2009年06月08日

第三章 本多利明の思想と上田作之丞の政策

一、本多利明の思想と加賀藩
本多利明の経歴 本多利明(本田とも署、幼名・長五郎、長じて繁八、通称・三郎右衛門、晩年は理明、号・北夷・魯鈍斎、寛保三年〜文政三年十二月二十二日)は越後蒲原郡辺りに生まれ、祖先は加賀藩の出身で、浪人して越後国に来たとも言われる。十八歳で江戸にて和算を関孝和正統で幸田親盈門下の今井兼庭に学び、寛政六年孝和百年忌を主催し碑を建立した。また幸田門下の千葉歳胤に天文・暦学を学び、漢訳洋書を通じて研究する。山村才助・司馬江漢・朝比奈厚生・野村立栄は同門である。このことは利明が通商・航海を主唱する因となる。また工藤平助から蝦夷地の情勢について知識を得、北方のロシアとは開国・交易をもって対処することを持論にする。さらに経世論の観点から熊沢蕃山・新井白石・荻生徂徠の学風を学び、水戸藩の立原翠軒や小宮山楓軒と交際があった。
 明和三年・二十四歳の時に、江戸音羽一丁目に家持町人の身分で算学と天文を専門とする私塾を開く。人々は利明を「音羽先生」と呼んで親しんだという。奥羽や常陸に旅し、天明の飢饉の惨状を見分する。享和元年に蝦夷地へ渡航し、文化五年には高齢を理由に幕府からの召抱話を断り、門人の最上徳内を推挙した。徳内は幕府の蝦夷御用を務め、利明に高田屋嘉兵衛の船がロシア船に拿捕された情報を伝えている。
本多利明の思想 利明の思想は天明の飢饉を教訓とすることで、寛政頃に出来上がる。航海術に関する天文の実践的知識は石黒信由にも影響を与えた。以下に思想の大要を記す。
国民人口が増加するには国内産業の拡大が必要である。しかし国内産業の拡大には限界があり、人口増加には際限がない。これを補うため他国から金銀を取り込む交易が必須となる。そのためには海外へ渡航せねばならないので、天文・地理、算術を学ばねばならない。
 国民人口増加の根源は夫婦にあり、人口増加率は十九・七五倍であるから、西欧では王侯でも一夫一妻である。当然食糧を増産せねばならず、これを開業(殖民)と貿易に求めれば、わが国はイギリスと並ぶ二大富国・大剛国になるであろう。そうすれば天からの預り者である人々を餓死させるなどということは無くなる。これはまさに永久不易の善政にして、自然治道の制度である。
 天下が治まると武家は増殖し奢侈になる。その上に商民や僧工遊民も増えれば、農民だけでは支えきれなくなる。為政者は農民人口を増加させることに留意し、四大急務を採用すれば、人口は三十三年で十九・七五倍に増加し富国になるであろう。四大急務とは、焔硝で岩石を破砕し河道を通して新田を開くこと、金銀銅鉄山から産出される鉱産資源を管理し異国に流出しないようにすること、船舶を建造して渡海、運送・交易をすること、周辺諸島・小笠原・蝦夷地を開発すること、である。そのために渡海技術や天文・算術を学び、利益を収奪する商人には委ねず幕府や藩が管理せねばならないこと、異国との交易は戦争同様であるから是が非でも利益をあげねばならぬことを強調する。別に小急務に四条を建て、新銅より金銅を絞り取る方法、潮汐の鹵塩より焔硝を抜き取る方法、屋根瓦を鋳鉄瓦に替えること、紙張障子を厚板玻璃障子(厚板ガラス)に替えること(船舶採光と蝦夷やカムチャツカでの採光防寒)を付加した。更に世界を寒国と暖国とに分けて考察する。前者の東アジア諸国は米を主食に草木の葉枝・幹根を次食、肉食を慰食としているため、温和・惰弱であり、家は木造のため、子供は草木のように智恵が脆く淡白である。一方後者の西洋諸国は肉や油を主食に、果実・穀類を次食としているため、勇猛で知性があり、家は石で出来ているので、子供は金石のような賢く才がある。
 また蝦夷地は雲霧が深く湿地の多い寒国であるが、遍く焼き払えば百穀豊熟の良地となる。この開拓には奥羽・越後・佐渡・加賀・能登よりの移住者と囚人を用いればよい。やがて「カムサスカ」に都を移し、「西唐太島」に大城郭を建立し、「山丹」「満洲」と交易し、国号を古日本と改め、仮館を据え、貴賎の内より大器英才で徳と能を兼備した人物を選挙して郡県に任じて地方の開拓に力を入れれば、数年で世界第一の大良国となる、というように思いは拡大していった。そのためには西欧諸国に倣った改革が必要であり、賢君明主・英傑の仁政が必要であるとする。
 加えて町並みとゴミ問題や仮名文字をローマ字に改める論などを展開し、慈悲を根本としたキリスト教を自然治道の理にかなったもの、西洋の英雄は自然治道の体現者であり、神・儒・仏の道も本来はキリスト教に淵源があるとまで言い、わが国に真の治道を得ない原因は支那の思想・文化を崇拝したからと、地動説を例に挙げて難じた上で、西洋式に万事切り替えることを主唱する。
本多利明と加賀藩の関係 文化六年三月二十六日に、加賀藩は生涯合力米二十人扶持を支給するという条件で招く。藩士としてではなく、いわば政策顧問のような立場としてであった。特に期待されていたのは対ロシアの海防であり、六月二十一日に用意が出来次第金沢へ赴くよう伝達があった。当時海防は焦眉の急で、文化四年六月から七月にかけ藩は海岸の調査と武具の点検を命じ、非常時の出動及び人夫の動員計画を策定していた。馬廻組金森量之助知直(千七百石)三十二歳が、四歳の娘と身重の妻を残し自刃したのはこの時である。海防令は同五年九月に、藩主前田斉広が帰藩して直接指揮を執ることで解除されるが、日本海の航路を扼する加賀藩として警戒を怠ることはできず、同六年七月八日利明主従三人は江戸を出立して十九日に金沢へ着いた。七月二十八日に御目見、八月七日に十五人扶持が支給される。十一月四日に学校方御用戸田五左衛門就将宅で講演し、異国の風土や大洋廻船、蝦夷地について話すとともに、新川郡の布施川・片貝川の川原を開発し上田にすること、宮腰・大野・黒津船・木津・高松などの砂浜にサツマイモを植えること、大船を建造すること等を提案した。前田斉広にも西欧諸国について話し、軍艦の模型を城内二の丸の能舞台に陳列して操縦法を説いた。
 しかし一方で藩士の反感は根強く、水車で木を挽かせる装置の模型を作り上覧することになった時には、何物かにより大切な箇所を破損され動かなくなる、等といった陰険な嫌がらせを受ける。そのため同七年三月に江戸へ戻ってしまった。但しその間に入門する藩士は少なくなく、その中には大橋作之進成之、長谷川源右衛門猷、遠藤数馬高m、宇野八兵衛、萩原武左衛門、近藤作右衛門、中西惣兵衛直救、河野久太郎通義、三角風蔵などもいる。上田作之丞もその一人であった。
二、上田作之丞の思想と実践 
上田作之丞と本多利明 上田作之丞貞幹(後に耕、字・叔稼・竜郊・竜野・幻斎、天明八年〜元治元年四月十一日)は、八家の一つ本多家に徒士頭として仕える上田清右衛門貞固(二百五十石)の次男として生まれ、親戚の大屋理左衛門の子息が中西惣兵衛であったため、就いて算術を学んだ。寛政十年に父が亡くなり兄の八百記が家督を継ぐ。翌年の地震で叔父の杉一家が同居した縁で、享和三年に杉家の養子として虎之助と名乗るものの、文化二年に復籍した。翌年兄が勤務中に納得できない指示に従わず口論したため改易処分が下り、八百記はそのまま上京した。そのため作之丞に一家の生活がかかった。弟の三郎兵衛は榊原家の養子になり、作之丞は母と瑞光寺に三十日間いた後は五・六年間に転居を十一度も繰り返す。新坂の上に寺子屋(拠遊館)を開塾して十余人を相手に素読、同四年には算術も教え、門弟も二十人になるが家計は苦しかった。それでも学問を修める目標は捨てず、榊原家の厄介人という立場で藩校明倫堂に入学し、二度の賞与と銀二枚・金一両を受けたほど励んだ。同六年に本多利明に入門する。
 本多利明は作之丞の力量を高く評価し、著述の作業を手伝わせた。作之丞も利明によく仕え、よき相談相手でもあった。利明には娘「てつ」がいた。この娘は才女であり、天文・算学に通じ、尾張藩広式で手習い・琴・三味線を教授していたこともあり、加賀藩でも江戸屋敷で姫達に教えていた。当然のごとく作之丞に婿養子の話がある。迷いに迷った作之丞ではあったが、上田家再興のため家名を捨てることが出来ず、断念する。しかし諦め切れない利明は、江戸に帰った後も、書状で江戸へ来るよう作之丞を誘っている。
学者への道 そうこうしている内、同十四年には塾の生徒が七十人ほどになり、自身も明倫堂の生徒身分であったが、小松習学所の教授に就任する。更に本多家へ七人扶持で復帰して儒学を教授する。ここに至り、明倫堂を退学し、小松習学所は常勤を辞して月に二回の非常勤になった。文政三年には兄が帰参を許され、百石で家を再興、後に二百五十石に復す。塾は私塾になり、門人は数百人に上る。この中には本多一門や人持数十家もあり、影響力を増していた。そのため讒言にあい、異端の学者扱いを受けるが、藩は小松の郷学に白銀三枚で雇用し派遣した。同七年に免じられるが、明倫堂の助教として推挙される。だが他の助教から一斉反対を浴び、この話は流れた。藩内では異端の儒学者という風評が強まり、我慢の限界に達した作之丞は、今後も講義は継続することを条件に本多家を致仕し、浪人身分となった。
著述活動と黒羽織 天保三年頃から著述に力を入れ、同七年から八年にかけ飢饉の状況を視察する。同八年に明倫堂助教大島清太が作之丞を批判し、同九年七月から翌年四月まで全国見聞の旅に出る。
 藩主に就任した前田斉泰の元で舵取りをしていた奥村栄実は、天保七年に小生産者の自立を主張していた寺島蔵人の一派を一掃して産物方を無力化し、財政再建を進めるため銭屋五兵衛に金融を依頼した。
 寺島蔵人兢(安永六年八月十三日〜天保八年九月三日)は、定免制を採用し、藩が農民に貸し付け農地の再興を図るとともに、給人と知行地を断絶させ、十村が収納にあたる改作法を理想とし、文政元年に本多利明と交流のあった関九郎兵衛による「御国民成立」を批判する。関九郎兵衛重秀は八家の村井長世の臣善左衛門の子であり、自身は村井家から藩士の身分に替わる。文政元年百五十石。文政初期は利明の門人達が活躍していた時期であり、経費の節減と政務の改善に努め、困窮藩士・農町民の救済と生活の安定を図ることを目指していた。金沢で芝居と茶屋町を公認したのもこの一環であった。一方で十村を断獄し(文政二年三月〜三年六月)、郡部を藩の直接指導下に置こうとした。蔵人はこれを厳しく批判し、文政二年三月から七年二月まで藩政から遠ざけられるが、復帰後は教諭方として前田斉広の耳となり手足となり風俗心得方の御用に専念していた。友人には海保青陵と親しかった者もいるが、思想上の影響は無かった。しかし斉広の薨去後は、天保七年十一月五日に本多政守に預けられ、翌年四月二十二日に能登島へ配流される。
 奥村栄実は仮名の読みに造詣が深い国学者でもあり、農民の借財を減免する高方仕法等の見返りに協力を得て手上高・手上免といった申告納税額の増加を進め、産物方に替わって物価方を設置し、新規株立の運上銀や冥加銀を廃止し、物価の安定を優先させた。これを批判したのが上田作之丞の一派、通称黒羽織党である。
 作之丞の門人に関沢六左衛門房清(後に安左衛門、号・遯翁)がいる。天保の飢饉には自費を投じて救済にあたり、サツマイモの栽培を提案する人物であり、八家の長連弘(三万三千石、大隈守)に作之丞を紹介する。天保十四年に奥村栄実が没し、長連弘がその後任として藩政を担うことになった。作之上の門人達(関沢房清、水原保延、近藤信行等)も要職に連なり、綱紀粛正と緊縮財政を進め、海防施設の建設に力を入れる。藩営の産業振興策を実施して、銭屋五兵衛を河北潟干拓の水質悪化を理由に失墜させた。財政の改善にはある程度の成功を見るが、しゃれた服装に揃いの笠、会合の際には黒羽織といった出で立ちで、あちこちで不和の種を作ったため、嘉永七年六月に黒羽織党は失脚する。作之丞も嘉永三年に九州を見聞して藩に報告したことで白銀二枚を受けるが、黒羽織の失脚に連座して毎年銀十枚支給される替わりに教授することを禁じられた。安政五年には徘徊指留となり、『因果物語』を記して自伝とする。元治元年四月十一日に七十七歳で没し、子息は江戸の羽倉簡堂に入門した。羽倉簡堂(寛政二年十一月一日〜文久二年閏八月二十一日、字・士乾、号・外記)は大坂に生まれ、二百三十俵取の旗本。古賀精里に学び、攘夷論を展開している。
 黒羽織失脚後の藩政は横山隆章が担当し、商人の支援で財政再建にあたるとともに、海防に務めるものの、安政五年の一揆や大災害の続発で借財の増加を余儀なくされ、文久二年頃から黒羽織の復権が始まったが、やがて時代は急展開し、明治維新を迎えることとなる。
上田作之丞の思想 作之丞は、聖賢の学は貴重であるが何分古い外国の話なので、これに没頭しても益は無い。書籍で大意を理解したら、これを社会に生かさねばならない、と拠遊学館学則で謳う。門人から見ても、作之丞の学風は韓非子・老子・朱子等を寄せ集めた「鵺学」に写った(『聖学俚譚』)。それは天保の飢饉における惨状を目の当たりにしたからであり、領主の仁政と輔弼者の責務を強調する。株立を増やして運上銀を徴収するために、町や村の役人の数を増やすことは、かえって経費を増やし、賄賂が横行しかねないとし、これは士道の退嬰化にも原因があると断じて、明倫堂にも言及した。また農業を軽視した結果が、農民に借金をさせ、頭振を発生させ、働き手が商工業に流れる元になったと指摘し、十年後には農民人口は十人に一人まで減るであろうと予測する。商の本質は「天下之融通」であり、倫理に則り利益を上げるのならば正当だが、大商人は欲のまま行動した「姦」であると批判する。領内人口からすると、本来米不足はあり得ないはずなのに、商人が米場という博奕場を通じて移出するから不足し、物価を騰貴させ、あげくは藩財政を窮乏させる。藩は藩士への払米をそれまでの年二回から十月の一回にすると仲買に示して米を掌握し、米価を安定させて凶作に備え、小利を求めず、毎年甚だなる「凶歳」と言っていれば他国の米が入り、領内の米は出ないのであるから、数年で富国を達成でき、九年で米の貯えが出来るであろう、と主張した。
 それゆえ治世・修身の根源に職分・分限の遵守があり、格物致知は誠心の畏敬から起こると考え、「敬」「礼」は「譲」「倹譲」の徳を生むと説き、商人には小生産者の自立を助成する心を持つよう諭した。また人は万物の霊であるから、落魄者はただ時運に合わず、凶作・水難などに遭遇した「良民の乞食」であるので、仁政が必要であるとしつつ、武芸や学問を忘れ琴・碁・書画・木石を愛好する武士、農業に励まず詩歌管弦に現を抜かす農民、妓娼と博奕行為に手を染める工・商人は、「姦民の乞食」として問題視している。
 作之丞は飢える領民を一人も出さないことに藩と藩士の存在意義があると考えた。したがって天保の飢饉は失政であった。この観点から加賀藩の経済運営について、銀札を発行して商人発行の私札からなる銭札の流通量を年々減らし通貨発行権を回復する、飢饉や不景気の際には城普請・河川堰堤の補修等の公共事業を行い、武家は参勤道中の糧持人を雇用し、屋敷の除雪を依頼する、流通を停滞させず雇用を確保する、藩士は救米を提供し組合頭を通じて配る、農民には耕作助成金を多めに配分する、参勤時の衣服は江戸ではなく領内で誂える、富札を公認する、等といった提案をし、藩の貸与銀の免除や農民への年貢皆済の強制を止める等徳政実施を主張して、収支を試算する。更に米の良否は土地本来の磽薄によるもので、肥料の多寡ではないから、奉行になる者は幼年時からこのことを良く知っていなくてはならないと指摘した。
上田作之丞と越中国 作之丞は自らの見聞を広めるため全国各地を旅行するが、越中国にもくまなく回った(『老の路種』等)。新川郡では岩瀬、石割村、下山、舟見村で椎茸に関心を示し、上市や魚津など、射水郡・砺波郡では伏木、高岡、放生津、氷見など、小杉、太閤山では西瓜に言及し、福光や今石動など、富山では八尾や四方などへ足を伸ばす。更に各地で学問教授を行い、多くの人々に影響を与えた。
 一 砺波郡と新川郡
 天保八年に砺波郡を訪れた際には、高岡町の手崎屋彦右衛門が享和二年以降七百十七石余を取得したことを知り、農民の税率を商人より少なくすべきであると考えた。また在郷町が多く、村が町のようであったという。他方で天保期の新川郡上市村を美しく、柔和温順である絶賛し、農商の共存を高く評価している。この頃の上市は新川木綿生産と流通の中心地であった。農商の共存は弘化二年頃の砺波郡金屋岩黒村・青島村でも見られた。福光村近く細木野村の祭礼を見聞した作之丞は、商人が正当な値段で商売をしている様に感心している。山村で若い農民が柴山を焚き、傍らの山腰を焼いていたので訪ねた。来春になれば蕎麦を蒔くので、焼けた草茎も肥料となるとの返答であったが、事を始める(開物)準備と時機を逸しない実効性にいたく感じ入った。また新川郡鹿熊村の灌漑計画を例にあげ、新田開発は人口の増減に応じてするべきであり、新田裁許等の係りを増やせば逆に農民負担が増加することを指摘し、倶利伽羅山を切り通して船を通す計画に警告を発した。
 今石動では、文政から天保にかけて教授する。今石動・城端・氷見町裁許(通称今石動奉行所)の与力・足軽、更には町人たちも参集し、『孟子』の「謹痒序之教申以孝悌之義」から「申義堂」と名付けられた。木の額は今も石動小学校にある。安政元年には鉄砲町の松永家を使い、町人を対象に教諭する。作之丞は「婦負・新川二郡の間は古学の変風有りて、学者全く句読文字の中に陥り、実学絶えてなし。我其の迷ひを開かんと思ひ、種々談説すれども益なし」と記している。
 二 射水郡
 @ 氷見 天保六年五月二十日新任与力の明石主計(百石)と来て、二十二日に初講義をする。田中屋権右衛門は『應響雑記』に「学授の噺并世俗人情の噺等、甚面白ク肺肝ニ銘し」たという。以後しばしば訪れ、その内講義をした記録のみ拾い出すと次のようになる。
  天保六年閏七月十九日〜二十二日 『孝経』 
      九月十九日〜二十三日 『論語』「学而」「為政」
  天保七年三月二十一日〜二十三日 『論語』「八佾」の一部
      六月十七日〜二十二日 『論語』「里仁」「公冶長」
  天保十四年四月十三日〜二十日 『論語』「八佾」(少々残す)、『詩経』「周南」「召南」「邶風」
  天保十五年十一月一日〜五日 『孟子』「梁恵王章句」
  弘化二年五月十五日〜二十五日 『老子』下巻(十五日〜二十四日)、
   『孟子』「公孫丑章句」下「滕文公章句」上(二十日から)、
   『中庸』(二十五日)
      九月二十六日〜二十八日 『孟子』「滕文公章句」、『近思録』「道体」、『大学』(二十七日)
  弘化三年四月二十二日〜五月五日 『孟子』「離婁章句」上下、
    『近思録』「為学類」(「論学」「為学大要」)
  弘化四年三月八日〜十九日(?) 『孟子』「萬章」、『近思録』「致知」(「格物窮理」)、『荀子』
  嘉永四年九月二十七日〜十月四日 『孝経』
 この教室は氷見町人の「仲間」「社中」により維持され、経費は「上田先生頼母子」から捻出する。作之丞も毎回講義に力を入れ、日に二回、時には夕刻まで及ぶこともあった。出席者は天保十四年二月には二十人程度を維持しているが、弘化以降は減っている。
 天保六年九月の『論語』では、視聴言動の内、視聴は先方よりこちらへ向かうもの、言動はこちらから先方へ向かうものであり、まず視ることを第一とすべきであることを示諭した。
 同七年六月の講義では、「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり」という句に関し、次のように説いた。元来体を自分のものと思うのが愚かなことである。自分の物と思うから万物に欲心が起きる。全ては相対的で、人の物も明日は我が物になるかもしれないし、親子の関係でも、子が父母を見れば親、子の子から見れば子は親である。我が家の庭前、築山、樹木を面白く思うのは、自分の物にしたという欲心から生じたものである。我が身、我が物ならば、生死も思うままであるはずだし、手足、視聴、言動の理も知っているはずなのに、どうして生まれて死ぬのか、手足がなぜ動くのか、全然分からないではないか。人身のみではなく、万物について理を悟れば、朝に聞き夕に死するも、厭うことはないのである。
 また同月の講義では、学授について次のように説いた。学授とは単に文字を知り、書籍を熟読することではない。ただ現状を顧みて善悪の理をわきまえる規矩準縄であることを知り、ひたすら問い、ひたすら学ぶべきである。学授とは衣類を収める箱に薫物を入れれば、いつのまにか香りが移り、清浄になるようなものである。悪事に染まるのは油燈のようなものである。外見は明るく、光り輝き、美麗であるが、しばらくすると油が無くなり、光が弱くなってやがて消えてしまうのだ。
 同十四年四月の講義では、聴講者から仁義あるいは性善悪の意味について質問があった。『易経』に天の道は陰陽、地の道は剛柔、人の道は仁義とあり、これで五常の道は全てである。天の道が陰陽であるとは、形象なく、暑さは陽で寒さは陰といった類である。地の道が剛柔であるとは、形象があり、剛柔の二つに限られ、即ち山海・草木・金石の類である。人の道が仁義であることについて、天地の有無の物を人身に受け、本心の性質により、それぞれ配当されることを義といい、老若・貴賎・男女に応じて、その人々の宜しきように心を用いるのを仁という。そうであれば礼智信は自然とこの中に含まれるのであり、五常を短く軽く言う時には、「これほどにせよ」という七文字に収斂される。文字・名目書面に関わらず、自得することが学授である。
 嘉永四年九月二十五日には学授大意易簡の歌を吟じて見せた。
俗わしの物じゃの里をふり捨て、ならぬあり家をとわんとぞ思ふ
俗わしは当時の人情、物じゃはこう言う物じゃなと、根元も知らず人に聞き、或は己が思い込みにて、道に違の理を求め、内心危ぶみ覚束なき事はみな学問にあらず。学問は何事もなく実事にかけ、こうせねばならぬという理を、私心を去り求め、危なからざるを事々物々に用いるの外他なし、という意味を込めた学授の歌であった。 
 またこの時期の講義中で、一族について次のように解説している。親戚は一家のこと、親類家は父夫方、戚類家は母妻方、親とは此方より彼方へ、戚とは彼方より此方へを意味し、婚とは嫁娶をいう。婚の字は周の世に出来、それまでは朝でも嫁に行ったのであるが、周の世に至り夕暮れに嫁すのが一般的になったことが由来であるという。姻とは同じ家から再び嫁娶することをいい、初めての場合は婚姻とはいわなかった。この元に重縁を一家とする考え方がある。縁が薄い、或は一家の続きを婣といって区別した。九族とは自分を含む前五代と後五代の九代の血筋をいう。
 A 高岡 作之丞と高岡町との縁も深く、たびたび訪れては、天保二年に上から下まで相応の言行あるべきを論じた秘策を献じ、同七年の飢饉では、高岡町の戸数を四百八十戸・人口二万四千二百人、一人一日の米高二合五勺として、窮状を五段の中、富の下に当たり、今年の荒餓を加えても極貧には至らないと観察している(『済急問答余譚』)。弘化初年には大仏裏に広がっていた桑畑を借りて学舎を建て、桑亭と命名した。嘉永頃まで町人の多くがここで学んだという。


posted by ettyuutoyama at 19:12| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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