2009年06月15日

第五章 絵画と写真

 越中国では藩政期に蘭画や写真術が入った形跡が無く、全て明治以降のことである。しかし加賀藩として観るならば、写真術は化学研究とも相俟って深化・普及している。
絵画 加賀藩の西洋画で残っている最初は、寛政三年「阿蘭陀畫寫」六枚である。これは一六一七年にオランダの詩人Joost van den Vondelの寓話集”De Vorstelijke Warande Der Dieren"(Amsterdamの出版業者の求めで作成し、原版はBrugesの銅版彫刻家Marus Gerartsが製作。挿絵が百二十五枚あり、そのうち百十六枚が驢馬の図)にある驢馬を模写したもので、矢田四如軒が描き、山口爲範がアルファベットを写した。字形には誤りが見られるものの、日本画の趣は微塵に感じさせない出来栄えである(『石川縣史』第三編、五百頁を参照)。
 加賀藩と富山藩の絵師で蘭画(洋画)を描く人はいなかったが、泥絵を用いた真写法はあった。
 遠藤高mの多くの著書に『写法真術』六巻や『真写弁』、『鏡影発理』がある。『写法真術』(文政元年〜嘉永三年)には、文政元年に西洋の書籍を参考に考案した写法のことが載っている。これはカメラ・オブスキュラの原理で、実際に描いた絵を障子の穴から人に見せて感想を聞いているし、竹沢御殿から河北潟北面を見た絵も描いている。
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遠藤はこの写法を観積法と名付け、西洋の立積(立体図)と同法であると説明した。遠藤は加越能三州図や金沢分間絵図の作製で中心に位置し、石黒信由や西村太冲とも親しいことから、両人の影響も強かったと思われる。妻の定や母にも自画像があり、嘉永三年に三男の遠藤勘(勧)三郎は、両親の肖像画をこの手法で描いているし、ハワイやカムチャツカへ漂流した次郎吉等の絵を『時規(とけい)物語』に載せている。
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(参考) 加賀藩の洋算
 洋算が加賀藩に入るきっかけは本多利明の招聘と、短期間ながら金沢に来たことであろう。その後軍艦操練のため萩出身の戸倉伊八郎が雇われ、西洋数学を講義し、和算の瀧川友道に学んだ関口開が戸倉に触発され、外国語を独習して英米の数学書を研究している。明治二年『英人ハットン数学書』、『英人チャンバー算術書 上下』、明治三年『點竄問題集 上下』、明治四年『数学問題集 上下』など、明治十四年六月まで多数出版した(明治十七年四月十二日、四十三歳で没)。
写真術 まず大野弁吉という発明家を紹介しよう。享和元年十月に京の五条通り羽根細工師の子として生まれ、叔父で延暦寺吏人の佐々木右門の養子になり、佐々木薫(別名義時)と名乗る。中村屋弁吉とも称して、一東または鶴寿軒と号した。未確認の伝説では、蘭館出入りの従僕となり、シーボルトの身辺雑用をしていたところ、シーボルト事件が起こったため急ぎ退避しなければならず、妻が加賀国石川郡大野の中村屋の生まれであるため、天保二年に移住して稲荷町に居住した、という。蘭館職員名簿にはその名がないため事の真偽は分からない。洋算を教えながら、さまざまな発明をなしている。そのいくつかを列挙するならば、精巧な彫刻、四条派の絵画、ゼンマイ仕掛けの飛び蛙、水素ガスを入れた飛ぶ鶴、蟹の置物、等があり、ライターやピストルまで発明したそうだ(これらの中には他人の手になる者もあるかも)。著書に『一東視窮録』があり、そこにはボルタ電池の仕組みや真空ポンプの原理、エレキテル、無尽灯、自噴水、歩度計、盃台等の図面が記されている。他の書物から引き写されたものもあるが、それでもこれだけ勉強した人物はそういない。
 弁吉には写真術の心得もあり、蘭館で身に付けたそうだが、写真機を製作して、天保十五年以前に三十歳の妻うた(明治十九年没)を撮影している。水戸の徳川齊昭とも写真術を通じて交流があり、嘉永三年に齊昭が印影鏡(ダゲレオタイプ)で弁吉を撮影している。また文久二年に当時十五歳の藤井信三を撮影し、米林一光は弁吉に入門して写真術を学んで小池兵治に伝授した。本多家家臣高山一之も写真術の伝授を受け、明治三年に上堤町に写真館を開業している。銭屋五兵衛とも親しく、何かと支援を受けていたようだ。事件後には遺族を慰め、写真も残している。また福沢諭吉や大鳥圭介、渋沢栄一等とも親交があったという。壮猶館舎密方御用手伝への就任を打診されるが固辞し、福井藩からの誘いも断る。明治三年五月十九日に七十歳で没した。
 また金沢の黒岩翁が写真術を独自に習得し、廃藩直前藩主に従って上京、春木町の江戸屋敷に住み、後に本郷弓町で開業している。
藤井信三(弘化三年〜明治二十三年十一月十九日、号鏡水) 石川郡大野村出身。弁吉に学び、維新後に弁吉の親書を持って上京し、星亨を訪ねて、明治三年に開成学校に入る。横浜税関文書課長に就任し、致仕後は弁護士に転身し、更に富士製紙会社の設立に参加した。弁吉撮影の写真は曾孫の伸三がニエプス百年展に出品した際、郵送途中に紛失したという。
米林八十八(文化十年〜明治二十二年、別に一光) 京より弁吉家の番頭を務め、共に移住する。天保六年まで弁吉の下で修業し、嘉永頃に七尾等で奇物営業をし、文久頃藩御用器械師となる。維新後に硝子店を開いた。門下には大聖寺藩舎密方の小池兵治があり、明治九年仲町に開業する。
高山一之 本多周防守家来で二人扶持・銀八十目であったが、文久三年に銀百二十目に加増される。弁吉に学び、明治二年巽御殿で藩主前田慶寧と養嗣子利嗣の写真を撮影したという。 
舎密局と写真局 壮猶館内にあった舎密局は、慶応三年春に卯辰山で養生所が創設されたことから、子来坂の側へ移された。主な仕事は化学実験をして諸薬品を精製することで、硫酸・硝酸・塩酸の他に、舎利別(bitter saltか)・丁幾(caryophilliか)・越幾斯(spiritか)や蒸留水・膏薬類も作っている。責任者は既に記した高峰精一(蚕の蛹から硝酸カリを取り出すドントル、パーカッションカップに成功する)で、係員には丘村隆桑や遠藤虎次郎、旗文次郎等がいる。この内丘村隆桑は、本名が丘村隆介といい、平村の嶋村で生まれた。流刑人(桑原君平か)に学び、勧められて金沢や長崎に留学する。その後に帰郷し、文久二年十一月十五日壮猶館舎密方御用手伝に就任し、化学実験に明け暮れる日々を過ごした。廃藩後には『養蚕弁論』を著し、石川県へ産業振興の建白書を提出している。
 写真局は慶応三年に舎密局の横、玉免ケ丘に設立され、明治四年まで存続している。割場附足軽の吉田好之助は明治三年二月に修業より戻って、写真係御用に就任した。廃藩後は金沢の観音町に撮影所を設け、富山で写真館を始めた赤尾清長とも親交を持っている。
遠藤虎次郎 吉田好二に写真術を学び、明治五年頃金沢の殿町で写真館を開いた。 
旗文次郎 維新後は金沢の博労町で薬品店を開業し、写真材料も扱った。 
吉田好之助(別名藤原芳貞、通称好二) 二十俵を受け、村沢家から吉田千右衛門の養子。慶応四年に御軍艦方留書を命ぜられるが病気を理由に辞退する。明治二年五月藩から他国修業を命ぜられ、写真術を学んだ。鈴木真一の孫弟子にあたる。 
(参考)ガラス製造
 中新川郡出身の村山源次郎は横浜でガラス製造技術を習得し、帰郷後に富山中町で開業している。


posted by ettyuutoyama at 18:51| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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