相模国小田原出身の医者小林光随が諸学を講じた。論語「用之則行、舍之則蔵」から採って、かつ支那風に三文字で庭(丹羽)行蔵(号立訓堂)を名乗り、天保五・六年頃の年末二十七・八歳の頃に、寒中単衣一枚で大家庄柳田の森元貞を訪れた。二人は共に京で吉益東洞の門に学んだ仲間であった。郡年寄並役野島久兵衛も歓迎し、入善神社西南方の大根畑に式台付板葺吾妻屋を建てて住居を提供することにした。撃剣・弓術・易を能くし、やがてアヘン戦争の開始を当てたと有名になったため、これを訝った地元の医者古谷弘齊は、管狐を使って愚民を惑わす行為である、と金沢へ訴え出た。別件で尊王攘夷派梁川星厳等と文通したことが露見したこともあり、弘化三年夏に追放となった。肝煎役米沢善蔵、竹内四郎兵衛、組裁許十村役野島和七郎内手代沢谷善五郎も連座し、金沢の公事場に召喚され半年宿預けの判決を受ける。但し善三と善五郎は役義差支として執行猶予、帰村を許されている。扇谷要齊と長島武右衛門が越後の今町(現直江津港)まで見送るが、中島旅館で余興に船を浮かべ蝋燭の流し火をした所、多くの老若男女が見物したという。医者として調合した胃腸薬聖功丸は、明治末年に売り出されている。門弟には米沢与四郎、米沢耕太、只八一郎、扇谷要齊の孫与三九郎、野島親貞等がいた。
●立山の私塾 五島文栄(人物誌は不明)が明治以降も漢学を講じ、五百石大森村の酒井小平(松本開の開拓者で、明治二十一年に九ヵ村を五百石町として分離し自宅に役場を置いた)が、現在龍光寺がある所の北側に文學舍を設立し、村民子弟の教育にも尽力している。
 漢方医で代々肝煎を勤めた宮崎家(祖先は宮崎時範で、宮崎村から移り帰農する)の重右衛門は陽明学を講じ、門下に宮崎家の分家や隣村の浅生村伊七郎等がいる。
●新庄の私塾 現在富山市の一部を構成するが、藩政時代は加賀藩領新川郡の一部である。ここでは林周平(号周民、揚舟、王愛)が、明治初年に漢学塾を設立した。文政九年八月に周防国岩国で藩士の子として生まれる。高杉普作の奇兵隊に入隊したが、伊藤博文等と対立して脱藩する。豊後国竹田に四年間潜み、その後は耶馬渓羅寺に篭もり沈芥舟の画学編を学ぶ。越中入りして荒川四軒町に住み、神明町に開塾、詩も能くした。二十八年この地を去り、飛騨や伊豆田方郡函南村に居住するが、翌年の九月十九日に没した。
C婦負郡
●富山の私塾 婦負郡全ては富山藩領であり、城下の富山町では前章のように藩の儒官が漢学塾を開いていた。ここではそれら以外の私塾を記すことにする。
 上大工町には士分渡辺佐平太の塾がある。父左平太は寛政八年十月に幼くして相続、文政十年百石、天保六年正月百二十石になり、御歩頭・金穀奉行・御勘定奉行・御倹約奉行等を歴任している。佐平太がいつ相続したのかは分からないが、分限帳によれば安政七年二十九歳で、慶応三年には千石町に住んでいる(しかし明治二年の分限帳には佐平太清智が九十八俵・三十歳と記されている)。
 殿町には藩医真田見竜が開塾した。先祖は信濃国の真田家一門で、伊勢国より元禄頃に新川郡高江村に移って、高江姓に改め医者をする。延享元年富山藩の御匙役に取り立てられ、文政元年に真田姓に復した。見竜は見丈直當の次男として生まれ、天保三年正月に家督を相続する。天保九年時点で三十人扶持の御医者組本道、安政七年時点で四十八歳である。
 藩政末に九州で亀井昭陽と帆足萬里、長崎でも蘭学を学んだ高桑元吉(号金龍、雲峰)が殿町で家塾を開く。医学を専らとしていたかもしれない。坂本龍馬とも親交があったという。
 渡辺順三郎尚義は漢籍・詩・書を学び、停雲と号した。嘉永二年に異風組入りし、江戸で下曽根信敦の門で高島流砲術を学ぶ。帰藩後は砲術師範となり、半田甚左衛門と砲筒鋳造御用掛に就任し、大久保野で試打丁付、千石町に射的場を設置した。維新後には内用方議員に任じられる。廃藩の後師範学校教師に就任し、旅篭町に塾を開いた。
 成田道日徳(宝暦八年〜弘化二年七月二十二日、通称大二、号梅甫、春櫻、照翁)が漢籍や書を教え、氷見窪村の素封家で天文学者六田九左衛門(明和元年〜文政十二年、号布施神龍)も門人である。五歳で佐伯平蔵に学び、入江家へ養子に行くが離縁、十四歳のときに高岡町の道具屋の勧めで京へ出て書家の烏石に就いて書を学ぶ。三十歳で独自の書法を編み出し、著書も多かった。九十歳で京にて没。
また西四十物町に安達常規(天保十年十一月二十一日〜明治四十五年八月六日、号呉峰)が漢学を講じた。明治二十年頃富山師範学校で教えている。子息常正は栃木県師範学校長に就任し、号は九如。
 島林文吾(字季華、号雄山・林文)は代々二十人扶持の藩医(眼科)で、兄島林休意尚寛の養子になる(提出履歴には婿養子)。文化九年に相続し、御医者組、天保三年九月本道兼帯・御番入、文化頃に開塾する。高岡町の内藤王福と旧知で、同十一年に招かれ講義をした。高岡や氷見でも入門者があり、高岡町では津田半村などが門弟、称念寺懶外等とも交際があった。
 梅沢町に沢野氏が開塾しているが、詳細は伝わっていない。
 大塩平八郎の乱にも参加したという伊勢鳥羽出身の近藤士専(号・潜庵)が、嘉永五年四月に富山へ来て開塾する。陽明学と医学を専門としていた。旧姓は太田で、斎藤拙堂(名・正謙、字・有終、通称・徳蔵、寛政九年〜慶応元年七月十五日。昌平黌で古賀精里に学び、津藩の有造館で教え、洋学・種痘などを採用)に詩を学び、明治元年二月五十六歳で没。ただし下山田の河合平三の師であるとしたら、天保十二年には富山にいたことになるため、伝承に誤りがある可能性が高い。
 大野欽一郎の門人である家老・執政の蟹江監物基徳(文政十二年七月〜明治十九年十月十一日、号巻石、長爪、大愚哉)は二十歳の時から四・五年間、町の南郊の従野亭で入江事直明・千秋元五郎茂之と経史の研究をしている。
●八尾の私塾 町人文化が発展した町であり、東町で代々医者をしていた 摩島松南等を輩出している。
 大長谷村でも藩政末から明治初年にかけて青年教育が盛んに行われていた。山口太郎右衛門は算術と経済・社会の現況を年に数回教え、長谷川三四郎は地理・歴史の講話を定日行った。後に尊明小学校の習字教師になっている。喜多四郎左衛門は花房村で代々要職に就き、天保七年の大飢饉の時には野積谷農民の救貧に尽力する。天保末年には十村役に就任した。また村の青年に政治・時事問題を解説し、奨学・督励した。


posted by ettyuutoyama at 17:50| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。