2009年06月08日

第五章 後期儒学と尊王論の普及

一、儒学の普及
 越中国内では寺子屋で四書五経を書いて諳んじ、私塾や郷学で古人の言行録や漢詩文、及び『史記』や頼山陽の史論に親しみ、地域によっては陽明学を学んでいた。
 井波町では、安政頃に金沢から田川才助が寄留して漢籍を講じる。医者とも浪人とも記され、藩に度々上書し、海保青陵の著書を薦めた。慶応頃には瑞泉寺十八世勝智(号・應正院)の招きで、小川元永(号・大夢)が漢籍と歴史を講義した。美濃国原見郡佐波村の観音寺住職で儒学に詳しかった。
 氷見町では、文政十年と翌年にかけ度々富山から藩医で儒学に造詣の深い岡田瑞仙(随筌)が来て、『論語』『蒙求』『孔子家語』の講釈を順次行った。同時期に同じく富山藩の成田梅甫(号・照翁)が縷々来訪したため、町人は漢文の読みを質問していた。天保六年五月二十九日に医者の大井玄洞が久保屋六三郎宅で素読講釈し、同十年十二月二十三日に富山から広徳館の佐伯健蔵と備後国儒者宮原龍(字・子淵、号・栗邨)が来て詩を調筆する。同十四年九月一日京から仁科白谷(名・幹、字・礼宗、亀田鵬斉の養子)が来た。安政四年十月に習学所を本川町宮の側風雅堂の跡に建て、金沢より織田左近家来渡辺六郎の兄で朱子学を学んだ渡辺竜之介(号・清軒) を家付きで招致した。落成式では孔子の聖像前に町人代表一同が供物・焼香している。翌五年一月十九日七ツ頃に三・四十人ほどで講釈を開始すると、学問の要や五倫の道等基本から始め、二月十九日には『論語』の「巧言令色」から「三省」まで進んでいる。その他にも富山や金沢などから儒者が来るたびに、町人たちは疑問点を質していた。
氷見習学所.BMP
 高岡町でも文化十一年に医者の長崎蓬洲と粟田佐久間が発案し、富山から儒学者でもある島林文吾(字・季華、号・雄山・林文、富山藩眼科医)を招いて、安乗寺で『孟子』や『唐詩選』を用いた勉強会を開く。町からは医者の子弟などが多く参加した。その他にも長崎蓬洲・後藤白雪・富田徳風が集い『春秋左氏伝』を会読する等、町内では儒学の旺盛な学習活動が見られる。
 修三堂では富田徳風が折橋甚助(号・雄山・清狂)の弟三郎(後に喜右三衛門、名・寛、号・桐陰)を娘婿にし堂内に住まわせ管理を任せる。堂で学ぶ者は百余人を数えたという。原松洲(本姓・大泉、名・簡、字・南史、号・優所、通称・清介、安永五年〜文政十二年十月十九日)も修三堂で講義する。祖は伊達家の出で、江戸の生まれ。学問のみならず武技にも優れ、丹波国福知山藩の朽木家に仕え越後国柏崎で開塾し、史学に長じていたという。『周易筆記』二巻等がある。修三堂の主宰には富田家出身の日下(茶木屋)庄三郎が就任するが、天保二年四月二十三日に没する頃には活動を停止する。
DSCF0639.JPG
 文政八年に町奉行大橋作之進(名・成之)や桑山玉山(梅染屋武兵衛次)が尽力し、谷内(白銀町)にあった詩亭養老軒(浄光庵)を取り壊した古材で敬業堂を建設し、十一月一日に富山藩広徳館の小塚外守(名・之則、号・南郊)を招き、町奉行が臨席して開堂式を挙行した。扁額は海保青陵に感化された八家の村井豊後守長世によるもので、翌年明楽(明代の音楽で京を中心に流行するが安永頃に衰退)の演奏家で煎茶人でもある八橋山通仙(名・方嵒、号・茶顛)を招いて二月に孔子を祭る演奏会を開いている。通仙には米屋亮蔵(新田節斎)等十数人が入門し、慶春楽を奏す。翌十年に高岡を発った。
DSCF0641.JPG     
 天保頃には高澤達(字・原夫・仙之助、号・菊礀)が度々来て漢詩を教えた。また中には大橋侗斎(鷲塚屋八左衛門、天明七年十二月〜万延元年五月)等のように、京で漢詩を村瀬栲亭や梅辻春樵に学んだ町人もいる。
『近思録』「道體」より
 宇宙の原理であらゆる事物の生成・存在・運動の根元である太極が動いて陽が生まれ、動が極点に達して静になり、再び動になる。太極は陰と陽に分かれて両儀が成立し、変化合一して火・水・木・金・土の五行を生じる。この気が順次排列して四季の移り変わりができる。
 五行は陰陽にまとまり、陰陽は太極にまとまる。太極は人の感覚で把握できないので無極である。五行は生まれてくると、それぞれに性格を異にする。無局という真実なものと、陰陽五行という純粋なものとが自然に混ざって凝り固まる。そこで乾・坤ができるのであるが、乾の道で男を作り、坤の道で女を作る。この男女の気がこもごも感じあって万物を生み出す。これ以後は万物が際限なく次々と生まれてくる。
 この中で人だけが男女二気の優れたものを受け、心の働きは最も霊妙である。人は形ができると、その心が活動して知の働きが起きる。心に備わる五行の性は外物に刺激されて動き、そこに善悪の区別が生じる。聖人とは中正(偏りの無い)仁義により、五行の動きや万事をきちんと定め、心の静かなことを第一とする。そこに人極(人の極到)が立ってくる。ゆえに聖人は天地と同じ徳を持ち、日月と同じ明るさを持ち、四時と同じ順序で進み、鬼神と同じように吉凶を示す。君子は中正仁義の道を修めて吉を得、小人は中正仁義の道に背いて凶を得る。
 したがって天の道を立てる時は陰と陽、地の道を立てる時は柔と剛、人の道を立てる時は仁と義を言う。また始めを原ね終わりに反るがゆえに、死生の話が分かる。
 誠には行為がなく、そのかすかな動きに善悪がある。徳は慈しむことを仁といい、事の宜しきに適うことを義といい、事の筋道を礼といい、事物の道理に通じることを智、道を守って違わぬことを信という。これらの徳を性として、それに安んじる人を聖といい、徳の本来の姿に戻り、それを失わないようにしてしっかり抑えておく人を賢という。発現の仕方が微妙で見ることが出来ず、隅々まで拡がって涯の窮められないものを神という。
二、皆川淇園の門人
皆川淇園の思想 皆川淇園(名・愿、字・伯恭、通称・文蔵、享保十九年十二月八日〜文化四年五月十六日)は、東福門院御殿医皆川春洞(名・成慶、号・白洲)の長男として京に生まれ、弟は富士谷家に養子へ行った成章である。伊藤錦里・三宅元献・大井蟻亭に学ぶ。
 これまで多くの儒者がそれぞれ自説を展開し、一派を形成してきたが、これは原典の読み方の違いによるものであり、もともとの古聖の意は一つである。字義・文理を明らかにすることで不動の訓詁を確立し、抱含する思想を解明すべきである。天地人の間に共通する神気が物に感じて心中に象を生じ、この象によって音声が生まれ、この音声の中に言葉の意義が存し、その言葉を文字にしたのが書である。言葉には古今用いられ方が異なるといえども、原理は万古一轍である。
 淇園は『易経』の研究を通じてこれを解明しようとし、富士谷成章に影響を与えた(高岡木町の鷲塚屋八左衛門こと大橋侗斎は成章門人)。丹波亀山藩や膳所藩等から招きがあり、平戸藩の松浦守清(号・静山)は寛政三年に入門している。柴野栗山(阿波藩儒者で幕府の寛政の学政を担当)や赤松滄洲(赤穂藩儒者)と三白社を結成して詩を吟じ、京に学問所を開設せんと企図し、享和三年幕府に建設地の給付を申請する。これは文化三年に平戸・宮津・膳所の諸藩が援助したことで成り、弘道館と命名する。経・史・文翰・国学の四科を備え、試験で卒業を認め、優秀者を教授に選んだ。
皆川淇園と越中国 門下に福野の上保吉左衛門(号・路麿・梅園・子遵)、高岡町の富田徳風や寺崎蛠洲(三木屋半左衛門)、富山藩広徳館祭酒の大野十郎(名・鼎、字・國寶、号・拙斎)等がいる。高岡町の修三堂掲額と時鐘の銘を草しただけではなく、実際に越中国を訪れ、寛政九年四月に魚津で蜃気楼を実見した。門人の多い高岡町にも立ち寄ったと思われる。

越中高岡新造報時鐘銘并序平安皆川愿撰并書
金沢候封内越中高岡本名関野自瑞龍公老後営兎裘為改今名其民屋敷千実為封内一大都先是天明二年春其宰寺嶋某以其未有報時鐘欲作之以恵民時請之桧公府既獲聴允未果会免職其事寝文化元年其孫寺嶋兢復来宰高岡以祖志之所在因與其同官荒木直哉相共謀之以其地傘匠街民及木街民舊有蒙恩卹賜宅地之故咨以其鎔鋳建造之事二氏喜奉其旨迺僉自乞為之宮之為貸費資不日而就既而其鐘生釁而聲嘶矣坂下街民有綿賈号鍋屋者卒出自傘匹街民之族心温其工敗奮任其事自請廨署更設冶場干梅山又募民戸銭既復督鋳再之而竟成其質純完聲又洪亮官吏歓欣民庶抃躍盖凡用銅五千六百二十五斤工千一百人十一人而畢云鐘口径三尺七寸唇厚六寸高五尺四寸併紐高六尺五寸重三千七百二十斤於是高岡庶閭正富田弘寺崎
一貫以其素為予門人馳書京師乞予為之銘銘日
良宰孝思  善継曽規   賢僚輔贊  致彼嘉咨    金木裼力  鋳建是孜
其功既就  恵同天施   一都衆庶  獲莫失時    茲勤厥績  徴之萬祀
文化三年丙寅三月既望

時鐘銘.BMP
 後藤白雪(名・璜・内記、号・菊亭・春秋園)は畑久平の弟で、越前国から大坂、京へ遊学し、後藤衡陽に就いて医者修行をし師の名をもらう一方で、皆川淇園に就いて儒学を学ぶ。高岡に戻って毎夜『水滸伝』の講じて七・八十人を集めた。なお子息の藤九郎は文政初年に情死している。
 三木屋寺崎蛠洲(名・一貫、字・孟恕・伯道、号・紫苑斎・鶯幽霊、宝暦十一年〜文政五年七月)は京で村瀬栲亭や皆川淇園に学び、詩や俳諧を能くし、軽快洒脱を身上とした。『狐の茶袋』編纂に努める。子息の敬孝(通称・二一郎・清作、号・女青)は儒学・地理学に詳しく、長崎浩斎も就いて学んだ。
宮永兄弟 淇園門下の三宅橘園(文景先生、名・邦、字・元興、号・威如斎・不知老斎、通称・又太郎、明和四年〜文政二年、石川郡松任の出身、十三歳で詩六百余首を成す)に学んだ砺波郡下川崎宮永正好の子息三人がいる。菽園(名・坦、字・叔蕩、通称・直三郎、寛政七年〜慶応三年)は三男に生まれ、十五歳で『礼記』を読了、文化十一年に京の橘園に学び、頼山陽と交遊する。大坂で古賀精里門人の篠崎小竹(天明元年〜嘉永四年)、江戸で佐藤一斉(安永元年〜安政六年、朱子学・陽明学を兼学し洋学にも造詣が深く海防を唱える)から影響を受けた。小竹の推挙で熊本藩大坂藩邸にて経学を講じた後、嘉永六年に帰郷、福光の前村礼蔵(通称・武右衛門、文化六年〜慶応二年、歌人・国学者の因幡国鹿野光輪寺向陽軒を招く)の懇請を容れ移住し、石黒氏城址の栖霞園で儒学を講じた。福光では大勢がここで学んでいる。
 五男の才五郎(名・虞臣、字・渕晦、号・半儒・半仏道人・大倉、寛政九年〜安政二年四月五日)は二十歳で橘園に学び、江戸で延岡藩や龍野藩に仕えるが、龍野の善定村大法寺で剃髪し、赤坂城址大倉山で庵を結ぶ。天保七年の飢饉の際には姫路で施行し、高野山で仏教と儒教を三年考究する。各地を廻り易を研究し、篠崎小竹の元に寓した。その後も全国を廻り、一橋家からの仕官も断って、弘化三年に美作国東南条郡野村で開塾する。嘉永二年に帰郷し金沢の竜造寺でも教え、安政二年四月五十九歳で没。その説く所は簡単明瞭である。善は必ずしも福ではなく禍は必ずしも淫ではない、などと言って善者を勧めず悪者を懲らしめないのは小人の心であるとし、善は必ず福を獲り、淫は必ず禍に遭うと断じた。
 六男の暘谷(名・寅、字・東作、通称・恒右衛門)は金沢で医者修行し、文化十三年橘園に入門した後江戸で医術を学び福光で開業する。親孝行者として藩から賞せられた。子息は良蔵(名・正純)。弘化三年に没。
三、廣瀬淡窓の門人
廣瀬淡窓の思想 廣瀬淡窓(通称・寅之助・求馬、名・簡・建、字・廉卿・子基、号・青渓・苓陽・遠思楼主人、天明二年四月十一日〜安政三年十一月一日)は豊後国日田郡豆田村に、代官所御用達貞恒(通称・三郎右衛門、号・長春庵桃秋)の長男に生まれ、父や長福寺法幢・椋野元俊・頓宮四極・松下筑陰等に学んだ後、寛政九年に筑前の徂徠門亀井南冥・昭陽父子に就くが、同十一年病で戻って養生する。文化二年に家督を弟の嘉貞(号・南陔)に譲り、長福寺学寮に開塾する。翌年八月借家で成章舎を開いた。月毎に門人へ試験を課し、その結果で等級を定める手法を採り、この方法は全国に広まった。同四年桂林荘を豆田裏町に設け、入門簿を作成する。入門者の身分は問わなかった。同十四年に堀田村の伯父貞高(通称・平八、号・秋風庵月化)の隠居所西隣に咸宜園を新築し、書庫を遠思楼と名付け、塾生と起居を共にした。文政元年日田代官の用人格になり、塾を弟の譲吉(号・旭荘)に任せるが、旭荘は天保七年に堺で自分の塾を設けたため塾経営に復帰し、弘化元年に門人矢野範治(号・青邨)を養子にして補佐させる。嘉永四年旭荘の子孝之助(号・林外)を養子にした上で、安政二年に塾を青邨に譲った。青邨は文久二年にこれを林外に譲る。
 淡窓は眼が不自由で大きな字しか読めず、読書の量を瞑想黙思で補った。敬天を根本に据え、天は善
悪禍福・因果報応・吉凶命数・政刑教化の主催者であり、天の命ずるところを欽若敬畏し、奉順聴受することは、殊途同帰・百慮一致の大道である、と説いた。また各藩が困窮している現状を打破するには、国の本なる風俗を革めることであるとし、上に立つ者の尊倨高大の風・君臣ともに誇張矜伐・秘密主義・門地の高下に拘泥・先例に因循・君臣皆文盲不学を厳しく戒め、財を生ずる道はただ「謹」「倹」あるのみと断じた。更に農兵を取り立て、学問を振興し、庶民の奢侈を禁止すること等を示した。
淡窓の門人 越中国から廣瀬家への入門者は慶応四年まで九人、明治二年から四年まで四人(全て僧)いる。文化七年七月二十三日八尾(?)の蜷川左近。天保十五年十一月十五日高岡町の佐渡良益、当時二十二歳で、師匠の坪井信道から指示されて入門する。後に坪井信良として御典医になる。弘化三年四月二日新川郡利田村出身の谷口貞三、後の画家として名を成す藹山が松本出雲守家来内として三十歳で入門する。ここからの帰途に南画を専門にすることを決心し、京で志士と交わり、頼三樹三郎や西郷・大久保達とも談じ、桂小五郎を画室に匿った。同年五月九日礪波郡城端町の東祐哉二十四歳(東源五右衛門倅) が入門、同四年一月二十一日富山橘向の高桑璋太十歳が入門する。淡窓没後の万延元年六月二十七日富山永福寺の神川が入門。文久三年九月十一日新川郡東塚原村教順寺の僧云二十二歳が入門する。維新後に林太仲の片腕として、合寺を断行する原弘三である。慶応四年九月二日砺波郡太田村から五十嵐義三郎二十二歳(間右衛門倅)と安念嘉次郎二十四歳(安次郎倅)が入門する。嘉次郎の紹介者は釈普寂こと後の首相清浦奎吾である。
 更に淡窓の門人劉石秋(通称・三吉、字・君鳳、号・平川、寛政八年〜明治二年)は安政五年から翌年四月まで高岡町に留まっている。医者の土肥俊造(名・敏、字・遜志、号・松軒)は京で石秋に学んだ。更に福野を訪れ、福富(二日町屋)平左衛門(字・真平、号・有章・翠園)・錦園父子と交際を深めた。
 淡窓の弟旭荘(文化四年五月十七日〜文久三年八月十七日)は、万延元年に越中入りし、五十嵐篤好等から大歓迎を受ける。高岡・放生津・氷見を廻り、牧野村東弘寺で宿泊した際に、「高柳山六勝」を作る。富山へも入るが、黒っぽい米と甘ったるい濁り酒、それに夜の蚊と昼の蝿に辟易したと不満を述べながら、氷売りに興味を示している。氷売りについては、嘉永五年に富山入りした曽我耐軒(古賀洞庵・松崎慊堂門下)も同様に注目している。なお万延元年九月二十七日には高杉晋作も越中に入っていた。
四、頼三樹三郎の越中来訪
頼山陽の史学 頼山陽(名・襄、字・子成、通称・久太郎・憐二・改亭・徳太郎、号・三十六峰外史、安永九年十二月二十七日〜天保三年九月二十三日)は、父で広島藩の朱子学者で勤王家として高名な頼春水(名・惟完、字・千秋・伯栗、通称・弥太郎、号・霞崖・拙巣・和亭、延享三年六月三十日〜文化十三年二月十九日)の長男に生まれ、叔父の頼杏坪に学んで詩文の才を見せる反面、情緒不安定の傾向があり、寛政九年に江戸の尾藤二洲の下で学んだ際にこの傾向は強まった。同十二年九月に脱走して連れ戻される途中に、播磨国鵤でまた脱走、十一月広島で座敷牢に入れられ廃嫡される。それで緊張が解けたのか読書に明け暮れ、『日本外史』『新策』を著す。文化二年五月に幽閉が解かれると、父の友人である神辺の菅茶山(楠正成に思いを馳せた詩を作る)が営む廉塾に塾頭として入るものの、養子に入ることを断って同八年閏二月に上坂し、父と懇意である篠崎三島と養子の小竹を頼る。小竹の紹介で京に移り蘭医の小石元瑞が保証人になって新町で開塾した。以後全国を廻りながら、執筆活動に力を入れた。文政十年には市川米庵を通じて松平定信へ『日本外史』を献上している。『日本楽府』や『日本政記』等史論を多く著した。学風は朱子学であり、実用の学たることを強調する。特に歴史を一般の人々にも読んでもらうことを企図して、事件や人物を面白く描くことに心掛けた。記述には、勤王の精神が通底していた。
 山陽と親交のあった京の中嶋棕隠(名・徳規、安永八年〜安政二年)は、天保五年に飛騨から神通川に沿って越中入りし、富山から越後国に出てから高岡に戻り、瑞龍寺で閑雲に会い、町で長崎浩斎や津田半村等と交わった後、十一月に福野の上保吉左衛門、福光で石崎善右衛門(号・無莫)や前村礼蔵を訪れ、旧交を温める。翌年一月末に高岡へ戻り、半村宅で鮭を食して金沢経由で帰京した。弘化二年三月にも越中入りし、小杉の松永太郎兵衛(号・兎玉)を訪れ、分家の与五郎(号・陶庵)とともに五日間歓待する。
頼三樹三郎 頼三樹三郎(名・醇、字・子厚・子春、号・鴨崖・百城・古狂生、文政八年五月二十六日〜安政六年十月七日)は、京の三本木で山陽の三男に生まれ、天保十一年に大坂で後藤松陰や篠崎小竹に学ぶ。同十四年羽倉簡堂に伴われて江戸の昌平黌に入学するが、尊王の志が昂じて短慮にも弘化三年三月に上野不忍池で弁天堂の石燈篭を倒し、寛永寺の抗議で退学になる。翌月から東北を廻り、九月三厩口から松前に渡り、江刺で松浦武四郎と一日百詩百印を楽しんだ。翌年八月本州に戻り、嘉永二年正月に帰郷して門人の教育に力を入れる。一方で、尊王家梁川星巖や梅田雲浜等と交わり、同六年にペリーが来航すると悲憤慷慨する。安政二年九月に母が没すると、尊王の実践に奔走し、同五年一橋家の徳川慶喜擁立を画策して、四月に星巖と謀議、大老井伊直弼を失脚させるべく水戸藩に勅書が降下するよう近衛忠熙に説く。七月星巖宅で西郷吉兵衛(吉之助)や大楽源太郎等と議し、翌月に水戸藩へ密勅が降下する。このことが安政の大獄を引き起こし、十一月捕えられ六角の獄に投ぜられる。同六年正月に江戸へ送られて福山藩邸が預かり、評定所で糾問される。福山藩では山陽の門人石川和助等が助命に奔走するが、十月七日死罪が申し渡され、伝馬町の獄で斬首される。遺骸は南千住の小塚原に曝された。
頼三樹三郎の越中入り 三樹三郎は嘉永元年蝦夷から戻る途路に越中に入る。各地で歓迎を受け、後に碑が建てられた(宇奈月の愛本橋東側、富山の舟橋北町、高岡の祖父川橋近く)。
 魚津郊外加積村の美浪家に数日間滞在し、富山に入ると稲垣碧峰を訪れ、加藤竹窓や小西有実と交歓する。稲垣碧峰(名・克、字・子復、通称・藤兵衛、文化十年〜明治十二年)は俳諧に長じた父勘四郎の子として舟橋今町に生まれ、天保元年上京して浦上春琴に入門する。詩画合一を目指し、帰郷後町年寄に就任しながら度々上京している。弟の加藤竹窓(名・良、字・良吉・静處、号・香業、文政九年〜嘉永五年二月十三日)は藩士加藤家に入り、大野介堂に学ぶ。天保十三年に上京して貫名海屋に入門し、頼三樹三郎と知り合う。弘化二年豊後国で帆足萬里等に学び、広徳館の訓導に就任した。小西有実(名・文二、号・石峰、文化十三年〜明治二十年九月二日)は広徳館訓導を務め、寺子屋・私塾臨池居を営む小西有斐の長男に生まれ、昌平黌に留学して、佐藤一斉・塩谷宕陰等に学ぶ。元治元年広徳館の学正に任じられた。
 小杉の高岡町津田家が営む酒造屋で宿泊し、高岡町では頼山陽に学んだ片原町医者山本道斎の書堂牛馬堂に身を寄せ、七ヶ月間町人たちと親しく接し、飲んでは作詩する毎日を過ごした。道斎の妹婿逸見文九郎(号・方舟)や瑞龍寺十八世閑雲、津田半村等が訪れ、時局を論じ合っている。三樹三郎は『牛馬堂記』を残し、帰京後も書簡を往復した。寺崎家では同家所蔵の上杉景勝による軍扇檄書を鑑賞している。
 山本道斎(名・奎、字・仲章、文化十一年五月二日〜安政二年十二月二十二日)は医者の山本一覚長男、七・八歳で四書五経を読んで奇童と呼ばれ、叔父の藩医内藤玄鑑養子として明倫堂に入学する。十三歳で前田斉泰御前に『詩経』を講じ賞せられる。実家に復した後、江戸で昌平黌に学び、京の小石家で医を研鑚する傍ら頼山陽に師事し、長崎で蘭方を通じて欧州の形勢を知った。弘化元年に帰郷して医業に励みながら、史学で古今興廃を研究し、長崎で書写した蘭書を解読する。著書『静思録』や志士と交わした書簡は、安政の大獄に連座することを恐れた遺族により焼却されたという。道斎の元には藤本鉄石も訪れている。また津島東亭・土肥知言・長崎浩斎・笹原北湖等は大いに触発されたという。弟の甚造は寺崎敬孝、良順は眼科医松田三知の養子に入った。
 逸見文九郎(名・在綱、字・有秋、号・方舟・舫斎、通称・又一、文政八年八月一日〜明治八年)は蔵宿高原屋の十四代目で、十歳で四書五経を修め、十一歳で書画を認められ『越中集』にも載る。京で梁川星巖・藤本鉄石・頼三樹三郎等と知り合い意気投合する。金沢の勤王開国派小川幸三と義兄弟の契りをし、蛤御門の変以後の政変で元治元年八月十五日に逮捕、十月二十六日まで金沢で投獄されている。東條琴臺が松田三知を訪れた際に内外の形勢を質問し、三樹三郎とは書簡・詩文を往復させ、文久元年に上京して三樹三郎の兄頼支峰と巣鶴楼で故人を偲んだ。明治二年東京で三樹三郎の墓前に参じている。高岡町奉行永原好知(通称・恒太郎)と交友し、妹婿は長崎浩斎。弟は中條屋川上三六(名・宜方、字・士正、号・達堂、天保元年三月五日〜明治三十年九月八日)で、兄とともに逮捕投獄されたが、藩は町政の停滞を危惧し一ヶ月で釈放になる。
 塩屋(鶴来屋)津田喜三次(弥右衛門、字・操・子薫、号・半村・鶴堂・松斉・寿芳園、寛政九年〜明治四年二月)は中川の南家で生まれ、文政頃酒造業津田家へ養子に入る。富山藩医島林文吾の講義を聴講し、京で頼山陽に師事する。廣瀬旭荘と会し、長崎浩斎等と漢詩を吟じあった。娘は高峰精一に嫁ぎ、譲吉を生む。
 閑雲(雪荘、号・真巖、安永七年〜安政六年)は鳳至郡山是清村に生まれ、幼くして総持寺に入り、江戸や京で仏道修行しつつ、亀田鵬斉等に漢籍や詩文・書を学んだ。帰郷途路に射水郡下村の海翁寺で『碧厳録』や儒学を講じていると、瑞龍寺十六世活湛がこれに感じ入り法嗣にする。なおも京で修行するが尊王の志士と交流を持ち、文政五年に帰郷し住職となる。
越中尊王家の歌
・碓井次郎左衛門(寛政二年〜明治元年十二月)石動生まれ、嘉永三年二月藤本鉄石の決起に軍用金を贈る。
いにしへゆ 思ひたぐひて越路なる 白嶺の雪を常にかも見よ
・加藤謙二郎(天保三年〜慶応三年三月九日)泊生まれ、江戸で井上文雄に学び、安政四年上京し中沼了三に師事、慶応三年三月九日十津川に潜伏し、川原で自刃。
遠津川 瀬々の白浪たちつれて
むかしにかへせ 君が御世をば
・宮永良蔵(天保四年〜慶応三年十二月)福光の宮永暘谷が父、医者修行のため上京し志士に感化、慶応三年十二月新撰組に捕縛され、二十二(二十五)日に没。
大君に 事へぞまつる其日より
我身ありとは思はざりけり
妻りき 
はかなしと 思ふ命はながらへて
あるにかひなき 池のにをとり
五、水戸学と能登屋
水戸学 徂徠学を反映して「分」の原理を道徳の基軸に置く名分を説く。朱子学の正名論では君主・臣下それぞれの立場で道徳的責務を遂行するが、名分論では名の体系の秩序を絶対視し、封建秩序が尊王より発することを説いた。
彰考館と青山家 水戸藩の彰考館では、水戸光圀が編纂を命じた『大日本史』を通じて、朝廷の下における徳川家と幕藩体制のあり方を考察していた。彰考館総裁の立原翠軒(名・万、字・伯時、通称・甚五郎、号・東里・此君堂)は、寛政九年に編集方針を巡り門人の藤田幽谷(安永三年〜文政九年、朱子学者)と対立して辞任する。これが立原・藤田両派の対立に発展し、水戸藩の分裂と天狗党の乱(元治元年三月二十七日〜十二月二十日)へ拡大していく。彰考館は本館である江戸史館(江館)と分館の水戸史館(水館)に分かれていたが、意見の対立が表面化した。水館総裁代役藤田東湖(文化三年〜安政二年、幽谷の子息)は江館総裁川口長孺(号・緑野)を弾劾したのである。憂慮した江館総裁青山延于(号・拙斎・雲龍)は文政十二年九月に水館の廃止を図るが、東湖や会沢正志斎(名・安、天明二年〜文久三年、幽谷の門人)等に擁立された徳川斉昭が十月藩主に就任すると、翌年一月に江館が廃止され、延于と正志斎は弘道館教授頭取を命ぜられる。
 青山延于(安永五年〜天保十四年九月六日)は立原翠軒に学び、寛政六年に彰考館雇となり、文政六年に江館総裁として『大日本史』の校訂にあたる。天保元年に水戸へ帰り総裁を辞し、書院番・通事・小姓頭兼弘道館教授頭取を歴任する。文政六年に那珂湊沖に異国人が現れた際には筆談を試みている。『十八史略』の体裁に倣って、『大日本史』を簡略化した『皇朝史略』『続皇朝史略』を出版して、初学者の便を図った。
長子の延光(字・伯卿、号・佩弦斎・晩翠・春夢、文政四年十月二十三日〜明治三年九月二十九日)は文政七年に彰考館入りし、天保元年十一月水戸で総裁代役、同十一年四月弘道館教授頭取に就任する。弘化三年に彰考館で『大日本史』を校訂し、嘉永二年には徳川斉昭の跋文を代作する。『国史紀事本末』『野史纂略』『学校興廃考』等の著作がある。天狗党の乱では鎮圧を指導した。
天狗党の乱
 水戸藩では、密勅の取扱いをめぐり、尊攘派が激派と鎮派に分裂し、藤田小四郎(天保十三年〜慶応元年、東湖の四男)達が筑波山に挙兵する。一方で市川三左衛門と鎮派の弘道館諸生が藩内を掌握し、事態の拡大を危惧した幕府追討軍と鎮圧に向かう。筑波勢は那珂湊・大子・下野・上野・信濃・飛騨へ向かい各地で交戦するが、越前新保で残兵八百二十三人は加賀藩に降伏した。慶応元年二月三百五十二人が斬罪に処された。
青山勇の能登屋滞在 青山延光の長男である勇は近侍・小姓頭取を務め、明治期には内閣属官を歴任する。『先考行状』を編纂した。安政頃に水戸藩内の政争が激しくなり、安政七年に桜田門外の変が発生して藩内が騒がしくなるが、この頃勇は全国見聞の過程で北陸を訪れ、射水郡伏木の能登屋(藤井家)に滞在した。能登屋は廻船問屋であり、水戸藩とも付き合いがあったのであろうか。勇は能登屋で『孝経』『論語』等を用いて禁欲について講じ、水戸や江戸で起こっていることについて話をした。嘉他郎こと後の三右衛門(能三、弘化三年〜大正二年四月二十日)も聴講し、また漢文を学ぶことを通じて、人に尽くすことの大切さを教え込まれる。
六、陽明学の教授
陽明学とは 陽明学は明代に王陽明が、行動の根本原理を称える実践の学として主唱し、到良知(英知を致す)・知行合一(言行の一致)・事上磨練(事に揉まれる実践)の三綱領を立てた。天保頃に大塩平八郎、幕末から明治では佐久間象山・吉田松陰・雲井龍雄・横井小楠等がいる。
富山の陽明学 嘉永五年四月に伊勢国から医者の近藤士専(旧姓・太田、号・潜庵、文化十年〜慶応四年二月十五日)が富山に来て、陽明学を講じた。斎藤拙堂(名・正謙、字・有終、通称・徳蔵、寛政九年〜慶応元年七月十五日、昌平黌で古賀精里に師事し津藩の有造館で教授、洋学に関心があり種痘を採用する)の門に学び、天保八年二月十九日大坂の自塾洗心堂で陽明学を講じていた大塩平八郎(名・俊素、字・子起、号・連斎・中軒・中斎、寛政五年〜天保八年三月二十七日、元大坂町奉行所与力、頼山陽と知己)の乱にも参加したという。砺波郡下山田の河合平三が天保十二年頃に学んだという伝えがあるが、年代が合わない。
新川郡での普及 新川郡に陽明学が普及している。魚津町の三ヶ屋作兵衛は本町金屋の商家に生まれ、酒造を業とした。幼い頃より読書を好み、聖哲の教えを学んだ。特に陽明学を貴び、博覧強記であったことは、巡検上使の接伴役に当たり賞讃されたことからも分かる。末三ヶ野の開拓に尽力するが、土地所有を巡る争いが起き、明治二年十月に勃発した「ばんどり騒動」への関連から入牢、家財没収の中に没した。
 塚越村の漢方医で肝煎役の宮崎重右衛門は陽明学の塾を開いていた。宮崎家の歴史は鎌倉時代に遡ることが出来、越後との境である宮崎から移住した一族の本家筋にあたる。勤王を家訓とする宮崎家では代々陽明学を学び、郡内へも広めていった。子息重治は利田村長や県会議員を務めている。重右衛門の弟である忠次郎も陽明学を学び、その長男の忠次郎(名・久明、天保三年〜明治四年十月二十七日)も重右衛門に入門した。全国を渡り歩き、箱館で榎本武揚と知り合い影響を受けたともいう。明治二年のばんどり騒動で主将に担がれ、ただ一人処刑された。同門が浅生村の寺松伊七郎や塚越村の馬場宗三郎・桜井与三兵衛達であり、いずれもばんどり騒動の指導者である。
 新川郡では、明治八年から大正七年まで米騒動が二十二回と頻発している。その背景には陽明学の気風が残っていたのかもしれない。


posted by ettyuutoyama at 19:37| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。