2009年06月15日

第六章 天保期の蘭(洋)学

 蘭学者は身分や藩等を越えて「蘭学社中」という仲間集団に帰属意識があった。そして「社中」を通じて「日本」という共同体を遠望していた。それゆえ、日本の国益に尽くしているのだという衿持を持っていたのである(前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学』平成十八年、平凡社)。
 加賀藩・富山藩とも西洋の知識は江戸藩邸からもたらされていた。当時から江戸は情報の集積地であって、長崎から多くの海外情報が書籍を通じて一般民衆にも伝わっているし、当然参勤交代で江戸へ赴任した藩士が帰国の際、土産として持ち帰った結果地方へも広まっている。
 向学心旺盛な人々は蘭学・洋学に関心を強く持つ一方で、一定の距離を置くバランス感覚も持ち合わせていた。十代目富山藩主 前田利保(寛政十二年〜安政六年)は、天保八年物産方を設置し薬草栽培を行い、自らも岩崎常正、宇田川榕庵に本草学を学んで、大名・旗本の同好会である赭鞭会を毎月主催するほどの学問好きであった。
 『前田文書』は次のように記している。

 御十代利保公、天保年間ノ頃、蘭学ニ執心セラレ、其頃江戸市街ニ宇多川榕庵ト云ヘル蘭学家ニテ舎密学ニ秀デタル人アリケルヲ、折々聘セラレテ、其学ヲ勉強セレケル故ニ、蘭書モ追々購求セラレケル。其後旧幕ノ奥医師畑中善良、外ニ薩藩曽将酋トカ云ヘル仁モ折々召さサレケル。就中同席ニハ筑前博多公黒田備前侯ト懇親セラレ、蘭書ノ林娜(リンネ)氏トイヒル書ヲ一部、両公ニテ購求セラレ、屡前後ヲ繰替熟覧セラルゝ事モアリ。尤此書ニハ甚ダ勉強セラレ、該訳解数多抜萃セラルレドモ、惜哉完全ナラズ。又物印満(ウエンマン)草木図解ノ訳書ヲ以、和漢ノ草木品類ニ適当セラレシ訳解ヲ許多アレドモ、其全ク纏リタル不見ヘバツニ其書目ヲ洩シヌ。
 
 また『前田利保行略』には、「宇多川榕庵、小野蘭山、曽将道ニ従テ蘭学ヲ修メ花戸及ビ江戸近傍ノ草木ヲ聚メ、猶白々ニ諸処ニ採収シ、浅近ナル草木ノ名ハ大抵覚知シ、常ニ座右ニ諸書ヲ積ンデ、其名ノ当否ヲ正明ニセンコトヲ之レ務メトス」とある。
 著書には、よく知られているもので『本草通串』『本草通串証図』、和歌でもサークルを主催し鳳凰連と名付けて『詩の大綱』等を出版し、本草関係では他に『蘭説直見』『蘭説直見或問』がある。 
 このような学問好きの利保は、蘭学をどのように観ていたのだろうか。『龍沢公御随筆』に所収されている「世物語」にはこうある。
 
 今の世は西にかたむいたやうで、蘭学が流行して、かのごつとの造化の説をなま聞にしていふ者がたんとある。其内天文は、みな漢も和も我しらず蘭説に引入られて、天経惑門など、もと西洋の説に拘泥ながら、異端とも思はぬ事じゃ。世界を中に置て南さがり、空がぐるゝと回る事だとするが原及びない天上の事ゆへ、心にはかる斗で、どうでもいはるゝものじゃ。
 又仏法でも天文の事が伝はらねば蘭説に随って解くけれども、蘭説の天文では立に天をまはす事故天上に極楽なく、地中に地獄がない事じゃ。是をば弁へず、この天文の説を用へながら地獄じゃといふて説示し、三十三天など云て、尤らしく法文するはおかしい事じゃ。
 
 まさに天保頃の人々の感覚を代弁していると見ていいだろう。

前田利保 寛政十二年に八代目藩主前田利謙の次男として江戸に生まれた。母は利謙正室の侍女で江戸町屋の娘である。文化八年閏三月五日に九代目利幹の養子となって、文政元年九月に富山へ入る。天保六年十一月十五日藩主に就任した。領民救済に腐心し、財政危機と藩内対立に苦悩しつつ、安政六年八月十八日に富山で没。六十三歳であった。赭鞭会 医薬神の神農が赤い鞭(赭鞭)で草を叩いて汁を舐め効き目を調べた、という故事にちなんで命名した。 
曾盤(宝暦八年〜天保五年二月二十日 字士放、煥郷、号庸山、昌遒、占春、永山、永年) 父は庄内藩侍医の曾昌啓、祖は福建省の出で、長崎に代々住み、医者・通事を務める。江戸に生まれ、多紀藍渓に医を、田村藍水に本草を学ぶ。寛政四年薩摩藩江戸邸で侍医となった。子息の愿も薩摩藩医で本草を能くする。
天経惑門 著者は明の遊子六で、清初(1675年)に出版。地円説など西洋の天文学を基に書かれ、須弥山説をとる当時の仏教界に衝撃を与えたという。渋川春海が改暦の参考に用いる。
三十三天 六欲天の一つで、須弥山の頂上にある天。中央に帝釈天、頂きの四方に各八天人がいる。もとはヴェーダ神に由来する。

明治維新直前の洋学 それが攘夷の嵐が吹き荒れる頃になると、蘭学・洋学に対する捉え方が変化してくる。国学が全国的に普及する一方、洋学研究が当然になり、それは医学の分野に止まらず、軍事研究を通じて流入してきた。慶応頃に洋服は外国人だけのものではなくなり、横浜等の開港地からじわじわと人々の生活に取り入れられてくる。幕府海陸軍ではイギリス軍やフランス軍のユニフォームを真似た軍服が作られ、将校の中には髷を落としたものもいた。加賀藩と富山藩にも洋服は軍服の形を借りて入っている。
 もちろん人々には新しい物好きの面はあったに相違ないが、南蛮貿易の頃とは異なって、寺子屋や私塾による教育が一般に普及した結果、識字率が高かったこと、国学や儒学等の哲学思想の訓練が伝統・歴史感覚を涵養したことにより、徒な西洋礼賛にはつながらなかった。西洋の文物の流入がキリスト教への改宗を伴うものではなく、この点で支配層が改宗して西洋を丸ごと受け入れ植民地になっていった諸民族とは本質的に異なるところである。
 明治の文明開化以前よりわが国には優れた文化があり、越中国にも歴史があり、文化が根付いている。したがって西洋文明をしっかり受けとめる素地と土台は出来ていたのであり、維新以降の急速な欧化に対応し得たといえるだろう。


posted by ettyuutoyama at 18:53| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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