2009年06月08日

第一章 石門心学の受容と普及

一、石門心学の成立
石田梅岩以前 「心学」という語は唐の韓愈が、「心を修める学」の意味で用いており、宋代で「心即理」を唱えた陸象山と、「到良知」「知行合一」「一心の本体究明」を目指した王陽明の、いわゆる陸王学を心学とも呼称されていた。後に朱子学もまた心学であると主張される。
 わが国では、藤原惺窩や林羅山がこれを受け入れ、慶安三年には『書経』を引用して、誠を中心に天理を重んじ私欲を去るべきこと、を説いた『心学五倫書』が編まれる。同書は儒教のほかに仏教や伊勢神道の影響も見て取れる。寛文七年頃に『心学十戒之図』という、仏教的世界観に儒教の用語を散りばめた書も編まれた。また貝原益軒や中江藤樹は、心の上の学問こそが真の学と心学を説明し、仮名混じり文で人々への啓蒙を図った。大坂の陣で軍功をあげた経歴を持つ鈴木正三は己を思う一念を滅却することを修行の第一と考え、『万民徳用』で武士・農民・職人・商人皆日常つとめる世法が仏法であると説き、人々の職業倫理を強調する。
石田梅岩による心学 享保年間になると町人の力が増し、脅威に感じた荻生徂徠は、『政談』で積極的に武士の帰農と町人の抑制を主張する。一方で町人の側でも西川如見は『町人嚢』で仏教・儒教・神道に深入りせず遊芸に嵌まらぬよう戒め、三井高房は『町人考見録』で謙の徳と積善の要を説いた。
 石田梅岩(諱・興長、通称・勘平、号・梅岩)は、貞享二年九月十五日に丹波国桑田郡東懸村に農民権右衛門の次男として生まれ、十一歳に京の呉服商へ奉公に出る。神道に傾倒して無駄を惜しむことに倫理的意義を見出し、商売の合間に読書に努め、講釈が開かれると良く聴きに行ったという。三十代半ばにふと不安に襲われ、自己の性をどうして知ることができるのか疑問をもち、朱子学の性理学に禅と老荘的な思想を加えた小栗了雲(名・正順、通称・源五郎、号・売炭黙叟)から指導を受ける。その結果、「人性は目なし」(我なし、即ちただ生まれつきのままありのままということ)であり、人はそれを知り、性のままに行うときに心は常に安楽である、と「発明」(悟了)した。
 享保十四年・四十五歳で自宅がある車屋町御池上ル所に塾(講席)を開く。門人にはあらかじめ課題を与えておき、月々日を定めて集まって、これをもとに日常的な問題にひきつけ討論する。門人には商人の子弟が多く、特に謝礼も紹介も不要であった。講義には『四書』『孝経』『小学』『易経』『詩経』『大極図説』『近思録』『性理字義』『老子』『荘子』『和論語』『徒然草』『六諭衍義』及び自著の『都鄙問答』と『斉家論』を用い、田舎荘子や謡曲等の講釈も行う傍ら、大坂などへも出講した。
思想の概要 梅岩が説くところによれば、学問の要は心を尽くし性を知るにある。神儒仏の教えは心を磨く磨ぎ草であると考えた。性は朱子学の性理説に由来し、「我ニ在ルノ理」である。松は緑、桜は花、羽ある物は空を飛び、鱗ある物は水を泳ぐようなものである。また性は天地を貫く理と一体で常に善であるが、心は気としての形即ち肉体に属し、時に私心私欲で本然を失うものとする。形は仮の物に過ぎないのだから、その奥にある普遍的実在としての性を知ることが重要になる。元文元年に刊行した『都鄙問答』で町人には町人の道があること、商人は社会に取り必要不可欠の職分であり、商売の利は武士が主君から受ける俸禄と同様であるとした。更に「実ノ商人ハ先モ立、我モ立ツコトヲ思フナリ」と不当な利を得ることを禁じ、正直を重んじた。これは実利とも不可分であり、売り物に念を入れ粗相せず売れば、品物が良いため買う側も金銭を惜しむ心が止むと説く。また正直と倹約の道は一つであり、真の倹約とは我がために物を惜しむことではなく、余る物を世に施すためである。三つを二つで済むように遣り繰りすれば、一つは他の必要な人へ回るのであるから、「倹約をいふは他の儀にあらず、生れながらの正直にかへり度為なり」と、性を知ること、学問することの意義に結びつけ、実践を通して人々に安心・喜びを知らせようとした。
 梅岩は簡素な独身生活を暮らし、延享元年に『斉家論』二巻を著した後、九月二十四日六十歳で没した。その思想はやがて門人の活躍で武家や公家にも信奉者を見出す。
手島堵庵による普及活動 梅岩の思想は斎藤北山(諱・全門、通称・仁介)、木村南冥(諱・重光、通称・平介)、富岡以直(通称・忠助)、杉浦止斎(諱・宗恒、通称千輔)、小森売布(諱・由正、通称五一)、神戸亀州(諱・友周、字・宗伯)等が受け継ぎ、京とその周辺諸国で活動する。更に手島堵庵は門人集団を組織化し、全国へ普及を図る。
 手島堵庵(諱・喬房、信、字・応元、通称・近江屋源右衛門)は享保三年五月十三日に京の商家に生まれ、父の宗義も子孫のための教訓書『商人夜話草』を書き遺すほどの人物であった。同二十年・十八歳の砌に石田梅岩の元に入門し、二十歳で開悟したという。家業に努めた後、四十代半ばで嫡男の建(後に和庵、字・子和、号・巴陵、富岡以直に学ぶ)に家督を譲り、『中庸』『徒然草』等約二十種の書籍について、
平易な文と歌句を用いて、女子・子供を含んだ門人に講じる傍ら、講舎の組織を完成させた。
しつぢがわるふは生まれはつかぬ 直が元来うまれつき 
めにも見えねば音にもきかず
されどなしともおもはれず
なひとおもふはそれははや思案
有の無のはみなまよひ
われをたてねば悪事は出来ぬ
しれよこゝろに我はなひ
へちた事には善事はなひぞ
しれた通がみなよいぞ
寐てもさめても立ても居ても
無理をいふまひむりせまひ   『児女ねむりさまし』
 堵庵は人を真の人たらしめる本質を天より等しく付与された性であると考え、教化理念の中核に据える。私欲ばかりでは災害を招くと、正直と信を固めることを説き、「無理言わず、無理せぬ」ことが一家和合の要件であるとした(『町人身体はしら立』)。また性を知るために個人的心掛け、処世訓の必要を感じ、修身の要語を歌謡にして普及させた。これは後に道歌と言われるようになる。更に七歳から十五歳までの子供に向け、家庭における日常の行儀や心掛けを説いた印刷物を頒布する。朝起きたら手水を使い、その後に神と仏壇に拝礼する、食事や外出時の作法・心得では、両親・祖父母・神仏への尊敬従順を第一に、嘘偽りを戒め殺生をしない、衛生面には留意する、といった内容である。教材に工夫を凝らし、農民や庶民向けにくだけた短い文言や絵入りの「施印」、子供には『新実語経』『男子前訓』『女子前訓』、女の人には『女冥加訓』、子守娘には『子守唄』といった具合である。
 塾を『論語』の一節を取り「会輔」と名付け、規約を作り、守るべき禁誡を定める。朝倉町の建物を五楽舎と命名して講学の場とするが、収容しきれなくなり修正舎、時習舎、明倫舎を設立する。これらを三舎といい、心学修行に一応の功を認めたら「石田先生門人譜」に登録して、「断書並口上」「知本心者可守之大略」が渡される。奥義に達した者には三舎連署の印鑑が渡され、全国で道話を説き、初心の修行者を善導することが許された。また道話を行う講席と会輔・静坐といった修行をする道場を兼ねた心学舎を全国に設立し、梅岩の筆跡と自著『諸国舎号』二冊、『会友大旨』一冊を分与するとともに明倫舎を中心に厳格な統制下に入れた。堵庵は著書を二十点余り著し、天明六年二月九日に没す。
二、高岡町での心学の普及
修三堂の設立 文化三年に高岡町奉行が後援し、高岡町人有志が出資して、高岡町の影無の坂に講堂をつくる。富田徳風は、『易経』の「君子は其の身を安んじて而して後に動き、其の心を易めて而して後に語り、其の交を定めて而して後に求む。君子は此三者を修む」から、これを修三堂と命名した。開講式は五月三日にあり、海保青陵を招いて『論語』を六十三人が聴講した。修三堂は町の公民館として、文化の普及に活用される。特に手島堵庵に学んだ脇坂義堂を講師に招き、石門心学が高岡町に普及するきっかけを作った。更に『修三堂湯話』(高岡湯話)を編集し、聖人を引かずとも高岡町人の中にも偉人はいることを、方言交じりの口語表現を用いて知らしめ、そこから人々の徳義を高めることを企図する。この手法はまさに石門心学そのものであった。
富田徳風 横町屋富田家は代々由緒町人・町年寄を務め、九代目が弥三右衛門美宏(可広)である。字は子順、号は徳風・松斎・冬青・晴雪窓・幸廼屋等と称す。明和三年九月に生まれ、寛政九年町年寄に就任、文化九年三月に苗字を名乗ることが許可された。二十歳のとき京へ留学し、皆川淇園や本居宣長に入門する。『宜深誌』『冬青園常盤帳』『四十七字麓之志留辺』『南瓜集』等を著して、自ら人々の先頭に立ち実践した。米価高騰の折には毎夜ひそかに困窮している家に銭を投げ入れたり、公用で金沢へ行く途中に竹橋の大火に遭遇したため懐中から罹災者に施したり、寛政十二年の高岡大火では自宅改築用の資金を公用と窮民へ寄付したり、延享三年の火事以来七十年間放置されていた瑞龍寺山門の再建に尽力するなど、多くの逸話がある。自ら修三堂を主宰し、文化四年十二月『修三堂湯話』に序文を書いている。同十四年二月(または正月)に五十二歳で没。
 『宜深誌』上下巻は五代目弥三右衛門可氏(号震風)の家訓を元にしたもので、その第一条に富田家が受け継いでいる思想が滲み出ている。「人といふ物は常に苦労して物を勤むれば心に思慮分別する事有物なる故に、おのづから善心生ずる物なり。常にらくをするものは淫乱放逸なる心いで来て、あらぬ悪念もきざす物なり。昔よりこゑたる 地の民は材智あらず、やせたる土の民はおのづから善にむかふといへり。勤・謹・和・緩、この四字を平生不可忘」
 脇坂義堂 京の町屋に生まれ、名は弘道、通称は青貝屋庄(正)兵衛。手島堵庵に入門し、布施松翁から多くを学ぶ。
 布施松翁(名・矩道、通称・松葉屋伊右衛門、享保十年十二月二十二日〜天明四年七月七日・六十歳)は呉服商の家に生まれ、宝暦七年に三十三歳で富田以直に入門した手島堵庵の道友で、性の本体を無為に求めつつ、実践の場では陽明学の知行合一を強調し、堪忍を諸徳の根源であるとした。また人々の生活に密着した様々な教訓を例話で諭す手法をとった。
 義堂も師の方法論を受け継ぎ、天明頃高槻城下で遊説するが、神仏儒教への言及には慎重を期せとの社約に反して伊藤仁斎の古学に基づいた経典解釈を批判したため、高槻藩への心学者出入りが禁じられてしまう。そのため堵庵から破門された。その後占いと教学思想を盛り込んだ教訓書を著したりするが、江戸へ下り中沢道二を頼る。
 中沢道二(名・義道、通称・亀屋久兵衛、享保十年八月十五日〜享和三年六月十一日・七十九歳)は京の機織業の家に生まれ、四十一歳で家督を譲った後に東嶺禅師や東寺の霊元禅師に仏教を学ぶ。やがて布施松翁の勧めで手島堵庵に入門し、代講を勤めるまでになる。五十五歳で堵庵から江戸へ下るよう指示され、日本橋に参前舎を設立した。道は主観的な心でありながら客観的な規範であることを説き、笑い話を交えて語る手法を確立した。泉・大垣・須坂・山崎等各藩から入門があり、大奥や松平定信からも引きがある。寛政二年に石川島人足寄場が建設された際、講師を委嘱された。
 義堂は道二の元で、享和三年から人足寄場で教諭を行い、大垣・庄内等の各藩に依頼され江戸藩邸で進講する。江戸で東海道の破損修築を幕府に訴え、自らも蹴揚の山道に石燈篭数基を門人と建設した。また駿河・高岡・金沢と遊説に出かけ、心学普及のきっかけを作った。このような活動が認められ、文化十四年に破門が許され「石田梅岩先生門人帳」に登録される。また孝心に厚く、母が亡くなると生前愛好した布袋の像を祀ると、門人からも布袋象が次々に贈られたため、堂内は布袋像で溢れたという。著書には『御世の思澤』『売卜先生安楽伝授』『孝行になるの伝授』『民の繁栄』『忍徳教』等二十部五十巻あり、教訓書として多くの人々に読まれた。文政元年に没。
 日常の生活に励みながら、無為の境地に達することを目指し、堪忍と知足安分を説く。更に『撫育草』では町人とその子供・丁稚向けに心掛けを二十八句で説いて親子間の親密な関係を強調し、子供は親の教えを理解して心服すること、親は幼児を厳しさだけではなく温和に育てることを心掛けること、子供には穏やかに接しながら必要なことは厳格な態度でしっかり伝えること、等を記した。
三、富山藩による普及活動 
 石門心学は富山藩では藩の手で普及が図られた。それは町人道徳の向上と、社会の安定を図るためであろう。文政三年三月二日の申渡では、翌三日より寺町の円隆寺で心学講授があるので、聴聞希望者は参加するようにとある。忠孝の道話であった以外に具体的なことは不明だが、参加者は少なかったと見え、七日に奉行所から町中へ用事は他日に振替え出席するよう触れがあった。また十八日には反魂丹商人は親方より連人共へしばらく隙を遣わして聴聞に出席させるようにと達しがある。また町々には出来るだけ出席できるように工夫すること、町々丁頭一人ずつ日々出席することが伝えられ、講釈は二十日まで行った。二十二日には船橋向極性寺で心学を講釈するので出席するよう申渡しがある。
四、石田小右衛門による富山藩の財政再建
富山藩の財政事情 富山藩は寛永十六年立藩の時点で人件費が財政を圧迫し、リストラを繰り返しながら、新田開発を急ぎ実収高を上昇させて、かろうじて維持していた。
 寛永十六年 家臣俸禄九万石
 寛文六年 同七万八千石
 明和三年 同七万二千石
 文化十四年 同六万四千石
 天保五年 同五万五千石
 朱印高十万石 実有高 寛永十六年 十一万二千石 寛文四年 十三万六千石 実収米 二万八千石
 天保四年まで財政を十年間分平均すると、歳入が年に収納高二万四七二六石、運上高一万二八四両、歳出が年に三万七五八両二歩かかり、累積の借財が三十万両になってしまった。特に天保二年四月の大火と不作が藩に決定的なダメージを与え、幕府から金五千両を借りる始末、同四年九月に夜中、大勢の物乞いが横行し、翌年は凶作であった。
 そこで藩主前田利幹は、天保四年の冬より五年間の財政改革を発令し、この時に西本願寺が財政再建に成功したとの話が伝わっていたため、これを参考にするべく、富山町人で本山出入りの商人で長町人の黒瀬屋六右衛門、米屋喜兵衛、中屋健吉を通じて内々に伺ったところ、石田小右衛門を紹介された。
石田小右衛門とは 石田小右衛門は、新田義貞の家臣を先祖に持つ摂津国川辺郡小坂田村山岸家の分家で、豊嶋郡東市場村岸上家に生まれ、名を敬起といい、知足、後に知白斎と号した。岸上家は富農であり、天保頃には相当の勢いがあった。家訓は浄土真宗の教えをもとに、勤勉・正直・倹約を旨とし、米の仲買に際しても短期的な利益より、長期的な視点で考えることをモットーとしていた。その教えのもとに三人の子供達が育ち、長兄の忠太夫は麻田藩士として財政面で活動し、次兄治左衛門は一時一揆を企てたとして追放になっていたが、帰国後に家老の中村伊兵衛と協力して、藩の財政再建にあたっていた。小右衛門は末弟であり、若くして大坂天満の乾物仲買で寒天問屋の大根屋石田家へ養子に行く。そこで堅実な商売をして養家を立て直し、大川ざらいの折には四百両の寄進をしたという。小右衛門の残した家訓には、
朝は粥 昼一菜に夕茶漬け 後生大事に身のほどを知れ
とあり、大根の絵が入っているという。岸上家、そして小右衛門の手腕を見込んだ岸和田藩は、文政十一年に財政改革を依頼した。これが小右衛門のコンサルタントとしての始まりであった。天保元年に西本願寺の改革のため、店を息子の小十郎と実兄の治左衛門に託して京へ移住し、以来兄とも協力しながら十以上の諸藩・旗本・寺院等の改革に携わり続けた。活動の拠点は近畿地方であるものの、富山藩からの懇請を容れ、遊説に出かける。氷見町の田中屋権右衛門『應響雑記』天保四年十月十八日には、石田小右衛門が西本願寺の借金七十万両を三年未満にことごとく解消し、更に二・三万両の余りを生み出して海内に功名を響かせ、大名方仕送りもする隠居であることが記されているように、この時代の有名人であった。
思想の基盤は石門心学にある 富山に来てから小右衛門は「演舌」会を寺院等で連日開く。その内容は国恩と仏恩に感謝し、質素倹約を旨とし、御恩報謝の気持ちを難渋している殿様に、献上という形で表そうというものであったが、岸上家の教えや小右衛門の歌からも読み取れるように、石門心学の影響がある。富山の人々には心学の素養があり、仏教への帰依は深く、藩内三百余の寺院のうち二百三十余寺・実に八十%が真宗である。したがって西本願寺の再建に当たった人物で、全国的に著名な小右衛門ときたら、それはもう富山では熱烈に受け入れられた。
石田小右衛門の富山での活動
@天保四年の演舌
 さて、小右衛門は天保四年十月十五日に富山入りする。町や郡からは小杉辺、追分茶屋まで迎えに出て、幟が立つなど大歓迎であった。ここまで駕籠で来た小右衛門は、降りて徒歩で御福新町より舟橋見付御門へ進み、諏訪川原、平吹町、旅籠町、越前町、一番町、二番町、高札のある西町、中野町の角より藩士九百石の生田左近宅から宿泊所に定めていた反魂丹役所へ着いた。当日は雨天であったため、足駄履きで町々を悠々と行進し、着いたのは夕方だったという。領内には事前に小右衛門が来ることを触れてあったため、どんな人物かと人だかりができて、前日より店を借り切って、そこから眺める人もいたようである。
 翌十六日は一日休みを取り、十七日から活動を開始する。早速登城し、前田利幹と二人だけで会談すると、利幹は翌日から質素倹約を自ら実践したという。休んだ十九日を除く二十二日まで城中で家中に「演舌」、二十三日に町役所で中坊主以下の半数と格式町人半数に演舌、二十四日通坊・金乗坊で町人に演舌、二十五日町役所で中坊主以下の残りに演舌、夕方には御郡役所で四方・西岩瀬・八尾の三宿町年寄や御扶持人十村、長町人と長百姓の格式町人・百姓に演舌、二十六日から二十八日まで通坊・金乗坊で町人や寺院に向けて演舌、二十九日は休みとして、十一月一日・二日に八尾の聞名寺、三日笹倉村の妙順寺、四日布目村の長専寺、五日布市村の常福寺で演舌、六日は御城で食事会が催されるが、その夕方に通坊で演舌、七日は休んで、八日に富山を出立し、西岩瀬の専林寺で演舌をした後に伏木古国府の勝興寺で十一日まで逗留して、寺改革の仕法を立てから帰京した。
 富山での逗留中は、藩から肩衣、時服、裃、脇差が渡され、これを着けて寺院等で演舌した。また演舌の節は、中坊主組の面々が茶などを出して、小右衛門が異動する時には町廻り・野廻り・足軽が前後を警護して、反魂丹役所下役小見付などが付き従っていた。町役所や御郡役所で演舌する時には高座に毛氈を敷いて、その上に座った。小右衛門の助手に専応寺と称した真宗の僧が常に同道し、演舌もしている。町方の寺院で演舌した際は、勘定奉行、改革方懸り下役などが詰め、町奉行、郡奉行、町奉行下役、郡方頭取は継肩衣で出役した。
 藩は小右衛門に改革を委ね、家中からの借米二分五厘はやめることにする。藩に銀を貸していた鎰屋九右衛門も取立てを猶予した。また家中・領民に男女を問わず演説会への参集を触れたところ、大勢が集まり小右衛門の道話に聞き入り、感動の連鎖を生み、仏の来迎を拝するようで、藩への献金が相次ぐ。婦負郡の農民からは五年間に五石ずつ差し上げたいとか、太物屋清次郎と嘉右衛門からは、火災にあってこれだけしかないのですが、と断った上で百五十両を寄付、中には通坊・金乗坊で、草履や草鞋をない、俵を編んで上納したいと差し出した農民の願書を、助手の専応寺が高座の上で高らかに読み上げると、人々は皆感服したという逸話も残っている。
A天保五年の演舌
 天保五年四月十四日に小右衛門は再び富山入りし、野口村の願念寺で休息した後に演舌してから、城下に入った。夕方に宿泊所の御郡役所に着き、翌日に登城して前田利幹と会見した後、十六日から二十日まで通坊・金乗坊で演舌、二十一日と二十二日には城中で演舌、二十三日は休んで、二十四日から二十七日まで登城して演舌、二十八日に町役所で中坊主以下に演舌、二十九日に布目村大安寺に泊まりこみで演舌、五月一日萩嶋村正栄寺で昼休みそこそこに演舌、この日に八尾入りして三日まで聞名寺で演舌、六日に富山に戻って、七日に通坊、八日に永福寺、九日に本寿寺と北代の極楽寺、十日に海岸寺・円隆寺、十一日光厳寺、十二日通坊および常楽寺といった具合に精力的に演舌をこなしていたが、さすがに疲れがたまって、十三日に休んだ後に臥せってしまい、藩医の木村東詮の往診を受け、帰京した。
 今回の改革では、家中から五年間の半知借上げを反対意見もなく申渡し、三十三万八千貫文程の銭札について毎月七日に金百両ずつ償還するよう指示している。婦負郡と新川郡の高持百姓からは、村々から一万五百石、十村からは五百石、四百余ヶ村の肝煎から千三百石を五年間借り受け、演舌の場で目録を読み上げた。
また寄付が前回を上回り、町の搗米屋からは五年間に金子三両ずつ、妻から一両ずつ、倅からも一両ずつ差し上げたい、などというものもあり、通坊へは献上が相次いでいる。八尾より銭で作られた鷲一羽、これまた銭で作った「イワス」に止っている。大根を両手に差し上げた絹の大黒が一体、銭で作った米俵二つと同じく銭の縄目皿が付いている。銭で作った福助一人。輪島製の八升入り大盃一つと八升入りの瓢箪一つ。室屋町からは金銀銭で作った看板。稲荷町からは神輿に小判を釣って周りを銭で作ったもの、天幕簾や祇園囃子。舟橋向からは麒麟一羽、銭で作ってあって、歯は一朱金、足は二朱金、象一匹、銭と一朱金で作って、鼻や体は大根。山にいる亀を銭や銀で作ったもの、同じく松に「さい」の作り物。三番町からは、銭で作った幟一本と金銀などで作った桜の造花。一番町と宗為町からは銭で作った陳太刀、下げ緒も銭で作っている。西町からは孔雀一羽が、銭や小判十五枚ばかりで作って、銭で作った「まとへ」(纏か)、銭などで作った鯛二疋、中野両町から米と金銭札などを多数、その他。このような凝りに凝った寄贈であった。稲荷町の玉輿と祇園囃子に三味線を弾かせ、次の唄が歌われたという。
 上辺がよければ下までよいぞ 君の御恩は忘られぬ うれしう思うはいついつまでも 御恩たりとや はやありがたや 君の代の千代までかけて 石田畠で万作じゃ これへめでたい玉のこし よいとさ よいとさ よいとさなあ
 藩は六月に家中の精勤と領民の冥加に感謝の意を表し、銀主の鎰屋九右衛門にも迷惑をかけないことを誓う。九月には飛騨国舟津町の北沢屋に十一月までの借用金三百両を、改革中のため待ってほしいと、これまた懇切丁寧、慇懃な書状を発した。この年の献上米は野積谷などから三千五四三石余あり、千石町の御蔵へ運びこまれる。
B天保六年の演舌
 三度目の富山入りは、天保六年二月二十五日で、これまで同様に群衆が迎え、夕方に宿泊所の御郡役所に到着した。翌日に登城してから日々、通坊、八尾、西岩瀬、四方などで寺院を使い演舌している。この間は御郡役所を奉行二人の宅に移して、月番を立てて仮の役所にしていた。
 やはり所々では金銀銭の寄付が相次ぎ、その内訳を読み上げるといったことをしているが、さすがにこの頃には減少傾向にあったようである。三月七日に富山を出立し、勝興寺に立ち寄ってから、京へ戻った。
 八月に藩は改革年限中の役知等の一割減を発表する。石田小右衛門はこの後も諸藩の改革に尽力し、弘化元年には麻田藩の財政を岸上家などの富農に委任させ、藩札の運用と信用借入で支えた。
富山藩のその後 この改革最中の天保五年十月に家老蟹江監物、浅野大学病死のため嗣子の浅野直太郎、御勝手方物頭加藤左門など財務担当者二十二人が処分を受ける。この中には後に明治維新後に藩政を牛耳る林太仲の父も含まれていた。これは藩札発行を巡る争いで、家老近藤丹後によるクーデタであった。近藤は御勝手方・御改革方主附に就任する。前田利幹は天保六年十月に隠居し、前藩主の子息利保に後を託して翌年薨去した。利保も富山入りした同年中、小右衛門へ丁重な書状で頼んでいるが、諸藩からの依頼がひきもきらぬほど多忙の小右衛門が富山に四たび入ることはなかった。
 石田小右衛門による改革はある程度の増収を見たが、いかんせん演舌にとどまり、構造的赤字体質を変えるまでには至らない。結局家中・町在からの調達と金銀札への依存を深めていく。
 天保七年に大凶作がおき、同九年一月に近藤丹後などが失脚し、三月に幕府から三万両、翌年八月に二万五千両の供出を命ぜられた。どうにもならずに領民へ二千石の五カ年間上納を依頼し、閏四月には家中に翌年までの半知借上げを命じる。家中は困窮にあえぎ、十二月藩は生活資金を貸与した。これを知った幕府は天保十二年十月に参勤交代を免除するほどであった。
 前田利保は就封後に人材を登用し、産業養成と流通の円滑化を図り、資金を貸与することで利息収入を上げるなど諸政策を、反対をものともせず断行するが、確実に財政は破綻へと向かっていた。


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