2009年06月08日

第六章 浄土真宗の異安心と門徒

一、本願寺派の三業惑乱
発端 本願寺八世蓮如の「御文書」に「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて」「弥陀如来今度の後生をたすけたまへとふかくたのみ申さん人は」とある。この「たのむ」という語の意味を巡り、本願寺派内に留まらず全国の信徒を二分する争論が勃発した。これに深く関わったのが越中国の寺院である。
 七代能化職(学林の総長)の智洞は「たのむ」を弥陀の救いを希って求める「祈願請求の欲生」とし、身(体)・口・意(心)の三つの行為(三業)をそろえて頼むのが本則であると論じた(三業帰命説)。これを学林派・三業派・新義派という。一方、安芸国の大瀛と河内国堺の道隠(堺空華)は、「たのむ」と「信ずる」は同じことであり、弥陀の願いを間違いないと信じて頼りにすることを言っているのである(「帰依信順の信楽」)。三業をそろえて頼むのは「自力」の所業であり他力往生の本義に反する(一念帰命説)、と断じた。これを在野派・聞信派・古義派という。
 三業の説は二代能化職知空、五代能化職の義教(氷見町円満寺、元禄七年〜明和五年)や学友の芳山(氷見町西光寺、元禄十一年〜安永四年二月二十三日)が唱え(『閲寮壁聞』)、宝暦十二年六代能化職の功存は『願生帰命弁』を著して提唱した。これを寛政九年に七代能化職智洞は本願寺派全体に広めようとする。
越中国門徒を二分 氷見の西光寺には芳山が宗学塾の尺伸堂を設立し、義教の門人も預り大勢力を形成していた。十世義霜(宝暦十年〜天保三年)の頃には、射水郡と砺波郡から多くの入門者があった。越中真宗本願寺派の録所である古国府の勝興寺では住職の闡郁(宝暦八年一月十三日〜天保二年九月二十九日)が三業説を唱え、越中国の西半分は三業説一色となる。一方、新川郡浦山村の善功寺では住職の僧鎔(享保七年〜天明三年)が宗学塾の空華廬を創設し、古義派の学説を展開した。新川郡・射水郡からの入門者が多く、その結果越中の本願寺派門徒は東西で二分されるに至った。
幕府の裁定 本願寺では両派の抗争が激化し、法主の本如が若年で宗門の指示は朝令暮改で混乱を極め、全国でも両派が争う。ついには京で暴動・流血の事態を招き、幕府としては静観し得なくなった。享和三年四月京都二条城で京都所司代は大瀛・道隠と智洞に討論させ、更に文化元年両派と本願寺役人、越中国からも闡郁と義霜を江戸に召喚し、寺社奉行所で討論させた。寺社奉行は龍野藩主脇坂中務大輔安董で、この時の手腕が認められ、天保八年に老中になる。
 幕府は文化二年四月に本願寺本如の親書を宗意安心の基準とさせ、智洞等の学林派に回心状を提出させたが、足掛け四年にもわたる取調で智洞・大瀛を含む十人以上の病死者がでる大事件になり、同三年七月に天下を騒がせたとして両派関係者の処罰が下る。智洞は八丈島へ遠島になるがその前に病没、道隠は退隠、義霜は僧籍剥奪の上で越中・江戸・京・大坂への出入りを禁止、本願寺には百日間の閉門、勝興寺には三十日間の閉門であった。
 義霜は仏法を崇拝する心から生ずる帰命の一念なら、その心が身・口に顕れるのは当然である、主張し回心せず、再度入獄を余儀なくされ、天保二年に獄死する。
 能化職は文化四年に廃止し、文政七年に任期一年の勧学職を置いた。
越中国内の動揺 本願寺派の越中国内門徒(加賀藩領)は、藩が把握している数で八万人である。闡郁は本如の叔父である。闡郁に従っていた越中・能登の門徒に動揺が走り、加賀藩は越後との国境を厳重に固めた。文化三年一月八日に越中国の門徒は金沢へ向け出発する。闡郁の釈放・帰国の仲介を藩に求め、自らも江戸へ赴き出願するために関所通行手形を下付してもらうためであった。その数、九日に千六百人、十一日に一万六千人、風聞では二・三万人に膨れ上がる。金沢では照円寺等の寺々に分宿し、酒は一滴も口にせず、食糧は平等に分配し、畳障子に傷一つ付けなかったと言う。加賀藩では前田斉広が参勤のため不在で、早飛脚をもって江戸へ急報する。その内容は闡郁を帰郷させるように取り扱うのが一番であるが、門徒の出方によっては鉄砲の使用もやむを得ないと考えるというものであり、奥村左京はまず穏便に対応して帰郷させるようにし、やむを得ぬ場合の備えはしておくよう回答する。直ちに派遣された横目足軽山村直右衛門の説得で、門徒達は十二日昼九ッまでに越中へ帰った。二月十二日に藩は門徒に向け願書は確かに藩主へ渡したことを伝達する。江戸藩邸では闡郁の救済に全力をあげていた。
 同二年四月二十六日に智洞が回心状を提出したため、新義派の邇遠等は江戸で土井大炊・牧野備前守に駕訴し、所司代預かりとなって帰郷する。小久米村など氷見各地では藩や西方仲間御同行衆中に宛てて、在来の安心を継続しないと子々孫々の極楽往生がふさがれてしまう、と嘆願書を提出する。高岡町では専福寺や広済寺等が新義派、称念寺の順珍等が古義派に属し、町奉行の荒木五左衛門と寺島蔵人は、文化三年一月二十日に町役人へ門徒への申諭を命じた。富山藩でも同二年十二月十三日に町奉行より本願寺や江戸へ行くことを禁じる達しがある。
 本願寺では十一月に本如が三業帰命は誤りであると「御裁断書」で明示し、全国へ使僧を派遣し転向を求める。しかし七月七日に氷見の門徒多数が勝興寺に集まってこれに抵抗し、翌月射水郡加納・七分一・柿谷村等三十三ヶ村の村役人が連名で、十村に宛て使僧の越中下向延期を願い出た。使僧が入国できたのは、同十四年五月になってからであった。
二、大谷派の頓成事件 
発端 本願寺派の騒動を静観していた大谷派にも教義を巡る争いが勃発する。能登国羽咋赤崎村長光寺に生まれた頓成(寛政七年〜明治二十一年)は新川郡上市稗田村円満寺の霊暀(安永四年〜嘉永四年、宗学塾の洗心寮を設立)に師事し、京の高倉学寮で学ぶ。信心の性格について「機」(衆生)と「法」(阿弥陀仏)の二種の深信心がある。救われがたい身であると深く信じ、そのような自分を阿弥陀仏は必ず救ってくれると深く信じることであるが、頓成は、自己を反省してわが身は根機つたなく永久に苦海を脱することが出来ない、と深く信ずる(機の深心)ことは自力であり他力安心ではない、と主張する(二種深信)。本山の学寮では、天保十二年以来澄玄による取調が数度あり、頓成は回心状を提出するものの、嘉永三年に澄玄を不正義と断じて、本山での討論を求めた結果、澄玄は退隠・閉門に追い込まれる。憤慨した学寮の学生は京都所司代に訴えたため、事は公になる。幕府では江戸に関係者を呼んで訊問し、本山に頓成の再審査を命じ、訴願者を処罰した。審理の結果、同五年頓成は主張を異議とされ、法主厳如が説諭するが回心せず、ついに幕府から江戸で百日の牢入りの後、豊前国四日市への流刑が申し渡される。
 明治維新に伴う大赦令で帰郷するが回心せず、明治七年破門になる。しかし自説は曲げず、ただ称名すれば救われると自ら思って称名に励むのは自力であるが、日頃の信仰生活の中で、口と心は自ら一つであり、自ら励む思いを成さずに、ただ称名念仏していれば、これが往生の正因である(口称正因の説)と、明治十二年に説き、本山から改めて破門された。
越中国内への波及 頓成は井波町に住んでいたこともあり、また明治八年四月から一ヶ月間立山町千垣の祐教寺に滞在していたため、井波・福光・福野・氷見・中新川に支援者が多かった。特に井波の量明、中新川の皇覚や法民、氷見町常願寺の松谷無障、赤毛西念寺の鶴松東鳳、仏生寺広西寺の小谷重玄などは門人である。一方でこの説に反対する門徒は砺波郡に多く、感情的な縺れを生んだ。
 加賀藩では慶応元年に益善寺等の訴えがあり、西念寺に法話の差し止めを命じるが止めず、翌年に奉行所から召喚される。
三、大谷派と日蓮宗の宗論
天保十年四月に氷見では浄土真宗大谷派の空観と日蓮宗の日鑑が宗論をした。
 空観は尾張国養源寺の住職で、安政四年に本山の学寮で寮司になる。明治二十二年に寂。日鑑(号・通義・遊方・如猿、通称・永称院)は越前国の出身で、下総国の本円寺・武蔵国の本栄寺・和泉国の妙満寺、そして冨山の正顕寺等に移り住んだ。
 この両者の宗論は教義の内容以上に関心を呼び、同十二年に真宗の霊城は日鑑と権実の異目を論じた。
権実二教 仮の方便説と真実にして究極の教え。権教は人々を真実に導くための方便として設けられ、仏の悟りのままを打ち明けた根本的な教えに至れば廃される。


posted by ettyuutoyama at 19:42| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。