2009年06月18日

第一章 加賀藩と富山藩の藩校・教官

一、加賀藩の明倫堂
@明倫堂の創設
 加賀藩の学校建設構想は、もともと好学家の五代藩主前田綱紀の頃よりあった。「先聖殿並学校造営事」が記され、京、江戸より木下順庵や松沢尺五らを招き、藩儒室井鳩巣を順庵に入門させた。更に菅真静を京から聘して『源氏物語』の要旨を聞き、田中一閑が京より唯一神道を伝え、養子の式如はそのまま藩に仕えた。また、綱教は国書数十万点を集めるよう指示している。しかしその後、財政逼迫のため学校建設は遅々として進まず、十代重教が意欲を見せるもののやはり進まず、ようやく十一代治脩(はるなが)が天明六年に奥村河内守尚寛、横山山城守隆従、前田大炊孝友へ学校創設を下命する。校舎は寛政三年九月に起工し、翌年二月に竣工を見る。学頭には朱子学者新井白蛾を役料十石で招いた。敷地約一万七千坪(約五万二千u)、建坪約千百坪(約三千四百u)に文学校(十五間×七間)と武学校(九間×七間)[一間=一・八二m]を廊下でつなぎ、文学校には白蛾の筆で「明倫堂」、武学校には前田直方の筆で「経武館」の額を掲げた。閏二月六日に開校を布達して町在の人々へも商・農の閑に出るよう申し渡し(実際の入学者は少数に止まった)、三月二日に開校式典が挙行、白蛾は藩主臨席の場で孝経を講じた。助教には長谷川準左衛門、新井升平を、助教雇に渋谷潜蔵、中島半助、林慶助を、読師に宮井柳之助、湯浅半助、稲垣左兵衛を、天文学に本保十太夫を、歌学に野尻次郎左衛門を、算学に村松金太夫を任じている。しかし白蛾は五月に病没したため、長谷川準左衛門が学頭格の都講に就任し、六月に定書(学則)を制定する。また学舎を設けて寄宿志願者を募集し、小身の侍及び御歩並の子弟で自ら賄いをして学びたい者には三年間貸与、貧窮者には食事を支給することにした。教職員には学校方御用主付や学校方御用といった藩吏、学頭(経伝講義)と都講(助教と講師の当否や諸学校の法式等を正す)を各一人(事実上同一人物が兼任)、諸書を講述する助教七人及び自ら句読や習字を学びつつ幼学生を指南する読師八人を置いた。また諸学生も毎日二人ずつ順番を決め、講堂等を掃除し、筆・硯等を飾り、火元を見回った。
 授業は七月二日より開始された。二・七の日朝四ツ時(午前十時)と夕八ツ時(午後二時)に大学・章句・論語・古易断・孟子・小学・経、三・八の日朝五ツ時半(午前九時)と夕八ツ時に令・算学・和書・礼法・天文、一日・十五日四ツ半時を医学と本草学(開講せず)、十五日を除く他の日に習学一般を学んだ(医学は同十年八月から三日朝と二十五日夕に開講される)。
A享和・文化の改革
 しかし学校の運営は必ずしも理想通りにはいかず、十二代齊廣は孝悌忠臣の道を励み当務有用の学を学ぶ者が稀であることを憂い、享和三年に儒学稽古を停止し文学校仕法を定めた。それは学監職を設けて名目にすぎなかった学頭・都講とともに相応の人品が出るまで闕役とし、かつ士列以下を助教格・読師格に任じて職分への途を開きつつ、討論の授業を設けて知識の多少に関わらず志ある者の入席を勧めて、出席手続きを簡素化するものであった。授業設計についても改め、論語・孟子・小学・易学・和学を四月から八月は朝五ツ時より四ツ時、九月から三月には朝五ツ時半より四ツ時半(午前十一時)とし等、他に朝四ツ時、夕八ツ時及び昼九ツ時(正午)に授業時間を設けて算学・礼法・医学などの特別講座を開講、特に医学は月三回で、内二回が本草の会読と論講であった。
 文化三年四月には三日・十三日・二十三日を「辰之上刻(午前七時頃)より下刻(午前十二時頃)迄四書五経演習候事」と定め、同九年二月に入学手続きを簡素化し、頭か支配人から願書を出していたのを本人とし、子弟は父兄より紙面で学校へ願い出ればよいものとした。文政二年二月校舎を兼六園の東隅、奥村氏旧邸へ移築、六月に再開して怠慢を戒め、同五年三月に騒音と火災予防のため再度移築を決め、城西の仙石町に七月竣工を見た。更に同六年二月に人持・頭分といった重役が出席していないことを戒め、翌月に日割を明確化して二・七の日の朝五ツ半時と夕八ツ時の二回を役職により出席を義務化し、病欠の際は届け出るように命じるとともに、藩主自ら学校に臨んで学生を鼓舞し、進んで講義を聴した。医学振興についても意を配り、陪臣の医師、藩医の門弟、陪臣の特志者等の医学講義への出席手続きを規定している。
B天保の修補
 次の十三代齊泰就任の際には、奥村河内守栄実が学校隆盛を意見し、天保十年四月に横山政孝や奥村淳叙とともに修補に乗り出した。まず教職員を学校主付、督学(定番頭、馬廻頭、小将頭を兼務)、教授(細工奉行、台所奉行の次で小将横目新兵使役の上)、助教、助教加入、訓導、訓導加入、訓導加入格、訓蒙、句読師及び書物方、御書物出納方御用に再編し、改めて選任し直し心得を示した。そして早速督学渡辺栗と教授陸原之淳に諮り、次の諸点を明らかにする。 

・人持以下平士並以上の家中嫡子・嫡孫等で十五から二十三歳の者は義務、二十四歳以上で希望者へは一年間ごとに許可を出す。
・座席は身分の軽重を第一とし、同身分の場合は年長順位とする。
・平士並以下の嫡子・嫡孫で、明倫堂の素読修業課程修了者は十五歳未満でも正規の生徒課程へ進める。明倫堂以外での修了者には試業(試験)を課し、合格したら生徒に編入する。
・人持の十五から二十九歳で役懸の外は毎月会読に出席すること。
・対象外の嫡子・嫡孫で二十四から二十九歳まで、二・三男などで十五から二十九歳までの者は会読に出席すること。
・素読は十四歳まで、遅くとも十七歳までに修了すること。

 七月には文武稽古次第の詳細を定め、生徒を入学生と改称するとともに、毎月の明倫堂、各月の経武館日割を決め、二・七の日は朝五ツ半時、他の日は夕九ツ半時を会読諸学の講義日とした。また三の日夕九ツ半時は医学と定めた。
 更に進んで藩は町在の教育振興へも乗り出す。翌年二月寺子屋の師匠に宛て、読書・算術を教授することを諭達し、手習の間に小学、図書等や算術を教え、孝悌の大意や六諭衍義りくゆえんぎの大意を話し聞かせるなど、幼少時の教育の必要性を強調した。
 医者資格についても明倫堂に関与させた。従来医師開業希望者は師家の添書を付けた願書を町会所に提出し、町会所で横目、肝煎等の試問の上で許可を出していた。これを明倫堂での試験により判断するものとしたのである。
 同十四年出席率を上げるため、欠席してよい場合を家や本人の吉事、父兄の江戸出発と帰着の送迎、臨時の武道稽古、父母・祖父母・妻の看病やその他の親族の危篤、法要、家族の葬送に限り、届出方心得を示した。しかしそれでも未入学者がいる。そこで藩末の安政二年には入学年令に関わらず明倫堂在学年限を九年とした。
 この頃異国船が近海に現われ、攘夷をめぐる議論が藩内でも盛んになる。それとともに国学(当時は和学や皇学と呼称)を学ぶ者が増える。嘉永五年六月国学が明倫堂の一般学科になり、鈴木重胤門下の 石黒千尋を講師とし、日本書紀、令義解を毎月二回御歩並以上の藩士と子弟が受講した。その際講師はじめ聴講者一同は威儀を正し、裃を着用するものとされた。安政元年に社寺の希望者へも聴講を許し、同六年四月国学の会読を学科に組み入れ、御歩並以上とその子弟に勧めている。ただあくまでも朱子学が主流であることに変更はなく、継続して学習するものは多くなかった。
C藩政末の授業風景
 この頃の様子を明倫堂横目野村實の証言から拾ってみる(「舊藩の學校」『三州史料』)。明倫堂は朱子学を徹底するあまり詩文を欠く傾向があり、経武館は養成所ではなく各師範家が門弟を集めて晴れの稽古をする所であった。また帳面に名前だけ付けて怠ける者が後を絶たなかった。
 講書(四書、小学、孝経)は助教が担当し、一章一読の後、章意・字訓・解義・余論の順で講じた。日は二・七の日で、二日朝に人持、夕に大小将、七日朝は御馬廻六組、夕に同六組、十二日朝に定番御馬廻組外等、夕に寺社奉行支配平士射手異風等、十七日朝は与力等、二十二日朝に御鷹匠、六組歩、定番歩等、二十七日朝は御料理人、細工者等、陪臣、夕に足軽、坊主、町在の者となっていた。国学は五日夕に人持、十七日夕に平士及び御歩以上、二十二日夕に陪臣及び神主等であった。
 余読は対象が入学生、句読師及び人持・大小将諸組等の論講と四書五経の素読修了者で、助教を会頭とし、訓導が補佐して行われた。籤に当たった生徒は素読と弁解をし、訓導が生徒とともに本文並びに註文を併せ低音で斉読し、その後に弁解者に訓練のため不審点を質して討論を行う。訓導が可否を説示し、助教が決定する。朔日と五の日を除き、朝と夕各甲乙二席、一と六の日朝は上級生、四と九の日夕が下級生のみで開いた。進級は試験によらず、平素の稽古振りで決めた。
 句読師溜では、句読師の会読が三・八・四・九の日夕に行われ、かなり深く議論が交わされた。会読の授業日は人持が六の日夕、大小将が一の日夕、諸組が四と九の日夕にあった。他に特別講座として国学が五の日朝、医学が三の日夕、易学が八の日夕、礼法が十日と二十日の夕に開かれた。
素読は句読師が毎朝担当し(三の日は温習)、二人並んで机に向かい、座右に五経一部を備える。そこに素読生が馬蹄形に並び、一人宛順番に前に出る。最初は字突で一時ずつ付かれながら口授され、やがて字突なしで読めるまで熟読する。算術は素読と同時に行われた。素読を一通り終えると試験があった。四書五経を各一冊一ヶ所を読み、誤読しなければ合格となり、賞賜があった(初めは『四書正解』後に匯参わいさん明倫堂出版のうち『大学』)。
 入学生は三月二十日と二十五日に弁書という試験を受けた。朝五ツ時(八時)に障子に向かい間隔をとって並ぶ。問題は横目が早朝に主附(年寄中)の宅で受け取って掲示した。解答は章意・字訓・解義・余論を書き分け、小紙の内に氏名を記して綴って提出するが、長時間かかるため餅菓子の差し入れがあった。結果は上中下に分けられたが、特に出世に響くというものではない。
 士列の者が重視したのは惣試業であり、これには出世がかかった。そのため便所書(『国字解』等を懐中に入れて便所で見る)や弁当書(問題を写し従者に渡して読書の出来るものに解答を作らせ弁当の中に入れて持ってくる)といった不正手段(カンニング)もあったそうである。
D壮猶館の創設
 異国船の侵略に備えるため、加賀藩は軍事研究機関として安政元年八月に火術方役所所管地(上柿木畠)に壮猶館を竣工させた。中心になったのは文政四年から天保九年にかけ高岡町奉行を務めた大橋作之進で、自宅を西洋砲術の研究所にしていたほどの研究者でもある。藩はこの壮猶館に砲術、馬術、喇叭、合図、洋学、医学、洋算、航海、測量学を研究させ、受講・調練をさせた。また訳書を進めさせ、上市出身の医師黒川良安も洋書調査に当たっている。この時に初めて蘭学(後に英学)を正式に導入して、万延の遣米使節一行にも入る佐野鼎が蘭学の兵学者として招かれ、稽古方・総棟取に就任する。文久二年には蘭法医書の会読と蘭法医の開業試問をも請け負った。砲術のための棚場や調練場も設けられるとともに、弾薬所と焔硝製造所及び軍艦所も付設されていた。慶応元年には種痘所を設置して黒川良安を棟取とし、翌年卯辰山養生所を建て医学教育をここで行うことにする。
E維新後の改廃
 維新直後の明治元年、英式兵制を採用した加賀藩(以後は金沢藩)は、経武館を壮猶館に合併し、学校総裁支配下に置く。これは武術修練の廃止を意味した。旧経武館は十四代藩主慶寧世子の居館にあてられ、構内に騎兵訓練の群龍館、喇叭修練の威震館、歩兵小銃訓練の懐忠館、大砲訓練の震天館、兵学・洋算を学ぶ飛雲館(天雲館)を置いた。また城内の御普請会所を雄飛館と改め、卒の大砲・小銃・喇叭訓練場とした。
 翌二年三月七尾と西町の軍艦所、弾薬所、焔硝製造所を海防方の所管に移す。英学教育に関し、英学所を壮猶館内に一月設立、これを移して致遠館とし、七尾軍艦所に英学所分校七尾語学所を設けて、本来の航海術の教授は壮猶館内に釣深館を建ててここに移した。
 明治三年になると、政府の軍制統一の一環として仏式兵制への切り替えが命じられる。そこで士官養成を目的に十一月二ノ丸御殿内に館を建設し(十二月二十日斉勇館と命名)、藤勉一を主任に教授には旧幕士横田豊三郎外一名を任じた。斉勇館は生徒が士官・下士官に任じられるに伴い同年中に閉鎖される。
 洋学教育に重点を置いた金沢藩は、有志を藩費で横浜に留学させていた。更に元年石見国津和野藩士吉本順吉を招き、狂言舞台を講堂に用いた道済館を設立して仏学の教授を受けた。その後金沢藩士でこれを受け継ぎ、仏学・英学・綴書読本・文典・地理・歴史・漢学・数学を教えるが、入学期限、規則、試業等を決めていなかったため、生徒増加に伴い翌年一月に規則を定めるとともに、幼年生を英学所に移管し、残った生徒の内英学生を城内に移して挹注館として独立させる。これを三年十一月に致遠館に併せた。また同年中壮猶館を初め意義を失った諸館を閉鎖し、道済館を移転した。
 明倫堂も存続の意義が問われつつあった。元年十二月に町在の人々にも講解席を開放し、教師不足は陪臣の儒者を助教雇に取り立てることで補った。一方で素読生を切り離し、済々館と雍々館を建設して移管、明倫堂の句読師を廃止した。翌二年十二月には両館も廃される。
 組織面でも二年三月に藩治職制が改められ、学政・軍政二寮の下に書吏と二等書吏、文学局に文学教師、武学局に武学教師を置く。六月学政・兵政二係に再編、権少参事・正権大少属・吏生・藩掌・出仕を任じる。翌三年文武館判任班列等級を改定し、学校に少属・権少属・藩掌を置くものの、十月ついに明倫堂の廃止が決まり、教職員は解雇された。
 英学所は雍々館跡に移され、更に移って致遠館と改称されていたが、またも大手町へ移し七尾語学所を併せ、次に巽御殿へ移され城中にあった挹注館と合併、中学東校へと姿を変え、米国人オーズボンを教師に招く(三年八月満期)。
 三年二月黒川良安の尽力で本科五年の医学館を開設し、卯辰山養生所の医学生を移して医者志願者の入学を義務付けることにした。入学は願書提出のみ(藩士は学政所)でよく、通学生と寄宿生(二十五ヵ月)がいた。毎朝五ツ時より夕七ツ時を授業時間とし、予科で語学・数学・理学・化学、本科で解剖学・生理学・顕微鏡用法・動物学・製薬処方学・外科眼科療病法・軍陣医則・包帯法を学ぶものと決めた。その上で前年十二月に医院医師として来ていたオランダ軍医ペイ・ア・スロイスを招くことが検討され、四年三月医学館教授への就任を見た。教職員七十四人・生徒百二十人(内三十三人は寄宿生)、月謝は予科が十銭、本科一等が二十銭で各五銭ずつを加え、五等は四十銭となる。
 また鉱山開発を企図して、三年に巽御殿で鉱山小学校を設立し、プロイセン人イ・フォン・デッケンを招いて生徒十数人に鉱山・金山・地質学が教授された。
 三年閏十月学校の統合を更に進める。まず学校を中学校と小学校所に分けた。中学校は東校と西校からなる。前者は元明倫堂であり、皇学(国学)を解釈とともに毎月二回教え、漢学の紀伝学・文章学・経学を質問・輪講・会読等に席を分け教導、洋学も原書と訳書を会読した。後者は致遠館・邑注館・道済館よりなり、致遠館幼年生を正規塾生として語学から入らせ、他の生徒は変則塾生として扱い、文典より学ばせた。しかし塾生は思ったほど集まらず、定員八百人の所四年三月時点で東校三百三十三人、西校三百人に止まる。それどころではなかったということであろうか。生徒百人につき四等教師一人・訓導二人・訓蒙四人を配し、百人を四席に、一席を甲・乙に分けることとしていた。廃藩なった後四年十一月両校を統合し金沢中学校を創設する。
 一方、小学校所は卯辰山の集学所など金沢市内に分散させ、最初五・六ヵ所、後に十ヶ所であった。上・下二等に分け、孝経・論語・孟子の素読を修了した後、小学・国史略・十八史略の講義を受けた。別に算術と習字を学んでいた。教員は中学校の訓導・訓蒙の内から配属し、有志の醵金と生徒の謝金で運営された。生徒には通学生と寄宿生がいて、四年時点での総生徒数は二千百八十八人(寄宿生百四十三人)であった。
 金沢藩は更に大学校設立を予告するものの、七月に廃藩があったため流れてしまい、五年四月には旧金沢藩の学校全てを閉鎖する。例外として病院のみ私立金沢病院として存続が許されたが、医師太田美濃里らの尽力があったればこそであり、スロイスも七年まで勤務した。
二、富山藩の廣徳館
@廣徳館以前
 富山藩主初代前田利次の時代は未だ武が中心であり、随従の武芸者で藩士を鍛練していた。兵学は楠流と北条流(甲州流とオランダ兵学の融合、北条正房の創始)、弓術は吉田流、砲術は安見流、鎗術は原田流、剣術は富田流であった。
 二代正甫(まさとし)は文教礼儀を重んじ、藩内の気風を変えるため儒者を招いて講説を受けることにした。そこで藩医 杏一洞の推薦で 南部草壽を招いて朱子学を講ぜしめた。以後南部氏は景衡、景春と三代に渡り藩に仕えて学問振興に尽くした。一洞の長男三折は享保十年に学問所を城南空地に建設する旨を提案するが、藩は儒官充実を優先させることとし、五代利幸は江戸で朱子学者大野竹瑞、松岡好山、藤沼衡山等を招き、六代利與は宝暦十二年徂徠学派の佐伯北溟を侍講に招く。また享和三年正月十三日南部氏と杏氏に藩から銀子三十枚が下賜されている。
A廣徳館の設立
 機は熟した。利與は安永二年正月藩士吉村順左衛門逑彭に昌平黌の規模・機構・祭儀を調査させた上で六月人材の育成と士風の振興を目的に、藩校として全国で六十二番目となる廣徳館を設立する。当時宝暦十三年の日光修復御手伝普請で藩は莫大な負債を抱え、藩士に全借知を課していたこともあり設立反対の意見は強かったが、儒官三浦衛貞の賛同を得た利與は強く決意していた。正月全藩士に向け、文武惰弱者を解雇して精を入れ役立つ者を力に応じて登用する旨宣言するとともに、学校建設反対の論を「雑談」と切り捨てた。あとは一気呵成に事を押し進め、二月に二代藩主正甫の末男前田聞我(幕政批判で罰せられた竹内式部に連座)の隣屋敷を用いることに決め、その両側の空屋敷と購入した藩士山本瀬兵衛宅を長屋風に建替えた。門には江戸の書家関源蔵(関鳳岡門人)が篆書で書いた「廣徳館」を掲げ、開講式を六月十八日に挙行する運びとなる。開講講義には御細工人組以上なら二・三男でも出席でき、元帳には四百人の名が記されている。三月恭敬篤実を旨とした 心得書を掲示し、年間日程や時間割りを発表した。
B廣徳館での学習
 高知組(四百石以上、頭役取扱)以上の嗣子で十五歳以上には三ヵ年が義務付けられた。更に経書で五経の抜講(進級試験)未終了者、兵学で教科書の弁解未了者、剣・槍等の目録以上に進階せざる者は追願で一年留年でき、また出席が悪い者や尚も進階不充分な者には「御沙汰」や解職・停職などの「御咎方」があった。兵学は甲州流を採用し、藩士安達周蔵家に委ねて所定席数(出席日数)の講義を受けるものとした。
 四百石以下には寄宿生を許し、父兄の禄高によって若干の学費を支給する。足軽の子弟には弓と砲術(鉄砲)を錬磨させた。
 優秀者は藩費で江戸の昌平黌に留学させてもらえ、更にその間月に銀二百疋が支給される。また私費留学も勧められている。当然のことながら出世は保証されていた。廣徳館での成績は嫡子の相続願いや二・三男の養子願いの許可・判断の材料になるのだから、本人以上に親達が懸命であった場合もあったであろう。
 教材は四書五経・十八史略・春秋左氏伝・史記等の漢書を用い、授業は寄宿生と通学生を分けて行われた。毎日午前中には下士以上子弟の四書五経の素読課程があり、これを修了して正規の入学が許可される。二・六・十の日午後は経書講義と質問、三・八の日午後は質問受付、四・九の日午後は寄宿・通学両生合同で経書会読があり、一の日午後は詩文会があって成果を発表した。なお、医学・算術・筆道は各人で師匠に就くこととされていた。
 文化七年に校舎拡充のため三ノ丸西に移築し、文武の稽古場を分ける。その後本館一棟を文学と漢学の講習場、他の三棟を武術の演習場(各々を弓、剣・砲・槍、柔術)とした。馬術は馬場を、砲術は下士以上が構内、以下が千石町の教練場を用いた。
 試験は文武とも月一回あり、合格者には文が書籍、武には竹刀が与えられる。また文学五経の合格者は武術の免許以上に相当するものとみなされた。他にも春と秋に賞罰の伴う試験があった。生徒は入学当日と試験及第及び賞典の際、師範へ挨拶に出向く慣例であった。
 教員は当初、祭酒一人・学頭一人・助教一人であったが、まず助教を都講と監生に分け、享和二年七月に祭酒・文学・教授・学生・訓導に再編された。
C釈菜の礼式
 廣徳館最大の行事といえば釈菜せきさいの礼式である。これは孔子を祭る儀式であり、まず明の謝時中が描いた孔子聖画像を安永二年に安置し、同四年学頭三浦衛貞が「釈奠図解叙」を選述して準備を進め、同五年二月上丁の日に初めて礼式を執行する。これ以降毎年春二月と秋八月上丁の日の恒例行事になった。
 享和二年七月釈菜の略祭を釈奠の正祭とし、藩主在城時は祭儀中廣徳館に詰めて、拝礼時に白銀若干を献納、参勤不在時は老臣が代理で代拝した。また士分以上は必ず拝礼・献納し、献納銀は殿様御奉納銀目録、高知組以上献納目録、無組以下献納目録に分け奉納された。御目見得医者・町医者・社人も学校に申し込めば参拝でき、献納銀は春秋両度で一両、一度の参拝に五分ずつと定められた。
礼式時には五日前より休講になり、生徒は三日前に献上漢詩を書き写す作業を受け持つ。生徒が自作した漢詩は監生が閲監し、都講へ渡した。献上される漢詩は先聖(孔子)頌徳の詩であり、釈奠頌といわれて刊行もされた。寛政九年のものは、祭酒市河寛斎の序文と教職員三十四人の頌詩で構成されている。なお廣徳館では積極的に図書を出版し、私塾や寺子屋の教科書に用いられた。慶応二年に出版された佐藤一斎の訓点による四書五経の改訂本は一万部を数え、平戸にまで及び「廣徳館本」と呼ばれた。
 さて礼式前日、廟堂や門の内外を掃除し、孔子像の前後に幔幕を張り、堂の中央に香を置く。その日には卯ノ刻(午前六時)に献官・都講・監生が一名ずつ堂に入って奠物を点検し、執役は休息所に控える。辰ノ刻(午前八時)より唱和者の呼び出しで孔子像の参拝が始まる。
D学校再建と文武奨励
 七代藩主利久、八代利謙の頃には儒官の顔触れも充実する。学風は山鹿素行や荻生徂徠の古学中心であったが、寛政二年に幕府が異学の禁を出したため市河寛斎等の朱子学、昌平黌派へと変わった。文化元年には教員に家塾創設を促し、学問の教導と普及に努めさせた。
 九代利幹としつよの頃、文化七年正月佐藤四郎左衛門信照を御普請御用に任じ、五月に校舎を城中三ノ丸へ移したが、天保二年四月十二日西田地方の浜田弥五兵衛方より出火、類焼してしまう。しばらくは仮校舎での講義を余儀なくされ、ようやく同六年三月近藤光享が責任者になり、佐伯棠園と藤澤長周の監督下に旧地で再建を開始、七月に復興を見た。この際学科拡充を市河寛斎や大野拙斎等に諮り、四書五経の素読・習字・作文を必修にして、蒙求・十八史略・春秋左氏伝・史記・文選・日本外記・日本史略及び作詩を課すことにする。また出席しやすくするため、二・五・七・十の日を従来の昼から八ツ時開始へ変更し、かつ出席を督励した。
 天保六年十月に襲封した十代利保は学問の普及を重要視した。そこで大野欽一郎を昌平黌に留学させて機構や運営を観察させ、国学定着のため歌学・古学・国語を学科に加えた。更に訓諭書「履校(れきこう)約言(やくげん)」を編み、精神の高揚を図った。
 十一代利友と十二代利声の頃には廣徳館教育が充実期を迎えるものの、十三代幼君利同の頃には既に維新直前であった。当時の政情は学校教育にも反映される。慶応元年に従来の学則が大幅改定され、武が奨励されたのである。併せて「文武師範家塾学則」を作り、教員に家塾教育を改めて命じた。同三年六月「文武奨励申渡書」を発して、武術稽古所を廣徳館西に建てる。師範役には渡辺順三郎を、製薬方・弾薬方・御筒方などに六十一人を任じた。これは武を廣徳館が担い、文の学習は専ら家塾に依頼することを意味し、創立以来の大転換であった。また教員家塾を事実上の分校とするものでもあり、優秀者は下級・小禄でも登用し、昌平黌に留学させるものとした。
E廣徳館教育の終焉
 しかし間もなく明治維新の大変革を迎え、文の教育が復活された。その直後の明治元年九月校舎が火災で焼失してしまう。だが教育は継続され、上等生・下等生に分かれて夫々民家を借り塾舎とした。また優秀者はこれまで通り東京や京都に留学させた。
 翌二年十月に藩は英学教師として森本弘策(元「榎本艦隊」の千代田艦長で降伏人として預り中)を招き、近藤邸に変則英学校を創立、さっそく寄宿生と通学生に分けて生徒を募集した。これは後に洋学北校と改称される。それに伴い廣徳館も藩学校と改め、漢学を専門に教えることにした。直ちに二番町の鎮撫使旅旅館跡に移り、生徒を上・中・下等及び等外に分け授業を再開する。また教員高橋篤の家塾を正式に支校として総曲輪にあった重役西尾逸角邸に移し徳聚堂と名付け、皇学・漢学・洋学・算学の教授を町在の人々にも開放した。教員には堀才二や久米といった識者が就任し、明治九年まで授業は継続されている。
 その他、演武場を山王町の民家に移し撃剣を習得させた。西洋医学校も山王町の山田嘉膳邸跡に創立し、金沢藩医高峰昇を教師として招いた。生徒数は最大百四十人で、やがて洋学南校と改称される。
 十一月に藩学校と英学校の生徒若干名を東京の開成校及び家塾へ留学させるものの、四年七月の廃藩に伴い全て廃校が決まった。ここに歴史ある廣徳館教育は完全に停止されるに至ったのである。
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三、富山藩儒官・教員人物略誌(経歴判明の分のみ、小西家は寺子屋の項目に記す)
石黒求馬直徴 祖は金山谷城主石黒左近入道道春。岩田家から養子に入り、文政七年家督を継ぎ学正に就任する。翌年御小姓組に移り、天保二年没。
石谷貫蔵周教(蕃教) 号井華 昌平黌に学び、文久年間に教官に就任する。明治二年四十六歳の時二等教師試補・文学に就任し、五十四俵四斗三升六合を受ける。廃藩後は家塾教育に専念し、十年に師範学校並びに致遠中学校教師に就任するとともに、岡田呉陽や松田煌と変則中学校設立に尽力する。十五年十月に没。
板倉安衛 父の嘉六明義は定番組足軽から士分に進んだ。天保六年正月十三日に十八俵を受け、七月十一日訓導に就任する。同九年正月二十九日に学正に進み、二十八俵を受けた。
市河小左衛門世寧 字子静、嘉詳 号寛斎、西野、半江、江湖詩老 上州甘楽郡南牧山下仁田村に市河好謙(号蘭堂)の子として生まれる。曾祖父より真田家に仕え、父は細井広沢に学んでいる。朱子学を昌平黌祭酒林正良に学び、教官を五年務めた。病で辞した後に江戸で詩社江湖社を開いた後、享和二年に前田利幹に二十五人扶持御手廻組で招かれ、教授、祭酒に就任した。詩に優れ、神通川岸崖崩れの際に藩へ被害民の救恤を詩で以て訴えた逸話があるほどである。文化八年に老を以て致仕した後も豊後、長崎へ旅し、文政三年七月十日七十二歳で没した。
市河才二郎三亥 字小春、孔陽 号小山林堂、金洞山人、半千筆斎、亦眞頁道人、楽斎、米庵 安政八年九月六日寛斎の長子として江戸で生まれ、父や林述斎、柴野栗山に就く。文化元年に二十六歳で長崎に遊学に出た。書で天下にその名を轟かせ、文学として前田利幹と利保に仕えた後、文政四年正月本藩である加賀藩に二百五十石で招かれた。藩主齊廣世子齊泰の師として江戸に住み、金沢でも講義をした。嘉永三年に七十二歳で致仕し、養老二十人扶持を受けた。安政五年七月十八日江戸にて八十歳で没。コレラと伝えられている。多くの門弟の中には後の韮山代官江川太郎左衛門(坦庵)もいる。弟の詳胤(号雲潭)は鏑木家を嗣いだ画家である。養子の三千太郎三千(寛政八年〜天保四年六月、字桃翁、号恭齋、古学庵)は讃岐生まれ、実父は稻毛屋山。小楷を能くし鉄筆や吟詩に長じたが、天保四年六月二十七日三十八歳で没した。家督を嗣いだのは三治郎三乳(文化元年〜明治十八年、又乳、字士成 号遂庵、三山居士)で、大聖寺藩横井百翁の次男として生まれ、娘婿として市河家に入った。嘉永三年二百五十石を受け、養父同様書を能くした。園子周吾(小左衛門、三鼎 号得庵)が天保五年に生まれ、書を後継した。米庵には六十歳の時に生まれた実子がいる。昇六三兼(天保九年〜明治四十年十一月、字叔並、号萬庵)であり、砲術を江川太郎左衛門と高島秋帆に学ぶ。維新後の明治三年、三十三歳の時に大蔵省の仕事でロンドンへ行き、印刷する紙幣の元版に文字を書いている。大蔵省には二十年間勤務した。篆刻・点茶・挿花・弾琴を能くする。長男は家督を嗣ぎ、次男は英文学博士、三男は林学博士、一女は華道宗匠である。
内山才蔵重喬 父は馬医の門蔵惟(維)直で、十五人扶持金五両銀三枚の薬施代を藩から受ける家であった。安永九年の時は二十九歳で監生兼助教であったが、早世する。
内山金吾良馬 島林家四男。天明二年四月内山維直に入り、同五年春に助教役見習となり、同七年四月に助教に就任した。寛政五年六月監生に進む。享和元年五月御手廻組入りし、馬医方と廣徳館役儀を兼任する。七月都講、同三年正月教授に昇進、同時に馬医を免ぜられ馬医書籍を藩へ差し出す。更に文化十四年正月に御小納戸預り、御書物預りに就任した。文政十二年七月に職を辞してすぐ没した。
内山兵馬長巌 父は松軒秀宜で、延享二年七月に十七歳で家督を嗣ぎ、十五人扶持御手廻組入りする。安永九年五十二歳の時には二十五人扶持を受け、御手廻組で都講に就いていた。天明元年閏五月「学業心掛宜候」と藩より御目録御衣紋付御上下を拝領する。同七年四月に職を退き、寛政四年八月に掘家から養子緝煕を入れる。同十年十二月七十一歳で没。
大沢丹治春弘 号南土隶(なんたい) 尾張名古屋の出身。三浦瓶山の推挙で安永三年三月二十一日に二人扶持で教官に就任する。
大沢丹治 号元徳 春弘の養子。安永六年に助教、以後監生、都講へと進んだ。
大塚新左衛門(新吾)敬業 号水石、通川 文政四年四月十日掘端町に生まれる。八歳で父を、十五歳で母を喪う。大野拙齋に学び、江戸で古賀小太郎に三年就く。嘉永三年訓導に就任した後に昌平黌へ留学し、四方・新潟を見聞して帰藩した。前田利友の侍講や教官を勤め、明治元年に新番に進み俸二十八苞を加増される。翌年二等教師試補・文学に進み十八俵を受けた。廃藩後は家塾に専念し、七年九月二十五日五十四歳で没した。
大野十郎鼎 字國寳 号拙齋 安永元年売薬人の次男に生まれる。幼い頃より才に秀で、本長寺日深から僧になることを勧められるがそれを拒み、書を妙傳寺に学ぶ。市河寛斎に見いだされ、上毛の河子静が富山藩の依頼で講演に来た際に会見が叶い、推薦を得て京の僧大典のもとに留学する。皆川淇園にも学び、寛政十年六月五日二十八歳で七人扶持与外組儒者に採用、教授に就任した。享和二年六月には十人扶持で御手廻組、文化二年六月役人組御近習並となる。同九年昌平黌に入学し、古賀精里からも賞せられた。翌年に帰藩し、文化二年祭酒に任じられる。同十三年五月二十日五十九歳で没。
大野欽一郎賁 字士文 号介堂 拙齋の子息。文政九年に十人扶持で訓導に就任。その後昌平黌へ留学し村崎慊堂に就く。父が病との報せで昼夜兼行駆け付けるが間に合わず、そのまま八月に禄を嗣ぎ御手廻組に入り教授となった。学校改革を志す藩主前田利保の意を受け昌平黌に再び入り、機構や運営を観察した。天保五年に帰藩し文学に就任、翌年祭酒兼監察へ進んだ。しかし尊皇の志熱いがゆえに、国政に関し宋藩へ上疏したことで咎めを受け、致仕となった。文久元年に五十四歳で没。
岡信九郎正雄 字幼飛、晩翠 号卜堂 佐伯栗園、大野介堂に学び、学正に就任し、前田利聲の文学教授を勤めた。また南画を能くした。
岡田萬三郎淳之 字太初 小字為之助 号栗園 先祖は伊勢の出で、高祖重遠より富山藩医になる。父瑞仙の四男。文化元年六十石を受け訓導に就任し、同九年に昌平黌へ留学する。帰藩後の同十二年に御手廻組入りし教授に就任し、俸二口金五両と賃銀若干を得た。文政十一年文学に進み、天保七年江戸で近習兼師範に任じられる。嘉永三年に旧藩主利友の御近習頭になり、安政二年に一旦致仕するが学頭・祭酒へと昇進した。徂徠学が専門。男子が四人いたが相次いで亡くし、小西有斐の次男を養子に入れる。元治元年七月十七日七十九歳で没した。
岡田順二信之 字君忠、君行 号呉陽 文政八年七月十六日に生まれ、十九歳で昌平黌に留学、三年間朱子学を学ぶ。親類の岡田家に養子に入ることになり、義兄の娘と結婚した後、再び江戸で学んだ。嘉永六年六十石を嗣ぎ、安政二年に御馬廻に入り学正に就任した。同四年横目に任じられ、藩主に従い江戸へ行き一年間昌平黌に復す。その後表扈従、横目、御近習頭、文学兼藩主師範へと進んだ。意見上申も多く、維新後は明治二年に藩政の改革に当たった。同四年九月一等教師に就任するが廃藩となり、養父の家塾學聚舎で門弟の教育に力を入れつつ、五年変則中学校設立に尽力した。十年に師範学校教諭に就任するが翌年に辞し、清水村に新築した自塾で漢学を講じ、主に士族子弟へ人の守るべき道を説いた。十八年六月二十九日六十一歳で没。子息正之は学習院教授である。
加藤五郎右衛門 三村家より加藤隼允可水の養子に入り、天保元年正月に二百石を相続、御馬廻組となり、学正に就任する。同六年七月に教授へと進んだ。
加藤竹窓良 字良吉、静處 号香業 文政九年稲垣家に生まれ四歳で加藤家を嗣ぐ。大野介堂に就いて学び、大塚敬業とともに俊才が認められ天保十三年京に留学し貫名海屋に学び、頼三樹三郎と交わった。弘化二年に豊後で帆足萬里に学ぶこと三年、更に漢学・洋学・算学を三年学ぶことを藩に望むが容れられず帰藩し訓導に就任する。嘉永五年二月十三日二十七歳の若さで没した。
兄は稲垣藤平衛克(文化十年〜明治九年、字子復 号碧峰)である。天保元年に上京し、浦上春琴の門下で南画、文人画を学ぶ。三十二歳で町年寄になるが、度々京で風流を楽しんだ。頼三樹三郎が富山に来た際に滞在している。
狩野又四郎 森川辰右衛門の次男で、幼名は岩蔵という。幼時から廣徳館の奏楽方に勤務しながら、学問と剣術に精を出し、文化五年四月又四郎と改名し、同七年正月に奏楽方と訓導を兼任する。同八年十月に狩野家へ養子に入り、十二月に相続してからは、奏楽方で樂方諸事を指揮した。翌年三月から同十二年五月まで中之御屋敷の御殿御番を皆勤し賞され、文政四年六月に御帳付役、同八年二月御寄合所筆役、同十二年七月御祐筆御書方添役などを歴任する。天保八年六月には寺社方下役と廣徳館奏楽方を兼任している。
河上磯治秀篤 父は兵治。寛政三年広徳館御用となり、後に与外組格、助教を勤めた。砲術を研究し、文化六年十人扶持、異風組鉄砲土蔵預りに就任する。文化十四年十二月没。
河村貫三郎貫義 号彊齋 大野拙齋に学んだ後、昌平黌で尾藤水竹や摩島松南に就いた。帰藩後慶応の頃に文学を勤めた。
北川久太郎昇平 代々久太郎昇平を名乗り、文政九年御徒組・訓導に就任する。天保六年には廣徳館書写方を勤め、同九年二十俵を受けていた。弟が末期養子になり、明治二年には三十一歳、内家知事席筆役御旧記方を勤めている。家塾を開いた北川正賀と同一人物かもしれない。
杏敏次郎立 字士立 号凡山 杏家の裔。大野介堂に学んだ後、昌平黌で林述齋や鹽谷宕隠に就いた。慶応元年に教授、祭酒に就任し、学則改訂に当たるとともに、佐藤一斎の訓点により四書五経の読みを改めた。異国船襲来が騒がれる世相下、朝廷の意を受けた幕府が諸侯の上に立ち、賢人を登用して攘夷を実行することを説いた。維新後には本藩明倫堂教授に転じる。十六年帰郷して千石町に開塾し、かつ師範学校教諭に就任する。十八年五月十九日六十六歳で没した。
久郷兵左衛門喜就 代々鷹役(方)の家に生まれ、安永二年訓導に就任し、同四年教授と兼任する。翌年には教授専任になり、同六年に家督を相続する。二十五人扶持。文政元年五月に没した。子息の四郎衛門吉茂には実子がおらず、文政四年十月に養子兵蔵をとった。その嫡子が哲之助義篤で、明治二年三十八歳、五十四俵四斗二升の三等教師試補であった。
小塚宇門恒慥 寛政七年二月助教に就任する。同十一年六月に没。
小塚外守之則 号南郊 養父堀田藤右衛門恒直は嗣ぐ者がいなかった親類小塚家を寛政九年に五十石手廻組で再興し、そのあとを甥堀田徳右衛門の次男之則が末期養子で嗣いだ。幼年であったからか、文化四年七月にようやく五十石の遺知が下され、御手廻組で学正を勤めた。文政十年正月御馬廻組、同十三年五月役人組御中奥奉行に就任、天保五年二月十五日に没した。高岡町の敬業堂へも文政八年に講師として出向いている。
佐伯平蔵有望 字君桂、観光 号北溟 先祖は立山芦峅の出で富山町人。江戸で服部南郭に徂徠学を学ぶ。前田利幸に招かれ帰藩し、四人扶持を受け嗣子利與の侍講になる。宝暦十二年十二月二十四日手廻組二十五人扶持に進んだ。
佐伯八兵衛樸 字季艧 伯父平蔵の門に学び、後に京で江村北海に就く。詩は能くしたが書を読むことを好まなかったため、明和の頃に自宅に師北海を招いた際に、北陸一の学者になれるものをと嘆かれたが、自分は天下一になると応えたという。没後、寛政の頃に伯弟の鐘山と嗣子の紹(号公志)とで遺作を発表している。
佐伯健蔵 佐伯一門。天保九年の時点で二人扶持で、学生に就任していた。 
佐伯新五衛門(新蔵)有融 号鐘山 北溟の子息。父の没後に五人扶持を受け、訓導に就任し、後に文学へ進む。 
佐伯順蔵有穀 字北寛 号棠園 実家は和田氏。鐘山に学び養子になる。文化五年に二人扶持で訓導、学生と進み、天保六年七月十一日祭酒に就任して廣徳館の再建に取り組むとともに、書を謄写させた。二十五人扶持を受け、嘉永二年七月二十二日に六十二歳で没。 
佐伯第作有清 字種徳 号櫻谷 有穀の長子。江戸で昌平黌に学び、佐藤一斎に就く。詩を能くし、嘉永三年正月学生、後文学へ進んで、安政四年四月江戸に転じる。五年二月に表扈従に就任するが、七月二十三日に没した。
佐伯慎蔵有種 櫻谷の弟。明治二年、三十六歳で二等教師試補・文学に就任し、三十六俵二斗八升を受ける。
佐藤元次郎秀昌(季昌) 号月窓、松羅子 京で金屋仁右衛門の次男、代々御徒組・歌道方御用を勤める元次郎の養子になり、文化二年御目見医格として歌道方御用を嗣ぐ。同四年五人扶持を受け、与外組格・歌道方御用となったが、既に天明の頃には富山に移っていた。天明三年に常願寺川で大洪水が発生したので、前田利久が馬瀬口に堤防を築き太田水門を作った折「うごきなき千代に八千代にふせげこの神の水垣水のいはがき」と詠じ、歌碑を堤内水神宮の畔に建てている。また寛政十年二月自仙院の『桜谷八景歌』に跋を草し、四月に天明頃の登山記『立山紀行』を著した。文政元年に七十五歳程で没した。
須加源五左衛門弘篤 父は源五左衛門、宝暦五年に家督を嗣ぐが幼少のため出仕に及ばず、明和四年に七十石を受ける。安永二年に国境紛争のため飛騨へ出動、同九年四十歳の時には都講であった。天明五年に役人目付、寛政六年御近習目付、同十二年に御裏預りを勤め、文化五年に江戸詰めとなる。翌年には大目付に進み、同八年に隠居する。文政四年没。
須加治部左衛門重明 弘篤の子息。享和二年に助教に就任し、文化四年に学正に進む。同八年に家督を嗣ぎ、御手廻組、御近習、同十一年御裏預り、文政三年御馬廻組、翌年御小姓組を歴任した。同十二年には検地奉行に就任したが、翌年に没した。
須田八郎左衛門 寛政六年十一月二人扶持・銀三枚で御先徒組に入り、江戸へ参勤お供を経験した後に、享和元年に訓導に就任した。文化六年四月奥御用所筆役に転じ、八月御鷹役になり、同八年正月家督を相続すると、御徒組・御鷹役として勤務する。父の半右衛門から柔術を学んでいたため、天保六年六月に廣徳館で柔術稽古を受け持つ。同八年六月に隠居すると、十一月に柔術心掛を賞され銀二枚を賜っている。
高木文右衛門 父は高木屋文次郎。学問に励み、文政八年九月二十俵を受け御徒組に採用され、訓導並に就任する。同十二年六月訓導になり、天保七年正月に学正へ進んだ。
高田右門芳昌 藤田家から高田料右衛門種陽の婿養子に入り、天明六年に百五十石を嗣ぎ御馬廻組に入る。寛政四年御近習、同九年御書物預り、享和元年御勤方分限帳帰役を経て翌年に教授に就任した。文化三年に没。
高田傳助 芳昌の子息。訓導を勤め、文化三年家督を嗣ぎ百五十石御馬廻組入りする。その後大目付、火元番盗賊改方、富山町奉行、先手頭等を歴任した。
高橋元左衛門(元六)篤 文化十四年八月十三日長清寺町に生まれる。大野介堂に学んだ後、昌平黌へ留学する。帰藩後は教官に就任する。元治年間に田近鐵也の門弟を引受け、家塾琢磨窟を創立し漢学を講じた。門弟が増えて手狭になったため、明治二年十月に総曲輪の西尾逸角邸を借り、徳聚堂として藩学校の下に入った。廃藩後は千石町で塾を継続。九年六月十四日没。三男義篤海軍大尉は日清戦争の際に威海衛で戦死。
武井善蔵致恭 字公謙、大室 安永九年正月二十九日江戸で御馬廻組儒者に就任する。
田中助右衛門 父権之助(剣の達人で、天保六年学校方下役)の嫡男に生まれ、天保六年七月文学心掛を評価され訓導に就任し、同九年正月に学正へ昇任した。
多村安左衛門 代々御台所足軽として御料理人を勤める家に生まれ、十七俵と別に七十五匁九分庖丁代隔年渡りの身分でありながら、訓導に就任する。明治二年には三十二歳四等教師試補であった。
恒川泰蔵済 字君楫 号樸 織蔵の第四子。佐伯栗園や大野拙齋に学んだ後、京で仁科白谷から詩文を学ぶ。文政二年七月訓導に就任、同四年二月学正に進み、書を市河三亥に学んだ。前田利幹の庶子主税、頼母、兵庫の習字教授を勤め、同九年実兄季三郎の跡を継いだ。同十一年に教授に就任し、天保五年五月に再び庶子伊織、金淳八郎、鎬九郎の習字教授になり、家塾で経学を講じた。同八年十月知行二十石の加増を受ける。弘化二年七月六十歳で没した。
寺島東之進直格 町医者中川春庵の次男に生まれ、寺島家に末期養子に入る。安永五年五月に助教に就任するが、七年六月病気のため退く。寛政元年十二月に没。
藤堂□之助  庄之助の嫡子。天保九年時点で銀七枚目を受け、訓導であった。
富田助作詮廷 父は弥右衛門詮由で、嗣子ではないため分家をする。文政元年五月十六日訓導に就任し、毎年銀七枚を受ける。学正に進み、同九年正月十一日御手廻組、十二年四月三日十人扶持、天保末年には御作事奉行・会所奉行などを歴任し、十三人扶持を受けた。安政四年家老富田兵部の自刃の後、金融混乱の責任を追及され、揚り屋幽閉となる。
富野直之進則良 養子として安永七年閏七月に御帳付所平詰になり、天明七年七月に助教、寛政七年四月広徳館監夫役に就く。享和二年四月御次詰、その後御薪所才許や金銀受払方を務めた後、文化三年九月に没。
永井省吾 文化三年七月六日に訓導に就き、毎年銀五枚を受ける。嫡男であったが同六年四月江戸で大聖寺藩井上織衛方へ婿養子に行くよう内命があり、養家ヘ移った。
西田辰正 天保十一年生まれ。廣徳館に学び教官になる。維新後に貢士として上京し、そのまま東京で学んで明治十三年啓迪高等小学校の校長に就任、十八年富山県尋常中学校の設置に尽力した。三十二年に没。
西村政蔵唯正 十人扶持喜間太の嫡子。安政七年時点で三十七歳御城詰、明治二年には監察を勤め銀十枚十五人扶持であったが、すぐに五十四俵四斗二升文学として、三等教師補職に任じられた。
庭田内蔵助 火之御番等を務めた伝治の嫡男として生まれる。幼時から学問に精を出し、天保九年正月銀五枚で訓導に抜擢された。
野崎伊太夫雅明 宝暦七年生まれ。祖父の雅伯は会所物書・御先手足軽小頭・御勘定算用役・御寄合所筆役等を歴任し、「喚起泉達録」を著し、越中の歴史や民話などを録している。没後に散逸するが、雅明により再編集され、文化十二年「肯搆泉達録」が完成する。これは明治二十三年に筐中より発見された。寛政五年六月四日に助教、享和二年監生(後に学正に改称)に進む。四年五月に江戸詰めになり、文化二年五月に帰国して十一月二十日に学正にした。同十三年十月二十五日に六十歳で没。
林藤太全振 父は左六、安永五年二月に本田華岡の下で廣徳館の釈菜御用を努める。周易等の研究に励み、同七年奥御用で御目録を頂戴し、同九年二十八歳の時に二人扶持銀三枚を受けていた。天明七年十二月銀二枚を拝領する等学才を期待されていたが、寛政六年正月父より早く没した。
林道衛 美濃国斎藤宮内の後裔で前田家に仕えた善左衛門の弟伝右衛門が、寛文二年に富山藩家中斎藤弥兵衛に身を寄せた。その子息多内は元禄二年九月前田正甫の児小姓、翌年七月から林権八尚房と改姓名し、御馬廻百三十石に進んだ。養子の多い家系で、道衛の父直就も山口家から入って寛政三年に相続し、文政元年本丸番を勤めている。家を嗣いだ兄の直清は天保九年二月二の丸番に就任した。道衛は文政十二年六月に訓導(毎年銀七枚)、天保六年七月に学正へと進んだ。
藤澤音人 先祖は朝倉家臣。寛政九年二月に監生に就任し、御近習や御馬廻組入りした。
藤沢省吾長周 音人の子息。文政五年に四十俵銀十枚を受け御馬廻入りし、同九年四月訓導に就任する。天保六年二月焼失した廣徳館を再建するため、御造営御用掛に就任する。七月学正に昇任し、御普請の功で銀子を拝領した。
藤田呉江憲 字憲章 文政十一年十一月二十一日生まれ。江戸で藤森天山に狩野画を学ぶが、師の江戸追放後に帰藩、教授に就任する。家塾も開いていたようである。藩に上書をし、戊辰ノ役では藩軍参謀として長岡に戦い負傷する。その後公用人となり、廃藩後は新潟県や東京府に出仕する。官を辞した後は狩野派や南画に精を出し、十七年に絵画共進会審査員になる。十八年五月十八日に没。
藤沼専英 字良達、仁内 号衡山、三軒、自得斎 実家は鏑木氏。寛延二年二月朔日前田利幸に招かれ、江戸で儒官になり、文・武・医の三学教授に就く。
堀才二通祥 明治二年には三十八歳で文学にあり、高橋篤に協力し徳聚堂の教官に就任した。
堀内守蔵 代々十八俵御料理人を勤める。父は染右衛門で明治二年には五十九歳。同年三十歳で銀十枚を受ける訓導であった。同年中に相続したのか十八俵を受け、三等教師職に就任している。
堀田彌八郎善之 廣徳館で都講まで進み、寛政九年五月二人扶持金五両で御手廻組、同十二年御近習となる。享和二年八月二百五十石を相続し御馬廻組に入る。その後若殿様御近習、文化三年江戸詰となり、同十三年三月に没した。
本田善右衛門維時 後に吉人好善、号華岡 元熊本藩儒者。安永四年四月二十七日に江戸藩邸に招かれ、二十五人扶持を受けた。六月十一日妻と長子奇洞とともに富山入りした。武術全般特に竹林流弓術にも通じ、書も能くした。
松岡弥藤治治貞 号好山 延享二年に前田利幸に招かれ、江戸で二十人扶持を受け書籍預りに就任する。朱子学者。
松田晋兵衛煌 昌平黌で学んだ後、教官に就任する。明治二年五十一歳の時に二等教師試補・文学になり、二十五俵を受けた。廃藩後は家塾教育に専念し、十年に師範学校教師に任じられた。十五年に没。
松田又輔 父の左平太信義は文化三年に母への孝行と兄弟仲睦ましいと御目録・御袴地を頂戴する。又輔も文化五年に広徳館の講席に怠けず出席し賞せられ、同九年に訓導に就任する。同十一年には剣術の技量を賞せられ、同十四年に学正に昇任する。文政元年に相続して与外組格、同九年に与外組、同十二年盗賊方下役、天保二年に御帳所平詰御番になった。
三浦平三郎衛貞 字淳夫 号瓶山 生まれは石見もしくは周防国。徂徠学を萩の明倫館学頭山県周南に学び、昌平黌の教官になる。江戸の富山藩邸に御馬廻組二十五人扶持で招かれ、安永二年三月富山で廣徳館の初代学頭に就任した。寛政七年没。
三羽元三郎明良 号迂堂 明治二年二十九歳の時に訓導、四等教師試補であり、十四俵を受けていた。
三田村唯右衛門 寛政九年に訓導になり、同十二年に相続し与外組に入る。享和二年学正に昇任し、文化二年御徒組に転じる。同五年櫨蝋方掛、同八年新開発方・林方掛、以後は御勘定所頭取や御普請所頭取などを務めた。
村尾林助安湯 山田家から養子に入り、文化三年八月十人扶持で訓導に就任する。同六年七月に没。
森沢左次馬直茂 百五十石与三右衛門泰満の子息として生まれ、安永九年三十二歳の時点で助教であった。文化七年に泰満が没した際は渋谷家からとった養子泰高が嗣いでいる所から、既に亡くなっていたと思われる。
山田小六清純 新調組測量方に任じられ、明治二年三十七歳四等教師試補として金十二両を受けていた。後に共立義塾の講師になる。
山本瀬平吉貞 字子幹、藤蔵 吉田柳庵り次男として生まれ、明和二年三月朔日に山本家を継ぎ御馬廻組二ノ丸御番入、同五年正月素読御用達御近習に就任する。廣徳館が創設されるに伴い助教、都講と進む。安永六年病気のため致仕し、同八年に没した。 
横地才記秀証 天明元年に助教となる。寛政七年本道医に就任し、以後は医業に専念した。
吉川孫三 寛政五年高岡町医者長崎玄庭(吉川家出身)の長男に生まれ、幼名玄太郎。弟は長崎浩斎。宗門奉行吉川勘右衛門敬貞の養子となり、文政元年家督八十石を嗣ぐ。御馬廻組、二之御丸御番入りし、同四年二月に訓導に就任、同十一年十一月作事奉行を勤めた。男子に恵まれず、叔父林家より養子権次郎をもらった。
なお、他家ではあるが吉川勤辰次(号青州、介山)は安左衛門仲次(南部草壽の門、小笠原・吉良両礼法に通じ、棒火矢、算術にも秀でる)の系譜で、明治二年刑法懸を勤めた後、俳・詩で活躍し、「前田氏家乗」を扶閲した。
若林貫治 号釣船 安政七年四十九歳の時点で二人扶持銀三枚を受け、学正並を勤めていた。家塾教育にも努める。 
若林圭輔 天保六年には銀五枚、訓導を勤めていた。父清次は御徒組格、奥御用所筆役、江戸詰め御徒組を歴任し、兄清吾は天保四年十七俵御徒組を皮切りに、南之桝形番、寄合所取次を勤めた。
渡瀬普恒時 明治二年に四等教師であり、金十二両を支給されていた。翌年常備大隊で分隊長に任じられる。後に共立義塾の講師になっている。
※兵学師範
安達周蔵 祖は若狭国武田の子孫真柄長三正利で、蒲生家に仕え奥州安達郡を知行し改名する。その子息五兵衛恭道は寛永十三年前田利常に仕え、三百石御馬廻組となり前田利次に従い富山に来た。これを本家(後に三百三十石)とし、親類富田家より入った平馬恭桂の次男で分家した周蔵弼亮は、金沢で小川氏忠、馬場政乗に学び、甲州流有沢貞幹に学んで伝符状を受けた。明和三年八月二十二日御手廻組・二人扶持金五両、同七年十月五日御馬廻組・十五人扶持へ進み、以後代々御武具土蔵預り、御武具奉行並びに兵学師範を歴任した。安永二年十一月高山の百姓一揆鎮定のため出動している。寛政六年六月二十人扶持を受けた。また前田利謙の命で加越能三州之図を改め、屏風に描き武具蔵に納めた。更に飛州街道領境まで図面を作り、八尾より切詰村通り飛州街道図面を作成中、同十年六月に没した。
 養子周蔵淳直は齋藤家より寛政六年七月十八日に入り、十月兵法師範となる。文化五年十二月ロシアの侵略に備えるため蝦夷地臨時出動準備が命じられる(出動はせず)。文政六年十二月に没。
 長男が出家、次男は養子に出たため、三男三郎太夫弼直が跡を継ぐ。文政七年三月二十九日御馬廻組二十人扶持を手始めに職を歴任し、藩へ藩士十一歳の時には必ず甲冑著初の式を行うべきことを建言、有沢家より地理を学んで加越能三州図を屏風に描き、前田利幹に嘉納した。
 次の周蔵直賢も御武具奉行、兵学師範役、御近習並を歴任し、安政七年には二十四歳で百石、明治二年には銃隊物頭並、兵学御師範役として銀五枚、御武具兵器方御用として頭料金二十両を受けている。
【註釈】
●儒学の学派 
朱子学派(宋学) 
 薩南学派…桂庵玄樹 
 京学…藤原惺窩 
 南学…南村梅軒 
 陽明学派…中江藤樹 
古学派 
 山鹿素行 
 伊藤仁斎(堀川学派) 
 荻生徂徠 
五考証学派…吉田篁土敦 
折衷学派…井上金峨 
●朱子学の思想 
 宇宙は理と気の二元からなる。理は秩序や規範であり、それだけでは姿が見えないが、ガスである気と結びついて存在する。気が凝固したものが質で、この結びつき具合によって、形や性質の差が出る。欲望、邪悪、貴賎尊卑差も同様である。理は人間に宿ると性になる。それは本来の状態である本然の性と気により妨げられた気質の性に分けられ、前者を有する者は聖人であり、仁義礼智信、つきつめると仁を内包する。事物に結びつけば愛となる。後者を有する者は凡人である。したがって朱子学の実践目標は、個人が修養して性を澄ますことで聖人になることであり、そうすることが社会秩序を実現することであると考えた。そのためには理を窮めることが必要で、自己の内面に敬を持つことが肝要と説いた。
●時刻
 この時代は不定時法であり、現代の時刻とそのまま比較することはできない。本書の記載も参考程度と見ていただきたい。特に加賀藩では十二分割とは別に、明け方と夕方に余時を入れていた。
●明倫堂の受業者
 開校時二千六百人が願い出る。内、年少の素読生二・三百人、文化十年素読生三百人、天保九年同二百人、嘉永元年入学生二百六十人
●明倫堂入学生の初日
 初見式があり、裃を着用して、束修の扇子を持参する。教授が白鹿洞書院掲示の五教の目と為學の序を講解した。正月十一日の年賀式でも裃着用で、掲示の講解を受けた。
●加賀藩による町在の教育振興
 「御学政御修補に付、四民共御教・導之儀は孝悌を先といたし候より外無之、凡人は先入主と成候而、幼少之折覚込候儀は其習生涯透り申ものゆえ第一蒙養を重んずる事 に候」(諸事留帳)
●昌平黌の様子
 昌平黌とは昌平坂学問所のことである。孔子を祭る聖廟があり、建物は黒のモノトーンで統一されている。もともと尾張の徳川義直の支援で作られた林家の家塾であったが、四代将軍徳川家綱の頃より官立色を強め、五代綱吉が頻繁に通ったため、林家から湯島へ移した。寛政十二年三月十一代家斉の時に、老中松平定信が正式に官立とした。 
学生には稽古人と書生の区別があり、前者は幕臣子弟や昌平黌幼年部出身者であるが、四十八名のみが特別に入寮が許され、他は通学生になる。後者は諸藩からの留学生であるが、寮には八十名の定員しかないため、通常は空きが出るまで麹町の教学所に収容されていた。寮には八畳と六畳の部屋が・あり、前者は上級生用の二名部屋で、後者は下級生の三人部屋である。室内を屏風で仕切って使用した。下級生は上級生の使い走りをし、上級生就中優秀性は役付きになり、寮の万端を仕切った。 
 さて、授業であるが、寄宿寮の幕臣子弟は厳重な管理下で修業を義務付けられたが、書生寮は規則が緩く、それらしいものは月に一度の教師の講義と二度の教師による個人的講義くらいであり、それも学生側は真剣とは言いがたかった。そもそも昌平黌に通う学生は基礎がしっかりしているため、そのようなことは不要であったのであろう。まどろっこしい講義より討論を好んだ。毎日の勉強は自学自習が常であり、解釈を巡って口角泡を飛ばす討論をしたという。また自説が誤っていると知るや、すぐそれを認める潔さを誇りともしていた。また特に卒業年齢があるわけではないので、官吏当用試験を受ける者や藩で急用が無い限り心行くまで学問ができた。
 学校側は学生の学習をチェックするため読書ノートの提出や籤に当たった者に輪講をさせるが、学生も心得たもので、読んでもいない本の名を書いたり、適当な発表でお茶を濁していたようである。ただ学校側も分かっているのであろう。特に処断はなかった。 
 このような自由な雰囲気で、自由な発想が涵養されたので、高杉普作等の幕末維新で活躍する人々も現われ得たのであろう。 
 (中村彰彦「捜魂記」『諸君!』平成十五年三月号、『稿本金沢市史學事編第一』を参照)。
●本居宣長の漢意批判
 国学者として知られる本居宣長・は『玉勝間』や『古事記傳』序文で、儒学者が何かというと聖人の道を讃えてわが国に道無きが如く説くことに対し、次の如く強い異議を唱えた。曰く“実際の支那で・は道など関係なく国が乱れ、戦争に明け暮れているではないか。それに比べ、わが国は古来道などという小難しいことを言わなくとも国は治まり皇統も不変である”曰く“儒学の思想は卑近な事柄から引いているので分かりやすく、記紀からは伝わる思想が無いように見える。だがそれは幾重にも連なる美しい山々を遠くから見ているからなのである。一見ぼんやりと靄がかかっているようでも、耳を澄ませば聞こえる者には聞こえてくる”曰く“支那の物ならば何でもありがたがるのは、猿が人を毛が無いと笑うのに対し、短い毛を寄せ集めて、ほらこんなにあるじゃないか、と言い返すようなものである”等々、無邪気に漢意をありがたがる儒者を批判した。
●明倫堂の助教不足
 助教になると教授へ自動的に昇・進できるため学問に励まない者も少なくなく、儒者は子息でも学業努力を強いられるが、新番組や定番徒士なら普通に勤めれば進級増俸が可能であるため、儒者を継ぐのを嫌う傾向にあった。
●素読の座席
 素読は明倫堂に入学していなくても受講できる。各々師範に就いて学び、試業のみを明倫堂で受けた。座席は七席と算学の席があった。
●素読試業
 素読試業は毎年一回であったが、天保十年から二、五、八、十一月に実施となる。五経十一本中につき一枚を読ませ、渋滞しなければ登第で、四書正解一部、天保十年からは小学句読・大学匯参を各一部が授与された。特に白文が読めると優等として、論語匯参一部が与えられた。
●試業
 四書五経のうち四・五章を出題し、任意の一章を辯書させる。評価者は姓名を見ずに上中下で優劣を分けた。義務付けられた年齢は十八から二十八歳までで春と秋、後に春か秋にあった。二十九から三十九歳は三年に一回となっていた。
【文政二年八月十日の試業問題】 
 孟子の中
 告子上篇牛山章
 公孫丑上篇仁則榮章
 離婁上篇存乎人者章
 離婁下篇中也養不中章
 同篇徐子曰仲尼丞稱於水章
 解答方法
 何経何々之節、或は何之章
 章意、字訓、解義、餘論
 年号月日
 を筆答辯書して横目へ差し出す。試業の間は脱刀勝手(刀を置く)、章意と字訓を略し、解義のみでも構わない。また時務等に関する意見を餘論に記しても、漢文・和文・仮名書・通用文の一つに認める。孟子集註は持ち込んでもよいが、大全・正解といった細註のあるものは認めない。
【答案の記入例】昌平黌の場合。この方法に準じた。
 學而篇 子曰巧言令色鮮矣仁
 章意 此章は志をかざり候心有之候へば、本心の仁徳はうせ候と申事を示され候章にて候。
 字訓 巧言とは詞を上手に品よく申なし候、令色とは顔色をいかにも尤もらしく取繕候事のよし。
 解義 凡人は内心の見事なるやうにのみ心かけたく候、左なくして口上を上手にいひなし、顔色を尤らしくとりつくろひ、外をかざりて人の気にいらんとする時は、是則欲心の盛なるにて、本心ははやうせたりと申べし、仁は人の本心なれば、本心をうしなひたる人は、仁徳の有べきやうなし、聖人の御言葉はゆるやかなれば、鮮との給ふうえは、絶へなきといふことを心得べし。
 餘論 剛毅木訥近仁と申言葉に引くらべて見候へば巧言令色なる人の心のおそろしき事しりつべし、されば人はかりにもほかをかざりて人によろこばれんと思ひ、大切の本心を失ひ見ぐるしき心持まじき事、肝要の儀と存候。
●廣徳館の学則
寛政四年七月「北藩秘鑑」
父子有親君臣有義夫婦有別長幼有序朋友有信学校之おしへは此五倫に止まりて人々其身に行ひ各其職分のなすへき事をおこたらすつとめはけむへき事
一、師長に被仰付候人々者其役不軽候得者先其身を正しく心得教導すへし 学校志の深浅才器之甲乙にしたかひねむころに示諭すへし 仮令不器之徒たりとも丁寧に教講すへし 然ども強而おしへに不従之輩は学校御役人江可相達事
一、習学之輩は貴賎となく学頭助教之教導に従ひ無怠慢勤学之各職分を全く心掛之儀肝要たるへき事
一、講習ハ聖経賢伝を本とし諸賢諸儒正説をも兼講し又本朝先哲の書も其正しきを撰て用ゆへし 異端邪説等聖経に害あるの書は一歳禁せられ候 此外歴史諸子詩文集等も得手にしたがひ会読すへし 和漢天文暦学算法医学等ハ別に其師を被仰付候事
一、諸生を御養被成候者三年にて学業上達不仕者は学校を出すへし 師長の教に不従者は三年に不満とも指置ましく候 若今暫相学び業すゝみ可申体之者は三年を過候とも御養ひ可被成候 尤毎年諸生之学業を考へ試み相応之賞罰あるへき事
一、総而礼儀正敷心得言語進退着座之次第急度慎むへき事
一、講書聴聞中居眠り或無益之雑談或無用に席を立或扇子つかひ等堅仕ましき事
一、師長之優秀講述之善悪批評(す)ましき事
一、才器学力有之共無礼緩怠之所行候者学校を出すへき事
一、不忠不義之輩其断なくみたりに学校へ入候者早速追いしりそけ可申候 若先非を悔習学相望者は其実情をとくと見届教導すへき事
●廣徳館の寄宿生被下方割合
一、壱人扶持
三百九十石より二百石まで
一、壱人扶持銀百目
百九十石より百五十石まで
一、壱人扶持銀弐百目
百四十石より百石まで
百四十俵より百俵まで
三十人扶持 
一、壱人扶持銀弐百五十目 
九十石より五十石まで
九十俵より四十俵まで
二十九人扶持より十一人扶持まで
一、壱人扶持銀三百目
三十九俵以下
十人扶持より五十人扶持まで
旧富山藩学生沿革取調要目 
学校総引受二名 家老職
千石以上には役料なし
学校掛二名 若年寄
四百石以上には役料なし 
学校奉行二名 頭取
同右
学校横目四名 準頭の中
役料銀拾枚以上付与 
学校方下役兼横目六名 下士
銀子若干
祭酒一名 準頭
文学一名 同右 
教授五名 士分
学生七名 同右 
訓導九名 同右
門衛、文庫番など十余名 
兵学、武術師範は加員 
●文化元年以降の廣徳館教官家塾
佐伯家(総曲輪)棠園.桜谷.有種
 文化元年〜明治初年
 明治五年生徒数男女七十五人
岡田家 栗園、呉陽 塾名學聚舎
 文化元年〜明治十八年
 明治三年生徒男六十人
大野家 拙斎、介堂 文化元年〜
恒川泰蔵
杏凡山(千石町) 〜明治初年
高橋篤(千石町)塾名琢磨窟 元治〜明治二年 
板倉安衛、河村彊斎、石谷井華、松田煌(鹿島町)、大塚水石、藤田呉江、三羽迂堂
安達周蔵(千石町)兵学
 以上は確認できた分のみ。藩は生・徒に廣徳館休日や余暇にも学問を奨励した。 
●富山藩江戸藩邸での藩士教育
 下士以上に文武の学習を義務付け、慶応二年文学・兵学の講義・質問・会読を月六回、武術では弓・鎗・炮・柔を月六回修業するものとされた。春と秋には出精の者を賞与して励みとした。また昌平黌や家塾への入塾や通学も奨励している(「学制沿革取調理」)。
●魚津町奉行御貸家(町奉行所)での教授
 天保年に魚津町奉行御貸家で文武教授を行う。上田作之丞が来た可能性もある。
●廣徳館学校才許金
 慶應元年一万三千五百両を貸与し、その利息を運営費に回した。
●富山藩の明治二年分限帳
明治二年の分限帳には二等教師試補、三等教師、三等教師試補、四等教師、四等教師試補の名前がある。この中には武術師範もいるため、漢学等の教育に当たったことを確認できた場合のみ上記した。
 なお、佐伯有成等七名は明治七年三月東京府小学講習所で演習し、数ヵ月後に帰って講習所や師範学校で教員養成に努めた(「学校御規則・同沿革」)。
二等教師補職 俸二十一俵
浅野昌兵衛清就山口流剣術、五十二歳 
磯野祠充興馬術、六十一歳
石谷貫蔵周教文学、四十六歳
斎藤弥兵衛基貞中條流剣術、五十三歳
佐伯慎蔵有種文学、三十六歳
松田晋兵衛煌文学、五十一歳 
大塚新吾敬業文学、四十九歳
堀才二通祥文学、三十八歳
三等教師 俸十八俵
古川兵衛二十三歳
吉田光鷭惟広二十九歳 
高木吉之丞則知三十九歳
吉田作摩広好五十三歳
杣田元輔光忠見日流柔術、山口流剣術、四十一歳
富田又作詮安五十九歳
渡辺亦人義継二十歳
板倉安衛亨文学、六十歳
小西文二有実文学、五十一歳
中村新光貫白井流剣術、五十一歳
堀内守蔵文学、三十歳
高野庵常盛漢医、四十六歳
弘中第一郎弘斉洋医、五十九歳
三等教師試補 俸十六俵
西村政蔵唯正文学、四十五歳
杏七四郎景業山口流剣術、四十二歳
久郷哲之助義篤三十八歳
河村左仲如貫民弥流居合、新調組、三十六歳
生田舎人信證中條流剣術、新調組、四十歳
甲山彦三郎敦三十八歳
戸田権三郎勝重
杉山茂慶通
野崎筧清永
小西善二有義三十六歳 
安達三左衛門常規三十三歳
織田寿三秀成御鍼本道兼而、五十九歳
広瀬栄山敏篤外科本道兼而、四十二歳 
三井善作楽哉庶務方兼、五十一歳 
森田央義和
松田権五郎信照二十歳
四等教師 俸十五俵
奥野雄輝氏輝三十九歳
森田金治氏貞三十一歳
高田収蔵種方近侍、三十六歳
永辻周作真貞二十五歳
浅野金八郎清堅二十四歳 
須藤八郎楽保十七歳
古市勝衛之賁二十六歳、新調組、二十六歳
渡瀬普
清水栄六瑯三十三歳 
松田健太郎忠直二十九歳 
赤祖父昌斉
大野篤次郎貢二十五歳
浅利伝兵衛義明三十歳
佐々左門孝曹三十一歳
渡辺岩松義成二十七歳
安達栄蔵敬直二十五歳 
瀬川良馬直刻馬術、新調組、三十一歳 
浅岡成輔四十四歳 
板倉貞佑義典三十五歳
守川直兵衛三十歳
四等教師補 俸十二俵 
佐伯文平有成文学、二十六歳
吉川多仲朝次二十七歳
島田昌太郎敬充二十六歳 
杏庄治有忠
佐々木乙摩元良二十八歳 
織田寿丹秀成
三羽元三郎明良三十九歳
杉谷静二十六歳
藤沢健次郎
小塚勝弥貞慶二十歳
松田乙松一芳
中川達二清宗
山田小六清純測量方、新調組、三十七歳
石原新之助陣吉二十六歳
多田実時敏二十五歳
村粂之丞一誠二十五歳 
富田勝衛詮照二十三歳
多村安左衛門訓導、御料理人、三十二歳 
岡本又作昭節十九歳 
平尾君平 
石黒平作
林平八郎 
高橋権五郎吉綱
栄松弥道
その他、村上吉十郎義忠 明治二年五十二歳 付寮番長から算教師に転席
posted by ettyuutoyama at 17:28| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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