2009年06月08日

第四章 国学の普及と浸透

一、平田篤胤の思想と門人
本居宣長と平田篤胤 本居宣長(通称・健蔵、号・春庵・舜庵・中衛・鈴屋、享保十五年五月七日〜享和元年九月二十九日)は、伊勢国松坂に生まれ、元は小津栄貞の名で小児科医であった。後に先祖の苗字に復し、本居を名乗る。堀景山(朱子学者であるが、荻生徂徠や契沖を尊重)に入門し、宝暦八年から『源氏物語』『万葉集』『古今集』『日本書紀』等を講義し国学の道に入る。明和元年正月江戸の賀茂真淵に入門誓紙を差し出し、書簡で教授を受けた。この時より『古事記』を生涯の仕事と決し、古語を明らかにすることに傾注した。寛政四年に加賀藩の招聘を断り、紀伊藩に召抱えられる。
 平田篤胤(通称・大角・大壑、号・気吹之舎、安永五年八月二十四日〜天保十四年閏九月十一日)は、秋田郡久保田で秋田藩大番組頭大和田祚胤(百石)の四男として生まれ、幼名は正吉。二十歳で江戸に飛び出して、寛政十二年(二十五歳)松山藩士平田篤穏(五十石)の養子になる。享和三年頃に本居宣長の著書を読み、文化元年に真菅之屋と号して自立し、同十三年気吹之屋と改めた。文政六年に松山藩も致仕し国学に親しんだ。本居宣長に入門したと主張しているが、すでに没後であり、当然門人帳には名は無い。文化二年に宣長長男で、失明にも拘らず動詞の活用を明らかにした本居春庭に入門している。
 平田篤胤は本居宣長の門人を自称しつつ、多くの点で主張を異にする。そのため各地の宣長門人は、宗家で宣長養子の本居大平に門人か否かを問合せ、大平もまた篤胤の説を否定している。本居宣長は人間自然の心情を、人間の真実としてそのまま尊重し、善は善神、悪は悪神の所為としてそのまま受容する。契沖が現実の世界のみならず出家にも失望し、和歌の世界に心の平安を見出したのに対し、宣長は生活とは和歌のことであるとする。しかし篤胤は叙情より現実を重視し、歌論は後退した。この視点から、悪の根元を宣長が禍津日神によるもので、荒ぶる神が和むのを待つしかないと考えたのに対し、篤胤は神を善神に一元化し、悪事の責任は人にあると断じた。人の本性についても、宣長が良くも悪しくも生まれついたままの心であるとしたのに対し、篤胤は是非善悪を知る心であるととらえた。この世の騒乱・吉凶については、宣長が神のなしたまう御所為としかとらえなかったのに比し、篤胤はこの世における人々の行為を死後において神が審判し、来世では善事は賞せられて永く福を与えられ、悪事は罰せられて禍を受けるのであるから、現世は神が我々の善悪を試すための寓世であり、幽世こそが本世であると主張した。また死者の霊は夜見の国に行くか否かに関し、宣長が行くとしたのに対して、篤胤は人の生まれる根本因は産霊神の御霊によるのだから夜見ではなく、大国主神が支配する幽冥へ行くのだとした。
 篤胤の説は当時にあってかなり新奇であり、そのため外国の伝説まで引いて自説を補強しようとする。例えばアダムやエバの話は、皇国の古伝の訛り、インドの阿修羅王の伝説は、須佐之男命と大国主神についての話が混合したもの、帝釈天は、邇々藝命であり、大梵自在天神は、産霊大神と伊邪那岐大神との故事を混合したもの、老子にある自然の概念は、惟神と同じであり、上皇太一神は、天御中主神のこと、盤古はインドで梵天王だが、皇産霊神のこと、天皇・地王とは、伊邪那岐・伊邪那美の二神のこと、人皇とは、須佐之男命のこと、易を制作した太旲伏羲は大国主神のこと、天子は、邇々藝命のこと、暦法の始めは、伊邪那岐命であり、尺度は、大国主神が自身の身長を基準に伝えたもの、という調子である。これは宣長説へのはっきりとした決別であり、単に古伝を墨守することを厳しく批判した。                   篤胤の説で特徴的なものに「幽冥」がある。ここに入った死者の霊に対し、生前の行為について、大国主神が審判する。いわゆる妖怪は幽冥に属する存在であるという。天皇と大国主神は等しい重さであり、更に、天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神は顕・幽の両世界を当分に見下し、宇宙の全ては、天之御中主神により総括的に支配されると考えた。この説はキリスト教からの影響であるともいわれる。
古学する徒はまず主と大倭心を堅める必要があり、そのためには霊の行方の安定を知らねばならず、天・地・泉の三世界形成の事実と神の功徳、更にはわが国が四海の中心であり、主上が万国の大君であるということを、事実に即して熟知しなければならないとする。これは霊の行方を知ることで大倭心を固め、幽冥を知ることで真の道を知って正しく生き、極楽よりはこの世が楽しみであると感じてほしい、との思いであった。そのため宣長が儒学を「漢意」と批判したように、篤胤は仏教を「仏徳を成たる人を尊とし、仏徳に至らざるは君親と云へども尊敬すべき謂なき由」(『玉襷』)と排斥し、君臣の大義を強調するため、垂加神道と協同して孟子を非難する。
篤胤門の拡大 篤胤は、享和三年に『呵妄書』を著し、太宰春台の『弁道書』を批判することで名が知られた。太宰春台(延宝八年九月十四日〜延享四年五月三十日、名・純、称・弥右衛門)は平手政秀の裔で、代々加賀藩八家の横山家に仕え、父が太宰家へ養子に入り、信濃国飯田藩士になるが辞して朱子学を学び、後に荻生徂徠に入門する。篤胤は更に宣長没後の門人である伴信友の『日本書紀考』(『日本書紀』後世改刪説)を剽窃し、神道への接近を図るため、俗物と批判していた吉田家を一転評価したり、吉田家とは対立関係にあった神祇伯の白川家と接触する。また文政六年に関西に旅行して著書を、朝廷へ献上し、和歌山の本居家を訪ね松坂で墓参する一方で、水戸の史館に採用を願い拒絶されたり、というように、どうも自身の名をあげることを目標としているところがある。結局、天保十二年に江戸で尺座の設立に関与したため国許へ帰還するよう幕府から命ぜられ、秋田藩に十五人扶持・金十両で戻ることになり、久保田で門人教育に専心するが、同十四年に没。篤胤の門は婿養子の鉄胤が継承する。
 篤胤の門人は全国に思想を拡散していった。当初篤胤は門人三人から始め、最後には五百五十三人、没後の門人は千三百三十人を数えるまでになる。これは宣長門を上回り、その背景には鉄胤と門人による出版と地方への普及活動があった。
 大国隆正(寛政四年十一月二十九日〜明治四年八月十七日)は、江戸の津和野藩邸で生まれ、平田篤胤に入門しながら、昌平黌に学んで古賀精里の指導を受けた。文政十二年五月に脱藩し、野々口と改め、瀬戸内や中国地方の各藩で活動する。我欲・我意を捨て、人を助け、下を救うことが上の者のするべきことである、と倫理意識を説く一方で、外国の風俗に影響されることなく古法を維持すべきであり、儒仏の禅譲放伐・出家受戒を批判し、天壌無窮の神勅こそ「天地の公中」を示した神道である、不変なるはただ、皇統のみ、これこそ神議であり、国之御中主神と称え申すべき神は、大日本国の天皇において外なし、と篤胤説を発展させていく。日本国は世界の六大国の一つであり、天皇は至尊なるにより、外国の国王と同列ではなく、将軍家が等しいのであるから、わが国は万国の総本国であり、万国ことごとく、天皇に帰順する、と主張する。更に、天孫降臨が天地の大革命であり、禅譲放伐などは地方の小革命に過ぎず、唐土は女人先言・下剋上の国、日本は改言の国・万世一系の国で「つぎつぎ」が強調されている国である。したがってわが日本の古説が真の公法であり、西洋の公法は真の公法ではない、とオランダのフーゴー・グロチウスの『万国公法』を批判する。その上で、尊王攘夷こそがわが大日本国の大道であるとし、天皇は地球上の真主総帝であるべきで、万国に秀でた国体の証であると断じた。ただし攘夷には小攘夷と大攘夷とがある。わが国の採るべき道は大攘夷であり、武力を用いず、正理をもって相手を諭せば、西洋人も次々とまことの道を悟り、天皇を世界の総王とあがめ、大将軍家を諸国王の上において敬い、天皇から官位を受けて喜ぶようになる。そうなれば世界は治まり平和になる、と隆正は考えた。
二、加賀藩と富山藩の国学
石黒千尋 加賀藩を代表する国学者に、物頭役を勤めた石黒千尋(初め克己、通称・萬五郎・左門・嘉左衛門・九十九、号・竹之舎)がいる。国学を京の加茂季鷹門下で同藩の田中躬之に学んだ後、平田門に入門し、天保年中に旅の途次に藩を通過した鈴木重胤や橘守部の指導を受けた。
 鈴木重胤(通称・勝左衛門、号・橿廼舎・厳橿本・府生・桂州、文化九年五月五日〜文久三年八月十五日)は篤胤に入門を希望し、大国隆正に学ぶ。皇祖天神による国土万物の生成行為(産霊)から導き出された「修理固成」を研究した。「修」とは士農工商の職業分担、「理」とは仁義礼智忠孝といった一身一家一国を治める倫理の実践、「固」とは各自の職分の精励、「成」とは国家の成就を目指す無限の努力である。更に堕胎の禁止、奢侈の戒め、夫婦の道、子供の養育、五人組の心得、肉食の禁止等を説いた。天保十四年に秋田の篤胤に会うため神戸から金沢を経て訪れるが、すでに没後であり、霊前に入門した。しかし篤胤の説を批判することが多くなり、安政四年に平田鉄胤と対立し、翌年絶交する。最後は江戸の自宅で暗殺された。
 橘守部(通称・元輔、号・蓬壺・波瀲舎・池庵・生薬園・椎本、天明元年〜嘉永二年五月二十四日)は独自の体系を築いた国学者で、神祇の復興を強調し、新運到来を予言する。本居宣長説を批判し、『日本書紀』を重視し、伝説と史実を弁別する。また長歌・短歌・散文に一定の句格・構造のあることを実証し、語学・文法を研究した。著書の『三大通弁』では幽冥観を示す。経営者と使用人の関係と心得についての研究もある。
 さて千尋は、嘉永五年に明倫堂で国学講釈御用の役に就き、次のように自説を展開した。天皇は万国の王と同位ではない。鎖国は神民に富と幸福を与えない。儒は狭い考えであるが、蘭学で謂う所の窮理は認めるべきである。開国し西洋の技術を導入して、農民を武装し学制を改め、精神面を強化するため国学を取り入れるべきである。外国と交易すればわが国が富むだけではなく、外国も富むのであり、やがてわが国に服従するようになる。これこそ復古の善政ではないか。わが国は、天皇のしろしめす国であり、諸神が擁護し給うのであるから、寸地も蕃人は侵すことが出来ない。実に神国の神国たる所以である。
 維新後には、皇学講師や文学教師の任にあたり、明治五年八月五日に六十九歳で没。
富山藩の神学 富山藩では国学より前に吉川神道が早くから普及している。吉川惟足(通称・源十郎・五郎左衛門、元和二年二月二十八日〜元禄七年十一月十六日)は吉田家に入門し、朱子学を用いて神道を深めた。神道には、行法神道(神職の祭祀・行法)と理学神道(身を修め、家を整え、天下を治める道)があり、後者が一般の人々にとって重要である。万物の根元を太極といい、それが流転して陰陽を生じ、変合して五行となり、これら三者が交感して万物を化生する。全ての事象に、理(万物に内在する根源的・本質的なもので、「道」のこと)・気(物質的要素で事物に個性を与え、清明混濁の差を生じる)二面がある。人が天賦の理を受けながら本然の姿を発揮できないのは、気に混濁があるからであり、私欲を没却し、修養に務めることで、聖人君子たり得る。中心の神は、国常立尊であり、天地に先立って存在する、太極・混沌・虚無太元尊神で、天地万物が生成する際には、この神が宿っている。人も太極の理と陰陽の気を受けて成立しているのであるから、肉体の中に必ず根元の理を宿している。心は神明の舎であり、人の心に、国常立尊が内在しているが、個々の気質や欲望で自己に宿る神の明智を曇らせている。本来の人間性に立ち帰るには、心の内なる神と一体の境地に入ることであり、そうすれば、神的な本質が発揮され、人間存在の根元から発する明智によって、理非曲直を判断することが可能となる。神人合一に達する道は、「敬」即ち謙虚な真心のこもった生活態度であり、「祓」を通じて実現する。具体的には、邪念妄想を祓い除き、心の清らかさを保持する(内清浄)、肉体を清める(外清浄)を行う。大切なのは誠意と謹みであり、祈りも真心によってのみ、神に感通する。それは一定の作法により表現されねばならず、行法や祭祀の意義はここにある。五倫の道を実践する時の核心は、君臣の道であり、謹みの心で君臣の道を守り、天皇を中心に国を治めることである。
 この思想は、朱子学者でありながら、吉川惟足から吉田神道を学んだ山崎闇斎(名・嘉、字・敬養、通称・嘉右衛門、元和四年十二月九日〜天和二年九月十六日)により普及され、垂加神道が発展した。垂加とは闇斎の号であり、垂加霊社のことである。闇斎は土金の伝を言い、土がしまって金になるように、心身が緊張した状態で保持せよ、謹みこそが人の生き方の基本である、と説いた。
 さて、富山藩に吉川惟足が諸国神社巡りの途路に訪れ、神明社の吉尾伊勢守宅に逗留し、『日本書紀』を講じた。惟足は江戸で幕府に仕えるが、その後も天明頃まで吉川家は吉尾家や山王日枝社の平尾大和守、鹿島社の近尾河内守と交流を持ち続けた。
 同じく吉田神道を学んだ、橘三喜(号・為証庵、寛永十二年〜元禄十六年三月七日)も、諸国歴訪の途中に富山を訪れた。三喜は平戸出身で江戸浅草に塾を開き、吉田神道の普及に努める。富山では特に言相方(加持・祈祷の方法)を平尾・近尾・吉尾の各家及び、布市村の山内美作に伝授したという。
 その他にも、長崎の諏訪神社青木永弘(青木賢清・金春院の末)が富山に来て講義をし、明和・安永頃に能登国正院村八幡社桜井伯耆守が来て、平尾・近尾・吉尾各家始め家老・藩士が集い聴講した。安永から天明の始め、会津の社家で吉川家に学んだ深澤要人がたびたび訪れ、平尾・近尾・吉尾各家に逗留し講義をする。藩主前田利久も神拝式を伝授されたという。
田中大秀への入門者 田中大秀(通称・弥次郎・弥兵衛・平兵衛、名・紀文・大秀・八目満・旧紀文、号・三酉・千種園・香木園・湯津香木園・荏野翁・磯堂、安永六年八月十五日〜弘化四年九月十六日)は、飛騨国大野郡高山で薬種商の次男に生まれ、伴蒿蹊や本居宣長に学び、和歌や俳句も能くする。伴蒿蹊(享保十八年十月一日〜文化三年七月二十五日)とは京の商家に生まれ、近江八幡の本家へ入るが、三十六歳のときに養子に家督を譲って剃髪、京に移り、和歌・歌学を武者小路実岳に学んだ学者である。大秀は浄土真宗の影響も受け、『古事記』を解釈する一方で、古典復興を説き、飛騨国総社を建てた。『竹取物語』『蜻蛉日記』『栄花物語』『万葉集』『紫式部日記』『土佐日記』『落窪物語』等を研究し、橘曙覧に影響を与えた。
 文化九年四月から六月にかけ、越中・加賀の各地で講演し、六月下旬に立山登山をする。高岡では富田徳風に会い、万葉の遺跡を遊覧する。門人には越中関係者も多く、富山藩の青木又一郎(号・北海、後に致仕)、富山藩主前田利幹の側室菊園(梅林院・梅園、広徳館で子女の教育にも務める)、杉森半次郎(佐伯知言)、高木吉兵衛(允胤、和算家)、高沢岳斎(一昔)、稲積玄長(弘中重義の門人)、恵民倉賑窮料掛の岡順吾(正寛、百四十五俵)、杉崎彦右衛門(後藤令彦)、高岡からは粟田勘四郎(良哉)、今石動から倉原孫次兵衛(恒安)がいる。富山では弘中重義が開いていた文会にも顔を出している。弘中重義(号・自軒)は藩医であり、上京して小沢蘆庵に和歌を学んでいたこともあり、富山藩主前田利謙と生母自仙院及び姫達に歌道を教授していた。文化十年四月に隠居し、五月稲積玄長と八月末まで大秀宅に滞在した翌年六月に没。大秀は天保十二年にも来遊し、三月二十一日五十嵐篤好と会った。
富士谷御杖の来訪 富士谷御杖(名・成寿・成元、通称・千右衛門、明和五年〜文政六年十二月十六日)は、国語学の大家富士谷成章(元文三年〜安永八年)の長男で、皆川淇園の甥にあたる。代々筑後柳川藩京都留守居役を勤め(二百石)、父と淇園から学んだ。文化元年に『百人一首燈』を著し、歌論に神道を含める。即ち、人は所思所欲をそのまま言行に表現すれば、必ず時宜を破り禍を招くので、言外に言霊として宿らせ、詞は倒語して心中思っていることとは別方向にそらして表現する。それが和歌である。その際に理と対立する欲を慰める方法が神道であり、神道の抑制をすり抜けて、一層激成された鬱情を慰める方法が詠歌である。御杖には、人は神を身内に宿したもので、神とは人の身内に宿ったものと映り、神道とは身外に出しがたき所欲であると考えた。そのため『古事記』は言霊により古人の心を説話として表現した作品であり、本居宣長のように、全て事実としてみる見方は間違いであると断じた。
 越中各地で御杖に師事し、五十嵐篤好もその一人である。文政四年御杖は富山城下を訪れ、磯部御庭に富士の築山(元禄十五年前田正甫の時に作る)を見て、駿河の如きと驚いたという。この時に岡順吾(名・正寛、号・富士の屋、百四十五俵、文政十年七月に四十五歳で没)を訪れ、親交を深めている。富山の天満宮で歌を贈答し、神通川の舟橋や駕の渡しに関心を示す。九月十日に立山の新雪を見て、新川郡沼保村十村の伊東彦四郎祐寿と交流した。しかしその途次の十二月に柳川藩から謹慎の命が下り、急ぎ帰藩し蟄居する。
荒木田久老の来訪 荒木田久老(延享三年〜文化元年、名・正恭、号・五十槻園)は、伊勢神官度会(橋村)立身の次男に生まれ、荒木田久世の婿養子として内宮権禰宜を務める。賀茂真淵に師事し万葉研究を継承した。天明六年七月十四日越中入りし、舟見・富山・石動に宿を取る。十七日夜に倶利伽羅峠を越えた。
ひさかたの白雲のへにあふぎみる
 たかきたち山みれどあかぬかも
立山の みねたかければ
ながれいづる かたかひ川の
  瀬音たかしも
 海量(近江国、賀茂真淵の門)
秋ながら君が見るべき立山の
  高嶺の雪は積り初つつ
 松田直兄(天明元年〜安政三年)
ありそ海の 
 うへに朝ごとたつ市の 
 いよいよ行けばいよよ消にけり
 良寛(宝暦八年〜天保二年)
片貝の渡瀬ふかし立山に
 たなびく雲は雨にかもあらむ
立山にとこしく雪に月影の
 かがよふ見れば玉にかも似る
砺波山夜越えに越えて見渡せば
 沖つ汐瀬に月おし照れり
 荒木田久老
見るがうちに 
 千代やへぬらん波間より 
生帰り行く松のむらだち
 前田斉泰
越中各地の国学者 
@ 砺波郡 河村信友(又は達、幼名・辰次郎、号・田守、寛政二年〜安政二年七月十一日)は、砺波の中町で四日屋吉左衛門の次男に生まれ(別説・文化六年)、西町の不動島屋河村源助の養子になる。算用聞役・山廻役・新田裁許等を熱心に務め、六百六十石の持ち高が二十四石に激減したとされる。京で加茂社の賀茂季鷹と同松田伊予守直兄に国学・歌学を学ぶ。松田直兄は子息の内直と天保十二年に田守を訪問している。また富士谷御杖とも交友があった。五島雅右や五島正訓、清水有道は田守の教えを受けた。
 津沢の中島敬(通称・武十郎、字・季就、号・其風)は、下川崎村宮永正好の十男に生まれ、中島家へ養子に入る。勤王の志が深く、維新後は国学に傾倒し、仮字を訂した。
A 射水郡 氷見では町人一般にも国学が浸透し、神職の活躍が目立つ。安政三年に氷見庄内神主からなる神主組合は、神道古典研究のため平田篤胤の『古史伝』を購入するための費用を村々に願い出て、十二町村など四十一か村から資金を集めることに成功する。平田門に入門する者が多く、更に六人部是香に師事している。六人部是香(通称・縫殿・宿禰、号・葵舎、文化三年〜文久二年)は山城国乙訓郡向日神社に生まれ、父が早世したため伯父の節香に養育され、文政六年九月篤胤門に入門する。時の、孝明天皇へ御進講の栄に浴した。その説は産須那社の尊崇にあり、悪事を為した者の魂は凶徒界に陥り、種々の艱難辛苦を強いられると説いた。
 泉天満宮の大森定久(文化三年〜明治十九年一月)は、生まれてすぐに家職を継ぎ、従五位下出雲守を称した。安政四年十月五十一歳の折に上京して、六人部是香に師事した。典礼の研究と語学を専門にし、歌に精通する。安政六年三月に帰郷して「梅の舎」を開き、国学・和歌を広めた。明治元年五月に神祇官神祭方御用、同二年八月から十二月まで能登の気多神社、同三年三月に立山の雄山神社、同四年三月能登石動山伊須流岐比古神社で復飾した神職へ神道の本義と祭典の作法を教諭した。同五年十月能登一宮気多神社権宮司に就任し、神事祭儀を故事により正した。著述は多い。「寇よらば 布都のみ玉の太刀はきて 君のみ為と 御さき仕へむ」「稲の目の ほがらほがらとあけゆけば みそらにほしは なくなりにけり」
 北八代箭代神社の高沢秀足、瑞穂、瑞信の三代とも国学に秀でた。秀足には『友の舎歌集』があり、瑞穂(幼名・司馬之助、文政五年〜明治三十年)は五歳で父を失い叔父に養われ、江戸で武家奉公しながら安政元年三月に伊予国三輪田元綱(文久三年足利氏木像梟首事件首謀者の一人)の紹介で平田門に学ぶ。帰郷した後も学問は継続し、安政四年に大森定久・関守一と上京し、六人部是香に入門する。維新後に射水神社、上総国玉川神社、相模国鎌倉宮と寒川神社で神職を務め、権田直助、御巫清直、角田忠行に神道を学ぶ。帰郷し、自宅で「鞆之舎」を設立して、神道の古典を講じた。『万葉集』を研究し、故地を実地調査する。また神前の拍手の意義を論じた『拍手の一言』がある。瑞信(弘化元年〜大正四年)は権田直助門下の井上頼圀に学んで、父の『万葉集』研究を継承し、明治四十二年『万葉越路廼琹』を著して、北陸の万葉遺跡を孝証した。
 長坂の長坂神社神職上水友世は文化八年に十二町の神職吉川家に生まれ、養子に入る。文久二年に上京して神道を研鑚し「鹿の舎」で国学を広めた。子息の友之が継ぎ、安政六年三月に国見村等に持宮がある能登飯川村神職野村朝清の紹介で平田門に学ぶ。後帰郷し、書物で医術を学んで種痘を施した。祭政一致を主張し、神仏分離に熱心であった。
仏生寺御田神社の平井正武(文化五年〜安政五年)は、文政六年に家職を継ぎ、陸奥守を称す。国学の研究に力を入れ、藩主前田斉泰にも神道を説き、銀三枚を拝領する。「くずのはの うらさやかりし我身にも かかるめぐみの 露はおきけり」はこの時の歌である。南朝を「あはれその世にだにあらば笠置山さして御楯とならましものを」と偲んだ。「白梼の舎」を設立し、「神代略図」(縦一・八m、横九十p、絹本に着色)という『古事記』神代の巻三十場面を絵巻とした画幅を用いて講話をした。弟の正明が養子に入って継承する。斎藤弥九郎に神道無念流の剣を学び、帰郷後は能登の鹿島郡田鶴浜村に道場を開き、神職の傍ら青年に剣を教えている。泉村の大森大和守や伏木村の尾崎信濃守等も入門したという。
 高岡町の関守一(幼名・敬之輔、字・時敏、通称・新一、号・靱舎)は、天保元年十二月十三日に関野神社境内で生まれる。父は関正峯。金沢で西坂成莽に漢学を学び、安政四年に氷見の大森定久と上京した。そこで六人部美濃守是香に入門し国学を学ぶ。帰郷後に越中社家触頭に就任し、慶応三年四月従五位上下総守に叙される。明治元年三月に金沢藩神祇取調係になるが、命により上京して神祇官に就任する。戻ってから神祇係として祭典式編修にあたり、藩から賞せられた。関野神社神職にあった兄の豊後守が退隠を希望するが、自らは川巴良諏訪神社外村社五社の祠掌となることで兄を留任させ、同五年五月に射水神社の権宮司に就任する。同八年に新川県下神道事務局副長と兼ね、九月射水神社を高岡古城公園内に遷座する。同十四年神官第八区富山教会一等講師になり、翌年三月四日に没。神道の儀典を明らかにし、和歌を能くした。
B 富山 金乗坊の静教は本居宣長の門で歌学を学び、天保元年に『詞のしをり』を著す。天保五年十二月十日氷見に招かれ、十人の受講者に小倉百人一首と詞の「手尓葉」について講じた。
 岡順吾は父の代に窮民救済の多大な米・銭献上が賞せられ、士分に取り立てられた。富士谷御杖や田中大秀に学び、五十嵐篤好とは親友であった。文政九年に篤好が訪問した際には、同じく御杖門下の山王社平尾旨定を交えて会している。
三、五十嵐篤好と門人
父、五十嵐之義 五十嵐家七代目之義(通称・孫六、字・子往)は、射水郡御扶持人並北野村甚助の次男で、安永四年九月に内嶋村五十嵐家の婿養子となる。翌年の四月二十八日十村に就任し、農政・郡治に努め、賞されること七回、寛政九年閏七月禄高十石を加増、文化二年十二月十八日に十石、同十四年十二月にも十石を加えた。各地で開拓に力を尽くし、新川郡で舟倉野の新開に多大な貢献をしている。富士谷御杖に学び、歌を能くした。
 学問について次のように言っている。読書は幼少者に強いてはならない。生まれつき柔弱な者に強いれば虚労の症となり、二十四・五歳で亡くなる例は少なくない。学者に成っても早世したら何の意味があろうか。健康であれば十四・五歳で読書をさせよ。今日の儒学者は我慢ばかり言って、実践には用を成さない。四書五経を一通り学ぶだけなら、そんなに時間は必要ない。暇があれば何でも読むのが良かろう。しかし「ことごとく書を信ずれば書なきにしかじ」と孟子が言っているように、本に書いてあることが何でも正しいと思いがちである。それでは誤りも信じてしまって良くない。手前に君子の心を定めて書を見ることである。見識の無い者は口先ばかりで、長じると悪口者となる。慎むべし。
 之義は文政二年三月十九日に突然解任される。世に言う十村断獄である。獄中での環境と心労が災いし、五月九日に五十九歳で没した。
五十嵐篤好と国学 八代目の篤好(幼名・小五郎、通称・小豊次、寛政五年十二月十六日〜文久元年一月二十四日)は、文化三・四年から文政元年まで算学を石黒信由に師事した後、文政二年から天保八年にかけて国学と書を、天保九年から安政四年にかけて歌学を学んだ。その間、文政九年・二十歳に『筆算算法』を著し、文政二年父と共に舟倉野の御開、天保七年宮野新開と十二貫野の開拓、弘化四年石田野・柳沢・中山を開墾するが、この内には失脚の日々があり、その都度逆境を逆手にとって、学問に勤しんだ。
 十村断獄で能登島向田に十ヶ月間流された折には、同地の総社伊夜比盗_社神職である舟木丹後守正連に就いて国学を学び、蔵書の古典や本居宣長著作等を読破し、『群書一覧』を写した。更に、文政三年本居大平に入門するため、来訪した大坂の小嶋屋平七にその旨を依頼するが、返答はどれだけ待っても来なかった。そこで同五年八月に父の師である富士谷御杖の門人となるが、翌年に御杖が亡くなってしまう。文政十一年に望月幸智が富山藩布瀬十村高安定重邸に来た際には、「言霊」について教えを乞うた。
 望月内記幸智は代々近江国甲賀郡油日村で医者を務め、江戸の産霊廼舎で言霊を教諭している中村孝道の門人であり、本居門の古典解釈に批判的であった。子息直方(寛政四年正月十一日〜文久元年五月十八日、医者で寺子屋師匠)も国学を学び、孫の大輔(大石凝真素美)は言霊学を弥勒菩薩信仰と結びつけた。天保五年に篤好は中村孝道の『言霊惑門』を入手し、不審の点を江戸の孝道へ書簡で訪ねている。
 天保元年に御家流の書を高田源祐から学んだ篤好は、翌年『天朝墨談』五巻を著す。同六年から八年まで農政研究に力を入れ、『耕作仕様考』等を著しながら、農民へ新農法を試して教える。だが惣年寄役役料請求に不正があるとの訴えがあり、責任をとって同九年七月から十一月まで謹慎するが、この時に歌道を集中して学び、和歌の読みを研究する。嘉永五年九月に石川郡へ出張した後、安政二年十二月に射水郡、同三年に大聖寺領、同五年正月射水郡と勤務先を忙しくする。同五年六月に突如閉門を仰せ付けられるが、この理由には諸説ある。備後国福山の老農民で木綿の耕作に詳しい生養亘を同三年に招いて農事について講演してもらったのが咎められたから、同五年六月に豊後国で木綿の耕作法に長じた千住弘太夫が来たので留めて教わったのが咎められたから、という二説が巷間伝わる所である。いずれも理由と人物の存在に根拠は薄弱である。千住弘太夫については「五十嵐篤好手記」に「炮術諸流日本修行 備後福山千住弘太夫 三木流 武衛流 西洋新流」とある。別に同四年大国隆正が小杉の賀茂神社近くに訪れたので会しようと高岡町の門人津島之篤からも篤好にも誘いがあった、という説がある。隆正の説は過激と映りやすく、かつ安政末頃高岡町の関野神社に立ち寄っているので、このことが洩れた可能性は高い。ただし処罰がなぜ篤好にだけあったのかは分からない。同六年五月二十一日に閉門が解除され、万延二年一月二十四日金沢出張中に倒れた。
五十嵐篤好の思想 篤好は富士谷家や本居家の学説をおもしろいが分かりにくいので、望月幸智の論が優れていると考えた。わが国の言語には霊力が備わり、それは神の創造なるもの故であるから、自在に複雑な思想を表すことが出来る。鳥獣はコン、ヒヨといった二・三音しか出せないが、人は七十五出せる。これには老若・貴賎・智愚・古今・都鄙の区別は無い。文字の意味が分かれば書籍に書かれたことが分かるように、声の霊を知れば詞は解せられる。
 天の性は善であり、地の性は悪である。人は天地の性を受けているのであるから善悪を有している。したがって平田篤胤の説は誤りであり、国学全体の恥である。人に悪があるからこそ教えがあり、善悪は物の表裏である。例えば強盗を捕らえて処刑することは善であり、生かすことは悪である。しかし善悪は用い方によって、善も悪になり、悪も善になる。人には情欲があるからであり、本居宣長はこれを無視したため説を誤った。情欲に負けないよう、強く堅く為さんがために教えがある。教えによって学問をするのは、ただ悪事をしないのみにとどまらず、本心を磨いて光を出すようにせねばならぬ。世界各国で風土により人の気質が違うため、教えには若干の違いはあるけれども、根本には違いが無いのである。人性に情欲の潜む限り、悪が出てくるのは当然のことである。その上で大切なことは、この悪と善とが絶えず四・六の割合で均衡を保っていることである。これが破れると乱が起き、悪が生じ、世は混沌の深谷に沈む。そうなってしまうと「祓」が必要になる。これはとりもなおさず善悪を四・六に調えることであり、悪のみを祓うことではない。場合によっては善をも祓う必要がある。神典には「よしはらひ」という言葉がある。これは善も悪も四・六から外れたのを、祓い捨てるという意味である。ここに初めて真の治、真の善が生まれる。このことに気づかなかったのは、神代より言挙げせぬ国であったからであり、あえて露に言うことを、言挙といって嫌ったのである。言葉には一々神霊が宿っている。そうであるから出鱈目に言挙げすることは慎まなければならない。慎めば言に宿る神霊が助け下さり、慎まねば禍が下る。ゆえにわが国では、例え教えであっても言挙げしなかったのであり、他の宗教のような経典は無いのである。
 わが国は北極出地三十度より四十度までの国であり、春夏秋冬の四時が正しく行われ、昼夜も四・六を外れることが無い。天照大御神ことよさし給ひし大御言のまにまに、君臣の位が定まり、動くことなくその職分を守り、尊卑が混じることは無かった。例えば風雨が烈しく、世間は闇になろうとも、やがて晴れては元の天は天、地は地であること、太古より変わらない。治乱はあっても、君臣が位を換わるなどということはなく、太古のままであるのは、天地と等しいのである。これがわが、皇国の神国なる所以である。
五十嵐篤好と宮永正運・正好の農業観 五十嵐篤好は農政家でもあり、天保八年に『耕作仕様考』で「農事勢子は乍恐御政事の第一に御座候」と著し、農書を引用して体系化した。特に参照した書が、宮永正運の『私家農業談』である。
 宮永正運(号・桃岳、享保十七年一月二十五日〜享和三年六月十八日)は砺波郡下川崎村で、持高七百五十石乃至千石といわれる宮永正長の長男に生まれ、和歌・漢詩・本草・茶道・連歌・禅・俳諧に造詣が深く、安永八年砺波郡と射水郡で蔭聞横目役・五箇山加祢山裁許、翌年に山廻役を務め、産物所助役の任に就き、郡・改作奉行や算用場、大聖寺藩からも訪ねがある。天明五年以降に農業の書籍を脱稿していき、技術面にとどまらず、農民の心構え、農業の尊厳、美食への警告、使用人と苦労を共にすること、敬神崇祖等も説いた。これを子息の恒右衛門正好(号・叔蕩・子蕩)が加筆発展させる。
 正好も漢詩・俳句・和歌を能くし、山廻役を務めながら、郷里の発展に尽くし、家財を激減させる。文化十年に父の遺稿を纏めた『養蚕私記』の中で、養蚕が国を潤し、農家を豊にするとある。更には同十三年の『農事談拾遺雑記』で土地柄に応じた耕作方法を採ること、湿田は休閑させるばかりでなく、稲田は麦・菜種→大豆→稲田へと田畑輪換というように乾田化し二毛作を行うことを提案している。また農家を一つの経営体として捉え、良き使用人と牛馬の良し悪しが農家の経営を左右するので、充分配慮するよう記し、飢饉に備える視点から為政者と農民の心得を説く。実はこの頃正好自身の経営が危機に陥っていたのである。正好の甥久兵衛は水戸の中納郡青柳村に開田し、水戸藩から賞せられる。また正好の子息や孫達はそれぞれの分野で足跡を残した。
 さて、五十嵐篤好は宮永父子の業績も押さえつつ、富山は高山が多く田に雪解け水や流砂がかかるため、水口に「かんなべ」という穴を掘り水温を上げる工夫をすること、緑肥としての上免草を奨励、早・中・晩の品種組み合わせが大切、特に早稲種の育成が重要であること等を記した。
五十嵐篤好の交友と門人 篤好は石黒信由が天保七年に航海術の書『渡海漂的』を刊行した際には、序文に国学者の立場で、この書が編まれたのも、素盞鳴尊の大霊による、と記す。万延元年に豊後国日田から廣瀬旭荘(兄は咸宜園の廣瀬淡窓、漢学者で佐久間象山・吉田松陰・頼三樹三郎・桂小五郎等と親交がある)が来た時は、篤好が金沢で出迎えた。田中大秀門下で飛騨国船津の篆刻家大森旭亭(冨山の小西有斐等は門人、文政十二年七十三歳で没した時には門下で富山の西中野白山社境内に碑を建立)と交流し、絵が巧みであったため、篤好はこれを讃じた。新川郡の伊東祐寿(通称・彦四郎、号・駒峯庵)とも懇意で、文政二年に能登島で辛苦をともにした間であった。祐寿は享和二年に完工する愛本新用水を開いた、沼保村の十村である。富士谷御杖とは国学を通じて親しかった。天保五年に七十九歳で没。
 高岡町医者の長崎浩斎とも親交が厚く、天保十一年には、神武天皇御即位以来二千五百年にあたるため、長歌を共に読んだ。弘化五年九月七日には当時珍しく、浩斎五十歳の誕生日を祝している。この縁で子息の長崎言定(通称・周蔵・元周)が、天保十二年と弘化三年に上京する際長歌を贈り、学問成就を励ました。言定は篤好から言霊学説を学び、嘉永二年に富山藩の前田利保へ歌道を説いた。篤好はこれを祝して歌を贈っている。
 福野野尻の菊池静斎(通称・六郎右衛門、号・隠鳳)は田中東仙に素読を学んだ後、富山藩の大野拙斎や岡田淳之に儒学を学ぶものの、国学の修得に転じ、篤好に就いた。安政元年に六十九歳で没。
戸出の吉田友香(通称・仁兵衛・久兵衛、号・静屋、文化五年〜明治八年十一月))は代々蔵宿を務め、組合頭や算用聞役等を歴任しながら、米質の改良に尽力して、弘化二年には藩から金二百疋を受けた。慶応二年十二月に公職を辞した際にも、藩は銀二枚を給して功を労った。友香は篤好に師事して蔵書五十三種・八十八冊を写本し、篤好の書いた『湯津爪櫛』を万延元年に出版する。静屋の号は篤好から授けられたという。子息仁平(号・琴堂)も郷里に活躍した。
五十嵐篤好門人.BMP
四、佐藤信淵の思想と昇庵による献策
佐藤信淵とその思想 佐藤信淵(通称・百祐、字・元海、号・椿園・松庵・融斎・祐斎・万松斎、明和六年〜嘉永三年一月六日)は、出羽国雄勝郡西馬音内で佐藤信季(通称・庄九郎、号・玄明窩)の長男に生まれる。佐藤継信の子孫と伝えられ、信季は諸国を巡り、蝦夷地に渡り、秋田藩にその開拓を進言し、藩政改革を上書するが、反対派により捕縛されることを察知し、信淵と江戸へ逃れたという。天明の飢饉に窮する諸国を見聞し、下野仁田村の錫山開坑のため招聘され、日光の鯨村猿橋家に滞在中の天明四年に没した。信淵が十六歳であった。
 信淵は宇田川玄随に蘭学・本草学、木村泰蔵より天文・地理・暦数・測量、井上仲竜より儒学を学び、享和の頃まで諸国を巡って学識を深めた。文化五年(四十歳)に阿波藩家老集堂家に請われて徳島へ赴き、戦術や砲術を講じて、海防を論じた。三年後上総国山辺郡大豆谷村に退き、平田篤胤や神道方吉川源十郎に入門する。これが幕府から睨まれることになったようで、江戸に居づらくなり、各地を巡って諸士との交際を深め、諸藩からの招きを断りながら、武蔵国足立郡鹿手袋村で経済書等の著述に専念した。天保十一年には綾部藩に勧農作を献じ、かつ盛岡藩で藩の顧問的存在であった新宮涼庭(天明七年〜嘉永七年、丹後国出身で長崎や京で学んだ漢方・蘭方医)との討論が評判を呼び、涼庭が家老の横沢兵庫に紹介し、藩主南部利済から熱心な招きがあったため断りきれず、天保十二年に五人扶持で仕官した。しかし従来から他藩の招きを受けずにきた手前、翌年に辞してしまった。弘化二年に老中水野忠邦の諮問があり、翌年正式に赦されて江戸へ入り、嘉永三年まで著述に力を入れた。
 信淵は天地運動の全ては、皇祖産霊神の神機に係ることであり、諸思想は神意、産霊神は生産力そのものであることを思索の前提とする。その上で経済とは国土を経営し、物産を開発し、部内を富豊にし、万民を救済することであると定義して、国の指導者は一日も怠ってはならないと警句する。また貧困の原因を、平和が長く続いて人々が奢侈に走ったためであると考え、次の四つを提示する。第一に君主は恭倹の二徳を守って自覚し、財を節約し国家万民のため用い、有能の士を採用する(創業)。第二に気候や土性を調べて各種産物を開発し、領内を豊饒にする(開物)、第三に生産物の流通を促進して行き渡るようにし、利益を上げる(富国)、第四に君主は神意を行うという難事を実行し、万世衰微することなく、永久に全盛ならしめねばならない(垂統)。
 更に三台・六府の制と八民の制を示す。士農工商をやめて一民に一業を授けて兼業を禁止し、一切の売買・賃借・雇用の私営を禁止して、租税を廃す替わりに専売制を導入して利益を公が収め、金銀を民に支払うことで、経済の危急を救うというものであり、これは周や唐の制度から着想した。
 三台とは太政台・神祇台・教化台であり、六府とは本事府(草民)、開物府(樹民・礦民)、製造府(匠民)、融通府(賈民)、陸軍府(傭民)、水軍府(舟民・漁民)である。
 本事府で食糧と衣服を作り、開物府は生産に従事し、製造府で修造・製作する。集められた生産物は融通府で全国に廻し、価格を平準化させ、外国と通商し国内に利潤を収める。陸軍府は兵を司り、親衛六営一万八千人・内衛六十三営と外衛百八十営の九万人、計十万八千人の常備軍と予備数万人を備え、これらを訓練する。水軍府は水軍の戦法を研究して港と諸島に備えて海上を警備し、且海外諸蕃を征伐する。
 その他、窮民の救済や捨子の保護、間引きを禁じ、教育を普及させるため、広済館・療病館・慈育館・遊児館・教育所等を設置することも企図した(教化台)。
 一方で、樺太の占領と韃靼の帰化を説き、皇大御国は大地の最初に成立した国で、世界万国の根本であるから、全世界ことごとく郡県とし、万国の君長は皆臣僕となさねばならない、神州の雄威を以って蛮夷を征圧すれば、世界を統一することなど難しいことでは無い、と主張した。
佐藤昇庵を富山藩が招致 信淵の子息信昭(号・昇庵・升庵)は文久三年に生まれ、江戸で父と同居し、薫陶を受けながら、安政四年に信淵の説く「垂統」についての詳細を、信淵門人大久保融と纏めた(『垂統秘録』)。更に佐藤家の伝承を『佐藤家譜略記』に留めた。盛岡藩の江戸屋敷で鍼医者を務め、父が辞したため、天保十三年に家督を相続する。時に盛岡藩では冗費節約のため、江戸邸の藩士を盛岡に移住させることを進めていた。しかし昇庵は江戸での交友関係から、辞職覚悟でこれを断り続ける。それでも文久二年十一月には移り、慶応元年本道医師として五人扶持を給されている。だが奥羽で戦乱の火蓋が切られる頃、藩を辞して三河国に赴き、遠州屋の娘婿として暮らしたという。
 さて、富山藩では家老の富田兵部が経済混乱の責任を取り自刃し、財政は破綻に瀕していた。安政四年九月に前田利保は盛岡藩を通じて昇庵を招き、信淵の垂統についての講義を依頼する。昇庵は講義のみならず、藩主前田利聲に宛てて富山藩の産業政策を献策した。昇庵の講義では『垂統秘録』『物価余論』を採り上げ、明治維新後に富山藩政を一手にすることになる林太仲も、この時十七歳、講座を聴講したという。
 献策の概要は以下の通り。越中各地と飛騨から流れる川が富山で神通川に合流して海に注ぐから、舟運は必ずこの地をよぎる。寒冷で土質は良くないものの、田畑は良く開け、米粟は多く産出する。海岸は狭いものの漁労人口は多い。売薬業者が数千人いて、全国の情報を集約できる。売薬の利益は莫大であり、富山市中数万人を養うに充分である。したがって藩営の専売制を実施すれば、十年を経ずして隣国から財が集まり充ちるようになる。以前から税額が高いことで全国有数であり、農民の利益が少ないばかりか、年貢も納められなくなりかねない。人口は富山町を除いて六万人程度であり、一万石に付き六千人に過ぎない。江戸では加越能第一の産物は人であるといわれるくらい流民が多い。このままでは田畑が荒れ、蝦夷地のような荒野に成り果ててしまう。宗教では一向宗に帰依し、外では王法を唱えて藩主を崇敬していると見せかけ、内心はただ阿弥陀と親鸞のみを尊信帰依している。藩が用金を集めようとすれば不仁であると罵倒し、苦乱強弁して額を引き下げようとするのに、本願寺へは競って多く寄付しようとする。こういうことは恐るべき悪弊であり、いつ一向一揆が起きるか分からない。富山藩第一の病巣である。
 以上を総括し、次の諸点を提示した。売薬は富山藩の宝であるが、弊風を改めないと廃滅してしまうので、産物会所の下に支配すべきである。漆樹の植樹を農民が持高一石につき一本行えば、一時に十万本が可能になる。漆樹一本は水田一石の利益と同じである。手間賃・肥料代として漆百本につき金一両ずつ渡し、漆一升につき二十匁ずつ上納してもらうとよい。藩では早速漆苗を神通川沿岸堤防に植樹した。売薬に関しては、すでに弘化元年二月反魂丹役所は町奉行支配から産物方支配に変更して機能強化を図るとともに、他藩の富山売薬差し止めを解除すべく全力を挙げていた。
佐藤昇庵1.JPG
佐藤昇庵2.JPG

万葉歌碑
・氷見布施(円山)布施神社境内
享和二年五月十八日高岡町年寄服部叔信(名・輗、号・楓翥・淳卿、槇屋から天野屋へ養子、詩・画・篆刻)建碑、撰文・山本有香(名・忠良、号・封山・蘭卿、通称・中郎、高岡町茶木屋日下家の生まれで京油小路で開医)、書者 題字・花山藤公、撰文・内藤元鑑(号・愚山、字・孟章、高岡片原町で開医の後、親戚内藤宗安の養子として加賀藩医)
・東岩瀬諏訪神社入口
嘉永六年若林喜平次(号・楓斉)建碑、書者・千種有功(号・千々廼舎、左近衛中将正三位、朝廷絵師岸岱を介して依頼、岸岱は東岩瀬出身で母が若林家の出である岸駒の子で共に御所出入)、碑文は京の石工が彫り、廻船で大坂から運搬する。
伊波世野に秋はぎしのぎ馬なめて
はつとかりだにせずや別れむ
         大伴家持
みやびたる むかしのあとに
いわせのに かはらてにほへ
あきはきのはな
         千種有功
・新庄荒川堤(富山)
安政三年には建碑済、同五年埋没
太刀山にふりおける
たち山
雪を常夏にみれどもあかずかんからならじ
・雨晴(高岡)
安政五年肝煎宗九郎建碑
馬並めていさうち行かな渋谷の
きよき磯みによするなみ見に
過渋谷崎見岩上樹歌
磯上之都萬麻乎見者根乎延而
年深有之神佐備爾家里
     大伴家持
・中市(富山)浄土真宗金乗坊
十九代西塔公章(富山藩主の和歌の師)


posted by ettyuutoyama at 19:24| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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