2009年06月08日

第二章 海保青陵の思想と加賀藩

一、海保青陵とその思想
海保青陵 海保青陵(名・皐鶴、字・万和、通称・儀平、宝暦五年〜文化十四年五月二十九日)は、丹後国宮津藩家老角田市左衛門の長子として江戸で生まれる。角田市左衛門(号・青渓)は武芸に秀で、太宰春台(徂徠学を経済学の点から発展させた)門下の大塩平(与)右衛門や荻生徂徠門下の宇佐美恵助(号・灊水、『読荀子』を校訂・『弁道考』『弁名考』を出版)に学び実学を貴んだ。伯母が藩主青山家の継室で藩主の母である。藩の内紛にあっては勝手方であったためその渦中にあり、宝暦六年に隠居し、二歳の青陵が家督を継ぐものの、同八年に父子とも暇を願い、明和八年尾張藩に招かれる。ただし市左衛門には青山家から生涯二十人扶持と金百両が毎年支払われ、藩に子を一人残すように言われていたこともあり、青陵は尾張藩で御目通り・留書に召されたものの学問中であることを理由に辞退し、安永五年弟に角田家三百石を相続させ、自身は祖父の父方海保を称して天明二年青山家(宮津から美濃八幡へ移封)に百五十石の儒者として戻った。
 青陵も十歳で父と同様灊水に入門し、十五歳で『礼記』を鄭玄の注で読むが疑いを持ち自分で注を打ち直す。灊水は青陵に徂徠学の手法として古典の解釈を通じて天理を明らかにするため、秦漢以後の本を読ませず、青陵の打った注の誤りを指摘するに止めたという。十六・七歳に奥医師桂川甫三の元で一つ年上の子息甫周と兄弟のように生活した。甫周や堀本一甫は父の門人で、二人とも後に法眼・奥医師になる。やがて甫周は前野良沢や杉田玄白等と『解体新書』の翻訳に務め、来日した植物学者ツンベルクから賞賛される。青陵はこの甫周より洋学的な「理」について厳しく教えられた。安永五年・二十二歳の時に灊水が没し、尾張藩を致仕して日本橋檜物町に開塾して経世論を研究する。天明二年からは丹波篠山藩主世嗣青山春橘と次男久之助に書を講じ、藩財政について父と研究する。同九年藩を辞し全国を遊歴する。寛政四年の秋に父が没した後も変わらず、全国各地で書を講じた。同七年に大坂で開塾して翌年京に移し、同十三年尾張藩で細井甚三郎(号・平洲、上杉鷹山の藩政改革にも関与)に替わり江戸で儒学者として就職するものの、病気を理由に享和四年に辞して各地を歴訪し続けた。文化二年夏に金沢、翌年三月高岡、七月四日に立山登山し各地を訪れ、福野に寄ってから京へと戻る。
経済論 青陵は万物の背後で統一する天理の存在を前提に、儒教の他に老荘や法家思想・仏教・西洋の思想に関心を抱き、治国安民という経世的観点から学問をとらえた。そのため今の世は富国を第一とし、仁政によって国を運営する時代ではないと断じ「王道」を否定し「覇道」を説く。そして経世済民に奉仕し世に役立つ者を活智であり、王道を説く儒者は死智であるとした。その上で聖人とは「天の理を得て身に行ふ人」と定義づけ、一切の偏見にとらわれず、知恵は知恵からも自由であるときに生きた知恵が働くと考えた。ゆえに孔子は善悪二つの外に自由な空位を一つ作り、そこに立って善悪を用いるのが理であると生きた知恵を教えたが、それらさえも外から見る工夫をするのが真の空位であり、執着を絶つということであるとする。これが釈迦や老子、それにギリシアの四元説(水・日・土・気)だとした。智恵を養うのに三つの段階があり、まず己を贔屓目無しに見ること、次に自己中心から解放すること、そうして「皆利我」が許される「養生主」に到る。
 形あるものは下がり、形なきものは上がる。この均衡が必要であるが、治世が長く続くと富は次第に下へと降りる。これを上に持ち上げる工夫が必要であり、そのため利息や運上を取るのも天地の理であるととらえ、国を富ますには農業生産を拡大するといった王道的方法だけではなく、他国の財貨を自国に吸い込むオランダのような覇道的手法が必要であると説く。そこで各藩は商売の元手を大坂商人から借り、売買取引をして利益をあげることを主唱する。これを説明するのに、武士は商行為から超然ではないことを君臣関係が取引関係であると例えた。領主は国を民に貸して利息を受けている。家臣は自分の智力を主君に売った対価として禄を得ている。したがって利を得ることへの偏見を除き、すぐれた智者が治国安民を図り法治を制度化しつつ、人々には生産・交易に目を向けさせ諸国間の経済競争に勝ち抜いて国富を増やすことが重要であると説く。これが具体的には藩による専売制として実行に移された。
二、海保青陵による加賀藩への献策
 文化二年夏・青陵五十一歳の折に加賀藩へ来る。青陵には今日二十五冊と名前だけ分かる十七冊の著書があり、その内の十二冊で加賀藩に言及している。『万屋談』『養心談』『稽古談』『升小談』『陰陽談』『綱目駁談』『枢密談』『養蘆談』『東贐』『新墾談』、特に滞在中の終盤に藩から遠慮せずに建言してほしいと依頼され記した『経済話』がある。
 青陵の目には、加賀藩の法は旧式で時代に合わず守りにくいと映った。また利家・利長の時代から支出が百倍になっているのに、藩の生産は変わっていないのであるから、財政の悪化は当然であると断じた・その上で金銀が重要であるとの認識をもち、米札を発行して金銀同様価値を倍にして運用し、利を生み出すことを提案する。これは大坂で升屋小右衛門こと山片蟠桃が米札を仙台藩の財政再建で用いたことが背景にある。加賀藩では宝暦五・六年に藩札発行で懲りた上に、安永三年の幕令で新規藩札発行が禁止されたため、政策からは外されていた方法である。しかし青陵の提案を受け藩は、文化十一年に「銀子手形之印紙」という名目で、事実上の藩札発行に踏み切った。
 青陵は加賀藩にはせっかく山や海があり、産物が豊富であるにも関わらず、他国へ移出入をせず、大坂へ廻米した代金のみで江戸の支出を補っている。財政支出が拡大している今日にあり、諸藩との通商で利を獲得する方法を採るべきである、と強調する。更に世間では加州米は悪米の代表のように言われているが、当地に着てみると実に良い米である。それは悪い米を大坂へ廻し、良い米を住民が食べているからである。これを良い米は残らず大坂へ廻し、加州米の半額ほどである越後米を買うようにすれば、たちまち二・三十万石の利は出るはずである、と指摘し、加賀・越中の材木や塩を移出すること、城端・小松の絹を京で売れば年に二万五千両は入ることを提案した。
 藩の産業に関しては、鉛・明礬・礐石(礜石か)・硫黄・朱・薬草・金銀銅・瑪瑙・水晶等の資源開発、薬物・煙硝・織物・酒等を改良・増産して、藩の保護下に移出することを提案する。そこで加賀藩は、文化八年に「他国出御制禁産物之品」を公布し、紙・大豆・葉タバコ・米・木綿・蝋・薬種など十七種類を移出品に定め、鉛・漆・塩硝・硫黄・酒・塩・絹など二十七種類は移出を禁じた。その中には青陵が出すべきであるといった物も含まれている。
 また三州には良港があるのであるから、これを整備したら長岡藩にとっての新潟のような存在になる。そのためには大坂に倣い施設を充実させて北国第一の港を完成させるべきであり、大坂の大商人を相談相手とせよ、と提案した。
 青陵の献策は、取捨選択されて実行に移されるものの、寺島蔵人は批判的であり、安政四年に上田作之丞は、青陵の来藩は四十年早かったと記している(『国事経緯弁略』)。文化十年に御勝手方太田数馬が江戸廻米に替わる造酒廻漕を進言し、同年産物方役所の再設置されることになり、青陵と親しい村井長世が登用される。江戸廻米三千四百石を能登七尾で酒に醸造し、立山の木材で酒樽を製造して販売するものの売れ行き不振で一年限りであった。また年間十万石の廻米を、正保以来上方船才許で大坂・江戸へ廻していたが、この運賃が米百石につき十五〜二十九石もかかるため、摂津神戸二ツ茶屋村の船を直雇いする。しかし加賀藩では天保の飢饉と財政の悪化で、藩による産業の育成と営業は縮小を余儀なくされ、重農的な政策へと転換することになった。
 金沢で青陵は、富津屋七左衛門、浅野屋彦六、楠部屋金五郎、富田景周(二千三百石)、富永権蔵(千五十石)等、越中国でも十村の折橋二郎右衛門等と交流があった。
三、越中各地の見聞と講義
 文化三年三月五日に海保青陵は越中国高岡町へと移り、七月上旬まで滞在する。招かれて四月一日に町人へ『老子』・『中庸』・『孟子』等を講釈し、修三堂の開講式(五月三日)で『論語』の「学而」を講義する(謝金は二百疋)。富田徳風は青陵が来たことを新保屋と野尻屋から聞いたため宿を訪れて依頼したことにしている。「学而」には孔子の訓戒や金言が盛り込まれ、いわば学規のような内容である。また額の題字「修三堂」「求益」を揮毫する。その間に三木屋半左衛門(村瀬栲亭や皆川棋園に学んだ寺崎蛠州)や蘭方医で儒学に詳しい長崎玄庭等の高岡町人や修三堂に文台を寄付した戸出村の川合又右衛門、自在竹を寄付した加納村の扇沢権六と交流した。ただ高岡町奉行の寺島蔵人は病気であったためか接触していない。高岡町では時鐘の銘を認め(採用されたのは皆川棋園の銘)、上牧野の宗良親王遺跡に「八宮樸館塚」と撰した。高岡には青陵の絵(発田家所蔵の立山の図)や書(穂田家所蔵の六曲屏風)が残っている。
 七月四日に立山登山し、あわや転げ落ちるところであったという。山中に四泊・室堂に二泊した青陵は立山の開発に着目し、芦峅辺りの村民に銀や鉛等のありかを聞き出すこと、地獄谷では明礬や硫黄が燃えてなくなってしまうこと、賽ノ河原辺りに明礬・礐石・硫黄があれば宝物が産出すること、剱岳は緑青で塗ったような山であるから金銀玉宝がたくさんあるに違いないことを指摘し、山師を派遣して探査すべきであると提議した。そこで藩は硫黄を掘り出し、天保十五年から万延二年まで東岩瀬の道正屋三郎右衛門、滑川の湊屋八兵衛・鍛冶屋太吉に払下げ、大坂へ四万斤売り出す。
 このついでに青陵は富山まで足を伸ばし、富山藩の儒者市河小左衛門こと書家として名高い市河寛斎と会う。新川郡では沼保村の十村・伊東彦四郎を訪れ、彦四郎が手がけた愛本用水について談じ宿泊する。その後砺波郡を訪れ、福野で『書経』の「洪範」を論じて金沢へ戻り、山代・山中で入湯して帰京した。福野には文化十一年に山田正秀(六兵衛、伯芝・喬柜堂)と上保路磨(吉左衛門、梅園・子遵)の招きで再訪し、「洪範」の講義を続けた。路麿は皆川棋園の門。文化十年に青陵の著書『洪範談』の序文を書いている。「洪範」については文化八年に京を訪れた戸出の竹村屋武田茂兵衛(尚勝、義郷、竹坡)にも講義をしている。茂兵衛は高岡木町の鷲塚屋(大橋家)と組み砺波郡の農民に蝦夷の鰊を販売し、たびたび上京していた。文化八年に上京した際、青陵と会いその著書七冊読んで感動し、理の淵源は「洪範」であると聞いて、上京の度に青陵から学んだという。講義では、家が豊になれば国も豊になる、「則用之家、用之国」であることが強調され、青陵の『洪範談』を自費で出版するに到る。同十年に茂兵衛が新田開発を任された折には、自筆本『新墾談』を贈り、「ウツカリト掛レバ大キニ損失ノアル」と心構えを諭した。青陵はまた福光にも文化七年に訪れ、石崎喜兵衛(寅、子温・節斉)等を指導した。喜兵衛は訓言を筆写し、常に座右に備えたという。
洪範とは大原則(九疇)であり、五行(水・火・木・金・土)、五事(貌・言・視・聴・思)、八政(食・貨・祀・司空・司徒・司寇・賓・師)、五紀(歳・月・日・星辰・暦数)、皇極(皇が法を立て五福を衆民に遍く与える)、三徳(正直・剛克・柔克)、稽疑(卜・筮を執行する者を選ぶ)、庶徴(雨・暘・燠・寒・風)、五福(寿・富・康寧・好徳・終命)・六極(凶短折・疾・憂・貧・悪・弱)を指す。青陵はこれらと『周礼』(十分の一税、贖刑・売爵)で法即ち天理・治世の準則を認識し、老荘と仏教はその運用技術、法家思想はそれらを現実に行ったものと説明した(『洪範談』)。
 海保青陵の思想は、加賀藩では限定的にしか容れられなかったが、越中国内を広く遊歴し、その薫陶を得た人々は少なくなかった。町や村の指導者はこぞって青陵を訪ね、招いて、指導者としての心得や社会を見る眼を形成していった。
海保青陵.BMP


posted by ettyuutoyama at 19:08| Comment(1) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
海保青陵について調べているうちに、このページにたどり着きました。高岡の修三堂についてもっと知りたいのですが、参考文献など教えていただければ助かります。よろしくお願い申し上げます。
Posted by 川田文人 at 2011年05月10日 16:52
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。