2009年06月15日

第三章 測量・天文観察

和算の素養
 越中国では藩政期に和算が普及し、郡部では実践的な測量学の発達をみた。また高岡町や富山町では薬業の振興に伴う商業の振興により実践的な珠算実務が錬磨される。和算の理論的発展は富山町でみられ、関孝和の関流が広まった。著名な和算家には松本武太夫逸應や中田文蔵高寛、高木吉兵衛広当等があげられる。更に放生津の石黒信由は本多利明の洋算理論を加賀藩の河野久太郎を通じて学んでいる。地理学の発展も見た。
関孝和(寛永十九年〜宝永五年) 幕府に仕え、筆算を用いた代数「点竄術」や、方程式、行列式、幾何学の円理などの算法を考案した。
加賀と富山の地理学 祖先が越中国出身の有沢采右衛門は、加賀藩主前田綱紀に召され兵学を講じ、江戸での地図作りに名が知られる遠近道印(おちこちどういん)こと藤井半智長方が富山藩に藩医として就職したことから絵図の作製技術を学ぶ。正徳五年十一月七十七歳で没。子息が森右衛門武貞で金沢町割図を製し、元文四年九月五十九歳で没。その弟総蔵致貞は和算に通じ、子息の貞幹が富山藩の安達弼亮へ甲州流兵学と地図作製技術を伝えた。なお、西洋の地図は吊図であるが、わが国では畳を利用し広げて組み合わせた。 
測量学
このような和算の素養があったため、越中国では西洋の測量器具や測量法の理解が進み、導入されていった。
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   渾天儀(高岡市立博物館所蔵)
@石黒家
放生津の十村石黒家に生まれた藤右衛門信由(宝暦十年十二月二十八日〜天保七年十二月三日、号高樹、松香軒)は、三歳で両親を亡くし、祖父に養われて天明四年八月十五日に持高八十八石四斗八升を継承した。和算を中田高寛(同二年十一月十九日入門)、天文暦学を西村太冲、測遠術を宮井安泰から学ぶ。寛政七年射水郡縄張役、文化十四年新田才許に就任して、測量や絵図の製作に従事した。また享和三年八月三日には測量に訪れた伊能忠敬に会いに行き、翌日測量に同道している。文政十三年六月郡売薬方主附、加賀藩遠藤数馬の下十七年かけ三州地図を天保六年に完成させ、翌七年七月には十五人扶持郡年寄へと進んで高五百九十石七斗二升六合を差配した。しかし八月十七日に米隠匿の嫌疑がかけられ、その渦中に七十七歳で没する。
跡を嗣いだ次男信易(寛政元年九月九日〜弘化三年一月二十日)は、文化十三年縄張役、翌年には肝煎へ進み、和算家としても同五年に八幡宮へ算額を奉納し、同九年から天保六年にかけて領内六十三ヶ所を測量して地図を作成しながら、父と同様多くの門弟を有した。
しかし病気がちのため、嗣子信之(文化八年十二月十四日〜嘉永五年十二月十三日)が天保七年七月に新田才許と蔭聞役及び絵図方御用を仰せつかる。更に算学研鑽のため、弘化三年から幕臣で和洋算に通じていた内田五観より書簡で学んでいる。その甲斐もあり、測量や検地に業績をあげて加賀藩から賞せられ、嘉永三年平十村に任じられ、六月に海防のため藩の海岸巡視に随行し、翌年には加越能三州海岸絵図を作成した。
長男の信基(天保七年四月一日〜明治二年九月十八日)も父と共に十一歳の時に内田五観に入門し、更に和田寧門下で上野国群馬郡の斎藤宜義に師事する。特に円理が専門で、安政三年には倶利伽羅不動堂に算額を奉納している。また同五年に来訪した法道寺善からも叔父の北本栗や弟の筏井甚蔵と共に学んた。文久二年にはスウィフトタットル彗星の観測に成功し、同三・四年に暦を作成する。測量術にも優れ、『田地割制度』を著した。このような知識を生かして、嘉永六年七月新田才許及び測量方御用に就任すると、九月から測量・改修工事を行い、信由の三州絵図を修正した。安政五年絵図方御用に任じられ、十一月には幕府外国奉行巡察用の地図を作成する。文久元年にイギリス船海路測量御用、同三年軍艦絵図方御用に就任、慶応二年加賀国金岩港測量、同三年敦賀〜琵琶湖間の運河計画の測量に従事、五月に海岸製鉄所の見分、七月外国奉行の巡視に随行、同四年御台場建設の設計.計測といったような多忙な日々を送る。
 ではこのような四代にわたる石黒家の測量法とはどのようなものだったのか。信由は著書で三角関数表を作成し、正弦定理と余弦定理を説明し、航海術に球面三角関数を使用する必要を説いている。『航海標的』は弁財船の船乗りに実際の航海に役立つ本として編まれたもので、本多利明の門弟坂部広胖の『海路安心録』の誤りを訂正する目的もあった。それには、船が遭難して進むべき方向が分からなくなった時、夜は北極星、昼は正午の太陽高度を測って緯度を求めて帰国する方法が載せられている。また『測量法実用』等で道線方と交会法を用いた測量法を説いた。道線法とは道筋をいくつかの地点で区切って測点間の距離と方位を測り、折れ曲がった道筋では測点間の実測距離から直線距離を求め、坂道では勾配を測って斜面距離から水平距離を求める方法である。交会法とは測点の所々で磁石を据えて、遠方の山・島・岬等の目標物即ち交会点への方位を測る方法で、道線法の誤差を修正した。立山や二上山、石動山、白山が交会点とする。
 信基は、敦賀から琵琶湖までの測量に際し、四つの道筋ごとに「直高図」を書いた。これは高低図のことである。また「正面ニ山ヲ図画スル法」という一紙があり、これは等高線の書き方を示している。
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内田弥太郎五観(文化二年〜明治十五年三月二十九日、字思敬、号宇宙堂) 幕臣内田家の養子に入り、江戸に住む。号はウチダの音から付けたという。十一歳で日下誠に関流和算を学び、家塾瑪得瑪第加(マテマチカ)を創設する。天文・暦学・測量にも詳しく、高野長英と親交があった。明治三年大学出仕天文暦学道御用掛・星学局取締督務、翌年大学助教・文部省出仕・天文局督務となって、太陽暦へ改暦する実務を担当する。 
石黒家と天文暦学 信由には『応天暦立成補』『実符暦再編傍書術』『太陽距離表』『符天暦補遺』『暦法昼夜算法解』等、信基には『実符暦再編傍書術』『新暦法稿傍書術気策編』等がある。
今石動の運河計画 今石動では町の再建のため、元治元年九月小矢部川から河北潟まで荷物運搬を目的とした運河掘削計画が立てられた。慶応元年七月にはこれと連動してか今石動から竹橋までの運河計画が立てられている。ただしこれは用水を確保して田地を増やすという点にあったようである。
次に信基が参画した運河計画について見てみよう。
A敦賀〜琵琶湖〜京都運河計画
 石黒信基が関わった事業に、敦賀から琵琶湖を通り京都までを運河で結ぶ計画がある。日本海側と京を結ぶことは、平安末からの悲願でもあった。文政から安政にかけても開削計画はあったものの、湖北地域が諸藩境であるため利害が錯綜し、彦根藩と小浜藩との対立にまでエスカレートしたため取り止めになっていた。
 慶応二年八月頃、北国から京への物資輸送ルートを確保したい加賀藩は、幕府より「一手切り」つまり単独事業を許可され、翌年実行部隊である「糧道方」を編成した。ここに信基と北本栗が測量方として参加し、縄張人・手伝・竿取人・回り方・大工等を人選している。
 北本半兵衛栗(天保三年九月十九日〜明治十九年九月二十一日、号水明、乾坤一草堂主人)は石黒信易の次男で、嘉永五年二十一歳の時に高木村の北本家へ養子に入る。富山で廣徳館の佐伯櫻谷に学び、安政末年には江戸で内田五観より教えを受け、関流算学の免許目録皆伝となっている。大坂で教え、著書も出版するが帰郷し、文久三年に加賀藩郡奉行直支配として軍艦發機丸に乗船し、測量と絵図の作成に従事する。将軍徳川家茂の上洛時には海路の警備に当たり、兵庫で下船して陸路帰郷した。新田才許や礪波郡・射水郡才許里正、測量方・絵図方御用等に任じられ、維新後も数々の要職に就いている。
 さて、運河計画に関わった人々で越中関連では、無組御扶持人荒木平助や平十村折橋甚左衛門、新田才許山田六右衛門、縄張人には礪波郡頼成村弥兵衛が選任されている。弥兵衛は信濃等で和算と測量を学んだ人物で、石黒信由の著書でも勉強していたようである。また二月から四月にかけて行われた測量では、石黒家の門弟である殿村津幡江村喜兵衛(五十歳)、長徳寺村甚之助(二十七歳)、南高木村長三郎(二十一歳)、上伏間江村(筏井)甚左衛門(二十五歳)、柿谷村与兵衛(三十歳)も参加している。
 敦賀での作業は、幕府の強い意向もあり、各藩全面協力の下に行われ、四月三日に無事測量を終えた。工事費の見積もりを、加賀藩では一日一万人が作業するとして三年間の人件費を五百から六百万両程、敦賀から塩津までの開削費を百七十七万二千三百五十九両二分と算出し、運河開削の場所は新道野通り塩津までを暫定箇所として定め、幕府京都勘定奉行からの問い合わせに回答している。なおこの測量には小沢一仙も参画し、加賀藩から褒美・謝金を百両受け取ったという話がある。
 さて石黒信基と北本栗等は四月から自宅で下絵図を作製することになり、合計七人で縮尺一万二千分の一(一一〇p×二五四p)で完成させる。更に両人は翌月も加越能三州海岸に製鉄所を建設するために適当な場所を調査する任務を帯び、出張した。
 石黒家の高樹文庫には、敦賀から琵琶湖への四つの道筋と各高低図、等高線の書き方、琵琶湖から京都への掘削計画に関しても、京都東山・日岡村・藤尾道・三井寺の見取絵図等が所蔵されている。また残された図面から、異なる高さの水面を調整するための閘門(パナマ運河と同じ)を建設する構想があったことも分かる。
 以上の大計画は残念ながら大政奉還で中止を余儀なくされるが、信基の弟で上伏間江の筏井家へ養子に入った甚右衛門(後に甚造、天保十年二月〜明治四十三年十月五日)はこの経験を生かし、明治十九年に越中汽船会社社長に就任した。
敦賀から京までの運河計画 平安の末に平清盛の長男で越前国司であった平重盛による深坂峠の開削計画や、安土桃山頃にも敦賀にあった蜂屋頼隆や大谷吉継による計画があった。
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B測量器具
 高岡御馬出町の銅工錺屋清六は、石黒信由から発注を受けて、磁石盤を製作している。その中にはバーニア目盛の付いたものもある。これは元来測量器具のオクタント(八分儀)の目盛として輸入され、本多利明等が研究した。文化三年に讃岐国久米通賢が初めて使用して地平儀を製作している。清六が製作した測量器具で現存するものは、文化十一年製作と製作年不明の百二十度目盛と、天保十四年製作と製造年不明の三百六十度目盛で、後者にはバーニア付とそうではないものがある。また文政六年には時法改正の関連で、日時計を製作した。
 使用者を分かる範囲で列挙すると、石黒信由門弟菊地橘五郎與之(百二十度目盛を更に半分に分割した磁石盤)、小杉三ケの山廻役で石黒家とも交流のあった開発屋松長太郎兵衛(錺屋清六製の同様な磁任し、測量に従事した。嘉永五年 石盤、城端の小原一白製小方儀)、大野弁吉から測量を学んだ高畠村の朝倉朝右衛門(金沢南町の米林には高畠神社へ暦を載せた算額を八十八製の三百六十度一磁石盤)、放寺村肝煎で石黒信由や五十嵐篤好に学んだ清都彦右衛門(同目盛二磁石盤)、舟川新村の信由門弟藤井辰右衛門(高岡製バーニア目盛付同磁石盤、大野規行製の小方儀と象限儀)、南高木村で石黒家とも親交があり、敦賀−琵琶湖測量にも参加した津田長三郎(錺屋清六製の同盤)、朴木村の青木太兵衛(錺屋清六製の同盤)で、その他にも所持者不明の方位盤や磁石盤等が多く見つかっている。
菊地橘五郎與之 戸出、石黒信由に学び、文政二年『算学鉤致』を費用分担する。 
松長太郎兵衛 祖は楠木正成三男正儀。小杉三ケで山廻役に就任する。天保八年六月石黒家から「新開根帳」を借用する。 
朝倉朝右衛門 文政二年高畠村肝煎の家に生まれ、大野弁吉に学んで、天保八年に測量術、平三角・弧三角・切線分外較法等の免許を得る。十八歳で検地縄張役に就任し、測量に従事した。嘉永五年には高畠神社へ暦を載せた算額を奉納する。明治二十九年没。
清都彦右衛門 戸出の是戸村(放生村)肝煎、文化八年能美郡御試内検地縄張人、文久元年礪波郡縄張役となる。また『算学鉤致』の費用分担もしている。 
藤井辰右衛門 舟川新村に生まれて、文化八年能美郡御試内縄張役となる。また『算学鉤致』の費用分担をしている。 
津田長三郎 南高木村で生まれ、祖父長三郎は文政十二年から天保七年九月二十七年にかけて信由から書籍を借用している。父の十三郎も和算が出来ることで御郡縄張人に任じられた。長三郎は文久元年に二十一歳であり、慶応三年に糧道測量手伝として参画する。子息雅之は呉羽山の四十二p天体望遠鏡を製作した。
青木太兵衛 朴木村肝煎、文久元年射水郡縄張役に就任する。慶応三年一月十八日付書状で敦賀−琵琶湖測量への参加依頼を断わっている。 
天文学と暦の改定
 月や太陽の運行で暦や時間を決めることは神秘的であり、古くから陰陽師が担当していた。しかしこれには誤差が多く、それゆえ農作業への影響も避けがたいため改める必要が生じ、和算に通じた人々により精密な計算が行われて新製された。
富山には文化頃に平賀源内に学んだ浅野北水が二十八日間逗留し、天文を講じながら塩野用水について藩の相談にも応じている。また田沼家に仕えていた谷玄仲も富山で天文を講じ、その後諏訪へ移ったという。
@西村太冲篤行(明和四年〜天保六年五月二十一日、号審之、得一館)
 父は蓑谷村から城端西下町に移住してきた商人蓑谷長兵衛で、学問を志した太冲は天明三年十七歳の時に上京して医術を学び、天文暦学を西村千助遠里(字得市、号居行)に入門した。陰陽頭安倍泰邦の改暦作業に協力するも考えが違うため去った、という逸話を持つ学者である。しかし同七年九月二十二日に七十歳で亡くなり、残された門弟達は師から一目置かれていた太冲を一致して後継者に推し、以後西村を苗字とした。尚も天文学の勉学を続けたい太冲は、翌年に麻田剛立(享保十九年〜寛政十一年)の先事館に入門を請う。だがなかなか許可が下りない。剛立は元豊後国杵築藩の侍医で天体観察や生体解剖を行うが、それ以上の研鑽が許されなかったため安永元年一月に脱藩して大坂の中井竹山と履軒兄弟を頼って学問に励んだほどの苦学者である。それ故見込みのある若者に試練を課したのであろうか。ようやく翌寛政元年に許され、一年の長さが年によって変化する理(消長法)を学んだ。同門には後に幕府天文方として寛政九年に改暦を行う高橋至時(宝暦十四年〜文化元年)や、大坂長堀の質屋で、長崎の経度を日蝕を利用して測量し、恒星の観測法を伊能忠敬に伝授した間重富(三年一月十八日付書状で敦賀−琵宝暦六年〜文化十三年)等がいて、交遊は生涯続く。
 寛政十一年には加賀藩主前田治脩に召され、琶湖測量への参加依頼を断わって 同門本保以守(金沢の緯度を測定する)の後任として明倫堂で天文学を講ずることになったが、藩は陰陽についての講義を望んだため意見が合わず、京へ戻る意向を伝えた。しかしせっかくの人材を手放したくない藩は、辞職は承諾するものの説得に努め、金五両を給し城端に住むこととなる。太冲はここに文化六年まで留まり、宗林寺町で医院を開き、その間に天文観測をしていた。また来越中の伊能忠敬と接触を図るが、機密漏洩を恐れた藩により止められ、享和三年替わりに門弟で親戚の小原治五右衛門一白が会いにいった。その後金沢へ移り、文政四年七月に藩医として十五人扶持を受けて、翌年一月から門弟である遠藤数馬高mの指揮下で開始された金沢分限図作製に参画する(天保元年十二月完成)。文政六年には時制の改訂に着手し、十三分割法から十二分割法に改める。また同八年より毎年気朔暦を製している。天文学を教え、著書も多く残した。長男の十一は京で西村家を嗣ぎ、次男長兵衛は城端の実家蓑谷家を嗣ぎ、四男政行佐左衛門が藩医を七人扶持で継承して天文観測を行っている。
小原治五右衛門宗好(明和元年〜文化十年七月九日、号一白、一白庵) 父は白漆蒔絵や曳山人形の名人林好(号几好、稀雄)で、次男であったが兄が早生したため八代目になる。日蝕や月蝕等を観測し、文化九年には渾天儀を作製した。加賀藩士沢田吉左衛門へ天文学を伝授している。
遠藤数馬高m(天明四年〜文久三年、字子温、隠居号是三) 文政二年に月蝕の図を製し、加越能三州地図の製作を監督する。同四年から金沢城下町を九年かけて測量する。同六年時法改革に参画、同八年彗星観測を行い、同十年には早川理兵衛、三角風蔵等と共に高松浜と宝達山で地球の半径を測量する。町奉行に就任し、日時計の製作も手懸けた。 
本保圭之助(十太夫)以守(享保十年〜寛政六年) 宝暦二年に千八百石御馬廻役、西村遠里に学び明倫堂の天文学講師に就任する。測量学は山崎流で、築城に詳しかった。 
A天体観測
1 天体の高度測定
 季節を求めるため正確な夏至の日を調べる必要があり、文政十一年石黒信由は金沢で太陽が真南(南中)高度を測定している。
2 日蝕・月蝕観測
 暦の正確さを試すために必要で、寛政十二年に西村太冲は三人で四・五分おきに日周運動を補正しながら、太陽の欠ける方向・蝕の進行状況(三六・五分割する平行線を張り観測)・時刻(垂揺球と授時公)・太陽高度を測っている。
3 彗星観測
 西村太冲は文化四年九月四日から十月二十六日までジョバンニ彗星、文政八年八月十一日から九月七日までポンス彗星(垂球・地平経儀・子午線表・象限儀を使用)、石黒信基は文久二年八月二日から四日までスイフト・タットル彗星(象限儀・方位盤を使用)の観測を行っている。西村太冲の観測記録は金沢市立図書館、石黒信基の観測記録は高樹文庫に所蔵されている。
4 真北の測定
 文政六年に時法が改められ、翌年日時計の磁石のずれを測るため行われた。太陽の高さ・影の長から金沢城下町を九年かけて測量さが東西で同じになる時の方向と時刻を測定し、その中心をとって求めた。
B観測器具
 西村太冲は麻田派の器具を伝え、象限儀・子午線表・垂揺球儀・星鏡などがある。門下では城端の小原治五右衛門宗好が文化九年に渾天儀を作製、金沢の米室白裕は新製平天儀を作製した。白裕は土御門家触頭で、氷見町役人の田中権右衛門や婦中の舟木半右衛門とも交際があった。半右衛門は通場の十村で、白裕から天文暦学を教わり、安政五年に彗星観測をしている。
 礪波郡埴生村の松田東英は、享和元年に金沢へ赴いて、同七年に藩士寺西蔵大の手医師となり、望遠鏡や顕微鏡を作っている。天保八年遠藤高mの推挙で表彰された。弘化四年に没。なお金沢堅町の時計師与右衛門も垂揺球儀と同構造の正時版符天機を作製している。
 富山藩兵学師範の安達周蔵弼亮(公績)は安達平馬恭桂の次男に生まれ、加賀藩士小川氏忠と馬場政乗に学んで、有沢貞幹に甲州流兵学の伝符状を受けた。明和三年に富山藩の御先手廻組、後に御馬廻組に入り、兵学師範として以後代々兵学を講じた。安永二年十一月には高山での百姓一揆鎮定のため出動している。また本保以守からは天文学を学んでいて、地球儀や天球儀、渾天儀を所有している。
 更に加賀藩には本多利明により三角関数が伝わり、河北郡二日市村池田屋又三郎の子三角風蔵等も学本多利明に測量と算学を学んでいる。
三角庄右衛門風蔵(天明四年〜慶応四年) 農家に生まれ、江戸で本多利明に測量と算学を学び、藩の割場附足軽となる。遠藤高mの下で測量に従事したことでも知られている。 
C時法改正
 加賀藩では承応元年以来、生活の便を優先して独自の十三分割法(六ツと七ツ半の間に一日二回余時が入る)を採っていたが、幕府や他の藩との整合性が問題となり、文政六年八月十二分割法に改めることになった。しかし領民からの猛烈な反発を受け、翌年七月十日に推進者の隠居前田齊廣が麻疹で没したことを契機に復旧派の勢力が増す。寺島蔵人等十三人からなる教諭方と遠藤高mは解職され、齊廣の竹沢御殿も取り壊されてしまった。十二月時法も元に戻される。
 参照 加賀藩の時辰割は『石川縣史』第参編(昭和十五年) 四七六〜四八二頁を参照のこと。

越中国の時鐘 高岡町に文化元年町奉行の寺島蔵人によって作られる。二番町会所に設置されていたが、同三年に改鋳される。現在は大仏寺にある。富山藩は富山城に貞享三年藩主前田正甫の命で設置した。しかし残念ながら明治三十二年の大火で焼失してしまった。 
D暦法改正
西村太冲は天明九年二十三歳の時に『符天暦』を著し、門弟で京出身の茶室康哉は後に『修正符天暦再編』を出版する。太冲は文政八年より毎年『気朔暦』を作成し、天保七年からは四男政行が引き継いで嘉永二年まで刊行している。これは日蝕と月蝕が分かるもので、京の門弟を通じて天保二年には朝廷へ入っている。
 石黒信由には『符天暦補遺』という著書があり、曾孫信基もスウィフトタットル彗星を観測した翌年の文久三・四年に暦を作成した。
E測量家筏井満好と自然登水車
 射水郡西広上村筏井四郎右衛門満好は、源頼政の三男道右衛門尚政を祖に持つ筏井本家の二十六代目で、八男に生まれたものの、二十五代目の兄仁左衛門が病がちのため天明六年九月に肝煎役名代となり、寛政二年に跡を継いだ(兄の子息四郎三郎を総領養子とする)。石黒信由に書籍を借りながら教えを受け、自身にも実子哲次郎満直を含め門弟がいる(以後代々算学を教える)。縄張役として藩内各地で検地に従事し、天保六年十月二十四日に没した。石黒信由の娘婿説もある。
 さて満好は和算を用いて二種類の水車を構想している。第一型は動力水車の回転軸にベルトコンベアを組み合わせたもので、数個の木箱「瓶」が取り付けられている。第二型は水車と上下二本のピストンと弁付シリンダーからなる押上ポンプで、永久機関の構想である。当時ヨーロッパでは競いあって開発中であった。
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