2009年06月15日

第一章 医学

 洋学はまず医学に取り入れられる。まずわが国に西洋医学が入ってきた過程を、主なものだけ年表で確認しておくことにしよう。

慶安二年(一六四九) カスパル・スハンベルヘル(Caspar Schamburger)が出島と江戸で西洋流外科の診療と教育
寛文五年(一六六五) オランダ流医学の修得証明書が出島で日本人に発行
元禄三年(一六九〇) 元木良意がドイツ人ヨハネス・ロメリン著の解剖学書の翻訳開始。出版は明和九年(一七七二)『和蘭全身區内外分合図』
享保五年(一七二〇) 徳川吉宗がキリスト教の教義を含まない洋書の流布を許可
元文五年(一七四〇) 青木昆陽と野呂元丈に徳川吉宗よりオランダ語学習の命
延享二年(一七四五) 初めてのオランダ語辞書が青木昆陽等によって編纂
明和八年(一七七一) 杉田玄白と前野良沢が人体解剖を観察して、解剖所見が西洋の解剖学書(Anatomische Tabellen)の記載と一致していることを確認 
安永二年(一七七三) 解剖学書の翻訳書の予告編として『解剖約図』を作成
  三年(一七七四) 『解体新書』を翻訳・出版
天明六年(一七八六) 大槻玄沢が西洋医学とオランダ語の学習のため芝蘭堂を開設
  八年(一七八八) 大槻玄沢がオランダ語の手引書『蘭学階梯』を出版
寛政二年(一七九〇) 杉田玄白と前野良沢がハイステルの「外科学」を翻訳、『瘍医新書』と して出版
  五年(一七九三) 宇田川元随がヨハネス・デ・ゴルデルの内科書を翻訳し『簡明内科書』 として出版(日本で最初の内科書)。桂川甫周が幕府の外科医に任命
  八年(一七九六) 稲村三伯が蘭日辞典『波留麻和解』を刊行
文化二年(一八〇五) 宇田川玄真が『医範堤綱』(解剖・生理学)を出版
文政六年(一八二三) シーボルトが来日
 七年(一八二四) シーボルトが長崎で西洋医学と植物学の講義を開始
      【ジョン・Z・バワーズ『日本における西洋医学の先駆者たち』より抜粋】

宇田川家 津山藩医を務める宇田川道紀の長男が晋玄随(字明卿、号槐園、東海)で、父が没したため叔父の玄叔の養子に入る。養父が没した後、玄叔の実娘と結婚した。没後に嗣いだのが璘玄真(号榛斎)で、苗字は安岡。杉田玄白の娘婿であったが、放蕩したため離縁。その後学問に励む。養子が榕庵である。 

 このように西洋医学を、この時には蘭学という言葉に代表されているが、積極的に受け入れながらも、蘭方医たちは決して盲信していたわけでもなかったようである。実は西洋の医療レベルは必ずしも高いものではなかった。例えば虫垂炎にはアヘンと下剤が良いとされていたり、瀉血の効用を信じていたり、膿の悪臭や腐臭が漂う中で手を洗わず手術をしたり、黒衣で手術をするのが一般的で、またそれが飛び散った血液でゴワゴワになっているほど良いと思われていたり、麻酔は聖書の教えに反する行為と解釈されていたり、といった具合である。世界的に進んでいたのは解剖ぐらいで、寧ろわが国のように、清潔な部屋で和漢方医が適切な治療と薬を投与する方が、早く確実に治癒することであろう。したがって蘭方医たちは、西洋医学の手法を東洋医学と比較し、良いとこ取りをしていったと考えられる。
オランダ語書籍の輸入法
 それではこの時代、どのようにして洋書を輸入していたのであろうか。まず西洋医書や学術書は必ずオランダ語に訳されていなければいけない。オランダで船積みされた書籍は長崎に到着する。しかしそのままだと高価なので、普通は写されて和訳・漢訳のうえ出版された。このような方法で、享保の頃には自然科学書が盛んに輸入され、幕府の蘭学取締りは形式的なものであった。

蘭学取締令 洋書の大量流入を前に、天保十年幕府は公義関係者以外の翻訳書流布を制限しようとしたが事実上無視され、天保十一年から嘉永五年まで二十種を超える兵書が翻訳された。嘉永六年にペリーの来航を迎える前であった。

越中国の蘭方医
 次に各地の医学塾に学んだ越中蘭法医について、正橋剛二氏の論文等の先行諸研究を基に概観することにしよう。
●京
 【究理堂(龍門楼)小石家】
 高岡 高峰玄台、高峰玄稑、長崎元貞、長崎浩斎、上子元城、片山文哲、土肥俊造、佐渡三良、佐渡良益 富山 岡田瑞仙
 射水郡栗原村 山本周碩、氷見町 西井恕平、魚津 村井芳斎
 【萩野元凱】
 井波 尾崎英介
 松井周平禎 字子興、文化二年三月二十二日 二十八歳
 杉谷周介駿 字千里、文政九年三月十二日 
 福光 田辺玄泰信恒 姓藤、天明元年七月
 高岡 藤岡玄釣文穠 字士繁
 富山 堀玄長惟恭 字子順、寛政二年四月八日 二十一歳
 高山養須景行 字行夫、寛政三年四月十四日 十七歳
 氷見 吉田元亮 父元達、享和元年五月二十日 十二歳
 今石動 遠藤礼三宗城 字芳壷、文化十一年十一月八日 三十七歳
 杉木新 舘柏庵維嘉 字多山、文政三年七月二十八日 二十八歳
 魚津 稲坂玄意康 字精徳、文政五年一月二十五日 二十三歳
 不明 沢田正線蔵器 字待卿、寛政七年八月十九日 二十二歳
 【済世館 賀川家】
 明和七年 尾崎栄輔
 安永二年 藤岡哲斎、八十嶌尚斎
   七年 山本柳悦、高山寿桂、渉井詮菴
   八年 関全菴
 天明二年 高柳半兵衛
 寛政十一年 伊藤元準
 享和二年 黒田順助
 文化十三年 中沢芦人
 嘉永六年 岡本三虎
 安政二年 岡本宗伯
 三年 佐久間貞斎
 文久元年 岡本了伯
 慶応元年 岡本意仲、土肥恭蔵
 【素診館 小森桃塢】
 文化十三年六月 川崎(小矢部の下川崎) 宮永豊吉正朝(農政で名高い宮永家の一門か)
      十月 福光 石野賢良、礪波郡岩木(福光) 沼田勇蔵
   十四年十一月 桜井以文哲
 文政三年五月 川崎 宮永東作寅(尊王志士宮永良三の父)
   七年二月 礪波郡答野嶋(高岡) 中嶌謙斎
     三月 礪波郡福町(小矢部) 福島友順
   十二年五月 礪波郡 岩佐秀平
 天保二年四月 桐木(福野) 丹羽三七
 【百々家】
 安政二年二月二十五日 高岡 金田間吉改貞吉
 文久元年三月二十四日 富山 神保文斎
     十月 富山 小西隆斎
   二年四月十日 高岡 内藤慶造 小川幸三(加賀藩尊王志士)紹介、父は内藤彦介
【水原三折】
 天保八年 嵯峨与八郎
   十三年 太田順貞
 弘化三年 林玄策
 【時習堂 廣瀬元恭】
 高岡 弘化二年春 片山文哲
 安政七年暮春 高峰三養
 魚津 弘化二〜四年のいつか 五島文策
 放生津新町 嘉永元年十一月一日 青木多仲
 富山 嘉永二年八月 高桑平衛
 明治二年春終わり十三日 楠界庵
 城端 嘉永七年四月没 桜井良助
 【読書室 山本家】
 文政十一年頃 高岡 上子元城(文化四年生まれ)
 天保三年頃 氷見 岡嶋玄俊 父は西井良朔
   六年 富山藩医 岡田瑞仙
   十四年 高岡 服部修徳、沢田龍岱(文政十一年生まれ) 不明 金古景山
   十五年 僧 鑑月 水橋 岩城潜龍 不明 高田一言
 嘉永二年 今石動 建部有方
   三年 越中の所化 界雄、香厳、知教、露真
 不明 岡玄伯
 安政二年 富山 田中正伯
      高岡 内藤玄鑑
●大坂
【適々斎塾 緒方洪庵】
 弘化三年九月十二日 高岡 片山文哲逸
 嘉永七年閏七月三日 高岡 佐渡賢隆
 安政四年四月 新川郡米田町(富山) 赤祖父昌斎
 その他 高岡津島元桂(号は北岳、江戸で剣術道場を開くが、二十六歳で没)
●江戸
【迎翠堂 土生玄硯】
 高岡 高峰幸庵 入門時越後高田
 立横町 鷲塚謙三 二十七歳
     池田邦太郎 明治六年四月七日 二十一歳
 富山 宮川泰順、村井文聴
 新湊町 内藤欽二 明治六年四月 二十五歳
 【安懐堂、日習堂 坪井信道】
 高岡 利屋町 佐渡賢隆
 氷見 馬島礼蔵礼 字和卿、号放鶴 加賀藩馬島明眼院門人
 不明 森良策
 その他 黒川良安、佐渡良益、高野元礼
 【芝蘭堂 大槻玄沢】
 文化十四年五月二十八日 高岡 長崎浩斎健
 不明 岩井敬治
 【蘭聲堂 吉田長淑】
 高岡 富田純良
 越中処士 藤浦恵蔵
●下総
 【順天堂 佐藤家】
 伏木 長谷川徳之
●紀伊、大坂
 【春林軒、合水堂大坂分教場 華岡青洲】
 文化二年十一月二十二日 射水郡三十三ケ村(大門) 舘玄仲改玄龍
   三年十月一日 富山袋町 西野大a 
   四年二月二十四日 射水郡中老田 瀧文亮
     六月四日 水橋 岩城猷助改謙造
     七月二十二日 射水郡小白石 石川良元
   六年一月二十九日 高岡 土肥恭蔵 合水堂
     二月二十一日 婦負郡杉谷村(富山) 多田茂三郎 合水堂
   十年二月三日 礪波郡杉木新町 中西通玄
 天保二年八月二十九日 礪波郡七社村(小矢部) 大谷俊造改玄龍
   四年六月二十一日 富山藩医 井口寿安、高野順恭改賢順
   五年一月二十二日 魚津 高松順元 合水堂
   六年十二月十五日 西部金屋村 高畠貞輔改修平
   七年五月十六日 礪波郡柳瀬村 斎藤宗玄 合水堂
   十五年四月二十六日 礪波郡杉木 高畠東済
 弘化三年四月九日 婦負郡上井沢村(婦中) 渡辺順碩
   四年五月十六日 福光 賀川玄龍
       二十二日 礪波郡倉村維屋町 毛利伯龍
 嘉永二年二月二十八日 今石動 九鬼秀達
   三年四月一日 富山西野彦祐
   四年閏四月二十八日 射水郡三十三ケ村 舘玄達 合水堂
   七年三月七日 射水郡殿村(新湊) 石須良為
     七月二十七日 東水橋 岩城猷輔 再入塾
     十月五日 氷見中町 宮崎忠蔵 合水堂
 安政二年九月五日 魚津 阿波加修吾 合水堂
 文久元年四月七日 下新川郡滑川 神保周輔
   三年二月二十七日 富山中町 黒田昂庵 合水堂
●長崎
【青嚢堂 吉雄権之助】 門人はシーボルトの鳴滝塾へも入門できたらしい。
滑川 黒川(松本)玄竜、良安
富山 畑玄周
他、高岡の山本道斉や新川の華岡修斎も入門か

ここに記した以外にも、京の古医方で山脇東洋の養寿院や吉益家にも多くが学んでいる。

上子元城 父は商人であったが子の才能に注目し金沢の藩医内藤家に預け、江戸や京で修行させた。子息元城(坦庵)は津島北溪に託し眼科を学ぶ。
土肥家 高岡町医者恭蔵伯敬(号知言)は合水堂で学び、漢詩も能くした。子の俊造は小石中蔵に学んだ。
沢田龍岱 高岡町医者。父の早雲や兄の周謙は文人としても知られている。十三歳で神農講に参加する。後に早雲と名乗り、石崎謙の妹婿であり、高岡学館の句読師にも就く。
舘柏庵 杉木新町で弘化頃より明治初期に開業する。実父は矢木村根尾宗四郎。嘉永四・五年に杉木新に移る。合薬商でもあった。
中西通玄 杉木新中町で文政・天保年間に開業する。江戸の中西家で外科を学び中西姓を称した。天保十四年に没。
斎藤宗玄 祖は小矢部の福住村から移住した。屋号は福泉屋。代々医者で、子息の宗庵は寺子屋も開いた。
高畠東済 杉木新中町で天保から安政頃に開業し、牢舎医師も務めた。西部屋又七とも称し、霊渕の号で和歌や俳諧にも名がある。弟畠伯春など一族には医者が多い。
渡辺順碩 代々医者で九代目か。十代目は順伯(嘉永元年四月三日〜明治二十六年九月十八日)。
大谷玄龍(龍玄が正しいか) 砺波郡七社村の医家。源五郎には龍玄・三折・良哉の兄弟がいる。良哉が兄の名を使って入門したのかもしれない(勝山敏一『活版師はるかなり─布告から薬袋まで』桂書房)。七社の大谷家は良哉(安政二年三十三歳で没後、妻の八百が診療にあたる)の養子俊三により継承され、『増補英和単語図解 後篇』を翻訳した。明治前後には寺子屋も開いて、読み書き・計算を教えてもいる。 
賀(香)川玄龍 福光村農家川合田屋宗七三男に生まれ、初め勝蔵。医者を志し、金沢で中野随庵に学んだ後、華岡青洲の門下に入る。帰郷し嘉永四年三月表町に開業する。安政二年十二月七日四十三歳没。 
宮崎忠蔵 父の宮崎忠蔵南禎は文化・文政頃に本川町で開業し、屋号は鍛冶屋。薮田浅野泰順長男泰治郎 (後の總一郎)を養子にするが文久元年に離縁した。合水堂に入ったのは実子の寛治郎で、嘉永七年九月に仲蔵と改め十八歳で入門する。しかし病気で帰郷を余儀なくされ、安政四年八月三十日窪村にたどり着いたところで動けなくなり、九月二十五日二十一歳で没した。
橘玄格(字叔充) 山脇東洋の次男で、富山藩医六口を受けた。天明六年没。以後代々十人扶持で仕え、安政頃に名古屋へ移ったという。

医学塾
ところで越中人が学んだ医塾の蘭方医とはどのような人物だったのだろうか。蘭方の越中国への浸透を理解するために、まずは大まかに把握しておくことにしよう。
●小石元俊道(字有素、号大愚)
 寛保三年九月十六日山城国に若狭国酒井家の藩医を父に持って生まれ、十歳で大坂の淡輪元潜(柳川藩医)に入門し、その後山脇東洋の高弟永富独嘯庵に師事する。明和六年大坂で開業し、後に京へ転じた。天明三年橘南谿等と人体解剖を行い、同六年には江戸で大槻玄沢と交際して、大坂の橋本宗吉を彼の下に入門させ、『パルヘイン解剖書』を訳させている。享和元年に大坂へ移り、やがて上京して究理堂を設立した。文化五年十二月二十五日六十六歳で没。
●小石元瑞竜(号木聖園、蘭斎、秋岩仙史)
 天明四年十一月二十日に元俊の子として京に生まれ、大坂で篠嶋三島に漢学を学ぶ。寛政十一年に父と江戸へ行き大槻玄沢に師事した。その後京で開業し、父を継いで究理堂を経営する。嘉永二年十二月十日六十六歳で没した。
●小石中蔵紹(字君厥、号蘭屋、石工斎、篷嶼)
 文化十四年七月二十三日京で元瑞の次男に生まれる。九歳で頼山陽に書を学び、師の没後は豊後竹田の角田九華に入門した。天保七年江戸で坪井信道に十年間就いて蘭学と西洋医学を学びつつ、渡辺崋山、高野長英、小関三英と親交を持った。そのため蛮社の獄の際には師から小関三英戸の関係を問われ蟄居を命じられたこともあったが、同十二年に家督を相続し、嘉永二年楢林栄建と熊谷鳩居堂の後援で種痘所有信堂を設立した。明治二十七年十二月二十六日七十八歳で没。
●荻野元凱(字子原、在中、左中、号台州)
 元文二年十月二十七日に金沢で生まれ、奥村良筑に医を学んだ後朝廷に仕えて、安永二年滝口に補され、寛政六年典薬大允に任じられた。その後幕府の躋寿館教授を経験しするがやがて辞して京に帰り、再度朝廷に仕える。その間安永五年にオランダ商館医ツェンベリーが江戸参府の折、京で面会している。また寛政十年に従五位下、文化二年に河内守に昇任して、翌年の四月二十日七十歳で没した。
●賀川玄悦(字子玄)
 元禄十三年に近江国彦根で生まれ、父は三浦長富という。賀川は母方の姓である。農業の傍ら鍼と按摩をしていたが、本格的に医術を学ぶため上京し、産科を専らとした。明和五年に阿波藩医として徳島へ赴いたが、やがて家督を養子の玄廸に譲って京の一貫町で開業する。玄悦が説いた胎児の「下首上臀」説は、シーボルトがイギリスの産科スメリーと同様の学説であるとして、美馬順三の原稿を基にフランクフルトの『医学週報』で紹介している。安永六年九月十四日七十八歳で没。
●小森義啓(字玄良、号桃塢、春鳥斎)
 天明二年四月三日美濃国安八郡外淵村に生まれ、実父は大橋政右衛門であるが、寛永三年に美濃出身の伏見の医者小森義晴の養子になって、同七年京の蘭学者江馬蘭斎に入門した。その後伏見に戻り、文化三年海上随鴎に学ぶ。同十四年にはブカンの原著を訳し、『蘭法枢機』全五巻として刊行している。また文政三年典薬寮医師・従六位下肥後守に任じられ、人体解剖も行った。同九年にはシーボルトとも交遊し、同十一年継殿助に叙任され、天保十四年三月二十三日に六十二歳で没すると、従五位下信濃守を贈られた。
●水原三折義博
 天明二年近江国八幡に生まれ、寛政の末年に京で奥劣斎に医術を、海上随鴎に蘭学を学んだ。文化六・七年頃に帰郷して開業しますが、天保六年に京へ移住する。元治元年三月八十三歳で没。
●廣瀬元恭襲(字礼卿、号藤圃、天目山人)
 文政四年甲斐国巨摩郡藤田に生まれ、祖父周平、父恭平とも医者である。十五歳で江戸の坪井信道に入門し、やがて京で時習堂を設立したが、なおも緒方洪庵や青地林宗に学ぶ。妻のイネは蒸気船を研究し、明治六年に銀座で製造所・電信機を作った田中久重の妹は妻のイネである。リーセンドの生理学や軍事関係書を翻訳し、勝海舟とも親交があった。門弟には佐野常民や陸奥宗光がいる。京都官軍病院長を務めたが、明治三年十月二十七日に五十歳で没している。
●山本中郎(号封山、蘭卿)
 寛保二年に高岡の茶木屋日下庄兵衛の次男として生まれ、加賀藩医内藤彦助に学んだ後、京の古医方吉益東洞に就いた。本願寺の侍読になり、法主から「読書室」の堂号を賜っている。儒医七代目山本貞徳に認められ養子になり、文化十年三月に没。加賀藩からの誘いも断り、常々医者としての心構えを門人に説いたという。
●山本本三郎世儒(通称永吉、字仲直、号亡羊) 安永七年六月十六日京の油小路五条上ル上金仏町に 封山の次男として生まれる。父から学びつつ小野蘭山より本草学を学んだ。蘭山が江戸へ移った後、医のみならず本草も講じる。文化七年から没する安政六年にかけ毎年物産会を開いている。その後は榕室(文化六年〜元治元年)、渓山(文政十年〜明治三十六年)が継承した。
 渓山こと山本藤十郎章夫は亡羊の六男で、嘉永四年四月一日に採薬を目的に京を出て、漢詩や絵を描きながら十八日に高岡へ着いき茶木屋を訪れ、八月二十五日まで逗留する。その間に六月七日から七月十四日にかけ能登を巡り、七月二十二日から二十八日には立山に高峰元稑と登っている(『入越日記』)。
●緒方洪庵(字公栽、号適々斎、華陰)
 文化七年七月備中国足守藩士佐伯瀬左衛門の三男に生まれ、三平や判平と称したが、天保七年に長崎留学した折には緒方洪庵と名乗るようになる。文政九年に大坂の蘭学者中天游の思々斎塾で学んだのを皮切りに、天保二年江戸の坪井信道の日習堂で四年学び、同七年に長崎でオランダ語を修得した。同九年に大坂で開塾して大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉、大鳥圭介等の多くの人士を育成しながら、フーフェランドの内科書等多くの翻訳をなしつつ、ジェンナーの牛痘接種やコレラの予防法の普及に努めている。文久二年幕府からの再三にわたる懇請を拒み切れず、江戸で奥医師及び西洋医学所頭取に就任したが、翌年六月十日に没した。
●土生玄碩義寿(字九如、号桑翁)
 宝暦十二年安芸国高田郡吉田に生まれ、父は眼科の土生義辰である。安永七年に京で楢林塾や和田東郭(泰純)に学び、帰郷して眼科を継承したが、再度学を志し大坂で三井元孺や高充国に就いている。享和三年広島藩医に就任し、その後幕府の奥医師となって、法眼の位を賜る。しかしシーボルトから散瞳薬を貰い、その礼に将軍より拝領の紋服を与えたことが発覚し、財産没収の上禁固の処分が下される。天保八年江戸深川に隠居し、嘉永元年八月十七日八十七歳で没した。曾孫の玄真は富山市で眼科を開業している。
●坪井環(後に一助、道庵、字信道、号誠軒、冬樹、晩生)
 寛政七年一月二日美濃国池田郡脛永村に生まれ、早くから両親を失い長兄の浄界に育てられた。漢学を修めるが、宇田川榛斎の『医学提綱』を読んで西洋医学を志し、広島の中井厚沢や江戸の宇田川榛斎に就いて学んた。文政十二年江戸深川に安懐堂を設立、天保三年に日習堂を建ててオランダ語と医学教育に専念する。オランダ語はウェイラントの文法書を用い、医学は自著の『診候大概』を教科書とした。また文政九年ブールハーフェの著書を訳している。天保九年萩藩医に就任して軍事にも参画し、長男の信友は家を継がずに長州藩医とし、軍事面で活躍した。家督は門弟で高岡佐渡家の信良が養子になって継ぐ。嘉永元年十一月八日に没。
●百々俊徳(本名越智内蔵太俊徳、字克明、号漢陰、確斎、冬青老人)
 安政三年に京で生まれ、父の俊亮に医を学んで享和二年に分家、開業する。皆川淇園にも学び、太田錦城、梅辻春樵、頼山陽等と交際している。天保十年四月十三日没。
 兄の俊道(字仁傑、号識名園、富春、三仏斎)は見寿院とも称した。明和八年生まれ、小野蘭山や山本亡羊にも学び、朝廷に仕えて法眼の位に昇っている。本草学に通じていた。文政元年十月二十日に没。
●百々俊範綯(通称一郎、字茅、号鳩窓、鳩巣)
 俊徳の長男で医業を継承した。明治十一年一月三十日に没。弟(三男)の菘も医者であり、共に多くの著作がある。
●大槻玄沢茂質(字子煥、号磐水)
 宝暦七年九月二十八日陸奥国磐井郡中里村に一関藩医大槻玄梁の子として生まれ、建部清庵に医を学んた。安永七年に建部亮策と江戸に出て、杉田玄白や前野良沢に就く。天明五年長崎へ留学して、翌年に江戸で仙台藩医に就任、芝蘭堂で蘭学を講じている。寛政六年十一月がオランダ正月(西暦で一月一日)のため新元会を開いたことでも知られる。文化八年には幕府天文方に蕃書和解御用が設置されたため、馬場佐十郎と共に任じられた。ショメール日用百科事典を『厚生新論』と名付けて翻訳出版する等多くの著作がある。文政十年三月三十日七十一歳で没した。子息の玄幹(天明五年〜天保八年)は長崎で志筑忠雄に学んで蕃書和解御用や天文台訳員を務め、磐渓(享和元年〜明治十一年)は高島秋帆に触発され江川太郎左衛門から砲術を学んでいる。その子息が仙台藩砲術家の修二(号如電、弘化二年〜昭和六年)と英学者の文彦(弘化四年〜昭和三年)である。
●堀内忠寛(後に忠竜、忠亮、字君栗、号素堂)
 享和元年出羽国米沢に生まれ、父は藩医堀内忠明。文政三年に江戸で古賀穀堂に漢学を、杉田立卿や青地林宗に蘭学と医学を学ぶ。その後米沢藩医になり藩医学校好生堂に蘭医学を採用させた。弘化二年フーフェランドの小児科書を『幼幼精義』と名付けて訳し、これがわが国最初の西洋小児科書になる。越中出身者の門弟はいないのだが、リセランドの生理書を青木研造や黒川良安と訳して『医理学源』の書名で刊行している。嘉永七年三月十八日五十四歳で没した。
●吉田成徳(字直心、号齣谷、蘭馨、長淑)
 安永八年幕臣馬場兵右衛門三男として江戸で生まれ、母方の叔父吉田長粛の養子になる。一時倉持宗寿の養子になったこともあった。漢方を土岐長元、蘭方を桂川甫周に学び、宇田川玄随の『西説内科撰要』に影響を受ける。文化七年加賀藩医になり、翌年ショメールの著書を翻訳した。高野長英、小関三英、湊長安、足立長雋は皆門弟である。文政七年八月十日に藩主前田齊廣の急病で治療に向う途中、金沢の宿舎で急死した。四十六歳であった。
●佐藤泰然(旧名田辺庄右衛門)
 文化元年武蔵国川崎に生まれ、江戸で旗本伊奈家に仕えながら足立長雋や高野長英に学ぶ。天保六年長崎でニーマンに西洋外科等を教わり、同九年に江戸の薬研堀で開塾した。この時母方の姓和田を名乗っている。同十三年娘婿の林洞海に塾を譲り、佐倉へ移ることにした。その際に門弟の山口舜海を同行し、転地で順天堂を開いて父方の佐藤姓を名乗る。安政六年横浜に移り外国人と交際し、明治五年四月十日六十九歳で没した。次男松本順(良順)は幕臣松本良甫の養子になり、オランダ医ポンペに学び、戊辰の役で会津に野戦病院を建てたことでも知られている。後に軍医総監に就任した。
●佐藤尚中(号笠翁)
 文政十年四月八日下総国小見川藩医山口甫僊の子に生まれ、名は舜海。江戸で寺門静軒に学び、安藤文沢に医を学び、後に佐藤泰然に就いて佐倉に同行し、嘉永六年養子になった。安政元年佐倉藩に仕え、同六年家督を嗣いで順天堂の堂主となる。万延元年藩命で長崎に赴き、ポンペより外科等を学んだ。文久二年に帰郷し済衆精舎を設立する。明治二年に東京で大学東校主宰、大学大博士、大典医、大学大丞に就任するが、五年に辞して翌年下谷で順天堂を建てている。十五年七月二十三日五十六歳で没。著書には『棋篤魯黙児(ストロメール)砲痍論』等がある。
●華岡随賢震(字伯行、号青洲)
 宝暦十年十月二十三日紀伊国上那賀郡平山の医師華岡直道の子に生まれ、父に学んだ後上京し吉益南涯に師事して内科を修めつつ、蘭外科を大和見立に学んだ。天明五年に帰郷し、漢蘭折衷医として臨床外科を専らとし、マンダラゲ(チョウセンアサガオ)の成分を基に麻酔薬を発明する。文化元年十一月十三日には乳癌(岩のように固いため「巌」や「岩」を充てたという)摘出手術に成功した。春水軒を設立して門弟の教育に努める。天保六年十月二日七十六歳で没。
 弟の良平文献(字子徴、号鹿城、中洲、安永八年〜文政十年四月二十八日)も寛政八年に上京して吉益南涯に入門、文化元年に帰郷して兄に外科を学ぶ。和泉国堺に開業し、同十三年中之島に合水堂を設立した。
●吉雄権之助永保(別名尚貞、号如淵)
 天明五年生まれ。父の吉雄幸作(耕作)永章(号耕牛、養浩斎)は享保九年本家の五代目に生まれ、元文二年稽古通詞、寛延元年大通詞に進んだが、元文二年に誤訳をしてしまい蟄居、同九年に蛮学指南として復帰、その間医学をツュンベリーから直接学び、吉雄流紅毛外科として一派をなした。前野良沢や杉田玄白とも親交を持ち、寛政十二年八月十六日七十七歳で没した。
 権之助は文化元年大槻玄幹の勧めで志筑忠雄(中野柳圃)にオランダ語を学び、オランダ人ヅーフにフランス語、ブロムホフに英語を学ぶ。同六年蛮学(ロシア語・英語)世話掛、同八年小通詞末席、同十四年小通詞並、文政元年江戸番小通詞になり、同二年と九年には年番小通詞を務めている。またシーボルトの鳴滝塾で通訳を引き受け、自宅ではオランダ語を教えていた。天保二年五月二十一日四十七歳で没。
 門弟には甥で耕牛次男定之の子俊蔵(常三、常庵、字伯元、号南皐、観象堂)がいる。文化八年に諸国を巡り蘭学を教え、同十三年尾張国名古屋に観象堂を設立した。文政九年に尾張藩蘭学心得並びに翻訳に就任し、藩奥医師として藩から二人扶持を支給される。化学実験をして鉄砲と火薬を研究していたが、天保十四年九月二日実験中の事故で没。五十七歳であった。
 
 なお本草学は大陸渡りであるため今回は洋学に含めていない。越中国では富山藩主前田利保が大著『本草通串』『本草通串証図』を編纂し、現在は富山県立図書館に収蔵されている。
越中医者の人物誌
●長崎家
 高岡町医者長崎家の初代は江戸浪人の荻原孫兵衛(享保十八年六月九日没)で、長崎に赴き蘭方医術をみっちり学んた。元禄・宝永の頃に高岡を訪れた際病人の治療に当たったところ、人々より留まるよう請われ、横川原町に住んだという(後に一番町)。長崎医者と呼ばれていたことから苗字(姓は橘)も変え、鳥山次郎兵衛の娘を妻とした。跡継ぎがいないため礪波郡和田新町源三郎の次男を養子にし、これが二代目玄澄(安永六年二月二十九日没)である。鳥山屋治良兵衛娘との長男が三代目の玄貞(号菊古翁、安永八年十一月没)であり、男児があったが早世したため、安永四年に富山藩士で町奉行を務めた吉川唯右衛門敬明(号寥山)次男の吉五郎(十一歳)を養子に入れた。四代目の玄庭(号蓬洲)であり、十六歳にして切開手術を経験、天明四年二十歳の時に上京し楢林由仙(号白龍)から外科を学ぶ。またその間には漢籍もしっかり勉強している。同年十月五日薬に詳しい実父の強い推薦で、若いにもかかわらず法橋の位を得た。文人としても優れ、春秋左氏伝の会読や修三堂の設立に参画する。文政十二年十二月九日六十五歳で没した。私生活では養父の娘理宇との結婚生活は破綻するが、再婚後子供にも恵まれ、長男玄太郎は吉川家を嗣ぐ孫三、次男哲次郎は五代目愿禎健(字確斎、号浩斎、康斎、誠意堂主人、寛政十一年九月七日〜元治元年九月十四日)である。
 浩斎は父と同様文人としても名高く、江戸で市河米庵に書、大窪詩仏に詩を学んでいる。医者としても多くの著書があり、中でも天保二年刊の『五泉堂医話初編』は江戸で大槻磐渓の校閲を受け、京でも小石元瑞の閲読を受けている。また同十年には蘭方医学に対する中傷へ反論する『蘭学解嘲稿本』を出版している。江戸での行動記録『東遊襍録』には高峯幸庵の添書で大槻玄沢の芝蘭堂に入学し、蘭書で講義を受けた。玄沢は初心者には百人一首をローマ字で書く練習をさせたそうである。浩斎の名入り専用箋の題僉周囲にはアルファベットやオランダ語が書かれている。
 子息で六代目言定周蔵(後正国、号秋江、松風水月居士、文政九年五月二十七日〜明治七年八月二十七日)は天保二年七月京で小石元瑞に漢方・蘭方医を学び、弘化元年十二月に帰郷して、嘉永三年父の隠居に伴い家督を嗣ぐ。西洋の学問を本格的に学ぶことを企図しつつ、五十嵐篤好に国学、富士谷御杖に和歌、瑞龍寺閑雲に宗学を学んた。明治元年十二月高岡学館の開設に関わり講師となり、四年三月東京で富山藩病院掛を務めた。廃藩後の五年五月七尾県十二等出仕庶務課、七月博覧会事務取調並医事掛を歴任し、十月七尾県廃止のため帰郷し開業するが、翌年十月家督を長男言定正路に譲り射水神社の権禰宜に就任している。
 富山藩士の林九郎左衛門忠義は吉川敬明の後任として町奉行に就任し、親戚でもあった関係で、浩斎の娘が嫁いで太仲を生み、言定次男志藝二(安政三年〜明治三十九年四月十日)が林太仲の養子忠正になった。

吉川唯右衛門敬明(号寥山、享保十七年〜文化三年) 富山町奉行山伏無官社人平僧支配等を務め、次男吉五郎(蓬州)のため薬方五十八種を集めた『救民要薬集諸家祕法』を著す(天明八年三月刊行、浩斎が追補)。
法橋 本来は僧位であるが、後に仏師・絵師・儒者・医者・連歌師にも用いられた。明治六年まで続き、法印・法眼・法橋の順。

●佐渡家
 祖は止観寺城主建部佐渡守で、慶長十四年に井波から高岡の下川原へ移り、更に利屋町へ転じて医院を開いた。以後代々養順を襲名し、六代目宗順は魚津大町の阿波加李仙の弟であり、佐渡家へ養子に入る。その縁で八代目千代九郎(寛政七年十一月二十三日〜安政三年八月十三日、号竜斎)も阿波加家から入っている。出産時の家伝薬「養順湯」を調合しました。妻は長崎浩斎の妹トラ(享和三年四月二日〜明治三年八月三日)で、六人の男児が共に医者の道に進んだ。
 長男三良(文政三年七月二十六日〜明治十二年十月三日)は、伯父浩斎に見送られて十九歳で小石元瑞に就くこと四年、一旦帰郷し改めて七ヵ月昌平黌で学ぶ(「佐渡家譜」による)。九代目を継承し慶応二年『和蘭薬歌上・下』等著書もある。また書庫を蒼龍館と名付けた。
 次男良益こと後の坪井信良(文政六年八月二十八日〜明治三十七年十一月九日)は、天保十一年三月小石元瑞に学んだ後、同十四年一月江戸で坪井信道の門に入り婿養子となる。また漢籍を広瀬旭荘に、蘭学を大坂で緒方洪庵に学んた。弘化から明治十年にかけて兄に宛て書簡を定期的に発信し、高岡町の有力者はこれを基に時事研究を行ったという。嘉永六年十一月師匠の長男信友(十七歳)を後見し、三十一歳で越前藩松平春嶽の公医、安政五年蕃書調所教授補、慶応二年将軍家奥医師に駆け昇った。大坂城に勤務していた際には徳川慶喜と大坂城を脱出し、軍艦開陽で江戸に戻っている。その後は水戸、静岡と徳川家に従い、静岡病院を開院した。明治七年十二月東京府病院院長に就任し、『医事雑誌』を発刊、多くの著書を刊行する。子息の正五郎は人類学者である。
 三男秀達(文政十一年五月二十三日〜明治十九年五月二十八日)は今石動の医者九鬼秀輔へ入婿し、嘉永二年二月紀伊で華岡青洲に入門、更に江戸で兄信良の下で研鑽を積み、帰郷後に開業している。 
 四男光昭(天保元年十一月二十一日〜明治十九年八月三日)はオランダ語に通じ、千字文の蘭訳があるほど。弘化年間京の窮理堂、嘉永頃江戸の兄に学びますが、短気な性格のため迷惑を掛けることしばしばで、適塾に入門した際も不始末をしでかし退塾する。その後は祖先の名を興し建部賢隆を名乗って富山に開業するがうまくいかず、心配した信良が東京に呼び寄せ警視庁へ就職させるが、まるで身が入らず四十五歳の時に帰郷してしまう。優秀な兄と弟に挟まれ、苦しかったのかも知れない。跡継ぎがいず三良の子礼吉を養子にした。  五男脩造(幼名捨五郎、通称正頴、字士栗、号酉卒夢、六無斎、天保六年十二月十三日〜大正五年五月十二日)は安政五年五月魚津の阿波加玄李の養子に入る。ちなみに玄李の妻は姉のトリ(文政八年三月二十六日〜安政四年二月二日)である。幼時に句読を金沢の高田家や上田(耕?)から学び、十七・八歳頃富山藩校廣徳館の大野欽一郎に従い大坂へ行き、渡辺太郎や広瀬謙吉に医学じっくりと教わる間にも儒学の書を次々と読破していった。安政元年三月から五年五月には大坂今橋の春日寛平や緒方洪庵、華岡準平、山岡民部にも内科・外科・眼科等を学んでいる。その後に帰郷し養父を助け、明治四年三月金沢藩文学訓蒙文課魚津病院副長、医道御用掛医務取締に就任した。
 加賀藩は魚津病院に藤井方亭を院長として派遣し貧窮患者の治療に当たっている。明治五年原田恭平が院長の時に廃院と決まったものの、脩造他五人が嘆願書を提出し、藤井方亭を院長に脩造や飯野養順、細川秀玄、広野隣斉、中村玄逸が医者に就任し、好生社と改名して存続を決めたが、六年八月十七日の病院法令改定により閉院を余儀なくされる。しかし方亭は県庁移転で富山へ移住するまで自宅で継続している。
 脩造は明治十三年一月連合町会議長になり、二十二年八月国辱の箇条があると条約改正交渉中止を意思表示するため堀二作と上京し、二千九百五人の連署した建白書を元老院へ提出している。
 教育面では文久元年に私塾を開き千字文・孝経等を教え、維新後は文明開化の理解に務めた。明治十六年九月から十九年一月明理小学校の校長に就任し、勉学の重要性を説き、学科の選定や教科書選定に力を入れ、自ら児童心得を作って毎日朗唱させる(「國に尽せよ正直で人と仲よくきまりよく仕事は自分でするがよい、これはよい子ぞよい民ぞ」)。二十六年幼稚園教育の重要性を主唱し、自分の書や詩文を売って三百円になったら開設するつもりであったという。また四十一年には下新川郡史の編纂にも当たっている。子息敬吉は長兄三良の娘婿である。
 六男立策猪六(号緑窓、天保十年七月二十二日〜安政二年六月十五日)は文学を好み、幼児より作詩して将来を嘱望されたが、十七歳で夭折した。
●高峰家
 祖先は大和国添上郡三笠卿郷士高峰刑部で、三代目の岩城慶庵が京で典薬頭半井驢庵法印に医術を学び医者になる。元和年中驢庵の江戸行きに同道した際福井藩松平家の侍医に就任することになり、国替で越後国高田へ移った。五代目元陸の代に国替があったものの同道せず高峰姓に復し、八代目幸庵寛容(字君象、号鼎亭、遵時園)は京で吉益南涯や賀川玄廸、江戸で杉田玄白や杉田立卿、土生玄碩、大槻玄沢に就き、眼科を専門としながらヨーロッパの医療器具に関心を持ち、杉田玄白の「諳厄利亜(国産科要具アングリア?)」を模造したり、「越列吉低力的乙多(エレキチイリテイト)」を製造した。文化十年冬に富山町へ来遊した際には長崎浩斎が教えを請い、『解体新書』と『西説医範眼科篇』を講じた。同十一年に高岡町に来た時には薬剤の製煉法を教示している。何とか町に残ってほしいと考えた浩斎等は同業医者の反対を押し切るために奔走し、国泰寺侍の扱いで御馬出町に住むことになった。文政八年二月二十七日四十七歳で没。長崎蓬州とはライバル関係にあったようである。
高田町年寄長野金右衛門の娘トキを養女、高岡町奉行小堀八十大夫家来松井理右衛門嫡子の藤馬を婿に迎えて九代目を継がせる。玄台と称し、昌平黌に学んだが蘭方医に転じ、詩才も豊かであった。その長男が十代目昇卜部紳(文政十年〜明治三十三年)元稑である。天保十四年三月上京して小石元瑞に、弘化二年四月江戸で坪井信道に就くこと計七年、二十三歳の時に帰郷し医業に当たる。安政二年加賀藩より壮猶館舎密方臨時御用に任じられて金沢に赴任し、百石十人扶持を受け化学実験に明け暮れる生活を送る。そのため御馬出の医院は門弟の高庵に託されることとなり、明治三十七年まで存続していた。壮猶館では蚕の蛹から硝石成分を取り出す伝統的手法を復活させることに成功する。医者としても同六年御典医として藩主嗣子前田慶寧を診察した。この折りに精一と改める。嘉永七年九月十三日に妻の実家高岡の横田西町津田家で男児が生まれる。これが譲吉である。七歳で藩校明倫堂に入学し、慶応元年から長崎へ官費留学をした。
『浩斎年譜』 文政元年に起こった両者の行き違いと、挟まれた二十歳の浩斎の苦悩が描かれている。原因は幸庵が酒席で言ったことを同席者が誇張して蓬州に伝えたことにある。
舎密 「せいみ」と読み、chemieからの造語で化学のこと。窮理とは物理学のこと。
●片山文哲逸(文政七年〜明治二十一年四月二十八日)
 高岡の医者片山文貞の子に生まれ、弘化二年に広瀬元恭の時習堂に入門し、翌年大坂で適塾に入る。明治四年三月金沢病院高岡出張所副直医、同八年新川県種痘医員、翌年射水郡医務取締役に就任した。また北海道から多量の昆布を取り寄せて「沃剥丸(ヨードガン)」を製し、十一年十月三日金沢勧業博物館で高岡坂下町の津島玄碩が製した松根油と共に天覧を賜った。
●山本仲郎道斎(文化十一年五月二日〜安政二年十二月二十二日)
 加賀藩医山本道仙は致仕した後、寛政三年魚津で開業する。婿養子の一覚(學かも、号樫園)が継承し、高岡片原町に開業した。その子道斎は叔父の加賀藩医内藤玄鑑に請われて養子に入り明倫堂に入学、十三歳の時に藩主御前で詩経を講義し賞せられる。しかし城勤めが嫌で家出し実家に帰ってしまった。しかたがないので弟の宗春が内藤家に入る。その後道斎は昌平黌へ留学し、京でも小石元瑞や頼山陽に就いて、更に長崎でシーボルトに学んだとも伝えられる。弘化元年帰郷し医院を継承し、書堂を牛馬堂と名付け、青年教育にも当たった。嘉永元年蝦夷から北陸遍歴中の頼三樹三郎が訪れ、七ヵ月間逗留して尊王を論じている。志士の藤本鉄石も来訪した。そのため安政の大獄時には処罰を恐れた家人により著書『静思録』が焼かれる。
●尾崎玄達(寛政八年〜安政六年)
 祖は能登の長氏。号を栢山・国華といい、文化頃に長崎へ赴き、オランダ人から蘭方を学んだ。また原蕉斉から漢方を学ぶが、実父が亡くなり帰郷し家督を継いだ。能書家としても知られ、寺子屋を開いている。
●高畠次郎右エ門秋平
 北般若の西部金屋高畠博道次郎右衛門の子として生まれる。祖は前田利家に仕え新川郡井見荘日谷村にいたが、致仕して現在地に移住し帰農した。秋平は医者を志し十九歳の時に上京して、内科を福井家、産科を賀川家に学んで帰郷して開業、門弟も持ったが、改めて門弟数人と大坂へ赴き京で開業し、寛政二年十一月から橋(稿)本白敏に就いてオランダ語や蘭方医学を学んでいる。門弟の篠島貞輔を三年華岡青洲に学ばせ娘と見合わせ分家させた。自らも西村太冲に算学、泉伏翼に書を学び、江戸で宇田川榕シに化学を学ぶため旅立つ直前に急死する。弘化二年一月二日六十一歳であった。
福井家 福井柳介輗(享保十年〜寛政四年十一月三日、別名立啓、啓発、字大車、号楓亭)は京または奈良に生まれ、菅隆伯に医術を学び、六朝・唐・宋の医書を研究した。江戸の躋寿館(医学館の前身)で「霊枢」を講じる。同四年に製薬所の監に就くが、六十八歳で没する(九月二十七日説もある)。長子榕亭(宝暦三年〜弘化元年)が嗣ぎ、御典医で丹波守となる。
●長崎文景 
 福野の生まれで、長崎で蘭学を学んだ後に、文政五年から天保八年にかけて、石動の糸岡で開院したといわれる。著書には『医方秘々訣』『諸方抜萃』等があり、多くの奇行があったそうである。
●松田東英(寛政元年〜弘化四年十月二十五日)
 埴生村河内屋伊兵衛の次男で、京や長崎で蘭方医の修行をし、杉田立卿に入門、文化五年金沢町医者で眼科の松田東英の娘婿になり名を就、字を将卿、号を芹斎とした。養父は同十二年に藩士寺西蔵人の医者になり、自身は同十四年に二代目を名乗る。文政七年著名な蘭方医で藩医吉田長淑の門人になり、天保頃には反射レンズの原理で望遠鏡や顕微鏡を作って寺西秀周や前田斉泰へも献上した。同十二年五十石を得て、大野弁吉とも交流を持ち、次女は銭屋五兵衛の次男に嫁ぐ。
●洲崎勇造
 天保十三年に井波町で生まれる。安政五年三月京で産科の松岡周輔に入門し、西洋医学各科を学んだ。文久元年十一月に帰郷し開業、その後、明治八年七月から十年十一月にかけ京の松岡周吉を招いて研究を深め、十三年十一月医会を組織し医事交聞会を創設、二十年十月には井波病院を開いた。子息の勇橘は慶応二年十一月に生まれ、冨山で開院している。
●西井俊造忠(文化九年〜明治二十八年二月、字快安、号三谷)
 大聖寺藩士山口良太夫の子息に生まれ、医者の西井家へ養子に入る。岐阜の明善院で眼科、京の小石元瑞から蘭方を学んで、福井藩医に就任したものの致仕し、氷見で開院して医業に励んだ。弘化二年に再度上京して元瑞に教えを請い、嘉永三年には長崎から黒川良安へ受け継がれた人種痘法による痘苗を用い種痘を行う。また漢詩に優れ、明治十二年致誠小学校初代校長に就任した。
●高野家
氷見で代々元礼を襲名する医者で、文化十三年八月十日生まれで安政五年八月十七日に家督を嗣いだ元礼は、江戸に留学し、坪井信道に学ぶ。安政七年(万延元年)三月三日に起こった桜田門外の変では、負傷者の救護にあたっている。その後宇波に帰って医業に尽力し、明治二十八年三月二十五日に没。子息定行(天保十四年八月二十一日〜大正十二年十月十六日)は、医者でありながら、山の小学校初代校長として活躍している。
●林勘三郎(文化十年〜明治十二年五月十九日、号暁峯、別名篁) 
 堀岡新村に生まれ、大聖寺藩儒坂井梅崖に学んだ後、江戸で詩を菊地五山に学び、医を志し長崎で修学して帰郷、外科として医療に努める。玉子の白水で消毒し、蘭医学や漢籍の本を多く集めたというが、現在散逸してしまった。砺波郡高木村で没するが、酒好きが祟ったといわれた。長男右内は医者で詩人、次男秀二は小学校教員、射水郡役所勤務。
●石川俊斉(天保二年〜明治十七(別二十)年二月、名は興学・子亮、号華陵)
 専光寺村に生まれ、父が没し、十七歳で京に遊学、頼支峰に漢学、二十五歳で長崎で蘭学を学ぶ。三十三歳で帰国して、高岡の町医者松田三知の養子になった。しかし病気になり帰郷し、癒えた後に再び開業し、明治六年に新川郡医務取締に就任する。本郷高月町へ転居し、その後富山市柳町へ移った。
●内藤家
 放生津で代々町医者(高岡の内藤家や加賀藩医内藤家は分家)を務めていたが、六代目の立斎は長崎で蘭方を学び、加賀藩医に就任した。その子息欽二(嘉永二年〜大正十五年)は高岡の待賢室に学んだ後、明治六年四月二十五日に迎翠堂へ入学して医を学んた。泉田又右衛門や山本瑞圓と共に教育にも励み、その後越中自由民権運動に参画して稲垣示の同志として活躍した。
●前田良策
 文政三年氷見胡桃原村に生まれ、天保十二年三月から嘉永元年十二月まで高岡の高峰玄台に内科と種痘術を学び、江戸で坪内信良に眼科を学ぶ。更に広島で研鑚し、帰郷して嘉永五年に中村で開業した。種痘の普及に努め、明治十三年泉村に移る。子息良斉(嘉永三年〜昭和二年)は中村大橋に開業した。
●石川家
 祖は南朝遺臣。小杉小白石の石川芳昌子息昌嘉(宝暦二年〜安永七年三月十四日)は、兄が旗本牧家へ養子に入ったため家を継ぎ、加賀藩医の中村正白興孝に医術を学んだ。嗣いだ子息弥平豊一は天明五年六月十二日に江戸で学ぶため旅立つが行方不明になってしまう。そこで弟の昌純(安永二年〜文化九年七月九日)が家を継ぐため興孝に学び、養子の話を断わり帰郷して御郡方医師となった。長男芳蔵が出家して武蔵国神岡仁崇院住職となったため、弟の良逸(寛政四年〜嘉永二年四月十四日、号斎、春生堂)が父の親友の横井自伯に医を学び、更に上京して奥道逸法橋に入門する。また賀川家にも学んで大坂で開院するが、文政四年に紀伊春林軒で学び直す。文政五年に帰郷し医業に励んだ。門下には冨山の井本元貞や高岡の堀井勝二等がいる。
 子息一秀(文政九年〜明治九年一月二十五日、号格致軒、玉孤)と乾昌徹(天保七年七月二十五日〜明治二十一年八月二十八日、号五柳園主碧波、丸々坊)は共に加賀藩医筆頭森快安徳に学び、近畿や江戸へも留学して、帰郷後は兄が往診、弟が外来と分担して患者を診た。兄は良元を称し、藩校明倫堂医学試業御用も務め、嘉永三年内経素間陰陽応象大論を講じている。乾はオランダ語を診療の合間に勉強し、また囲碁・茶の湯・宝生流謡曲・俳諧・漢詩にも通じていた。白石小学校の創設にも尽力し、明治十二年からコレラの無料診療も行っている。五男日出鶴丸(明治十一年〜昭和二十二年)は生理学者として知られている。
●松本(黒川)玄龍
 祖は飛騨国松本村黒川治兵衛(屋号松本屋、正徳三年十月没)で、現在の中新川郡山加積村を開墾して黒川村と名付けた。四代治兵衛(文政六年十二月没)の長男治兵衛は苗字を松本に改め、三男玄龍(玄達、元達、号遊翁)は医者を志す。まず上市村町医山田玄東に、次いで千垣の漢方医幾島にも学び、文政七年四月に滑川大榎村で開業した。しかし知識の不足を感じ同十一年三月一念発起して田畑屋敷を売り払い、長男良安を除く子供達を親戚に託して、妻と三人で長崎へ留学する。三十九歳の時であった。父子共に吉雄権之助にオランダ語を学び、シーボルトにも就くが、折しもシーボルト事件が発生し、疲れた権之助は天保二年五月に急死してしまう。しかし更に学び続けた後、同五年二月良安を親友高島秋帆等に委ねて夫妻で帰郷した。大榎村で開業した後に富山へ移り、柳町や旅篭町で長崎玄龍として医業に励み、弘化元年前田利保より御目見医者・公事場附を命じられた。同三年隠居して金沢に移住し、遊翁と号す。安政五年六月十六日六十九歳で没した。
●華岡修斎
 祖は椎名家の家臣で、代々山廻役を務める石坂家の嫡男に生まれたが、二十歳代で家を出て、長崎でシーボルトに学んだという。加賀藩の駕籠医を経て冨山や入善で開院したが、一所にはいられず出奔、しかたがなく金川七郎左衛門次男の嘉右衛門が娘婿として入った。
●臼井典膳
 小森桃塢に学び、天保末年に富山へ移住し、荒町で医院を開くが、振るわなかったという。ただし専門の蘭方医は珍しく、門弟は多く抱え、その中の奥津里庵と弘中自貞は藩医として、支那訳蘭方医書を研究していた。また「カミツレ」「セメンシーナ」「キナキナ」等の薬名を使っている。安政頃六十余で没。
カミツレ matricaira chamomilla キク科、防腐・駆虫作用があり、頭髪の手入れにも用いた。
セメンシーナ semen-contra キク科ヨモギ属、駆虫作用がある。
キナキナ quinaquina アカネ科、アンデス原産で解熱作用がある。
●高桑元吉(号金龍、雲峰)
 祖は志摩国鳥羽にいたが、富山に移住して茶舗稲垣喜兵衛に雇われる。後年独立して鳥羽屋を屋号に茶を商った。父の平兵衛(後に壽平、号天淵、菊陀)は和歌や水墨梅花を能くし、京へも遊学していたそうである。また父祖以来献金した功で藩主前田利保に士籍入りを認められた(四十俵)。その子息が元吉で、九州に赴き亀井昭陽や帆足萬里に就き、長崎では蘭学を吸収する。その際に坂本龍馬とも知り合い、開国の急を感じたのだという。帰郷してからは殿町で医塾を開き、水薬を用いた。慶応頃に藩命で長崎に行きロレロから武器を買い付けたものの、藩がこれを認めず江戸藩邸で服毒したという話があるが、事実からは相当離れているように思われる。
●岩城家
 祖は隆平治部大夫中条彦次郎で、上杉家の侍医を務めていた。孫の英信(号慶安)は越後国高田藩医でしたが、次の道常の時に主君で徳川家康の孫松平光長が改易となって、伊予国松山へお預けになってしまう(延宝九年七月)。これを契機に富山藩へ移ったようで、五年後の貞享三年の侍帳には岩城仙庵とある。同一人物であろうか。元禄三年には六十六歳で五十人扶持でした。次の常隆(号慶庵)は致仕し滑川に居住する。孫の隆春の時には子息と思われる寛信(号玄瑞)が宝暦三年一月十三日に東水橋に招かれ、分家した。天明四年五月六日没。子息の隆則(号宗寿、玄瑞)は文化元年十二月一日に三十三歳で没し、正則(寛政七年一月十五日〜安政元年十二月、号硯寿、宗寿)が跡を継いた。文化八年に上京して古方医の吉益南涯に学び、同十三年に帰郷して地域医療に尽くす。家伝の妙薬に「薬王樹」がある。弟の嘉寛(号猷輔、硯寿、玄寿、子誠)は享和三年に生まれて文政四年八月に春林軒に学び、一旦帰郷の後嘉永七年七月二十七日に師の華岡青洲没後教授役として赴いたそうである。なお、高岡に移った高峰家とは血縁関係にある可能性がある。
●亀谷龍二(かめがい、嘉永二年〜昭和十五年一月二十七日、号寛・守拙・三杉道人)
 冨山の岡田呉陽に学び、十八歳で代師範を勤めたほどの秀才で、昌平黌で三年間学びながら、蘭方や漢学を身につける。病気で帰郷を余儀なくされたが、無料施薬や寺子屋を開く等地元に貢献し、明治維新後に私立の小学校、漢学塾研精書院を開くなどした。
●城川哲周
 七代目が東水橋に開院し、以後医者を代々務めた。金沢で蘭方と漢方を学び、子息の哲周は富山で蘭方と漢方を学ぶ。冨山藩から誘われるが断り帰郷した。その子息は良哲で、冨山の佐伯慎蔵に学んだ後、明治元年に金沢で黒川良安、翌年卯辰山の養生所で津田淳三に就く。
【北越へ出兵した富山藩蘭方医】
 富山藩の藩医には蘭方医(洋方医)が多く、藩政末期には主流を形成していた。京で究理堂や読書室に学んだ岡田瑞泉、天保四年春林軒に入門した井口寿安(天保九年分限帳で十人扶持本道)と高野順恭(賢順、同十人扶持小児医本道兼)等である。慶応四年北越出兵者の中にも参陣している。翌明治二年九月に金沢より高峰精一を招き、富山藩西洋医学校を設立した。担当した藩医は弘中高庵、高野順庵(本道・漢方)、大内弘麿、廣瀬榮山、赤祖父昌斎、織田壽三(代々御鍼)、織田秀教、織田秀立、吉田三重等である。また漢方医を解任し、一等・二等士族無役にした。十月に常備隊を組織した際には医者組以上の無役で青龍・朱雀両隊を編成する。
 富山藩の蘭方医の初めは、延宝三年幕府医法眼西玄甫にある。オランダ語に通じ、外科を専門としていた。この時の藩主は二代目前田正甫である。蘭方に関心を持ち、西の高弟杏一洞と茂野一庵を招いた。杏一洞は長崎に生まれ、延宝頃に藩に召し出される。五十人扶持・乗物料十両その上に両親へ二十人扶持という破格の好待遇を与えられた。従兄である村田小左衛門の子林子を婿養子にする。元禄十四年八月に没し、林子は二十人扶持(後に三十人扶持)を相続し代々医者を継承、実子景高(号白翁)は十人扶持で儒者となった。茂野一庵(旧林)は一洞と同門で、天保元年に招かれる。外科・四十五人扶持で、元禄三年には四十三歳である。以降各家について見てみよう。
●杏家
 前出林子は養父の弟一貞橘仙を養子にし継承させ、その後に生まれた一得を養子に出す。一仙は養父の代番を務めた後享保九年七月家督相続、二百石に昇格する。寛保二年没。実子一貞橘英は百二十石を相続し、明和九年没。実子一洞橘茂は安永二年に相続し、飛騨出動二番手に入っている。文化三年六月実子一山橘良へ家督を譲った。一山は実子が病弱なため弟岩蔵を養子とし、これが一洞秀春で同十一年八月相続したが、兄の遺児一貞を養子にし跡を継がせた。文政十年に相続している。
●赤祖父家
 祖先は平安期の官人赤染時用で、その子孫が赤祖父姓を名乗って越後国三条で守護に任じられる。戦国期に越中国に移住し、竹島や牛丸といった家臣と奥田荘に帰農した。寛永末頃に初代伝兵衛が加賀藩の十村に任じられ、万治三年富山藩領に組み込まれた際も引き続き任じられる。天明二年、八年、明和五年には御扶持人に昇格する。この分家が新川郡米田村(現在は富山市)の牛松家で、三代目の四男が義正(号昌斎、天保元年十二月〜明治二十三年八月十三日)で、富山殿町の高桑元吉に蘭学と医学を学び、安政四年大坂の適塾に入門した。慶応元年富山藩の命で長崎に留学し、精得館に入ってオランダ医者ボードインより学んで、同四年五月に富山藩医として長岡まで従軍する(六番隊)。明治二年九月には富山藩西洋医学所で教え、廃藩後に富山古鍛冶町に開業した。九年公立金沢病院富山分院(後の石川県富山病院)医員に就任し、種痘施行に功績をあげる。なお子息龍太郎は高岡で開業している。
精得館 養生所を改名、ポンペ・フォン・メールデルフォールト(一八二九〜一九〇八)が担当。
●高野家
 初代の惇庵は飛騨高原郷の郷士で、豊臣家に仕えていたが、主家の滅亡後に富山へ避難し、医院を開いた。妻も医者である。四代目順庵の時に城中へ出仕し、五代目邦俊(邦教)は御典医に就任するが、参勤の途次親不知で乗篭とも浪にさらわれてしまう。九代目常昌の弟順作は長崎へ留学し蘭方を学んだ。十代目常済は前田利保の小児保育を担当している。 
●弘中家
 初代養栄重勝は松平筑前守家来弘中藤右衛門の次男で、医者を志し長崎で外科修業中の元禄八年富山藩への就職が決まる。二百石扶持の上に御薬種料金十両という好待遇であった。享保十八年八月没。養子が自軒重遠で、柴垣源助の三男。享保十六年養父の代番を務める。明和三年九月に没。実子が養栄重則で、相続時には幼少のため十五人扶持のみ、その後も二十人扶持にしか回復しなかった。病気がちで文化十年に隠居し、文政十一年六月に没。養子が浅井道壽次男自軒重義で、文化五年十二月に養父の代番を務め蝦夷出張準備に当たる。文政十三年十月に没。実子が重巽で、その跡が自貞こと第一郎弘斉である。天保二年正月に相続し、同五年六月に本道兼帯。小森桃塢に学び、慶応四年五十八歳の時に北越へ一番御先手で出兵した。翌年明治二年には西洋医学校設置に参画する。子息が文人大内白月である。
●廣瀬榮山敏篤
 安政七年には三十二歳で、七人扶持外科本道兼ねている。北越へは二番手御先手で出兵した。 
●村山家
 祖の村山意慶は揖帯刀の子息で越前に住み、小松に召し出され慶安四年四月五十石を得るが、一時致仕して江戸へ出て、寛文十一年に帰参二百石を受けた。延宝八年没。子息意俊は百石、次の春意は六十石、そして曾孫の意春実正は享保十八年八月六十石で医者になっています。延享三年十月に百石へ加増され、安永五年十月に没。以後代々医者を嗣ぎ、意徳実許は百石で天明二年十二月没。意慶実友は八十石本道で寛政三年四月没。養子意春実断は幼少のため九人扶持のみで、天保四年四月没。意徳実明は九人扶持、意慶実明は安政七年には三十歳で外科・本道とあり、北越へは三番御先手で出陣した。
●山本家
 初代山本養貞は長崎に生まれ、筑前国医者鷹取養巳に学んで、元禄八年外科として富山へ移住する。享保六年没。養子が町医者堀道得の次男で養琢正治である。享保十年一月二十二日に富山藩より二十人扶持の外科として招かれた。元文三年没したため、甥にあたる堀平助子息養琢正綱が養子になるが寛保三年に没し、正治の子養貞世周が嗣いだ。まだ幼少のため七人扶持であったが、明和四年二月五日に藩医として十五人扶持を受ける。安永二年高山で百姓騒動が勃発し、鎮圧のために出動した。享和三年正月に隠居し、実子佑琢篤が家督を相続します。すでに寛政十年二月父の代番で参勤の御供に従い、文化五年十二月には蝦夷への出動準備に当たる。その子息が養質で天保六年に父の代番を勤める。安政七年には五十七歳で養琢を称した。北越へ御馬廻で出動した養豫と同一人物であると思われる。
●松本祐専
 富山藩医で藩のエリート部隊新調組に参画し、四十一歳の時に北越へ出兵した。
●堀家
 祖は柳田権右衛門で、二十五俵の御徒歩組として前田正甫に従い江戸へ行くが、宝永頃に致仕した。その子が平輔で、母方の姓を継ぎ医者になる。以後代々町医者として活動し、養説は京の伊良古将監に外科を学んた。子息の禮蔵は長崎で吉雄献作に学んで、天保三年十二月藩医に任じられる(十八俵外科)。玄達信直は慶応四年五月北越へ三番隊で出動した。
●西野家
 富山町の志甫屋喜右衛門次男は医者を志し、文政三年十一月華岡青洲に学んで分家した。春林軒では塾頭を務めたそうで、西野大aと称した。娘鶴の婿養子に入ったのが射水郡下村佐伯惣三郎次男の祐で、必然として医者になるため嘉永三年に華岡青洲の元へ入門した。了a時亮と名乗り義父の没後に藩医になる。慶応四年五月には北越へ四番隊で出陣している。廃藩後は外科・産科を専門としたが、明治十二年九月七日コレラで没した。
●放石荘安安義
 加賀藩医から富山藩医に転じ、嘉永六年富山梅沢町大法寺で行われた薬品会にも出品している。門弟に城川良哲等がいた。慶応四年五月三十七歳の時に北越へ五番隊で出兵したが、六月二十二日福島村で任務遂行中従卒藤次郎ととも戦死し、富山県初の靖国神社合祀者となった。
●須加家
 須加源五左衛門三男の三琢は医者になり、寛政頃に富山へ来る。享和元年に藩の御出入になり、同三年七月中奥御産方、文化五年八月五人扶持を給され、文政二年十二月に七人扶持で正式雇用された。天保二年一月二十日没。子息三順は浅草御屋敷に御産方として勤務し、天保八年四月富山へ引越す。三琢は江戸詰めで安政二年には七人扶持本道であった。正健忠隻は五人扶持外科で、明治元年十月に五十三歳で長岡へ出陣する。大房善太左衛門隊に属していた。子息の忠愛は富山の総曲輪に医院を開いたむ。
●横地家
 横地才記秀証は学問を能くし、天明元年閏五月二十五日廣徳館の助教役、同四年六月十九日中坊主組に属し、寛政二年八月四日廣徳館監生役を務め、同七年二月三日与外組格で五人扶持本道に就任する。ここから医者としての経歴が始まり、同八年十人扶持御匙加役へ進む。同十二年十一月九日没。すでに弟を継承者に指名してあり正沢重惇となるが、医療未熟と自分で言うくらいで、医者としてより六人扶持中屋敷番や本丸番を務めている。元丈重一は文政元年に生まれ、長じて本道藩医に就任した。嘉永三年に隠居前田利保の命で江戸へ種痘研究に赴いた(福井説もある)。この頃ジェンナー牛痘法が清より伝わっていた。そこで福井藩医の笠原良策は厚意で富山へ分苗し、これを元丈が親友の須川義続の長子菊子と長子成秀の両腕に接種して成功し、以後全ての幼児に接種することとされた。門弟には下村の広瀬文哲等がいる。明治元年十月には北越へも出陣した。養子が西野了aの次男一則で、八年に新川県種痘医に就任している。

笠原良策(文化六年〜明治十三年八月二十三日、字子馬、号白翁) 越前国足羽郡深見村の医者笠原竜斎の子に生まれ、江戸の磯野公道に古医方を学んで帰郷する。改めて上京し、日野鼎哉に蘭学と蘭方医を学んだ。藩主松平慶永に建言し、種痘の苗を移入することを企図する。嘉永二年に長崎から取り寄せ、除痘館を設立した。金沢や富山にも分苗している。著作には『牛痘問答』『牛痘鑑法』がある。維新後は東京へ移住した。 


posted by ettyuutoyama at 18:18| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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