2009年06月18日

参考文献

『日本教育史資料』貳・九(文部省、明治二十五年)
『日本庶民教育史』上・中・下巻(乙竹岩造、昭和四年、目黒書店)
『富山県教育史』上巻(富山県教育史編纂委員会、昭和四十六年)
『自天保至安政 塾寺子屋の概況』(辻意川、明治三十九年四月、窪美昌保蔵)
『富山県史』通史編W近世下(富山県、昭和五十八年)・X現代上(昭和五十六年)
『富山県史』史料編W近世中(富山県、昭和五十三年)・X近世下(昭和四十九年)・Y近代上(昭和五十三年)
『人づくり風土記』(農山漁村文化協会、平成五年)
『越中百家』上巻(富山新聞社編、昭和四十八年)、下巻(昭和四十九年)
『富山県の歴史と風土』(越中風土記刊行会、昭和五十二年、創土社)
『富山県の教育史』(坂井誠一、高瀬保編、昭和六十年、思文閣)
『越中史略』(篠原久太郎編、明治二十八年、學海堂)
『改訂増補 郷土數學』(田中鉄吉、昭和十二年、池善書店)
『富山県薬業史』通史(富山県、昭和六十二年)
『富山県薬業史史料集』上巻(高岡高等商業学校、昭和十年、岡書院)
『富山の寺社』(梅原隆章・北沢俊嶺監修、昭和五十三年、巧玄出版)
『学国越中』(富山別院開創百周年記念出版『学国越中』編纂委員会、昭和五十九年、永田文昌堂)
『書道辞典』(飯島春敬編、昭和五十年、東京堂出版)
『富山書道文人名鑑』(村澤城山、平成十年、美術骨董全国大会本部事務局)
『富山県書道人志5』(宮崎重美編、平成十三年、富山県書道人志刊行委員会)
『越中の明治維新』(高井進、昭和六十一年、桂書房)
『肯搆泉達録』(野崎雅明、復刊昭和四十九年、KNB興産株式会社)
『加賀郷土辞彙』(日置謙、昭和十七年、金沢文化協会)
『石川縣史』第三編(石川縣、昭和十五年)
『稿本金澤市史』學事編第一(金澤市役所、大正七年)、第二(大正八年)
『加越能維新勤王史略』(中田敬義編、昭和五年、加越能維新勤王家表彰会代表木越安綱)
『富山県姓氏家系大辞典』(富山県姓氏家系大辞典編集委員会、平成四年、角川書店)
『富山県の地名』(平凡社、平成六年)
『郷土に輝く人びと』各巻(富山県、昭和四十四年、四十五年、五十年)
『地図の記憶〜伊能忠敬越中測量記〜』(竹内慎一郎、平成十一年、桂書房)
『礪波教育八十年史』(礪波教育八十年史刊行会編集部、昭和三十一年)
『城端町北野郷土史』(北野地区振興会、昭和五十二年)
『雄神村誌』(畑六次郎、大正十三年)
「青島村郷土史」(青島尋常小学校、大正五年)
「種田村誌」(福野町立図書館所蔵、大正七年)
『平村史』(平村史編纂委員会、上巻昭和六十年、下巻昭和五十八年)
『越中五箇山平村史』上巻(平村史編纂委員会、昭和六十年)
『上平村誌』(上平村役場、昭和五十七年)
『上平村教育八十年畧史』(上平村教育委員会、昭和三十年)
『利賀村史2』近世(利賀村史編纂委員会、平成十一年)
『庄川町史』下巻(庄川町史編纂委員会、昭和五十年)
『青島小学校史』(青島小学校史編纂会、昭和四十三年)
『井口村史』上巻、通史編(井口村史編纂委員会、平成七年)
『福光町史』下巻(福光町、昭和四十六年)
『福光小学校誌』(福光小学校誌編纂委員会、昭和五十二年)
『福野町史』(福野町役場、昭和四十九年)
『福野町史』通史編(福野町史編纂委員会、平成三年)
『野尻村史』(東礪波郡野尻村役場、昭和四年)
『野尻校史』(野尻校史刊行会、昭和四十四年)
『広塚村のあゆみ』(福野町、昭和四十七年)
『福野町のいしぶみ』第二集(福野町教育委員会、昭和六十年)、第三集(昭和六十二年)、第四集(平成元年)
『城端町史』(城端町史編纂委員会、昭和三十四年)
『天文暦学者西村太冲伝』(河崎倫代、平成十三年、城端町教育委員会)
『城端俳史と俳人伝』(西川栄一、昭和四十九年)
『碑調査報告書』(城端町教育委員会梨の木グループ、昭和五十九年)
『井波誌』(宇野次四郎、昭和十二年、町立井波図書館館友会)
『井波町史』上巻(井波町史編纂委員会、昭和四十五年)
『山田村史』上巻(山田村史編纂委員会、昭和五十九年)
『富山県西砺波郡紀要』(富山県西礪波郡役所、明治四十二年)
『礪波市史』(礪波市史編纂委員会、昭和四十年)
『礪波市史』資料編5集落(平成八年)
「出町史資料」(砺波市立図書館所蔵)
『礪波市の石碑』(礪波市教育委員会)
『礪波市に映える人びと』(礪波市教育会、昭和五十年)
『下山田村誌』(大木和平、平成三年)
『庄下村史誌』(庄下地区自治振興会、昭和五十四年)
『礪波市若林村史』(野原勇蔵、昭和三十九年、礪波市若林自治振興会)
『中野村史』(中野村史編纂委員会、平成十三年)
『南般若村誌』(南般若村誌編纂委員会、平成二年)
『柳瀬村史』(柳瀬村史編集委員會、平成十二年)
『栴檀山村史』(栴檀山村史編集部、昭和五十一年)
『五鹿屋校史』(五鹿屋小学校史編集委員会、昭和六十年)
『太田村史』(太田村史編纂委員会、平成三年)
『正得村史料』(西礪波郡正得村役場、昭和七年)
『石堤村誌』(西礪波郡石堤村役場、大正六年)
『百年のあゆみ』(高岡市立石堤小学校、平成四年)
『福岡町史』(福岡町史編纂委員会、昭和四十四年)
『乎乃郷の今昔』(山本善次、昭和六十三年)
『小矢部市史』下巻(小矢部市史編集委員会、昭和四十六年)
『小矢部のいしぶみ』第一集(小矢部市教育委員会、昭和六十一年)、第二集(平成三年)、第四集(平成五年)、第九集(平成九年)、 第十集(平成十年)、第十一集(平成十一年)、第十二集(平成十二年)、第十三集(平成十三年)、第十五集(平成十五年)『水島村史』(水島村史編纂委員会、昭和三十三年)
『荒川郷土史』(荒川郷土史編纂委員会、平成五年)
「幕末・明治の藩校と寺子屋、塾」(青嶋喜良、小矢部市立石動図書館)
『越中二塚史』(越中二塚史刊行委員会、昭和六十年)
『下島郷土誌』(下島郷土誌編纂委員会、平成七年)
『贈従五位五十嵐篤好翁事歴』(東五位村頌徳會)
『中田町誌』(中田町誌編纂委員会、昭和四十三年)
『郷土誌』(中田尋常小学校、大正六年頃)
『戸出史料』(戸出村、大正八年)
『戸出町史』(戸出町史編纂委員会、昭和四十七年)
『戸出町教育史概要』(西礪波郡戸出小学校、昭和二十八年)
『北般若村郷土誌』(棚田与吉編、大正四年、東砺波郡役所)
『吉江山願性寺』(浅香幸雄、昭和五十五年)
『射水郡志』上・下巻(射水郡役所、明治四十二年)
『いみずの神社・寺院』(射水地区広域圏事務組合、平成十二年)
『氷見市史』(氷見市史編修委員会、昭和三十八年)
「氷見市史』(氷見市史編さん委員会、平成十八年)
『氷見教育百年史』(氷見教育百年史編纂委員会、昭和四十七年)
『氷見百年史』(氷見市、昭和四十七年)
『氷見郡志』(氷見郡役所、明治四十二年)
「越中国射水郡姿村、広沢家文書」(深井甚三、広沢睦子『富山大学教育学部紀要A-33』昭和六十年三月)
『應響雑記』上(田中屋権右衛門、刊行平成二年、桂書房)
『近世越登賀史料』第一(深井甚三郎編、平成四年、桂書房)
『平成三・四年度 氷見市寺社調査報告書〜浄土真宗本願寺派の部』(氷見市寺社所蔵文化財調査委員会編、氷見市教育委員会刊行)
『図説氷見の歴史・民俗』(氷見市教育委員会、平成十五年)
『氷見の先賢』第一集(「氷見の先賢」編集委員会、昭和五十年)
『氷見の譜』(嶋尾正一編、昭和四十二年)
『氷見町史考』(宮永善二、大正十三年)
『宮永家歴史』(宮永善二、大正十年)
『速川村史』(速川村史刊行委員会、昭和六十二年)
『速川史記』(安達長次郎、昭和三十六年)
『私達の集落 作道』(作道郷土史編纂委員会、平成元年)
『堀越村史』(堀越村役場、昭和十五年)
『しちみの郷土史』(七美郷土史編纂委員会、昭和五十八年)
『片口校誌』(片口小学校創立百周年記念事業実行委員会、昭和四十九年)
『越中の偉人石黒信由』(新湊市博物館、昭和六十三年)
『石黒信由事蹟一斑』(石黒準太郎、明治四十二年)
『算学鉤致』上・下(石黒信由、文政二年、水玉堂)
『算学鉤致解術』翻訳版・復刻版(石黒信由、訳註吉田柳二、平成十二年、桂書房)
『西藤平蔵村誌』(西藤平蔵村誌編纂委員会、平成十六年)
『高岡市史』中・下巻(高岡市、昭和三十八年)
『高岡の町々と屋号』創刊号〜第七号(高岡旧町諸商売屋号調査委員会、平成五年より)
「越中義塾規則」(高岡市立中央図書館所蔵)
『高岡史話〜庶民の歴史〜』(柿谷米次郎編、昭和四十年、高岡史壇会)
『高府安政録』(中条屋六郎衛門、安政六年二月、高岡市立中央図書館所蔵)
『射水通覧』(中条屋六郎衛門、明治十四年八月、再刊高岡市史編纂委員会、昭和三十四年)
『高岡中学・高岡高校百年史』(高岡高等学校百年史編集委員会、平成十一年)
『高岡史料』上巻、下巻(高岡市、明治四十二年)
「高岡史料編纂資料、教育ノ下ノ二下調」(高岡市立中央図書館所蔵)
『高岡詩話』(津島北渓、昭和二年、篠島先生頌徳会印行)
『高岡叢話』(石崎謙)
『立野郷土史』(立野郷土史編纂委員会、平成六年)
『南条〜歴史と教育』(南条〜歴史と教育編纂委員会、昭和四十九年)
『成美小学校九十年史』(成美小学校史編集委員会、昭和四十七年)
『守山小学校史』(守山小学校、昭和四十八年)
『下関小学校百年のあゆみ』(下関小学校、昭和四十九年)
『ふるさとと学舎の歩み』(能町小学校、平成二年)
『伏木小学校〜学校と子どもの90年史〜』(伏木小学校、昭和三十八年)
『牧野小学校百年史』(牧野小学校百年史編纂委員会、昭和五十二年)
『高山雑記』(大橋二水、昭和十年)
『古城の社〜郷土雑纂』第三編(太田久夫、平成八年)
『二水遺稿』(瀬野喜太郎編、昭和二十四年、高岡女呉分の今社)
『津田家と高峰譲吉』(津田俊治編刊、平成七年)
『高峰譲吉の生涯〜アドレナリン発見の真実〜』(飯沼和正・菅野富夫、平成十二年、朝日新聞社)
『逸見舫齋傳』(逸見文綱編・発行、大正十三年)
『蘭学、その江戸と北陸〜大槻玄沢と長崎浩斎〜』(片桐一男、平成五年、思文閣出版)
『鳥山敬二郎行状録』(鳥山保、昭和四十九年)
『算學稽古記』復刻版(林五郎兵衛義清、昭和二十八年)
『大門町史』(大門町、昭和五十六年)
『大門町歴史の道調査報告書』(大門町役場、平成六年)
『わたしたちの浅井』(大門町立浅井小学校、昭和六十三年)
『稲垣示物語』(櫻木成一著・発行、昭和五十年)
『大島村史』(大島村役場、昭和三十八年)
『大島町史』(大島町教育委員会、平成元年)
『大島の教育百年』(大島教育百年史、昭和四十九年)
『小杉町史』(小杉町役場、平成九年)
『寺子屋の歴史と小杉町の寺子屋時代』(小杉町図書館)
『郷土教育資料』bQ(郷土教育研究会小杉区域小学校、昭和八年)
『小杉町の先人を偲んで』(島木萬四郎著・発行)
『小杉町のいしぶみ』第一集(小杉町教育委員会、平成四年)、第三集(平成六年)
「吾郷旧記」下巻(小杉町立図書館所蔵)
『越中石川家史』(石川旭丸、昭和五十一年)
『中老田郷土史』(中老田郷土史編集委員会、昭和五十四年)
『下村史』(楠瀬勝監編、昭和六十一年)
『郷土史萩の野之下邑』(下村尋常小学校、昭和八年)
『富山縣中新川郡教育史』(富山縣中新川郡教育会、昭和十五年)
『下新川郡史稿』上巻・下巻(下新川郡役所、明治四十二年)
「安政六年諸商売取調理書上申帳 新川郡」『富山県史』W近世中付録
『追録 宇奈月町史』歴史編(宇奈月町史追録編纂委員会、平成元年)
『宇奈月町の文化財』(宇奈月町教育委員会、昭和四十七年)
『朝日町の歴史』(朝日町教育センター、平成八年)
『宮崎村の歴史と生活〜舟と石垣の村〜』(宮崎村史編纂委員会、昭和二十九年)
『黒部市教育の百年』(「黒部市教育の百年」編集委員会、昭和四十八年)
『黒部市史』歴史・民俗編(黒部市、平成四年)
『黒部市誌』(黒部市、昭和三十九年)
『黒部市荻生村郷土史』(森田良作、昭和五十五年)
『黒部奥山史談』(湯口康雄、平成四年、桂書房)
『大布施村誌』(大布施村誌編集委員会、昭和六十年)
『東布施村誌』(東布施村誌編纂委員会、平成六年)
『魚津市史』上・下巻(魚津市役所、昭和四十三年)、史料編(昭和五十七年)
『魚津町誌』(魚津町役場、明治四十三年)
『魚津區域郷土讀物』(堀内丈造、昭和十二年、魚津區域国語教育研究部)
『滑川町誌』上巻(滑川町役場、大正二年)
『椎名道三伝』(高橋政二、昭和六十二年)
『入善町誌』(入善町誌編纂委員会、昭和四十二年)
『片貝郷土史』(片貝郷土史編集委員会、平成九年)
『ふるさと再発見〜昔在の村落と郷土芸能〜』(大山町昔在の村落及び郷土芸能調査保存会、平成六年)
『上市町誌』(上市町誌編纂委員会、昭和四十二年)
『大岩小史』(大岩公民館、平成四年)
『白萩小史』(石原与作、昭和三十年、白萩小学校)
『立山町史』下巻(立山町、昭和五十九年)
『五百石地方郷土史要』(五百石地区小学校長会郷土史研究部、昭和十年)
『越中立山古記録』第三巻(廣瀬誠、平成三年、立山鉄道株式会社)
『筆魂翁久允の生涯』(稗田董平、平成六年、桂書房)
『東中野新史』(石原与作、東中野新史刊行委員会、昭和四十九年)
『舟橋村誌』第2編(舟橋村、昭和三十八年)
『細入村史』通史編(細入村史編纂委員会、昭和六十二年)
『大沢野町誌』下巻(大沢野町誌編纂委員会、昭和三十三年)
『熊野郷土史』(熊野郷土史編纂委員会、平成元年)
『新保村郷土誌』(新保校下自治振興会、昭和六十年)
『蜷川の郷土史』(蜷川校下史編纂委員会、昭和四十三年)
『広田郷土史』(広田校下自治振興会、平成八年)
『神明郷土史』(神明校下富山市合併五〇周年記念誌編集委員会、平成六年)
『新庄町史』(新庄校下自治振興会、昭和五十年)
『水橋町郷土史』第二巻(水橋町役場、昭和四十一年)
『富山縣婦負郡教育史』(婦負郡教育会、昭和四年)
『越中婦負郡志』(婦負郡役所、明治四十二年)
『婦中町史』通史編(婦中町史編纂委員会、平成八年)
『ふるさと碑と拓本』(婦中町教育委員会、平成元年)
『八尾町史』(八尾町史編纂委員会、昭和四十二年)
『続八尾町史』(同右、昭和四十八年)
『八尾史談』(松本駒次郎、昭和二年、松本商店)
『仁歩村郷土誌』(八尾町、平成九年)
『野積村史』(婦負郡野積村役場、昭和八年)
『富山市史』(富山市役所、明治四十二年)、第貳編(大正三年)
『富山市史』上・下巻(富山市、昭和四十二年)
『富山市史』第一巻(富山市史編修委員会、昭和三十五年)
『長岡の郷土史』(長岡の郷土史編纂委員会、昭和四十一年)
『呉羽の里』(呉羽地区自治振興会、昭和五十八年)
『寒江のれきし』(高瀬保、昭和三十四年、寒江小学校)
『富山柳町のれきし』(柳町郷土史編纂委員会、平成八年)
『奥田郷土史』(奥田郷土史編集委員会、平成八年)
『四方郷土史話』(布目久三、昭和五十六年)
『西岩瀬郷土史話』(布目久三、昭和六十二年)
『東岩瀬史料』(東岩瀬郷土史編纂委員会、復刻版昭和五十二年)
『月岡郷土史』(月岡郷土史編集委員会、平成三年)
『東岩瀬郷土史 近代百年のあゆみ』(東岩瀬郷土史編纂会、昭和四十九年)
『弁才船と加賀藩海運』(清水幸一、桂書房、平成二十一年)
『富山藩の文化と産業展』(富山市郷土博物館、平成元年、富山市教育委員会)
『富山藩侍帳』(高瀬保編、昭和六十二年、桂書房)
『富山藩士由緒書』(新田二郎編、昭和六十三年、桂書房)
『柳原草堂』(内山弘正、前仏勇、昭和五十七年、新興出版社)
『図翁遠近道印〜元禄の絵地図作者』(深井甚三、平成二年、桂書房)
『小西有實・小西有義兩先生建碑記念帖』(小西両先生遺徳碑建設事務所)
『呉陽遺稾』上・下(岡田信之、大正六年、岡田正之発行)
『凡山遺集』乾・坤(杏甲子次郎、明治二十六年、吉川半七発行)
『林忠正とその時代〜世紀末のパリと日本芸術〜』(木々康子、昭和六十二年、筑摩書房)
『昌平校と藩学』(和島芳男、昭和三十七年、至文堂)
武藤元信「舊藩の學校」『三州史料』第壹冊(加越能史壇会、大正六年)、第貳冊(大正七年)
小松外二「幕末・明治に生きた人物二題」『水橋の歴史』第二集(水橋郷土歴史会)
高瀬重雄「藩儒岡田呉陽の人と学芸」『富山史壇』第五十・五十一合併号(越中史壇会、昭和四十六年八月)
石田与作「富山藩の藩学校」同右
広田寿三郎「明治のはじめ小学校の学校制度が確立するまで〜魚津市立大町小学校の場合」『富山史壇』第四十四・四十五合併号(昭和四十四年十二月)
前田英雄「富山県の寺子屋の概況」『富山史壇』第七十八号(越中史壇会、昭和五十七年三月)
大西紀夫「越中の漢詩人〜東林とその交遊〜」『研修年誌』第十〜十七号(富山女子短期大学、昭和五十六年から)
中村彰彦「捜魂記」『諸君!』平成十五年三月号
西尾幹二「江戸のダイナミズムI」『諸君!』平成十五年四月号
『加賀藩・富山藩の天文暦学』(富山市科学文化センター、昭和六十二年)
『続和算を教え歩いた男』(佐藤健一、東洋書店、平成十五年)
『ふるさとの心 宮永家譜誌』(小矢部市教育委員会、昭和五十九年)
『筏井四郎右衛門と自然登水車〜わが国江戸時代文化年間の永久機関』(正橋剛二、平成三年)
『富山藩十村嶋倉家文書』(高瀬保編、昭和六十年)
『富山縣統計書』(富山県、明治二十三年〜四十四年)
「和田一郎収集史料」(高岡市史編纂室所蔵)
「佐渡家文書」(高岡市立中央図書館所蔵)
渡辺誠「石黒伸由考案の磁石盤の特徴とバーニア目盛りについて」『富山史壇』第百四十号(平成十五年三月)
楠瀬勝「江戸時代末期の郷紳の学問と技術の文化的・社会的意義〜石黒信由遺品等高樹文庫資料の総合的研究」『富山大学人文学部紀要』第五号(富山大学人文学部、昭和五十六年)
水間直二「吉田鉄郎と五島寛平」『近代史研究』第十八号(富山近代史研究会、平成七年)
正橋剛二「各地医学塾門人帳中の越中人」『近代史研究』第十八号(富山近代史研究会、平成七年)
正橋剛二「続・各地医学塾門人帳中の越中人」『近代史研究』第二十号(平成九年) 
正橋剛二「江戸後期高岡見在蘭語関係医事資料について」『近代史研究』第二十五号(平成十四年) 
正橋剛二「長崎敬明の法橋允許(印可)状をめぐって」『醫譚』第六十八号(平成七年五月)
正橋剛二「『長崎蓬洲の年譜』について」『醫譚』第六十九号(平成七年十一月)
正橋剛二「長崎浩斎稿『未曽欺録』について」『醫譚』第七十七号(平成十三年七月)
正橋剛二「適塾門人佐渡賢隆と『蘭訳千字文』」『適塾』第三十四号(平成十三年十二月)
舘秀夫「高岡の優れた先人」『高岡市医師会記念誌』(高岡市医師会、昭和五十九年)
寺畑喜朔「佐渡家の阿波加脩造について」『北陸医史』(平成三年)
寺畑喜朔「長崎家六代言定に関する資料」『醫譚』第八十三号(日本医師学会関西支部、平成六年五月)
太田久夫「高峰家と高峰譲吉」『北陸医師』第十八巻第一号(平成九年)
津田進三「杉田玄白門人高峰幸庵について」『日本医師学雑誌』第四十一巻第二号(平成七年五月)
橋場吉盛「木町の稲荷信仰と大橋家の歴史」(平成四年)
※その他、本文中に適宜記載


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寺子屋一覧

地域 師匠名 創立 閉鎖年 寺子数 指導教科 備考
砺波市 旧砺波市域
出町   中町 高畠文伯 医者 三十余名 読 書
東町 佐藤家 組合頭 二代
同右 稲垣武平 薬種商
西町 八木善摂 教宗寺 読 書
南町 杉野加兵衛 苗加屋
同右 高橋重之助(足軽)の妻女
鷹栖出 小鍛健斎 藩政後期
西中 中西与市郎
狐島 紫藤々兵衛
五郎丸 余西家 読 書 佐久平が32年間在職
同右 中居三郎 安政 通計四十余名 農閑期
荒高屋 小幡増右衛門 通計百余名 農閑期、余西門人
同右 柏樹三郎右衛門 中流家庭以下
同右 小幡宗平 明治3〜4年 通計二十余名
同右 上田謙斉 医者、小幡増水(増右衛門実子) 読 書(小学・四書五経) 上流家庭
鹿島 宮崎小左衛門
野村島 桃井皐元 医者 読 書 算 農閑期
同右 水野達治 明治5年 同17年 桃井門人
同右 河合三介
五鹿屋 鴨居次左衛門
新明 川田七四郎 書
同右 清原庄兵衛
福岡 西脇興顕 厳照寺
太郎丸 堀田与平 肝煎役
同右 小野惣二 組合頭
神島  中神 加藤佐左右衛門 山廻
同右 河合多母津 神職 三十余名 読 書
同右 遠藤喜三郎 副戸長 明治前後
高波 江波 朝日専慶 真行寺 明治
頼成 瀬成恢憐 西慶寺 明治前後 読 書
東保 菅野権右衛門 農業 明治前後 読 書
同右 長久太郎吉
鷹栖 小倉孫左衛門 農業 天保 六十名 読 書 四書五経
同右 小倉定見 眼科医 文政 数十名 書
石丸 吉田和右衛門 安政頃 明治初年
秋元 松本伝七郎 明治前後 読 書 算
五谷 山本(小谷家) 読 書 盲人
寺尾 太郎右衛門
栃上 吉田長右衛門
柳瀬 斉藤宗庵 医者 明治初年
太田 玄照 蟻術庵 専念寺 明治初年 読 書 算
同右 金子宗右衛門 村役人 明治初年
中野 藤井四右衛門 村役人 藩政後期
同右 藤井長太郎 明治初年
同右 南部喜右衛門
同右 水上与三兵衛 肝煎
同右 喜左衛門 寄肝煎
同右 藤井彦三郎
同右 水上理平 村役人 藩政末期
同右 飯田次右衛門
庄下 宗八 藩政末期
高道 善兵衛 書 修身 三代
矢木 喜左衛門
宮村 喜右衛門
芹谷 松田快禅 明治初年 数百名 読 書 算 河合平三門人
日詰 杉下碧 医者 明治初年
旧庄川町域
東山見 光照寺
同右 但田九左衛門 村役人
同右 川島弥平 村役人
同右 岩本九蔵 村役人
同右 南部源三郎 村役人
同右 安達源十郎 村役人
青島 大伴岳陽 医者 明治初年 読 書
同右 斉藤家 村役人 冬季九十名
同右 沖田兵吉 明治初年 二十名
金屋西野々地 森田助七
雄神 藤井家 雄神神社 文化 明治初年 三十余名
五ケ 寺井平右衛門 肝煎 明治初年
天正 土居野三六 商人 明治初年
高儀新 新井覚四郎 村役人 明治初年 明治6年 読 書 自宅を高儀小学校とする
三谷 西蓮寺 書
南砺市 旧福野町域
福野町 岡田七郎兵衛 紺屋 天保
同右 長岡助右衛門 長源寺屋 安政 明治初年 三十〜四十名
同右 福富家 町役人 天保 数十名 書 四書五経 二代
同右 柴田元寿 医者 安政頃
浦町 五島家 鷹栖屋薬舗 明治初年 四十〜五十名 読書 四書 謡曲 生花 絵等 四代
野尻 河合喜世志 神職 天保 明治6年 読 書
同右 勝田吉治 村役人 明治6年 書 苗加村等でも開講
同右 河合増林 等覚寺 天保 書
同右 大坪多門 村役人
高儀 新井伊左衛門 組合頭役 安政 明治6年 書
石田 安達弘音 空泉寺、神能四郎 文化初年 明治5 月交替で師匠
下吉江 村元甚蔵 安政 明治初年
江田 片山源右衛門 医者 安政 明治初年
安居 森田玄成 医者 安政 明治初年 俳諧も教える
三清 武部和尚 安政 明治初年 俳諧も教える
上川崎 古瀬佐兵衛 文化 明治初年
苗島 河辺次郎左衛門 肝煎 藩政末年 書 算
同右 河辺純三 農業 明治年間 読 書
旧福光町域
福光町 片山重助 江田屋 安政元年 慶応2年 書 絵
同右 氏家庄助 書 算
同右 石崎清右衛門 書
同右 松村久右衛門 書
同右西町 富田氏 曲師屋 書
同右 印牧春斉 書 石動出身
祖谷 庵芳運 本敬寺 明治3年 明治5年
広瀬村 真敬寺
同右 教念寺
旧城端町域
城国寺 有川文助 男女 書 算
宗林寺 佐伯直吉 明治初年 読 算 他
南山田金戸 専徳寺
同右 是安神社
山田 寛貢 僧侶 書 算 俳句
北野 利波豊賢 海乗寺 弘化 安政頃 読 書 算 四書
旧井波町域
八日町 宇野甚之助 塩屋 読 書
北川 岩倉仁兵衛 坪野屋
谷 亀田三郎平衛 天保頃 読 書
清玄寺 亀田家 村役人 天明 明治初年 三代
山見八幡宮 山森一麿 神職 明治6年 書
高瀬 久蔵 村役人 明治初年
今里 箭原家 明治初年 二代
西院瀬見 前川伊左衛門
飛騨屋 斉藤八郎
栂野先生碑 明治二十九年に岩屋で建てられたが、現在町内に同姓の家が無いためよく判らない。
旧井口村域
井口 恵実 光徳寺 男 読 書
池尻 真光寺
川上中 前川氏
旧平村域
下梨 宇野甚之助 瑞願寺 明治3・4年頃 男十数名 読 書 算 井波から出張
中畑 高江弥三郎 医者 明治3・4年頃 男四名
大島 称名寺 男十数名
同右 嘉平 谷中宅 明治3・4年頃 男多数
高草嶺 綿貫氏 明治3・4年頃 男
入谷 斉藤氏 明治3・4年頃 男
下出 山下弥兵衛 明治3・4年頃 男
流刑人 林与八郎、桑原君(甚)平、矢木清四郎、横井大次郎、室嶋屋四郎右衛門など
旧上平村域
西赤尾 道宗鳳龍 行徳寺 明治9年 四名 読 書 四書五経
同右 水上久左エ門 明治10年 同11年 四名 読 書 漢籍
細島 生田長四郎 村役人 明治6年 同11年 読 書 算 道宗門人
同右 中谷豊平 医者 明治初年 読 書
小矢部市
福町上町 松波喜平 薬種商 明治初年 読 書
新町 駿河氏 医者
上新町 小塩祐雄 聖泉寺
上神田町 高瀬五左衛門 足軽留書
鉄砲町 榊原氏 神職 熊野神社神主元職
元門前町 村上真澄 光雲寺 兄弟
中新町 砂田有信 三十〜四十名 読書 漢籍
紺屋町 藤田屋 後にお針屋
旭町 高瀬定久 足軽 天保頃
神明 幸作 御鷹巣見役 明治前後
五社 長平 十村手代 明治前後
七社 大谷家 医者 明治前後 読 書 算
芹川 日光孫兵衛 十村手代 肝煎 文久
同右 長岡玲造 神職 明治22年
鷲島 住田家 医者 読 書 算 二代
水島 長谷川家 神職 文政5年 明治初年 嘉永頃 八百七十名 二代
同右 加茂家 十村手代 明治前後 冬季二百名 読 書 二代
同右 加茂青翠 十村手代 五十〜六十名
同右 沼田直次郎 弘化 明治初年
同右 篠岡与四郎 十村手代 明治初年
同右 筱岡貞次  明治初年 加茂家門人
同右 西蘭斉 医者 読 書
同右 庄右衛門 書 加茂家か
千石 大野八兵衛 天保 嘉永 読 書
下後亟 万明寺(万福寺) 明治前後
南谷 安楽寺 明治10年 同12年
岩崎 丸山彦十郎 肝煎 明治前後
西島 光西寺 明治中頃
同右 大野知賢 報恩寺 明治初年 読 書
平田 島谷長次郎 戸長 明治初年
同右 川口斎孝 明治14年 読 書 算
小神 宮五右衛門長二 明治初年
興法寺 浄教寺 明治中頃 二代
金屋本江 長田茂太郎 十村 書
同右 柏卯三郎 書 茂太郎門人
同右 長澤良庵 医者 明治初年 書
福町村 新屋与右衛門 明治初年 読 書 算
薮波 伊藤氏
高岡市 旧高岡市域
源平板屋町 笹原家 絹屋 明治23年 二百五十余名 読 書 三代
片原町 神子高たか 大福院 天保4年 明治19年 女二百余名 読 書 女寺子屋
同右 金谷家 金屋 明治11年 読 書 謡曲 二代
木町 加納屋 町肝煎 文化 慶応3年 町内の大半 書 算 二代
同右 吉田彦三 氷見屋 町肝煎 明治7年 読書算 謡曲
同右 鳥山屋次郎兵衛 肝煎 文化前後 読 書
横田町 上田家 有磯神社 明治6年 読 書 三代
同右 塩崎家 指物屋 明治初年 二百〜百余名 他に絵謡茶俳 四代
定塚町 飴屋六左衛門
同右 大沢七兵衛 飴七屋
坂下町 朱屋源左衛門 町肝煎 文久3年
一番町 高原屋義右衛門 明治初年
千石町 山谷和平 山屋
同右 新屋清吉 横田屋
同右 嶋屋宗七
同右 柳浦津平 柳浦屋
通町 有坂源吾 吉野屋 藩政末年 明治初年 元加賀藩士
御馬出町 桑山家 梅染屋 二代
利屋町 寺田屋
木舟町 増山屋九左衛門 文化前後
鉄砲町 杉山文吉
川原上町 湶屋半左衛門 元高崎藩士
上佐野 野田興顕 大永寺 明治6年
同右 龍田周造 明治6年
荒見崎 榊原家 神職 明治初年
伏木 山谷幸 文久3年 明治5年
同右 村田三郎 弘化元年 明治24年 読 書 算 明治5年一旦閉
守山 上坂五平 元治元年 安政元年
同右 松島理平 文久2年 慶応3年
同右 加藤源之進 明治元年 同5年
西二塚 与三治郎 天保6年 明治5年
同右 高尾家 白山社神職 明治5年 累代
同右 大坪正三 山廻 安政5年 明治5年
林新 桜井法順 顕証寺 文久2年 明治5年
黒田 宗兵衛 貞享 元禄 累代
能町 長谷川和七郎 御蔵番 天保 嘉永
同右 牧宗平 御蔵番 文久 明治5年 二代
同右 野口津次郎 御蔵番 明治前後
吉久新 若杉氏 商家
下牧野 東弘寺
上牧野 長福寺
中曽根 光徳寺
姫野 願乗寺 明治初年 書
石堤 尾崎家 医者 明治初年 書 二代
同右 雪象 長光寺 文政
中田 土倉家 天保6年 慶応初年 二代
同右 青江家 天保11年 明治初年 読 書 二代
戸出 北町 岡本久米吉 石丸屋 弘化
同右 東町 木下屋周造 医者
同右 尾崎善右衛門 古武屋背戸屋
同右 大野彌作
同右 石川友二 土佐守筆生 天保 明治初年 書 算 謡曲
同右 武田貞子 元治元年 明治初年 女六十〜八十名 読書 裁縫 茶道 女寺子屋
同右 菊池武邦 算用聞 藩政後期 読
北般若西部金屋 兵四郎 肝煎  明治2年 読 書 算
同右 常木大助 明治3年頃 同7年 読 書 算
同右 常木宇太郎 肝煎 明治3年頃 同7年 読 書 算
同右 林豊右衛門 明治3年頃 同7年 読 書 算
同右 落合 高畠次郎右エ門 肝煎 明治3年頃 同7年 読 書 算
同右 高畠庄左衛門 明治3年頃 同7年 読 書 算
同右 高畑仁兵衛 明治3年頃 同7年 読 書 算
是戸 竹村 法重 願性寺
醍醐 須田 南木恵雄 長念寺
同右 横越 野江文庵
立野 梅津善一 酒屋 明治初年 男百名 読 書
同右 尾山屋三右衛門
同右 室屋甚右衛門
同右 廣済寺 安政3年
同右 西念寺 明治初年
同右 竹内甚三郎 明治5年 三十名 夜学
旧福岡町域
福岡 朝順則 長安寺 明治6年 男女四十名以上 読 書 算
同右 岸野与平 十村手代 明治前後 男百〜五十名 読 書 井村医院宅
同右 清水町 西村太源 長安寺下寺 明治前後 読 書
同右 美濃屋治三郎 明治初年 三原賢二宅
小野 西照寺 明治初年
上向田 宝音 浄永寺 明治初年
赤丸 皆月太玄 明治初年 読 書
同右 神代貢 明治初年 書
栃丘 榊原氏 明治初年 金沢士族
渕が谷 田中能平 明治初年 金沢士族 夫婦で教授
氷見市
南上町 長沢六良兵衛 商家 読 書
中町 米屋文蔵
田町 朝日屋又三郎 専業 文政 三十名
加納町 糸屋 和泉屋 医者 明治40年 多数 読 書 三代
御座町 吉井家 高岡屋 薬種業 文政 明治初年 読書算 俳句漢詩 他町人に謡曲 二代
北新町 円照寺 書
朝日 上日寺 書
懸札 松金顕静 安専寺 明治6年 同8年 子息と共同
宇波 高野元礼 医者 天保 明治5年 読 書 算
姿 広沢周斎 戸長 天保元年 明治17年 総計四百四十名 読 書 算 明治10年小学校の扱い
薮田 屋敷磯右衛門 漁業 安政 明治7年 男女 読書算 謡曲
同右 浅野泰中 医者 書
飯久保 佐原久平 農業 明治初年 読 書
仏生寺 小谷露秀 広西寺 明治8年 読 書
惣領 藤光 安敬寺 明治8年 読書算 お針
中尾 竹里向岸 長楽寺 明治8年 同11年 書 算
中村 鷺森十遠 浄善寺 読書、俳華茶 滝山義浄門
池田 甘庶櫟堂 紹光寺 明治5年 読書 四書五経
床鍋 有坂兵九郎 農業 文化 安政 読 書
同右 北越伊左衛門 農業 安政 明治初年 有坂兵九郎三男
同右 武田楞耀 光楽寺 明治19年 読書、雅楽 北越伊左衛門を継承
葛葉 名苗竹次郎 明治初年
一刎 菅沢佐之助 農業 安政 明治初年 書 算
同右 高田三二 農業 慶応 明治初年 読 書 算
味川 釜田法輪 了瑞寺 明治8年 読 書 算
中波 大西彦右衛門 網元 明治2年 同7年 読 書
射水市 旧新湊市域
新湊町 室谷又治 明治初年 三代
同右 大磯家 往還寺 明治初年 二代
同右 中瀬家 明治初年 二代
同右 佐野家 菊屋 明治初年 百名
同右 専念寺 明治初年
野村 岡野周融 善休寺 嘉永元年 明治4年 読 書 算
殿村 宮原順吾 雲光寺 安政2年 明治5年
久々湊 石黒家 文化10年 明治5年 二代
作道 宮川直義 道神社神職 元治元年 明治4年
堀岡新 堺勘六 文化6年 天保14年
新明神 竹内要造 天保14年 明治5年 読 書 算
七美八島 松永氏 医者 安政 慶応2年
同右 橋田半左衛門 慶応2年 明治6年 書 農閑 夜間
片口 荒木田忠次郎 天保
高揚 堀川九郎平 嘉永
久々江 竹内弥十郎 慶応 明治初年
打出本江 表野尊遵 慶応 明治5年
同右 北川伝七郎 慶応 明治5年
同右 岡本助三郎 嘉永
海老江 井伊孫兵衛 明治初年
同右 前川安兵衛 明治初年
旧大島町域
小林 成川与次平 明治初年
中野 福田三右衛門 農業 明治初年 読書算 漢籍
北高木 礒部清九郎 明治初年
八塚 松田権右衛門
小島 杉丘伊佐雄 明治初年
新開発 石黒孫右衛門
同右 円海 円広寺 明治前後
旧大門町域
西町 折橋家 島屋 明治5年 百名 三代
田町 佐伯伝左衛門 文政2年 嘉永2年
錦町 朝山紋平 菓子屋 嘉永5年 明治6年
浅井 広上 田所市郎平 広教寺 明治初年
同右 同右 高橋九平 安政元年 明治5年
串田 松原 櫛田神社 安永7年 明治6年 書
同右 本村 大沢久左衛門 天保元年 弘化4年
同右 同右 櫛本誉浄 蓮光寺 弘化3年 安政6年
同右 布目沢 寺本吉二 村役人 安政5年 明治6年 不就学者のみ継続
同右 小泉 高橋家 寛政元年 明治5年
同右 荒町 加藤作右衛門 文政元年 天保6年
同右 宮川菖太郎 安政3年 明治5年
二口 米沢太平 明治初年
同右 佃貢 漢方医 農家 明治初年
同右 棚田 稲垣示 村役人 明治初年
水戸田 堀家 明治6年 三代
同右 高畠孫太郎 明治初年
同右 三山教潤 西方寺 明治初年
同右 本多斉聖 明徳寺
旧小杉町域
新町 三ヶ 若林家 藩政後期 二代
同右 同右 松長陶庵 開発屋 文政末年 天保 読 書 長福寺門弟
同右 同右 水上屋弥三郎 陶工 天保末年 元治 松長を継承
同右 同右 開発屋次郎兵衛
同右 同右 渋谷清二 松枝屋 慶応 明治初年
同右 同右 油屋長兵衛 文化末年 文政初年
同右 同右 塩屋助三郎 元治元年 慶応 書
同右 同右 山田屋 寛政初年
同右 戸破 富永延造 佐野屋 慶応 明治6年
同右 戸破 熊谷即翁 善立寺 天保末年
同右 戸破 守山屋清平 稲積屋 天保
同右 戸破 下条屋小七郎 慶応 明治初年
同右 同右 西野与兵衛 土代屋 天明
戸破新 金胎寺 明治初年
金山 横堀家 安政元年 明治5年
池多 松元泰造 明治初年
北手崎 山田托渡
二股(俣) 長福寺別庵
黒河神社前教秀塚 明治6年建立 人物不明
旧下村域
加茂 那須半左衛門 専業 天保 安政3年 男百数十人 書
同右 三澤吉郎 農業 文久元年 慶応元年 男 書 那須門弟
同右 関原九郎平 農業 文久元年 明治5年 男 書 那須門弟
同右 広瀬信道 農業 嘉永頃 男 読 書 夜学
同右 広瀬文哲 医者 明治初年 男 読書 小杉に移る
大白石 岩木太左衛門 農業 天保 安政 男 読 書 算
同右 竹脇甚五郎 農業 安政 男 書 岩木を継承
富山市 旧山田村域
宿坊 竹村家 十数名 読 書 冬季
小谷 蓮教寺 少数 読 書 冬季
鎌倉 田中八郎兵衛 明治初年 少数 読 書 冬季
小島 菅田家 明治6年 読書 冬季
白井谷 瀧野諦龍 康楽寺 明治7年 少数 読 書 算 冬季
旧細入村域
楡原 住吉家 明治初年 累代
同右 上行寺
庵谷 赤座家 吟味人 明治初年 読 書算 累代
猪谷 橋本家 関守 明治初年 読 書算 累代
同右 西禅寺
片掛 弘道 大淵寺 明治初年 読 書
同右 孝友 西念寺 明治初年 読 書
同右 円龍寺 明治初年
旧大沢野町域
笹津 広瀬仁右衛門 明治6年 書 算
上大久保 本修寺
下大久保 吉田玄周
岩木新 佐藤兵衛 書 算
須原 柳沢雲幢 浄光寺
土 斉藤哲勝 正福寺
葛原 原普照 教覚寺
同右 竹花安右衛門
同右 田作平兵衛
布尻出 治郎左衛門
薄波 坂田家
塩 大永寺
同右  光慶寺     藩政末期
小羽 村中家
芦生 法雲院
旧大山町域
福沢 徳林寺 明治6年 書
同右 東薬寺 明治6年 書
旧婦中町域
分田 野上惣平 元治 明治初年 男女十名
小倉 織田即水 永善寺 明治6年 合計八百五名 読 書
下条 武部家 光善寺 慶応 合計百余名 読書 漢籍 二代
羽根 若松家 医者 天保 明治6年 百余〜五十名 読書 漢籍 二代
同右 喜左衛門 男二・三十名 読 書 上流家庭
道場松原 舟木富彌 村役人 慶応2年 明治初年 四・五十名 読 書 父の一衛が代理で師匠
下轡田 浄福寺 十余名 読 書
上轡田 松原宗七郎 十余名 読 書
葎ケ原 谷太蔵治 天保
上井沢 龍沢芳流 西念寺 明治初年
音川 桜峠 仁兵衛 奥村與三七宅 二・三名 (読書)算 冬季のみ
同右 三ノ瀬 大権寺 二十名 読書 漢籍 冬季のみ
同右 外輪野 願念寺 二十名 読書 漢籍 冬季のみ
持田 吉野家 七・八名 読 書
同右 西岡善五郎 七・八名 読 書
同右 正栄寺 七・八名 読 書
同右 光得院 七・八名 読 書
同右 圓光寺 七・八名 読 書
長沢 光圓寺 天保末年 安政5年 三・四十名
同右 山下孫太郎 安政6年 明治2年 光圓寺門弟
同右 丸山忠三郎 明治初年 読書 漢籍 夜学
同右 秀澄 各願寺 安政 読書 漢籍 夜学
広田 万芸寺 明治初年 合計百三十一名
旧八尾町域
今町 佐々木左近 聞名寺 寛永9年 読 書 算
上新町 渡辺嘉兵衛 押上屋 寛永13年 読書算 謡曲
同右 池田三朗 小倉屋 慶応 明治6年頃 百余名 読 書 算
同右 廣橋屋 元禄4年 明治5年 男八十名 女二十名 読 書 算 明治四年調
下新町 泉権四郎 井浪屋 弘化 四十名 読 書 算
西町 糀屋源右衛門 安永8年 寛政 読 書 算
同右 大坪屋新右衛門 文化 天保頃 五・六十名 読 書算 糀屋門弟
同右 根辻屋嘉七 文化 天保頃 読 書 算
同右 金泉寺屋六兵衛 文化 天保頃 百名 読 書算 糀屋門弟
同右 辻屋 童集庵 寛永10年 明治5年 男八十五名 女八十一名 読 書 算 明治五年調
同右 上野直蔵 戯鐵庵 天保5年 文久元年 男百十五名 女三十一名 読 書 算 文久元年調
東町 能登屋儀平 文久 慶応 二百余名 読 書 算
同右 長谷川家 商人 寛延5年 明治6年 男百二十一名 女三十八名 読 書 算 明治五年調
同右 江木新次郎 通玄堂 文化3年 文久3年 男九十四名 女十八名 読 書 算 文久三年調
諏訪町 山田屋 元禄4年 明治5年 男八十名 女二十名 読 書算 明治四年調
上今町 大西家 乗嶺屋 元禄4年 明治5年 男八十名 女二十名 読 書 算 明治四年調
宮腰 宮腰甚四郎
大杉 横道米次郎
杉田 大浦氏
城生 青山祐亮 西勝寺
同右 長本日鏡 本長寺
大長谷庵谷 多田庄兵衛頼忠 関守 読 書
同右 庵谷 黒田忠蔵正義 関守 読 書
同右 中山 武藤氏 読 書
同右 東原 才善氏 書
同右 内名 中川氏 書
同右 島地 岩佐氏 書
同右 栃折 孫四郎 書
同右 同右 徳圓寺 読 書
室牧 砂川大愿 法流寺 明治初年 読 書
仁歩 友山力道 真通寺 天保5年 明治6年 男二十七名 女三名 読 書 明治五年調
野積 布谷 渡辺佐五兵衛 十村 読 書 算
同右 同右 光現寺 二十余名 読 書 冬季のみ
同右 乗嶺 平野伝兵衛 十村 読 書 算
同右 上ケ島 光西寺 二十余名 読 書 冬季のみ
同右 東川倉 善福寺 二十余名 読 書 冬季のみ
同右 青根 浄明寺 二十余名 読 書 冬季のみ
同右 東葛坂 専念寺 二十余名 読 書 冬季のみ
卯花 上黒瀬 掛畑の寺子屋
同右 茗ケ原 妙覚寺
同右 光雲寺
旧富山市域
西三番町 小西家 臨池居 藩儒 明和3年 明治32年 男六百名 女二百名 読 書 算他 明治三年頃調
清水町 竹村氏 士分 藩政末期
同右 近藤士専 士分 藩政末期 読 書 漢籍 連歌宗匠
常盤町 田近家 元治 百名 読 書 高橋篤へ移譲
五番町 朝倉藤太 士分 藩政末期
中町 久保氏 士分 藩政末期
荒町 小柴氏 士分 藩政末期
木町 尾山屋 藩政末期
星井町 西村氏 士分 藩政末期
中野西横町 浅岡氏 士分 藩政末期
山王町 北川正賀 士分 藩政末期
七軒町 臼井氏 士分 藩政末期
相生町 永井氏 士分 藩政末期
平吹町 市田拙庵 萬屋 二百三十名
舟橋今町 森田家 森林堂 士分 寛延5年 明治5年 男百九十名 女六十名 読 書 算 明治四年調
藤井町 木屋 天保5年 明治5年 男百五十名 女五十名 読 書 明治四年調
八人町 塩谷氏 明治6年 書 明治6年4月龍雅小学校
南田町 酒井氏 士分 藩政末期
覚中町 松本氏 士分 藩政末期
千石町 浅野氏 士分 藩政末期
梅沢町 応声寺  藩政後期 顕彰碑は空襲で表面剥離
御福新町 松井氏 士分 藩政末期
広徳館か 菊園 藩主側室 女児 読書 針 茶
稲荷町 勝山氏
同右 舟田氏
同右 杉江藤吉 士分 藩政末期
上金屋町 横山氏
川原町 上野家 鳴泉草堂 医者 明治初年
奥田 壮厳寺 明治6年
百塚 岡部武右衛門 読 書 算
同右 宮尾 内山年彦 柳原草堂 十村 明治初年 読 書 算
金山新 窪美家 医者 四十名 読 書 明治5年3月柳原草堂と合流
八幡 嵯峨家 八幡神社 明治初年 五十名 読書 漢籍
草島 愛宕新 森岡安兵衛 明治初年 二・三名 書 夜学もあり
四方 浦屋徳右衛門 天保 読 書算
同右 栂野一昌 寳山堂 天保4年 明治6年 男百六十名 女四十名 読 書 謡曲 明治五年調
同右 石井治右衛門 読 書 算
岩瀬 沢田家 元禄 明治6年 男五十名 女二十名 同族2家で分担
同右 中山忠吉 明治6年 五十名 梅本町天満宮前
同右 西岩瀬 土屋 書 算
同右 米沢屋 書 算
同右 東岩瀬 大嶋屋 藩政後期
同右  野中屋平兵衛  天保頃   
西水橋 松倉屋伝六 読 書 算
同右 辻ケ堂屋久兵衛
東水橋 上野屋長右衛門
同右 竹山屋 文化 二代
同右 岩城宗寿 医者 文化
三郷 小路 新井弥助 元僧侶 読 書
同右 沖 酒井弥三 天保 新井弥助の門弟
同右 岡田泰仲 医者 明治前後
同右 野沢伝助 明治前後
同右 市田袋 金森家 金剛寺屋
同右 新堀 勘右エ門
同右 原恒意 医者 明治前後 読 書 算
同右 一田中 長安
同右 森又平 明治前後
同右 開発 七郎兵衛 藩政末期
同右 高堂 藤城清右エ門 明治前後
同右 金尾新 山岡善右エ門 明治前後
上条 小出 菅野家 毫照寺 明治初年 三十〜四十名 書 算 三代
同右 高寺 水上源七 書
押上 紫家 誓教寺 明治初年 二代
新保 四津谷彦十郎 嘉永 明治6年 計数百名
同右 福居 若林快雪 士分 文久3年 書
熊野 宮保 横腰家 熊野神社 二代
同右 林崎 岡田甚蔵 明治2年 同6年 三十名
同右 上熊野 野上祐覚 浄蓮寺
同右 藤守聞信
同右 下熊野 寺島氏
同右 金屋 西野清四郎
同右 石田 石渓鶴寿 教蓮寺
同右 村林円右衛門
同右 高安六兵衛
月岡新 笹岡家 樫年堂 神職 元禄元年 明治6年 男百七十名 女十五名 読 書 算 明治四年調
同右 中土家 天保 弘化2年
開発 法輪寺 尼寺 藩政末年 明治5年 通称トエラ先生
小屋島 後藤豊蔵 藩政末年 明治5年
大坪 牧野小七郎
椎土 松本泰造 医者 明治初年 読 書 漢籍
中老田 田中可成 文化11年 天保10年  百三十余名 読 書 算
同右 真野成次 嘉永頃 明治元年
同右 森田清風 明治元年 同5年
寒江 大塚 滝口四郎兵衛 十村 二十〜四十名 読 書 算
同右 龍口源七郎 二十〜四十名 読 書 算
同右 住吉 石川源吾 明治初年 二十名 読書 算
同右 中沖 嶋倉与茂三郎 明治以降
長岡 恒田宇平
同右 与次右衛門
同右 舟橋新 辰巳貞斉 医者 明治初年 読 書
呉羽 小竹 加納九郎右衛門
同右 報恩寺
同右 若宮家 姉倉姫神社
同右 高木 妙万寺
広田 新屋 平岡森栄 神職 明治初年
同右 鍋田 堀江家 肝煎 明治初年 読 書 漢籍
新庄 山田秀平 明治6年 百五十名 読 書 算
同右 新町 盛田与四右衛門
新庄新町 安藤屋市右衛門 元禄17年
荒川四軒 竹内常右衛門惟直 山廻足軽 明治初年 書 算 画
神明 下野 大花入蔵 太源寺 文久元年 明治6年 四十名 読 書 算 農閑期
上市町
上市 山本家 明治13年 二代
同右 酒井三良兵衛 明治5年
同右 吉永甚吉郎 明治5年
同右 池田嘉市郎 明治5年
同右 亀谷家 医者 明治初年 同15年 読 書 漢籍 二代
同右 広田家 医者 明治初年 読 書漢籍 二代
同右 若林一萬 医者
同右 山田玄東 医者 読 書 漢籍
同右 郷田繁治 文久 慶応3年 数十名 萩中門弟
横越 増田与三左衛門 天保 文久3年 六十名
神田 結城豊次 十村 文化
稗田 谷口静一 十村手代 明治初年 読 書
柿沢 桝田喜七郎 戸長 明治初年
同右 吉田観竜 明治初年
相ノ木 中川庄三郎
向神田 山崎長兵衛
新屋 萩中宗貞 医者 明治6年 五百名
舘 高峰守斉 医者 明治6年 読 書 算
黒川 花崗天龍 本覚院 明治5年
大岩 春山一覚 日石寺 明治初年 立山日置寺
湯神子 藤田作 明治初年 立山日置寺
立山町
寺田 沢端新 河本順安 医者 藩政末年 読 書 算
同右 吉田貞斉 医者 藩政末年 読 書 算
同右 浦田 松井次郎右衛門 天保 明治初年
同右 極楽寺 松沢次郎四郎 天保 明治初年
同右 林幹 明治初年
同右 原恒順 明治初年
同右 深見安次郎 明治初年
同右 池田厳 明治初年
同右 金岡吉弘 明治初年
同右 寺田新 松井温山 明治初年
同右 下田 岡本六右衛門 明治初年
高野 東野 窪美家 安政 明治6年 三十名 三代
同右 江崎新 平井重右衛門 明治初年
同右 沢新 村崎勇三郎 医者 明治初年 書
同右 米沢新 林弥五平 明治初年 書 算
上段 上宮 平野家 満法寺 明治5年 二代
同右 大畑家 宝暦 二代
同右 日中 白井関兵衛 文久2年 明治4年 男女三十名
同右 杉谷専之丞 日置寺 明治初年
同右 西田作平 日置寺 嘉永 明治初年 一書喜三郎
同右 久田錬兵衛 日置寺 明治初年
同右 浅井昌博 日置寺 明治初年
同右 稲垣兼太郎 日置寺 明治初年
同右 塩野元達 日置寺 明治初年
同右 酒井憲三 日置寺 明治初年
下段 長谷川嶂雲 金剛寺 明治初年
釜ケ渕 米道 龍雲 善入寺 藩政末年
同右 野村 中邨主一
大森 野島平三郎 藩政末年
同右 西大森 元智令厳 信行寺 明治5年 読 書
同右 蔵本新 北村伝吉 肝煎 明治初年
同右 三塚新 三鍋三郎右衛門 明治初年
利田 塚越 日水芳郎 明治初年
同右 石田 藤田謹之進 明治初年
五百石 松本 酒井周斉 明治5年 読 書
同右 菅野深證
同右 草野 相良頼温 明治初年
同右 道新 野島周蔵 明治初年
同右 菰原 明治初年
同右 外沢端新 藤木養堂 明治初年
同右 大窪 石原兵作 明治初年
東谷 白岩 畔田弥平 明治初年 夜学
同右 中岩伝吉 明治初年 夜学
同右 谷井平右衛門 明治初年 夜学
同右 松岩是数 正恩寺 明治初年 夜学 一書広証
同右 虫谷 織田宗兵衛 明治初年 夜学
同右 四谷尾 浅尾令雲 極楽寺 明治初年 夜学
同右 松尾甚兵衛 医者 明治初年 夜学
同右六郎谷 翁家 医者 藩政末年 二代
立山 道痴 岩峅寺 天保 読 書
同右 佐伯家 岩峅寺 安政2年 明治5年 二十名 読 書 算 二代
同右 日光坊 佐伯真永 芦峅寺 明治初年 日光坊52代
同右 明星坊 知白翁 雄山神社
舟橋村
竹内 稲田六三郎 測量方 明治初年 書 算
竹鼻 竹瀬与四郎 明治初年
滑川市
滑川 松上四郎右衛門 医者 元和
同右 上野與三郎 町役人 元和
同右 河瀬屋甚吾 町役人 元和
同右 大掛屋三郎右衛門 町役人 元和
同右 四歩一屋甚左衛門 町肝煎 元禄 浦方
同右 三宅屋源右衛門 元禄
同右 高野屋庄九郎 町肝煎 元禄 書 算 宿方
同右 河瀬屋多十郎 町肝煎 文化 文政 浦方
同右 専光寺屋善七 文化 文政
同右 江尻屋吉兵衛 文化 文政
同右 山本(田中の山本) 文化 文政
同右 沖田屋茂助 文化 文政
同右 高月屋新四郎 組合頭 文化 文政
同右 櫛屋玄了 町肝煎 文化 文政
同右 武津屋和七郎 町役人 文化 文政
同右 今尾屋重助 男女 読 書
同右 高階義行 長泉寺 明治初年
同右 成瀬伊右衛門 市江屋 明治38年 読 書
同右 大態善吉 大正
同右 川越屋
同右 金看板屋
同右 井波屋與兵衛
東加積 岩城秀一郎
黒部市 旧黒部市域
三日市 峯村家 十村手代 天保 明治5年 百六十名 読 書 二代
同右 桜井早苗 神職 藩政末
生地 東五左衛門 板屋 嘉永 文久 六十七名 書 算
同右 車屋吉右衛門 慶応 百名 読 書 算
萩生 山原松兵衛 天保 明治初年 書
旧宇奈月町域
浦山 善巧寺 明治6年 書 夜学
同右 願蓮寺 明治7年 書 夜学
魚津市
東小路 沢田家 足軽 天明8年 明治初年 男百名 女三十名 書 算 享和二年調
同右 加藤家 足軽 文政 男百十名 女二十名 書 算 二代
同右 加藤家 足軽 嘉永 男百名 書 算 二代
同右 戸島吉太夫 足軽 嘉永 男八十名 女十名 書 算 沢田家門弟
同右 高田従兵衛 足軽 弘化 男九十名 女八名 書 算
同右 吉田与三右衛門 足軽 嘉永 万延  男七十名 女十名 書 算 沢田家門弟
紺屋町 永田丈左衛門 足軽 寛政2年 文化3年 男八十名 女七十名 書 算 文化二年調
同右 小塚数右衛門 足軽 弘化元年 文久元年 男九十名 女六十名 文久元年調
片貝 山女 山越弥次右エ門
同右 島尻 小林小兵 天保
同右 伊藤刑部 黒部奥山廻役 明治初年 男六十名
同右 東城 城岡太右エ門
布施爪 佐々木徳右衛門 明治5年 同6年 書
下野方村本江 大地亮一 明治初年
浜経田 雄次郎 安政頃
同右 小宮儀右衛門 藩政末年
熊林村 椎名三郎 明治初年 六十名
朝日町
大家庄 高田硯安 医者 明治6年
泊 大円 松林寺
宮崎 籔の下 九里東太由 明治前後
同右 扇谷助松 明治前後
同右 笹川 小林三郎左衛門 明治前後
同右 正覚寺 明治前後
同右 勝田忠造 明治前後
入善町
舟見 一瓢 念興寺 天保 合計六十三名
同右 藤川五郎兵衛 天保11年 明治5年 三十名 書 算 一瓢門弟
同右 坂本玄仙 医者 安政元年 明治4年 二十名 読書 一瓢門弟
同右 脇坂長蔵 山廻 天保10年 安政3年 男十五名 読 書 算 一瓢門弟 安政2年調
青木 中塚長助 天保末年 明治初年
上原 光林 正覚寺
下飯野 善称寺
飯野 道増源兵衛 農業 嘉永 明治6年 読 書 算 光林と一瓢の門弟
小摺戸 長谷川弥左衛門 農業 嘉永 明治初年 三十名 読 書
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第五章 明治維新後の教育行政


文部省設置と学校設立
 慶応三年十二月九日朝廷は将軍徳川慶喜の辞職を許し、王政復古が宣言された。翌年一月に鳥羽伏見で旧幕軍は敗れ、ここに約七百年続いた武家支配、徳川家康以来約二百六十年続いた幕藩体制は完全に倒壊した。
 三月五箇条の御誓文で今後の方針が指し示された。直ちに京の学習院が再興され、皇学所と漢学所を創設し、「国体を弁明し名文を正し」「漢土西洋の学を以て共に皇道の翼」となることが宣せられた。 
 明治二年東京の昌平黌を大学と改称して全国の教育行政を統べさせると共に、皇漢両学所を廃した。更に開成所を大学南校、医学所を大学東校に改め、京都に小学校を設けた。府県には「府県施政順序規則」を頒布して小学校の設置を命じ、読書算で手紙や計算の知識を教え、講談で忠孝の思想を与えるべきことを説いた。そこで全国に暫定的な変則学校が設立されていく。その多くは寺子屋等からの移行であった。
 三年二月大学規則と中小学校規則を発令、東京に小学校六校が設けられた。
翌年七月大学を廃して文部省を設置し、廃藩置県に伴い府県の学校も統括下に入れる。初代文部卿には大木喬任が就任、五年八月太政官布告で学制が頒布された。
以後フランスの制度を範に、本格的な校舎・教科書・学習計画を持った学校が作られていく。一方寺子屋は激減し、過渡期の措置として小学私塾の扱いで存続が認められるが、学制に則ることを必須とした。やがてわずかな私塾や未就学者のための塾を除き、姿を消していくことになる。
寺子屋・私塾の統制
 四年十一月の布告で全国各府県の学校を統括下に置いた文部省は、翌五年三月十四日の文部省第六号付達で
「但府県学之外皆私塾トス。唯一家或ハ二家迄子弟ヲ教候者ハ家塾ニ属シ候間私学之数ニ算入セス」
と私塾を定義付けた。学制案は六月の太政官裁定を経て、八月三日文部省第十三号付達により全国へ頒布されると共に、太政官布告第二百十四号「学事奨励に関する被仰出書」で念を押している。その一方で私塾に対しても統制に乗り出す。九月二日文部省付達第二十四号で「第四十三章ノ末左ノ但書ヲ加フ。但家塾ハ地方官ニテ之ヲ聞キ届毎年二月八日取集メテ督学局ニ出スヲ法トス」と規定する。これに則り、十月二日文部省付達第三十号で私学・私塾の開学を許可制とした。
新川県の場合 富山藩では明治維新以後も生徒の留学を継続させた。大学南校への留学生は士族入江鷹之助、千秋一郎、林志藝二、高畠里美、佐々間多、卒の磯部四郎(大参事林太仲の実弟)である。西京(京都)への遊学生は士族田尻虎雄と高澤誠で、獨逸学を専攻した。自費留学生は士族富田快山と平民庶人卒二十名がいる。
 廃藩置県以後、富山県は七尾県の一部を併せて、五年九月二十五日新川県に改組される。教育機関として小学校が設立され、中学校は正則中学校である明治十八年の富山県中学校創立まで変則中学校(文部省の教則で授業する学校)であった。六年に井波で私立変則中学校の設置が認められ、十年に致遠中学校が富山町に設立される(生徒減少で十三年二月休校)。その他に、商業教育のため十八年私立富山英語学校(富山市、英語・簿記等)、十九年鳳崗学校(高岡市、物理・簿記・算術)、二十三年富山簿記学校(富山市)、二十四年北陸簿記学校(富山市)が設けられ、私立英学会が富山、高岡伏木、滑川にできている。
 小学校に関し、新川県は六年一月学制実施の告諭、七月学区・学校の設置計画策定、九月小学校生徒心得を受け、十二月に新川県小学教則を制定する。しかし就学率は寧ろ藩政時代より低下したようである。六年の人口六十二万九千四百五十四人の内学齢は十万三百三十五人であったが、就学者は二万三千九年四月四百一人であり、就学率は二三・三二%(全国二八%)である。翌年は就学者が二万七千九百八十六人で、就学率が二十七%(全国三十二%)、内訳は男二万四千二百八十二人・就学率四十六%(全国四十六%)であるが、女三千七百四人・就学率七%(全国十七%)にすぎない。理由の一つには授業料を徴収すると発表したことにある。実際は八年で県内三百二十二校中徴収したのは四十四校のみで、あとは寄付金で成り立っていたのであるが、寺子屋では特に定めを設けなかったのであるから、印象は良くない。寺子屋から小学校に移行した所ではそれほどの心理的抵抗はなかったであろうが、改めて設けた場合には師弟関係が薄いため出席率も低くなるであろう。また半年や一年で来なくなる地区も多かったという。
 六歳から下八〜三級までの三年間は義務、下二〜上五級の三年間は任意であり、上四〜一級は四年の夜学であった。一月と夏休みの後に各々入学期を設け、年齢が過ぎた者も八級から始めさせた。六月と十二月に進級試験があった。なお転学は認められなかった。 
 文部省は全国を八大学区に分け、一大学区は三十二中学区とし、新川県は五中学区に分かれている。一中学区には二百十小学区があった。十二年九月の教育令でこのような学区制が廃止され、町村単一または連合で設置することになった。就学年齢は六歳から十四歳で、その内義務を十六ヵ月としたが、十三年十二月の改訂では義務三年に戻す。十四年五月三等に分けて初等と中等が各三年・高等二年で、義務は初等のみとする。学区と行政区画にズレがあったが、十七年頃には是正される。十九年四月森有礼文部大臣は小学校令を布令し、尋常・高等各四年に分けて義務を尋常四学期(現在の学年)と定める。これで初等教育の形はほぼ完成をみた。
●学制の変遷
明治五年八月文部省(正則) 
 下等六歳〜九歳四年 
 上等十歳〜十三歳四年 
六年新川県学事取調書 
 実態に合わせ正則(町用)ではなく変則(村用)を採用する。 
九年四月新川県学規 
 下等小学校をそのままにし、上等小学校を各一大区に一校、別に男児の就学困難者のために季節制の夜学を設けた。
十二年一月石川県小学科準則 
 簡易速成科 三年、六等級、 
 一日三時間 
 下等小学 四年、八等級、 
 一日三・四時間 
 上等小学 四年、八等級、 
 一日五時間 
●学制頒布に基づく小学校設立の告諭
明治六年一月
 明治六年一月学制二基キ管内毎大区二一小学校ヲ設立セ
ンコトヲ告諭ス其略二日ク今般学制ヲ発行シ普ク子弟ヲシテ学術ヲ勧励セシメラル、所以ノモノハ各自其天賦ノ知識ヲ発舒シ才芸ヲ長進シ大ハ以テ天下有用ノ器トナシ小ハ以テ一家ノ営業ヲ盛昌ニシ将来人生ノ幸福ヲ全フセシメ給ハンカ為ナリ是ヲ以テ全国ヲ分チ八大学区トシ一大学区ヲ分チ三十二中学区トシ一中学区ヲ分チニ百十小学区即チ全国ヲ通シテ五万三千七百六十小学校トス由是観之本県ノ如キ亦大凡中学十校小学二千百校ヲ設クヘキノ比例ナリ然シテ県下今日ノ勢二就テ之ヲ論スレハ則其十分ノ一モ猶旦置クヘキコト難キモノアリ雖然教育ハ土地開化ノ一大要事ニシテ須臾モ忽セニスヘカラサレハ木県其実際ノ情勢ヲ斟酌シ先ツ学制大凡百分ノ一即チ毎大区ニ一小学校ヲ置ントス其レ区戸長等管内人民ト協同商量シ学校ヲ設クヘキ至便ノ地ヲ撰ミ以テ開申スヘシト尋テ各区々戸長等ト謀リ小学校ヲ置クヘキノ地ヲ定メ未タ学舎アラサルノ地ハ仮ニ寺院等ヲ貸リ以テ学校二充ツ其地名ヲ左ニ開列ス
第一大区 第二大区 入膳村
第三犬区 生地村 第五大区 水橋町
第六大区 上市町 第七大区 東岩瀬
第八大区 下大久保村 第十一大区 四方町
第十二大区 愛宕町 第十三大区 八尾町
第十四大区 下村 第十五大区 小杉新村
第十六犬区 吉久新村 第十七大区 湶分村
第十八大区 高岡町 第二十大区 氷見町
第廿一大区 加納村 第廿二大区 戸出村
第廿三大区 福岡町 第廿四大区 今石動町
第廿五大区 杉木新町 第甘六大区 井波町
第廿七大区 福光村
〔石川県史料九十旧新川県誌稿三 国立公文書館内閣文庫蔵〕
●明治十年就学率(「文部省年報」)
富山七六・六三% 新湊七〇・四八% 高岡六三・四五% 井波六二・三〇% 福光五六・七二% 氷見五四・七四% 東岩瀬四九・一三%
城端四六・六二% 滑川四四・〇二% 泊三九・九八% 魚津三二・七六% 福野三一・四七% 今石動二三・一一% 平均五〇・〇三%

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註釈

●杉木郷学所の句読
 杉木郷学所の句読には、島新村島田孝之、三谷村西蓮寺三溪、古上野村幾太郎、岡御所村永勝寺幸迹(?)、西部金屋村高畠脩蔵、桜町村儀一郎、頼成村順平、神島村柴田宗兵衛、筆生には、矢木村根尾次七郎、大門村末永宗七郎、太郎丸小野左吉郎、安川村坂井好之亟、算術には、頼成村弥兵衛、神島村宗兵衛、長田彦三郎、光明寺村義左衛門があたった。
●砺波の俳・歌人
 藩政後期には、河村田守と門下の清水有道や加藤知足など、五島雅名・雅直・柳之舎、小幡蓼牙・為積と門下の中村遅平、女流では高畠家の御旅屋内室、河村富治子、為積の妻小幡歌子などを輩出した。
●太田俳壇 
 太田地区からは俳人を多く輩出している。唐金屋安念家からは四代目安兵衛(号志鈎)、五代目清左衛門(号南水)と妻もん女(実家は金子家)、六代目安兵衛(号雪江)が俳諧で知られ、特に雪江(天明六年〜嘉永五年二月十一日)は住居を桃李窟と名付け、太田俳句の基礎を作った。弘化頃に『其梅集』を刊行する。弟は金子家へ入って十七代目宗右衛門(号露仙)を養育し、従兄弟は川原屋安念次郎左衛門(号迎貨)である。他には入道家の忠兵衛(号二王堂)と長男の忠美(号二水)や、漢詩も能くした上田家の市郎兵衛(号乙宇)等がいる。天保十五年には千光寺観音堂に句額が奉納された。 
●石崎謙(天保十四年〜明治三十六年)
 林村小島生まれ。金沢で漢籍や医術を学んだ後に京で儒学を神山鳳陽、医術を村田順蔵に入門する。文久二年六月射水郡海老江浦に開院するが、明治元年に加賀藩から招聘され、家塾も開いた。廃藩後も引き続き石川県に勤め、学制頒布の際には自宅を小学校の校舎に提供する。明治十一年に司法省の民法編集委員になり、更に元老院議長に富山分県の建白書を提出する。十六年に辞し『加賀藩史稿』を編纂しながら前田家の侍講を務め、三十四年に帰郷し漢学を教え、三十六年一月三日に没する。三十九年碑が小島に建てられた。なお、石崎氏の祖は美濃国土岐氏である。 
●野沢俊冏(嘉永六年〜昭和八年)
 新屋敷出身で、文久二年に仏門に帰依し独学で研学に励む。明治二十年開塾し、その後に上京して泰寿院・浄土院・慈眼院・浄土宗光雲寺住職、伝通院貫主に就任し紫衣緋衣を賜る。後増上寺重役。東京浄土宗学本校、芝中学校(現大正大学)、淑徳女学校を創立した。郷里の林村へ書籍を寄贈し、千三百円の寄付をする。 
●文化人の多い上野屋 
 本家六兵ヱは伯芝の俳号をもった趣味人、分家七之丞の養子になる子の山田彦一(天保元年三月〜明治三十一年七月)も俳号麦里、聴水園墨痴とも号し、画も能くした。家業は酒屋で、福野町長に選ばれる。
●滝田俊吾(明治二十九年〜昭和二十年)
 河辺純三の子息で正三と四郎の弟。従兄で小矢部津沢蓑輪の滝田孝弟(明治十二年〜昭和三十二年、村長、県議会議員、県立礪波高等女学校創設者)の養子に入る。軍医大佐で陸軍病院長を歴任した。なお孝弟の弟吉郎(明治十四年〜昭和三十五年)は日本海海戦で巡洋艦日進の砲術長、第一次世界大戦では地中海に駆逐艦艦長として出動し、イギリスから勲章を受けている。
●武部家 
 寛文十三年十村に任じられる。祖は清原武則で、子孫の宣行長男宣衡は、能登武部村に配流の後に三清村へ移った。十一代目尚志(文政十二年〜明治四十四年)の長男和正は三清村村長、次男其文は弟堅の養子になり、衆議院議員に選ばれる。
●石崎和善(嘉永元年〜明治三十九年、号蘋洲、俳号歩水)
 十代目石崎市右衛門の五男で、福光村の九代目石崎善右衛門を継いだ。萬延元年加賀藩に召され兵術を学び、文久二年銃卒助教授に任じられた。慶応元年宮永菽園に漢籍を、今井保に雅楽を学び、江戸へ出た。帰郷後に実業界で活躍しつつ、福光小学校の創立に尽力する。五男猪四一(号光瑶)は竹内栖鳳門下の画家である。 
●福光書道 
 上原怡蹟(七代目上原三益) 代々医者、享保十年没 
 石崎世璋 享和二年没 
 有沢東海(尾山屋七代目) 宝暦十年城端生まれ。家業は質屋等だが高山で医を学ぶ。文化十三年没
 石崎五柳(平兵衛)海保青陵の門下、酒造業、文化十四年没
 石崎子温寛(肝煎喜兵衛) 海保青陵、中嶋棕隠門下 
 清水一教 嘉永二年没 
 石崎石鼎(清吉)酒造業 明治七年教員、十二年八月没
 松村精一郎知幾(西荘) 明治二十四年没 等
●中守衛筆塚(野上水月寺) 
 本名は赤田善右衛門で、享和三年金沢で生まれる。父の儀左衛門と共に前田弾香家臣であったが、嘉永二年致仕し、安政四年善徳寺の書役として約二十年勤めた。 
 筆塚は明治十五年六月門人により建てられている。ただし寺子屋師匠であるとの確証がなく、本文には含めていない。
●加賀騒動 
 大槻伝蔵朝元(元禄十六年一月一日〜寛延元年九月十二日、後内蔵允) 加賀藩足軽大槻七左衛門の三男で、叔父長兵衛の婿養子に入る。享保元年に藩主世子前田吉徳の御部屋付御居間坊主を皮切りに出世を重ねる。世子が六代藩主に就任すると三千八百石人持組に進み、財政再建を取り仕切ることになった。そこで倹約策のため新格を立て、軍用金を取り崩すのだがこれが批判を浴びる。延享二年に吉徳が脚気で卒するや、看病不行届として左遷・蟄居となった。三年後の寛延元年四月に五箇山配流となり、まもなく自刃する。小鳥の丸ぐり用小刀を使っている。藩の調べで牢内に刃物・衣類・金子の差し入れが見つかり、責任は役付きの者一同にかかってくる。牢番伝兵衛は刎首験し切りになり、入牢する者も出た。利賀谷村祖山村十村野原家二代伊右衛門も七年間入牢の末宝暦四年に役を罷免され、以後野原家は二度と十村役に就けなかった。
●今石動の文化人
・深山加右衛門(字孟明、陸渾、号壷峯)漢詩人、宝永元年〜享保七年に今石動奉行篠島主馬清政の与力を勤めた後、金沢へ移住。 
・碓井次郎左衛門 文化頃漢詩人
・内山充積(字高仲、号壷谷)漢詩人 
・光願寺 十三世養宇円称(号芹山)和歌を能くし、伏木勝興寺二十三世土山沢映と歌会の交流がある。養子十四世徳称(号白南)は伊勢神宮神職の石部清直と杉井久重、京の国学者福田美楯に師事して、漢詩・和歌・俳句を学ぶ。元治元年六月七日和歌の会を催し、更に三日間で千首を詠み、愛宕神社に奉納した。石動小学校創立にも尽力した。子息十五世受称も和歌を能くした。 
・桂井順平 文政四年八月に生まれ、和歌を祖父久成と養宇徳称、華道を伯父久道に学ぶ。点茶にも通じていた。明治二十九年十一月乗光寺に歌碑が建てられる。五男健之助(号未翁)は俳人。 
・牧田一芳 今石動の野島屋与右衛門。天保八年六月に川原町に生まれ、金沢の大夢や雪袋に俳句を師事し宗匠となる。活花でも円盛斎海梁と号す。明治四十三年一月七十三歳で没。 
・太田信岑(号鳩石) 埴生の十村、後に戸長、村長。俳句を能くした。明治三十四年十一月没。 
・宮永以足(号笘露庵) 十左衛門の孫として下川崎に生まれる。大坂で篠崎小竹に師事し俳句を学んだ。養子に行き富樫孤平。 
・中島壮吾 宮永其園の子息、宮永良蔵の従弟で勤王の同志。中島正文は孫。
●碓井治郎左衛門顯古 
 今石動町の中島嘉平次の弟で、加賀国鶴来町碓井幸右衛門の養子になる。猪飼敬所に入門し、帰郷して家業を継ぐ。元治頃京の志士と信書を往復する。明治元年十二月十五日六十九歳で没。 
●源平合戦以前からの旧家瀬島家 
 小矢部には源平合戦以前からの旧家が現存し、鷲ケ島の瀬島家もその一つである。伝承では庄川堤に二軒あった家の一つだという。熱心な浄土真宗本願寺派の門徒で龍太郎(明治二〜昭和二十二年)は明治二十二年第三師団歩兵第七連隊に一兵卒で入隊し、日露戦争では乃木第三軍第七師団兵站監部副官・少尉にまで昇進する。帰郷後は西砺波郡書記、若林村助役、松沢村村長(大正十四年〜昭和九年)を歴任する。長男松男は市議会議員、三男龍三は陸軍中佐で関東軍参謀、シベリア抑留から帰国後は伊藤忠商事取締役等を歴任する。その岳父は二二六事件で岡田啓介首相の身代わりになった松尾傳蔵大佐である。(『瀬島龍三回想録〜幾山河』平成七年、扶桑社等を参照) 
●童子手習教訓誓詞の条(小矢部市) 
 先ず朝起きて機嫌よく手水をつかい目を覚し膳に居てよそみず菜の善し悪しき必らず小言申しまじきこと 
一、父母に時宜をいたし手習所へおもむくこと 
一、道すがら人の噂、雑談いたすべからざること 
一、戸障子あけたてあわたゞしく走り歩くこと 
一、我が席すわり行儀正しきいたすべきこと 
一、机によりかゝり筆の軸を噛み雑言いたすべからざること 
一、筆紙墨みだりに費やし白い手足衣装を墨にて穢すこと 
一、高声高笑不行儀にして身の居住をくずすこと 
一、師の掟を背き兄弟子の指図をもちいず我がのゝなること 
一、読書並びに手本の読み不心得にして片言まじりつまずくこと 
一、手本書物の読み日々復し習ひたかむべきこと 
一、相弟子のまじわり楽に言葉づかいきれいにて致し教え含むこと
一、そうじて物さわがしく喧嘩口論いたすまじきこと 
 但し、文字のたずね、謡、算術のさたはかくべつのこと 
 右の条、常に心かくべき第一、手習学問いたすべきものなり 時に文化六年巳正月 
[これには光西寺檀家むろや太右門の署名がある。同寺のものであろうか。] 
●小山家 
 福岡町土屋の素封家。祖は下野国小山小四郎朝政で、源頼朝に従う。室町時代に結城の乱に巻き込まれ土屋八日市嶋に逃れる。その後小矢部川西に移った。寛永八年三月二十一年に十一代目半兵衛が十村に任じられ、子息嘉兵衛の代まで務めた。藩政後期の素軒は高岡石堤長光寺雪象の門弟であり、学規を所蔵していた。手書きの習字手本が残されている(ただしこれが素軒自身の練習用である可能性もあり、寺子屋師匠には含めなかった)。 
●斉藤蔵摂(天保六年〜明治三十五年)
 浄永寺住職経将の次男。幼い頃より漢籍の素読を学び、兄を助けて文久元年素読を教えた。更に宗学や漢学を能登でも講じ、明治四年私塾を開いた。 
●測量用方位盤の製作 
 石黒信由が考案した軸心磁石盤の改良型でバーニア目盛(三百六十度を細分化)付きであり、全国に三台(新湊、七尾、東京)あるが、少なくとも七尾と東京のは高岡で製作されたものであり、刻印からすると七尾のは錺屋清六の作である(新湊市博物館発表)。
●高岡町の小学校 
 東之…六年八月二十日極楽寺 
 中之…同年同月二十一日聖安寺
 南之…七年二月十日御貸屋跡 
 西之…同年六月十三日宗泉寺 
 北之…同年同月十八日法光寺 
 →統合 育英…八年三月
●高岡を訪れた詩人たち 
 文政四年大窪詩仏が金沢への往復の途次に立ち寄る。 同年冬稲毛屋山が詩仏を追い掛け来訪する。天保二年夏から秋まで浦上春琴(備前の人、名選、字伯挙)が片原横町広乾寺に滞在する。
●日尾家(立野) 
 清作(文政二年五月〜明治二十二年四月、通称藤四郎、号梅圃)は十村手代、明治五年六月戸長になる。十七歳高岡で医術を学び、大聖寺藩儒坂井梅屋に儒学を学んだ後に金沢で藤田容齊に就いた。天保六年六月来訪した坂井梅屋より庭前の梅樹に因んだ号を授かった。また書は五十嵐篤好に就き、俳句は南無庵分器の添削を受け、自らも和歌や俳句を懇切に教えたという。諸本を手写し、著書もある。 
 清太郎(号温済)は謹厳を実践した人で、漢籍を金沢の藤田容齊に学び、後に大坂で藤沢南岳に就いた。更に書を巻菱湖の三体千字文で練習し、寝具の裏になぞるため裏地が破れたという。維新後に戸長、初代立野村長になった。後に貧窮児童就学奨励金二千円を寄付し基金とした。寺子屋を開いていた可能性があるものの、確証はない。
●氷見の俳人・漢詩人 
 有名な俳人には、元禄に阿尾の大沢六兵衛(号路青)、宇波の扇谷春太郎(号一扇)、海人、享保・元文に有磯庵拾貝(後に雲石坊懐龍)、源友(了然斎、江金堂)等、明和に南上町の日名田屋伊兵衛(号馬十)、文化・文政頃より新町の七尾屋小右衛門(周泰、布世丸)、湊町の紺屋伊左衛門(号六葉)、北八代の中村理助(号斗山、七窓)、中町の菓子屋安東瀬兵衛(号晴天、晴風)と同名子息(号青阜、紫東園)、中伊勢の医者北浦半次(可水)、天保頃よりに新町の松村屋神杢仁左衛門(号済美)と同名の子息(号余慶堂熈斎)、弘化頃に南上町の高辻屋清八(号月守、月守庵野乙)、安政前後より稲積屋伏脇作兵衛(号晏如、柳翠、禾汀)と養子の弥三平(号旅伯)、中村屋長沢徳八郎(号梅笠、茶屋)と子息次右衛門(号和亭、二松庵)等がいる。また嶋尾家累代も俳句をし、佐左衛門(号米露)、佐太郎後に佐左衛門(号清湘)、三郎(号湘月)、鉄(号月弓)が有名である。田中屋権右衛門は月江の号で俳句、雪嶋の号で漢詩を詠んだ。墨絵や彩色の美人画も能くし、日記『応響雑記』は一級の史料。安政六年没。
 三代北越伊左衛門(天保六年〜明治三十五年)、武内文右衛門、浅井浅右衛門の三人は有坂兵九郎に漢籍・書を学び、日名田長福寺住職籍明(通称二日様)に真宗と俳句の教えを受けた。その後床鍋村民に俳句を手解きしている。 
●広沢周斎の添削指導 
 弘化四年正月ヨリ明治十四年二月迄習字手本差出シ者男女合計五拾五名 
●廣沢小学校就学生徒心得 
 塾ニ於テ學業ヲ鍛冶セント生徒ハ教師之命令ヲ尊守シ、互ニ孫攘ヲ主トシ、苟モ争議ノ挙動アルベカラス、孜々勉強ニ学術ノ進歩セン事ヲ企望スヘシ 
 明治十年六月 
●石庭伝右衛門 
 中新村の肝煎。小杉小白石の石川一秀に嫁いだゑゐは、この家で四書五経を学んでいる。ただしこの村は天保四年家数九軒(折橋家文書)に過ぎず、寺子屋ではなく個人的な花嫁修業の一環と思われる。
●大島の文化人 
 浅井島村から北野村へ分家した十村折橋家小右衛門の孫小左衛門(後に甚助、由助、寛政三年五月四日〜安政三年七月二十七日、号雄山、清狂)は京の浦上春琴に画を学び、花鳥風月を得意とした。師が来訪の折りは自宅に招いている。 南高木津田家分家の三代目長三郎(天保十一年〜昭和三年)は二十代に隣村高木村石黒信基に算学・測量術・天文暦学を学ぶ。加賀藩による敦賀から琵琶湖までの運河掘削計画にも参画し、明治八年に伏木港の測量、二十七・八年に金沢から京都までの道路測量に携わった。子息雅之も東亜天文学会の創設に参画し、後年呉羽山に備え付ける四十二p天体望遠鏡を製作した。
●藤井右門直明(享保五年〜明和四年八月二十一日) 
 父は小杉町津幡江屋吉平(元赤穂藩江戸家老藤井又衛門宗茂)。浅野家改易後に浅野大学に従い来越し、津幡江村宅助の許に寄宿する。その後宅助縁戚の小杉町金森八三郎の世話になり、同家付近に家を構えて津幡江屋吉平と称し、大手崎の赤江屋九郎平の娘を娶った。長男吉太郎は十六歳で上京して伊藤紹述に学び、剣を染谷正勝に入門する。富山藩主前田正甫第六子利寛の猶子として地下諸大夫藤井大和守忠義の養子に入り、直明と称した。正六位下大舎人、後に養父を嗣ぎ従五位下大和守に任じられる。竹内式部と交流していたため、宝暦の大獄で郷里に避難し、右門と変名して売薬行商を装い九州まで尊王思想を広めた。明和元年甲府から江戸へ入り、山県大弐と接触するが、同四年八月二十一日に梟首となる。享年四十八歳。
●下条屋の祖 
 本家は現新湊の渡辺家。正応頃に高岡から移住する。代々安兵衛を襲名した。二十二代安兵衛は本江村から入婿し、その四男が小杉に別家、五男安之助は放生津の片口屋を興した。 
●石川家 
 祖は南朝遺臣で河内国石川村石川義純で、子息義昌が北陸に逃れて牧野村に住む。昌一が下村大白石に転じ村役人になる。二十代目三郎右衛門は元和八年郡縮役、二代から六代まで十村を務めた。四代子息芳昌は小杉小白石に別家して代々医者を務める。七代から本家も医者になり、濟美を代々名乗る。天明三年に家を妹一家に譲って小杉新町に移り、御郡役所御用医師になった。次代に一時金沢へ移るが戻って医院を開く。大白石では又次郎が文政三年新田才許に任じられて以後、孫の代まで山廻役等を務めた。維新頃小杉新町の石川家では跡を継ぐ男子がなく、廃藩後に金沢から二十二歳の玉造小右衛門子息八三郎(号乾山、岸石、嘉永五年三月十日〜大正十四年九月十四日)を婿養子とする。明倫堂に学び、二十一歳より医業の傍ら句読・漢学をも講じ、六年八月和親小学校でも教えた。正學寺に碑がある。明治二十四年七月に婦負郡長沢村数井氏の懇請で移住した。小白石の昌徹(号五柳園主碧波、丸々坊)は白石小学校を創立し、五男日出鶴丸(明治十一年〜昭和二十二年、生理学者)は大白石の戸籍を嗣いだ。
●舘成章玄龍(寛政七年〜安政六年、字君慶、号北洋)
 三箇三拾三ケ村に生まれ、舘芸陵の養子。十四歳で富山藩医大野玄格に学び、文化十一年華岡青洲の門に入る。江戸へ出るが、文政六年に養父の病で帰郷し、外科医として名が広まった。著書もある。孫が高岡上川原町木津家の哲二(明治二十二年〜昭和四十三年)で、舘家に養子として迎えられる。鳥取・石川・東京で知事を歴任し、昭和十三年内務次官、二十二年富山県知事、二十六年参議院議員となった。 
●関守橋本家 
 寛永十八年に作内が赴任し、十四俵を受ける。以降、作左衛門、又右衛門、作七郎、伴右衛門と続き、次の作内は勇猛義道居士と諡される程の人物で、十六俵に加増されている。作七郎、次も作七郎で、改心流剣術免許皆伝の腕前であった。明治二年に関所廃止が通告され、その後十三ケ村戸長や細入村初代村長に就任する。子息の恒作も第三代村長であった。また同じ関守の吉村家とは、長年縁組を通じて強い絆を有していた。
●深見(深美)六郎右衛門 
 初代は能登国門前町近く深見村の出身で、立山温泉湯元である。十代目は藤原頼雄の名で和歌や俳句を能くした。また書を京の天満宮二十六世に学び、元許中家皆伝を受ける。弘化二年九月二十五日七十三歳で没した。妻のきみも和歌を詠む。文久三年八十一歳で没した。
●上市の文化人 
 小柴伊左衛門(号松斎) 祖は飛騨国出身で前田家に仕え、山室の江口に住んだ。八右衛門が上市に移り、江口屋の屋号で薬種業を開く。俳句・茶の湯・活花・書道を能くした。明治二年に没する。
 岡部智中(嘉永六年〜昭和七年八月) 家業を顧みず和算、特に幾何図の研究に夢中となり、稗田神社に成果を奉納した。 
 堀清平(嘉永六年〜明治三十二年七月四日、号二喋) 幼時より数学を学び、長じて教育に従事して、明治二十三年四月湯神子小学校に勤務した。三十三年十一月に碑が建てられる。 山田長宣(東平、号新川、文政十年八月十七日〜明治三十八年十一月四日) 玄東の孫であり、医者の父玄隆(俳号ありそ)長男。明治二年明倫堂教授、四年に石川県美川町で書と漢籍を講じる。十一年東京に移り『日本野史』を編集する。
 黒川村医者で漢詩人でもある山田治助(玄龍)は文政二年に長崎で西洋医学を学ぶため、妻子を同道して赴いた。この子が後の黒川良安で、父子共に蘭語を吉雄権之助、医術をシーボルトに学んだ。良安は高島秋帆にも就き、父母が天保五年二月に帰郷後も学習を継続し、同十一年加賀藩青山将監に五十石で仕える。後に江戸の坪井信道に入門して塾頭、弘化三年八十石で加賀藩医になった。 
 浄瑠璃が天保末より大流行し、竹本文声(宍戸清右衛門)や竹本島太夫(初代は酒井勘助、二代は石黒留次郎)がいる。 
吉田平吉(享和四年〜明治九年)は宮川村江上で直四郎三男。祖は吉田神社の出。文化十三年浄泉寺福井充賢と上京し、写生を四条派紀広成に師事して廣均の号を貰う。後に天保十年貫名海屋と松村景文に学び、紀州家から公均の号を賜った。維新後も東京で作品を残している。生家では吉田善次が明治7年まで寺子屋を開いていたともいうが、確証がないため一覧表には記載しなかった。 
●滑川の文化人 
 上杉景勝家臣桐沢無理助尚元は慶長四年松倉に移り治右衛門と名乗る。同六年滑川に移住し、綿屋となった。二代九郎兵衛は寛永二年加賀藩御旅屋、同十九年本陣の指定を得る。五代尚庸(号蛙子、蓮蛙)は俳人で、天和三年大淀三千風が来宿した。九代尚昭(栗本居士)は和歌を能くした。 
 青山勝右衛は慶長九年妻と子の長十郎を伴い氷見阿尾村から滑川に移る。後に奥州南部右京太夫に仕官が決まり、妻子と別れた。妻は桐沢家二代九郎兵衛に嫁ぎ、長十郎は養子となるが、やがて別家し、綿屋青山九郎右衛門を称す。三代昌保(号酉干丸)は桐沢家から入り、尚庸は実弟。共に俳諧に秀でた。七代昌茂は和歌に秀で、岩城家からの養子十代九郎衛門や十一代荘蔵昌房(安永六年〜天保三年、号百爾)も俳諧で名を知られた。碑もある。 
 旅篭屋で町肝煎の河瀬屋には、元禄二年七月十三日松尾芭蕉が宿を取った。組合頭の七代彦右衛門(号知十)は連句集『早稲の道』を編集する。浦方肝煎を務めた松村屋宗右衛門(号史耕)もこれに参加している。 
 他に神職十四世且尾嘉寛や専長寺二十二世梅原義芳は和歌で、本広寺九世神保了慶(号幻来)や大伴家持の子孫と称する小林村十村宝田家三代宗兵衛(号香堂)及び売薬業鷹取嘉重郎(号合矣、書斎を一層楼)は俳句で名を残した。 
 称永寺十一世恵浄三男恵遵(徳妙)こと蜷川観月(寛政元年〜嘉永元年)は京で岸岱の門に絵画を学び、岸派にとどまらず円山派の写実や四条派の軽妙な筆致も取り入れた画を描いた。 
●寺子の遊び 
 天下落とし…机で階段を作り、拳を闘わせ、勝者は上段で天下、下段は乞食となる。
●寺子屋での試験 
 字明かし…文字の扁・作り・冠を挙げ、漢字を覚えているか試験する。
●魚津の俳人 
 宝暦頃、荒町の葉茶屋で肝煎役岸本藤右衛門(号倚彦、知済、海市舎、小貝庵)は美濃国各務支考に学び、画も描いた。天明頃、増川屋こと小幡与八郎(号泗筌)は『魚津古今記』を著した。自邸に三浦樗良が滞在している。佐渡屋こと浦方肝煎の結城勘右衛門(号侶岸)も有名。文化・文政頃には、荒町の木綿商大正寺屋又右衛門(号太翼)、大梅屋こと角川町の寺崎橘蔵(号孤山、弘風軒)、小竹屋伊十郎(徐風)等が活躍した。橘蔵の長男橘次(文化十四年〜明治二十五年六月、号靄村、木母屋)は俳句を梅室等に師事し、詩・書・薮内流茶道・華道を能くした。弟の仁右衛門(号花弟、観舎人)も俳人として名をあげ、絵画にも優れた才を見せた。草庵は梅茶園。明治四十四年十月八十歳で没した。藩政末期の魚津は俳句が教育の普及とともに大衆へ浸透し、句会が多く催されている。 
 藩政末期に金屋町三ヶ屋作兵衛(酒造業)は陽明学を研究した。末三ヶ野を開墾したものの、慶応三年に藩から地元民への売却を命ぜられ、明治ニ年のばんどり騒動(農民一揆)後に入牢・家産没収となった(玉川信明『越中ばんどり騒動』)。
●大島忠蔵維直(字無害、号贄川、居所は三古堂)
 魚津に生まれ、金沢の叔父の家へ養子に入る。二十三歳で昌平黌へ入り、寛政四年に明倫堂の助教、文政十二年都講、大小将組へと進み、天保五年七月に致仕する。同九年閏四月に七十七歳で没。
●黒部の俳人 
 天明に三日市の上嶋屋徳左衛門(号六雅)は加賀千代尼とも交流があり、肝煎の嶋屋二代目又四郎(号求呂)も俳諧で知られた。文化・文政には十村神保嘉一郎(号横雲)は句会を開く。安政頃、十村手代北山伝三郎(号西園恕兮)は諸国を行脚し俳句を詠んだ。医者の小林元章(号玄々堂不及)も俳句を読み、仙台から俳諧で知られた文器が来訪すると、本多吉十郎(号嶺松)が師事した。後に三日市町長となる平井順吾(号敬哉、慶哉)も俳句を詠んでいる。安政四年秋に泊の俳人金森洞雨の養子で出羽国海野家出身の金森禎作(号立器)が句会を開くと、三日市、生地、魚津の俳人達が参加した。明治四年魚津に移住し、花蕚社を結成することになる。 
●朝日町の文化人 
 天保十五年に十村となって棚山野を開墾した伊東彦四郎(俳号松屋)や境関所足軽渡部久作(俳号蕪木)等がいる。宝暦六年春松任から俳人千代尼が、久作の母と懇意にしていた関係で渡部家に滞在している。舟川新村藤井辰右衛門昌弘は石黒信由門で測量に従事。
●入善の俳諧 
 米沢家(祖は源義朝臣米沢主計守利光)二代目紋三郎元昭(号応斉)、三男で三代目与平次養子与四郎元清(字君貌、号徳容、玉樹斉)、その甥で五代目半左衛門元保(字楽只、号省斉)は薮内流茶道も能くし、六代目紋三郎元義(号節堂、冬生)、長男の七代目与四郎元通(号漸斉)、次男裁二郎元即(号蘭谷、竹酔)、八代目紋三郎元寛(号国華)、弟紋三郎元随(号歌石)はいずれも俳人。 
 岡家(祖は山名家家臣で、出石落城後和倉に移住した彦兵衛を初代、弟は秋庭綱典の養子で後の沢庵)六代目与左衛門(号如峰)は稲香庵社中を結成した。 
 竹内家(岡家二代目の弟竹内兵左衛門を初代)四代目弥三右衛門(号松塢)、野島家(祖は宇奈月愛本八重堀城主で、前田家に従い雲雀野郷士)久兵衛(号柳斉)、脇坂家(祖は大坂夏の陣で豊臣方の将で、砺波郡内島に住み、明和四年舟見に移って本陣を務める)孝平(号貴和)なども俳人として名高い。 
●八尾の文化人 
 俳句・狂歌では文化・文政頃より芳澤蟻道子、禅定屋禅勝、西池屋、面谷屋赤椿、桐谷屋知立、山屋石亭、小原屋其柳、翠田貴山、古川屋稀水、益山一宇、吉友其翠等がいる。華道では池坊主小野専定門弟深道屋佐吉(号松隨)とその妻が知られている。茶道では弘化・嘉永頃から川倉屋八兵衛、紺屋徳右衛門、廣瀬養順等が裏千家の門であった。謡曲では安政頃、紺屋治郎左衛門と治右衛門、室屋與四兵衛、菓子屋喜兵衛、大久保屋角兵衛、乗嶺屋甚三郎等がいる。浄瑠璃では嘉永頃に小谷屋安兵衛、山岸屋佐七郎、桶屋庄之助、掛畑屋善兵衛等を輩出した。美術では天保頃に狩野派や長谷川等叔に師事した紺屋安兵衛(号春甫)が活躍し、東町曳山の塗箔等の仕事は今に残されている。 
 その他、忘れてはならない偉人に、摩島助太郎元泰(字子毅、号松南)がいる。摩島家十一代惇仲の弟で、京で若槻幾斉の門で学んだ後に、佐久間象山に師事する。『日本海防論』を著すが、入獄を余儀なくされ、天保十年五月四十二歳で没した。
●東岩瀬にある筆塚 
 岩城正則の筆塚以外に、東出町一里塚内の筆塚(川上儀平)、現尾島家前の筆塚(舘町組合頭尾島屋か)があるが、寺子屋を開いていた確証が無いため、本文一覧表には記載しなかった。 
●内山家伝「門文」 
 天保十年路峯が書き残し、慶応三年年彦が補筆した。 
 その昔、京の嵯峨と内山両氏に“白鷹のとどまる所にわれを鎮座せしめよ”との神託が下り、御神体を背負って鷹の後を追うことになった。諸国を巡り、飛騨高山にやってきたら、婦負野の森に鷹が停まった。そこでその森に社を建てる。これが八幡宮の起源で、代々嵯峨家が神職となり、内山家は隣村百塚村宮尾に住むことになったという。 
posted by ettyuutoyama at 18:30| Comment(1) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第四章 寺子屋の師匠 続き〜婦負・新川

七、富山市
旧山田村域
●特色
 農業地域であり、農閑期に少人数を教える形態であった。鍋谷には寺子屋が無かったが、四・五人がわが子に仮名や名頭消息往来及び珠算等を教えている。その際に子供の友達が一緒に勉強していたと伝えられている。
●師匠の略歴
康楽寺 白井谷康楽寺六世住職瀧野諦龍(天保三年〜明治四十四年)は村民子弟の教育に尽力し、読み書きだけではなく、珠算も教えた。明治七年に研知小学校の創設に奔走する。四月二十七日教員首座に就任、後に水島小学校教員になる。能書家で達磨の絵が上手であった。二十六年五月門弟達は村の入口に筆塚を建立した。
菅田家 小島に開塾し、近村の白井谷中瀬 中村 道島皆杓からも通ってきた。四郎治(文政九年〜明治二十五年)は絵をよく描き、明治七年四月二十七日小島小学校の首座教員に就任する。門弟には慶応元年生まれの大阪天王寺師範学校教授加藤茂がいる。
田中八郎平(文政九年〜明治二十五年) 父の八郎兵衛は大蛇退治で評判になり、富山藩主前田利幹に招かれ次第を語り、藩主が様子を画家に描かせた墨絵を一枚賜る。次の前田利保も山田温泉入湯の折りに立ち寄って聴した。文政十二年孝行であるとして藩主より褒賞されている。
八郎平も明治二年に御郡奉行より孝子を褒賞され、五貫匁を賜る。学問に熱心で、村人から招かれて講話をしたり、寺子屋を開いて住民子弟を教育する。学制頒布後に小谷小学校を設立し、村の生活改善にも努めた。また「太鼓踊り」を創案したり、副業に養蚕を勧めて産業発展に努力した。二十三年村民は県知事藤島正健の勧めで碑を建立した。
竹村家 宿坊宇沢蓮村の竹村文右衛門が子息の文六に教えていた所、友達が四五人付いてきた。やがてこれが拡大し、柳川等からも集まり、十余人を抱える寺子屋に成長する。没後に寺子達は八尾町諏訪神社付近山田権次郎に預けられた。
やがて文六が再興し、農閑期に教えるようになる。
旧細入村域
●特色
 富山藩にとり重要な街道筋であるこの地域では、寺院や公職にある家が中心になって住民子弟の教育を行った。更に高度な内容を求める者は、富山町の高橋篤、八尾の宮腰甚四郎、大沢野須原の浄光寺や小羽の村中氏、神岡東茂住の柿下氏に入門した。
●師匠の略歴
赤座家 猪谷で代々富山藩の吟味役を勤め、寺子屋を開いて住民子弟の教育にも貢献する。珠算も教えた。三代目の久四郎は楡原小学校庵谷分校を設置した。
住吉家 楡原で寺子屋を開き、代々継承した。住吉家二十四代孫蔵(号遠山)は八尾で宮腰甚四郎に師事して四書まで学び、学制頒布後に楡原小学校を自邸に創設した。
橋本家 猪谷で代々関所の関守役を勤める。
寺子屋を設けると片掛以南から寺子が通ってきた。特に猪谷や蟹寺が多かった。珠算も教えている。学制頒布後に作七郎は猪谷小学校を自邸に設置した。
寺院 片掛の三寺では各々寺子屋を開いていたが、学制頒布後は大淵寺住職弘道、西念寺住職孝友、円龍寺が協力して片掛小学校を設立した。
旧大沢野町域
●特色
 寺院が多く教育に当たり、教科書には米之覚 名頭 東里村附 西里村附 細入村筋 国盡 商売往来 童子教 実語教 頼母子証文 借用証文唐詩選などが用いられている。上級者の中には富山の臨池居(小西家)や學聚舎(岡田家)へ進む者もいた。
●師匠の略歴
広瀬仁右衛門 祖は猿倉城主。上杉謙信に攻められ飛騨国広瀬村籾塚に移り、その後笹津に帰農した。仁右衛門は寺子屋を開き、村民子弟の教育に尽力する。学制頒布直後の明治五年に笹津小学校創設に奔走し、六年九月自邸を使い開校する。十二年八月自邸を戸長役場とし、二十二年七月から二十六年六月まで大沢野村助役、三十六年十月五日から十一月二十六日に短期間ながら村長を務めている。
法雲院 芦生村の日蓮宗寺院で、明治四年に東猪谷関所施設を払い下げて改築し、一時寺子屋を開いていたという。
旧大山町域
●特色
 文化人として深見六郎衛門がいるものの、農事多忙で、決して教育に熱心でもないが、福沢では真宗の両寺院が農閑期や夜間を使ってであろうか、村民子弟に文字を教えている。学制頒布後に上滝地域ではいち早く学校建設に動き、明治五年九月十日市姫社付近に未認可のまま克己小学校を設立し、翌年八月十五日に認可を受けた。
一方福沢では寺子屋があるためかえって住民に関心が薄く、藤村与平や五十嵐小三郎が人々を説得し、六年十月ようやく推誠小学校設立に漕ぎ着けた。
旧婦中町域
●特色
 この地域は農村であり、農閑期を利用して学習する者が多かった。
例えば鵜坂村では富山の臨池居へ通う者がいたとはいえ、農事期の地元寺子屋への通学者は二名程にすぎない。
速星では子供が九九を知っていると重宝がられたという。ここでの教育には寺院が大きく関わっていた。
 師匠への謝礼は夏に素麺二 三百匁や銭二 三十文、他に魚や餅米で済ませた。また年に三四度川で魚を捕まえ、樽桶に入れて勝手口から贈る家もあった(鵜坂村)。
●師匠の略歴
永善寺 小倉の永善寺下寺広吉庵住職織田是空(号即水)は文政六年十月六日に生まれる。父は令観。弘化二年十月三日京で本願寺に修業し、文久二年八月三十九歳で寺を継いだ。寺子屋を開き、十歳から十四・五歳男児に往来物までを教えた。保内村高善寺以北や富川村からも通学している。寺子は茣蓙の上に座り、机の前で大声で朗読し、山田紙や六折の書手本を用いて何回も書き方を練習して、暗記したら次の手本へ進んだ。最上席者は棒役に任じられ、懲戒の特権が与えられた。また毎年一回張清書を行い、元旦には定められた文句を試筆させ、上包を施し歳徳大明神等の表書きをして水引をかけた上で、自宅の梁上に掲示させた。中元 歳暮は白米一二升や寺子の糞尿及び季節の野菜であった。
 明治六年十月二十六日教導職試補に就任する。寺自体は明治二十三年八月に高岡小川へ移ったが、堂宇は小杉町椎土に保存され、明治七年七月建設の筆塚が春日社に残されている。
各願寺 古里村長沢各願寺二十世秀澄は安政頃に夜学を開き、漢籍までを教えた。
喜左衛門 宮川村羽根で寺子屋を開く。寺子は上流家庭の男児であったという。
光圓寺 古里村長沢光圓寺では天保から安政にかけて、長沢 蓮花寺 川原 小川から寺子を集め、教育に努めていた。山下孫太郎も門弟の一人であり、光圓寺の教育を引き継いで、明治二年官吏に登用されるまで続けた。
光善寺 下条武部光成が寺子屋を開き、子息玄成が継承する。玄成は天保四年に剃髪し、同十一年光闡寺を開創する。
元治元年十一月十一日寺号と住職の正式許可が下り、光善寺を開基したが、慶応三年八十四歳で没する。漢籍や文字の筆意、人倫 仏道をも教諭した。寺子は安田 友坂村富山から通学する。明治二十五年九月二十二日に筆塚が建てられている。
西念寺 上井沢西念寺住職龍沢芳流(文化十年〜明治三十七年)は、智芳の次男に生まれる。八尾の妙善寺善解室に学び、明治三年司教、二十三年勧学へ昇進する。同門には轡田浄福寺邑崎師道三男の龍塚忍誠がいる。門弟により頌徳碑が明治二十六年三月に建てられた。
仁兵衛 音川村では、従来三ノ瀬大権寺や外輪野願念寺で冬に漢籍を教えていたが、上級者のための寺子屋であり、初級者用の教育機関が村にはなく、羽根の若松家へ二三人、長沢の光圓寺や山下六兵衛に冬だけ五人が通っていた。他に富山や八尾で漢籍を学ぶ二・三人がいた。そこで桜峠の奥村與三郎は冬季に砺波郡の栴檀野一ノ谷村から算術で知られる仁兵衛を招き、自家の子弟や村内の二・三人が加減乗除 開平開立幾何学等を教わった。また算盤のみを学ぶことはないだろうから、読み書きもあったと思われる。
西岡善五郎 持田で寺子屋を開く。青山松治により碑が建てられている。
野上惣平 分田で元治頃に開塾する。学制頒布後は分田小学校を自邸に創設し、教員に就任した。
舟木家 慶応二年に道場村松原の富彌は村民子弟の教育のために寺子屋を開いた。しかし公務が多忙になったため、父の一衛が替わって教えた。寺子は下井沢 道場 田屋 田屋新 中名蔵島及び速星村麥島 笹倉から通い、明治六年二月二十七日道場小学校へと改めた。
丸山忠三郎 古里村長沢で開塾する。自宅の二階に夜学を開いて、漢籍まで教えていた。
万芸寺 広田万芸寺十二世巧厳は文政十年に生まれる。教育にも従事し、明治以降少講義、学階助役、空華校総監に就任する。子息は巧雲で、明治四十一年七月頌徳碑が門弟により建てられた。
若松家 天保の頃、羽根で医者の周仙が寺子屋を開いた。漢学に通じていて、音川村や宮川村からも寺子が通った。門弟は百人余であった。
四十五歳で没すると、安政六年に筆塚が建てられている。子息市郎は文久頃に再興し、明治六年まで継続する。長沢新 下村 羽根 小長沢から寺子が通い、合計五十人程であった。
旧八尾町域
●特色
 町部では町人文化が成熟し、寛永の頃から寺子屋が設けられていた。農村部では夜間や農閑期に寺院や村役人が中心になり教育に力を入れていた。教科書には、請取状 送り状 名頭 村名盡 国盡 商売往来 頼母子証文 借用証文 庭訓往来 消息往来千字文等を用い、藤巻という太筆で書くのが普通であった。町部では毎月二十五日に天神祭りがあり、寺子の家が三十文ずつ出し合い費用に充てた。また月の晦日に「つごもり」試験を行う寺子屋もあった。
一方農村部では農閑期や夜間に、机を運び、竹行李を抱えて通学したそうである。杉原村では寺院で十三・四歳女児に裁縫 機織り 茶の湯 活花を教えている。
●師匠の略歴
池田三朗 通称は小倉屋宗三郎。能書家として知られ、天保から明治初年まで男女を教えた。
保内村には寺子屋が無いため、高善寺以南からも通って来た。明治六年四月二十五日聞名寺で潤身小学校が開かれた際は教師になっている。城ケ山公園に頌徳碑が建てられた。
大坪屋新右衛門(号春水) 糀屋源衛門に学び、井出正水の書風を能くした。杉原村の井田黒田、保内村高善寺以南からも通って来た。天保十年四十二歳で没した。
掛畑での手習い 卯花村では茗ケ原の子息は妙覚寺、小原 瀧脇 桐谷 小井波の子息は光雲寺、上笹原 下笹原角間の子弟は八尾町へ通ったが、掛畑と上黒瀬には寺子屋が無い。そこで村民は掛畑の民家を借り寺子屋師匠(姓名不明)を招いて、子弟教育を行った。
金泉寺屋六兵衛(号梧山) 名は上野慶泰。富山出身で糀屋源衛門に学び、江戸で儒家 書家の細井広沢に師事する。能書家であり、門弟も多かった。
糀屋源右衛門(号李唐) 佐々木志頭(津)磨の書風を得手とし、安永八年に西町で開塾する。算盤も教えた。寛政十三年十月二十六日付の墓碑がある。門弟には大坪屋新右衛門、根辻屋嘉七、金泉寺屋六兵衛等がいる。
佐々木左近 伝わる処では寛永九年八尾村少兵衛は桐山村佐五右衛門の助言で、加賀国小松から牢人佐々木左近を招き、真宗大谷派聞名寺庫裏の一部を借りて、読み書き算盤の塾を開く。地元以外に桐山村や付近村落から通学した。
真通寺 三ツ松真通寺住職十四世友山唯崇(力道)は天保五年に開塾し、明治七年四月十日堂宇に鶴声小学校が創立された。行照門弟で長女の婿唯然(天保元年〜明治二十八年二月)が十五世を継ぎ、京で宗学を講じ、本願寺学階司教に就任している。没後に勧学位を授けられ、坊内に碑が建てられた。
多田庄兵衛頼忠、黒田忠蔵正義 両人とも庵谷関所の関守で、大長谷村南部の教育に従事した。なお、同村では東原村才善、内名村中川、島地村岩佐、中山村武藤、栃折村孫四郎の各氏が習字手本を子弟に与え、文字を教えたことが寺子屋の初めであった。その他上流者二 三人が八尾へ、北部は徳圓寺、法流寺、真通寺に通っている。
辻屋 寛永十年に開塾し、童集庵と称した。三百人近くが通っていたこともある。明治五年の師匠は嘉右衛門である。
野積五ケ寺 野積は八尾町や富山へ通う者もいるほどで、読書への需要はあるのだが、農村のため農閑期一・二ヵ月が学べる期間であった。そこで専念寺、浄明寺 光西寺 善福寺光現寺の五ケ寺が教育に当たり、教科書には名頭 国盡 村盡を用い、算盤の加減法も教えた。仁歩村からも通学者がいた。
乗嶺屋 苗字は大西で、元禄の頃に開塾する。三十名ほどは最低でも通学していて、明治前後には儀平、太助と継承された。その頃には算盤も教えている。なお剣術も能くした大西太郎兵衛の浄円寺坂で蕎麦屋が天狗に只食いされた話を聴き退治した伝承(若衆の悪戯であったが小猿の所為として庇った)がある。関連のある人物であろうか。
長谷川家 寛延五年に開塾する。最後の師匠は儀三郎である。本表では能登屋儀平を分けて表記しているが、長谷川家の屋号は能登屋であり、かつ両者は同じ町であることから、あるいは儀平と儀三郎の間に血縁関係があるかもしれない。
平野伝兵衛 祖の夏野右大臣清豊(『凌雲集』編纂者の一人)は摂津国平野を賜り、豊宗の代に苗字を平野と改める。大永頃に宗則が八尾乗嶺に御領地の取締のため赴任した。そのまま定住し、富山藩から十村役に任じられた。紙会所の運営や国境問題で活躍する。また村民子弟の教育にも尽力した。
廣橋屋 上新町で元禄四年に開塾する。明治前後の師匠は重郎左衛門で、算盤も教えていた。
法流寺 上野村(現中村)法流寺住職砂川大愿(大原姓)が開塾する。明治七年四月十日上野小学校が堂宇に設立されている。
山田屋 元禄の頃から諏訪町に開塾している。明治前後は権次郎、権七と継承され、その頃には算盤も教えていた。
渡辺(部)嘉兵衛 祖は城生斎藤氏家臣の渡部源蔵であり、落城後井田村で蟄居していた。
孫の治郎兵衛は飛騨国高山の押上屋から妻を娶り、寛永十三年八尾開町時に東町下ノ丁に移った際にその関係で押上屋を称した。鍛冶屋とも称すが紙商人である。寺子屋も開き、珠算や謡曲までも教えたそうである。
渡辺佐五兵衛 祖は源満仲長男頼光の四天王の一人渡辺綱で、子息竹綱が朝廷御領の八尾薄島に移住する。正治元年長綱が野積谷布谷に移って代々佐五兵衛を名乗り、富山藩十村役に就任する。寛文七年飛騨国境論争で担当となり雄弁を振るうが、江戸の評定所での裁きに敗れた。しかも出張中に放火され、家が炎上している。天和から貞享にかけ御扶持人になり、享保 文化 文久に十村役に就いている。文化七年九十八石を持ち、これは山村最大であった。村民子弟教育にも力を尽くしている。
※詳細不明の師匠
上野直蔵 西町の上野姓は金泉寺屋である。とすると、直蔵は六兵衛の子孫であろうか。可能性は高いがはっきりしない。
江木新次郎 この師匠については『日本教育史資料九』(文部省、明治二十五年)をそのまま引用したのだが、江木姓は八尾町の明治元年名簿で確認できない。では江本姓ではどうかというと、東町には宮腰屋がある。初代が宮腰村市兵衛分家で享保頃の弥三右衛門(豆腐屋)、二代重次郎、三代庄次郎(紙問屋 質屋 為替米商)、四代庄次郎(慈善家で道を玉石で舗装したことでも知られる)、五代庄次郎(味噌 醤油醸造、重次郎を宮腰村友次郎を東町に分家)、六代伊平、明治で七代信好、となっている。見た通りどこにもそれらしい人物はいない。とすると他の町ではどうか。すると西町に江本新次郎という名前が確認できた。この人物こそ大坪屋であり、新右衛門の子孫が寺子屋を継続させていたと解釈するなら可能性は高くなる。だが文久三年に閉塾したとすれば疑問が残る。ただし『富山県教育史上巻』(昭和四十六年)によればどのような根拠か分からないが文久三年に開塾になっている。いずれにせよ推測の域は超えない。
能登屋儀平 長谷川家を参照。
宮腰甚四郎 この師匠も推測するしかないのだが、細入村の楡原辺りから寺子が通っていること、宮腰姓(あるいは屋号か)であること、とを考えれば、宮腰村に開塾していたであろうことが推測できる。とすれば江本家の縁者かもしれないが、断言は出来ない。
旧富山市域
●特色
 富山藩領の富山町と郡部及び周囲の加賀藩領を併せて富山市が形成されている。藩政期にはこれら各地で教育が普及し、領民子弟の多くが寺子屋へ通っていた。
 富山町では教科書に薬名帖や調合薬附等も使用して薬都ならではの教育が行われ、文化年間の売薬業発展に寄与していた(『富山の売薬文化と薬種商』)。女児も寺子屋やお針屋に積極的に通っている。
また師匠には士分(本表では足軽身分も含める)が多いのも特徴であり、その背景には危機的な藩財政と借上げがあったと思われる。
分限帳に同姓の家が多いため人物を特定できないが、足軽身分ばかりではないようである。なお西村氏は藩校教師の西村政蔵であるかもしれない。臼井氏は蘭医の臼井典膳(小森桃塢門下)かも知れないが、そうであれば医塾(荒町)である。
●師匠の略歴
富山町
朝倉藤太 祖の久平は越前一乗谷朝倉左衛門大輔義景の八男藤平景良に連なり、天正年間富山に来住して足軽として五人扶持を受けた。和算家の高木広当門人に朝倉藤太諸良がいる。藤太の父平治は吉見弥八郎の弟久五郎で、朝倉家の養子になる。文化三年十七俵を受け、天保五年町役所物書、同六年御徒組格勘定所小算用役、同八年勝手方下附筆役を勤めた。藤太も扶持十七俵を受け、開塾して町人子弟を教えた。安政四年八月二十四日金札大量発行に伴う混乱の責で御勝手方懸御先手廻組を解任され、隱居を余儀なくされる。開塾はその頃か。
市田拙庵 屋号は萬屋。平吹町で寺子屋を開く。塾舎は平屋の長屋で、寺子は板の間に筵を敷いて勉強に励んだ。
菊園(元名八百、号梅園、梅林園) 松平志摩守(豊後杵築藩か出雲母里藩)家臣佐々登の娘で、富山藩主九代前田利幹の側室になる。天保二年四月飛騨高山の田中弥兵衛大秀に学び、女児に読書 裁縫茶道等を教育した。広徳館の一室を用いていたことを意味する記録もある。士分の娘以外も受け入れた。布瀬村十村高安定義の娘貞子はここで学んだ後、戸出で女寺子屋を開いている。安政二年四月十五日没。利幹との子のうち利阜は豊後府内藩主松平近信、利民(号竹圃)は和歌や本草などに優れた。天保二年四月十二日に起きた大火の様子を描写した自筆の軸が高岡市立図書館に所蔵されている。
北川正賀 藩への届けの中に北川久太郎がいる。昇平の末期養子であり、天保九年には二十俵を受けている。昇平成善と改め、明治二年には三十一歳二十俵、内家知事席筆役御旧記方である。開塾した北川正賀とはこの人物ではないか(正賀は号とも考えられる)。
木屋 藤井町で天保五年に理太郎が開塾し、姓は七高、安田善次郎も通う。子息理右衛門が継承。明治四年頃には二人で教えているが、理右衛門と先代理太郎かそれとも子息となのかは不明である。
小柴氏 富山藩士の小柴姓で物書や広徳館に関わった人物に、明和六年の十左衛門がいる。普請所支配物書足軽であった。孫の与兵衛は広徳館奏楽方である。ここから推測すると塾を開いていても不思議ではない。念のために明治に師範学校を卒業し、郷土史家である直矩の家系があるものの、可能性は低いように思われる。
近藤士専 陽明学の私塾を開いた近藤潜庵は富山に来たのが嘉永五年四月であることから、年代が合わないので違うと思われる。加賀本藩藩主の御前に門弟を引率できたり、宗匠という記載もあることから、富山藩士では連歌師の近藤光明の可能性が強い。富山藩の連歌秘伝は浅尾卜山元昌、富田尚明、佐脇良輔、佐脇良世と受け継がれる。良輔は文政十二年五月に上洛して北野別当職宗匠林静坊法眼岱山から奥義を伝授された。更に天保九年近藤光明へ、安政四年子息の岡崎良次乙彦へ渡される。乙彦は国学者であり、万葉集を研究して明治二年『曽理廼綱手』を著し、高沢瑞信は大いに触発されている。於保多神社宮司となる山田方雄が継承し、子息で神宮皇学館学長山田孝雄に引き継がれた。さて、山田方雄『旧事回顧録』では、連歌の会が山崎茂承や近藤光明を師とし、清水町の光明の下屋敷で月に一度開かれた。光明は格段に秀でていたという。
森林堂 別名森田屋。場所は旧舟橋今町(現在は愛宕町)で、明治三十六年の川筋大改修まで神通川左岸にあった。森田家の祖市郎右衛門は、藩祖前田利次に従い先手足軽として富山に移住。伝太夫氏房の時には三十五俵を受け、勘定所頭取に就任する。屋敷は千石町。開塾した直右衛門忠則は安政七年分限帳では五十一歳、十七俵毎年金一両を受け、明治二年に商法局下僚であった。塾では自身を含め三人で教えていたようであり、家族であろう。養子定太郎をもらうが、実子三郎直寛(字子隠、号北涯)が天保十二年に生まれる。白井流剣術に秀で、広徳館や壮猶館で漢籍や英学を学ぶ。書は市河米庵や稲垣碧峰に師事した。向学心を藩から評価され、銀十枚を下賜されてもいる。エリート集団新調組への加入も許された。明治元年の北越出兵では五番隊小司令士として十三人を率い奮戦する。六月二十一日の休戦翌日払暁、越後福島村で砲丸を腰に受け戦死した。弟の正之助直則が家督を嗣ぎ、塾も受け継いだ。男児百五十人女児五十人が通い、六年に婦負郡第一番小学校(十一年から履新小学校)創設時に、塾舎を提供した。自身も教師になり、後には履新小学校で教師主座に就任している。兄の遺児三人を養育し、長男健太郎直宗は漢学を学び、秋田県知事官房主事や内務省神社課長を歴任する。次男定之助宗正は士族稲垣家に入り、大正四年富山市長に選任されている。一女イシも高桑家へ嫁いだ。
杉江藤吉 天保九年分限帳には御料理人組二十俵とあり、安政七年には御料理人方頭取で金銀受払二十俵及び隔年で庖丁代七十五匁九分渡されている。開塾は安政の頃であろう。
田近家 田近鉄也が開塾し、子息健蔵の代には百人程の寺子を抱えた。元治頃に経営を広徳館教師の高橋篤に譲渡している。
鳴泉草堂 上野又右衛門既白は能書化として知られ、漢籍や医術にも通じていた。川原町に塾を開き、町人子弟の教育に従事する。子息幸太郎可保(文政六年三月八日〜明治六年三月八日、号華山、延年)は大野介堂に師事し、父を助けて寺子を教えた。漢籍や釋道(仏教)医道に通じ、妻も貞淑であったため、藩は嘉永三年三月八日に夫妻を褒賞し、金若干を下賜した。三男煕(安政二年三月〜昭和三年、字敬止、号復堂)は国学 漢籍書を父に学び、小杉良孝の養子に入った後も学業を積んで、中学校教員として教育に専念した。
臨池居 全国的に名が知られた寺子屋である。安養坊出身の小西鳴鶴(号祖川)が明和三年に西三番町で始めた。士分ではなく四代前から安養坊に住んでいたといわれる。間口八間奥行十五間で、階上に約六十畳(約百u)の女児席、階下に百畳(約百六十五u)の男児席を有する堂々たる学舎である。鳴鶴はここで寛政頃に約四百人の門弟へ、心学や書を教えた。 
 子息達二有斐(号石樵)は仕官し天保元年三月に俵御徒歩組入、篆刻方並広徳館書写方を兼任し、同六年七月訓導並、翌年正月に訓導へ昇進している。塾名を、後漢の張芝が硯の水を自由に得られるようにと池に臨んで家を構えて書に専念したので池の水が墨汁になった、という故事を引いて臨池居と付けた。一階を三区切りし、上 中 下の三学級と別に武士の一組を設け、三尺の通路をはさみ師匠の居室を置いた。学習者が余りに多いため、二部三部で授業をしたそうである。上級者には四書五経 日本外史日本政記等で教えている。最初は先代の延長上で私塾であったが、やがて寺子屋の色彩が濃くなり、小西屋とも呼ばれるようになっていく。
教室には幅一尺長さ六尺の三人用机が常備されていて、寺子は文庫を持って寺入りした。有斐は俳諧にも秀で、また礼式や謡曲に通じていたので、放課後に希望者や一般町人に手解きしている。門弟中には後の画家谷口藹山もいる。
 長男文二有實(号石峰)は天保七年二月昌平黌に留学し、佐藤一斉と塩谷宕陰に漢学を、細川林谷に篆刻を、巻菱湖と男谷燕斉に書道を学んだ。十一年十二月広徳館書会方篆刻方に就任、嘉永三年七月訓導に任じられ、同五年正月家督を相続する。十八俵を受け新番徒歩入りし、元治元年九月学正に昇任して前田利聲の表扈従横目裏預を兼ねる。慶応二年四月文学書道心懸出精に付き三俵加増され、明治二年十一月三等教師に就任している。四年二月先年来書籍出版等節盡力大儀と賞せられ、金千疋を授与された。明治二十年九月二日に七十二歳で没。
 子息の有英は幼少であり、そこで弟が中継ぎすることになった。次弟順二は岡田家にいるため、善二有義(号小石)が重責を担うことになる。安政五年三月江戸で安積艮斎や大沼沈山等に漢学を、中沢雪城と桑名松霞に習字を、細川林谷に篆刻を学び、剣術も千葉 桃井榊原等で修練したため、書は中條流免許、剣は北辰一刀流免許皆伝の腕前である。帰郷後訓導に就任し、慶応元年十一月学正へ進む。翌年十二月新調組入りし、明治二年二月から東京で勤務する。五月十一ケ区市中取締所で応接方を勤め、七月藩主帰藩の前後警衛に当たる等、多忙を極めた。十一月三等教師試補に任じられるが、三年九月史生庶務懸に転じ、十一月東京詰を命じられる。なお閏十月改正之處萬機盡力大儀の旨、金二千疋を受けている。東京では権大属心得庶務方、翌月権少属庶務方を勤めるが、遊学を許され四年二月に帰郷し、学校上等生になった。
 塾を引き継ぎ、小西屋風の書を確立した有義の指導は厳しく、常に六尺の竹竿のような鞭を持ち、怠けることを許さなかった。それは肉体を鞭打ち苦しみぬいてこそ知識がよく身に付く、という信念からであり、父母からも支持されていた。蜷川行道の追想録で授業の概要が分かる。師匠は後頭部に髷を結い、上下顎に天神髭を蓄え、陣羽織に黒袴姿である。朝食前に四書五経 史記左伝の素読が師匠に代わり最上級生により行われ、不明点のみ師匠に尋ねた。一旦朝食のために帰宅し、再び登校して直筆手本で書を午後四時まで学ぶ。小西屋では楷書 行書 草書 隷書篆書の順で練習した。特に優れた寺子は山王町日枝神社と柳町於保多神社の各春季大祭に奉納する大行灯に揮毫をすることが許された。漢籍の輪講が週に一度あり、十人程度の最上級生が十八史略や史記等を講述し、師匠から講評と批判を受けた。有志者には作詩の添削指導をし、二三人の寄宿生には撃剣も教えていた。一階は師匠一家の居所があり、寄宿舎は二階の一部に設けられている。明治二三年男児六百人の内寄宿生は近村からの三十人程であった。別に女児が二百人程通っている。
 学制頒布直後は男児五百人 女児七十五人程になるが、七 八年頃小学校則に準拠し、習字 読書 算術修身の四科目に再編し、漢籍の講読に力を入れて詩の指導を行った。それまで休日が一六の日であったのを、十年頃には日曜日に改めている。
だが十八年の大火で教室の縮小が余儀なくされ、小学校教育の普及により二十二・三年頃には寺子数が減少、毎日の出席者は在席の八割程度であった。それでも百二・三十人は小学校放課後に通い、他にも手本を使って自宅学習する者がいた。 
 有義は二十八年一月二十五日に没するが、富山県尋常師範学校教師央二有英(号揖山)により火災に遇う三十二年まで継続し、その流れは共立薬学校へと受け継がれた。有實有義兄弟を讃える「小西伯叔兩先生遺徳碑」を建てる計画は大火で延期され、昭和八年十月ようやく於保多神社に完成した。門弟の富山市長井上政寛と衆議院議員岡崎佐次郎及び有志者二百十二人によるもので、碑文は師匠友人で日向の人安井朝康の撰である。
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海辺地区
新井弥助 水橋小路村の元僧侶で、寛政の頃に能筆で知られ、三郷で最初の寺子屋を開く。沖村酒井弥三は門弟である。
岩城正則(寛政七年一月十五日〜安政元年二月、号硯寿、宗寿) 祖が奥州豪族岩城家で新川郡で十村を務めるなど勢力のあった岩城一族の系列と思われる。上杉家医者隆平の孫英信が高田藩医となり、藩の改易後は道常が富山藩の藩医、常隆も仕官し滑川に居住した。次々代隆春分家が寛信で、宝暦三年正月十三日に東水橋に移る。その孫が正則で、文化八年に十七歳で上京し、吉益南崖に医術を学んだ。同十年三月に帰郷し開院しつつ、寺子屋を開き教育に貢献した。風流人であり謚は梅隠。医者としては妙薬「薬王樹」を調合した。慶応二年天神町天満宮境内に筆塚が門弟により建立される。子息嘉寛(享和三年〜明治二年四月十八日、号猷輔、硯寿、玄寿、子誠)も父と同門紀州華岡青洲の春林軒で学んだ。
浦屋徳右衛門 四方で教育に従事する。読書の算盤を教えた。栂野一昌の師匠であり、塾は一昌へ継承された。
大嶋屋 東岩瀬で開塾。藤兵衛の名乗り。質屋を営み、天明頃に蔵宿を兼ねる。安政六年に質屋を廃業し、寺子屋と蔵宿に専念した。門弟で昌平黌に学び旗本神保山城守や加賀藩奥村左京家に学問で仕えた永井龍夫源奏(初代岩瀬小学校長、明治四十一年七十八歳で金沢に没)の履歴書によれば、江戸の杉原平助へ入門する嘉永四年四月以前に大嶋清太より指導を受けた。また父の病で神保家を致仕して帰郷する文化二年の翌年三月に善之介(清太の継承者)へ「勤学」している(元治元年十一月奥村左京家の素読方教授に就任)。
金森家 屋号は金剛寺屋。市田袋に寺子屋を開く。師匠は宗右エ門や宗左衛門という名である。
毫照寺 水橋小出村毫照寺住職菅野観導は草書を得手とし、村の教育に従事する。子息智恩は京で算盤を習得し、帰郷継承後三・四十人を教えた。その次の恵融は狩野派の画風でも知られ、良智小学校で雇教員となった。
沢田家 明治初年に現岩瀬小学校辺りで久耕と平八が分担している。前者は五十名の寺子を抱え、後者(妻と共同か)が女児三十名程に手習いと裁縫を教えていた。
竹山屋 仁左衛門が東水橋で寺子屋を開き、又六が継承した。場所は新町或いは稲荷町か。
原恒意 三郷の医者で、新川郡の十村伊東彦四郎から小沢屋と一緒に庸軒流茶道を学んだ。寺子屋師匠として碑がある。
寳山堂 四方では教育が普及し、男児は読み書き 算盤、女児は山崎三平の母、酒井せつ、栂野もと(一昌の母か)、永井つる、浜崎さつに裁縫礼式を教わった。寳山堂は栂野一昌が開く。祖は今川義元の臣栂野左兵衛安昌で、子息の安孝が酒造業を始めた。以後、義昌 安憲 安義 永昌彦昌(彦八)と継承され、代々町年寄を務めている。彦昌は四方漁民の窮状を救うため郡奉行湯原宗兵衛(御馬廻二百五十石)に訴えた。
当時魚の商いは問屋を通じていたが直売も大目に見られていた。だが湯原は藩財政再建で問屋への課税を強化するため直売りを規制し、直売したい者は百塚の御勘定所で口銭を支払うべきものと達した。そこで彦昌は直談判に及ぶ。問屋との板挟みになった奉行としては、秩序が崩れて争いの元になることを危惧しこれを拒んだところ、彦昌は面前で懐剣粟田口吉兼で切腹する挙に出て救済を懇願した。これが藩主前田利幹の耳に入り、善処するよう担当役場に指示したという。
 子息一昌は二歳で父を喪う。母や浦屋徳右衛門に学び、天保四年寺子屋を開く。「足りとせば雀でもよし梅の花」と詠み、号を梅雀とした。
寺子は間口四間奥行六間の学舎に筵を敷いて学んだ。一階は男児、二階は女児の教室である。師匠は正面の高い半畳に座し、選ばれた役々に手伝わせて教えた。というのも若い頃視力をほぼ失っていたからである。それでも一糸乱れず寺子を統率し、放課後には謡曲も教え、毎年春と秋には席書、正月二十五日 三月五月の節句と七夕には会食を饗応し、七夕行事を盛大に行っている。かなり指導力があったのであろう。その上父の威信が加わっているのである。明治十四年に門弟三百余名で碑を建てた。現在は四方小学校校庭にある。
 子息の彦麿も父の薫陶を受け四方小学校の校長に就任し、また自邸に家が貧しく上級学校へ行けなかった若者を抱えて面倒を見、進学させた。しかし決して家計は楽でなかったそうである。
中老田 呉羽地区
嶋倉与茂三郎 祖は射水郡東部から婦負郡北部にかけて勢力を持った土豪である。本家は現在の西光寺周辺に居住していたが、分家の与茂三郎(宝永八年二月二十七日没)がこれを継承し、五代・六代は富山藩十村、七代は十村格に任じられた。九代は明治二年十二月十七日焔土作方勢子役・付役次列となり、四年八月村長兼副戸長に就任する。また寺子屋を開き、これが現在の寒江小学校の前身である。三十一年七月二十八日没。婿豊孝は四方栂野一昌の外孫である。
瀧口四郎平、龍口源七郎 寒江村では農閑期や夜間に寺院による手習いがあったが、本郷 大塚 中沖 野田の住民子弟は隣村下村や八幡村へ通い、野口 野村北二ツ屋の住民子弟は住吉村石川銀右衛門源吾のもとへ通い、他には二三人が富山へ通っていた。ただし出席日数は年中の1/3〜2/3程度であったという。そこで瀧口四郎平と龍口源七郎は、藩政末期に二十〜四十人の寺子を集め、年中無休で教えた。瀧口家の祖四郎兵衛は長尾能景や武田信玄に従い、十五歳の時に大塚に土着した。竜江寺を造営し、寛永十六年に四十五歳で没した。四代目から十村役に任じられている。
辰巳貞斉 長岡では藩政末期に恒田宇平と与次右衛門が寺子屋を開いていたが、明治初年に京都から医者の辰巳貞斉が舟橋新に移住し、医業の傍ら住民子弟に読み書きを教えた。
田中可成、真野成次 中老田で文化十一年頃であろうか田中可成が城石平左衛門宅で開塾する。善右エ門の三男で、十歳から継母に育てられ、家事手伝いの合間に読書に励む。二十歳から十年間僧を志して夜に高岡で苦学し夜明けに帰宅することがしばしばであった。その所為か三年間病床に臥すが、読書は忘れなかった。ただし特定の師に就くということはなかったようである。壮年になってから教育に従事し、天保十年一月三十日八十一歳で没した。真野次右衛門成次が門弟を受け継ぎ、弘化嘉永頃より自邸で本格的に教える。海内果うみうちはたすもここで学んだ。成次は明治十年に八十五歳で没するが、門弟により両師匠の筆塚が建てられている。
森田清風 海内果の兄で、明治元年に中老田で開塾する。海内果や本庶瑞雲等と協力し、六年八月八日自邸で菁莪小学校を設立した。
広田 新庄地区
安藤屋市右衛門 富山藩領に住み、加賀藩領新庄新町に借宅して開塾した。日蓮宗富山正顕寺の旦那であり、開塾にあたり藩境を跨がるため元禄十七年に役人が人物調査をし、その報告書が残っている(加越能文庫)。
太源寺 下野村太源寺住職大花入蔵は、文久元年に本堂で寺子屋を開き、農閑期を使い読み書きと算盤を教えた。長座 加役平座に分け、大半は三年間通学するが、半年という寺子もいた。明治六年十一月堂宇に下野小学校を設立した。
竹内常右衛門惟直(号竹叟) 荒川四軒町に開塾する。代々加賀藩の新川郡山廻足軽で、富山境目筋洩れ物改方を兼帯していた。常右衛門は書画を能くし、学制頒布後に新庄小学校に勤務し、算術教科書を編纂している。八年に自塾を筆算塾此君閣へ変更した。
平岡森栄 文久元年に新屋村八幡宮神職の家に生まれ、村の教育に従事する。明治十三年に新屋小学校校長に就任した。
堀江家 鍋田村で代々肝煎を務め、村民子弟の教育にも従事した。教科書として使用した孟子巻一 二 四 五、論語巻三 四 五 六 七 八 九十、寺子状大日本状之文安政六年、御文章嘉永二年、大学嘉永二年、中庸、庭訓往来明治六年三月十三日が残っている。
盛田与四右衛門(号波及) 俳句を能くし、新庄新町に開塾する。門弟は記念碑を建て、秋にはそこで「師匠様祭り」をしていたという。
山田秀平 父の秀蔵は俳句に通じ、加賀藩に仕えて新庄に住み、長棟亀谷の鉱山事務を執っていた。秀平は富山藩士秋山志摩之助の家臣となり、経書を考究する。その後新庄に戻り寺子屋を開いた。間口五間奥行七間の大部屋で教え、寺子は朝早く登校して良い場所を確保するため書物を置き、一度家に戻って食事をしてから再び登校した。明治六年から二十年三月まで藤木と上富居で小学校教師として勤務する。新川神社境内に父子の碑がある。
富南地区
岡田甚蔵 星井町の人。明治二年三月青柳新で開塾する。場所が手狭になったため、十月に林崎に移り新築した。六年八月十五日に林崎小学校となる。
教蓮寺 真宗本願寺派石田の教蓮寺は祖が二宮兵庫助叔父祐源である。山法師となり諸国を巡り、兵庫助菩提所真言宗大通寺下寺祐屋坊を創建した。これが寺の基になった。二十二世祐海の時に改姓する。さて石渓鶴寿は父行寂を嗣いだ後に寺子屋を開く。三男暁昇(明治二十三年九月一日〜昭和三十八年二月四日)は八日町円照寺巧証の養子として第二十五世に就任し、戦後金沢大学で教育学部長を務めた。
樫年堂(樫の屋) 月岡新千俵の神職笹岡家は現在の大山町出身で、祖は近江一ノ宮建部神社の坊僧。代々医術と鍼にも通じていた。元禄頃より寺子屋を開き、十三世久豊の時に役割を終えた。明治四十二年九月二十三日切掛松下に季隆・久豊二代の頌徳碑が建てられた。塾舎は月岡小学校に転用されている。
後藤豊蔵 小屋島(現上今町)の医者で、藩政末から明治五年まで教育にも従事した。十七年五月より自由党党員として活動している。
誓教寺 押上の誓教寺住職紫快辨が寺子屋を開き、教山が継承した。
中土家 祖は桃井直常の家来中野久治で、太田用水の渕に帰農し中土甚右衛門となる。享保から元文にかけ衰退するが、宝暦頃に再興して文化・文政頃に藩主休所に指定された。天保九年甚右衛門は十村格に子息甚兵衛も同十四年肝煎に任じられる。両人とも能筆であり、算術・医術・易に通じていたため、請われるまま村民子弟を教えていた。しかし弘化二年に何らかの不都合から追放処分を受け、同五年に許されて持高を回復している。
法輪庵 開発の曹洞宗尼寺で、明治十六年に寺号を得る。開基は智覚明慧尼であり、トエラ(寺の意か)先生と呼ばれていたのはこの人物か。数少ない女師範の一人である。大正八年没。
横越家 宮保の式内社熊野神社社家。京の唯一神道吉田流本家から秘伝「事相方内傳草案」を受けた。二代に渡り教育に従事した。
四津谷彦十郎(文政七年〜明治二十三年) 父は新保村の彦右衛門。富山町で学び、嘉永頃にで開塾する。寺子の便を図るため「四ツ谷」に改姓した。明治六年閉塾後は戸長や村会議員を務める。二十七年三月彰徳碑が建てられた。
その他の地区
内山年彦 宮尾の内山家は布目村郷士であったが、次郎右衛門昌峯(天文九年没)は大永享禄頃、宮尾で新田開発に取り組み、そこから四代目の仁右衛門安峯(明暦元年没)は苗字帯刀を許され、十村に任じられた。宝永四年に九十六歳で亡くなった五代治右衛門高峯は、神通川の川筋が変わってそれまでの川筋が沼沢地になったので、そこを新田開発する。しかし六代治右衛門好峯は検地で増税され、田畑を切高したため、享保十四年草高が三百石に減少した中で隠居した。そこで七代治右衛門逸峯は改作に全力を挙げ、延享二年六百石に回復させる。先代はこれを見届け、同五年に八十三歳で没する。逸峯は大坂の有賀長伯に国学を学び、和歌を京の武者小路実岳に入門して大伴の姓を賜った程の文人である。安永九年に八十歳で没した。八代治右衛門季峯(文化十四年没)を継いだ治右衛門路峯は文政六年御扶持人十村に任じられ、十代源次郎秀峯は父が六十七歳で没した嘉永三年に富山藩士となって、千石に拡大していた家督を年彦春峯に譲り、次男豪逸(小池春香)を連れて別家する。安政元年に四十八歳で没した。小池春香は明治二年に三十二歳史生職(俸十四俵)で会計懸として十六俵を受けている。
 安政七年年彦三十歳の時に御扶持人十村に進み、螻哉と号し岡田呉陽と親しく交わった。慶応四年に家屋を新築し、柳原草堂と名付ける。明治十四年に草場船山を京都から招いて、欅の大額に堂名を認めてもらい広間正面に掲げた。村民子弟の教育にも尽力し、明治五年に塾舎を改良して二十一畳敷二間と十二畳敷二間を教場、七畳半敷一間を事務所に改めた。これは窪美昌保の寺子屋と合流し、小学校を設立する下準備であろう。ただしこの年年彦は第十三戸長として二年間八尾に赴任している。また新川県沽券取調係として地租改正にも取り組んだ。男子が無く、弟小池春香の長男松世を三女稲香子に配して家を嗣がせた。松世(元治元年〜明治二十年、号外川)は後に衆議院議員(明治三十一年〜三十五年八月)に選ばれ、多くの会社で公職に就いた。子息の季友(明治二十一年〜昭和五十六年)も昭和二十年まで村長を務める。農地改革で多くの土地を手放した。妻の量子はアララギ派の歌人である。
窪美家 金山新村で医院を開く傍ら、寺子屋を開く。草島村からも寺子が通った。学制頒布後に昌保は内山年彦から小学校創立の意義を熱心に説かれ、明治五年三月三日に内山家に合流する。昌保と小池春香が教員になり、八月正式に宮尾小学校となる。生徒は四 五十人であった。
荘厳寺 奥田では荘厳寺が地域の中心であり、教育機関でもあった。明治六年八月六日に奥田小学校が設立されている。
松本泰造 椎土で医院を開く傍ら、教育にも従事した。漢籍も教え、後に押川小学校教員に就任した。
八幡神社 八幡の神職嵯峨家は教育にも尽力し、百塚、十人程草島村、寒江村本郷 大塚 中沖野田等周辺の村々から多くの寺子が通って来た。漢籍も交え授業内容は高度に及んだそうである。定賢(定肩)の代に役割を終えた。内山家とは伝説を共有している。
 定賢(定肩)は初め慶肩と名乗り、父慶明から神典を学び、富山の島林家(後に藩医となる文吾か)で儒学と書法を学ぶ。文政五年に父の後を継ぎ従五位下・陸奥守、明治六年七月二十五日に七十五歳で没。子息慶賢と門弟達で、明治二十八年一月に碑を建立した。
若林常猛(天保十四年〜明治四十年、号快雪) 代々富山藩の御細工人組象眼彫七々子方を務め、十人扶持銀二枚を受ける宇兵衛の次男として生まれた。岡田呉陽に学んだ後、江戸で日下部鳴鶴(大正十一年十一月二十七日没)に師事する。柔術も能くした。文久三年二十一歳の時に新保村福居へ移り、寺子屋を開く。明治十年より三年間大久保小学校で校長に就任し、十六年岡田呉陽の後任として師範学校の書道教授になり、富山中学校教諭を兼任した。十九年大阪府師範学校に転じ、二十一年四十六歳で東京の華族女学校教授に任じられる。二十年間奉職した後に麹町平河町に居を構え、岩崎小弥太の美術顧問をしている。五十五歳の時に建てられた顕彰碑が富山太郎丸土宮神社にある。
八、上市町
●特色
 立山町と一体で、師匠も出張している。現在上市町に残されている寺子屋所蔵書から、漢籍には四書五経 小学 孝経 古文真宝 十八史略 文章規範唐詩選 日本外史 日本政記 国史略 唐宋八家文 三体詩近思録などを用い、算学では塵劫記が一般的に使われていたことが分かる。ここから相当な学習段階に到達した子弟が上市にいた事を見て取れる。また常福寺境内には「上市寺子屋由来の碑」がある。
●師匠の略歴
池田嘉市郎(号静斉) 山本源三に学び、師匠没後に碑を建てている。寺子屋を開いて教育に従事し、明治五年まで続けた。子息松次郎(明治八年〜昭和三十二年)は三十年に父の名を襲名し、陸軍第九師団の郷土部隊を支援し続けた。
亀谷家 静観(天明五年〜嘉永二年、号楽子)は医者で漢籍に通じていた。弘化二年に同志二十三人と医術研鑽を目的に立本社を組織した。
その長子が良山(文化十二年〜明治十四年、号雲岫)で、医者を継ぐ。諸国を巡り医術を高め、漢学を学ぶ。帰郷後に開塾した。
 子息の龍二(嘉永六年〜昭和十五年一月二十七日、号寛、守拙、三杉道人)は富山で岡田呉陽に師事し、十八歳で代師範を務めた。昌平黌で三年間川田甕に就き、蘭医術と漢学を考究する。病を得て帰郷し、無料施薬を行う傍ら教育に努めた。学制頒布後には一旦父と私立小学校を設立し、興文小学校と合わせて自邸二階に女子部を置き、初代校長に就任した。その後公園脇に漢学塾研精書院を開き、亡くなる前日も門人に、作詩は平易に万人に判りやすいのを上とする、と教示していた。各宗の経典を通読して、文字に関する起源や歴史に通暁し、著書には『守拙存稿』『越中古今詩鈔』『漢学諸派考』や医学書がある。伯父秀栄(天明七年〜弘化三年三月十四日、号雅仏)は高野山で修業し、文政十年十二月十一日修禅院主、天保二年二月二十七日僧福院主になった。
郷田繁治(弘化三年〜慶応三年九月一日) 父は右衛門で長男。八歳で萩中宗貞に学び、十一歳の時には藩から賞せられた。十七歳で塾を開き門弟数十人を抱えるが、二十一歳の若さで没した。明治二十九年四月碑が建てられている。
高峰守斉(天保八年〜明治三十八年) 弓庄舘村で漢法医として医療に従事する傍ら寺子屋を開き、珠算も教えた。寺子は立山町東谷からも通っている。学制頒布後に自邸を弓庄舘小学校とした。十七年碑が白岩川畔近くに建てられる。
谷口静一(安政四年〜明治二十六年) 父は利田村鉾木の出で、十村結城家の手代を務めた。子息静一も手代を継ぐが、ばんどり騒動や廃藩に遭遇する。教育にも従事し、明治二十二年六月音杉村村長に選ばれたが、任期中に没している。
萩中宗貞(文化十三年〜明治六年) 新屋の萩中喜右衛門の子息に生まれ、二十五歳で分家し、三十歳の時に医院と寺子屋を開く。五百人程の門弟がいた。
春山一覚(天保十五年〜大正六年) 大岩山日石寺十四世住職春山一覚は水戸田の生まれで、養子に入った。不幸な子供十数人を弟子として養育し、明治に入ると行者窟を設けた。詩文や書を能くし、立山町の日置寺へ出向き、教育に従事している。
広田家 文城は漢法医として村の医療に努める傍ら、教育にも従事していた。子息智眼が医院と寺子屋を引き継いでいる。
藤田作(嘉永五年〜明治四十一年六月八日) 湯神子に生まれ、父の作左衛門(文政七年〜明治二十五年)は村の発展に尽くした功労者。作も立山町の日置寺へ出張し教育に当たった。明治六年自邸に興原小学校を設立し、教員に就任する。西南の役が勃発すると西郷軍参陣を図ったが遅参し果たせず、落人の話から触発され、自由民権への関心を深めた。十三年学校を従弟の作隆に委ね、石川県議会議員、二十二年白萩村村長、二十九年上新川郡会議員に選ばれる。頌徳碑は父と伴にある。子息義為(明治十一年〜昭和十二年)も大正三年から約二十年村長を務め、昭和二年に県会議員に選出された。
本覚院 前身は真宗古刹真興寺で、住職花崗天龍が寺子屋を開く。明治五年堂宇を黒川小学校(恭倹小学校)とした。門弟により碑が建てられている。
桝田喜七郎(号楽園) 祖は松倉野の升田村から万治頃に柿沢村へ移住した。寛保以来肝煎を務め、十六代目喜三八は文化年間に金沢城二ノ丸火災の際に私財数百金を献じた。喜七郎は嘉永四年三月十二日に柿沢村野崎達の次男として生まれ、喜三八の養子に入る。富山で岡田呉陽に学び、村民子弟の教育にも従事した。明治八年以降戸長や郡会議員などを歴任している。長男は実家野崎家に入り、次男諧太郎(明治七年〜昭和九年)は四十二年から大正七年柿沢村村長、翌年県会議員。三男隆(明治九年〜昭和二十五年)は二十二年六月舘村上田家へ入り、三十二年四月柿沢村村長、三十六年十一月郡会議員に選任されている。
増田与三左衛門 横腰弓庄村で天保の頃に寺子屋を開いた。文久三年に没すると、門弟は「いろは唯因法」の文字を文覚に依頼して碑を建てた。
山田玄東 地域医療に従事しながら寺子屋を開く。漢学にも通じ、上級者には四書五経や文選の素読を行った。門弟には明光寺住職行照がいる。子息玄隆や孫の新川も文人であった。
山本家 源蔵(号芳信)は寺子屋を開いて住民子弟の教育に尽力し、子息は源蔵の名を嗣ぎ寺子屋を継承した。明治十三年まで続けている。
結城豊次 本家の祖は白河結城(現福島県)城主結城祐広で、南朝の忠臣である。帰農して以後七代目惣右衛門は、寛政五年に福田村(立山町)に移り十村に任じられる。その弟小右衛門が神田村へ分家して、長男が豊次である。安永七年に生まれ、天保二年に新田才許役、同十三年弓ノ庄組(弘化四年に平十村になったとする本もある)、嘉永二年御扶持人十村並 島組才許、翌年弓ノ庄組才許と進み、ついに御扶持人十村へ昇格した。村民子弟の教育には天保の頃(文化文政期とする本もある)より当たっている。塾名を真理舎と名付けた。金沢城南日堅の筆で碑が建てられている。子息の甚助は天保から嘉永にかけて山廻役と弓ノ庄 島両組当分才許を兼ね、安政三年平十村に就任し、明治二年まで弓ノ庄組才許を務めた。孫の杢は石川県会議員である。
吉田観竜 外村や山回り役を務めた吉田家の系列。明示六年に徳隆小学校を置く。
若林一萬 天保五年に生まれ、漢方医療に従事しつつ、寺子屋を開いて住民教育にも尽力した。
九、立山町
●特色
 この地域では各地で寺子屋教育が熱心に展開され、特に明治以降急増する。夜学しかなかった東谷村等でも富山の臨池居へ通う者がいた。
また七夕行事が盛大に行われ、五百石では近辺の村々の寺子屋から寺子が集まり、清書を展示し優劣を争う「字かけ」をした。
寺田では他の寺子屋の寺子と出会うと問答比べを行い、勝った方は負けた方の短冊を折り取った。女児は寺田の今村ツネ等のお針屋に通っている。なお寺子屋や寺子屋師匠は学制頒布以後、小学校とその教師に移行する例が多かった。また嘉永生まれの寺田村金岡権吉は能筆で算術にも優れ、役所に勤めている。
●師匠の略歴
石原兵作 大窪で生まれ、富山の岡田栗園に学んだ。村の教育に尽力するが、明治五年新川県教育所に入学し、翌年前沢盛徳小学校分校盛徳学校(後の廣敬小学校)を自邸に開いた。
大畑家 上段宮村(現上宮)で宝暦頃に理右衛門が開塾する。これを文政の頃に権六が継承した。寺子は福田 上中 石坂以南の上段方面 上金剛寺 下金剛寺 末野田 米道 寺坪 末谷口下田等、広範囲から通った。
岡本六右衛門 栃津村に居住し、下田で開塾し通勤した。
翁家 六郎谷翁宗家で、祖翁少の裔中村四郎三郎等は越後に居し、上杉軍の越中攻略で移住する。代々が医者久右衛門や久左衛門を襲名し、村人からは「オモテの家」「久左衛門どん」と呼ばれていた。久右衛門は上市の医者萩中家から養子に入り、その後寺子屋を開いた。夜学を開いていたという史料もある。子息の源指(文久三年〜昭和四年十二月二十九日、号泰生庵)は五歳で父の生家萩中家の宗貞に学び、漢学者の五島文栄から薫陶を得た。伯父大野玄格に漢方医術を教わる。十四歳で一通りの修業を卒え、十七歳の時に内務省から漢方医免許を受けた。同時に父の寺子屋を継承しているが、維新以後は医業に専念していたようである。性格は謹厳で、近在からは「山神様」と呼ばれていた。次男は作家の久允(明治二十一年〜昭和四十八年二月十四日)で、五歳の時に父から大学や論語を教わっている。 
北村伝吉(天保四年七月〜明治四十一年七月、号梅坡、画号勝山) 大森蔵本新の北村家十一代当主。京で狩野勝山に入門し絵画を学ぶ。帰郷後に肝煎に就任しつつ寺子屋を開いて、住民子弟の教育に尽くした。明治二十三年六月に碑が建てられている。「壇の浦合戦の六曲屏風」等の画があり、富山の画家木村立嶽とも交遊した。碑が西大森大橋にある。
窪美家 高野東野で安政の頃に養鼎が開塾する。その後明治六年まで、昌保(号凹凸庵、嘉永六年〜大正七年)、滝治と受け継がれ、住民子弟の教育に貢献している。後年碑が建てられた。昌保は東大医科を卒業して総曲輪に開院する。史学研究や蜃気楼の文献を集めたことでも知られる。
金剛寺 下段金剛寺住職長谷川嶂雲は、この地で唯一寺子屋を開き、教育に尽力した。下段では東部が満法寺、西部は五百石や大森村、北部が沢新の村崎勇三郎へ通っていた。
佐伯家 岩峅寺の佐伯志津摩は、文久の頃に道痴の寺子屋を復興した。教科書には仮名 名頭 銭日記 米日記 村名盡 消息往来 商売往来、更に上級者に四書五経左伝等を用いた。珠算も教授している。寺子は宮路 栃津 中野からも通い、だいたい十二三歳から二十歳までが学んでいた。元治元年からは岩見が継承し、明治五年まで教育に当たった。三年には碑が建てられている。雄山神社前の旧明星坊に二十七年二月知白翁の「筆魂祠」が建てられる。この人物については何も記録が無く、明星坊か志津摩の号であると考えられている。六年九月二十九日佐伯敬治邸に小学校を設立した。
酒井周斉 五百石松本開で開塾する。仮名文字 数字 苗字盡 名頭 国盡庭訓往来等を教科書に用い、油断している寺子へは鞭で打ったが、この厳しさが父母から好評であった。明治五年に松本小学校を自邸に設け、十九年に松本致遠小学校が出来るまで教育に携わった。二十年に没し、天満宮境内に碑が建てられる。
種徳小学校 寺田極楽寺で明治六年十月に林宗七邸に種徳小学校を設立すると、林幹(嘉永〜明治、寺田村在住)、原恒順(明治二十年四月一日から寺田小学校長、三郷の寺子屋師匠で医者原恒意との関係は不明)、今村ツネ、深見安次郎、越田辰次郎、池田巌が教員に就任している。
白井関兵衛 日中で教え、記徳碑が建てられている。徳右衛門と記された本もある。
信行寺 西大森の信行寺住職元智令厳は寺子屋を開き、明治五年まで継続する。その後堂宇で格知小学校(大森小学校)が創立した。
善入寺 釜ケ渕米道の善入寺十世住職龍雲は、藩政末に寺子屋を開き、明治初年まで継続した。
道痴 天保の頃に開塾する。漢学に通じ、能筆で知られ、岩峅寺で八 九年間教えた。
中邨主一 釜ケ渕野村で寺子屋を開く。「中邨主一翁先生碑」が建てられている。
野島平三郎 藩政後期に大森村で寺子屋を開く。次男の喜兵衛(嘉永二年一月生まれ)は西芦原の農事改良に努力している。
日水芳郎 利田塚越で開塾する。後年碑が建てられた。
日置寺 日中の日置寺では寺子屋師匠や知識人を招き、長年地域教育に当たっていた。日中 柴山 日中上野 福田 上中 石坂 女川新 上市町赤木 大塚新 中村新野徳新から通学し、大畑理右衛門と権六 平野徳輪 春山一覚 酒井憲三 塩野元達稲垣兼太郎 浅井昌博 藤田作 久田錬兵衛 西田作平杉谷専之丞といった師匠が協力した。萩中ツネは女児教育を担当し、後に種徳小学校で教えている。杉谷専之丞は明治六年十月十日宮村小学校長に就任した。春山一覚 酒井憲三 塩野元達は日中小学校教員になった。上中の西田作平は明治十九年コレラで亡くなり、願船寺に参光碑が建てられた。
平井重右衛門 高野江崎新で開塾する。子弟関係もよく、能筆であったようで、明治十五年に追善碑と広山筆塚が建てられた。
藤田謹之新(別名政次郎、号玉鼎斉) 和田曾我(石田)で開塾し、村の教育に尽くした。後年碑が建てられた。
前沢盛徳小学校 菰原の泉清兵衛、道新の野島周蔵、草島の相原頼温は各自で寺子屋を開いていたが、小学校の設立に協力し合い、前沢盛徳小学校を創設する。野島周蔵は慶応元年に碑が建てられている。門下に漢詩人橘有鄰(慶応元年九月一日〜昭和十一年五月七日、号詩竹)がいて、明治五年から七年に学んでいる。そこから小学校設立後も寺子屋が継続されていたことが分かる。
松井温山 寺田新で住民子弟の教育に尽くし、碑が建てられている。
松尾甚兵衛 東谷四谷尾の医者で、夜学を開いて初等教育に努める。後に碑が建てられた。
松本小学校 松本の菅野深證と外沢端新の藤木養堂は小学校設立に尽力し、松本小学校を酒井周斉の塾に置くことに漕ぎ着けた。藤木養堂はここで教えている。
満法寺 上段上宮の満法寺住職平野観龍は嘉永の頃に寺子屋を開き、それを徳輪が受け継ぎ、明治五年まで教育を続けた。寺子は下段東部からも通って来た。六年十月十日堂宇を小学校に提供する(九月の記録もある)。
村崎勇三(号一茶) 高野沢新の医者であり、村の教育にも尽力した。下段北部からも寺子が通って来た。後年碑が建てられている。
十、舟橋村
●特色
 農事で多忙な地域であり、二軒が残された碑により確認できるだけであるが、門弟は多かったようであり、幼年から青年に至るまで教育している。
●師匠の略歴
稲田六三郎(文化七年一月〜明治十七年十一月) 竹内村に生まれ、父は与七郎。初め竹雄徳右衛門を名乗り、後に六三郎と改めた。農業の合間に書物などで学び、やがて住民子弟に教えるようになった。算術を能くし、加賀藩から肝煎役に任じられ、新川郡の測量方に就任する。安政五年二月の大地震で常願寺川の堤が決壊した事を憂い、高原野と末三箇野を耕すことで今後の災いを除いた。この功で藩から白銀若干をもって賞せられている。明治二年のばんどり騒動では、十村朽木家の手代として一揆勢と対峙した。明治六年地租改正に尽力し、測量方として門弟数十人を率い田畑を測った。二十一年十月に碑が建てられ顕彰されている。
十一、滑川市
●特色
 町人文化が成熟していた町であり、享保以降は売薬業も盛んになったことも関係してか、寺子屋が以
前から多く設けられていて、町役人は元和(一六一五〜一六二四)の頃より教育に携わっていた。
●師匠の略歴
今尾屋重助 規模の大きな寺子屋を営み、仮名文字 数字を覚えさせた後、十干十二支 村附 宿附 商売往来 国盡 消息往来 状之文 実語教 辧状庭訓往来で学ばせた。女児には女大学を用いている。毎月二十五日には些少の蝋燭料で天神講の行事をし、菅公の肖像に礼拝した。また三月二十五日に北野村天満宮へ参詣する日と決まっていた。
大掛屋三郎右衛門 武士であったが元和の頃町人に転じ、町役人として町の発展に尽くした。寺子屋教育はその一環であろう。
四歩一屋 元武士本藤喜左衛門は天正慶長頃台網場を開発し、四歩一屋の祖となった。寛文二年二代四郎兵衛が蔵宿となり、宿肝煎に就任する。元和六年喜左衛門法西(小兵衛)は浦方肝煎に就いた。甚左衛門は元禄の頃に寺子屋を開いている。
長泉寺 天台宗寺門派長泉寺八世義勝(字仙應)は経書を研究し、儒学に造詣が深かった。明治六年に『論語詳細』を著す。九世義行(字惟孝)は寺子屋を開き、町の教育に尽力した。十世義成(字周應)は医者になり、教員にも就任した。明治十一年開達小学校の女児分校が置かれた。
成瀬伊左衛門 屋号は市江屋。寺子屋を開き、学制頒布の後も明治三十七八年頃まで未就学児童を自塾に集め、手習いを継続していた。没後には大態善吉が継承し、大正に入っても字や珠算を草廬で教えていた。
十二、黒部市
旧黒部市域
●特色
 句会が開かれ、各村で識者が教育にあたった。不自然ではあるが、八心大市比古神社桜井家以外に寺社の開塾が確認できない。
●師匠の略歴
車屋吉右衛門 祖は石田館の館主である。生地で慶応年間に百名程を教えた。
峯村家 三日市で十村神保氏の手代をしていた長次郎(号蘭甫)は俳人であり、俳句額を牧野神明宮に奉納している。御家流の書を能くし、天保の頃に寺子屋を開く。仮名を覚えさせたら名頭 村名宿名 国盡 商売往来 寺子屋教訓書 農業往来 消息往来 実語教 童子教 日用状の文 庭訓往来 今川教訓書 義経腰越状楠教訓書等を用いて教えた。ただし中等以下は消息往来までであり、上級者へは読方を口授していた。帳番横目の役を設けて下級生を教えさせたので、百六十人もの寺子を抱えることが出来た。在籍年数は三年程であったという。子息長次郎が継承し、四・五十人程を教えている。
山原松兵衛 天保の頃に萩生村八幡宮近くで開塾する。明治十年十月二十四日に没したが、十六年五月に筆塚が建てられた。
旧宇奈月町域
●特色
 農事に多忙で人口も少なく、この地域独自の寺子屋は無かった。学制頒布後に住民の手で夜学が開かれている。
●師匠の略歴
夜学 明治六年浦山の善巧寺を使用し、住民子弟のため夜学が開かれた。翌年に願蓮寺に移り、生徒呼び寄せ人足十人を九銭の手当てで雇い、農業の手伝いを終えた児童を呼びに回ったそうである。
十三、魚津市
●特色
 魚津町は魚津郡代(在住)と町奉行所が置かれた町であり、それゆえ寺子屋師匠に足軽身分が多い点は他地域と異なるところであった。女児の寺子屋通いも特別なことではなかった。
 『魚津町誌』によると、以呂波(平仮名)や片仮名を覚えて日記に入り、名頭 町村名 宿名 国盡 物産往来 商売消息往来などに移って、書簡文回章を習熟させた。女児には女大学や女今川を用いている。春秋の束修は上等が八百疋 中等が二朱 下等が一朱程であった。
●師匠の略歴
伊藤刑部 祖は奥州武士で、島尻村に定住する。藩政初期に十村肝煎を務め、代々刑部を襲名する。三代目は三ヶ国十村頭、四 五代平三郎は無組御扶持人、六代平右衛門は享保九年御扶持人大布施組才許であるが、七代目は病気がちで衰微した。八代目刑部は寛政二年に高岡蓮花寺村等五十石を拝領し、山廻役、九代目刑部左衛門は天保の頃、十代目刑部は弘化から明治まで山廻役に就任している。寺子屋を開いたのはこの十代目と考えられる。明治六年十一月嶋尻小学校を自邸に創立し、首座教員に就任する。その後片貝谷村長に選ばれた。
加藤家 魚津町大字十人町(現東小路)の足軽。常右衛門が開塾し、弘化から嘉永にかけ常之丞が継承した。
加藤家 十人町の足軽。市右衛門は金沢加賀藩士早田儀左衛門より書を学び、土師流を得意とした。文政頃に開塾し、算盤も教える。男児百十名女児二十名程が通っていた。嘉永頃に養子の准八郎が継承し、男児百十名 女児十五名程が通っている。
小塚数右衛門 四十人町(現紺屋町)の足軽で魚津郡代役所付下士兼捕亡係。八・九歳頃に加藤市右衛門に学び、その後二十年間金沢で原勘右衛門、富山で恒川泰蔵に師事した。弘化元年開塾し、算盤も教える。男児百名女児三十名が通った。謡曲も手本を書いて教示した。学制頒布後、魚津明理小学校で習字を教え、二十一年二月十八日八十歳で没した。
佐々木徳右エ門 東布施村五ケ村には寺子屋が無く、明治五年に村々で協議し、村の有力者で書に優れた現布施爪の佐々木徳右エ門に頼み、自宅で寺子屋を開いてもらった。翌年そのまま釈迦堂小学校に移行した(大石九左衛門邸に創立したと書いてある史料もある)。
沢田家 十人町の足軽である。書家として名を知られていた六左衛門が天明八年に開塾すると、男児七十名女児六十名程が通い、算盤も練習した。長子栄左衛門は父に学び、天保頃に塾を再興している。男児七十名女児五十名程が通い、戸島吉太夫や吉田与三右衛門もその中にいた。
椎名三郎 祖父は十二貫野等山野開削の名手道三、父は新田裁許を勤めた孫市。明治三年早月川筋堤防調役、同五年新川県第四大区小四区戸長、同七年第六大区副区長等を歴任した。子息敬太郎は足尾銅山で病没。
高田従兵衛 十人町の足軽。臼井源右衛門(金沢加賀藩士で歌人 臼井長左衛門憲成の関係か)に学び、弘化の頃に寺子屋を開く。算盤も教えた。
山越弥次右エ門 島尻で寺子屋を開き、村の教育に尽力した。碑が建てられている。
十四、朝日町
●特色
 新開地もあって明治前後に急増し、村盡や消息往来等を用いて書くことを中心に教えていた。従って読みや算盤は軽
視されていたようである。
●師匠の略歴
松林寺 泊の曹洞宗松林寺住職大円は寺子屋を開く。楠公父子の事績を称賛していた。師匠の影響を受けた門弟に上町綿屋の加藤屋次郎兵衛子息謙次郎がいる。十七歳で江戸へ行き歴史を学んで、大和国十津川の文武館で尊王論を講じていたが、幕府の追求を受け、三十六歳で自刃した。
高田硯安 大家庄村で医業の傍ら教育し、明治六年自邸に小学校を置いた。
十五、入善町
●特色
 他から移住して独創的な教育を実践した師匠により、村民は強く影響されたようである。寺子屋が次々に興され、村に教育が広まった。脇坂家などに残された教科書には、いろは手本 書上手本はもとより、三体広千字文 世話千字文 寺子読書千字文 国盡 本朝三字教 庭訓往来 商売往来 自遣往来 消息往来実語教 単語篇、上級者向けの論語 本能寺合戦 傷寒訳通主方 妙薬奇覧などがある。
●師匠の略歴
一瓢(演暢) 氷見の寺院で次男として生まれ、京で易行院法海(明和五年〜天保五年八月七日)に学ぶ。その後舟見に移り寺子屋を開いた。雲雀山念興寺に住み、一室の弘誓庵を教室に三十余年の間教育に尽くした。門弟には脇坂長蔵と孝平(師の百回忌法要祭文で門弟代表)、藤川五郎平(五郎兵衛)、坂本玄仙、道増源兵衛等がいる。天保八年八月八十余歳で没した。
善称寺 伝えによると寺子屋は開いていたが、文久二年の火事で文書類は残っていない。明治六年六月四十番小学校を堂宇に創設した。
中塚長助 天保末期に青木から道増源兵衛の塾に学び、氷見で覚えた蓑作りの方法を師匠と地元住民へ伝える。これがこの地方の冬の副業になったそうである。ある日蓑を売りに魚津へ行った折り、川宗紙店で紙を求めた所、あまりに見苦しい身なりのため店員に嘲られ、千字文を読んでみるよう言われたので、朗々と読んでみせた。すると高位の役人が民情視察に来たと思った店主が、礼服を着用し三方に白紙を乗せて平身低頭で非礼を詫びたという。学制頒布後も教育はやめず、門弟は寄付金を募り新屋を建て、謹んで師に贈った。
明治九年春病気で伏せ、門弟一同は急ぎ三月頌徳碑を竣工すると、九月に没する。県会議員川瀬八郎、医者滝本久兵衛、村長本多清次郎、で滝本助造はここで学んでいる。
道増源兵衛 飯野道古の農家に生まれる。九歳で上原の正覚寺住職光林に学び、後舟見の一瓢に師事した。師の一瓢を馬に乗せ、三里程の道を和漢古今の書や経世理財について調査し、妻帯の後も農閑期に舟見を訪れては、師に学んでいたそうである。寺子は入善各地 村椿からも通学し、源兵衛も意気投合すると、寺子各人の特性を生かした指導をした。恬淡清廉の人で、家屋敷を売り払って物置小屋に住んでいた。御影石の筆塚が残っている。
脇坂長蔵 祖は近江国浅井郡脇坂の出で、太郎右衛門安貞。新田才許 山廻役脇坂家の分家で、自身も天保十年より山廻を務めた。一瓢に学び、舟見で住民子弟の教育に従事した。

※未確認の寺子屋
 昭和五十六年に前田英雄・布村徹両氏が文献調査している(『富山県の教育史』)が、今ここでは原典に当たれたもの、裏付けが取れたもの、複数の文献に取り上げられているものを原則所載したため、先の調査結果と若干異なっている。そこで今後の参考として未確認のものを記しておく。なお誤記と思われるものは除外してある。( )内は拙者の調査。
 入善町 青木 浄慶寺(開祖新蔵は石山合戦に功があるが、本寺准如に従わず裏方教如に心を寄せたため慶長二年七月斬首となった。寺には寺子屋開設についての伝承はない。明治六年六月第四十番小学校を善称寺と分置した)
 同 古谷津右衛門(明治六年六月から七年八月まで入善小学校の雇教員となる)
 同 田原(現在町内にこの姓はないが、古文書では確認できる)
 滑川 本町 上野屋時次郎(上野與三郎や元禄年中に蔵宿を務めた上野屋仁左衛門、宝永から享保にかけ組合頭を務めた上野屋宗四郎と何らかの関係があるかも) 
 富山市 今泉 ? (十村斎藤家は今泉城に入った織田方の将斎藤新五の末裔で、真言宗泉花寺の開基)
 同 布瀬 ? (御扶持人十村高安家は橘諸兄の末裔で、二代目は楠木正成の孫。本願寺派順正寺がある)
 同 草島 誓乗寺(この寺名はない。草島は加賀藩領新川郡と富山藩婦負郡が混在し鎮守も共有する。大谷派西元寺がある)
 上市町 柿沢 吉田観龍(明治六年自宅に徳隆小学校を創設し、校長に就任する)
立山町 谷口 和田喜兵(天保十三年八月東谷村谷口に生まれ、明治三十一年一月から三十七年一月まで東谷村長を務める。紫雲英の栽培と植樹を行った。大正七年七月没)
 同 日中 鳥居三右衛門 明治四〜六年(現在の鳥居家に寺子屋師匠であった伝えはない)
 八尾町 三田 佐藤嘉四郎 明治五〜六年(保内村で村会・郡会・県会議員や村長を歴任した佐藤元五郎[明治二年〜昭和十二年]の縁戚か) 
 細入村 猪谷地蔵堂(橋本家のことか)
 小矢部市中央町 長福寺(十四世恵月は既述。寺に寺子屋開設の伝承はない)
 福岡町 土屋 小山素軒(十村を務めたこともある素封家。現高岡石堤長光寺十七世東林との付き合いが深く、手習手本が残っているが、自身或いは自家の練習用なのか門弟用であるのかは判らない)
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第四章 寺子屋の師匠〜砺波・射水

一、砺波市
旧砺波市域
●特色
 砺波郡の中心地で、寺院 神社 医者、その他多くは役付 有力者が従事した。重点を置いたのは習字であり、平仮名 片仮名 数字の他に教科書には十干十二支 村盡 往来物 千字文を用い、上級者の素読には実語教や四書等を使用していた。俳句や歌なども盛んであった。明治六年頃にはすでに簡易小学校があったことを確認できる(太田村入道忠兵衛、北般若村林太郎右衛門など)。
●師匠の略歴
上田謙斉 名は仁十郎。祖泉(現礪波市)出身で、医者の修業をする。五鹿屋荒高屋に移り、小幡増水と協力して上流家庭の子弟に小学や四書五経を用いて素読までを教えた。
遠藤喜三郎 神島で開塾する。明治維新以後副戸長を務める。学制頒布の際、節文小学校の教員となった。
小倉孫左衛門 祖は石山本願寺の門徒として天正の頃活躍し、その後は不動島を開き小倉の土居に住んだ。孫左衛門は金沢で漢学を学び、天保の頃に鷹栖で四書五経までを教えた。天保十四年に碑が建てられる。
小倉定見 長崎で清国人から眼科術を学び、帰郷後に鷹栖で開院する。文政頃より教育にも携わった。建てられた塚には「花に暮れてしばしば花の明かな」とある。
小野惣二 太郎丸で組合頭を務めながら、教育に従事する。後に門弟は筆塚を建てた。
小幡増右衛門 余西佐久平に師事し、五鹿屋荒高屋で十一月初旬から三月二十五日までの農閑期に教えた。ヒバ地蔵堂に碑が建てられた。
小幡増水 天保四年生まれで、父は小幡増右衛門。上田謙斉と共に漢籍までを教えた。
小幡宗平 嘉永六年に生まれ、五鹿屋荒高屋で明治三 四年頃農閑期に二年間教えた。
柏樹三郎右衛門(籌山義運) 文化元年生まれ、五鹿屋荒高屋で中流以下の村民子弟が通った。明治二十八年に没。十二年三月碑が建てられている。
金子宗右衛門(文政三年〜明治十九年八月十五日、号露仙) 金子家は古くからの土豪で、藩政期五代目と六代目は十村に任じられた。十五代目宗右衛門の次男として生まれた半兵衛は六歳で父を喪い、二年後親戚の安念安兵衛(号雪江)弟が入婿して十六代目を継ぐ。天保四年に兄半次郎が没し、家を継ぐ立場になった(後年十七代目宗右衛門を襲名)。弘化三年十村島助九郎より村組合頭に任じられ、明治十年まで務めた。その後は村会議員に選ばれ、十八年まで治水 コレラ対策 検地等に奔走した。旅を好み、近畿 江戸 四国等を周遊する。俳諧集も出した。学制頒布まで村民教育にも尽力し、五年には学務委員になって太田郁文小学校の創設に努力する。
河合三介 東野尻野村島で開塾する。明治九年東島に碑が建てられた。
河合多母津 神島で代々神職を勤める家で、国学者で能書家でもある。漢方医でもあった。寺子は林や鷹栖出から通学している。
川田七四郎 新明村に開塾した。野村島の河合頼定(安政五年〜大正十三年)は五歳で入門し、後に医者になっている。明治に入って筆塚が作られている。
厳照寺 栴檀野福岡厳照寺住職西脇興顕は教育にも尽力し、明治十九年七月碑が建てられている。
清原庄兵衛 初代は弘治二年に新明へ移住し開拓する。子孫は肝煎を務めた。碑がある。
小鍛健斎 藩政後期に開塾する。嘉永元年に碑が立てられた。
西慶寺 般若頼成にあり教育にも尽力する。明治十五年五月に門弟により建てられた「善永先生之碑」がある。
斉藤宗庵 祖は小矢部の福住村から移住して福泉屋と称す。柳瀬新で代々医者を務めた。祖父宗玄は天保七年五月十六日華岡青洲の大坂分塾合水堂に入門している。宗庵も医者で、教育にも貢献した。大正七年六月に碑が建てられる。
佐藤家 佐藤喜右衛門は出町で組合頭を務めつつ、教育にも携わった。子息喜三治が継ぐ。
真行寺 江波で代々寺子屋を開いたという。維新前後には寺中の朝日新左衛門家屋を補修して使用し、明治十年には矢部村境の隆文小学校を移した。
佐伯円次右衛門 東宮森で医者をしながら寺子屋を開いていた。地蔵堂境内に碑があり、藩政末から開いていたとの伝えがあるが、医者を継いだ子の秀作が苗加村の河辺正三(陸軍大将)従姉妹を妻にしたということからすれば、実際は明治前半から中期のことであろう。
杉下碧(天保二〜明治三十八年) 日詰の杉下家四代目で、文久元年半雪居、野鶴に入門し、明治元年に俳号青嵐を授かる。後に掃月庵西蘭と号した。俳諧宗匠であるとともに、漢学や蘭学(医薬)を修め、小学校教員を務めた。水島でも開塾したとある。
専念寺 八世平野順照(元文二年〜文政三年九月十八日、号雄水)は清廉かつ謹厳で知られ、五男でありながら継承した空月(天明四年〜天保十年十二月四日、号蟻術庵)は父に学び、仏教を講じた。一方で瑞泉寺からの講演依頼は断っている。庫裏前に草庵を設け、御堂廊下に本願寺雲華(豊前の人)筆の蟻術庵と書いた大額を掲げた。唐金屋雪幸もここに来て句会を開いている。十一世玄照(文政十年〜明治二十七年十一月四日、名一画、号東華)は幼年より詩を能くし、能筆で知られていた。蟻術庵を用いて寺子教育に努めた。まず自筆手本で変体仮名等の仮名 数字から入り、十干十二支 村盡 千字文 百姓往来 四書五経へと発展させた。また行 草書を基本とし、楷書は上級者が練習した。珠算は置算や八算見九の加減乗除を習熟させた後、土地丈量等の実践的なものから開平 開立まで教えた。経蔵を建築し、本堂を広げ、土蔵の傍らに茶室を設けた。華厳に精しく、本山より三度賞せられ、越中総代組長になる。教校係兼教授、高岡教校に教鞭を執り、その後は自坊で僧侶を教育している。八世以降の住職を記した「招喚坊雄公之碑」を建立し、業績を讃えている。明治五年五月に新川県庁に家塾設立願いを提出し、僧侶の存在意義を習字・読書・文明の風俗を教え、人材を育成することにあると記している。
善兵衛 苗字は出分で、二代目善兵衛より三代が師匠を務めた。三代目は庄下高道の熱心な真宗信者で「阿弥陀の善兵衛」と呼ばれた。幼年時父に就き、また母の実家が三谷(庄川)にあるため西蓮寺でも学んだ。文政年間に家庭生活の心得書を著し、仏教を通じた修身を説いた。安政六年に没する。四代目は組合頭 肝煎、維新後は組合長 副戸長 戸長と進み、明治十二年二月には矢木村外七ヵ村を束ねる戸長役場で用係に就任した。明治十五年七月十三日に没した。
宗八 藩政末期に庄下大門で開塾する。正行寺裏に碑がある。
高畠文伯 出町の医者。能書家として知られ、読み書きを教えた。文吾と記した本もある。京で医術を学び、新中町で嘉永から明治二十年頃まで開院する。御郡所御牢舎医師を務めた。俳句も能くし、号は巨渕である。養孫文太郎は井波税務署に勤務した。
中居三郎 天保六年に生まれ、二十四歳の時に五鹿屋五郎丸で、一月初旬から三月下旬の農閑期を利用し、七年間教えた。
藤井四右衛門 中野で開塾する。後に村長。明治十二年五月碑「正心明」が建てられている。藤井家の祖小右衛門は福光宗守城主で、永禄六年上杉軍により落城の後家臣の畑仁右衛門、横山長次郎、清原甚右衛門、飯田忠右衛門、今井兵助、高松八兵衛とともに移住し、中野村を開いたとも伝えられている。
藤井長太郎 安政六年八月二日生まれ。中野の藤井家一門で醸造業を家業とし、四右衛門に学ぶ。後に村会議員、村長、県会議員などを歴任した。
松田快禅(嘉永四年〜昭和十七年七月十五日) 芹谷千光寺で修業し、河合平三に漢学を学ぶ。壮年時歩行が困難になり寺を辞すが、請われるまま開塾すると山田村 金山村 石動町からも通学してきた。自筆教本で手紙文の読解と書写をさせた。千光寺境内山門傍に碑がある。
水野達治(嘉永六年〜明治四十一年) 桃井皐元に八年学び維新後開塾する。入門者の年齢は比較的高かったそうで、筆塚が建立。十八年琢成小一等授業生、二十二年五鹿屋村収入役、三十三年助役就任。
水上理平(文化七年〜明治十八年) 初代は寛永四年に中野村へ来住する。文久元年に山廻裁許になり、庄川・小矢部川支配役に任じられ、十村へ進む。子息の良作は高岡信用金庫頭取。明治三十三年五月に碑が建てられた。
宮崎小左衛門 文化八年に生まれ、通称は十太郎。鹿島で十二月初旬から三月下旬までの農閑期に教えた。寺子は三・四冬で卒業するのが常であった。没後碑が瑞光島で元治元年に建てられた。
桃井光玄(義徳、号皐元) 祖は守護大名の桃井家に連なる。代々野村島の医者であり、皐元も京で医術を学んだ。農閑期に読み書き算術を教える。明治二十年十一月碑が建てられた。
山本氏 栴檀山五谷に生まれ、俗称を小谷家といったが、名は不明。盲人であるにも関わらず、読み書きを指導していた。
吉田和右衛門(文政八年九月二十日〜明治二十年八月十二日) 号は水底庵、、芳樹園、龍石、幼名平吉、父和右衛門の長男に生まれる。金沢で梅室門の大橋卓丈に俳諧を学び、安政五年俳諧集『藁綴』を刊行する。画も能くし、神社に絵馬を奉納した。寺子屋を開くと近隣村々より寺子が通った。多くの句を残し、絵も描き、手品の趣味があったという。改姓して黒田となる。
余西家 五鹿屋五郎丸の余西佐久平が、読み書きを三十二年間教え、その後は子息二人が継続して教えていた。次男佐久平の門弟は、明治十一年五月に師匠の碑を建てている。
旧庄川町域
●特色
 この地域は村役人が識者であり、教育にも従事していた。沖田兵吉、森田助七、その他左に記す師匠の碑が残っていることから、師弟関係の深さが忍ばれる。また師匠役も南部源三郎が隠尾城主の後裔であったり、但田九左衛門の出た但田一族は但馬国但田村の真宗門徒で本願寺の寺侍であり、井波瑞泉寺建立後に警護役と松明役としてやって来た、というように由来のある人物が当たったりしている。
●師匠の略歴
沖田兵吉 青島村上村で二十名程に教える。没後、明治二十七年三月井波町光教寺雄上良伯手蹟で碑が建てられる。
光照寺 東山見の光照寺十八世住職師道は書や詩に秀で、寺子は金屋や青島から通学した。坊内に頌徳碑がある。明治六年八月二十一日堂宇を済南小学校に提供した。弟真利は天井絵や襖絵で有名。
斉藤家 祖は石山合戦で活躍した瑞泉寺支配斉藤刑部の一門で、藩政期に代々青島で十村手代や村役人を務める。藩政後期に治兵衛(号暁臺)は井波町の与五郎(寺子屋か個人的かは不明)に学び、中田町木沢源五郎の手代として金屋岩黒村御用所に勤務する。能書であり寺子屋を開く。冬季の農閑期を利用し集中的に教え、寺子は上村 下村 示野より九十名程が通う。碑が建てられた際の碑文は高岡木町の称徳寺住職による。孫の平治(天保四年六月十六日生まれ、明治四十五年二月に隠居し庸志と改名、号暁峰)が十八代目を継ぎ、三清村武部家の手代を務めながら、寺子屋も継承する。毎年一・二ヶ月ほど帰宅した際に集中して教えた。門弟は明治二十六年八月碑を先代に並べて建てた。碑文は福野町の崎良平による。明治五年第五大区区会所租税方書算役、七年小一区戸長、十八年金屋岩黒村等十四ケ村の戸長、二十二年初代青島村長に選ばれ二十二年間務めた。生花や書画も好み、村で初めてランプを使ったとも伝わる。長男嘉麿と孫の平三も青島村長を務めている。
藤井家 雄神神社神職藤原氏の藤井家は、文化頃六十二代従五位下備中守秀直(安永六年十月相続)の代に教育にも従事し、三十余名を教えた。文政十一年十月十日に没した後は、明治初年まで妻の鈴子と子息幸麿が継続している。門弟は父子塚を建て顕彰した。
二、南砺市
旧福野町域
●特色
 砺波市と同様に、寺社や医者、町 村の有力者が携わることが多い。俳諧が盛んで、能書家を輩出する土地である。寛政の頃に句会が頻繁に行われた。それだけ知識人がいた地域である。
●師匠の略歴
新井伊右衛門 高儀村字御旅屋島で組合頭を務め、教育には安政の頃から携わっていた。明治六年に高儀村学区取締になっている。二十年十月二十二日六十六歳で没すると、二十六年師のため野尻古村用水の辺りに石碑を建てた。
勝田吉兵衛(文化十年〜明治二十年八月三十一日、号竹翁、徳里、明治三年五月吉治と改名) 東山見村金屋で生まれ、二日町村へ移住して十村役菊池家の手代になった。弘化四年十二月御収納米改良の功が認められ、藩から銀十五匁を拝領する。野尻村に移って土師流や御家流の書を能くし、明治三年からは苗加村等でも教育に当たった。明治五年六月砺波郡第十八番大区小二区戸長に就任し、翌年野尻村学区取締になった。子息宇吉郎が塾の様子を語った所によると、手本は四日単位で次の物に進み、清書の評価は紅殻で線を付けて表し、佳良は二本線、次は一本線であった。謝儀は米五升から一斗、正月と盆暮れに豆 小豆 胡麻 餅米二升程、天神講にも少しの包銭があったそうである。
 子息の宇吉郎(嘉永四年十月四日〜明治四十二年十二月五日)は父に就き、その後漢籍を福富春涯に学ぶ。また北宋の文人政治家蘇軾(号東坡)の詩 書から大いに学んだという。文久三年銃卒の訓練を経験し、三年間小隊長を勤めた。その後は十村役手代見習を経て、維新後明治十二年野尻村外十三村戸長役場書記に就任し、翌年学務委員になる。十七年七月に戸長、二十二年十二月十七日より二十年三ヵ月村長として村の発展に尽くした。
河合喜世志 野尻村神職の家に生まれる。天保頃に開塾した。書風は土師流に近く、明治六年十一月から十二年三月まで野尻小学校(八年四月遷喬小に合併、九年三月近思小として分離)教員に就任した。十三年七月邸内に天神堂が建てられ、大正初に石武雄神社境内に改築された。毎年八月十六日に祭祀が継続されている。
河辺次郎左衛門光正(文政九年七月六日〜明治十四年九月二十六日、号雪州) 祖は近江国苗鹿の武士で弘治二年前田利家に属す。永禄四年次郎左衛門が砺波郡に移り、その地を苗加と名付け帰農した。元禄三年苗島村に移って十村石黒組才許になり、以後安永二年まで五代にわたり努めた(寛文七年石高三百七十石)。父は苗加村川辺中蔵で、苗嶋村次郎左衛門尚重の養子になる。富山で漢学を大野 佐伯両家で修学、市河米庵には書を学んだ。寺子屋を開き算盤も教える。門弟は苗島大曲がりに碑を建て師を顕彰した。砺波郡算用聞役、明治三年には五箇山の小谷 利賀両組裁許十村を経験する。
河辺純三 安政三年に生まれ、金沢で竹下塾に漢学と国学を学ぶ。農業の傍ら読み書きを教え、後に教員になった。子息の正三(明治十九年〜昭和四十年)は陸軍大将、第一軍司令官兼航空本部長に就任、虎四郎(明治二十三年〜昭和三十五年)は陸軍中将、参謀次長。インパール作戦に深く関わった。
空泉寺 石田村空泉寺安達家十九世住職弘岸(字之達、号雪嶺)は非凡の才で信望を集め、文化十三年十一月十八日五十八歳で没した。二十世弘西(字思明、号石溪)は十七世智光の系譜で、文政初年に雲龍山(富山別場)の主となり、京で浄土論を説いた。天保六年九月二十七年六十八歳で没する。嘉永三年七月に碑が建てられた。二十一世弘音は能書家で、多くの子弟を教育した。後に神能と月交替で教えた。寺子は石田 田屋 広安 八塚 安清 森清から通ってきた。明治六年十月二十四日自坊を石田小学校(翌年一月率性小学校と改称)にし、教員に就任した。
五島家 浦町薬舗鷹栖屋であり、四代にわたって寺子屋師匠を努めた。最後の三六こと寛平(号潤亭)は、弘化から明治にかけ毎年四十〜五十人を教え、上級者には四書へ進ませた。俳句 書画 生花 謡曲も能くした才人であった。安居寺公園に句碑がある。次の二代目寛平は桜蔭書屋を設け、明治二十四年に郵便局長になった。三十七年十二月に四十九歳で没する。子息寛平は明治十八年十月十二日に生まれ、金沢英学院を卒業して福野農学校で英語講師となる。父の後任として明治三十八年から昭和二十九年まで郵便局長も務めた。
柴田方中 浦町の医者で、号は元寿。父の金蔵も京で学んだ医者で、号は東陽(東洋)。元治二年の西方寺境内、砺山句碑建立無尽講にも参加している。
神能善四郎 広安村で開塾。後に安達弘音と交替で教え、寺子は月別で交互に通学した。明治十年自宅が率性小学校になった。
武部和尚 三清は福野と井波の境で所属も曖昧かつ武部姓の多い地域であるが、便宜上福野町とした。明治二年二月の凶作に際し、細民二百名が親作へ納める米の減額を哀願している。
等覚寺 住職河合増林(寳林、号保齋)は天保頃から教育にも従事し、書風は土師流に近いもの
である。医者も兼ねていた。明治七年五月十八日六十七歳で没。十年十一月坊内に碑が建てられた。
長岡勘右衛門(号静芳、成鳳) 代々経師(表具)を生業とし、武者絵などが得意であった。能書家でもあり、教育に従事した。明治初年に文部省より表彰される。十三年に没した。
福富家 福富家の屋号は二日町屋であり、二代目平左衛門こと与太郎(字真平、子衡、号翠園、春涯、有章)は俳人であり能筆家でも知られ、天保の頃町内で開塾する。上級者は漢籍に進ませた。門弟は数十人、居宅を有樹館と名付けた。子息三代目平左衛門こと勝太郎又は定愨(字伯宣、号錦園)は父から経学や詩文を学び、崎良平にも師事し漢学を修めた。父子は京の漢学者劉君平とも交際があった。書風は米庵流である。明治二十八年十一月に門弟は恩光寺坊内に父子の碑「雙美之碑」(碑文崎良平)を建てた。
古瀬佐兵衛 上川崎村で文化の頃に開塾する。高参寺門前に顕彰碑が建てられた。
村元甚蔵 安政の頃に下吉江村で開塾し、明治七年二月自宅を下吉江小学校とした。
旧福光町域
●特色
 俳句や書などが盛んな地域であり、地方では寺を中心に住民子弟の教育に努めていた。私塾や郷学の活動も活発であり、小学校が明治五年から創立されている等、教育には理解のある地域であった。
●師匠の略歴
氏家庄助 福光西町に開塾した。能書家で珠算も教える。門弟は師匠を頌し「庄助塚」を建てている。明治六年自宅階下を小学校仮授業所に提供した。
片山重助(佐助)(号遊亭) 安政元年に福光町内で開塾する。屋号は江田屋。能書家であり、画にも通じていた。門弟は西町に筆塚を建てる。後に坂本山に移した。慶応二年に没。
本敬寺 祖谷本敬寺十三世住職庵芳運は、明治三年から教育にも従事し、六年二月に白山坊舎の一部を小学校に改め、自身が教員になった。大正十二年十月に碑が建てられている。
旧城端町域
●特色
 城端町は寺の町であり、教育にも寺が多く関わっている。また井波町と同様宝歴から寛政にかけて芸術が絢爛の華を咲かせた。俳句では金沢から梅室(桜井能充)門の宗匠大夢(直山宗四郎)が嘉永五年に天満宮菅公九百五十年祭に滞留し、詠進俳句の撰者になっている。水月庵の北隅には津幡屋良平(画号堀川雪郷、雪江、俳号巨山)の筆塚がある。七代小原几好とも交際のある俳諧人であった。書にも薫其昌流と頼山陽流に秀でた宗林寺の糸屋伊藤一曹(号袴腰山樵逸叟)がいる(明治初年に郵便局長)。
●師匠の略歴
有川文助 出丸出身で、城国寺前に民家を借り、男女に教えた。妻も女児に裁縫を教授した。
海乗寺 北野村海乗寺住職利波豊賢は金沢から養子に入り、弘化 安政の頃に書や珠算、上級には四書を教えた。祖は平家の落人。利波臣の分脈ともいう。稲垣姓で大鋸屋村上田の真言宗山伏であったが、文明十三年に北野三ケに移り、貞享三年寺号を許される。明治以後に天満宮社掌となった。ここの豊賢は歳から考えると、直枝(天保九年〜明治三十二年)の先代であろう。直枝子息も豊賢で俳号は仙泉。後に明治三十年富山県師範学校を卒業し、翌年神明宮(明治以前は山伏相善寺)社掌井頭家に入っている。
寛貢 元会津士族で、旅僧になり諸国を巡って城端山田村に留まる。そこで書 珠算や俳句を教えた。門弟には明治四十一年に村長兼信用組合長になった大窪の西村三助(俳号松林)等がいる。
専徳寺 金戸で明治維新以後も寺子の教育に尽力し、六年自坊を金戸小学校に提供した。
宗林寺 以前より寺子屋を開き、教育に従事していた。ここを借りて師匠になったのが佐伯直吉で、週に一度は夜学も開いていた。寺子の年齢は十一 二から十五 六歳が多く、稀に八 九歳がいた。授業には天変地異 西洋夜話 窮理図解などもとり入れ、父母は寺入時に師匠へ鮮魚、同門には生菓子を配り、中間 歳暮 五節句に礼金を修めた。明治六年に小学校長取扱に就任している。
旧井波町域
●特色
瑞泉寺十一世浪化が元禄七年に京で芭蕉に入門していることもあり、俳句などの町人文化が成熟し、寺子屋教育も町人が主導権を取っていた。主に商家や村役人が兼業で従事している。 
●師匠の略歴
岩倉仁兵衛 屋号は坪野屋で、北川に開塾する。明治五年に碑が建てられた。
宇野甚之助(号霞條) 屋号は塩屋で八日町で開業していた。旧家であり代々俳句に秀で、自身も井波俳壇で活躍した。明治五年井波八幡宮境内に門弟が謝恩碑を建てた際、自筆の句「名にしらばしらばや梅の咲くところ」が刻まれた。表は田川才助筆「以義達道」である。
 宇野家の祖は源頼親で、頼治の時に大和国宇智郡宇野村に居住し宇野と称す。その後に戦国の混乱の中で庄兵衛宗治が天正年間に井波へ避難し、以後宇野家は塩屋を屋号にして大いに栄える。甚之助もその一門であろう。俳人も多く輩出し、樗良門下の治良助(号木吾、松琴亭)や孫の治良助(号樹庭)以後の当主次四郎(号樹峯)、次四郎(号井里、久敬堂)は著名である。中紅染や井波紬織、後に醤油醸造を家業にしていた。井里は田川才助や小川大夢に学び、瑞泉寺台所門の長屋太鼓部屋(非番近習の部屋)で大夢の講義を陪聴する暇に詩会を開いている。明治六年四月に井波小学校に勤務し、校長に昇任して十六年に退職、その後は助役や銀行重役を務め、大正十年三月八日に七十二歳で没した。
亀田家 代々清玄寺で村役人を務め、天明年間に十三代目が開塾した。十五代三郎右衛門(文政四年〜明治二十年)の頃は、井波に止まらず福野からも多く通っていた。
斉藤八郎 代々医者を務めた家で、時代からすると孫八郎のことであろうか。明治十五年に筆塚が建てられている。十一年に生まれてすぐ井口家から入った養子八郎(号素影)は幸田露伴門下で、高浜虚子の同人である。
名倉仁兵衛 屋号は岩倉屋で北川に開業していた。明治五年に門弟が北川神明宮境内に碑を建立した際に、自筆の「筆博芸」が刻まれた。
箭原家 今里で五代目伊兵衛が開塾する。六代目久蔵がこれを継いだ。明治二十二年今里神明宮境内に門弟一同が謝恩碑を建てている。
山見八幡宮 神職を勤める山森一麿は能筆家であり、御家流の書風であった。教育にも力を入れていたが、明治六年に二十歳で没する。弟雄男が志を継ぎ、三十年頃まで不就学者を集めて知識を授けた。
 山見八幡宮は明治元年まで修験宗三寳印末派實相院権大僧都であり、一麿の父は天保二年に寳住院来教の免許を受けている。祖は源氏で、明治元年八月一麿が復飾し山森姓を名乗った。
旧井口村域
●特色
 住民の多くが農業従事者であり、寺院が文化と教育の中心であった。
●師匠の略歴
光徳寺 井口の光徳寺住職恵実は住民子弟の教育に力を入れ、年間を通じて寺子屋を開いていた。寺子は男子で十三 四から十七 八歳、寺入時に師匠へは酒肴料 寺子一同には生菓子か赤飯を配る。謝儀は専ら金銭で支払われ、春に畳代 秋に炭代を納めた。授業では仮名 数字 苗字 村盡 消息往来 百姓往来 千字文等を順々に教えた。「定」を作って寺子を戒める一方で、天神講等の行事を通じて師弟関係を深めた。
旧平村域
●特色 
 村役人や素封家では、名頭 名物往来 消息往来等を買い求め、子弟の学習に用いている。また一般村民にも、忠臣蔵 加賀騒動 石山合戦記等の軍談語りで文字を覚えた者もいたそうである。だがここ庄川東側の村には流刑地があり、その地に住む人々は流刑者から文字を習った。小谷や大崩島では藩士や流刑者に学んだ者が師匠になって住民子弟に教えている。明治維新後には識字者の需要が増え、各地で寺子屋が設置された。小栗栖や田向等の念仏道場(本願寺派と大谷派が共存)にも設けられ、男子が合計して三・四十名は学んでいたようである。関連して、『富山県教育史』に「野原うしちま」という語があるが、よくわからない。 
●師匠の略歴 
瑞願寺 史料には下梨の瑞願寺で井波から宇野という師匠が出張し、男子十数名に教えたことが記されている。この人物は宇野甚之助であろう。なお瑞願寺は瑞泉寺の大谷派帰参に大功がある寺である。
流刑人 五箇山の流刑人は殿付けで呼ばれて扶持米の給付があり、平小屋入りであれば居村内を出歩いてもよかった。そのため村民子弟から請われるまま学問を教授する者もいた。文政五年九月から安政三年六月まで篭渡や大崩島に流されていた林与八郎(御鷹匠伝左衛門の次男)は習字手本として村盡を残している。嶋村の丘村隆桑は流刑人から字を習い、勧められて金沢や長崎で医術を修得し、明倫堂で教鞭を執る。廃藩後に『養蚕弁論』を著し、石川県へ産業振興を建白した。この流刑人は桑原君(甚)平(文政九年十月二十日から天保十一年七月十二日、平小屋)という伝承もあるが、矢木清四郎(御徒、安政四年六月八日から明治元年三月二日平小屋九尺×二間)かもしれない。矢木は村の若者に字を教え、初代村長になる池田庄次郎もその一人である。田向村の水元作平も流刑人から医術を学び、明治初年に種痘を行っている。この人物は篠田余太夫(御馬廻組、文政十三年九月二十日から安政五年十一月十日平小屋二人扶持)であるかもしれない。篠田は嘉永元年に疫病で亡くなった村人の墓碑を書いている。大崩嶋の流刑人に学んだ山下弥兵衛は杉尾小学校で教員に就任する。この流刑人には井関達之助(定番御徒)と鍋屋藤吉(嘉永六年六月十五日〜明治元年三月二日平小屋一人扶持 塩薪代二分二厘)が考えられるが、前者は御縮小屋入りであることから、後者である可能性が高い。篭渡村岡田耕作と嶋村沢山三六も流刑人に学び、嶋村小学校の教師になる。沢山は矢木であるとして、岡田は横井大次郎(嘉永三年十一月八日から二人扶持平小屋)かもしれない。お膳の蓋に米糠をまいて字を教えたという。横井は村人に苗字を付け、獅子舞の棒踊り「なぎなたどり」を教え、道場天井絵の画き手や彫刻手を指導したという。猪谷村の室嶋屋四郎右衛門(嘉永六年六月十五日から平小屋、文久二年四月配所替)は謡曲を教えていた。また刑期開けの嘉平という人物が教えているが、流刑人の名簿にはこの名はない。『富山県教育史』には大槻伝蔵も教えたことになっているが、禁錮牢に入れられているため、多くの村人と接触したとは思えない。
旧上平村域
●特色
 寺子屋数が少ないのは住民数から致し方なく、読み書きはむしろ必要とされていた。それは仏教に裏打ちされた地域行事への情熱から来ているように思われる。人々は積極的に祭りの詞を作り、節に乗せて唄った。
●師匠の略歴 
行徳寺 開基は蓮如より道宗の名を授かった高名な僧。その後裔が鳳龍で、単に読み書きに止まらず、優秀者には四書五経まで教えていた。明治九年十月二十一日没。
生田長四郎 生田家は細島で代々村役人を務め、長四郎は父長次郎より読み書きや開平開立 利息 圭朶 倍朶といった実用的な珠算を教わり、道宗鳳龍より四書五経を学ぶ。その後村民教育に尽力し、維新後は明治五年に組合長、翌年初代村長に就任した。産業を興すため明治十一年、弟の水上善治らと協力し小谷川の水力を利用した水車式製糸工場を設立した。なお、水上善治は安政元年から福野町の柴田元寿に学び、万延元年から金沢で河波有道の門で学んでいる。
中谷豊平 種痘担当医を務め、平村へも出張した。村の教育にも尽力し、二代目村長(明治三十八年六月十三日〜四十二年六月)に選ばれた。子息の豊充(明治十八年〜昭和二十年)も医者になり、村長(大正十一年一月二十日〜昭和三年六月七日)や郵便局長に就任した。
水上久左エ門 旧加賀藩士で、道宗鳳龍の没後に明治十年藤井長右衛門邸で寺子四人と共に継承する。この四人は全員高等科を卒業している。十一年西赤尾小学校の創立後は翌年まで教員として務めた。
旧利賀村域
●特色
 寺子屋の無い地域である。住民は必要に応じ他郷に出て学んだり、村役人の師弟は親から実学を教わる程度であった。ただし西勝寺の五谷山文庫には筆跡が違う文政二年七月記の「五箇山往来」と付属の「加越能名物往来」「八尾往来」が残っている。寺子屋はないが、教科書は写されて流通していたのではないだろうか。大勘場口留番惣(宗)八郎は読・書に秀でていた。
三、小矢部市
●特色
 今石動町内には奉行所に与力五人 足軽三十人がいるくらいで、町人文化が成熟していた。元禄十四年六月芭蕉十哲の一人、美濃国各務支考が観音寺住職濫吹の許に三ヵ月逗留し、享保二年に同寺に獅子堂を建てていることから俳句が盛んであった。郡部では十村や十村手代及び肝煎役等の有力者が村民子弟の教育に従事していた。地域的に寺院が多いことにも特徴がある。また父子で従事している寺子屋も複数見受けられ、地域に根付いていることが分かる。
●師匠の略歴
大谷家 七社村の大谷義右衛門は藩政後期に村民子弟の教育に従事し、良(了)哉は明治中頃まで継続している。
大野八兵衛 千石で開塾し、七十歳で没した。安政三年八月に門弟により顕彰碑が建てられる。
柏卯三郎 金屋本江で十村茂太郎に就き書を学び、その後に開塾する。
加茂家 水島村で苗島組十村手代や鳥見役を勤める。庄左衛門(号青州)は金沢で学び、帰郷後開塾し、農閑期に二百名が遠方からも通った。ただし夏季は二十名ほどに激減するが、農業地域としてはいたしかたなかった。子息の沢水が継承するが、弘化四年九月二十二日三十八歳で没した。その弟である青翠も自宅で開塾し、五 六十人の寺子を教えた。書を金沢で高田江清に、画を法眼泉玄に学ぶ。明治三十九年に七十七歳で没した。兄の碑は弘化五年、弟の碑は慶応三年冬に建てられている。
川口斎孝 元加賀藩士で、生まれは河北郡磯部村。東蟹谷平田村で開塾し、近隣から寺子が集まった。明治十五年から小学校教員に就任し、二十年四月一日から校長を歴任している。大正二年八月顕彰碑が建てられた。
光雲寺 今石動町元門前町光雲寺住職の村上真澄は寺子屋教育にも尽力し、弟もこれに協力した。
光西寺 西島村で代々の住職が教育に従事し、立島順翁は明治中頃まで継続した。
榊原家 荒見崎(高岡)出身の元熊野神社神主。愛宕寺同行で教勝院と称して付近の神社の神官を務めていた。荒見崎村神明宮や今石動町の鉄砲町で開塾した。藩末の当主左右次の妻で、高岡の熊野神社宮崎家から嫁いだ満都廼(弘化四年〜明治二十七年)は漢詩を能くし、明治二十七年八和町永伝寺に碑が建てられた。
筱岡貞次(安政元年〜大正十四年) 水島村で加茂家に学んだ後に開塾した。廃藩後に村長、村会議員や郡会議員、明治三十六年からは県会議員と地方政治に活躍した。碑が大正七年に建てられている。子息貞次(明治十七年〜昭和三十三年)は旭醤油の創業者で、村長や県議会議員に選ばれた。
篠岡与四郎(号東洲) 水島で十村手代を勤める。金沢で大井流書道を小竹五郎左衛門に学び、帰郷後開塾した。廃藩後は水島小学校に勤務した。
島谷長次郎 東蟹谷の平田村で豪農の家に生まれる。村民教育に尽力し、廃藩後は村長に就任した。
浄教寺 興法寺の浄教寺十三世住職霊純は寺子教育にも力を入れ、継いだ子息の慈雲は明治の中頃まで教え続けた。三十年六月に山門横へ石碑が建てられている。
砂田有信(安政六年十二月〜昭和四年五月八日) 小神の砂田清作の三男に生まれ、大坂で懐徳堂に学ぶ。帰郷後に中新田で漢籍を交えながら教育に努め(金屋本江からも通学)、夜は十二 三〜二十五歳の青年相手に石名田等で夜学を開いた。旧正得村には明治三十四年一月三十日(三十五名、予算二十五円)、石名田村には三十四年(十八名、予算十七円)に創設し、昭和十三年十月蔵書百六十冊は図書館へ寄贈されている。大正七年九月石名田夜学に通った人々により碑が建てられた。
住田家 鷲島村の医者。五兵衛尚斎が藩末に開塾し、小島村の医者杉下家から入った五兵衛周斎が継承した。子息喜正は松沢村長。尚斎の紀徳碑が文久元年神明社境内に、周斎の碑が明治二十年に建立されている。
西蘭斉 砺波林村の医者杉下碧(号西蘭、掃月庵)が開塾する。林村でも教えていたという記述もあり、明治六年に林小学校の創立に尽力した。
高瀬五左衛門親正 今石動町奉行所で留書役を勤める三十五俵の足軽で父は五兵衛。上新田町で町人子弟の教育にも従事した。明治九年に門弟が筆塚を観音寺坊内に建立した。
高瀬彌六左衛門定久(号千鳥堂、筌水) 祖は寛文頃今石動に赴任。定久は彌六左衛門を嗣ぎ二十俵。正水の書風を金沢で高田家に学び、兵学を研究しながら教育に努めた。天保十二年一月二十日四十六歳で没した。子息は愛水で、塾を継承したようでもあるが、詳細は不明。弘化三年九月門弟により後谷に碑が建てられる。高田一清(号貞山、天保九年加賀藩書写方、同十三年百石)の手になるものである。
長平 五社村で十村の手代を代々勤め、その傍らで教育に従事していた。役目柄算学に通じていた。 
長澤良庵 十村長田家でお抱え医者を務めながら、藩政末期から明治初年まで長田家と共に村民子弟の教育に努めた。明治十二年八月碑が建てられる。
長田茂太郎 長田家は金屋本江の土豪であり、元和頃に衛門が横山長知の給人知長百姓になる。子息長左衛門が承応元年十村に任じられて以来、代々十村を務めた。天保十三年に御扶持人並に進んだ金右衛門は砺波郡佐加野(高岡市)の困窮を救ったことでも知られる。明治維新後に長澤と改姓した。糸岡組支配は嘉永元年の忠左衛門、文久二年金右衛門、二年から三年までの茂太郎である。茂太郎は村の教育にも尽力した。文格と号した人物はこの茂太郎であろうか。
日光孫兵衛 日光家十三代目で、芹川村で十村手代を勤め、縄張役であった。そのため算学や測量学に通じ、文久年間には肝煎役を務めながら寺子屋も開業した。書も能くする。明治三十二年に門弟と養子孫平により碑が建てられる。
沼田直次郎(天保十四年〜明治三十四年、号白鶴) 彦左衛門を名乗り、十三歳の時金沢で高田江清に書と漢籍を学ぶ。帰郷後水島で開塾し、廃藩後に水島小学校で教員を勤めた。明治十三年四月に碑が建てられている。子息の彦左衛門は、明治四十四年から大正四年まで水島村長を務めた。
長谷川家 水島村で代々神明社神職。十三代従五位下日向守有文は文政五年七月に開塾し、前口十二間の塾舎は遠方の寺子のために宿泊施設を備えていた。鷹栖や津沢から寺入している。子息豊後守政一郎は医者でもあり、安政三年塾を継承している。明治六年には津沢町小学校周旋方を努めた。
藤田屋 紺屋町で寺子屋とお針屋を兼業していたが、後に同町の小矢部屋(大規模)、上新田村の長福寺、鍛冶町の太田屋と並んで、専門のお針屋に改組した。
松波喜平(号菊所) 福町(上町)で薬種商を営み、漢籍にも通じていた。廃藩後は申義小学校の十等訓導に就任する。明治九年に門弟は神明社に碑を建てた。
丸山彦十郎 宮島で代々肝煎を努める家に生まれ、村民子弟の教育に尽力した。明治二十年冬存命中に岩崎村で筆塚が建てられている。
宮五右衛門長二 明治初年に小神で開塾し、鷲ケ島 茄子島 野寺からも寺子が通っていた。
四、高岡市
旧高岡市
●特色
 高岡町には商人の子弟が多く、珠算に力を入れていた。また謡が盛んで、男児は将来交際上必要なため、毎日師匠の口移しで一つずつ教える寺子屋もあった。四月二十五日には関野神社境内天満宮の祭礼に清書を奉納するのが恒例行事で、神主が社殿内に貼り出し、縦覧に供した。また師匠は昼食会を催して子弟の情を温める日でもあった。七月七日の七夕も盛大に行っている。一般的に謝礼は中元 歳暮の二回で、各二 三〜五匁ないし品物で納め、師匠より七夕または歳徳の手本を受け取った。天満宮への奉納時に三〜五分、節句ごとに二〜五分の謝礼を受ける師匠もいるが、昼食や煎餅で返すことになっていた。別に炭代などの雑費が一匁以内であった。 
 高岡町内の寺子屋のほとんどは町人が営み、郡部では寺が開塾する場合もあったが、総じて町人有志が教育に携わっている。また女児教育にも理解があり、二軒の女寺子屋やお針屋の萩野私塾(〜明治十七年)、女子好逑私塾(千木屋町、金森彦次郎 千代、五十余人)、車ツネ(宮脇町)に通っていた。明治八年には片原町の御貸屋跡に小学校が統一される。
●師匠の略歴
青江家 中田の青江善右衛門は、天保十一年に現在農協支所がある場所で開塾し、養子善右衛門が明治まで継続していた。別に青江伝四郎の名を記した本もある。
飴屋六左衛門 定塚町で寺子屋を開く。史料には同町の町頭で飴屋六右衛門という人物がいて、二十九歳のときの寛政四年に賞せられて、町奉行所から金子百疋が贈られている。縁者と推測されるがそれ以上のことはよくわからない。
有磯神社 横田町で代々有磯神社で神主を勤める従五位下上田家は石見守藤原正喬の末裔で、倶利伽羅の埴生神社(木曽源義仲が戦勝祈願をした神社)神職であったが、上杉軍に追われて北島村(現高岡)へ移住し、北嶋神社と本務社 西部村社を兼務していた。その後伊勢守正綱(〜貞享二年六月)が横田に移って正八幡宮を本務社とした。 
 伴貫は書や和歌に通じ、御家流書道の塾を開いた。後継ぎがいないまま寛政八年正月に没したため、同十一年になり作道村(現新湊)道神社の宮川直矩次男迪彝が入った。天神講を組織し、寺子屋師匠としても多くの寺子を抱え、その中から寺子屋師匠も輩出している。天保七年五月に五十六歳で没した。長男悌信(文政六年〜明治十二年)は漢学を長崎浩斎に学び、五十嵐篤好から御家流を皆伝された。明治六年に横田町で小学校が創立されたため、塾は閉じられた。
石川友二効明(文化十四年〜明治十九年九月十四日、号竹影、文藻) 初め友右衛門と名乗る。父豊右衛門は藩老前田土佐守家に仕え、筆生役を勤めた。友二も職を継ぐが。早々に致仕し、天保六年戸出に移住して、当時若林組十村の五十嵐篤好に国学と算学を学んだ。書風が広瀬旭荘の流派で能書家であったため、住民に請われて開塾する。明治六年から十八年十二月二十五日まで小学校に勤務し、県から賞せられ木盃を受けた。十四年十一月に碑が建てられ、自筆「我ながら思へば宇礼し天地のミちは奇しき御霊にそ阿る」が刻まれた。
梅津善一(文政四年一月〜明治十九年) 明治維新前後に酒屋善五郎から改めた。立野で肝煎役を務める傍ら、男児に読み書きを教える。仮名 日記 名頭 村盡 商売往来 消息往来 日用文等を用い、太字より細字へ進んで、優秀な寺子は師匠の補助をした。学制頒布以後も教えている。篠島久太郎(号復庵)もここで学んでいる。
大沢七平 屋号は飴七屋。子孫の方によれば祖は櫛田の農家であったそうだが、高岡の定塚町、現大仏の近くへ移住して、藩政末頃には指物屋を始めるが、七平が寺子屋を開いていたのはその前であろうとのことである。役場に勤務し、古城公園の管理をしていた。明治十九年没。
大坪正三 祖は公家侍の大坪中務で、禁裏北国御用を務めた。二代目の助左衛門は御扶持人であり、娘は前田利長の側室で満姫を産む。その子孫である分家の八十次、のちの正三は父の跡を継ぎ弘化元年から嘉永元年まで山廻役、文久元年に小矢部川筋庄川並射水郡海辺潟廻主附などを歴任しつつ教育に尽力する。明治二十二年に初代二塚村長に就任した。
尾崎家 先祖は能登国長一族で、尾崎兵部丞忠連が石堤に移住した。八代目藤左衛門の時に医者の宗潅が分家し、子息仁左衛門も医者になる。その子息の玄達(寛政八年〜安政六年、号栢山、国華)は、文化の頃に長崎でオランダ人より蘭方、原蕉斉に漢方を学ぶ。実兄が亡くなり帰郷し家業を継いだ。能書家でもあり塾を開き、住民子弟に教えた。子息の治三郎(天保七年十二月十四日〜明治三十三年、明治五年までは文斉)が明治六年九月に自塾を石堤小学校に改めるまで継承した。長光寺の織田雪操(後に宝性寺十八世)と石堤小学校の教員になった。後年に浅井小学校天守堂の時刻を報せる太鼓を設計している。玄達の弟晋三(号蒼川)は金沢で私塾を開き、明倫堂教授を勤める。後に石川県第一師範学校教授になり、『新選字海』等を著した。
岡本久米吉 戸出の北町で寺子屋を開く。屋号は石丸屋であった。弘化五年に三十歳で没している。
金谷家 屋号は金屋。片原町に佐次右衛門が寺子屋を開く。継承したのは子息の佐一郎で、明治九年に近隣の育英小学校が生徒増加で収容が困難になった際、暫定的に一部の児童を引き受け自塾を仮校舎とした。翌年私立小学校の認可を得るが、女児小学校(怡柔小学校)と三つの分教場(木町、横田町、立横町)が設立され、十一年八月に役割を終えた。
加納屋 七代目武兵衛美貞(字有芳)は木町で代々町役人を務めた家に生まれ、文化十四年に父弥平治の跡を継ぐ。書を父に学び、絵画を堀川敬周に師事した。また中川菱香とは友人である。木町舟見、横目、肝煎等の要職を歴任し、町民子弟のため書と珠算の塾を開く。町内の大半は通ったと伝わっているので、相当数の寺子が在席していたのであろう。嘉永六年十月に隠居し、子息の弥平次に全てを譲る。父から書を学び、天保十一年七月十八歳で町会所物書手伝に就任したのを皮切りに、父の後任で肝煎になり、安政二年九月縄手町及び地子木町肝煎を兼任する。五年十一月には父子の「木町委細帳」と名付けられる旧記調筆の労で表彰された。嘉永三年から四十五歳で没する慶応三年まで、自塾で書を中心に教授し続けている。
願性寺 戸出竹の真宗大谷派寺院。文化八年に院家に昇進した。三十二世住職法重は明治前後、地域教育に貢献している。
願乗寺 姫野願乗寺の鼎護城(天保十二年七月三日〜明治四十二年三月十八日)は、自坊の他に金屋の堀田家、中曽根の土肥清助宅、新湊の乗念寺で教えていた。金沢で柱時計を購入して時限表を作成し、規則正しい運営を心がけたという。
菊池武邦 戸出で代々の算用聞の家であり、分家に福野・野尻村御扶持人で、国学や漢学を能くした菊池六郎右衛門(号静斉)やその弟で和算に通じた橘五郎興之が出ている。七代武邦は父の代に借上げが頻繁なため高を切り売りして傾いた家産を立て直すことに尽力しつつ、村の教育にも当たる。子息則政は加賀藩医吉益北洲に学び、嘉永六年に開業する。正義堂の設立にも当たった。
木下周造(号東庵) 戸出の東町で医者をやりながら、寺子屋を開いて教育にも従事する。屋号は木下屋を称した。
桑山家 屋号は梅染屋。本家は守山の桑山家で玉泉が敬業堂の主事になっている。御馬出町で開塾したのは源太郎で、子息の二作は塾を継承した。
顕証寺 二塚林新本願寺派顕証寺五世桜井法順は林新村若林長四郎の次男竹次郎である。下佐野西養寺十二世教勇(文化元年〜明治三十一年)に師事し、安政二年に四世慧流を継いで住職になる。漢方医師として薬も調合し、漢玄斉という号も用いている。住民子弟の教育に尽力し、明治三十一年に没した。
廣済寺 笹川廣済寺十八世福田立道(文化元年〜安政三年七月四日、諱慶慧、号石雲)は、尺伸堂に学び、高野山で月照阿闍梨に三年就いた。また詩を大窪天民を聘して学び、篆刻を細川林谷、挿花を池之坊専定より教わる。嘉永元年得業に任じられた。村民子弟の教育にも尽力する。
西念寺(文政十二年五月〜明治八年十月十四日) 立野村西念寺十三世福田順翁の次男順了は、比叡山で天台を学び、天文にも通じていた。兄が夭折し十五世となって、教育にも務めた。明治六年四月一日寺内に小学校が創設された。
笹原家 後に原姓に改める。源平板屋町絹屋の当主は代々権九郎を襲名し、六代白年は塾を開いて書を教えた。養子の辰省こと雀斎(別号北湖)は養父に学んで寺子屋を引き継いだ。漢籍にも通じ、高岡学館講師を務め、後に東・西之小学校が設立された際には東之校長に就任する。辞職後も自塾で教え続け、明治十九年十二月に七十六歳で没した。 子息の遂(初め孟省、号青軒)も高岡学館で句読師を経験し、西之校長に就任する。また自塾を明治私塾と名付け、学制に準拠して学級等の規定を設けた。校長辞職後は塾教育に専念し、十四年に文部省表彰を受けた。二十三年十月五十九歳で没した。
塩崎家 屋号は指物屋。総本家宗四郎家の祖は信濃国塩崎城の守護職小笠原貞宗の後裔と称す。応永七年長秀は国人蜂起で京へ逃れるが、一族には越中二上山麓で居を構え千石町一帯を開墾した者もいて、孫の宗資の代に塩崎を姓にし、やがて前田氏支配時に十村となった。この分家が宗之助で、四代目の重兵衛は横田町で商売の傍ら教育にも従事する。以後五代目清太郎重兵衛、六代目勝次郎重(十)兵衛(〜明治四年没)、七代目静一重郎平(〜明治十九年没)と受け継がれた。絵も能くした七代目(号静逸 碧峯)は二百余名の寺子を持ち、他にも謡曲・茶道・俳諧を学ぶ町人門弟百名余を有した。明治十六年に自塾を横田町小学校とし、十七年六月宗泉寺に設けられた西之小学校の教員に就任した。
朱屋源左衛門 伝えによれば先祖は槍術に優れた武士で、越後で浪人した後に諸国を槍術を指南しながら流浪した。やがて前田家に仕え利長に従い高岡町へやって来たという。老年のため致仕して町人になり、以後代々町肝煎を務めた。坂下町に寺子屋を開いたのは十代目源左衛門であろう。文久三年三月に没した。
宗兵衛 黒田村の農家で、貞享の頃に寺子屋を開く。その後数代継承されたという。『越中二塚史』には、松尾芭蕉が宗兵衛の田植えを見て「早乙女が泣く子の方へ植えてゆく」と詠んだことが記されているが、真偽は不明である。
大永寺 住職永顕の弟野田興顕は南条の上佐野で開塾する。明治六年四月門前佐野村に小学校が創設された。
高尾家 二塚村白山社の神職を代々勤める。村民子弟の教育にも尽力し、弘化元年に継承した七十四世信孝(享和二年〜明治二十年)は従五位駿河守、明治五年まで塾を続けた。
龍田周造 上佐野で明治六年まで教え、その後は佐野小学校の訓導に就任した。南磯一郎(嘉永六年〜明治二十八年)も門人。
竹内甚三郎 立野で明治五年に夜学を開き、教育に尽力する。到達度により童子教・実語教・四書五経・十八史略等を用いた。
武田貞子 文化十一年に富山布瀬村の十村役高安豊助定義を父に生まれ、富山で菊園を師に読み書きと裁縫や茶道を学ぶ。山廻役を務める竹村屋の武田長兵衛に嫁ぐが、家運が傾き、夫も元治元年に亡くなる。三男一女を抱え、貞子は途方に暮れる間もなかった。習得した学識を生かすことを考え、女児専門の寺子屋を開いたのである。すると上流家庭の子女が多く通い、大いに賑わった。明治七年十一月または八年九月に没したが、長男は既に山廻役を経験し、次男は横田町の塩崎家へ、三男は福光村の石崎家へ養子に行き、娘も地元吉田家に嫁ぎ、皆豪家であった。
高畠次郎右エ門貞造 落合村肝煎を務め、兵四郎の寺子屋が閉じられた後に開塾する。祖は前田利家に仕えた武士で、その後帰農した。落合村北條氏流光證寺との関係が深い。貞造の父秋平は京で医術を学び、帰郷開院後も泉伏翼から書を、西村太仲から算学を学び、更に大坂で蘭医術を研鑽している。弘化二年一月二日六十一歳で没。長男が貞造で、日遷小学校教員に就任する。弟信貫は軍医、長男脩は林村石崎(吉)三郎(後の謙)に漢学、後富山藩医吉房玄徹に医術、藤田憲に漢学を学び、明治五年十一月慶応義塾で英語を学び、九年大学南校、十三年東京大学で医学を学んで軍医に就任した。次男順は日遷小学校教員、大正六年十月から十一年三月まで北般若村村長。
長光寺 石堤長光寺住職織田(小田)家は、初代が織田陸奥守氏知で、出家し超円と称した。応安二年天台宗より真宗に改宗し、以後代々継承されて十七世雪象(天明六年〜天保十二年、字公鮮、善調伏、号東林、雲松、公谷)が住職になる。父廓静(号観蓮閣)や京で善智北溟(字子雲、号望雪楼主、後に下牧野の東弘寺十七世)に学び、漢詩も能くした。帰郷後には北溟が享和二年八月に興した是性庵の詩会に参加するが、添削指導を大窪詩仏に請うた。文政四年に詩仏来遊の際は自坊に案内している。天保三年本願寺法世子師範を任じられ上京し、その後は九年間安芸 越後 江戸へも布教を命ぜられた。天保三年閏十一月の広島出張の折りに紀行文『泛登無隠』を著している。寺子屋を開き、書斎を如須弥斎と名付け、文政十年六月に「如須弥斎学規」と「座右銘」を制定する。仏教書籍の著作もある。子息蔵海は天保十三年に坊内に顕彰碑を建てた。
長念寺 須田の長念寺十六世住職の南木恵雄(弘化三年〜明治三十年四月二十三日)は寺子屋を開き、明治前後の地域教育に尽くした。明治六年掇英小学校の設立に当たり、醍醐村の名づけ者でもある。明治三十二年三月に碑が建てられた。祖は楠家臣であり、そこから「南木」の苗字がついたという。
土倉家 中田の土倉宗左衛門(号和風)は俳句を能くし、天保六年に寺子屋を開いて、地域教育に尽くした。これを養子の宗七郎が継承し、慶応初年まで開いていた。
常木宇太郎 西部金屋村肝煎を務め、常木大助家の縁戚。兵四郎の寺子を引き受けた。次男は高畠秋平の門弟で婿になり分家した篠島貞輔(師の命で紀州春林軒に学ぶ)の養子となった高畠次太郎。
常木大助 祖は平家の落人で、初代隼人が落合村に定住する。吾助の代に西部金屋に移り、小祠を建て毎年九月十四日を祭礼日と定め守護神とした。これが神明社(常木宮)となる。ここから十一代目善蔵は大助を襲名するとともに隼人とも称す。泉伏翼に書を学び、俳号は雲溪。天保十年一月二十一日五十五歳で没。兵四郎の寺子を引き受けたのは孫の大助であろう。明治二十二年七月二日から二十四年四月九日北般若村初代村長に就任する。長男哲平も三十八年四月十一日から四十年十二月十日、四十二年五月五日から四十四年六月二十三日に村長となった。次男木平は西砺波郡で教員を歴任し、縁戚の常木宇太郎家の勝平を養子とした。
鳥山屋次郎兵衛 鳥山家は源義家から義国 新田義重 里見義俊 義成 伊賀守鳥山時成、と続く名家で現群馬県太田市の新田郡鳥山村を根拠としていた。十二代成忠が三河国御油に移り、十三 四代は松平家、十五代精信は豊臣秀吉に仕える。氷見小竹に移住した後に高岡へ移り、小竹を名乗る。十六代次右衛門以降は木町肝煎等の要職を代々務めた。十七代は父と同名だが、十八代次左衛門から二十二代次左衛門まで交互に名乗る。二十一代次右衛門(善五郎)は御用商人として日章旗を掲げ船運業を行っている。享保十六年九月二日没。二十二代から鳥山に戻し、倶利伽羅山長楽寺に大般若経六百巻を寄進している。なお衆議院議員敬二郎は二十九代である。
 さて寺子屋を開いていた人物だが、片桐一男氏の調べでは、長崎浩斎が文化四年九歳で鳥山屋次左衛門に手習いを学ぶ、となっている。長崎家と鳥山家は縁戚であり、長崎家初代玄澄の妻と養子二代玄貞妻は鳥山家から嫁したが、長崎家譜では次郎兵衛娘となっている。これは鳥山家譜とは食い違う。次左衛門や次右衛門娘なら分かる。 
 次左衛門の名乗りは延享元年三月二十八日に亡くなった二十二代が最後で、二十三代から二十八代までは平四郎と次郎兵衛を交互に名乗っている(二十七代は平四郎改め次郎兵衛)。とすれば浩斎とは時代が異なり、符合するのは二十六代次郎兵衛である。寛政十年正月に地子町肝煎 木町横目役、同年木町御用銀才許人、文化七年九月二十六日から十年四月二十二日まで古手屋肝煎を兼ね、同十一年一月二日没した。思うにそれまで次左衛門を名乗ることしばしばであったことから、町内ではそのように呼ばれていたのかもしれない。念のため、二十七代平四郎(文政十三年から次郎兵衛)が木町横目役に初めて任じられるのは文化十一年三月六日である。 
野江作右衛門(号文庵) 横越で明治前後に寺子屋教育に努めた。 
野口津次郎 代々吉久の御蔵番士。明治前後に寺子屋を開いていた。 
長谷川和七郎 代々吉久で御蔵番士を勤め、天保から嘉永にかけて寺子屋教育にも尽力した。
林豊右エ門 北般若で兵四郎の寺子屋子弟を預かった。子息の豊宗は高岡中学校と師範学校第二部を卒業し、東般若尋常小学校の首席訓導に就任する。その妻で般若野村生まれのたきゑも師範学校を卒業して、柳瀬尋常高等小学校の教員に就任する。
兵四郎 西部金屋村肝煎を務めながら、村民子弟の教育に尽力し、算盤までを教えていた。寺子は広範囲に及び、相当な人数を抱えていたようである。しかし明治二年には家運が衰退し、継続が困難になるに至る。その後新規に開設された寺子屋へ寺子は分散収容された。なお北般若では、明治七年二月に区会所を光證寺に置き、秋元村速恩寺に小学校を開設し、光證寺前住職北條恵祐を教員に招聘した。
牧宗平 代々吉久の御蔵番士で、放生津往来に面した所にあった。文久から明治五年まで教育に力を尽くし、伏木小学校の吉田五十穂校長(大聖寺出身、慶応義塾卒業)から講習を受け、十七年に興仁小学校で準訓導に就任する。子息の良一は長谷川病院の長谷川徳之に学び、二十五年に能町小学校準訓導及び初代校医に就任した。
増山屋九左衛門 木舟町に開塾。文化十三年に篤行者として奉行所から表彰され、銀二枚目を賜った。
神子高たか 真言宗醍醐寺派末寺で不動明王を本尊とする大福院は木津に移る前、今の片原町にあったが現在は通りの名になっている。住職権大僧都阿闍梨正寿院盛元は先代で再中興の二世権大僧都金寿院大智の下で修業し娘婿になった。その娘すなわち妻が神子高たか(文政元年〜明治十九年七月十三日)である。幼い時から金沢で学び、歌も能くした(雪ふれば木ごとに花ぞ咲にけり いづれを梅と分きておらまし)。天保四年二十六歳で女児専門の寺子屋を開き、習字や女大学 百人一首の素読及び商売往来を講義した。寺子は百三十人から二百人程で町内女児の大半が通っていたであろう。毎日午前七時から一時まで院内を教場とした。謝礼は盂蘭盆会と歳暮に十〜二十銭または物納のみである。明治七・八年頃には片原横町の町奉行所御貸家跡に建てられた育英小学校で教員に就任するが、塾教育は継続した。
村田三郎 伏木で書のみで開塾し「てならいこう」と呼ばれていた。門下生の藤井能三(弘化三年九月二十一日〜大正二年四月二十日)が明治六年一月二十一日付けで新川県参事三吉周亮に提出した「小学校取設伺」で「元伏木、元古国府ニ従来是アル所ノ寺小屋一般ニ御指留之御下令有之度候。右寺小屋ハ習学許ニテ読書算術モ無之候間、師弟共一併ニ学校ニ相集メ其師ヲ当分等学校教師ニ相雇申度候。左候ハハ被指留候寺小屋モ指当リ活計ニ困迫候様ノ儀モ有之間敷ト奉存候」(原文通り)とされ、二十五日に県がこれを承諾したため一旦閉塾し、月給二円で習字担当に就任した。しかし地元住民の要望で再開し、二十四年まで継続した。小学校の授業料が月十銭であるのに対し、四銭と低額であり、未就学者もここへは通っていた。この頃は塾でも算盤や修身・読本も取り入れている。
 授業は午前八時から習字、昼一時間を挟み午後には三時まで他の教科を交互に行った。手本は師匠の直筆で、いろは 変体仮名 名頭 苗字盡 町村盡 十干二支と進め、上級者には商売往来を用いた。ただし解釈は無く、ひたすら書き続け、新しい手本を書いてもらう時だけ師匠の前で読みを習った。多くの寺子屋同様清書には優劣が付けられ、また漢字一字から多くの苗字や名前を創作した。寺子は入門時に小さな机を一脚作ってもらい、紺の上張りを付け道具一式を風呂敷に包んで腰に付け通学し、薄暗い教室で男児四・五十人、女児は二階で二・三十人が、荒筵の上に座って勉強する。家では糠や灰で練習した。師匠はなかなか厳しく、罰則には罰金が伴っていた。例えば墨汁を畳にこぼすと二文、小便をもらすと三文、嘘をつき便所へ行くと二文、という具合である。便所へ行くときには他の寺子が一人付いて行き、数を十数える間に出てこなければ、足が痛くて逃げ出したものと見做されたのである。その他には清書を全部壁に貼り、授業料を納めた寺子のものから剥がしていく、といったことも行われていたと元寺子の証言にある。今では考えられないが、当時これがまた父母の信頼を得たのかもしれない。
吉田彦三 屋号は氷見屋。享保より代々才兵衛を称し、木町で横目 町肝煎 御用銀才許 瑞龍寺山門御造営勘定役 木町舟見等の町役人に就任した。彦三は寺子屋教育にも従事し、珠算や小唄までも教える。明治七年に閉塾して、守山町で小学校の教員を数か月、その後商売に専念した。明治二十八年九月十七日四十五歳で没した。
若杉氏 吉久新町で開塾する。御蔵番士が寺子屋を開いていたこの地域で、ただ一軒の商家による寺子屋である。本家は吉久の若杉屋。
旧福岡町域
●特色
 俳句が盛んな地域であったが寺子屋の開設時期は遅く、明治前後に急増している。寺院や移住士族が関わった。
●師匠の略歴
神代貢 能筆であり、赤丸で開塾した。俳句や和歌にも通じていた。
岸野与平 十村の手代を勤めながら、明治前後教育に従事する。医者の井村宅を借りて教えていた。寺子は男子だけであったが、最大百人程が通っていた。
西照寺 京の山科にいた小野篁子孫良實が、承久の変に敗れてこの地に来る。宝治元年に真言宗の寺を建て、その後浄土真宗に改め本願寺派から大谷派へ変わる。伝えによれば寺子屋を早くから開いていたようであり、明治に至った。
榊原氏 元加賀藩士であることから、榊原誠斉とも考えられるが、だとすれば明治二十年頃に単身移住したことになり、やや遅いような気もする。誠斉は謡曲宝生流を能くした通人であった。
浄永寺 上向田の浄永寺十六世住職宝音は住民子弟の教育にも尽力し、弟斉藤蔵攝もまた明治六年から十四年まで杭志小学校で教鞭を執った。
長安寺 長安寺九世住職朝順則(天保十二年〜明治二十七年)は、周辺に寺子屋が無いことを憂いて開塾する。珠算や上級者に大学 論語の素読も行った。内室では女児も二十人程が学んでいた。順則の実家は高岡立野西念寺で、住職順翁の六男であった。宗学と漢学を学び、元治元年に養子に入ったのである。明治六年四月堂宇を開良小学校とし、自ら訓導に就任した。
西村太源 太元とも書く。西村太冲の子息というが、確認できなかった。名前から縁者であるようには思われる。長安寺下寺の住職として金沢から転勤し、清水町の自坊で開塾した。漢学に通じ、文久元年に朝順則、島倉宗平、小栗利平等と末友村から僧月海を招き、雅楽同好会暢日連を結成した。
美濃屋治三郎 明治維新後に三原賢二宅を借りて開塾し、後に四十万郵便局二代目局長になった。
五、氷見市
●特色
 町部では町人文化が成熟し、漢学 国学 心学や俳諧 茶道等が人々の嗜みになっていた。寺社が活発に活動していた地域でもあり、積極的に布教 説教を行っていた。そのため寺子屋の存立する環境が整っていて、専業も可能であった。寺入時期は三月四日と九月十日で、塾則が整備されている塾も少なくない。珠算も取り入れられ、他に謡曲等が一般町人にも教授されていた。女児には朝日の宇波み乃井や田中安兵衛の妻、陸田茂吉の妹等お針子屋が礼 縫を教え、多くが学んだ。
 一方農・漁村では寺社の奉仕的な寺子屋が主で、農閑期のみの授業かつ寺入時期も不定であった。珠算も欠くことが多いが、謝儀は収穫 豊漁時に農作物や魚を持っていけばよかった。
●師匠の略歴
朝日屋又三郎 現朝日本町で専業の寺子屋を開く。七夕には町中を七夕を持って回る「飾り物廻り」をした。千手寺に碑がある。
有坂兵(平)九郎と北越伊左(右)衛門 戦国期に松之丞と竹之丞という落武者が、数十人の部下と共に床鍋の地に落ちのび、山峡を切り開いて帰農する。これが有坂家の祖である。末裔の有坂兵九郎が文化・文政に開塾し、没後に三男岩次郎こと北越伊左衛門が継承する。兵九郎の碑は床鍋にある。
安敬寺 惣領の安敬寺住職藤光は寺子屋も開き、珠算も稽古させた。また女児には裁縫なども手ほどきするが、これは家人の手伝いによるものかもしれない。
安専寺 懸札安専寺住職松金顕静は明治六年に寺子屋を開設する。子息の得雄が手伝い、八年まで継続した。並行して小学校の設立に尽力している。豊富な書籍を蔵していたことでも知られていた。
糸家 屋号は和泉屋。本家は上泉村の農家で、その祖は守山城主神保氏の家臣であった。六郎右衛門は安永八年から天明三年まで町肝煎を務めながら寺子屋を開き、子息六兵衛文介(安永四年〜嘉永六年、号昇斎)は医者になり、塾を継承した。寺子が収容しきれず、板敷の縁から外へはみ出す程の盛況であり、上級者には漢書・漢詩も講じた。八幡社に碑が建てられている。子息六平は明治初年に塾を再興して、二十七年に閉鎖するが、要望により四十年初めまで続けられる。それは公立小学校への就学者が少ないからであり、初等教育を塾が代行し、中学年から至誠小学校へ編入させることを狙いにしていた。
大西彦右衛門 中波の旧家で代々漁業と農業を生業としていた。彦右衛門は天保元年に生まれ、幼少時に父母を亡くし、祖父母に育てられた。姿村で広沢周斎に学び、脇の明厳寺仏島から漢文を修得した。また算学を広上村(大門)の九左衛門に師事した。慶応三年三十七歳で組合頭、明治二年肝煎役、六年戸長に就任した。網元としても麻苧台網を考案し、従来の藁網に替えて文久元年に敷設する。元治元年から慶応三年には合計四統を敷設している。明治二年に教育の普及を意図して寺子屋を開くと、中村や脇から寺子が通った。七年には彰文小学校に改める。その際室内が暗いため、私財三千円を投じて自宅前の空地に新校舎を建てた。更に氷見町で私立大西女学校を創設し、長女つな(号桑海)と次女ちよが裁縫と習字の教師を務め、修身 読書 作文 算術は金沢から教師を聘した。総計五百人の生徒が通ったが、長女が病気、次女が結婚したため十六年秋に閉校を余儀なくされた。大正三年に八十三歳で没した。子息は広沢周斎の孫娘と結婚した。 
広西寺 仏生寺の広西寺住職小谷露秀は寺子屋教育に力を注ぎ、明治八年まで仮名・名頭・村名盡・商売往来・消息往来等を教えた。
光楽寺 床鍋の光楽寺住職武田楞耀は北越伊左衛門の寺子を引継ぎ、北越宅で(?)明治十九年まで教えていた。雅楽を取り入れていたことに特徴がある。
佐原久平 飯久保で農業をしながら、寺子屋を開く。仮名 童子教 実語教 名頭 村名盡 商売往来等を使用していた。その後塾舎は小学校へ移行している。
紹光寺 池田の紹光寺住職甘庶櫟堂は教育にも貢献し、上級者は四書五経等へも進めた。後に池田村水哉小学校の主座教員に就任する。
浄善寺 中村の浄善寺住職鷺森十遠は、新川郡野沢新村の西光寺に生まれ、滝山義浄に学ぶ。養家で寺子屋を開いた。更に地域の人々は華道 茶道 俳句の手ほどきを受けている。
高野元礼 文化十三年八月十日に生まれ、医者として安政五年八月十七日に代々の元礼を襲名し、江戸の坪井信道のもとで学ぶ。同七年三月三日に桜田門外の変での負傷者救護にもあたった。帰郷後は医者として、また教育者として活躍し、明治二十八年三月二十五日に没。子息定行(天保十四年八月二十一日〜大正二年十月十六日)は医者であり、山の小学校で初代校長を務めた。
長楽寺 中尾の長楽寺住職竹里向岸は教育にも尽力し、珠算も練習した。
長沢六良兵衛 長沢家の本家は代々味噌醤油醸造を業とする旧家で、その分家にあたる。慶応二年九月に上日寺で建立された碑には「手習は坂に車を押すごとく ゆだんをすればあとへもどるぞ」と刻まれている。妻はお針屋を開き、夫婦で教育に従事していた。
名苗竹次郎 文久元年生まれ。後に片折十次郎とも名乗る。明治に入り開塾し、育成小学校でも教えた。
広沢周斎(文化十三年六月十五日〜明治二十七年一月十一日、号虻州、清泉堂) 灘浦姿村(町から北西方九.七qの漁村、村高三百四十石、天明六年六十三軒)で算用聞を務める「どうもさ」(藤右衛門)と呼ばれた家で七代目として生まれ、書を巻菱湖、算学を高木久蔵に学ぶ。家業は古手古道具商や酒販・金融。天保元年十一月に十五歳で九歳の男児を頼まれて教えたのが最初で、同五年自宅を塾舎に改築し、同十一年に塾則も整備した。その後薮田の屋敷秀了が開塾したことに触発され、漁村を生活困窮から救うには教育が必要との信念を抱いたともいう。男女四百四十人を明治十七年まで教え、うち弘化四年正月から明治十四年二月まで百五十七人であった。能登国佐々波村や徳丸村からも泊込みで来ている。授業では習字手本を渡し、上級者には漢籍も用いた。明治九年に閉鎖し中田村の小学校と合流する手筈であったが、村民がこれを許さず翌年私立廣沢小学校の認可を受けた。十五年に閉めるが十七年まで教育は継続し、没後直後の二十七年七月には碑が建てられた。
 授業日数は師匠の都合で毎月朔日 四日 七日 十日 十三日 十六日 十九日 二十日 二十五日 二十八日の計十日間朝と昼の二度開いた。寺子の訓育は通常寺子筆頭の帳付役がすることになっていて、登下校時に一人一人の報告を受け、声掛けをした。寺子には五〜十五歳の男女がいて、九・十歳が各二十五%であることから、男女九〜十二歳が適齢であることが分かる。在学期間は四年が最多であった。寺子の在籍者数は、天保元年から明治四年まで平均毎年二十人だが、最多が元治元年の四十四人、最小が天保十年の七人であった。明治五年に一挙二十三人が入塾して三十八人になる。十年には四十五人であった。四年から十七年の平均は三十九人になった。続柄は長男が全体の四十八%、次男を含めれば七十四%であり、女児は十一%であった。鏡磨や小間物行商が盛んな土地柄であるため、自作農以外の出身も多い。出身村は中田村 中波村 大境村 小境村等十八村に及んでいる。姿村周辺からは二百十四人、能登から手本をもらって不定期通学する寺子は七人で、弘化四年から明治十四年手本で学習する寺子は百五十七人いた。寺入時期は最初十一月が最多で九十二人、正月五十七人、十月二十四人、以下三月 十二月 二月の順、稀に五月と七月といった具合であったが、地域の理解が深まるにつれ三月 五月 七月も増えている。
屋敷磯右衛門泰治(文化十年〜明治三年、号秀了) 薮田で漁業をしながら、安政の頃に開塾する。手書きの村名盡等を用い、女児には女消息往来を使った。上級者には四書五経 十八史略 太平記を講義し、算術も点竄(代数)まで練習した。謡曲も指導し、遠方からも集まった。阿尾八幡宮に碑がある。
吉井家 祖は高岡から御座町へ移住し、高岡屋を屋号に代々薬種業を営んでいた。次郎左衛門は浦方銭取立方加役や布印判押入批肝煎に任じられ、嘉永三年三月から蔵宿封切舟見にも就任した。寺子屋を開き、一般町人へも謡曲を教授した。七夕には盛大に飾り物廻りをしている。次郎右衛門(号三恕)が継承し、安政から明治初年にかけ教育に尽くした。俳句や漢詩にも通じ、三室続きの屋敷を開放しても収容できない程多くの寺子を抱えた。上日寺には碑がある。長男の妻は新湊から嫁し、明治二十七年までお針屋を開いている。三十〜五十人が通い、授業料は二円、通学期間は一年間であった。上日寺に「おしえ細工」の掲額が残っている。
六、射水市
旧新湊市域
●特色
 藩政末期に寺子屋が一挙に設立されている。俳諧等町人文化が発達した町であるため、子弟教育には町人が主導権を取っている。ただ残された史料が少なく、詳細が分からない寺子屋が多い。
●師匠の略歴
石黒家 作道久々湊で兵助が文化十年に開塾し、子息に受け継がれ明治五年に至る。
往還寺 放生津町内の往還寺住職大磯覺琳が寺子屋を開き、明治初年まで子、孫と受け継がれた。
佐野家 屋号は菊屋。喜三右衛門が放生津町内に開塾し、子息が継承する。塾舎は間口が三間 奥行十間の二階建てで、師匠の居室を別に合計五室を教室に用い、百人程が通った。
善休寺 作道野村の善休寺住職岡野周融が寺子屋を開くと、これまで近辺に無かったこともあり寺子が急増する。そこで習熟別に三組に分けた。初級が丙組で、平仮名 名頭と童子教の読みを学び、珠算は乗九九を覚えた。次に乙組へ進んで村盡 国盡を書写し、四書の読みを大学から始め、算盤の加減法を練習した。上級が甲組で、商売往来と消息往来を書し、四書を引き続き読んだ。珠算は乗除まで修得した。更に最上級の組があり、実力のある門弟の希望者は、五経の素読や国史略 十八史略等を読んだ。
専念寺 本町で教育にも従事する。明治六年筆塚「墓碣銘」が建てられた。
中瀬家 放生津町内に三左衛門が開塾し、子息に受け継がれた。網元中瀬家の縁者かもしれない。
橋田半左衛門 七美八島で八島新村の医者松永氏の寺子屋を慶応二年に継承する。書を農閑期や夜間に集中して教授した。学制頒布以後に共和小学校の教員に就任している。
旧大島町域
●特色
 領域が限定されていて、かつ農事が多忙であったせいか不活発である。、各村の指導者が十人前後の寺子を相手に少人数で、あるいは事実上個人別に指導していたそうである。松丘善四郎、礒部清九郎、松田権右衛門等、小島 北高木 八塚 中野 若杉 北野の有志九人は、明治六年に学校設置の誓願を行い、十一月に知新小学校設置を成し遂げた。
●師匠の略歴
福田三右衛門 福田家の五代目(九代目義雄は大島町長)を継ぎ、中野で明治初年まで寺子屋を開いていた。地域内で唯一漢籍まで教授し、十八史略 唐詩選 孟子等を用いた。農業より力を入れていたそうである。
円広寺 円海は新開発村の園木仁平の嫡男に生まれた。幼少より学問を好み、家督を弟に譲り寺子屋を開く。妻もお針屋を開き、女児を教えている。実家の檀那寺である新湊金屋迎西寺の念仏道場としての性格を持っていたようで、明治八年に円海は同寺の使僧の資格を取り、自宅を円広寺とする。本堂は能登羽咋から持ってきたそうである。二十年四月から三十二年十一月まで新開発簡易小学校の仮校舎(二十五年明倫小学校)となった。
成川与次平 小林で開塾する。教科書には庭訓往来等を用いている。
旧大門町域
●特色
 この地域では寺社が積極的に教育に関与している。謝礼は盆暮れに分に応じて米や銭で支払い、時折豆 小豆 餅 菓子等を持っていった。
●師匠の略歴
朝山紋平 錦町の菓子屋朝山家五代目。嘉永五年から明治六年四月まで寺子屋を開き、八月大門雄山小学校教員に就任した。
稲垣示 棚田で作男五人を雇用する七百石から八百石程の農家で、嘉永二年八月二十日又平の長男として生まれた。銃や剣にも秀で、選抜され壮猶館で二年励んだ後に小杉で銃卒を指揮している。帯刀を許され、文久の頃に十人口を受けた。維新後三年間野上文山に師事し、明治六年新川郡小学講習所に入学する。翌年に卒業し、水戸田 大門 棚田で小学校教員になる。十年頃には石川県農学講習所に入学した。やがて政界に入り、自由民権の活動家として名を馳せて、衆議院議員にも選ばれた。自宅の大広間を使って住民子弟を教えたのは父の病気で家業を継いだ十一年頃であろう。
折橋家 十村折橋家の分家で、伊右衛門が西町で開塾する。孫の伊二まで継続し、寺子百人程度が通っていた。塾舎は間口四間 奥行十間で、師匠の部屋を別にし階上に一室 階下に三室を教室に用いた。
加藤作右衛門 村の開発者松本家の末裔で、文政元年に荒町で開塾する。明治二十年九月に筆塚「活筆走龍蛇」が建てられた。
櫛田神社 松原の櫛田神社四十三代目宮司山本周忠は、安永七年に大門領域で最初の寺子屋を開く。博芸で詩に優れ能筆家でもあり、多くの文献を所有していた。文政二年まで教え続けている。
 四十五代目宮司宮川直通は寺子屋継承を決意し、文政三年から教育に従事する。学制頒布後は串田広成小学校の教員に就任した。明治四十一年に筆塚が建てられている。
佐伯伝左衛門(号文才、菊賀) 田町の佐伯家四代目で、俳諧を能くした。文政二年から嘉永二年まで教育に従事した。
高橋九平 広上の旧家高橋家七代目の九右衛門は寺子屋教育に尽力し、公道小学校設立の際は田所市郎平に協力した。勘造と記した本もある。
田所市郎平 広上の素封家で、広教寺を借りて開塾する。明治六年四月公道小学校を寺坊に設立した。
佃貢 二口で漢方医と農業をし、寺子屋を開いた。寺子に鍛練を課したことに特徴があり、隣村からも通ってきた。年齢に応じ行程を図り、降雨の暗夜に山を登らせ、氏名の記された名札を持って帰らせ、翌日師匠が行って点検し、勇怯を勧戒した。また降雪の日に薄衣を纏って雪中を歩かせたり、戸外に立たせたりと試練を与え、春と秋には山で獣の追い方、木登や伐採を教え、橋上を渡り、梯子に登り、塀を越し、川を渡り、舟を漕ぎ、岸を躋り、といった避災 護身 応急処事の方法を身に付けさせた。師匠自らも六十余歳にして率先し、雪中鍛練の時には太刀を携え子弟を鼓舞した。
寺本吉二 布目沢で村役人を務め、安政五年に開塾する。明治六年以降は串田広成小学校の教員に就任し、更に家庭の事情で就学できない住民子弟を自宅に集めて教えた。十八年八月に筆塚が建立された。
堀家 水戸田で三代に渡って教育に従事し、孫次は明治六年七月水戸田洗耳小学校の教員に就任した。
蓮光寺 本村の蓮光寺十四世住職櫛本誉浄は、弘化三年から安政六年まで自坊で住民子弟の教育に尽力した。
旧小杉町域
●特色
 射水郡行政の中心であり、町人が積極的に開塾する。藻谷家では漢詩・俳句・和歌を能くした。女児の教育は小杉新町の倉田、滝田といったお針屋が専ら受け持っていた。
●師匠の略歴
油屋長兵(平)衛 本開発の出身で、文化末年に三ケで開塾する。
塩屋助三郎 能書家で知られ、三ケで元治元年に寺子屋を開いた。
渋谷清二 屋号は松枝屋。三ケで慶応の頃に開塾し、明治九年に和親小学校の教員に就任した。
下条屋小七郎 戸破で慶応の頃に開塾する。明治六年に和親小学校の教員に就任した。
富永延(円)造 戸破の佐野屋嘉右衛門の養子で、富永と改姓する。慶応の頃に寺子屋を開き、明治六年に和親小学校の教員に就任した。
西野与兵衛 屋号は土代屋。天明の頃に婦負郡土代村から戸破に移住する。山下の姓も使った。
松長与五郎(号陶庵) 開発屋本家の初代太郎兵衛は今開発村から小杉新町に移住し、酒造や質商をしていた。別家した太三郎は松夫と号す俳人である。二代太郎兵衛の代で五百八十九石余の田畑と銀五十貫匁を所持するまでになり、村方へ肥料代を融通している。寛延四年に相続した三代太郎兵衛は千石を目標に励み、別名前分を含め千三百石持高を達成する。安永二年山廻役に就任し、翌年十一月に次男与五郎に質屋を任せ、商いを覚えさせた上で百二石を与えて分家させた。 
 この初代(明和六年〜文政五年)は俳句を能くし、号を鴬一といった。二代与五郎が陶庵である。天
明三年に本家で生まれ養子に入る。寛政四年十歳で長福寺別庵に通い、享和元年雄山(島林文吾)に師事し、同三年に金陵黄石( 岡野黄石か)から書を学んだ。文化二年富山で鐘山(佐伯有融)より漢詩の教授を受ける。三十歳前半では高岡の開正寺住職宣名に就いた。寺子屋を文政末に開き天保に至る。三代目与五郎は陶斉と号して小杉で漢詩隆盛の基を築いた。なお本家六代太郎兵衛(文化十三年九月一日〜嘉永三年三月)も詩文に秀で、号は坦斎。嘉永三年に生まれの七代目太作(号立西)は初代の小杉町長となる。 
松元(本)泰造 池多に開塾する。春日社上に明治十八年八月十四日門弟が碑(「松本」とある)を建てた。
水上弥三郎(天保十二年〜明治初年、号北莱) 阿波徳島生まれで、武田勇次郎という武士であったが
風雅の世界に入る。加賀藩に仕えていたという説もあるが、天保十二年に小杉三ケへ到って定住する。
書 南画 詩 俳諧 茶の湯 活花 陶芸を能くし、特に伊万里風小杉焼の陶工として作品を残してい
る。手崎の水上屋弥三郎の養子になり、阿波北莱や赤絵勇次郎とも名乗った。更に松長陶庵の寺子屋を継承して、教育にも尽力した。水源町に筆塚がある。 
守山屋清平 稲積屋万蔵とも名乗る。戸破で天保の頃に開塾した。かなり盛況であったという。 
山田托渡 北手崎で寺子屋を開く。文政七年十一月十三日付で筆塚が建てられている。 
横堀家 金山上野の孫平は寺子屋を安政元年(五年と記した文書もある)に開き、明治三年に子息の庄八が継承した。五年浄土寺小学校の教員になり一部を自宅に置く。その後戸長、村長、郡会議員に選ばれる。 
若林家 若林鹿左衛門は屋号が若林屋であり、寛政十年町物書に就任しつつ開塾し、文化十二年に没。六左衛門(号花山)が継承し、明治五年八月竹林寺横に門弟により筆塚が建てられた。 
旧下村域
●特色
 農業地であり寺子は男児ばかりであるが、教育には力が入っていた。名頭 国盡商売往来等を教科書に使い、特に売薬行商の関係で習字が重視されている。束修に酒肴(料)を師匠へ、餅 赤飯煎豆を同門寺子へ渡した。謝儀には銭での納入が多く、米 味噌 野菜魚あるいは労力を提供した家もあった。春には畳代、晩秋に炭代を納めた。ただし貧困家庭へは一切を免除し、習字用品を貸与するのも慣例であった。また寺子は天神講を年数回と月の二十五日に開き、席書や師匠から訓話を受けた。 
●師匠の略歴
岩木太左衛門魯直(天明二年〜安政五年七月二十七日、号権斉) 大白石村に生まれ、五十九歳なってから江戸で御家流の書を学んだとも、三十八歳で帰郷し開塾したとも伝わる。漢籍や珠算も教えた。岩木教習所とも唱え、看板には「御家流幼稚筆道稽古處」 (現存)と掲げていた。
関原九郎平直入 最初総兵衛、父の名を相続する。那須半左衛門に学び、師匠の没後文久元年八月に寺子屋を開くと、名声は寒江村にまで及んだ。明治五年学制頒布以後に習字教員になる。門弟たちは三十四年に来遊中の井上圓了に揮毫をもらい頌徳碑を建設した。
竹脇甚五郎 岩木教習所で書を学び、師匠を継承した。明治五年十月七日に没した。
那須半左衛門蘇直頁(文化三年〜文久元年八月一日) 祖は那須資隆で、大江村から下村へ移住し帰農した。幼少時より足が不自由で農業をするのに支障があった。これを憂いた父は学問で身を立たせてやろうと思慮し、富山の恒川泰蔵の許に学ばせた。親の願いを違えず成績は優秀で、帰郷後に寺子屋を開いて、日々百数十人を教えた。名声は寒江村にまで及び、本郷・大塚・中沖・野田等からも通学してきている。更には手本だけをもらって家で学んでいる男女児が数多いた。
広瀬太郎左衛門信道(寛政十年〜嘉永五年三月四日、字伯路、号北園) 祖先は丹羽五郎左衛門と伝えられる。摺出寺村熊西宇兵衛に学んだ後、各地で経書を学び、京の人豊原氏と下村加茂の真宗正覚寺十一世慶翁から音楽の手解きを受けた。岡田栗園や宮永裳涯と交友する。文政二年父と同様組合頭に就任し、天保十五年(弘化元年)に田地割のとき用水路を改良し、水路を通して潅漑事業を行ったことでも知られている。また下村駅の再建のため、宿継御貸米七百石を藩から拝借し、その一部で宿救済基金として草高に百五十石を購入した。毎夜住民子弟を集めて教育に努め、経史も講じ人倫を諭したと伝えられている。明治十一年十一月には広瀬文哲により「北園先生之碑」が建てられた。
広瀬文哲郁(字文哉、号竹塢) 富山町石黒兵二の三男で、十九歳の時に広瀬信道の弟伊八郎の養子に入る。漢籍・詩文・書を能くし、富山町の横地元丈より種痘術を教わる。これは膿を取って植える方法であったようである。京都や東京に遊学し、伊藤博文や山岡鉄太郎たちとも交わった。教育にも尽力して、明治六年忠告小学校で校長に就任する。その後小杉町に移り、書や漢籍を教授する。三十五年九月八日に没した。
三澤吉郎 那須半左衛門に師事し、師匠の没後文久元年八月一日に寺子屋を開いた。慶応元年に塾を閉じて金沢で医術を学ぶ。その後石動町大谷龍玄の養子に入り医業に従事した。
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第三章 越中国の寺子屋総論

一、概要
民間の教育機関である寺子屋は、越中国でも藩政末期に数多く設立され、加賀藩も文政七年二月「御学政御修補に付、四民共御教導之儀は孝悌を先といたし候より外無之、凡人は先入主と成候而、幼少之折覚込候儀は其習生涯透り申ものゆえ第一蒙養を重んずる事に候」と達し、幼少教育の重要性を強調していた。町部はもとより郡部の住民は、仕事上の理由からも子供たちを熱心に寺子屋へ通わせていた。寺子屋といっても寺によるものは、だいたい主に他に開く師匠がいない地域で開塾するに止まる。師匠(私塾では先生、寺子屋では御師匠様)の職業は各地域の特徴と密接に関わり、寺子屋専業者は稀であった。それでは入塾から卒業までを眺めることにしよう。
@師匠選び
師匠を選ぶ基準を、当時の父母は師匠の人格・人望及び文字の筆法に置いていた。例えば砺波郡福田町(現高岡市)では寺子屋師匠が自筆の手本を各家庭に届け、父母は各手本の筆跡を比較しそれに師匠の人格も考慮に入れて決定し、後で師匠が訪問した際に返事をしたそうである。従って師匠には手本に誤りが無いよう、常に研鑽を怠らないことが大切であった。また七夕で飾った牡丹や菊等の造花を未就学児童に配りそれを受け取れば入門の意思と見做す、という地域もあったようである。書流は御家流が最も多く、他には持明院流等である。漢様(唐風)は稀であったが伝わっている。
A入塾
だいたい地元の有志が師匠であるため、採算や収支をそれほど重視せず運営しているため、父母の経費負担は少なく済んだ。入塾時には父母が子供を正装させ連れて行き、師匠に束修(物納可能)を渡すだけでなく、門弟には菓子類を配ることが常であった。謝儀は中元と歳暮の二回のみで、現金なら身分に応じ、物納なら白米一・二升や季節の野菜、魚などでよく、児童の糞尿という所もあった。寺子屋によっては別に畳料や炭料を納めた。師匠からは七夕や歳徳の手本を渡される所もある。 
入塾期は節句の翌日(三月四日、九月十日)が多く、男子は八・九歳から三〜六年間在籍した。女子の就学者は男子より少なかったものの、九・十歳から三年間ほど寺子屋通いをしている。また学則・学規を定めていた規模の大きいところも少なからずあった。
B授業
 師匠や地域により各々特長があるものの、概ね上級生が諸役に任じられて下級生を指導し、師匠は個々の学習進行状況を把握して課題を与え、激励した。
 まず仮名各種を覚えた後に往来物等の教科書を用いて学ぶが、師匠が寺子一人一人に手書きで渡す所が多く、また広徳館などで開発・編纂した物も使われた。これは絵図入りで興味を引きつつ、教訓話(心学)・地理・歴史・手紙文等を文例に、書写させる事で道徳教育と実学を兼ねた学習が出来るように工夫されている。更に中には素読を取り入れたり、上級者に漢籍を学ばせた師匠もいた。素読では解釈を加えず、習字教材や専用教材でまず師匠か上級生が範読し、それから一斉に素読した後に、各自が上級生の指導の下に暗唱する、という方法がよく採られた。
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 教材の進め方の一例をあげると、書写はまず仮名や数字・日記・名頭・町盡等から入り、国盡・商売往来・消息往来等へ進んで、実語教・童子教・千字文等で修了する。その後志望者へ四書(大学・中庸・論語・孟子)の素読を、始業前後に行った。
 この他に算術(珠算)を取り入れていた所もあり、加減乗除を基本に、有志者には開平・開立、八算以上へも進んだ。だが専門の珠算塾に通わせる父母も多かった。
 寺子は寺子屋に硯・硯箱・筆墨・文鎮・水入・拭布・墨挟等を自分の文庫に入れて置いてあり、通学時には草紙・弁当・下足札・上履き・雨具等を持参した。教室は男女に分かれていて、一脚三人掛の机(当初は飯台を使用)を使用した。大規模な寺子屋であると、良い席を確保するため朝早く登校して書物を置き、一旦帰宅したそうである。
 授業は八時頃より四時頃までだが、以前や以後に選択科目として漢籍素読や算術または謡曲などを開講した。習字では一般に藤巻という太筆を使った大字が奨励され、紙は土市または山田紙を用いた。初学者は上級生が手を取って書かせ、次に爪の痕を付けながら指先で書き示し、やがて独力で書けるように誘導した。また家では灰書・小糠書で練習した。一通り練習を終えたら清書をして、合格したら次の手本へ進んだ。
 一例を示そう。富山四方の寳山堂でのある日である。朝は食事前に町内単位で集団登校して朝学習をする。定座役が机を並べ、検断役が硯、草紙、手本を並べさせ、水を注いで墨を磨らせる。ただ磨らせるのではなく、その間に名頭や村名を読ませる。やがて調べ役が「墨上げよ」と号令すると皆は手本を開いて草紙に書き出す。朝食の時間が来ると、早く登校した町内から先に戻ることになっていて、目付役が「一番町いかっしゃい」「二番町いかっしゃい」と呼び立てる。
 朝食が終わって再登校すると、師匠が「師匠はん」「シーシー」の声の中で登場し、調べ役が無駄な食物や不用品を持っていないかを調べる。そして授業が始まり、大学・論語・女大学の読みを習う者は前に出て教わり、手習いの者は長番が回り訂正したり、行儀を直す。昼食の時間になると、朝と同様帰宅するが、夏には水判という判を腕に押して帰す。それは水遊びをしたらすぐ分かるようにするためである。午後に戻ると入口の庭で、長番が判調べをし、消えていると帳面に付けられる。
 午後の授業は清書が中心である。書いたら師匠の所へ持って行き直される。そこで「上々也」「上々見事也」「大上々見事也」の評価であれば次へ進む。山田紙を六折り(商売往来や消息往来は八折り)にし、端に前の手本の末の字を書き、下に姓名、裏に月日を記して提出すると、師匠はこれに自筆で手本を書いて明朝に渡す。清書が終わると次は九九の練習になる。師匠か取締役が主唱し、一同が和して唱える。一通り終わると長番が「しまわっしゃいやー」と発声し、道具を文庫に入れて、机とともに周りに積み上げる。ここで女子は礼をして退出、男子は机を背にして座り反省会をする。中央に師匠が座り、両側に取締と長番が並んで、目付はその日に悪いことをした者がいたら帳面を差し出す。これを見た師匠は、灸や尻叩きなど罰 を与えることになる。この後謡曲を習って、挨拶をして帰宅する。
C行事
 寺子屋には一般に夏休み(七月六日から二十五日)と冬休み(十二月二十一日から翌年正月二十日)があり、中には終業日に「上り仕舞」と称して、未明に登校し蝋燭を点して手習いをした後で、夜明けに用具を納めて師匠の訓示を受け各自が文庫等を持って帰宅する、という所もあった。なお、郡部では農閑期や夜間に集中して学習する場合が多かった。
 七夕の行事は多くの地域で盛大に行われている。桐の葉に文字を書いて供え、夜川に流して書道の上達を祈った。また献灯や字懸 などをする地域もあった。竹には短冊の他に牡丹・菊・菖蒲の造花や御殿・山等の模型を、女子も衣紋を作って吊し、胡瓜や茄子などを山のように供え、太鼓の伴奏で七夕の歌を唄い、町も夜中まで賑わった。
 五節句には清書の審査会があり優秀順に張り出された。正月には床の間の天神像や軸の前で試筆し、左義長の火に投じて上達を祈願した。また地域の神社で祭礼がある時には清書を奉納した。高岡では四月二十五日に関野神社境内の天満宮祭礼、富山では浄禅寺の天満宮(現於保多神社)の祭礼、放生津では曼陀羅寺の祭礼、砺波郡では水島(現小矢部市)の天満宮の祭礼等である。
 菅原道真命日の二十五日には毎月天神祭りを行う所もある。寺子の家庭は三十文ずつ賽銭を出し費用に充て、正面に幕を張り天満宮の絵を掲げ、神酒・鏡餅・菓子等を供え、寺子の席書(清書)を張り出す。師匠から訓話を聞き、その後で一同は神酒や草団子などを分け合い帰宅した。
 これらの行事は師匠と寺子の親睦会を兼ねている。天満宮の祭礼には、三〜五文の謝礼を各家庭から師匠が受け取るが、昼食会の費用に充てられている。節句ごとにも各人二〜五文の謝礼をする場合があるが、煎餅を寺子に配ることで返礼とした。地域差はあるが、行事があるたび師匠は寺子と会食するのが常であった。
D試験
 寺子屋の中には、毎月晦日に習熟しているかどうかを確認するため、「つごもり」というその月に学習した内容を試験する所もあった。ただ一般的には師匠が個々の寺子の到達状況を把握して、進度を決めていた。
また清書などで高い評価を受けた時は、父母が同門に生菓子等を配る程名誉な事であった。
E役付
 寺子は長幼や能力で役付けされ、新入生や下級生の面倒を見た。名称は長番・取締役・目付など寺子屋によって異なるが、授業準備から寺子の指導、懲戒まで万端を取り仕切った。
F卒業
 就学年限には特に決まりはないが、ほぼ三〜五年で課程を修了するか、家庭の事情で中途卒業になった。その時には父母が出頭して在学中の礼を述べ、同門一同に挨拶した上で子供を引き取り帰宅した。
二、寺子屋統計
 『日本庶民教育史』(乙竹岩造編)という大著がある。ここには大正四年六月より六年六月にかけ、全国で寺子屋教育経験者にアンケート調査をした結果が載っている。調査は、アンケート用紙を友人知己に託す・全国各男女師範学校最上級生徒が長期休暇で帰省の折りに三日を割いて調査してもらい回送してもらう、という方法で行われた。ただし調査の際には男は男の古老、女は女の古老に当たるものとした。配布数は一万二千余り、その内回収できたのは男二千五百四十人分・女五百五十人分の計三千九十人分であり、内訳は師匠及び補助者八十三人・寺子三千七人である。この中の富山県分は、天保より明治までの師匠男四人・寺子男五十四人と女十人で、別に一つの寺子屋から十人の報告があったがこれを一つとして数えている。アンケートの富山県分をグラフ化したものを史料として示した。
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【註釈】
●書風
 御家流は和流の一派であり、青蓮院尊円法親王創始の青蓮院流が江戸時代に大衆化したものと伝えられる。公文書の書体であった。
 持明院流も和様書体であり、室町時代の持明院基春の流派といわれる。
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        (佐々木志頭磨)
●寺子屋教科書
 端手本、名頭、商売往来、村名附、消息往来、千字文、国盡、町盡、実語教、諸證文、書翰文、寺子教訓書、庭訓往来、文章規範、童子教、農業往来、名物往来、宿駅名、銭日記、米日記、定書、加越能往来、熊谷状、百人一首、女今川、女大学、四書五経、大学、唐詩選、孝経、十八史略、蒙求、唐宋八家文 等
※五経とは易経・詩経・書経・礼記・春秋のこと。
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●字懸
 短冊を付けた大竹を押し立て太鼓で囃したてて村を通行すると、饗応される時もある(文化以前は富山町でもあった)。一行は通行中に「字懸」の声がかかると「やろう」と応じ、文字クイズを出された(大の字の上に一字を冠すると何という字になるか、等)。もしここで答えられなければ小旗を折られたり奪われたりし、答えられると師匠の評価が上がり入門者も増えたという。
●罰則例 
 食止 昼食なし
 留置 放課後も残って勉強
 鞭撻 竹竿で鞭撻
 謹慎 師匠の座傍で正座 
 掃除 教場や便所の掃除 
 破門 放校処分 
 警告 家庭に通知し訓戒
 他には、直立・線香を持って直立・席上直立・縄縛・灸・筆や文鎮をくわえる、といったものもあるが、実際は留置がほとんどで、打ったり縛ったりは極めて稀、よほどの者には筆や文鎮をくわえさせた。
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第二章 越中各地の郷学と私塾・算学と僧が学んだ学塾 続き

三、算学塾
 私塾や寺子屋とは違い、読み書きとは違う算学一科目を教える塾がある。幼少者には珠算を中心に、青少年には珠算を用いて和算を教え、一部は実践的に応用し改暦や測量等にも従事していた。特に薬都富山町では関孝和の関流が盛んで、八算・見九・雑割・相場割・利息割・差分・盈明・材割・交会・方程式・開平開立・点竄等が学ばれていた。
@砺波郡
 砺波鷹栖の四谷儀平は、藩政末期から明治初年に六十人の門弟へ珠算を教えた。開平開立まで進み、余技として置立の引算練習をしていた。栴檀野一ノ谷の仁兵衛は婦中の音川村に招かれ教えている。
 城端蓑谷の佐々木半四郎も同時期に算学を教え、藩の碁盤割り・検地にも従事した。
 福光西勝寺村の佐々木藤左衛門(寛政十二年〜明治十二年)は砺波郡縄張役と村肝煎を努め、検地に従事すること四十年、明治三年に藩から表彰され、鷹栖村で五石を受けた。算学で知られ、著書もある。その子息信平(幼名和三郎)も父から習字や算学を学んだが、体が弱く農業には不向きであったため、明治二十七年二十八歳の時、福光の郵便局初代局長になった。
 福光小山の佐々木吉左衛門秀綱(頼成村湯浅定繁の門)の門弟には、礪波小杉の中沢兵三郎嘉親や福野田尻の金田与平治等がいる。
 福野森清の高儀兵平(折橋小左衛門門弟)は北野天満宮に算額を奉納する。頼成村湯浅定繁(五十嵐篤好の門)一門は和算家として知られ、広瀬舘の湯浅権蔵高繁・豊蔵直繁の兄弟は、安政六年に福光八幡宮、湯浅重右衛門は明治十五年に小坂村社に算額を奉納した。
 城端の西村太冲篤行(号審之、得一館)は、明和四年西下町で商人蓑谷長兵衛(蓑谷村から移住)の子に生まれ、天明三年十七歳京で医術を学びつつ、西村千助遠里より天文暦学を学んだ。同七年九月二十二日に師が七十歳で没し、門弟一同から推挙され、後継者として西村を名乗ることになった。翌年に大坂で麻田剛立への入門を願い、寛政元年に許される。ここで高橋至時や間重富等後に幕府天文方で寛政改暦を行う者達と同門になり、以降親しく交際することになる。寛政十一年三十三歳藩主前田治脩に召され、明倫堂で天文学を講ずるが、陰陽の講義を望んだ藩の希望とは異なったため、京へ戻る意向を伝える。辞任は止むを得ずとしても、優れた人材を手放したくない藩は説得に努め、結局城端に住み毎年金五両を給する待遇で留まった。文化六年まで宗林寺町に医院を開き、天体観測をしていた。伊能忠敬との接触を図ったが、機密漏洩を恐れた藩から止められている。その後金沢に移り、文政四年七月四十一歳で十五人扶持を受け、寺社奉行下で藩医の身分になった。金沢分限絵図の作成を計画していた藩は、翌年正月より遠藤数馬高mの指揮下に作業を開始した。師匠の太冲もこれに参画し、天保元年十二月に完成を見る。また文政六年時制の改訂を行い、十三分割法から十二分割法に改める。同八年より毎年気朔暦を製した。天文学を教え、門下には茶室康哉、米室白裕、城端白蒔絵師の小原治五衛門宗好、石黒信由、大橋作之進等錚々たる人物がいる。著書も多く残し、天保六年五月二十一日六十九歳で没した。長男十一郎は京で西村遠里の跡を継ぎ、次男長兵衛は城端の蓑谷家を嗣ぐ。遺業を引き継いだのは四男政行佐左衛門で、藩医になり天保六年七人扶持を受ける。気朔暦を継続して作り、金府日時用略を提出した。天保七年九月十五日には氷見で天体観測もやっている。
 戸出の竹村屋七郎右衛門(寛政四年九月〜天保四年十一月、字子范、号仲宝)こと菊池橘五郎与之は石黒信由に学び、文化五年一(五)月と同十一年十一月に算法の秘法を解答する。同十年三月高瀬神社に算額を奉納した。同三年四月二十三日の横町大火後の復興に尽力し、文政七年十二月に所方算用聞役に就任する。著書も残している。門弟には福野の大屋和一郎厚以や福光の源五兵衛正尚等がいる(両人とも文化十年福光宇佐八幡宮に算額を奉納)。縄蔵村の長尾弥左衛門矩道(寛政十一年〜明治二年)も門弟で、縄張人として礪波郡や能登で活動する。門弟を多く抱え、天保八年細木村の五ヶ村神社・安政三年縄蔵村の細木神社に算額を奉納したのは、門下の山田野出村の西甚蔵好徳である。
 古戸出の大野彦次郎(幼名彦太郎、号豊庫)も石黒信由門弟で、天保元年三月に縄張役・測量掛に就任し、後に金沢へ移る。文化十年三月に安居の観世音堂に算額を奉納した。
 今石動の岩尾滝村岩村善右衛門(文化十一年一月〜明治三十年四月)は、岩尾滝村山田長次郎五男で今石動上野村岩村四郎兵衛次女いとを娶る。明治十三年愛宕神社絵馬堂に横百三十四p・縦七十七pの算額を奉納し、十九年三月『伝開算目録』を出版する。門弟には斎田外次郎や若宮七三郎等がいる。
 立野では笹川の石黒信由門人黒木義則が天保後期に国学や算学を研究して二十代で算額を奉納する。五十嵐篤好の門人高田嶋村大井源五郎(文政八年〜明治四十一年)は後の立野村長源与八、山田俊秀、篠島豊次郎等の門弟を持ち、新川郡五十三ケ村に出張して測量業務に励んだ。公正を重んじた人で、碁や将棋が趣味であったと伝えられている。また中保太平は明治初年に算木を用いた算学塾を開いた。
 他にも放寺村肝煎で文政二年縄張役に任じられた清都彦右衛門や、五十嵐篤好門人で文化十一年三月に金沢野町の天満宮へ算額を奉納した横腰村の矢後助右衛門がいるが、門弟を持った確証はない。
A射水郡
 新湊には十村の石黒家がある。宝暦十年十二月二十八日に生まれた藤右衛門信由(号高樹、松香軒)は、三歳より祖父に養われ、天明四年八月十五日藤右衛門を襲名した(持高八十八石四斗八升)。天明二年十一月十九日中田高寛に入門し算学を学ぶ。また西村太冲から天文暦学を、宮井安泰から測遠術を教わった(寛政十三年免許皆伝)。本多利明の洋算研究書を門人河野久太郎を通じて入手する。磁石盤を考案し、それを高岡御馬出町の銅工である錺屋清六が製作した。寛政七年射水郡縄張役、文化十四年新田才許に就任し、測量や絵図製作に従事した。享和三年八月三日伊能忠敬と会い、翌日測量に同道している。文政十三年六月郡売薬方主附、天保六年に遠藤数馬の下で十七年かけた三州地図を完成し、翌年七月十五人扶持郡年寄に進むが、八月二十七日御用番御年寄前田美作守の指示で魚津改方同心から米隠匿の嫌疑をかけられる。同四年以来凶作が続いているにもかかわらず、石黒家の経営が拡大していることからきた疑いであった。そして十二月三日七十七歳で没する。その時の持高は五百九十石七斗二升六合(内石黒家縮高天保五年十一月三百六十五石二斗五升)であった。
 次男信易(寛政元年九月九日〜弘化三年一月二十日)が跡を継ぎ、文化十三年縄張役、翌年肝煎に就任する。算学は父に学び、文化五年八幡宮に算額を納している。また同九年から天保六年にかけ領内六十三ヶ所を測量し、地図を作成した。高木村(小矢部)の河端太助政秀、堀田村(氷見)の一河彦次郎波索、柳瀬村(礪波)の堺井権右衛門圭逸、上牧野村(高岡)の大野弥三郎雉里などの門弟を抱えたが、病気がちのため、嗣子信之(文化八年十二月十四日〜嘉永五年十二月十三日)が代理で活動する。
 信之は天保七年七月に新田才許と蔭聞役及び絵図方御用を仰せつかる。弘化三年には幕吏で和洋算に通じていた内田五観に書簡で入門する。藩には測量や検地での功績を認められ賞せられた。嘉永三年四十才の時に平十村に進み、六月海防のため藩の海岸巡見に随行、翌年加越能三州海岸絵図を作成した。
 長男の信基(天保七年四月一日〜明治二年九月十八日)も十一歳で父と共に内田五観に入門し、上野国群馬郡斎藤宜義(和田寧の門下)に師事する。円理について研究し、安政三年二十一歳で倶利伽羅不動堂に算額を奉納した。同五年叔父北本栗や弟筏井甚蔵と遊歴の数学者法道寺善から教えを受けた。文久二年にはスウィフトタットル彗星の観測に成功し、同三・四年に暦を作成する。測量術の著書として『田地割制度』を著した。公職にあっては、嘉永六年七月新田才許・測量方御用に就任、九月より測量・改修工事等を行い、信由の三州絵図を修正する。安政五年二十三歳で絵図方御用になり、十一月幕府外国奉行巡察用の地図を作成した。文久元年イギリス船海路測量御用、同三年軍艦絵図方御用、慶応二年加賀国金岩港を測量、翌年越前国敦賀から琵琶湖への運河計画を立て測量する。五月海岸製鉄所の見分、七月幕府外国奉行の海岸見分に同行する。同四年御台場建設のため設計・計測をする。 
 信易の次男与三八(天保三年九月十九日〜明治十九年九月二十一日)は、嘉永五年二十一歳の時に高木村北本家に養子に入り、半兵衛、半蔵(造)、栗と名前を改める。号は水明や乾坤一草堂主人。富山で佐伯櫻谷に学び、安政末年に江戸で関流直系内田五観に入門し、関流算学免許目録皆伝となる。大坂で教えながら著書も出すが、帰郷し文久三年三十二歳で加賀藩郡奉行直支配として軍艦發機丸に乗船、測量と絵図作成に従事した。この時将軍徳川家茂上京があり、海路の警備に当たって、兵庫に下船し陸路帰郷している。慶応三年に運河計画に携わり、新田才許、砺波郡・射水郡才許里正、測量方・絵図方御用等に任じられた。また明治三年八月高岡で地検方有用の学科や算術を十村子弟に教授し、藩より賞せられている。その後も六年新川県第十六大区戸長、地券取調掛、八年地租改正掛、九年高岡町地租改正掛、十二年石川県議会議員と数々の要職に就いた。
 信由の娘婿といわれる二塚の筏井四郎衛門満好にも門弟が多かった。二十四代仁左衛門の八男でありながら家を継ぎ、西広上村肝煎を努めた。天保六年十月二十四日に没している。高岡の沖七右衛門正之、上市吉助繁勝、宮丸六郎右衛門尹時、米嶋平助少春、熊木九郎三郎美英、佐野弥四郎秋善、黒田長次郎唯水、筏井哲次郎満直、東広上村(大門)の竹田喜左衛門吉成等が門弟である。子孫の満晴(明治六年に六十三歳で没)も門弟を有していた。
 信之の子息で信基の弟甚右衛門(天保十年二月〜明治四十三年十月五日)は二塚村上伏間江筏井家の養子に入る。甚造と改め、算学を江戸から来た法導寺善に、漢学を野上文山と園田朝弼に学んだ。村肝煎を努め、運河事業にも関わった。明治十九年に越中汽船会社社長に就任した。
 東条には石黒信由門弟の十村役折橋小左衛門義浚がいる。下村の遠藤文三郎之貫や森清村(福野)高儀兵平由英等射水郡と砺波郡で門弟を持っていた。 
 また広上には、氷見の大西彦右衛門に算術を教えた九左衛門がいた。
 高岡横田今町の医者市姫屋は俳句や算学も能くし、門弟も有していた。孫の林五郎兵衛義清(幼名政太郎、号五雲軒五卓)は文久三年十一月一日に生まれ、十八歳の時に江戸や京で医術を学ぶ。帰郷し開院する合間に、付近の子弟に算術を教えた。安政二年門弟のため『算学稽古記』を著す。天文・暦・博物・農学に通じ、近所から明日の天気まで聞かれたという。俳諧を金沢の大橋卓文に学び、佐賀野屋伝右衛門と交際した。明治十年聖安寺に寿碑が建てられ、二十七年九月一日七十五歳で没した。
 二上村光蓮寺に生まれた栂森観亮(弘化三年八月十七日〜明治二十二年五月三十日)は、八歳で三部経を誦読し、文久三年三月加賀国二日市、大聖寺で算学と天文学を学んだ。翌年京で暦学にも通じた佐田介石や中谷桑南に就き宗乗を学びつつ算学、特に天文学を肥後の人海石や紀伊の人祖南の書を読んで学ぶ。父が没したため帰郷し寺院を継承すると共に医院を開き、算学も教授した。洞窟で採光を研究し管天儀や囘照儀等を製す。明治七年には合寺問題で五年間滞京し、解決に尽力している。
B新川郡
 水橋では売薬が主産業のため珠算が盛んであり、肘崎仁重郎や広野屋弥三郎といった和算家がいた。水橋の売薬商の家に生まれた伊藤吉郎祐義は富山の高木吉兵衛に学び、河川の改修や農政を担当し、安政六年九月二十二日に没。明治維新前後には新堀村の宮田延平、金尾村の伝右エ門、的場村の立尾甚吉(天保元年七月七日生まれ)が開塾している。下砂子坂村には久世源作義胤(文化五年〜明治八年七月十四日、本姓橘、字中之、号梅堂、一二三堂等)がいる。辻村家から久世家に入り、母は黒川良安の叔母。富山の中田家や高木久蔵に算学を学び、天保九年関流八伝の免許を得る。父の跡を継ぎ弘化二年より山廻役等を歴任する。明治三年に央と改名し、翌年里正次列、土木掛を務めた。七年には地租改正を担当するが、翌年五十四歳で没した。算学の普及にも力を入れ、測量に関する著書も多い。門人は各郡に跨がっている。石黒家でも学んだと書いた本もある。曲淵村堀田義祐は毫照寺住職菅野智恩(二世、京で珠算を学び、寺子屋には三十四人が通学)に入門し、和算塾を開く。地租改正にも尽力し、明治九年十一月には同寺に碑が建てられた。明治二十八年十二月十日七十五歳で没。
 西岩瀬でも、保科茂八郎が天保四年に珠算・算術を専門に教える玉梅堂を開き、明治五年には男子四十人・女子十人が通っていた。町年寄を努め、茂八焼の陶芸で名を知られていた。翌年に閉塾している。
 滑川の熊林村には宝田家から松倉城主の末裔椎名家に養子に入った椎名道三(安田山道三、寛政二年〜安政五年五月五日)がいて、実家の兄宗兵衛(号香堂)と協力して測量・開拓に尽力しているが、特に決まった師匠や弟子はいなかった。
 入善小摺戸では福沢政次が農業の傍ら天保の頃より珠算・算術を教えている。泊では長右衛門定規が算術を教えた。小間物の行商で下総国に行った際、山武郡正気村の関流算学者植松是勝に師事した。
 文政四年九月末に泊の脇本陣・蔵宿で関流和算を学んだ小沢屋与三衛門を、遊歴の和算家 山口倉八和が訪れ、町中から関心のある人々が集って勉強会が開かれた。高岡では石黒信由とも会っている。
 明治維新後には筆算を用いた洋算が入ってきた。小学校で算術が導入されたからであるが、新庄町の竹内惟直は明治八年に専門塾此君閣を開き、広範囲から門弟を集めた。
C婦負郡
 富山町普泉寺前には、詳細な江戸絵図を作成したため幕府から注意を受けた(寛文十年十二月)と伝えられる、藤井半智長方がいる。 遠近道印おちこちどういん、図翁とも呼ばれ通称六郎兵衛、絵画能力に優れ書物屋を営み、貴重本の写本を大名に販売していた。越中国(富山?)に寛永五年前後に生まれ、長崎又は京で測量術を学び江戸に住むが、貞享三年五十九歳から元禄三年六十三歳の間に富山藩医に就任したようである。加賀藩甲州流兵学の有沢永貞に測量術と絵図作成技術を伝え、やがてそれが安達弼亮により富山藩へ伝えられた。宝永七年から正徳元年までは存在が確認されている。金二十両を受け、明暦大火後の江戸復興計画に関与したとも言われるが、確証はない。
 松本武太夫逸應は独自に算学で一派を形成した富山藩士(?)であり、門弟には近郷逸良、小西屋久兵衛、八重崎屋和三郎等がいる。また近郷門下に村杉屋宇兵衛、米屋甚助、立石勘十郎、米屋市左衛門等がいる。一門の多くが算額を奉納したが、天明三年九月頃中田高寛により不完全を指摘される。
 長柄町に藩士中田高清の子息として生まれた文蔵高寛(元文四年三月二日〜享和二年十一月五日、号文敬、孔卜軒)は十四俵の軽輩ではあるが、広瀬吉兵衛より乗除を学び、その後に藩士松本武太夫にも師事する。入江兵庫脩敬著の和算書が木村羽(卯)左衛門宅にあると聞くや、頼んでこれを借りて勉強した。そんな高寛の努力を藩主前田利與は認め、安永二年に江戸の山路主住(関流直三伝)の許に入門させること六年、師の没後は子息之徽と門弟の米沢藩士藤田定資に八年就いた。帰郷すると桃井町に算学塾を開くと、伊勢国・飛騨国高山・大聖寺等からも門弟が集まり数百人を数えた。高弟三十六人には石黒信由や高木広当等の名もある。七十六部百三冊もの書を著した。子息源兵衛高傍も父に算学を学んだ。
 高木屋吉兵衛も塾を持ち、そこへ岩城吉兵衛が入門してきた。後の高木吉兵衛広当である。中田高寛にも師事し、算学を普及させた。
 子息久蔵允胤も弟子を持ち、その中に稲野三重郎盛胤(号怡寛)がいる。中田高寛門下の石黒九兵衛(栄之進)直綱から算学を学び、その後高木父子に師事して文化十二年五月に見題免許を得る。長柄町に算学塾を開いた。明治四年正月十五日に七十二歳で没する。子息直矩は父から算学を学び、将来を嘱望されたが、元治元年六月一日四十歳で没した。
 算用吏の加賀藩士に瀧川家と三好家がある。天明七年生まれの瀧川新平有乂(号子龍、崇山)は、、本多利明に学んで算用場に勤めた。嗣子秀蔵友直(文化十三年〜文久二年二月二十九日、号子益)も算用吏を勤め(四十俵)、次子金蔵正直は三好乙三郎賢能の養子になるが早世し、三男善蔵質直(四十俵、明治十三年十一月十一日五十九歳で没)が替わりに入る。富山へ赴任した際に子息の松太郎貞行(号醉月)が泉町で算学塾を開いた。後に八尾や高岡税務署へ勤務した。明治四十五年四月五日に五十七歳で没した。
 他にも、臨池居小西家の分家が、本家の門弟に算術を教えている。
 八尾の大長谷では、山口太郎右衛門、桂甚六、宮崎安次郎、長谷川三四郎が、休日や夜間に珠算を村の青年達に教えていた。
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四、学塾 仏教教義の教育・研究は浄土真宗の勢力が強い越中国で盛んに行われ、特に氷見が熱心であった。本講座では仏教学を宗学、宗学を教える機関を学塾と呼ぶこととし、宗派ごとに見ていくことにする。
@浄土真宗本願寺派
 氷見下伊勢の西光寺住職六世善空安貞は門弟の教育に尽力する。延宝五年に生まれ、学林二代能化知空に学ぶ。倹約に努め、安い紙を求めて八尾に買いに行くこと暫しと伝わる。また立山登山の際に空中で三尊の姿が現れ、同行者たちが合掌礼拝するのを余所に、一人魔の所作と見破ったという。元文二年の臨終に際して、学塾の経営と宗学の発展を青山義教に託した。七世を嗣ぐことになる岩垣善意こと善意芳山(元禄十一年〜安永四年二月二十三日、号尺伸堂、無人閣)は、稲積村農家大坪三左衛門の子息として生まれ、安貞に学んだ後に養子になり、義教と京に学ぶ。元文二年四十歳で住職に就き、翌年法橋並びに権律師に任じられる。十二月に自坊に義教の後援で尺伸堂を設立し、出張講義も行った。門弟数は五百人を数え、多くの著書があった。宝暦五年義教が能化職就任で多忙になったため、その門弟を預かっている。門弟簿には寛政元年から文政十二年まであるので、学塾はその後も継続していたことが分かる。養子八世善譲芳什(享保七年〜宝暦九年、字子恭、号北湖)、養子九世善済(享保二十年〜寛政元年、字若楫、号忘機)と続き、十世は養子の善容義霜(宝暦十年〜天保三年、字子明、別名慶哉)で、門弟には智雄(知雄)などがいる。七代勧学智洞や古国府勝興寺住職闡郁等と三業惑乱に積極的に関わったため、文化三年に幕府より脱衣追放の判決を受け、天保元年には江戸で幽閉、三年に七十二歳で没する。以後尺伸堂は衰退する。
 氷見論田の願生寺住職十五世滝山義浄(文政三年〜明治十九年三月一日)は、矢田部大誓寺に生まれた。十五歳で氷見町円満寺住職義淳から究学の心を教わり、嘉永元年京で本願寺に学ぶ。明治七年大講義に任じられ、国内を回り学問を奨め、仏教の教えを説いた。また自坊に安祥閣を設立し、明治十年代の門弟帳によれば、石川・長野・新潟各県からも学びに来ていたことが分かる。 
 氷見南上の円満寺住職九世青山義教(元禄七年〜明和五年)は、能登国羽咋四町村小原家四代目治兵衛吉道の子息に生まれ医者を志すが、宝暦四年十一歳で出家して円満寺に入った。西光寺の安貞に学んで、京に芳山と学問に出るが、勉強を怠り無駄使いをしたことが知れ親戚や檀家に厳しく戒められた。ここで心機一転し学問に励み、ついには五代目能化職に任じられるまでになった。自坊に大心海を設立し、門弟を育成すると共に多くの著書を残した。十世義淳(別名玄天、字教曜)は漢詩や和歌に優れ、弘化二年に没する。十一世義天は書画に秀でたが、嘉永五年に大心海が焼失し、その上弟子が嘉永七年と安政二年に曹洞宗光禅寺雲水相手に大喧嘩する事件を起こす。次の義浄(文化十四年〜明治十九年)は義天没後に覚円寺持浄の門下に入る。
 現新湊朴木の覚円寺住職十七世随念持浄(天明三年〜安政六年十二月二十三日)は戸出村報恩寺に生まれ、寛政八年義霜に入門し、三十三歳で塚原村覚円寺に入寺した。大心海門で越後国興隆と僧朗に学んだ後宗学を自坊で講じ、曇華屈と名付ける。明治二十年には勧学を追贈された。門下には孫で氷見薮田光福寺十五世薮波浄慧(嘉永五年〜明治三十九年九月)や、縁戚で宇波慈光寺生まれの熊無憶念寺十七世滝水薫什(天保十一年〜明治三十九年十月)がいる。二人とも高岡の待賢室でも学び、同志として農業改良と教壇改革に尽力するが、明治二十四年に僧籍を剥脱される。覚円寺には二人の顕彰碑が建てられた。
 上市明光寺住職十四世霊潭(元禄二年〜明和六年)は、京で小矢部埴生出身の華厳宗鳳潭、本願寺派二代能化知空、大谷派初代講師慧空に学んだ後享和二年二十九歳で帰郷し、宗学教育に当たった。高岡の専称寺で講義し僧樸等の門弟を育てた。著作は二十一部五十四巻を数える。僧鎔は養子。
 宇奈月浦山の善巧寺僧鎔(雪山慶叟、享保七年〜天明三年、字子練、号雪山、空華、甘露、仰峯)は市江村(現富山市)渡辺彦左衛門の子息で、旅行中の霊潭に見出だされ、十一歳で得度、二十一歳で善巧寺に入った後、京で陳善院僧樸(霊潭に学び、京で修学する。米を炊く時間まで惜しみ研究に努め、「生米僧樸」の異名を取った)に入門し、上首になった。師の臨終に際し蔵書を譲られ、宝暦八年三十六歳の時、本願寺の強い勧めで自坊の東隣に甘露室を建て、そこに空華学寮(空華廬)を設立する。明和二年に十三条の掟書きを定め、学業の大切さを説いた。著書も残し、門弟は二百三十七人、墓前入門者も六十二人いて、空華派と言われるほどであった。天保十二年に碑が建てられている。
 空華廬を継いだ門弟は、滑川高柳明楽寺住職十三世柔遠(字子帰、号柳渓)で、十年間は出張し新規入門者も師の門弟としていた。また大蔵経募財を始めるまでの十四年間は講義謝礼全て空華廬に納めていた。その後自坊に移して門弟教育に力を入れ、講義録も残っている。門弟は百八十一人だが、没後に四百九人が入門の扱いを受けている。また門下の印定と印持の兄弟・巧便・令玄・行照は勧学、目云(大和国滝上寺に入寺し学寮華蔵閣を設置)は司教に任じられている。継承者の道隠は三業惑乱で古義派の中心で、文化三年七月退隠処分となる。義諦は安居の講者になった。
 八尾茗ケ原妙覚寺住職の玉潭(享保七年〜天明二年七月二十三日)も自坊に善解室を設立している。摂津国泰厳に入門し、著書も『安楽集伝灯録』六巻等九部がある。その後を可乗、浄中が嗣ぎ、その長男巧便(天明二年〜嘉永四年八月一日、号浄信、荷沢)は寛政六年十三歳で柔遠の門に入り、道隠にも学ぶ。天保九年に勧学に就任し、著書も三十六部を数えた。三百七十六人の門弟を持ち、中から勧学に就任する僧も出ている。御前講の命を受け上洛し、学林で没した。
 上市中小泉明覚寺二十世住職智眼(寛政十年〜明治元年十月十二日、号消除房)は、十八世正秀四男に生まれ、幼少時乳母の不注意で左手の指と掌が癒着してしまう。しかし屈折する事無く京や美濃国行照の金華寮や僧鎔・柔遠の著書に学び、自著数十部と門弟数百人を持った。寺坊は長兄が嗣がず叔父廓了が十九世になっていたが、文政十二年に亡くなりその跡を継ぐ。坊内に四間×六間の学寮を建設し、二十人内外がここで講義を受けていた。六十二歳で助教に就任。晩年に勝興寺から講義の依頼があるものの、病気で出来なかったため、大意を書に認めて送ったのが絶筆になった。没後に司教の学階を贈られた。 
 三日市専徳寺十四世泰順の次男印順(文政元年八月十日〜明治二十二年七月十八日)は、九歳で三部教を習う。翌年に上市の広田文城に経書・史学・句読を学び、十六歳で富山通坊空華の社中に加わる。この年に上洛し学林に入り、その後八年間諸国を巡り学問に励んだ。天保十三年十月に帰郷し、十二月二十日婦負郡光雲寺に養子に入った。二十五歳の時である。翌年二月に再上洛し、嘉永四年助教に就任する。四十二歳で養父月海の跡を継ぎ十六世になると、四間半×六間の学寮を建てて仏母堂と名付け、巧便の学寮をここに移して継承した。明治六年まで続け、三百八十余人の門弟を有す。中には越前・加賀・美濃・大和・肥後から来た修業僧もいた。十八年空華教校総監、十九年別院知堂、二十年勧学に就任した。
 水橋東天神町照蓮寺十五世の藤枝令玄(安永四年〜嘉永二年八月二十一日)は大山町福沢大福寺門徒の家に生まれ、照蓮寺の養子となる。寛政五年六月柔遠に入門して天台・大乗の教えを考究し、自坊に学塾玄々堂を開いた。天保十四年勧学に任ぜられ、三十年教育に専心する。門弟は四百人余、弘化三年学校代講を務め、観念治門を講じる。また本願寺奥書院で諡註八番問答を論じた。嘉永二年八月二十一日七十五歳で没。子息令道(十六世、十八世)と玄應(十七世)も高名。
 富山下飯野光専寺十三世宗照の長男で継承した日影達照(文化十年〜明治十二年九月十二日)は覚玄とも称し、杳旭や行照(美濃国願誓寺)に学ぶ。嘉永頃に自坊に学舎護法室を建て、慶応二年経蔵の獅吼蔵を整備して門弟数百名を教育する。明治元年司教、十一年権大講義となる。著書も多く、二十四年三月十六日に勧学を贈られた。
 砺波郡の現高岡中田常国の専竜寺住職第九世顧行は、加賀国河北郡倉尾に生まれ、芳山に学んだ。三業惑乱の際は水波寺院総代として鎮定に努めた。本堂建立にあたり矢来を九尺に広げて講義処とし、後戸を六尺にし御内陣を狭めて所化(生徒宿泊設備)に当てた。
 庄川金屋光照寺十六世高桑慶道次男の師道(文化十二年〜明治十八年、字金溪子)は君章、緑天とも名乗り、十四歳の時に石堤長光寺雪象に学び、二十二歳で十八世住職に就任する。安政六年寺内に消雲塾を設け門弟教育に努めた。明治七年八月司教に任じられ、「散善義深心釈」を講じた。没後の二十四年三月十六日に勧学を贈られている。
 水戸田村市井村光照寺住職永護(文化九年七月十七日〜明治二十五年二月十六日、姓公文名)は、一切経を研究し、明治維新後に金沢綜練教校や水波教校で教鞭を執る。後に自坊で宗学を教え、二十二年に司教、二十五年に勧学・堂班内陣上座等に就任するが、直後に没する。
 真宗二派は明治に入ると組織的な宗学教育を企図する。大谷派が九年に越中教校を設立したのに対し本願寺派も各府県ごとに一・二校を設置することを目標とした。富山で空華教校が九年諏訪川原に開校し、高岡でも十四年十月に伏木古国府勝興寺庫裏を使い水波教校を設けた。対象が射水・砺波両郡の寺院子弟であったことからの名称であった。科目は越中教校に準じたが小規模で、毎年十人程の卒業であったという。校舎は十八年秋高岡片原横町の旧酬恩舍、二十四年秋桜馬場の旧高岡病院、二十六年秋古城公園内旧射水郡会議事堂を転々とし、二十七年十二月富山の空華教校と合併し、徳風教校となり翌年一月富山の諏訪川原に開校したが、やがて閉校する。
A浄土真宗大谷派
 高岡の横川原町開正寺住職八世自然(字子牽)は、宝暦八年自坊に雲処堂を設立し、学寮・経堂を建 設した。秋と冬に大会を催し、舶来の教典も集めた。詩集『高陵風雅』(明和四年)の選者としても知 られる。
 九世宣明(号巴陵)は寛延三年三月五日砺波郡太美村小院瀬見(福光)農家山口家に生まれる。八歳で加賀国了現に漢籍を学び、十八歳で京の大谷派高倉学寮に留学した。そこで慧琳、随慧に学び、南都・初瀬の名刹を巡り、学匠・倶舍・唯識・唯摩・勝鬘等の大乗教学を研究する。そのため倶舍宣明と言われ、高倉学寮で唯識論「瑜伽師地論」を講じることになった。天明二年開正寺に入り、雲処堂で講義をする。門弟は『隷名記』によれば四百五十五人を数え、美濃・尾張・三河、果ては九州からも集まった。寛政三年学階の擬講、同五年嗣講、文化八年講師へと進む。文政四年五月七十二歳で没し、境内に碑が建てられた。著作も五十部余りある。寺務を退いた後は円乗院と称した。
 門弟に上市稗田の円満寺住職霊暀正慶(安永四年〜嘉永四年)がいる。八歳で京に学び、十六歳で経典を講義するほどの俊才であったが、更に学問を重ね文政七年五十歳で嗣講に就任する。六十六歳で眼を患い、二年後には失明状態になったが、嘉永二年十一代講師に進み、頓成事件で揺れる宗派にあり同四年に『愚禿鈔』を安楽椅子に乗せられ講義する。自坊に洗心寮を設立し、著述も八十六部を数えた。
 今石動上新田長福寺住職恵月鳳麟(寛政九年〜文久三年八月十三日)も高倉学寮で宣明に師事し、寮司、文久元年嗣講へ進む。興福寺や延暦寺でも倶舎宗・唯識宗・天台宗等を学び、その後自坊で宗学を教えた。同三年に『選択集』を講じ、江戸でも浅草本願寺に於いて浄土論を講義するが、その最中に倒れる。主著は二巻あり、院号は乗光院。
 同じく高倉学寮で宣明に学んだ高岡の光誓寺住職亮空は、文政元年に寮司、後年に擬講へ進む。夏季の一定期間に学僧を集め『勝曼経』を講じた。著書は二部ある。天保二年二月十四日没。
 氷見新町の円照寺住職二十三世菊地静誓(号鎧遊)は、嘉永元年に現在の西礪波郡水島村勝満寺に生まれ、十四歳で円照寺に入る。富山で岡田栗園に、金沢で医家永山平太に学んだ後、京で漢学者広部鳥道や石井発三郎に師事した。その上で改めて宗学を京で修め、明治二十二年権中助教に就任する。全国の寺院を回り教義を伝える合間に、自筆手本で読み書きも見ていた。
 宗派は明治九年に越中教校を設立する。高岡でまず片原横町の超願寺を暫定校舎とし、十一年博労畳町に洋式校舎を新築する。予科三級・本科三級を置き、一学級を各六ヵ月とし三か年で修了するものとした。その後も存続していた・ が、明治十二年の大火で灰燼に帰した。その後十九年と二十一年に改正し、予科が一年・本科が四年になる。二十六年の宗派の学制改革で廃止された。
Bその他
 閑雲国常(安永七年〜安政六年九月六日、字真厳、号雲荘、碧蓮道人、瑞現蒙軒)は能登国鳳至郡山是清村の今村家次男で、曹洞宗大本山総持寺塔中の東源寺住職印宗に従い剃髪得度し、住職に就いた。その後に江戸で亀田鵬齋に入門して経書と詩文を学び、帰郷途次に下村海翁寺で碧厳集や経書等を講じる。その際、瑞龍寺十六世活湛が聞いていて招かれる切っ掛けになった。やがて京洛外の大昌寺や了峯寺、摂津国高槻城北太会部村伊勢寺、美濃国大垣金昌寺の住職を経て、文政五年に瑞龍寺十八世に就任した。頼三樹三郎も訪れている。老後は川口村谷昌寺に隠居した。
【註釈】
●修三堂の名前の由来
 君子は其の身を安んじて而して・後に動き、其の心を易めて而して・後に語り、其の交を定めて而して後に求む。君子は此三者を修む。・故に全し。(易経) 
●高岡町人の出自 
高岡は町人の町ではあるが、元武芸者という家は結構ある。御馬出町金子家は初代から四代まで武芸者であった。四代の家平(元和三年〜享保八年)が医者に転身して高岡で開院する。以後代々特に小児科を専門にしている。安永八年には前田教千代の診察もする。この時共に診察したのが木舟町松田教之助であり、副腎ホルモン治療をしたという。祖は小田原北条氏家老職で、尾張守憲秀は北条氏政に不満を持ち、小田原開城の切っ掛けを作った。子息弾三郎秀也が京で医を学び、金沢や氷見に住み、次の三知が高岡へ移る。教之助孫正之助は粟田家へ嫁いだ娘の子で、俳人でもある。 
●富山藩の心学講話 
文政三年三月藩は町人向けに忠孝の講話会を寺町にある円隆寺(天台宗)で開いた。反魂丹商人及び町々には出来るだけ出席するよう申し渡し、複数回催したようである。
●宮永習(字三省、号棠涯)
正好の八男。天文や算学に通じた。『海防策』の著書がある。 
●寺院の郊外移転 
 高岡では昭和三十年以降に寺院と商店街との美感調和が問題になり、利屋町の聖安寺が横田町に移動、水波仏教会館が桜馬場から八丁道へ移動、開正寺が川原町から五十辺へ移動などと続いている。
●五十嵐家
 祖は越後国蒲原郡伊加良志神社神職で、慶長年間に砺波郡立野村に移って、内島村を開拓した。寛永十二年に次郎助が十村に任じられ、十九年福田組才許十村となった。八代目孫作は文化年間新川郡舟倉野(現大沢野町)と室山野(滑川市)の新田開発に従事し、小豊次もこれを手伝っていた。十代目作次右衛門は能登に転勤し、鹿島郡と羽咋郡で組十村に任じられた。嘉永二年に砺波郡に戻り、五位組才許十村となって、十一代目小豊次も継承して明治に至る。石高は享保十一年六百八十二石。九代目篤好の頌徳碑は昭和五年に建てられている。 
●坪井信良(文政六年八月二十八日〜明治三十七年十一月九日) 
 八代目養順の次男。母は長崎玄庭の娘。天保十一年三月京で小石元瑞、同十四年一月江戸で坪井信道(萩藩医二十五石)に就き、婿養子に入る。広瀬旭荘に漢籍、大坂で緒方洪庵に蘭学を学んだ。弘化から明治十年にかけ九代目に書簡を定期的に発信し、高岡町の有力者はこれを基に時事研究を行っている。嘉永六年十一月家督を嗣ぎ、三十一歳で越前藩松平春嶽の公医、安政五年蕃書調所教授補、慶応二年に将軍家奥医師に駆け昇った。大坂城に入るが、徳川慶喜と大坂城を脱出し、軍艦開陽で江戸へ戻る。水戸、静岡と徳川家に従い、静岡病院を開院する。廃藩後明治七年十二月東京府病院院長に就任する。『医事雑誌』を発刊し、著書も多い。子息の正五郎は・理学博士で人類学者として名をなし、孫の誠太郎と忠二も共に理学博士。
●算学(関流、中西流、宅間流)
 吉田光由『塵劫記』の寛永十八年版は解答を載せない「遺題」であり、各算学者が独自に解いて自著に載せるというものであった。そのため一挙に難化し、大陸の天元術を使い算木を並べて一元高次方程式が必要となった。磯村吉徳『算法闕疑抄』がその到達点である。しかし関孝和は筆算を使い、文字を導入することで、算盤や算木の制約から離れ、複雑な方程式や円理・幾何までも取り扱えるようにした。一般に和算はここから始まる。流派継承者は建部賢弘、門下に松永良弼、その門下に山路主住が出て、関流免許制度が整備された。門下の藤田貞資は最上流を立てた会田安明と激論を交わしつつ、算学に「用の用」「無用の用」「無用の無用」の三種があることを指摘した。同門の安島直円は二重積分まで発明するが、既に算学は「用の用」から離れ、算額奉納を競っていた。また解説の詳しい独習書が発売され、門流の結束が弛みつつあった。
●時制改訂
 加賀藩は承応元年に日の出日の入り前の一時を一時半にし、夜・昼を区切って午前午後に余時を入れていた。文政六年八月に幕府や他藩同様十二分割に改めたが、城下は混乱し、翌年七月十日前田齊廣が麻疹で亡くなると、改革を担った教諭局の寺島蔵人等十三人が解職、齊廣の隠居場竹沢御殿も取り壊され、遠藤数馬も罷免された。十二月に時報は旧に復した。
●石黒信由門弟(越中各地に算額を・奉納した弟子のみ)
金屋三郎右衛門吉賢 金屋
高井藤左衛門持翰 川口村・新湊
蔵田文右衛門峯昌 今井村・新湊
高瀬宅次郎矩重 放生津
伊藤六右衛門長辰 石丸村・礪波
高井茂兵衛信房 宮袋村・新湊
谷道仁兵衛挙英 布目村・新湊
折橋義吉則之 北野村・小杉
山崎善次郎寛重 薮田村・氷見
折橋小左衛門義浚 東条郷・小杉
汚道沙門一尋 五位・福岡 
五十嵐小豊次厚義 
松儀鉄五郎義府 浦山・宇奈月
菊池橘五郎與之 戸出 
清都彦右衛門春連 放寺村・高岡
林宗右衛門実森 西部金屋村 
大野彦次郎豊庫 古戸出 
藤井辰右衛門昌弘 舟川新・朝日
折橋九郎兵衛坤 浅井郷・大門
島崎十次郎政秋 堀岡新村・新湊
鷹杉権右衛門尹寿 同右 
石黒藤助信易    (『算学鉤致』巻之下) 
●三業惑乱(寛政九年〜文化三年)
 蓮如「お文」にある「タノム」の語の解釈を巡って本願寺派内で起こった対立。流血の事態になり幕府も介入する。新義派(願生派・学林派)は祈願・請求の意味(弥陀の救いを請い求める)と解釈し、身・口・意(三つの行為)をかけて願わねばならないとした。古義派(信楽派、在野派)は頼・憑・恃・恃の意味(信順帰命)と解釈し、仏の救いを間違いないと信じ「あてたより」にするものであるとした。十九世本如の出した「消息」で新義派は誤りとされ落着する。越中国では新義派が西部に力を持つ尺伸堂、古義派が東部に力を持つ空華廬であり、対立を深めた。特に氷見の門徒は文化十四年五月まで従わなかった。
●「尺伸」の典拠
 易経の「学種を尺伸に下す」より採り、尺伸堂は学・信・行の三門一体を旨とした。
●空華廬掟書 末尾の心得 
 剃頭染衣之名と相成申上ハ不惜身命之奉仕御互ニ相心得懇申度事ニ候。然ハ遊手竊食して一生悠々として光陰を送申事自他同しく本意にあらず一句一字なりとも修学之志を立て遺法を護持し奉り一大事ニ後生仕損□申間敷様ニ各々御心掛可被下候
●能化(本願寺派)
 十三代良如は寛政十五年に学林を創設し、その総長の職名。三業惑乱で文化四年に廃止。文政七年一月に勧学を置いた(五月任期一年の年預勧学職を設け、魚津照顕寺九世杳旭、九年細入片掛西念寺恵航が就任する)。
●講師(大谷派)
 寛文五年に学寮(宝暦四年高倉学寮と改名)を創設し、その総長の職名。 
●頓成事件
 頓成は能登国に生まれ、霊暀の門に学ぶ。井波町光教寺住職を経験した。師と異なり深信自力説を唱える(他力信心の相の両面を表した二種の深信の内、機の深信を勧めることは自力を勧めることになるという説)。機の深信とは、自分を省み我が身は根機つたなくして永久にこの苦海を脱することが出来ないと深く信じることである。一旦は認められるも、嘉永五年七月の裁決で異義とされ、それでも主張し続けたため明治になって宗門から破門された。明治八年四月に一ヵ月立山町千垣の祐教寺に滞在している。越中国では氷見と新川に頓成派が多かった。
●雲処堂のその後
 文政四年六月の高岡大火で本堂庫裏経蔵学寮等が類焼し、宣明長男自慶が文政十二年に再興するが、経蔵は未設立のままで九月に没した。
●福光の郷学所設置願書 
 明治二年九月
書付を以御願申上候
福光村領字舘跡与申所竿除之地二御座候而以前者建物御座候得とも追々破損仕天保年中以来明地ニ相成森二相成居候ケ所御座候就而ハ今度右舘跡二仮建仕郷学所二致度尤農業稼方之障リ不相成時節年着之者心得之為読書為仕度左候得ハ左之通リ定日取図リ申度奉存候
 毎月隔日 素読 三八 連講
右之通御聞届被成下候様奉願上候尤入費者私共申談相弁可申候間此段宜敷被仰上可被下候以上
 明治二年巳九月
 得能小四郎殿 
 石崎彦三郎殿
●杉木教学所の設置
 明治二年十月
一、教授所雑用与して入学之面々より、上ハ一季百目、下者五拾目宛指出可申事
但、一季五拾目宛難指出程之身元之人々ハ、拾匁或ハ弐、三拾目宛与歟、其身元二応シ迷惑不仕様二指出可申事
一、入塾之面々ハ、一日白米五合二菜代弐匁宛一月毎二指出可申、尤膳・椀・夜具・油・炭・机持参之事
一、講師.句読師賄方、館中入費を以可相弁事
一、入塾之面々自宅ょ菜等取寄候儀堅ク無用之事
一、酒ハ都而講師始取はやし候儀堅ク無用之事
一、飯焚等を以入塾之面々等肴等買求候義一円不相成候事
一、入塾之面々平日戸外不相成、休日ニハ夕六ツ限リニ立戻典礼江案内可及事
但、無拠向有之節者、出入共典礼等江案内之事
一、出席之面々、出座帳ニ交名可書記事
一、館中都而袴着用之事
一、座列不可有混雑事
一、講師壱人、句読師三人之外、壱飯たり共館中ニ而賄不申事
一、社長ハ白米五合宛入立、菜代請不申事
一、生徒之内弐人宛当直相立、館中掃除給事等講師より命候事
一、油之儀句読師以上ハ相渡、其余指出不申、行燈丈ケ指出可申事
一、料紙筆疊不用之分指出不申事
一、都而はきもの雨具類身出之事
一、飯焚之外小使無之事
 年中賄方
一、朝飯 飯 香の物
一、昼飯 右同断
一、タ飯 飯 味噌汁野菜有合之品 香の物

平欤皿欤
但、朔日 四日 六日 九日 十一日 十四日
十六日 十九日 廿一日 廿四日 廿六日
廿九日

 賄日十二日之事      (「教授所規則 明治二年十月」菊池文書)
教学所定法張紙
一、主付人番日二は早朝より出勤、教諭方江引合之上引取可申事
一、都而学ビ候儀は其行状二可用儀二候得ぱ、舘内は勿論自他二不限、謙譲和順ヲ始メ万事無疎略、聊不当之仕業無之様第一二相心得可申事
自然不法ケ間敷儀及見聞候得バ、品二寄局江御達可申候事
一、生徒等無謂欠座曁無礼之儀於有之は、人々手前及穿鑿、是亦其品二寄局江相達可申事
一、生徒着舘直様筆生江案内記帳之上、詰合主付教諭方江会釈、聖像江拝礼、句読席江出、素読等可致候事
一、属殿方御出座井書記衆中等御見廻り之節、詰合主付押請致、出座人等之様子可申達事
一、生徒人翌日之指支前日二相知れ居候ハゞ、其段主付人江申達し、指懸リ候儀は翌日其委曲詰合主付江可申達候事
一、生徒人着館之上一切戸外不相成、弁当持参之人は其刻限打揃食用可相弁事
一、生徒人精惰之趣日々及見聞、教諭方曁主付人示談之上、甚敦二至候而ハ其所置可致事
一、生徒人毎日出座素読等有之内、食後暫時休刻運道等之儀は見通し可申候得共、相図之上又候相励可申候事
右之条々堅ク相守可申事
 教学所教諭方
明治三年三月
 主付
● 待賢室
謹テ建議奉伺候
前月御県庁御布令ノ太政官懇々切々勧学ノ御告諭、実二国家文明富強ノ基本確立シ給ヘル指麾歟ト忝奉感佩候。何レ近々小学校御取立、文部省学則モ御下ケ可有之、抃舞ノ至二不堪候。然ルニ御見聞ノ通、当地ハ全ク僻陬ニモ非ス、人民モ真ノ頑固ニモ非レトモ、沿襲ノ弊ニヤ苟安怠惰ノ者不尠、是恐クハ、各地父老中ノ有志有学ト称セラレン者ノ文明ノ御趨意二暗ク、子弟二諭スノ方策二苦慮セサル故歟ト悔愧ノ至二候。草芥学民文山憂悶ノ余リ、官校相立候迄聊官ノ鴻意ヲ奉拝承徴意ヨリ四課ヲ立テ、如何ナル貧民愚蒙タルトモ日用不可不知ノ事件ヲ摘取シ授与仕度奉存、韮才ヲ不顧奉伺上候。第一二制札講談是天理人道ノ大本ナレハ、之ヲ自ノ心膓トセサル者ハ、危二臨テ義ヲ忘ルノ禍アルヘシ。之ヲ補フニ三宇経等適宜二授ント奉存候。第二ニ御代々ノ天皇ノ国称漢諱序次是亦国家ノ大本ニシテ、国称タニ暗キ者ハ夏冬両時ノ御祓祝辞、誦センニ文字二瞠着シロ誦二佶屈ス。折角ノ手習モ何ノ所用モナキコトニ相成候。且ツ次序ニ暗キ時ハ、鎌倉以来幕府ノ興亡ヲ以テ、漢土王者ノ興亡二比擬シテ、之ヲ政本ト誤認スル癖ヲ生ス。故二之ヲ授諭シテ次、太政官八省院府県ノ官名、及三府七十二県、及禁中年時ノ諸祭、御一新以来新官知ノ神名丼二其所由、及式内神社等之ヲ授与仕、第三二通俗要文是亦政体二関渉ス。当時ノ世態ヲミルニ、吉凶ノ書札ヲ書ナカラ、御布告ノ文書ヲ不読得シテ官意ヲ誤者不尠。又当時ノ通俗文章ヲミルニ、国音漢文共失シテ、徒二浮華ヲ表シテ其案少、皇漢洋ノ三学二聊モ其益ナシ。可歎ノ至二候。依テ一通書札ヲ読者ハ御布令書モ読得ル様二、俗文ヲ裁正シ授度候。第四二算道、是幼童ノ所知ハ浅近二候ヘハ、別二策ヲ労セス候也。
右四課ヲ以テ、十歳以上十五歳以下ノ幼童ヲ村役人ヨリ申諭シ、朝五時ノ一時ヲ限リ私塾二相詰メ、一六ヲ休日トシテ余ノ四日二配当シ、其日数凡半年トシテ指授卒業仕度、最一里以外ノ村里ハ幼童ノ往返モ便ナラス、更二各地父老ノ卓見モ可宥之筈二候ヘハ、私ノ関渉スル所二無之候。此儀内分居村役人二申談候処、役人モ相喜周旋可仕ト被申候間、右ノ方策邪正曲直御裁判被成下、若御政体相障義モ無之、且幼童其益モ顕ハレ候ハゝ、近境ヨリ遠境二至リ十七八ノ両区ノ幼童二及ホシ、駿駸々タラシメント奉存候。乍去至急行屈兼候ヘハ、偏二私菲徳ノ所令然ト御仁免可被下候。布件御出張所ノ御威光ヲモ奉願上度候ヘトモ、何レ御布令ノ通近々小学校相立候儀二候ヘハ、夫迄ノ小方策ヲ以テ御出張所ノ御告諭モ灘願上奉存候。猶課程書一紙相添奉呈上候間、是又邪正曲直御裁判ノ程奉希上候。誠惶々々。
壬申九月十二日(明治五年) 第十八大区二番組湶分
 野上文山
高岡御出張所
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posted by ettyuutoyama at 17:52| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第二章 越中各地の郷学と私塾・算学と僧が学んだ学塾

一、郷学
 藩末より明治初年にかけ、全国各地に学校組織を整えた公立または準公立の教育機関があった(ただし学制に基づくものは除く)。これを本書では郷学と総称することにする。越中国では各郡に次のような郷学を設けていた。
@砺波郡
●教学所 明治二年十月郡治局の内意を受け、御扶持人十村一同が郡治局より創設費千七百文と学舎買入費千七百文を借りて足軽小頭中島弥三平宅(屋敷坪七十歩、畳数五十畳)を買い入れ、学校を設立する。
 河村源助等六人が主付になり、般若野村下山田の河合平三を講師、以下助教・句読授方・筆生役を置く。句読授方には後に越中自由民権で活躍する島新の島田孝之もいた。教育は素読と講義を通して行われ、算術は三年七月から教えた。また本願寺関係の随喜講出目銭と生徒の月謝(一季百匁より五十匁、都合により身分に応じ出金)を資金源として運営されることになっていた。
 生徒数は翌年夏頃を最高に以降減少を辿る。そうなると運営に支障が生じ存続を問う声が出る。意見は縷々あったものの、結局四年十二月閉鎖を決め、借用金は学舎を売却して返済した。
●郷学所 明治二年、福光村新町有志が資金を出し合い、金沢藩の公許を取りつけ学校を設立する。その前身は石黒氏城跡の字館跡右京亮屋敷空地の宮永家私塾栖霞園にあり、隣接地を使って校舎を拡大し、かつての宮永家門弟を収容する。また新たな生徒も募集し、「農業稼方之障ニ不相成時節年若之者心得之為読書為仕度」隔日に素読、三・八の日に連講を行った。
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『福光町史 下卷』
いつごろまで継続したのか不明だが、廃藩と学制発布の中、その役目を終えた。
●申義堂 今石動町では上田作之丞耕(天明七年〜元治元年四月十一日 字叔稼、竜郊、竜野、幻齋)が督教となり文政の頃今石動奉行所の後援の下、学校を創立した。孟子「謹痒序之教申以孝悌之義」から「申義堂」と命名され、与力、足軽はもとより、町人も講義を受けた。学校に掲げられた木額は今も石動小学校にある。上田耕の学風は実用を尚び経済を宗とし書冊を斥け時事を弁論する、というものであり、元小松習学所教授兼藩老本多氏儒臣という公務を退き、野の儒者として藩の要職にあった門弟を通じて藩政に影響力を有していた。この一派を世に黒羽織党という。授業は天保の頃まで継続している。
A射水郡 
●修三堂 高岡町では学問が盛んで、多くの学問所が設立されていた。修三堂(すすがや)もその一つで、富田徳風を中心に、内藤王福、宮崎雪香(室屋次太夫)、大橋侗齋、氏家玄兎(関屋)、佐渡金作、篠原花径(増山屋善兵衛)、粟田秀勃(小間物屋勘右衛門)、市山青羽、田代朴明(棚田屋小兵衛)、藤村壷仙(開発屋庄右衛門)、鷲十(鷲塚屋本家大橋十衛門)、井又(井波屋又七)、蝋七(蝋燭屋七兵衛)、長崎蓬洲、藤田千城(広瀬屋八兵衛)、室屋素千(平右衛門)、飴屋二峯(清左衛門)、石川牛窓(新保屋次郎右衛門)、桑屋尭民(梅染屋源三郎)、後藤白雪、岡嶋玄隆、沢田涼河(沢田屋藤兵衛)、横山雀梅(米屋伊右衛門)、富田春呉(平田屋善左衛門)、津島鷲橋など多数の賛助者を得て、文化三年に設立することにした。影無坂下関村領百余歩を借り受け、三月四日に高岡町奉行所の許可を得る。六日手斧初め、五月一日落成し、三日に開講式を行った。式典には、海保青陵が招かれ、聴衆六十三人の前で論語学而編を講じている。学校掲額三枚の内「修三堂」の題字は皆川淇園、「修三堂」と「求益」は海保青陵の手になるものである。
 堂則「修三則」は次のように定められた。

一、盟外之面々たり共、いつれの先生を招請し此堂へ来会せんとならは、随分御かし申へし
附、席料等かたく不納、聊も勿掛念
一、毎会当番の方、門符を以て、冬青園に鑰を御かり請、堂上よりして茶碗、灰吹、雪隠并定交門外求益坂下ニ至るまで掃除、且退席の跡不作法ならす、火の用心最肝要
一、空心之節持参弁当の外、割烹の設かたく無用之事
右悉知
 執事

 運営は堂経営方主附に室屋素千、飴屋二峯、津島鷲橋が当たり、主宰には富田徳風が就任する。同十四年の徳風没後は茶木屋庄三郎が任じられた。講師には、手島堵庵の門弟脇坂義堂(〜文政元年)を招き専ら心学を講じた。
 富田徳風こと横町屋弥三右衛門の祖は越前朝倉家の臣で、前田利家に仕えた後に利長に従って守山城に入る。その際、横の町に住んだため横町屋を屋号とした。高岡守山中町に移り町人になる。慶長十五年には三人の宿老役(町年寄)の一人であった。そこから五代目弥三右衛門可氏(号震風)は、三十年間町年寄を努め、学殖深い人格者であった。元禄九年六月に子孫へ「座右慎宝」三十七ヵ条を残し、これは徳風により『宜深誌』(二巻)として発刊された。九代目が弥三右衛門美宏(字子順 号徳風、松齋、冬青、晴雪窓、幸廼屋)で、明和三年九月に生まれ、寛政九年町年寄になる。文化九年三月苗字を許され、富田を名乗った。文化十四年二月(富田家文書では正月)五十二歳で没した。
 茶木屋庄三郎の祖は朝倉教景の次男小右衛門栄景で、近江で真野家の養子に入り、永禄十三年の姉川合戦の際に前田利家に従った。朝倉の旧姓が日下氏であったことにちなみ日下を名乗り、晩年高岡に住む。養子の右衛門正栄の妻は富山の、茶ノ木屋出身のため茶木屋を屋号とし、元和六年十月に町年寄として町人になった。九代目が庄三郎で、先代右衛門の養子として横町屋より入った。つまり徳風とは縁戚関係にあったわけである。町役人・町算用役を努め、狂歌や俳諧を能くした。修三堂を主宰し、天保二年四月二十三日に没した。
 さて、修三堂の活動として後世に残るものに『修三堂湯話』三巻と別巻一巻の編纂がある。これは高岡に伝わる孝子節婦等の善行美談を集めたもので、文化四年十二月付の富田徳風序文がある。「節女きみ」「動地六兵衛」など百人の話が平易な文で収録されていて、現在も読むことができる。
 学校は天保の頃までは存続していたと思われる。跡地には大橋侗齋が建てた孝子六兵衛の碑が現存している。
●敬業堂 文政四年六月から天保九年七月まで高岡町奉行を勤めた、大橋作之進成之は、大火災や大凶作の中にも教育が必要であることを痛感し、文政八年に関野神社前にあった詩亭(詩を詠みに来た人の宿泊施設)養老軒を改築し、学校を建設する。堂名扁額は村井豊州(八家で海保青陵の影響を受け藩政に当たった村井豊後守長世か)に依頼し、桑山玉山(梅染屋武兵衛次)を主事に任じて、富山藩より小塚南郊を講師に招いた。十一月一日に開堂式を行った折は町人子弟に孝経を論じられ、町奉行が臨席して激励している。翌年二月には文宣王(孔子)を祭り、明楽を奏した。梅染屋の祖は越前出身の桑山二右衛門玄慶で、兄の知広は千二百石の旗本になっている。御用染物業を請負い、十一代目の当主武兵衛次は道具屋肝煎や御荷物宿を引き受け、文政七年に償銀十枚を受けた。
 しかし奉行が転任した後次第に衰微、廃校になったようである。
●高岡学館 明治元年十二月高岡町奉行土肥隼之助と井上七左衛門は、青少年教育のための学校を創設することを企図し、町奉行公邸に学舎を建てることにした。さっそく町年寄大橋与三市、服部伝兵衛(天野屋)、富田本次郎(平田屋)、津島玄碩、佐渡養順、服部修徳、上子元城、長崎言定、絹屋権九郎を招いて準備を命じ、十三日より数次に渡り服部(天野屋)伝兵衛宅で協議を重ねた。十七日には町会所で句読師の採用試験が行われ、次の六人が合格する。
塩屋喜三次 大学を担当 先祖は鶴来の出身で、津田姓。屋号を鶴来屋とする。高岡百姓町(現横田町)に移り代々弥右衛門を名乗り、三代目が弥右衛門喜三次である。字は操、子薫、号は半村、鶴堂、松齊、寿芳園。寛政九年中川の南家に生まれ、文政の頃に、当時酒造業を営んでいた津田家の養子に入るが、二十七歳で養父を失った。専龍寺の顧行に経文を教わり、島林文吾(号雄山)に詩文を学んだ後京で頼山陽に師事する。書堂を棲鳳楼又は清足軒という。嘉永元年十月十日に山陽の三男三樹三郎鴨崖が高岡の町で国事を議し、小杉の自家造酒屋で宿泊している。また長崎浩齋らと漢詩吟松映房社を興した。更に町算用聞並祠堂銀才許を努める。祠堂銀才許とは瑞龍寺の祠堂銀運用役のことで、当時瑞龍寺は年一割の低利で町民に融資し、寺の財源確保と町の商工業の発展に寄与していた(利息の二分が才許人の手数料で八分が寺社奉行所に入った)。天保の頃には茶苗を宇治から取り寄せ、栽培している。来訪者が多く、、広瀬旭荘が来た際、潤筆料があまりに高いため、「旭荘ではなく欲荘だ」と言った逸話がある。明治四年二月に没した。娘幸子は高峰家に嫁ぎ譲吉を生んでいる。
中条屋六郎右衛門 中庸を担当 初代は砺波郡中条村より高岡に移住した。川上を姓とし代々横目肝煎や肝煎を努めた。六代目の実家は高原屋久左衛門季衡で三男(長男は文九郎)。三六宜方と称し、幼名は寅乙、字は士正、号は達堂、滄洲、仲慮。親類中条屋川上家に入り、六代目を嗣いだ。天保元年三月五日に生まれ、町肝煎や町算用聞並を努めながら、勤王の活動家であったため元治元年八月十五日に捕えられ、金沢で投獄されるが、瑞竜寺橘仙が高岡町にとって欠かせない人物であると弁疏したため一ヵ月で許された。明治五年には第十七大区副市長兼戸長に任命されている。御馬出町より維新後は袋町、坂下町と移り、三十年九月八日に没した。六十八歳であった。
平田屋五左衛門 孟子を担当 本家は鴨島で酒造業を営んでいる富田家で、天保七年二月に町年寄となり祠堂銀才許・蔵宿を努めた善左衛門の、妹婿が五左衛門である。安政七年には十六歳で、町肝煎列役所手伝となっている。
高原屋文九郎 孟子を担当 先祖は飛騨高原城主内匠頭重綱で足利義尚に敗れて逃亡し、越中国三本松で沢田孫右衛門を名乗る。五代目久左衛門が高岡に移り逸見と改姓する。沢田家は弟が嗣いだ。高原屋を称し、代々蔵宿で町役人を務め、十四代目が文九郎(又一)在綱である。号は方舟、舫斎、文政八年に生まれ町肝煎を努める。勤王開国を唱えて志士、小川幸三忠篤 と親しくするが、元治元年八月十五日に捕えられ、金沢に十月二十六日まで投獄されている。妻は山本道斎の妹、妹は長崎浩斎に嫁ぎ、弟は中条屋に養子へ入った。明治八年五十二歳で没する。古城公園御竹薮に川上宜方と並び碑が建てられている。
絹屋権之助 孟子を担当 源平板屋町の代々商業に従事しながら、六代目笹原白年は寺子屋を開いた。その養子は権九郎辰省で、号は北湖。寺子屋も継承し、高岡に東西の小学校ができた折り東の校長に就任した。辞職後も教育に従事し、明治十九年十二月に七十六歳で没した。子息が権之助遂(初名は孟省、号は青軒)が句読師に任じられ、西の小学校長に就任している。二十三年十月に五十九歳で没した。 
棚田屋ェ六 中庸を担当 御馬出町で商業に従事する。安政五年四月六日に町頭となっている。
 二十日に職員を任命した。

 督学五名:大橋七右衛門、岡本清八郎、大橋与三市、服部伝兵衛、富田本(元)次郎
 講師六名:津島玄碩(七十四歳)、上子元城(六十三歳、医者で漢詩人)、佐渡養順(四十九歳)、長崎言定(四十九歳)、服部修徳(四十五歳、医者で荀子に精しい)、絹屋権九郎(五十八歳)
 典籍兼度支三名:石川次郎右衛門、石瀬屋与七郎、三木屋半左衛門
 句読師六名
 典礼二名:室屋小右衛門、三辺屋宋四郎
 書記三名:米屋豊蔵、竹村屋義太郎、関屋平左衛門

佐渡家 先祖は止観寺城主建部佐渡守と伝えられ、慶長十四年に井波から高岡下川原に移住し、その後利屋町に移って医院を開く。四代以降は佐渡養順を襲名し、八代目は出産時の家伝薬「養順湯」を調合したことでも知られている。子息は全て医者。九代目を継ぐ長男は三良で、天保十三年二十三歳の時に昌平黌で学んでいる。次男は将軍家奥医師坪井信良。以下九鬼秀達、建部賢隆、阿波加脩造。
長崎家 先祖は荻原氏。長崎で蘭医を学び長崎医者と呼ばれたため、長崎姓に変えた。代々ゲンテイを名乗り、四代目が玄庭(号蓬洲)、五代目が愿禎(浩斎)、六代目が周蔵言定である。玄庭は明和二年に富山藩士吉川唯右衛門敬明の次男に生まれ養子に入る。十二歳の時に医者松田恕謙(李安山)より大成論や十四経を学んでいる。次男で家を継ぐ浩斎は鳥山屋で学び、また書を研鑽した後に、文化十四年十九歳の時に江戸で大槻玄沢に入門した。更に杉田玄白の子息立卿に就いて研学する。高峰幸菴にも学び、その縁で幸菴は高岡に移住する。富山藩の市河父子にも師事し、書斎誠意堂(五泉堂)で漢学を教授する。有磯神社上田悌信も門弟である。元治元年六十六歳で没した。言定、後の正国は維新後に子息元貞正路に家督を譲り、国学の研究に傾注する。明治六年に射水神社祢宜となるが、翌年八月四十八歳で没した。次男は富山藩大参事林太仲(母が浩斎の娘)の養子に入った忠正である。
服部家 先祖は美濃国郡上郡服部甚吉連久で、前田利家が越前国府中に在城していた時に仕える。利長に従い富山に来るが致仕して天野屋三郎右衛門を称して、御用商人になる。高岡移城に伴い御馬出町に住んだ。伝兵衛は寛文元年に由緒町人になり、四代目伝兵衛は正徳元年御本陣の仕事を賜った。嘉十郎伝兵衛は十三代目である。弘化二年八月九日に三郎左衛門を父に生まれ、孝経・詩文・画・教書を学ぶ。明治元年に家督を嗣ぎ、三年第十七大区々長として貧民救済に努め、五年に郷長兼戸長に就任し、 八年に古城の公園指定を鳥山敬二郎(天保十三年〜大正十五年、後の衆議院議員、高岡市長)や藤井能三(弘化三年〜大正二年)等と共に成し遂げた。しかし華やかな表舞台と家庭は違った。二十七歳の時妻が二十一歳で亡くなり、三年来盲目になった父を十一年間世話をし続けた。自身も肺結核に罹り、十三年三月二十七日三年の闘病の末没した。三十四歳であった。昭和三十年に公園内中ノ島に頌徳碑が建てられた。ちなみに服部南郭(天和三年〜)は二代目三郎左衛門正和の孫である。
服部修徳 医者で儒学を修め、鶴吉とも称し、号は鶴翁・笑鵬亭・治鮒堂。書を講ずるに机上常に本なく其一字を誤ることなし、と評され、詩もよくした。四十歳で夜盲になるが、火事の際に近親の目が不自由な人に背負われ、後庭の小川を渡って避難したことが、当時の高岡で話題になったという。明治十年九月十一日に五十五歳で没。
津島家 医家である。元俊祇董(元禄二年〜明和三年十一月、号景三、三省斎)は京で向井元桂(?)に学び、元文三年十二月法橋の勅許を受けた。弟恒之進(号彭水)は京で松岡玄達に学び、本草学で有名。大坂で宝暦四年十二月に五十四歳で没。元俊子息は景俊(号氷水)、子の玄俊(号鷲橋)は池田錦橋に入門、人格の高さは『修三堂湯話』(『高岡湯話』)が賞める程であったが文久四年三十七歳で没し、その子息猪吉(号帆斎)も大坂で学ぶが、文政七年に二十二歳で早生した。そこで玄俊弟玄逸(安永七年〜文政十年、号竹山、藤樹園)が嗣ぐ。京の法眼山脇道作に師事し脈理に精通するとともに詩も能くした。長男厳俊(号橋東)も詩に優れ著書や詩集があるが、天保十年に早世したため、次男彦逸(文化十年〜文久二年閏八月、号北渓)が嗣いだ。江戸で増島蘭園や小島葆素に学び、著書も多い。叔父元桂(号北岳)も医術を学ぶが、伏見で河田伏水に就いて剣を修業し、江戸で道場を開くが病気で帰郷の途次越後で没した。二十六歳であった。同じく玄勇(号栗斎)も本草学や詩に優れていたが文政四年に二十九歳で没した。
上子家 農家であり、本家の鴨島村三右衛門分家の桃園は商人になった。画が趣味で、子息元城にも画を学ばせるが腕白であり、人の勧めもあり金沢の藩医内藤元鑑に就けて医術を学ばせた。その後、江戸で朝川善菴、大垣の江馬春齢、京の山本永吉や小石元瑞などにも学び、漢蘭兼学した。妙人であり、長崎浩斎等と交流するが、浩斎より前に没した。その子元城(号坦菴)は幼い頃より津島北渓に託されて嘉永七年江戸で御典医小嶋春折に学ぶとともに、眼科を渡辺雄伯に入門した。安政四年に帰郷する。

 明治二年十一月句読師を増員し、新たに五名を任命した。喜多康庵(四十三歳)、沢田早雲(四十二歳、医者で経義に精しく石崎謙の妹婿)、稲浦昌伯、蕭庵(養徳寺)、山本一覚(道斎の弟)である。後に加藤量平を追任した。佐渡養順は高岡学館に朱子の小学首篇から採って立教館の別名を付けた。授業程度は高く、町の上流子弟が通っている。いつまで継続していたかはよく分からないが、四年四月に資治通鑑を購入し、その箱書きに高岡学館主附大橋与三市、服部嘉十郎、富田元次郎の名があり、その頃までは存続していたことを確認できる。
●習学所
 氷見町では元の風雅堂跡地に田中屋権右衛門等の有力町人の俳諧社中が中心に、藩から建築費に仕法銀を用いる認可を取り付け設立する。安政四年十月十三日織田左近家来の兄渡辺清軒が孔子像に焼香の後、大学の三綱領を講釈した。翌年一月十九日の講釈開きには社中の老若長幼三・四十人が出席している。二月十九日には論語の講釈(学而章巧言令色から三省)があった。講義概要は掲示され、学則の用も成したと思われる。
B新川郡
●矯風会講習所 新川郡には郷学は置かれなかったが、明治の御世も三十七年になって滑川の常盤遊廓で芸娼妓教育のため、警察の指導下検楳所に矯風会講習所を設置した。教師には坂下ヨシが就任し、毎週月・木・金曜の正午から二時まで、習字・算術・修身・裁縫を学ばせた。運営費は生徒の授業料と廓内楼主の負担であり、六十人が通っていた。
C婦負郡
●共立義塾 富山市餌指町宣教館(中教院)が新設されたところに、明治六年二月(五年の説もある)共立義塾が設立された。規則は次のように定められている。

 一、入塾ヲ望ムモノハ組合ノ連印ヲ調ヒ組合長印証ヲ出スコト
 一、金銭ノ貸借ヲ禁ズル事
 一、金銭ノ貸借ヲ禁ズル事
 一、疾病七日以上荏苒スル者外宿スル事
 一、総テ各室ヘ他客ヲ招クベカラサセル事
 一、門ノ出入ハ朝第八字ヨリ夜第八字ヲ限ル事
 一、他行ニ日数ヲ費ストキハ其由ヲ塾長ヘ届ケ許可ノ上滞留スル事
 一、各々行状ヲ正シク身体ヲ清潔ニスル事
 一、畳ヲ焼キ或ハ戸障子ヲ破壊スル者ハ償ヲ出ス事
 一、日課ハ講堂ヘ掲示ノ通行得ベキ事

 山田清純や渡瀬恒時等が講師になり、全寮制であった。教科は漢籍の素読・数学・習字であり、月謝 は一円五十銭で食費を含んでいたが、当時にあって高額であった。
 しばらくして士族の有志者で変則中学校を梅沢町の大法寺に開設し、岡田信之等により皇学・漢学・洋学・数学が教えられる。そこで共立義塾はここに合流した。
●女紅場 明治九年十二月桜木町八十四番屋敷遊廓芸妓への教育のため、女紅場が設けられた。習字・読書(小学読本等)・算術(和算)及び裁縫・機織が教えられ、午前九時から午後三時まで開かれた。休みは祝日と毎日曜、教習期間は一年、月謝は毎月四十銭であった。旧藩士大沢弘道が九月に棟取に任命され設立に当たった(十一月第三大区区長に就任)。
二、私塾
 寺子屋が幼少者を対象に、主に習字を通じて読み書きを教えたのに対し、青年層を対象に漢籍等を講義・素読する非公立の塾を、本書では私塾と呼ぶことにする。したがって女子のみの裁縫・礼法専門塾は除いた。
@砺波郡
●栖霞園 郷学の所で記したように、福光に設立した教学所の前身で、宮永氏の私塾である。
 宮永氏は平安初期の鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、十代目七郎国貞が加賀国石川郡宮永村(現松任)を領し、宮永を姓とした。子孫の正意は寛永四年に母妻と越後国の親族を尋ねる途上、砺波郡の安居(現福野)の安居寺に詣でた際、住職の学遍に請われて砺波郡下川崎村(現小矢部)に定住することになる。これより五代目十左衛門正運(享保十七年正月二十五日〜享和三年六月)が宝暦十年に山廻役、砺波・射水両郡の蔭聞横目役、天明四年三郡の産物裁許兼役に就き、産業開発に尽力しつつ本草学に通じ、安永八年朝鮮人参を試培、天明三・四年大飢饉の時に代用食を調査する傍ら、和歌・連歌・俳諧・詩・茶等に通じた才人であった。多くの著作の内、『越の下草』は図書館で読むことができる。
 子息正好も山廻役や新田裁許を努め、著述家でもあり、家財減少の中にあり父の業績を整理し発展させた。
 正好の十一男一女とも学問に優れ、国学を学び勤王の志が篤く、その三男が幼名坦、成人して直三郎で、菽園と号した。十五歳で礼記を独力で読破し、文化十年二十歳の時、京で三宅橘園から経典と皆川淇園の書風を学び、頼山陽と交遊する。その後大坂で、篠崎小竹に師事し、江戸で佐藤一斎と交わり、天保九年に小竹の推薦で熊本の細川家に仕え、大坂で経学を講じていた。嘉永六年に帰郷するが、福光で 前村礼造と普言、甥謹堂等の有志により学問教授を請われる。福光城址右京亮屋敷に小亭栖霞園が建てられ、そこで経学・詩文を教えたが、慶応三年に七十三歳で没した。
 四(五)男通称川崎大(才)五郎、字渕晦、号虞臣 大法寺沙門釈渕晦躍龍こと半仏道人は、幼い時から体が大きく、兄の菽園や弟の暘谷とともに三宅橘園に学んだ。江戸で延岡藩内藤家、後に播磨国で竜野藩に仕えるが、老臣と対立して揖西郡善定村大法寺で剃髪し、赤松氏城址の大倉山で数か月修業を重ねる。一橋家から招請を受けるがこれを断り、天保七年大凶作の折に姫路へ行って施しをした。また紀州高野山で学問し、半儒半仏の思想を構築した(半仏の号)。天保十四年に一旦帰郷するがすぐ上京し、西国へ出立した。嘉永二年に帰郷して前村家の別宅に住むが、翌年に加賀藩儒者大島氏に請われて金沢の龍造寺に逗留する。帰郷後はようやく腰を据え、栖霞園で兄とともに訓育に励むことわずか、安政二年四月五十九歳で没した。
 六(四)男東作(号暘谷)は文化十二年に金沢で医学を修め、福光の医師有沢東海の養子となるが、養父没後に実家へ戻り、京で三宅橘園に学んだ後、江戸で医術を学びなおして帰郷した。貧乏人には無料で診察したという。弘化三年に没した。子息は勤王志士宮永良三で、天保四年生まれ、十四歳の時に医者修業で上京し尊王攘夷の思想に染まり、志士として行動する。慶応三年十二月二十五日捕縛されるが病のため(拷問を受けたとの説も)、自宅に戻されるが亡くなった。三十五歳であった。
●その他の私塾
 礪波の杉木新町で、武部堅(天保七年〜明治十九年)や石崎吉三郎等により漢洋義塾が設立される。両人とも地元の有力者である。武部堅の父は十代目与一郎で天保十三年山見村十村に任じられている。嗣いだ兄尚之(文政十二年〜明治四十四年)は石川県会議員として分県に尽力し、富山県会議長にも就任する。堅も石川県会議員と富山県会議員に選ばれた。養子の其文(文政二年〜昭和四年)は兄の次男で、後に衆議院議員となった。塾は学制頒布に伴い閉鎖されたようである。
 井波町では安政年間に金沢の堀川餌指町に住む浪人で医者ともいう田川才助が寄留し、漢籍を教えている。田川は天保八年六月町奉行に飢饉対策の意見を提出し、海保青陵の『経済話』を推薦した人物である。慶応年間には瑞泉寺十八世勝智(号應正院)が、美濃国原見郡佐波村観音寺住職で儒学者でもある小川元永(号大夢)を招聘し、漢籍や歴史の講義を行った。他にも福岡町上向田の斉藤蔵摂が明治四年に漢学塾を開いている。
 学制発布後は福野町の崎良平(医者)や杉坂敬一(明治六年十月福野第一小学校訓蒙心得)が青年を集めて開塾し、井波町の高瀬神社では金沢士族の野本和彦により社務所で和歌や洋学の講習会が開かれた。また明治十七年にはここで井波と福野の有志十九人が日曜協会を設立し、九月の第一日曜から十九年八月の第四日曜まで満二年間経済・法律・物理・簿記を学習している。崎良平(号缶・九竹・芝水・天愚道人)は福野町川崎屋清兵衛三男。六歳で町の識者西島屋大観と上保柳渓に四書五経を学び、その後宮永菽園や佐伯櫻谷に就き漢学を修める。天保十四年九月京の村田誠斎から内科・産科、紀伊出身の須藤氏から皇漢薬、天文地理学も学ぶ。嘉永四年に帰郷し、本福寺で芝水亭を設けて漢学などを講じ、二日町でも四書五経の素読をする。門弟には衆議院議員西能源四郎もいる。詩や和歌・俳句も能くし、明治以後は小学校建設に尽力した。三十七年二月七十九歳で没。
 今石動では申義堂の督教上田耕が、安政元年に鉄砲町の松永家邸宅で私塾を開き、漢籍を講じた。しかしその直後の六月失脚し、藩から毎年銀十枚を給されることと引替えに金沢より他郷に出ることと門弟教育を禁じられる。文久二年に解禁された後、度々今石動で講義を行った。
 光願寺の養宇徳称(文化十〜明治十二年四月)も地方青年の薫陶指導に努めた。
A射水郡
●小杉の私塾 藩政末期に東町の石川忠義(号乾山)や金山の金森暁山は、漢籍・算学・習字を講じていた。乾山の門には海軍主計中将刑部斎(下村出身)、小杉町長片口安太郎等がいる。
 暁山は祖先が飛騨高山の金森氏で、代々山廻役や新田裁許を努める家に生まれている。今の小杉小学校がある場所に塾を構え、文明開化の思想を先取する講義内容であったという。
 また開発屋に木蘇大夢が寄寓し、漢詩を講じた。これを契機に毎月三日詩会を催すことになり、月三吟社と名付けられた。嘉永元年には頼三樹三郎が小杉新町に来ている。
 明治十年には小杉新町に漢学塾不朽義塾が設立された。松長豊吉、松長太作、藻谷伊太郎、佐渡美成が講師を努めた。
●下村の私塾 表石二郎(安政五年〜大正五年)は、九歳の時より四書五経、算術、測量学を学び、学制発布後は白石小学校で教えた。また二毛作の試作や立山測量にも従事する。更に夜学を開いて、村人に文字や珠算を教えた。今も村全域の地図、書籍及び文書が保存されている。
 摺出寺村の漢方医熊西宇兵衛(号龍庵)は経史を講じ、広瀬太左衛門等が学んだ。
●新湊の私塾 明治の初年に、泉田又右衛門、内藤欽二、山本瑞圓といった識者が集まり、漢籍、英語、算学を教えた。瑞圓は光明寺十二世住職で、哲学や経済学にも通じていた。
●氷見の私塾 氷見町では神職の活動が目立っている。大森定久は文化三年に泉村の神官大森定経の子息に生まれ、若年で家督を相続し、従五位下出雲守を称した。安政四年に高岡関野神社関守一等と山城国向日神社宮司で平田篤胤門下の国学者六人部是香に師事し、六年三月帰郷すると私塾梅之舎を設立し、青年有志に復古神道を基とした、国体の尊厳、尊王の大義を説いた。明治二年から六年まで、神仏分離令のため神主になった元僧侶の教育のため、能越各地に出向いた。二年八月より十一月まで能登一ノ宮気多神社、三年三月から立山雄山神社、四年三月から能登気多神社の権宮司に就任、と多忙を極めた。その後ようやく帰郷し、自塾で国学や歌の道を教え多数の著書も残す。明治十九年に八十一歳で没した。
 平井正明は仏生寺御田神社の神官を代々勤める家に生まれ、幼名を甲太郎という。兄の正武(文化五年〜安政五年)は文政六年に家職を継ぎ、陸奥守を称して北信越七ヶ国を廻り平田派国学を広めた俊英である。藩主前田齊泰御前講義を行い、金三枚を拝領してもいる。
 正明は郷里の生んだ剣聖齊藤弥九郎を慕い、江戸練兵館で文武を修練した。帰郷後には能登国田鶴浜に神道無念流の道場を開くとともに、仏生寺の自宅に白檮之舎を創設して国学を説いた。門弟には多くの神官が育っている。自身も天保三年に兄より家職を譲り受けた。
 子息正承(文久元年〜昭和二年)は高沢瑞穂に学び、明治六年に新川師範学校に入学して第一回卒業生となる。その後、本居宣長の曾孫豊穎に入門して国学を学び、仏生寺一栄校の教員に就任している。昭和五年に頌徳碑が建てられている。
 高沢瑞穂は『友之舎家集』を著した神職秀足の子として文政五年六月北八代で生まれ、幼名は司馬之助。五歳で父を喪った後に叔父に養われ、江戸で平田篤胤の養子鐵胤に学ぶ。漢字の送り仮名の研究を専門とし、大森定久や上水友之とは同志の関係であった。弘化二年に帰郷した後は越中、下総、相模で神職を歴任し、明治二十二年間島に鞆之舎を設立して国学を講じると、県内各地から門弟が集まった。著書も多く、囲碁を余技としていた。三十年二月十四日に七十五歳で没した。
 子息瑞信は弘化元年九月に生まれ、神道無念流を平田正明に就いて修業する。国学を本居豊穎に学んで、明治五年三十五歳の時に七尾県の神社係に就任した。万葉集を研究し『萬葉越路栞』二巻を著している。その後八代や余川などで小学校長を歴任した。大正四年没。
 上水友世は文化八年に十二町の神職吉川家に生まれ、長坂の神職上水家の養子に入った。文久二年に上京して復古神道を学び、帰郷して鹿之舎を開いて青少年に書を教えた。御家流とは違う書体であったという。
 子息友之は江戸の平田鐵胤に和歌と書道を学び、帰郷後は書物を見て「伊須流伎薬」を作り、種痘を施した。祭政一致の思想を説き、廃仏毀釈に熱心であった。遺稿『桃樹栞』がある。
 漢学者の私塾もあった。阿尾の嶋尾三郎は嘉永二年に生まれ、高沢瑞穂の門弟桜井兵部に国学を学んだ。長じて本居豊穎(東宮侍講)に就き、後年に豊穎は嶋尾家を訪れている。北立自由党に参画し、県会議員に選ばれる。湘月と号し、明治二十三年に政界引退後は俳句や茶の道に生き、漢学を自邸竹浪軒で講じた。四十一年五月二十日に六十歳で没する。
 南上町の十五代宮永善左衛門は専業で漢学塾を開いていた。天保から明治初年にかけ大勢の門弟を抱えた。碑が上日寺にある。謚は叔與居士。寺子屋としても機能していたようで、天保五年から慶応にかけ四百九十七人の名があり、珠洲から一人、氷見の村部から十九人(寺社子弟)が来ていた。女児は三十人である。入塾者を集計すると、一月二十七人・二月百十三人・三月四十五人・四月四十四人・八月四十一人・九月二十六人である。
 西井俊造忠は文化九年に大聖寺藩士山口良太夫の子息に生まれ、岐阜の明善院で眼科を学び、京の小石元瑞に就いて蘭方を修める。越前藩医になるが、やがて辞して氷見に開院する。弘化二年には再度上京して元瑞に学び、嘉永三年黒川良安の勧めで種痘を行った。この種痘法は人種痘法というものであった。接種して数日後に針で痘を破り、その膿液を針に塗って児童の尺骨静脈に刺し、上を綿花で覆って包帯をする。七日目に種を取り膿液を採取して別の人に痘苗を移す。この時はまず長崎の頴川四郎八が孫に接種し、桐山天中の三歳になる万治郎、京の日野巫哉、福井の笠原良策、黒川良安、西井忠へ受け継がれている。字を快安、号を三谷といい、詩を吟じ、文人墨客との往来が多く、漢詩を講じた。また明治十二年には致誠小学校初代校長に就任する。二十八年二月に八十四歳で没した。
 光源寺でも漢学を教えていたようである。町年寄で教養人であった田中屋権右衛門も夜学を開いていたようであるが、習字と算術であることから寺子屋に分類できるかもしれない。
 上田耕はここ氷見町にも講義に来る。天保十五年二月から弘化四年三月にかけ度々訪れ、孝子教、中庸、孟子、近思録、荀子等を、毎席十三・四〜十八・九人、最多三十二・三人を前に講じた。費用は弘化二年上田講を作り捻出する。この他文政十年と十一年四月・八月富山藩医で儒学に造詣の深い岡田随筌(瑞仙)は加納屋七右衛門方に招かれ論語・蒙求の会読を行った。天保五年十二月十日には本居家門人で婦負郡金乗坊の静教が来て、十人ほどを相手に百人一首と詞の読みを講じている。さらに林藤破(江戸で古賀精里に学び、明倫堂助教・侍講兼、天保七年八月五十六歳で没)が来たり、天保十三年閏三月富山藩士で書家・俳人成田梅甫(別号照翁)が来たので、人々は文・書の読みを尋ねている。また天保三・四年には田中屋権右衛門等による孟子の勉強会、安政四年長沢子謙等九人が一・七・十二月を除く一と六の日に書物講(懸け銀一会五分)を開いた。
 その他、稲積の浅野茅生、田子の細川菜庵、阿尾の安達松丘斎、乱橋の伊藤(糸)昇斎といった医者が、漢詩や書道を教えていた。脇の寺(明巌寺)でも仏島が漢学を講じ、門弟には中波の大西助右衛門がいる。
●高岡の私塾 高岡町では町人の文化活動が活発であり、規模の大きな私塾があった。
 文化十一年に町の指導者長崎蓬洲と粟田佐久間は富山の漢学者 島林文吾(この頃富山で私塾も開き、眼科として兄の跡に藩医を継承)招き、聖安寺中の安乗寺を借りて、孟子・唐詩選等の学習会を開いた。後に詩人としても名をなす長崎浩斎(蓬洲の嗣子)、粟田庸斎(佐久間の嗣子)、渡辺玄碩、松井藤馬(町奉行小堀八十大夫家来利(理)右衛門子息、昌平黌で学ぶが医に転じ後高峰幸菴の末期養子玄台、号犀江、悟門等)、内藤伊織、 佐渡竜斎(八代目養順)等がここで学んでいる。
 山本仲郎道斎(文化十一年五月二日〜安政二年十二月二十二日)の祖父道仙は加賀藩士を致仕し寛政三年に魚津町で分家開院。婿養子一覚(号樫園)が高岡町の片原町で開院し、その長男として道斎は生まれたが、請われて叔父藩医内藤玄(元)鑑の養子に入り、明倫堂に入学する。十三歳で藩主御前で詩経を講義し賞せられたが、城勤めを嫌い実家に帰ってしまう。昌平黌へも留学し、京で小石玄瑞に医学を学び、頼山陽に師事し、長崎でシーボルトに学んでいる。弘化元年片原町で開院し、嘉永元年三十五歳の折に蝦夷から北陸路遍歴中の頼三樹三郎が道斎書堂牛馬堂を訪れ、約七ヵ月滞留して時局を論じた。妹婿の逸見文九郎等も集まり、思想を堅固にしている。尊王志士藤本鉄石も来訪している。この牛馬堂で道斎は青年への教育に努め、日本外史等の輪読を行った。また著書『静思録』があったが、安政の大獄時に家人によって焼却された。四十二歳で没し、昭和五年に顕彰碑が日蓮宗妙国寺に建てられている。弟の甚造は三木屋寺崎家に入り市右衛門、宗春は兄に代わり内藤家に入って宗安(百五十石)、良順は松田家に入り眼科医の十代目逸斎、万春は家を嗣ぎ一覚を襲名して道斎子息道太郎(後に鼎)を養子にした。
 上田耕は高岡にもやって来た。弘化初年大仏裏地の桑畑を借り、町人教育のための学舍を建てて、桑亭と名付ける。結構隆盛であったが、藩政の関係で嘉永元年に廃された。
 豊後国出身の僧侶野上文山は、文久元年に高岡に来て二塚で養子に迎えられるがそこを出て湶分に居住した。漢詩に優れ、佐渡養順、服部周徳、原北朝、上子元城等の文人たちと交流する。その関係で明治五年九月に待賢室(坂下町西方寺横)の設立を申請し、青年教育に従事した。対象は第十七・十八区の十歳から十五歳以下で、塾には町内や近隣から有力者子が集う。堀二作、稲垣示、島田孝之、石上北天、原弘三、和田格太郎、寺野宗教、豊田拙荘、雄山慈眼、荒木岡三郎、内藤欽二、浅岡貫一、宮崎久など錚々たる顔触れである。朝五時から一時まで授業があり、一・六の日は休日にした。洋学を主とし英語、算術、地理、歴史、理科、習字といった学科を設定し、上級生が下級生を教える形態であった。中田の島田孝之は漢学の師河合神城に転学を勧められ入学している。通称あばら(湶)学校といった。しかし翌年に文山が没し、閉鎖を余儀なくされた。十七年に文山の碑が建てられた。
 回漕業や材木商を営み、山廻役に任じられていた鷲塚屋十代大橋十右衛門(安政六年〜昭和十五年、号二水。分家間斎の四男)は、明治十四年に越中義塾の創設に尽力し、十六年一月私財を投じ木町神社境内に期磨智小学校を建てた(小学校の扁額は前田齊泰の筆になるものである)。十八年に県会議員、三十五年に衆議院議員に当選し、二期努める(政友会)。四十一年政界引退後、開発町で漢学者の大伴学陽を招聘し、自邸で漢学塾を開いた。古城公園の御竹薮に碑がある。 
 明治十四年十一月には旧宮脇町に越中義塾が創設される。老田村出身で東京日報社に勤めていた海内果(嘉永三年〜明治十四年九月二日)は、同志と相益社を結成し「開化は参政に先立つ」と専商主義を唱えた。私塾の設立を図るものの腸チフスに罹り三十二歳で没したため、遺志を受け継いだ同志大橋十右衛門が中心になって、漢学者の園田朝弼と英語学者の和田正脩を教師に招いて開校に漕ぎ着ける。「越中義塾規則」の第一条には設立の目的を「當校ハ洋漢兩學ヲ修メント欲スルモノ々爲メニ必需ノ學科ヲ教授スル所ナリ」とあり、四書の素読が出来るものを対象にし、履歴書・小学校の卒業証書及び証人の保証状があれば入学が許可された。各学年の諸学科は次の通りである。

 第一年生
 第一期 綴書ウエブストル、第一読本ウイルソン 日本外史、文章規範 作文演説毎週一回
 第二期 第二読本ウイルソン、文典ピ子オ 日本外史、文章規範 作文演説毎週一回
 第三期 算術デビス、地理書ギヨー 日本外史、文章規範 作文演説毎週一回
 第二年生
 第一期 萬國史スウイントン、代数學デビス 史記、八大家読本 作文演説毎週一回但英語演説ヲ雑ル乁アルヘシ
 第二期 幾何三角術デビス、物理學スチュアト 史記、八大家読本 作文演説毎週一回但英語演説ヲ雑ル乁アルヘシ
 第三期 米國史アンドルソン、化學ロスコノ 史記、八大家読本 作文演説毎週一回但英語演説ヲ雑ル乁アルヘシ
 第三年生
 第一期 生理學ダアトン、文理學イエツケンボス 左伝、経書 作文演説毎週一回但シ英文ヲ雑ル乁アルヘシ
 第二期 星學ロツクヤル、修身學ウエランド 左伝、経書 作文演説毎週一回但シ英文ヲ雑ル乁アルヘシ
 第三期 地質學デイナ、米国史グリン 左伝、経書 作文演説毎週一回但シ英文ヲ雑ル乁アルヘシ 
 第四年生
 第一期 欧州文明史ギゾー、論理學ゼボン 作文演説毎週一回
 第二期 心理學ヘーブン、経済學フオルセツト 作文演説毎週一回
 第三期 代議政体ミル、萬國公法ウルセー 作文演説毎週一回
 餘科
 法律原料テリー、政事學講述、世態學ケリー、英文学デー

 英語は原書を用いた。一年を、九月から十二月・一月から三月・四月から七月、の三期に分け、午前八時より四時(正午から一時は昼休み)が授業時間であり、授業時間五分前には撃拆が鳴らされた。
 毎期末に試験を行い、百点中の六十点が及第点である。各学年は甲乙丙三組編成を取った。卒業後有志者は餘科へ進むことを許された。日曜と大祭日は休日である。
 入学者は八・九十人程であり、寄宿生徒もいて、投票で寄宿生代表の塾長を一名(任期一年、九月上旬に改選)選び、毎期が始まる時には幹事(職員)・塾長の指揮下で互室交代をした。午前六時起床、七時・正午・六時食事、門限九時と定められていた。
 入校束脩と授業料は一円、寄宿生徒は食費が三円(物価により増減あり)で、十五日前に入校者は全額、他の諸費は半額を納める必要があり、通常は授業料と食費を五日前に納めた。事務は幹事が管理する。教場・障子・器械等を毀損するものは修繕費を弁済せねばならず、飲酒・登楼・喧嘩等猥褻の場所に立ち寄ることを禁止された。
 このように官学に準じた内容で充実した教育を行っていたが、十七年三月の第二回通常県会で富山県中学校の分校を高岡に設ける決議を採択したところ、文部省は一県一中学校の方針を盾にこれを拒絶し越中義塾の存在を否定した。その上前年十二月の徴兵令改定で私立学校の徴兵猶予が廃止されていた。そのため生徒数が減少し、潔く九月の新学年は迎えないことを決めた。
旧砺波郡
 常国の医者松田竹次郎は文政元年二月に生まれ、土倉宗七郎の寺子屋に通った後、加賀藩儒者金岩善文に詩文を学ぶ。医術は父の成道に就き修業した。明治四年より自宅で漢学を教え、多くの門弟を抱える。二十三年に一旦単級小学校の教員になるが、医業に専念するため辞職している。
 下山田の農家河合平三(号神城)は、天保六年六月に伝右衛門の三男に生まれ、七歳の時に富山藩士近藤士専に学ぶ。九歳で藩主御前にて漢籍の講義を行い賞せられた。この時床飾の獅子頭石を拝領している。十六歳で加賀藩士鶴見小十郎に学び、嘉永三年京で梅ケ辻春樵に師事した。安政三年六月に二十六歳で分家し、混放堂を設立して農業の傍ら漢学を講じた。学舍は土蔵(五間×三間)の戸前階上(三間×二間)を用いたが、両側の小窓より僅かに明かりがさす一室であった。それでも門弟は多く、松田快禅等の僧侶や神官子弟、島田孝之や島巌、高畠孫次郎、武部冉(尚)志、大井長平、安念次左右衛門といった後に活躍する人材を輩出した。明治二年に杉木教学所の教員と戸長役に就き、翌年二月二十七日金沢郡治局直支配、六年より中田・頼成・東保新などの小学校創立係になった。十一年十一月二日、四十八歳で没した。
 戸出では、十村河合家十一代目又右衛門欽齊(文化四年生まれ、号雲溪)が瑞龍寺閑雲に書を学び、俳句も能くした。天保初年に浦上春琴が来遊したので、画を学んでいる。吉住村住人常木善増(蔵)は現高岡下関の書家泉伏翼に書を学び、伝授書を授かった。このような教養人を生んだに止まらず、明治元年竹村屋菊池重郎、吉田仁平等が中心になり、正義堂を設立する。
 菊池重郎逸斎(幼名珠洲之助、字則政、号復堂 松東)は天保元年六月二日に生まれ、父は寺子屋を開いていた兵三郎武邦である。弘化二年から嘉永六年にかけて加賀藩医吉益北洲に医術を学び、安政三年まで京で吉益南涯と宗晋哉に更に医術を磨いて、帰郷後に開院する。
 吉田仁平友信(幼名孝作、号琴堂)農家新屋久左衛門長男として、嘉永五年八月五日に生まれ、祖父で国学者の友香と富山藩儒三羽迂堂に学んだ。三十歳で父を亡くしたため、弟九人・妹二人を支える。
 正義堂典禮には「舊習の困弊を洗除し新奇の輕薄に汚染せず既往将来の形勢を考究し相倶に實着に切瑳するを専要とすべきものなり」とあるように志を高く掲げ、神明宮の辺りに開校した。教職員には、読司に菊池復堂と吉田琴堂、読司補に中野雙峰と苗加佳居、その下の社長には荒井君山が就任した。一・六の日に詩会、二・七の日に論語会読、三・八の日に孟子読解、四・九の日を温習に充てて、五の日を休日と決める。正月八日には発会を催して史記や孔子世家の講解及び告諭大意初篇と二篇の副読を行った。また上元の日には試毫会があった。入学生には僧侶の子弟が多く、二十人程であったという。明治五年の学制頒布で役割を終えたようだが、復堂と琴堂はその後も村町の発展に尽くし、三十年九月十日六十八歳、二十二年十一月二十四日三十八歳で没した。
 戸出の中正楽寺諄照を嗣いだ金石諄恵(文化九年五月二十五日〜明治二十六年六月十五日、字公恵、号萬壽院、山澤、柳屋、櫻屋、疎影菴)は宗学、聞香、品茶、書画、篆刻、花卉盆栽に通じ、寺務から退いた後、前庭の桜樹間に小亭を結び、訪れる人に請われるまま学問の相手をしていた。
 五十嵐孫作篤好は寛政五年十二月十六日内嶋村(現東五位)に生まれ、幼名小五郎・次に小豊次、号は水牛齊・香二瀬・蟹瀬・鳩夢・雉岡・鹿鳴花園、文化八年に九代目として十村役に就任するが、文政二年三月農村困窮の責任が十村二十八人に課せられ処断、父は四人の十村と牢死、自身も八月に十八人の十村と能登へ配流になったため、そこで伊夜比盗_社神職舟木連に歌を学んだ。翌年六月赦免、同四年三月復職、七月砺波郡総年寄役に就任する。本居太平にも歌を教授され、京の富士谷御杖を師に仰いだ。文化十二・三年頃には金沢を訪れた近江国の人望月幸智には言霊派文学の教えを受けたが、天保八年の大凶作の折に監督不行届で翌年七月に御役御免で二年間謹慎になる。この間妻を亡くした。安政五年六十六歳の時越中国に入った備後国福山の人千住弘太夫(海養亘)を泊め農業の新説を教わる。だがここにも落し穴が待っていた。流浪人の宿泊を禁じた法に抵触したのである。直ちに閉門を言い渡された。だがかえって学問に力が入り、歌を詠み著述も増えている。翌年に神道論を確立した『言霊旅暁』を著している。石黒信由にも就いて算学を学び、文政八年に允可を得ていた。安政四年十二月新器測量法に関する著作を刊行するが、算学を専門とせず、士分・僧・神官百五十人の門弟には国学を主に講じていた。門人帳には三州の著名人が名を連ねている。御家流の書は高田與八郎祐久を師とし、門弟には高岡有磯神社の上田伊豆守等がいる。閉門解除後は金沢との往復が多く、万延二年正月年賀で金沢へ行ったとき倒れ、二十四日六十九歳で没した。福町村(小矢部)影山直次顕吉と武部伝右衛門隣徳、井波の宇野貞十郎幸道、頭川村(高岡)吉岡虎次國子、木舟村(福岡)安宅長一郎貞賢等は算学の弟子である。
B新川郡
●滑川の私塾 新川郡では医者の活躍が目立つ。滑川では仙庵、杏順といった医者がそうである。他にも高月の専称寺住職玉木興隆や浅野永秀(明治六年九月滑川女子小学校訓導)、松村茂が藩政末から明治初年にかけて、漢籍を各々数十人の門弟に教えている。 
●魚津の私塾 士分荒尾作左衛門(七十石、与力)は上田耕に学び、文化十年田方町に漢学塾を開いた。天保十年頃隆盛を極め、同十四年には男子二十人・女子十人が在籍した。科目は漢籍・習字・算術である。塾は天保十四年に子息義一によって継承されている。
 町人五島宗八は京で学び、安政の頃に荒町で開塾した。門弟は三十人程で、漢籍・習字・算術を教えた(立山町の五島文栄との関係は不明)。
 同じ町内の飯野尚順は父の医業を継ぎ、漢籍に通じていたこともあって、万延の頃に開塾する。門弟は男子三十五人程で、漢籍を講じた。
 大町の医者阿波加脩造(号春塘)は高岡の医者九代目佐渡養順の弟に生まれ、親類の阿波加家(曽祖父宗順が阿波加李仙の弟)に入った。兄弟には坪井信良(良益、号柊里)、九鬼秀達、建部賢隆(光昭、天保元年十一月二十一日〜明治十九年八月三日、号琢斎、緒方洪庵の門弟)がいる。上田耕に学んだ後、嘉永六年大坂で春日寛平、渡辺太郎、広瀬謙吉より経史・詩文を、春日載陽、緒方洪庵、華岡準平より蘭医術を習得する。二十四歳で帰郷し、養父を助けて診療に従事する。安政五年のコレラ流行時には治療法の研究に努め、著書『虎路里贅語』も刊行している。その傍ら漢学塾を開いて教育にも従事する。まず三字経、千字文、孝経を学ばせ、その後に選抜者を四書五経、文章規範、文選へと進ませた。門弟数は明治四年頃に男子三十人であった。この年加賀藩の文学訓蒙に就任、魚津病院の副直を勤める。六年には学校教育にあたり副師範心得に任じられた後、明理小学校校長となる。また習字教科書を開発した。そこには数字の運用法を取り入れたり、日記文を導入部に載せ次第に段階を上げていく、といった工夫が読み取れる。二十七年には衆議院議員に当選し、大正五年八十二歳で没した。
 士分馬場三郎も漢学塾を開き、安政から慶応にかけ門弟二十人を教育した。
●黒部の私塾 生地では藩政末期に願楽寺で漢学塾が開かれ、弘文舍と命名される。廃藩後の明治五年に戸長上坂清三郎等が協議し、塾の継続を決めた。講師には亀田露月とその門弟上坂孫兵衛、鈴木宗順、習字専門の代用講師に東五左衛門を招聘した。翌年三月田村文平宅を改装して移転した上で、六月に精神小学校になる(前田侯爵の命名)。
●入善の私塾 舟見では相模国小田原出身の医者小林光随が諸学を講じた。論語「用之則行、舍之則蔵」から採って、かつ支那風に三文字で庭(丹羽)行蔵(号立訓堂)を名乗り、天保五・六年頃の年末二十七・八歳の頃に、寒中単衣一枚で大家庄柳田の森元貞を訪れた。二人は共に京で吉益東洞の門に学んだ仲間であった。郡年寄並役野島久兵衛も歓迎し、入善神社西南方の大根畑に式台付板葺吾妻屋を建てて住居を提供することにした。撃剣・弓術・易を能くし、やがてアヘン戦争の開始を当てたと有名になったため、これを訝った地元の医者古谷弘齊は、管狐を使って愚民を惑わす行為である、と金沢へ訴え出た。別件で尊王攘夷派梁川星厳等と文通したことが露見したこともあり、弘化三年夏に追放となった。肝煎役米沢善蔵、竹内四郎兵衛、組裁許十村役野島和七郎内手代沢谷善五郎も連座し、金沢の公事場に召喚され半年宿預けの判決を受ける。但し善三と善五郎は役義差支として執行猶予、帰村を許されている。扇谷要齊と長島武右衛門が越後の今町(現直江津港)まで見送るが、中島旅館で余興に船を浮かべ蝋燭の流し火をした所、多くの老若男女が見物したという。医者として調合した胃腸薬聖功丸は、明治末年に売り出されている。門弟には米沢与四郎、米沢耕太、只八一郎、扇谷要齊の孫与三九郎、野島親貞等がいた。
●立山の私塾 五島文栄(人物誌は不明)が明治以降も漢学を講じ、五百石大森村の酒井小平(松本開の開拓者で、明治二十一年に九ヵ村を五百石町として分離し自宅に役場を置いた)が、現在龍光寺がある所の北側に文學舍を設立し、村民子弟の教育にも尽力している。
 漢方医で代々肝煎を勤めた宮崎家(祖先は宮崎時範で、宮崎村から移り帰農する)の重右衛門は陽明学を講じ、門下に宮崎家の分家や隣村の浅生村伊七郎等がいる。
●新庄の私塾 現在富山市の一部を構成するが、藩政時代は加賀藩領新川郡の一部である。ここでは林周平(号周民、揚舟、王愛)が、明治初年に漢学塾を設立した。文政九年八月に周防国岩国で藩士の子として生まれる。高杉普作の奇兵隊に入隊したが、伊藤博文等と対立して脱藩する。豊後国竹田に四年間潜み、その後は耶馬渓羅寺に篭もり沈芥舟の画学編を学ぶ。越中入りして荒川四軒町に住み、神明町に開塾、詩も能くした。二十八年この地を去り、飛騨や伊豆田方郡函南村に居住するが、翌年の九月十九日に没した。
C婦負郡
●富山の私塾 婦負郡全ては富山藩領であり、城下の富山町では前章のように藩の儒官が漢学塾を開いていた。ここではそれら以外の私塾を記すことにする。
 上大工町には士分渡辺佐平太の塾がある。父左平太は寛政八年十月に幼くして相続、文政十年百石、天保六年正月百二十石になり、御歩頭・金穀奉行・御勘定奉行・御倹約奉行等を歴任している。佐平太がいつ相続したのかは分からないが、分限帳によれば安政七年二十九歳で、慶応三年には千石町に住んでいる(しかし明治二年の分限帳には佐平太清智が九十八俵・三十歳と記されている)。
 殿町には藩医真田見竜が開塾した。先祖は信濃国の真田家一門で、伊勢国より元禄頃に新川郡高江村に移って、高江姓に改め医者をする。延享元年富山藩の御匙役に取り立てられ、文政元年に真田姓に復した。見竜は見丈直當の次男として生まれ、天保三年正月に家督を相続する。天保九年時点で三十人扶持の御医者組本道、安政七年時点で四十八歳である。
 藩政末に九州で亀井昭陽と帆足萬里、長崎でも蘭学を学んだ高桑元吉(号金龍、雲峰)が殿町で家塾を開く。医学を専らとしていたかもしれない。坂本龍馬とも親交があったという。
 渡辺順三郎尚義は漢籍・詩・書を学び、停雲と号した。嘉永二年に異風組入りし、江戸で下曽根信敦の門で高島流砲術を学ぶ。帰藩後は砲術師範となり、半田甚左衛門と砲筒鋳造御用掛に就任し、大久保野で試打丁付、千石町に射的場を設置した。維新後には内用方議員に任じられる。廃藩の後師範学校教師に就任し、旅篭町に塾を開いた。
 成田道日徳(宝暦八年〜弘化二年七月二十二日、通称大二、号梅甫、春櫻、照翁)が漢籍や書を教え、氷見窪村の素封家で天文学者六田九左衛門(明和元年〜文政十二年、号布施神龍)も門人である。五歳で佐伯平蔵に学び、入江家へ養子に行くが離縁、十四歳のときに高岡町の道具屋の勧めで京へ出て書家の烏石に就いて書を学ぶ。三十歳で独自の書法を編み出し、著書も多かった。九十歳で京にて没。
また西四十物町に安達常規(天保十年十一月二十一日〜明治四十五年八月六日、号呉峰)が漢学を講じた。明治二十年頃富山師範学校で教えている。子息常正は栃木県師範学校長に就任し、号は九如。
 島林文吾(字季華、号雄山・林文)は代々二十人扶持の藩医(眼科)で、兄島林休意尚寛の養子になる(提出履歴には婿養子)。文化九年に相続し、御医者組、天保三年九月本道兼帯・御番入、文化頃に開塾する。高岡町の内藤王福と旧知で、同十一年に招かれ講義をした。高岡や氷見でも入門者があり、高岡町では津田半村などが門弟、称念寺懶外等とも交際があった。
 梅沢町に沢野氏が開塾しているが、詳細は伝わっていない。
 大塩平八郎の乱にも参加したという伊勢鳥羽出身の近藤士専(号・潜庵)が、嘉永五年四月に富山へ来て開塾する。陽明学と医学を専門としていた。旧姓は太田で、斎藤拙堂(名・正謙、字・有終、通称・徳蔵、寛政九年〜慶応元年七月十五日。昌平黌で古賀精里に学び、津藩の有造館で教え、洋学・種痘などを採用)に詩を学び、明治元年二月五十六歳で没。ただし下山田の河合平三の師であるとしたら、天保十二年には富山にいたことになるため、伝承に誤りがある可能性が高い。
 大野欽一郎の門人である家老・執政の蟹江監物基徳(文政十二年七月〜明治十九年十月十一日、号巻石、長爪、大愚哉)は二十歳の時から四・五年間、町の南郊の従野亭で入江事直明・千秋元五郎茂之と経史の研究をしている。
●八尾の私塾 町人文化が発展した町であり、東町で代々医者をしていた 摩島松南等を輩出している。
 大長谷村でも藩政末から明治初年にかけて青年教育が盛んに行われていた。山口太郎右衛門は算術と経済・社会の現況を年に数回教え、長谷川三四郎は地理・歴史の講話を定日行った。後に尊明小学校の習字教師になっている。喜多四郎左衛門は花房村で代々要職に就き、天保七年の大飢饉の時には野積谷農民の救貧に尽力する。天保末年には十村役に就任した。また村の青年に政治・時事問題を解説し、奨学・督励した。
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史料

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第一章 加賀藩と富山藩の藩校・教官

一、加賀藩の明倫堂
@明倫堂の創設
 加賀藩の学校建設構想は、もともと好学家の五代藩主前田綱紀の頃よりあった。「先聖殿並学校造営事」が記され、京、江戸より木下順庵や松沢尺五らを招き、藩儒室井鳩巣を順庵に入門させた。更に菅真静を京から聘して『源氏物語』の要旨を聞き、田中一閑が京より唯一神道を伝え、養子の式如はそのまま藩に仕えた。また、綱紀は国書数十万点を集めるよう指示している。しかしその後、財政逼迫のため学校建設は遅々として進まず、十代重教が意欲を見せるもののやはり進まず、ようやく十一代治脩(はるなが)が天明六年に奥村河内守尚寛、横山山城守隆従、前田大炊孝友へ学校創設を下命する。校舎は寛政三年九月に起工し、翌年二月に竣工を見る。学頭には朱子学者新井白蛾を役料十石で招いた。敷地約一万七千坪(約五万二千u)、建坪約千百坪(約三千四百u)に文学校(十五間×七間)と武学校(九間×七間)[一間=一・八二m]を廊下でつなぎ、文学校には白蛾の筆で「明倫堂」、武学校には前田直方の筆で「経武館」の額を掲げた。閏二月六日に開校を布達して町在の人々へも商・農の閑に出るよう申し渡し(実際の入学者は少数に止まった)、三月二日に開校式典が挙行、白蛾は藩主臨席の場で孝経を講じた。助教には長谷川準左衛門、新井升平を、助教雇に渋谷潜蔵、中島半助、林慶助を、読師に宮井柳之助、湯浅半助、稲垣左兵衛を、天文学に本保十太夫を、歌学に野尻次郎左衛門を、算学に村松金太夫を任じている。しかし白蛾は五月に病没したため、長谷川準左衛門が学頭格の都講に就任し、六月に定書(学則)を制定する。また学舎を設けて寄宿志願者を募集し、小身の侍及び御歩並の子弟で自ら賄いをして学びたい者には三年間貸与、貧窮者には食事を支給することにした。教職員には学校方御用主付や学校方御用といった藩吏、学頭(経伝講義)と都講(助教と講師の当否や諸学校の法式等を正す)を各一人(事実上同一人物が兼任)、諸書を講述する助教七人及び自ら句読や習字を学びつつ幼学生を指南する読師八人を置いた。また諸学生も毎日二人ずつ順番を決め、講堂等を掃除し、筆・硯等を飾り、火元を見回った。
 授業は七月二日より開始された。二・七の日朝四ツ時(午前十時)と夕八ツ時(午後二時)に大学・章句・論語・古易断・孟子・小学・経、三・八の日朝五ツ時半(午前九時)と夕八ツ時に令・算学・和書・礼法・天文、一日・十五日四ツ半時を医学と本草学(開講せず)、十五日を除く他の日に習学一般を学んだ(医学は同十年八月から三日朝と二十五日夕に開講される)。
A享和・文化の改革
 しかし学校の運営は必ずしも理想通りにはいかず、十二代齊廣は孝悌忠臣の道を励み当務有用の学を学ぶ者が稀であることを憂い、享和三年に儒学稽古を停止し文学校仕法を定めた。それは学監職を設けて名目にすぎなかった学頭・都講とともに相応の人品が出るまで闕役とし、かつ士列以下を助教格・読師格に任じて職分への途を開きつつ、討論の授業を設けて知識の多少に関わらず志ある者の入席を勧めて、出席手続きを簡素化するものであった。授業設計についても改め、論語・孟子・小学・易学・和学を四月から八月は朝五ツ時より四ツ時、九月から三月には朝五ツ時半より四ツ時半(午前十一時)とし等、他に朝四ツ時、夕八ツ時及び昼九ツ時(正午)に授業時間を設けて算学・礼法・医学などの特別講座を開講、特に医学は月三回で、内二回が本草の会読と論講であった。
 文化三年四月には三日・十三日・二十三日を「辰之上刻(午前七時頃)より下刻(午前十二時頃)迄四書五経演習候事」と定め、同九年二月に入学手続きを簡素化し、頭か支配人から願書を出していたのを本人とし、子弟は父兄より紙面で学校へ願い出ればよいものとした。文政二年二月校舎を兼六園の東隅、奥村氏旧邸へ移築、六月に再開して怠慢を戒め、同五年三月に騒音と火災予防のため再度移築を決め、城西の仙石町に七月竣工を見た。更に同六年二月に人持・頭分といった重役が出席していないことを戒め、翌月に日割を明確化して二・七の日の朝五ツ半時と夕八ツ時の二回を役職により出席を義務化し、病欠の際は届け出るように命じるとともに、藩主自ら学校に臨んで学生を鼓舞し、進んで講義を聴した。医学振興についても意を配り、陪臣の医師、藩医の門弟、陪臣の特志者等の医学講義への出席手続きを規定している。
B天保の修補
 次の十三代齊泰就任の際には、奥村河内守栄実が学校隆盛を意見し、天保十年四月に横山政孝や奥村淳叙とともに修補に乗り出した。まず教職員を学校主付、督学(定番頭、馬廻頭、小将頭を兼務)、教授(細工奉行、台所奉行の次で小将横目新兵使役の上)、助教、助教加入、訓導、訓導加入、訓導加入格、訓蒙、句読師及び書物方、御書物出納方御用に再編し、改めて選任し直し心得を示した。そして早速督学渡辺栗と教授陸原之淳に諮り、次の諸点を明らかにする。 

・人持以下平士並以上の家中嫡子・嫡孫等で十五から二十三歳の者は義務、二十四歳以上で希望者へは一年間ごとに許可を出す。
・座席は身分の軽重を第一とし、同身分の場合は年長順位とする。
・平士並以下の嫡子・嫡孫で、明倫堂の素読修業課程修了者は十五歳未満でも正規の生徒課程へ進める。明倫堂以外での修了者には試業(試験)を課し、合格したら生徒に編入する。
・人持の十五から二十九歳で役懸の外は毎月会読に出席すること。
・対象外の嫡子・嫡孫で二十四から二十九歳まで、二・三男などで十五から二十九歳までの者は会読に出席すること。
・素読は十四歳まで、遅くとも十七歳までに修了すること。

 七月には文武稽古次第の詳細を定め、生徒を入学生と改称するとともに、毎月の明倫堂、各月の経武館日割を決め、二・七の日は朝五ツ半時、他の日は夕九ツ半時を会読諸学の講義日とした。また三の日夕九ツ半時は医学と定めた。
 更に進んで藩は町在の教育振興へも乗り出す。翌年二月寺子屋の師匠に宛て、読書・算術を教授することを諭達し、手習の間に小学、図書等や算術を教え、孝悌の大意や六諭衍義りくゆえんぎの大意を話し聞かせるなど、幼少時の教育の必要性を強調した。
 医者資格についても明倫堂に関与させた。従来医師開業希望者は師家の添書を付けた願書を町会所に提出し、町会所で横目、肝煎等の試問の上で許可を出していた。これを明倫堂での試験により判断するものとしたのである。
 同十四年出席率を上げるため、欠席してよい場合を家や本人の吉事、父兄の江戸出発と帰着の送迎、臨時の武道稽古、父母・祖父母・妻の看病やその他の親族の危篤、法要、家族の葬送に限り、届出方心得を示した。しかしそれでも未入学者がいる。そこで藩末の安政二年には入学年令に関わらず明倫堂在学年限を九年とした。
 この頃異国船が近海に現われ、攘夷をめぐる議論が藩内でも盛んになる。それとともに国学(当時は和学や皇学と呼称)を学ぶ者が増える。嘉永五年六月国学が明倫堂の一般学科になり、鈴木重胤門下の 石黒千尋を講師とし、日本書紀、令義解を毎月二回御歩並以上の藩士と子弟が受講した。その際講師はじめ聴講者一同は威儀を正し、裃を着用するものとされた。安政元年に社寺の希望者へも聴講を許し、同六年四月国学の会読を学科に組み入れ、御歩並以上とその子弟に勧めている。ただあくまでも朱子学が主流であることに変更はなく、継続して学習するものは多くなかった。
C藩政末の授業風景
 この頃の様子を明倫堂横目野村實の証言から拾ってみる(「舊藩の學校」『三州史料』)。明倫堂は朱子学を徹底するあまり詩文を欠く傾向があり、経武館は養成所ではなく各師範家が門弟を集めて晴れの稽古をする所であった。また帳面に名前だけ付けて怠ける者が後を絶たなかった。
 講書(四書、小学、孝経)は助教が担当し、一章一読の後、章意・字訓・解義・余論の順で講じた。日は二・七の日で、二日朝に人持、夕に大小将、七日朝は御馬廻六組、夕に同六組、十二日朝に定番御馬廻組外等、夕に寺社奉行支配平士射手異風等、十七日朝は与力等、二十二日朝に御鷹匠、六組歩、定番歩等、二十七日朝は御料理人、細工者等、陪臣、夕に足軽、坊主、町在の者となっていた。国学は五日夕に人持、十七日夕に平士及び御歩以上、二十二日夕に陪臣及び神主等であった。
 余読は対象が入学生、句読師及び人持・大小将諸組等の論講と四書五経の素読修了者で、助教を会頭とし、訓導が補佐して行われた。籤に当たった生徒は素読と弁解をし、訓導が生徒とともに本文並びに註文を併せ低音で斉読し、その後に弁解者に訓練のため不審点を質して討論を行う。訓導が可否を説示し、助教が決定する。朔日と五の日を除き、朝と夕各甲乙二席、一と六の日朝は上級生、四と九の日夕が下級生のみで開いた。進級は試験によらず、平素の稽古振りで決めた。
 句読師溜では、句読師の会読が三・八・四・九の日夕に行われ、かなり深く議論が交わされた。会読の授業日は人持が六の日夕、大小将が一の日夕、諸組が四と九の日夕にあった。他に特別講座として国学が五の日朝、医学が三の日夕、易学が八の日夕、礼法が十日と二十日の夕に開かれた。
素読は句読師が毎朝担当し(三の日は温習)、二人並んで机に向かい、座右に五経一部を備える。そこに素読生が馬蹄形に並び、一人宛順番に前に出る。最初は字突で一時ずつ付かれながら口授され、やがて字突なしで読めるまで熟読する。算術は素読と同時に行われた。素読を一通り終えると試験があった。四書五経を各一冊一ヶ所を読み、誤読しなければ合格となり、賞賜があった(初めは『四書正解』後に匯参わいさん明倫堂出版のうち『大学』)。
 入学生は三月二十日と二十五日に弁書という試験を受けた。朝五ツ時(八時)に障子に向かい間隔をとって並ぶ。問題は横目が早朝に主附(年寄中)の宅で受け取って掲示した。解答は章意・字訓・解義・余論を書き分け、小紙の内に氏名を記して綴って提出するが、長時間かかるため餅菓子の差し入れがあった。結果は上中下に分けられたが、特に出世に響くというものではない。
 士列の者が重視したのは惣試業であり、これには出世がかかった。そのため便所書(『国字解』等を懐中に入れて便所で見る)や弁当書(問題を写し従者に渡して読書の出来るものに解答を作らせ弁当の中に入れて持ってくる)といった不正手段(カンニング)もあったそうである。
D壮猶館の創設
 異国船の侵略に備えるため、加賀藩は軍事研究機関として安政元年八月に火術方役所所管地(上柿木畠)に壮猶館を竣工させた。中心になったのは文政四年から天保九年にかけ高岡町奉行を務めた大橋作之進で、自宅を西洋砲術の研究所にしていたほどの研究者でもある。藩はこの壮猶館に砲術、馬術、喇叭、合図、洋学、医学、洋算、航海、測量学を研究させ、受講・調練をさせた。また訳書を進めさせ、上市出身の医師黒川良安も洋書調査に当たっている。この時に初めて蘭学(後に英学)を正式に導入して、万延の遣米使節一行にも入る佐野鼎が蘭学の兵学者として招かれ、稽古方・総棟取に就任する。文久二年には蘭法医書の会読と蘭法医の開業試問をも請け負った。砲術のための棚場や調練場も設けられるとともに、弾薬所と焔硝製造所及び軍艦所も付設されていた。慶応元年には種痘所を設置して黒川良安を棟取とし、翌年卯辰山養生所を建て医学教育をここで行うことにする。
E維新後の改廃
 維新直後の明治元年、英式兵制を採用した加賀藩(以後は金沢藩)は、経武館を壮猶館に合併し、学校総裁支配下に置く。これは武術修練の廃止を意味した。旧経武館は十四代藩主慶寧世子の居館にあてられ、構内に騎兵訓練の群龍館、喇叭修練の威震館、歩兵小銃訓練の懐忠館、大砲訓練の震天館、兵学・洋算を学ぶ飛雲館(天雲館)を置いた。また城内の御普請会所を雄飛館と改め、卒の大砲・小銃・喇叭訓練場とした。
 翌二年三月七尾と西町の軍艦所、弾薬所、焔硝製造所を海防方の所管に移す。英学教育に関し、英学所を壮猶館内に一月設立、これを移して致遠館とし、七尾軍艦所に英学所分校七尾語学所を設けて、本来の航海術の教授は壮猶館内に釣深館を建ててここに移した。
 明治三年になると、政府の軍制統一の一環として仏式兵制への切り替えが命じられる。そこで士官養成を目的に十一月二ノ丸御殿内に館を建設し(十二月二十日斉勇館と命名)、藤勉一を主任に教授には旧幕士横田豊三郎外一名を任じた。斉勇館は生徒が士官・下士官に任じられるに伴い同年中に閉鎖される。
 洋学教育に重点を置いた金沢藩は、有志を藩費で横浜に留学させていた。更に元年石見国津和野藩士吉本順吉を招き、狂言舞台を講堂に用いた道済館を設立して仏学の教授を受けた。その後金沢藩士でこれを受け継ぎ、仏学・英学・綴書読本・文典・地理・歴史・漢学・数学を教えるが、入学期限、規則、試業等を決めていなかったため、生徒増加に伴い翌年一月に規則を定めるとともに、幼年生を英学所に移管し、残った生徒の内英学生を城内に移して挹注館として独立させる。これを三年十一月に致遠館に併せた。また同年中壮猶館を初め意義を失った諸館を閉鎖し、道済館を移転した。
 明倫堂も存続の意義が問われつつあった。元年十二月に町在の人々にも講解席を開放し、教師不足は陪臣の儒者を助教雇に取り立てることで補った。一方で素読生を切り離し、済々館と雍々館を建設して移管、明倫堂の句読師を廃止した。翌二年十二月には両館も廃される。
 組織面でも二年三月に藩治職制が改められ、学政・軍政二寮の下に書吏と二等書吏、文学局に文学教師、武学局に武学教師を置く。六月学政・兵政二係に再編、権少参事・正権大少属・吏生・藩掌・出仕を任じる。翌三年文武館判任班列等級を改定し、学校に少属・権少属・藩掌を置くものの、十月ついに明倫堂の廃止が決まり、教職員は解雇された。
 英学所は雍々館跡に移され、更に移って致遠館と改称されていたが、またも大手町へ移し七尾語学所を併せ、次に巽御殿へ移され城中にあった挹注館と合併、中学東校へと姿を変え、米国人オーズボンを教師に招く(三年八月満期)。
 三年二月黒川良安の尽力で本科五年の医学館を開設し、卯辰山養生所の医学生を移して医者志願者の入学を義務付けることにした。入学は願書提出のみ(藩士は学政所)でよく、通学生と寄宿生(二十五ヵ月)がいた。毎朝五ツ時より夕七ツ時を授業時間とし、予科で語学・数学・理学・化学、本科で解剖学・生理学・顕微鏡用法・動物学・製薬処方学・外科眼科療病法・軍陣医則・包帯法を学ぶものと決めた。その上で前年十二月に医院医師として来ていたオランダ軍医ペイ・ア・スロイスを招くことが検討され、四年三月医学館教授への就任を見た。教職員七十四人・生徒百二十人(内三十三人は寄宿生)、月謝は予科が十銭、本科一等が二十銭で各五銭ずつを加え、五等は四十銭となる。
 また鉱山開発を企図して、三年に巽御殿で鉱山小学校を設立し、プロイセン人イ・フォン・デッケンを招いて生徒十数人に鉱山・金山・地質学が教授された。
 三年閏十月学校の統合を更に進める。まず学校を中学校と小学校所に分けた。中学校は東校と西校からなる。前者は元明倫堂であり、皇学(国学)を解釈とともに毎月二回教え、漢学の紀伝学・文章学・経学を質問・輪講・会読等に席を分け教導、洋学も原書と訳書を会読した。後者は致遠館・邑注館・道済館よりなり、致遠館幼年生を正規塾生として語学から入らせ、他の生徒は変則塾生として扱い、文典より学ばせた。しかし塾生は思ったほど集まらず、定員八百人の所四年三月時点で東校三百三十三人、西校三百人に止まる。それどころではなかったということであろうか。生徒百人につき四等教師一人・訓導二人・訓蒙四人を配し、百人を四席に、一席を甲・乙に分けることとしていた。廃藩なった後四年十一月両校を統合し金沢中学校を創設する。
 一方、小学校所は卯辰山の集学所など金沢市内に分散させ、最初五・六ヵ所、後に十ヶ所であった。上・下二等に分け、孝経・論語・孟子の素読を修了した後、小学・国史略・十八史略の講義を受けた。別に算術と習字を学んでいた。教員は中学校の訓導・訓蒙の内から配属し、有志の醵金と生徒の謝金で運営された。生徒には通学生と寄宿生がいて、四年時点での総生徒数は二千百八十八人(寄宿生百四十三人)であった。
 金沢藩は更に大学校設立を予告するものの、七月に廃藩があったため流れてしまい、五年四月には旧金沢藩の学校全てを閉鎖する。例外として病院のみ私立金沢病院として存続が許されたが、医師太田美濃里らの尽力があったればこそであり、スロイスも七年まで勤務した。
二、富山藩の廣徳館
@廣徳館以前
 富山藩主初代前田利次の時代は未だ武が中心であり、随従の武芸者で藩士を鍛練していた。兵学は楠流と北条流(甲州流とオランダ兵学の融合、北条正房の創始)、弓術は吉田流、砲術は安見流、鎗術は原田流、剣術は富田流であった。
 二代正甫(まさとし)は文教礼儀を重んじ、藩内の気風を変えるため儒者を招いて講説を受けることにした。そこで藩医 杏一洞の推薦で 南部草壽を招いて朱子学を講ぜしめた。以後南部氏は景衡、景春と三代に渡り藩に仕えて学問振興に尽くした。一洞の長男三折は享保十年に学問所を城南空地に建設する旨を提案するが、藩は儒官充実を優先させることとし、五代利幸は江戸で朱子学者大野竹瑞、松岡好山、藤沼衡山等を招き、六代利與は宝暦十二年徂徠学派の佐伯北溟を侍講に招く。また享和三年正月十三日南部氏と杏氏に藩から銀子三十枚が下賜されている。
A廣徳館の設立
 機は熟した。利與は安永二年正月藩士吉村順左衛門逑彭に昌平黌の規模・機構・祭儀を調査させた上で六月人材の育成と士風の振興を目的に、藩校として全国で六十二番目となる廣徳館を設立する。当時宝暦十三年の日光修復御手伝普請で藩は莫大な負債を抱え、藩士に全借知を課していたこともあり設立反対の意見は強かったが、儒官三浦衛貞の賛同を得た利與は強く決意していた。正月全藩士に向け、文武惰弱者を解雇して精を入れ役立つ者を力に応じて登用する旨宣言するとともに、学校建設反対の論を「雑談」と切り捨てた。あとは一気呵成に事を押し進め、二月に二代藩主正甫の末男前田聞我(幕政批判で罰せられた竹内式部に連座)の隣屋敷を用いることに決め、その両側の空屋敷と購入した藩士山本瀬兵衛宅を長屋風に建替えた。門には江戸の書家関源蔵(関鳳岡門人)が篆書で書いた「廣徳館」を掲げ、開講式を六月十八日に挙行する運びとなる。開講講義には御細工人組以上なら二・三男でも出席でき、元帳には四百人の名が記されている。三月恭敬篤実を旨とした 心得書を掲示し、年間日程や時間割りを発表した。
B廣徳館での学習
 高知組(四百石以上、頭役取扱)以上の嗣子で十五歳以上には三ヵ年が義務付けられた。更に経書で五経の抜講(進級試験)未終了者、兵学で教科書の弁解未了者、剣・槍等の目録以上に進階せざる者は追願で一年留年でき、また出席が悪い者や尚も進階不充分な者には「御沙汰」や解職・停職などの「御咎方」があった。兵学は甲州流を採用し、藩士安達周蔵家に委ねて所定席数(出席日数)の講義を受けるものとした。
 四百石以下には寄宿生を許し、父兄の禄高によって若干の学費を支給する。足軽の子弟には弓と砲術(鉄砲)を錬磨させた。
 優秀者は藩費で江戸の昌平黌に留学させてもらえ、更にその間月に銀二百疋が支給される。また私費留学も勧められている。当然のことながら出世は保証されていた。廣徳館での成績は嫡子の相続願いや二・三男の養子願いの許可・判断の材料になるのだから、本人以上に親達が懸命であった場合もあったであろう。
 教材は四書五経・十八史略・春秋左氏伝・史記等の漢書を用い、授業は寄宿生と通学生を分けて行われた。毎日午前中には下士以上子弟の四書五経の素読課程があり、これを修了して正規の入学が許可される。二・六・十の日午後は経書講義と質問、三・八の日午後は質問受付、四・九の日午後は寄宿・通学両生合同で経書会読があり、一の日午後は詩文会があって成果を発表した。なお、医学・算術・筆道は各人で師匠に就くこととされていた。
 文化七年に校舎拡充のため三ノ丸西に移築し、文武の稽古場を分ける。その後本館一棟を文学と漢学の講習場、他の三棟を武術の演習場(各々を弓、剣・砲・槍、柔術)とした。馬術は馬場を、砲術は下士以上が構内、以下が千石町の教練場を用いた。
 試験は文武とも月一回あり、合格者には文が書籍、武には竹刀が与えられる。また文学五経の合格者は武術の免許以上に相当するものとみなされた。他にも春と秋に賞罰の伴う試験があった。生徒は入学当日と試験及第及び賞典の際、師範へ挨拶に出向く慣例であった。
 教員は当初、祭酒一人・学頭一人・助教一人であったが、まず助教を都講と監生に分け、享和二年七月に祭酒・文学・教授・学生・訓導に再編された。
C釈菜の礼式
 廣徳館最大の行事といえば釈菜せきさいの礼式である。これは孔子を祭る儀式であり、まず明の謝時中が描いた孔子聖画像を安永二年に安置し、同四年学頭三浦衛貞が「釈奠図解叙」を選述して準備を進め、同五年二月上丁の日に初めて礼式を執行する。これ以降毎年春二月と秋八月上丁の日の恒例行事になった。
 享和二年七月釈菜の略祭を釈奠の正祭とし、藩主在城時は祭儀中廣徳館に詰めて、拝礼時に白銀若干を献納、参勤不在時は老臣が代理で代拝した。また士分以上は必ず拝礼・献納し、献納銀は殿様御奉納銀目録、高知組以上献納目録、無組以下献納目録に分け奉納された。御目見得医者・町医者・社人も学校に申し込めば参拝でき、献納銀は春秋両度で一両、一度の参拝に五分ずつと定められた。
礼式時には五日前より休講になり、生徒は三日前に献上漢詩を書き写す作業を受け持つ。生徒が自作した漢詩は監生が閲監し、都講へ渡した。献上される漢詩は先聖(孔子)頌徳の詩であり、釈奠頌といわれて刊行もされた。寛政九年のものは、祭酒市河寛斎の序文と教職員三十四人の頌詩で構成されている。なお廣徳館では積極的に図書を出版し、私塾や寺子屋の教科書に用いられた。慶応二年に出版された佐藤一斎の訓点による四書五経の改訂本は一万部を数え、平戸にまで及び「廣徳館本」と呼ばれた。
 さて礼式前日、廟堂や門の内外を掃除し、孔子像の前後に幔幕を張り、堂の中央に香を置く。その日には卯ノ刻(午前六時)に献官・都講・監生が一名ずつ堂に入って奠物を点検し、執役は休息所に控える。辰ノ刻(午前八時)より唱和者の呼び出しで孔子像の参拝が始まる。
D学校再建と文武奨励
 七代藩主利久、八代利謙の頃には儒官の顔触れも充実する。学風は山鹿素行や荻生徂徠の古学中心であったが、寛政二年に幕府が異学の禁を出したため市河寛斎等の朱子学、昌平黌派へと変わった。文化元年には教員に家塾創設を促し、学問の教導と普及に努めさせた。
 九代利幹としつよの頃、文化七年正月佐藤四郎左衛門信照を御普請御用に任じ、五月に校舎を城中三ノ丸へ移したが、天保二年四月十二日西田地方の浜田弥五兵衛方より出火、類焼してしまう。しばらくは仮校舎での講義を余儀なくされ、ようやく同六年三月近藤光享が責任者になり、佐伯棠園と藤澤長周の監督下に旧地で再建を開始、七月に復興を見た。この際学科拡充を市河寛斎や大野拙斎等に諮り、四書五経の素読・習字・作文を必修にして、蒙求・十八史略・春秋左氏伝・史記・文選・日本外記・日本史略及び作詩を課すことにする。また出席しやすくするため、二・五・七・十の日を従来の昼から八ツ時開始へ変更し、かつ出席を督励した。
 天保六年十月に襲封した十代利保は学問の普及を重要視した。そこで大野欽一郎を昌平黌に留学させて機構や運営を観察させ、国学定着のため歌学・古学・国語を学科に加えた。更に訓諭書「履校(れきこう)約言(やくげん)」を編み、精神の高揚を図った。
 十一代利友と十二代利声の頃には廣徳館教育が充実期を迎えるものの、十三代幼君利同の頃には既に維新直前であった。当時の政情は学校教育にも反映される。慶応元年に従来の学則が大幅改定され、武が奨励されたのである。併せて「文武師範家塾学則」を作り、教員に家塾教育を改めて命じた。同三年六月「文武奨励申渡書」を発して、武術稽古所を廣徳館西に建てる。師範役には渡辺順三郎を、製薬方・弾薬方・御筒方などに六十一人を任じた。これは武を廣徳館が担い、文の学習は専ら家塾に依頼することを意味し、創立以来の大転換であった。また教員家塾を事実上の分校とするものでもあり、優秀者は下級・小禄でも登用し、昌平黌に留学させるものとした。
E廣徳館教育の終焉
 しかし間もなく明治維新の大変革を迎え、文の教育が復活された。その直後の明治元年九月校舎が火災で焼失してしまう。だが教育は継続され、上等生・下等生に分かれて夫々民家を借り塾舎とした。また優秀者はこれまで通り東京や京都に留学させた。
 翌二年十月に藩は英学教師として森本弘策(元「榎本艦隊」の千代田艦長で降伏人として預り中)を招き、近藤邸に変則英学校を創立、さっそく寄宿生と通学生に分けて生徒を募集した。これは後に洋学北校と改称される。それに伴い廣徳館も藩学校と改め、漢学を専門に教えることにした。直ちに二番町の鎮撫使旅旅館跡に移り、生徒を上・中・下等及び等外に分け授業を再開する。また教員高橋篤の家塾を正式に支校として総曲輪にあった重役西尾逸角邸に移し徳聚堂と名付け、皇学・漢学・洋学・算学の教授を町在の人々にも開放した。教員には堀才二や久米といった識者が就任し、明治九年まで授業は継続されている。
 その他、演武場を山王町の民家に移し撃剣を習得させた。西洋医学校も山王町の山田嘉膳邸跡に創立し、金沢藩医高峰昇を教師として招いた。生徒数は最大百四十人で、やがて洋学南校と改称される。
 十一月に藩学校と英学校の生徒若干名を東京の開成校及び家塾へ留学させるものの、四年七月の廃藩に伴い全て廃校が決まった。ここに歴史ある廣徳館教育は完全に停止されるに至ったのである。
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三、富山藩儒官・教員人物略誌(経歴判明の分のみ、小西家は寺子屋の項目に記す)
石黒求馬直徴 祖は金山谷城主石黒左近入道道春。岩田家から養子に入り、文政七年家督を継ぎ学正に就任する。翌年御小姓組に移り、天保二年没。
石谷貫蔵周教(蕃教) 号井華 昌平黌に学び、文久年間に教官に就任する。明治二年四十六歳の時二等教師試補・文学に就任し、五十四俵四斗三升六合を受ける。廃藩後は家塾教育に専念し、十年に師範学校並びに致遠中学校教師に就任するとともに、岡田呉陽や松田煌と変則中学校設立に尽力する。十五年十月に没。
板倉安衛 父の嘉六明義は定番組足軽から士分に進んだ。天保六年正月十三日に十八俵を受け、七月十一日訓導に就任する。同九年正月二十九日に学正に進み、二十八俵を受けた。
市河小左衛門世寧 字子静、嘉詳 号寛斎、西野、半江、江湖詩老 上州甘楽郡南牧山下仁田村に市河好謙(号蘭堂)の子として生まれる。曾祖父より真田家に仕え、父は細井広沢に学んでいる。朱子学を昌平黌祭酒林正良に学び、教官を五年務めた。病で辞した後に江戸で詩社江湖社を開いた後、享和二年に前田利幹に二十五人扶持御手廻組で招かれ、教授、祭酒に就任した。詩に優れ、神通川岸崖崩れの際に藩へ被害民の救恤を詩で以て訴えた逸話があるほどである。文化八年に老を以て致仕した後も豊後、長崎へ旅し、文政三年七月十日七十二歳で没した。
市河才二郎三亥 字小春、孔陽 号小山林堂、金洞山人、半千筆斎、亦眞頁道人、楽斎、米庵 安政八年九月六日寛斎の長子として江戸で生まれ、父や林述斎、柴野栗山に就く。文化元年に二十六歳で長崎に遊学に出た。書で天下にその名を轟かせ、文学として前田利幹と利保に仕えた後、文政四年正月本藩である加賀藩に二百五十石で招かれた。藩主齊廣世子齊泰の師として江戸に住み、金沢でも講義をした。嘉永三年に七十二歳で致仕し、養老二十人扶持を受けた。安政五年七月十八日江戸にて八十歳で没。コレラと伝えられている。多くの門弟の中には後の韮山代官江川太郎左衛門(坦庵)もいる。弟の詳胤(号雲潭)は鏑木家を嗣いだ画家である。養子の三千太郎三千(寛政八年〜天保四年六月、字桃翁、号恭齋、古学庵)は讃岐生まれ、実父は稻毛屋山。小楷を能くし鉄筆や吟詩に長じたが、天保四年六月二十七日三十八歳で没した。家督を嗣いだのは三治郎三乳(文化元年〜明治十八年、又乳、字士成 号遂庵、三山居士)で、大聖寺藩横井百翁の次男として生まれ、娘婿として市河家に入った。嘉永三年二百五十石を受け、養父同様書を能くした。園子周吾(小左衛門、三鼎 号得庵)が天保五年に生まれ、書を後継した。米庵には六十歳の時に生まれた実子がいる。昇六三兼(天保九年〜明治四十年十一月、字叔並、号萬庵)であり、砲術を江川太郎左衛門と高島秋帆に学ぶ。維新後の明治三年、三十三歳の時に大蔵省の仕事でロンドンへ行き、印刷する紙幣の元版に文字を書いている。大蔵省には二十年間勤務した。篆刻・点茶・挿花・弾琴を能くする。長男は家督を嗣ぎ、次男は英文学博士、三男は林学博士、一女は華道宗匠である。
内山才蔵重喬 父は馬医の門蔵惟(維)直で、十五人扶持金五両銀三枚の薬施代を藩から受ける家であった。安永九年の時は二十九歳で監生兼助教であったが、早世する。
内山金吾良馬 島林家四男。天明二年四月内山維直に入り、同五年春に助教役見習となり、同七年四月に助教に就任した。寛政五年六月監生に進む。享和元年五月御手廻組入りし、馬医方と廣徳館役儀を兼任する。七月都講、同三年正月教授に昇進、同時に馬医を免ぜられ馬医書籍を藩へ差し出す。更に文化十四年正月に御小納戸預り、御書物預りに就任した。文政十二年七月に職を辞してすぐ没した。
内山兵馬長巌 父は松軒秀宜で、延享二年七月に十七歳で家督を嗣ぎ、十五人扶持御手廻組入りする。安永九年五十二歳の時には二十五人扶持を受け、御手廻組で都講に就いていた。天明元年閏五月「学業心掛宜候」と藩より御目録御衣紋付御上下を拝領する。同七年四月に職を退き、寛政四年八月に掘家から養子緝煕を入れる。同十年十二月七十一歳で没。
大沢丹治春弘 号南土隶(なんたい) 尾張名古屋の出身。三浦瓶山の推挙で安永三年三月二十一日に二人扶持で教官に就任する。
大沢丹治 号元徳 春弘の養子。安永六年に助教、以後監生、都講へと進んだ。
大塚新左衛門(新吾)敬業 号水石、通川 文政四年四月十日掘端町に生まれる。八歳で父を、十五歳で母を喪う。大野拙齋に学び、江戸で古賀小太郎に三年就く。嘉永三年訓導に就任した後に昌平黌へ留学し、四方・新潟を見聞して帰藩した。前田利友の侍講や教官を勤め、明治元年に新番に進み俸二十八苞を加増される。翌年二等教師試補・文学に進み十八俵を受けた。廃藩後は家塾に専念し、七年九月二十五日五十四歳で没した。
大野十郎鼎 字國寳 号拙齋 安永元年売薬人の次男に生まれる。幼い頃より才に秀で、本長寺日深から僧になることを勧められるがそれを拒み、書を妙傳寺に学ぶ。市河寛斎に見いだされ、上毛の河子静が富山藩の依頼で講演に来た際に会見が叶い、推薦を得て京の僧大典のもとに留学する。皆川淇園にも学び、寛政十年六月五日二十八歳で七人扶持与外組儒者に採用、教授に就任した。享和二年六月には十人扶持で御手廻組、文化二年六月役人組御近習並となる。同九年昌平黌に入学し、古賀精里からも賞せられた。翌年に帰藩し、文化二年祭酒に任じられる。同十三年五月二十日五十九歳で没。
大野欽一郎賁 字士文 号介堂 拙齋の子息。文政九年に十人扶持で訓導に就任。その後昌平黌へ留学し村崎慊堂に就く。父が病との報せで昼夜兼行駆け付けるが間に合わず、そのまま八月に禄を嗣ぎ御手廻組に入り教授となった。学校改革を志す藩主前田利保の意を受け昌平黌に再び入り、機構や運営を観察した。天保五年に帰藩し文学に就任、翌年祭酒兼監察へ進んだ。しかし尊皇の志熱いがゆえに、国政に関し宋藩へ上疏したことで咎めを受け、致仕となった。文久元年に五十四歳で没。
岡信九郎正雄 字幼飛、晩翠 号卜堂 佐伯栗園、大野介堂に学び、学正に就任し、前田利聲の文学教授を勤めた。また南画を能くした。
岡田萬三郎淳之 字太初 小字為之助 号栗園 先祖は伊勢の出で、高祖重遠より富山藩医になる。父瑞仙の四男。文化元年六十石を受け訓導に就任し、同九年に昌平黌へ留学する。帰藩後の同十二年に御手廻組入りし教授に就任し、俸二口金五両と賃銀若干を得た。文政十一年文学に進み、天保七年江戸で近習兼師範に任じられる。嘉永三年に旧藩主利友の御近習頭になり、安政二年に一旦致仕するが学頭・祭酒へと昇進した。徂徠学が専門。男子が四人いたが相次いで亡くし、小西有斐の次男を養子に入れる。元治元年七月十七日七十九歳で没した。
岡田順二信之 字君忠、君行 号呉陽 文政八年七月十六日に生まれ、十九歳で昌平黌に留学、三年間朱子学を学ぶ。親類の岡田家に養子に入ることになり、義兄の娘と結婚した後、再び江戸で学んだ。嘉永六年六十石を嗣ぎ、安政二年に御馬廻に入り学正に就任した。同四年横目に任じられ、藩主に従い江戸へ行き一年間昌平黌に復す。その後表扈従、横目、御近習頭、文学兼藩主師範へと進んだ。意見上申も多く、維新後は明治二年に藩政の改革に当たった。同四年九月一等教師に就任するが廃藩となり、養父の家塾學聚舎で門弟の教育に力を入れつつ、五年変則中学校設立に尽力した。十年に師範学校教諭に就任するが翌年に辞し、清水村に新築した自塾で漢学を講じ、主に士族子弟へ人の守るべき道を説いた。十八年六月二十九日六十一歳で没。子息正之は学習院教授である。
加藤五郎右衛門 三村家より加藤隼允可水の養子に入り、天保元年正月に二百石を相続、御馬廻組となり、学正に就任する。同六年七月に教授へと進んだ。
加藤竹窓良 字良吉、静處 号香業 文政九年稲垣家に生まれ四歳で加藤家を嗣ぐ。大野介堂に就いて学び、大塚敬業とともに俊才が認められ天保十三年京に留学し貫名海屋に学び、頼三樹三郎と交わった。弘化二年に豊後で帆足萬里に学ぶこと三年、更に漢学・洋学・算学を三年学ぶことを藩に望むが容れられず帰藩し訓導に就任する。嘉永五年二月十三日二十七歳の若さで没した。
兄は稲垣藤平衛克(文化十年〜明治九年、字子復 号碧峰)である。天保元年に上京し、浦上春琴の門下で南画、文人画を学ぶ。三十二歳で町年寄になるが、度々京で風流を楽しんだ。頼三樹三郎が富山に来た際に滞在している。
狩野又四郎 森川辰右衛門の次男で、幼名は岩蔵という。幼時から廣徳館の奏楽方に勤務しながら、学問と剣術に精を出し、文化五年四月又四郎と改名し、同七年正月に奏楽方と訓導を兼任する。同八年十月に狩野家へ養子に入り、十二月に相続してからは、奏楽方で樂方諸事を指揮した。翌年三月から同十二年五月まで中之御屋敷の御殿御番を皆勤し賞され、文政四年六月に御帳付役、同八年二月御寄合所筆役、同十二年七月御祐筆御書方添役などを歴任する。天保八年六月には寺社方下役と廣徳館奏楽方を兼任している。
河上磯治秀篤 父は兵治。寛政三年広徳館御用となり、後に与外組格、助教を勤めた。砲術を研究し、文化六年十人扶持、異風組鉄砲土蔵預りに就任する。文化十四年十二月没。
河村貫三郎貫義 号彊齋 大野拙齋に学んだ後、昌平黌で尾藤水竹や摩島松南に就いた。帰藩後慶応の頃に文学を勤めた。
北川久太郎昇平 代々久太郎昇平を名乗り、文政九年御徒組・訓導に就任する。天保六年には廣徳館書写方を勤め、同九年二十俵を受けていた。弟が末期養子になり、明治二年には三十一歳、内家知事席筆役御旧記方を勤めている。家塾を開いた北川正賀と同一人物かもしれない。
杏敏次郎立 字士立 号凡山 杏家の裔。大野介堂に学んだ後、昌平黌で林述齋や鹽谷宕隠に就いた。慶応元年に教授、祭酒に就任し、学則改訂に当たるとともに、佐藤一斎の訓点により四書五経の読みを改めた。異国船襲来が騒がれる世相下、朝廷の意を受けた幕府が諸侯の上に立ち、賢人を登用して攘夷を実行することを説いた。維新後には本藩明倫堂教授に転じる。十六年帰郷して千石町に開塾し、かつ師範学校教諭に就任する。十八年五月十九日六十六歳で没した。
久郷兵左衛門喜就 代々鷹役(方)の家に生まれ、安永二年訓導に就任し、同四年教授と兼任する。翌年には教授専任になり、同六年に家督を相続する。二十五人扶持。文政元年五月に没した。子息の四郎衛門吉茂には実子がおらず、文政四年十月に養子兵蔵をとった。その嫡子が哲之助義篤で、明治二年三十八歳、五十四俵四斗二升の三等教師試補であった。
小塚宇門恒慥 寛政七年二月助教に就任する。同十一年六月に没。
小塚外守之則 号南郊 養父堀田藤右衛門恒直は嗣ぐ者がいなかった親類小塚家を寛政九年に五十石手廻組で再興し、そのあとを甥堀田徳右衛門の次男之則が末期養子で嗣いだ。幼年であったからか、文化四年七月にようやく五十石の遺知が下され、御手廻組で学正を勤めた。文政十年正月御馬廻組、同十三年五月役人組御中奥奉行に就任、天保五年二月十五日に没した。高岡町の敬業堂へも文政八年に講師として出向いている。
佐伯平蔵有望 字君桂、観光 号北溟 先祖は立山芦峅の出で富山町人。江戸で服部南郭に徂徠学を学ぶ。前田利幸に招かれ帰藩し、四人扶持を受け嗣子利與の侍講になる。宝暦十二年十二月二十四日手廻組二十五人扶持に進んだ。
佐伯八兵衛樸 字季艧 伯父平蔵の門に学び、後に京で江村北海に就く。詩は能くしたが書を読むことを好まなかったため、明和の頃に自宅に師北海を招いた際に、北陸一の学者になれるものをと嘆かれたが、自分は天下一になると応えたという。没後、寛政の頃に伯弟の鐘山と嗣子の紹(号公志)とで遺作を発表している。
佐伯健蔵 佐伯一門。天保九年の時点で二人扶持で、学生に就任していた。 
佐伯新五衛門(新蔵)有融 号鐘山 北溟の子息。父の没後に五人扶持を受け、訓導に就任し、後に文学へ進む。 
佐伯順蔵有穀 字北寛 号棠園 実家は和田氏。鐘山に学び養子になる。文化五年に二人扶持で訓導、学生と進み、天保六年七月十一日祭酒に就任して廣徳館の再建に取り組むとともに、書を謄写させた。二十五人扶持を受け、嘉永二年七月二十二日に六十二歳で没。 
佐伯第作有清 字種徳 号櫻谷 有穀の長子。江戸で昌平黌に学び、佐藤一斎に就く。詩を能くし、嘉永三年正月学生、後文学へ進んで、安政四年四月江戸に転じる。五年二月に表扈従に就任するが、七月二十三日に没した。
佐伯慎蔵有種 櫻谷の弟。明治二年、三十六歳で二等教師試補・文学に就任し、三十六俵二斗八升を受ける。
佐藤元次郎秀昌(季昌) 号月窓、松羅子 京で金屋仁右衛門の次男、代々御徒組・歌道方御用を勤める元次郎の養子になり、文化二年御目見医格として歌道方御用を嗣ぐ。同四年五人扶持を受け、与外組格・歌道方御用となったが、既に天明の頃には富山に移っていた。天明三年に常願寺川で大洪水が発生したので、前田利久が馬瀬口に堤防を築き太田水門を作った折「うごきなき千代に八千代にふせげこの神の水垣水のいはがき」と詠じ、歌碑を堤内水神宮の畔に建てている。また寛政十年二月自仙院の『桜谷八景歌』に跋を草し、四月に天明頃の登山記『立山紀行』を著した。文政元年に七十五歳程で没した。
須加源五左衛門弘篤 父は源五左衛門、宝暦五年に家督を嗣ぐが幼少のため出仕に及ばず、明和四年に七十石を受ける。安永二年に国境紛争のため飛騨へ出動、同九年四十歳の時には都講であった。天明五年に役人目付、寛政六年御近習目付、同十二年に御裏預りを勤め、文化五年に江戸詰めとなる。翌年には大目付に進み、同八年に隠居する。文政四年没。
須加治部左衛門重明 弘篤の子息。享和二年に助教に就任し、文化四年に学正に進む。同八年に家督を嗣ぎ、御手廻組、御近習、同十一年御裏預り、文政三年御馬廻組、翌年御小姓組を歴任した。同十二年には検地奉行に就任したが、翌年に没した。
須田八郎左衛門 寛政六年十一月二人扶持・銀三枚で御先徒組に入り、江戸へ参勤お供を経験した後に、享和元年に訓導に就任した。文化六年四月奥御用所筆役に転じ、八月御鷹役になり、同八年正月家督を相続すると、御徒組・御鷹役として勤務する。父の半右衛門から柔術を学んでいたため、天保六年六月に廣徳館で柔術稽古を受け持つ。同八年六月に隠居すると、十一月に柔術心掛を賞され銀二枚を賜っている。
高木文右衛門 父は高木屋文次郎。学問に励み、文政八年九月二十俵を受け御徒組に採用され、訓導並に就任する。同十二年六月訓導になり、天保七年正月に学正へ進んだ。
高田右門芳昌 藤田家から高田料右衛門種陽の婿養子に入り、天明六年に百五十石を嗣ぎ御馬廻組に入る。寛政四年御近習、同九年御書物預り、享和元年御勤方分限帳帰役を経て翌年に教授に就任した。文化三年に没。
高田傳助 芳昌の子息。訓導を勤め、文化三年家督を嗣ぎ百五十石御馬廻組入りする。その後大目付、火元番盗賊改方、富山町奉行、先手頭等を歴任した。
高橋元左衛門(元六)篤 文化十四年八月十三日長清寺町に生まれる。大野介堂に学んだ後、昌平黌へ留学する。帰藩後は教官に就任する。元治年間に田近鐵也の門弟を引受け、家塾琢磨窟を創立し漢学を講じた。門弟が増えて手狭になったため、明治二年十月に総曲輪の西尾逸角邸を借り、徳聚堂として藩学校の下に入った。廃藩後は千石町で塾を継続。九年六月十四日没。三男義篤海軍大尉は日清戦争の際に威海衛で戦死。
武井善蔵致恭 字公謙、大室 安永九年正月二十九日江戸で御馬廻組儒者に就任する。
田中助右衛門 父権之助(剣の達人で、天保六年学校方下役)の嫡男に生まれ、天保六年七月文学心掛を評価され訓導に就任し、同九年正月に学正へ昇任した。
多村安左衛門 代々御台所足軽として御料理人を勤める家に生まれ、十七俵と別に七十五匁九分庖丁代隔年渡りの身分でありながら、訓導に就任する。明治二年には三十二歳四等教師試補であった。
恒川泰蔵済 字君楫 号樸 織蔵の第四子。佐伯栗園や大野拙齋に学んだ後、京で仁科白谷から詩文を学ぶ。文政二年七月訓導に就任、同四年二月学正に進み、書を市河三亥に学んだ。前田利幹の庶子主税、頼母、兵庫の習字教授を勤め、同九年実兄季三郎の跡を継いだ。同十一年に教授に就任し、天保五年五月に再び庶子伊織、金淳八郎、鎬九郎の習字教授になり、家塾で経学を講じた。同八年十月知行二十石の加増を受ける。弘化二年七月六十歳で没した。
寺島東之進直格 町医者中川春庵の次男に生まれ、寺島家に末期養子に入る。安永五年五月に助教に就任するが、七年六月病気のため退く。寛政元年十二月に没。
藤堂□之助  庄之助の嫡子。天保九年時点で銀七枚目を受け、訓導であった。
富田助作詮廷 父は弥右衛門詮由で、嗣子ではないため分家をする。文政元年五月十六日訓導に就任し、毎年銀七枚を受ける。学正に進み、同九年正月十一日御手廻組、十二年四月三日十人扶持、天保末年には御作事奉行・会所奉行などを歴任し、十三人扶持を受けた。安政四年家老富田兵部の自刃の後、金融混乱の責任を追及され、揚り屋幽閉となる。
富野直之進則良 養子として安永七年閏七月に御帳付所平詰になり、天明七年七月に助教、寛政七年四月広徳館監夫役に就く。享和二年四月御次詰、その後御薪所才許や金銀受払方を務めた後、文化三年九月に没。
永井省吾 文化三年七月六日に訓導に就き、毎年銀五枚を受ける。嫡男であったが同六年四月江戸で大聖寺藩井上織衛方へ婿養子に行くよう内命があり、養家ヘ移った。
西田辰正 天保十一年生まれ。廣徳館に学び教官になる。維新後に貢士として上京し、そのまま東京で学んで明治十三年啓迪高等小学校の校長に就任、十八年富山県尋常中学校の設置に尽力した。三十二年に没。
西村政蔵唯正 十人扶持喜間太の嫡子。安政七年時点で三十七歳御城詰、明治二年には監察を勤め銀十枚十五人扶持であったが、すぐに五十四俵四斗二升文学として、三等教師補職に任じられた。
庭田内蔵助 火之御番等を務めた伝治の嫡男として生まれる。幼時から学問に精を出し、天保九年正月銀五枚で訓導に抜擢された。
野崎伊太夫雅明 宝暦七年生まれ。祖父の雅伯は会所物書・御先手足軽小頭・御勘定算用役・御寄合所筆役等を歴任し、「喚起泉達録」を著し、越中の歴史や民話などを録している。没後に散逸するが、雅明により再編集され、文化十二年「肯搆泉達録」が完成する。これは明治二十三年に筐中より発見された。寛政五年六月四日に助教、享和二年監生(後に学正に改称)に進む。四年五月に江戸詰めになり、文化二年五月に帰国して十一月二十日に学正にした。同十三年十月二十五日に六十歳で没。
林藤太全振 父は左六、安永五年二月に本田華岡の下で廣徳館の釈菜御用を努める。周易等の研究に励み、同七年奥御用で御目録を頂戴し、同九年二十八歳の時に二人扶持銀三枚を受けていた。天明七年十二月銀二枚を拝領する等学才を期待されていたが、寛政六年正月父より早く没した。
林道衛 美濃国斎藤宮内の後裔で前田家に仕えた善左衛門の弟伝右衛門が、寛文二年に富山藩家中斎藤弥兵衛に身を寄せた。その子息多内は元禄二年九月前田正甫の児小姓、翌年七月から林権八尚房と改姓名し、御馬廻百三十石に進んだ。養子の多い家系で、道衛の父直就も山口家から入って寛政三年に相続し、文政元年本丸番を勤めている。家を嗣いだ兄の直清は天保九年二月二の丸番に就任した。道衛は文政十二年六月に訓導(毎年銀七枚)、天保六年七月に学正へと進んだ。
藤澤音人 先祖は朝倉家臣。寛政九年二月に監生に就任し、御近習や御馬廻組入りした。
藤沢省吾長周 音人の子息。文政五年に四十俵銀十枚を受け御馬廻入りし、同九年四月訓導に就任する。天保六年二月焼失した廣徳館を再建するため、御造営御用掛に就任する。七月学正に昇任し、御普請の功で銀子を拝領した。
藤田呉江憲 字憲章 文政十一年十一月二十一日生まれ。江戸で藤森天山に狩野画を学ぶが、師の江戸追放後に帰藩、教授に就任する。家塾も開いていたようである。藩に上書をし、戊辰ノ役では藩軍参謀として長岡に戦い負傷する。その後公用人となり、廃藩後は新潟県や東京府に出仕する。官を辞した後は狩野派や南画に精を出し、十七年に絵画共進会審査員になる。十八年五月十八日に没。
藤沼専英 字良達、仁内 号衡山、三軒、自得斎 実家は鏑木氏。寛延二年二月朔日前田利幸に招かれ、江戸で儒官になり、文・武・医の三学教授に就く。
堀才二通祥 明治二年には三十八歳で文学にあり、高橋篤に協力し徳聚堂の教官に就任した。
堀内守蔵 代々十八俵御料理人を勤める。父は染右衛門で明治二年には五十九歳。同年三十歳で銀十枚を受ける訓導であった。同年中に相続したのか十八俵を受け、三等教師職に就任している。
堀田彌八郎善之 廣徳館で都講まで進み、寛政九年五月二人扶持金五両で御手廻組、同十二年御近習となる。享和二年八月二百五十石を相続し御馬廻組に入る。その後若殿様御近習、文化三年江戸詰となり、同十三年三月に没した。
本田善右衛門維時 後に吉人好善、号華岡 元熊本藩儒者。安永四年四月二十七日に江戸藩邸に招かれ、二十五人扶持を受けた。六月十一日妻と長子奇洞とともに富山入りした。武術全般特に竹林流弓術にも通じ、書も能くした。
松岡弥藤治治貞 号好山 延享二年に前田利幸に招かれ、江戸で二十人扶持を受け書籍預りに就任する。朱子学者。
松田晋兵衛煌 昌平黌で学んだ後、教官に就任する。明治二年五十一歳の時に二等教師試補・文学になり、二十五俵を受けた。廃藩後は家塾教育に専念し、十年に師範学校教師に任じられた。十五年に没。
松田又輔 父の左平太信義は文化三年に母への孝行と兄弟仲睦ましいと御目録・御袴地を頂戴する。又輔も文化五年に広徳館の講席に怠けず出席し賞せられ、同九年に訓導に就任する。同十一年には剣術の技量を賞せられ、同十四年に学正に昇任する。文政元年に相続して与外組格、同九年に与外組、同十二年盗賊方下役、天保二年に御帳所平詰御番になった。
三浦平三郎衛貞 字淳夫 号瓶山 生まれは石見もしくは周防国。徂徠学を萩の明倫館学頭山県周南に学び、昌平黌の教官になる。江戸の富山藩邸に御馬廻組二十五人扶持で招かれ、安永二年三月富山で廣徳館の初代学頭に就任した。寛政七年没。
三羽元三郎明良 号迂堂 明治二年二十九歳の時に訓導、四等教師試補であり、十四俵を受けていた。
三田村唯右衛門 寛政九年に訓導になり、同十二年に相続し与外組に入る。享和二年学正に昇任し、文化二年御徒組に転じる。同五年櫨蝋方掛、同八年新開発方・林方掛、以後は御勘定所頭取や御普請所頭取などを務めた。
村尾林助安湯 山田家から養子に入り、文化三年八月十人扶持で訓導に就任する。同六年七月に没。
森沢左次馬直茂 百五十石与三右衛門泰満の子息として生まれ、安永九年三十二歳の時点で助教であった。文化七年に泰満が没した際は渋谷家からとった養子泰高が嗣いでいる所から、既に亡くなっていたと思われる。
森平蔵 御徒組七人扶持、訓導を勤め勤務を賞せられ組外組格、文化七年に勝姫の御供で江戸御広式御式台番になるが翌年没。
山田小六清純 新調組測量方に任じられ、明治二年三十七歳四等教師試補として金十二両を受けていた。後に共立義塾の講師になる。
山本瀬平吉貞 字子幹、藤蔵 吉田柳庵り次男として生まれ、明和二年三月朔日に山本家を継ぎ御馬廻組二ノ丸御番入、同五年正月素読御用達御近習に就任する。廣徳館が創設されるに伴い助教、都講と進む。安永六年病気のため致仕し、同八年に没した。 
横地才記秀証 天明元年に助教となる。寛政七年本道医に就任し、以後は医業に専念した。
吉川孫三 寛政五年高岡町医者長崎玄庭(吉川家出身)の長男に生まれ、幼名玄太郎。弟は長崎浩斎。宗門奉行吉川勘右衛門敬貞の養子となり、文政元年家督八十石を嗣ぐ。御馬廻組、二之御丸御番入りし、同四年二月に訓導に就任、同十一年十一月作事奉行を勤めた。男子に恵まれず、叔父林家より養子権次郎をもらった。
なお、他家ではあるが吉川勤辰次(号青州、介山)は安左衛門仲次(南部草壽の門、小笠原・吉良両礼法に通じ、棒火矢、算術にも秀でる)の系譜で、明治二年刑法懸を勤めた後、俳・詩で活躍し、「前田氏家乗」を扶閲した。
若林貫治 号釣船 安政七年四十九歳の時点で二人扶持銀三枚を受け、学正並を勤めていた。家塾教育にも努める。 
若林圭輔 天保六年には銀五枚、訓導を勤めていた。父清次は御徒組格、奥御用所筆役、江戸詰め御徒組を歴任し、兄清吾は天保四年十七俵御徒組を皮切りに、南之桝形番、寄合所取次を勤めた。
渡瀬普恒時 明治二年に四等教師であり、金十二両を支給されていた。翌年常備大隊で分隊長に任じられる。後に共立義塾の講師になっている。
※兵学師範
安達周蔵 祖は若狭国武田の子孫真柄長三正利で、蒲生家に仕え奥州安達郡を知行し改名する。その子息五兵衛恭道は寛永十三年前田利常に仕え、三百石御馬廻組となり前田利次に従い富山に来た。これを本家(後に三百三十石)とし、親類富田家より入った平馬恭桂の次男で分家した周蔵弼亮は、金沢で小川氏忠、馬場政乗に学び、甲州流有沢貞幹に学んで伝符状を受けた。明和三年八月二十二日御手廻組・二人扶持金五両、同七年十月五日御馬廻組・十五人扶持へ進み、以後代々御武具土蔵預り、御武具奉行並びに兵学師範を歴任した。安永二年十一月高山の百姓一揆鎮定のため出動している。寛政六年六月二十人扶持を受けた。また前田利謙の命で加越能三州之図を改め、屏風に描き武具蔵に納めた。更に飛州街道領境まで図面を作り、八尾より切詰村通り飛州街道図面を作成中、同十年六月に没した。
 養子周蔵淳直は齋藤家より寛政六年七月十八日に入り、十月兵法師範となる。文化五年十二月ロシアの侵略に備えるため蝦夷地臨時出動準備が命じられる(出動はせず)。文政六年十二月に没。
 長男が出家、次男は養子に出たため、三男三郎太夫弼直が跡を継ぐ。文政七年三月二十九日御馬廻組二十人扶持を手始めに職を歴任し、藩へ藩士十一歳の時には必ず甲冑著初の式を行うべきことを建言、有沢家より地理を学んで加越能三州図を屏風に描き、前田利幹に嘉納した。
 次の周蔵直賢も御武具奉行、兵学師範役、御近習並を歴任し、安政七年には二十四歳で百石、明治二年には銃隊物頭並、兵学御師範役として銀五枚、御武具兵器方御用として頭料金二十両を受けている。
【註釈】
●儒学の学派 
朱子学派(宋学) 
 薩南学派…桂庵玄樹 
 京学…藤原惺窩 
 南学…南村梅軒 
 陽明学派…中江藤樹 
古学派 
 山鹿素行 
 伊藤仁斎(堀川学派) 
 荻生徂徠 
五考証学派…吉田篁土敦 
折衷学派…井上金峨 
●朱子学の思想 
 宇宙は理と気の二元からなる。理は秩序や規範であり、それだけでは姿が見えないが、ガスである気と結びついて存在する。気が凝固したものが質で、この結びつき具合によって、形や性質の差が出る。欲望、邪悪、貴賎尊卑差も同様である。理は人間に宿ると性になる。それは本来の状態である本然の性と気により妨げられた気質の性に分けられ、前者を有する者は聖人であり、仁義礼智信、つきつめると仁を内包する。事物に結びつけば愛となる。後者を有する者は凡人である。したがって朱子学の実践目標は、個人が修養して性を澄ますことで聖人になることであり、そうすることが社会秩序を実現することであると考えた。そのためには理を窮めることが必要で、自己の内面に敬を持つことが肝要と説いた。
●時刻
 この時代は不定時法であり、現代の時刻とそのまま比較することはできない。本書の記載も参考程度と見ていただきたい。特に加賀藩では十二分割とは別に、明け方と夕方に余時を入れていた。
●明倫堂の受業者
 開校時二千六百人が願い出る。内、年少の素読生二・三百人、文化十年素読生三百人、天保九年同二百人、嘉永元年入学生二百六十人
●明倫堂入学生の初日
 初見式があり、裃を着用して、束修の扇子を持参する。教授が白鹿洞書院掲示の五教の目と為學の序を講解した。正月十一日の年賀式でも裃着用で、掲示の講解を受けた。
●加賀藩による町在の教育振興
 「御学政御修補に付、四民共御教・導之儀は孝悌を先といたし候より外無之、凡人は先入主と成候而、幼少之折覚込候儀は其習生涯透り申ものゆえ第一蒙養を重んずる事 に候」(諸事留帳)
●昌平黌の様子
 昌平黌とは昌平坂学問所のことである。孔子を祭る聖廟があり、建物は黒のモノトーンで統一されている。もともと尾張の徳川義直の支援で作られた林家の家塾であったが、四代将軍徳川家綱の頃より官立色を強め、五代綱吉が頻繁に通ったため、林家から湯島へ移した。寛政十二年三月十一代家斉の時に、老中松平定信が正式に官立とした。 
学生には稽古人と書生の区別があり、前者は幕臣子弟や昌平黌幼年部出身者であるが、四十八名のみが特別に入寮が許され、他は通学生になる。後者は諸藩からの留学生であるが、寮には八十名の定員しかないため、通常は空きが出るまで麹町の教学所に収容されていた。寮には八畳と六畳の部屋が・あり、前者は上級生用の二名部屋で、後者は下級生の三人部屋である。室内を屏風で仕切って使用した。下級生は上級生の使い走りをし、上級生就中優秀性は役付きになり、寮の万端を仕切った。 
 さて、授業であるが、寄宿寮の幕臣子弟は厳重な管理下で修業を義務付けられたが、書生寮は規則が緩く、それらしいものは月に一度の教師の講義と二度の教師による個人的講義くらいであり、それも学生側は真剣とは言いがたかった。そもそも昌平黌に通う学生は基礎がしっかりしているため、そのようなことは不要であったのであろう。まどろっこしい講義より討論を好んだ。毎日の勉強は自学自習が常であり、解釈を巡って口角泡を飛ばす討論をしたという。また自説が誤っていると知るや、すぐそれを認める潔さを誇りともしていた。また特に卒業年齢があるわけではないので、官吏当用試験を受ける者や藩で急用が無い限り心行くまで学問ができた。
 学校側は学生の学習をチェックするため読書ノートの提出や籤に当たった者に輪講をさせるが、学生も心得たもので、読んでもいない本の名を書いたり、適当な発表でお茶を濁していたようである。ただ学校側も分かっているのであろう。特に処断はなかった。 
 このような自由な雰囲気で、自由な発想が涵養されたので、高杉普作等の幕末維新で活躍する人々も現われ得たのであろう。 
 (中村彰彦「捜魂記」『諸君!』平成十五年三月号、『稿本金沢市史學事編第一』を参照)。
●本居宣長の漢意批判
 国学者として知られる本居宣長・は『玉勝間』や『古事記傳』序文で、儒学者が何かというと聖人の道を讃えてわが国に道無きが如く説くことに対し、次の如く強い異議を唱えた。曰く“実際の支那で・は道など関係なく国が乱れ、戦争に明け暮れているではないか。それに比べ、わが国は古来道などという小難しいことを言わなくとも国は治まり皇統も不変である”曰く“儒学の思想は卑近な事柄から引いているので分かりやすく、記紀からは伝わる思想が無いように見える。だがそれは幾重にも連なる美しい山々を遠くから見ているからなのである。一見ぼんやりと靄がかかっているようでも、耳を澄ませば聞こえる者には聞こえてくる”曰く“支那の物ならば何でもありがたがるのは、猿が人を毛が無いと笑うのに対し、短い毛を寄せ集めて、ほらこんなにあるじゃないか、と言い返すようなものである”等々、無邪気に漢意をありがたがる儒者を批判した。
●明倫堂の助教不足
 助教になると教授へ自動的に昇・進できるため学問に励まない者も少なくなく、儒者は子息でも学業努力を強いられるが、新番組や定番徒士なら普通に勤めれば進級増俸が可能であるため、儒者を継ぐのを嫌う傾向にあった。
●素読の座席
 素読は明倫堂に入学していなくても受講できる。各々師範に就いて学び、試業のみを明倫堂で受けた。座席は七席と算学の席があった。
●素読試業
 素読試業は毎年一回であったが、天保十年から二、五、八、十一月に実施となる。五経十一本中につき一枚を読ませ、渋滞しなければ登第で、四書正解一部、天保十年からは小学句読・大学匯参を各一部が授与された。特に白文が読めると優等として、論語匯参一部が与えられた。
●試業
 四書五経のうち四・五章を出題し、任意の一章を辯書させる。評価者は姓名を見ずに上中下で優劣を分けた。義務付けられた年齢は十八から二十八歳までで春と秋、後に春か秋にあった。二十九から三十九歳は三年に一回となっていた。
【文政二年八月十日の試業問題】 
 孟子の中
 告子上篇牛山章
 公孫丑上篇仁則榮章
 離婁上篇存乎人者章
 離婁下篇中也養不中章
 同篇徐子曰仲尼丞稱於水章
 解答方法
 何経何々之節、或は何之章
 章意、字訓、解義、餘論
 年号月日
 を筆答辯書して横目へ差し出す。試業の間は脱刀勝手(刀を置く)、章意と字訓を略し、解義のみでも構わない。また時務等に関する意見を餘論に記しても、漢文・和文・仮名書・通用文の一つに認める。孟子集註は持ち込んでもよいが、大全・正解といった細註のあるものは認めない。
【答案の記入例】昌平黌の場合。この方法に準じた。
 學而篇 子曰巧言令色鮮矣仁
 章意 此章は志をかざり候心有之候へば、本心の仁徳はうせ候と申事を示され候章にて候。
 字訓 巧言とは詞を上手に品よく申なし候、令色とは顔色をいかにも尤もらしく取繕候事のよし。
 解義 凡人は内心の見事なるやうにのみ心かけたく候、左なくして口上を上手にいひなし、顔色を尤らしくとりつくろひ、外をかざりて人の気にいらんとする時は、是則欲心の盛なるにて、本心ははやうせたりと申べし、仁は人の本心なれば、本心をうしなひたる人は、仁徳の有べきやうなし、聖人の御言葉はゆるやかなれば、鮮との給ふうえは、絶へなきといふことを心得べし。
 餘論 剛毅木訥近仁と申言葉に引くらべて見候へば巧言令色なる人の心のおそろしき事しりつべし、されば人はかりにもほかをかざりて人によろこばれんと思ひ、大切の本心を失ひ見ぐるしき心持まじき事、肝要の儀と存候。
●廣徳館の学則
寛政四年七月「北藩秘鑑」
父子有親君臣有義夫婦有別長幼有序朋友有信学校之おしへは此五倫に止まりて人々其身に行ひ各其職分のなすへき事をおこたらすつとめはけむへき事
一、師長に被仰付候人々者其役不軽候得者先其身を正しく心得教導すへし 学校志の深浅才器之甲乙にしたかひねむころに示諭すへし 仮令不器之徒たりとも丁寧に教講すへし 然ども強而おしへに不従之輩は学校御役人江可相達事
一、習学之輩は貴賎となく学頭助教之教導に従ひ無怠慢勤学之各職分を全く心掛之儀肝要たるへき事
一、講習ハ聖経賢伝を本とし諸賢諸儒正説をも兼講し又本朝先哲の書も其正しきを撰て用ゆへし 異端邪説等聖経に害あるの書は一歳禁せられ候 此外歴史諸子詩文集等も得手にしたがひ会読すへし 和漢天文暦学算法医学等ハ別に其師を被仰付候事
一、諸生を御養被成候者三年にて学業上達不仕者は学校を出すへし 師長の教に不従者は三年に不満とも指置ましく候 若今暫相学び業すゝみ可申体之者は三年を過候とも御養ひ可被成候 尤毎年諸生之学業を考へ試み相応之賞罰あるへき事
一、総而礼儀正敷心得言語進退着座之次第急度慎むへき事
一、講書聴聞中居眠り或無益之雑談或無用に席を立或扇子つかひ等堅仕ましき事
一、師長之優秀講述之善悪批評(す)ましき事
一、才器学力有之共無礼緩怠之所行候者学校を出すへき事
一、不忠不義之輩其断なくみたりに学校へ入候者早速追いしりそけ可申候 若先非を悔習学相望者は其実情をとくと見届教導すへき事
●廣徳館の寄宿生被下方割合
一、壱人扶持
三百九十石より二百石まで
一、壱人扶持銀百目
百九十石より百五十石まで
一、壱人扶持銀弐百目
百四十石より百石まで
百四十俵より百俵まで
三十人扶持 
一、壱人扶持銀弐百五十目 
九十石より五十石まで
九十俵より四十俵まで
二十九人扶持より十一人扶持まで
一、壱人扶持銀三百目
三十九俵以下
十人扶持より五十人扶持まで
旧富山藩学生沿革取調要目 
学校総引受二名 家老職
千石以上には役料なし
学校掛二名 若年寄
四百石以上には役料なし 
学校奉行二名 頭取
同右
学校横目四名 準頭の中
役料銀拾枚以上付与 
学校方下役兼横目六名 下士
銀子若干
祭酒一名 準頭
文学一名 同右 
教授五名 士分
学生七名 同右 
訓導九名 同右
門衛、文庫番など十余名 
兵学、武術師範は加員 
●文化元年以降の廣徳館教官家塾
佐伯家(総曲輪)棠園.桜谷.有種
 文化元年〜明治初年
 明治五年生徒数男女七十五人
岡田家 栗園、呉陽 塾名學聚舎
 文化元年〜明治十八年
 明治三年生徒男六十人
大野家 拙斎、介堂 文化元年〜
恒川泰蔵
杏凡山(千石町) 〜明治初年
高橋篤(千石町)塾名琢磨窟 元治〜明治二年 
板倉安衛、河村彊斎、石谷井華、松田煌(鹿島町)、大塚水石、藤田呉江、三羽迂堂
安達周蔵(千石町)兵学
 以上は確認できた分のみ。藩は生・徒に廣徳館休日や余暇にも学問を奨励した。 
●富山藩江戸藩邸での藩士教育
 下士以上に文武の学習を義務付け、慶応二年文学・兵学の講義・質問・会読を月六回、武術では弓・鎗・炮・柔を月六回修業するものとされた。春と秋には出精の者を賞与して励みとした。また昌平黌や家塾への入塾や通学も奨励している(「学制沿革取調理」)。
●魚津町奉行御貸家(町奉行所)での教授
 天保年に魚津町奉行御貸家で文武教授を行う。上田作之丞が来た可能性もある。
●廣徳館学校才許金
 慶應元年一万三千五百両を貸与し、その利息を運営費に回した。
●富山藩の明治二年分限帳
明治二年の分限帳には二等教師試補、三等教師、三等教師試補、四等教師、四等教師試補の名前がある。この中には武術師範もいるため、漢学等の教育に当たったことを確認できた場合のみ上記した。
 なお、佐伯有成等七名は明治七年三月東京府小学講習所で演習し、数ヵ月後に帰って講習所や師範学校で教員養成に努めた(「学校御規則・同沿革」)。
二等教師補職 俸二十一俵
浅野昌兵衛清就山口流剣術、五十二歳 
磯野祠充興馬術、六十一歳
石谷貫蔵周教文学、四十六歳
斎藤弥兵衛基貞中條流剣術、五十三歳
佐伯慎蔵有種文学、三十六歳
松田晋兵衛煌文学、五十一歳 
大塚新吾敬業文学、四十九歳
堀才二通祥文学、三十八歳
三等教師 俸十八俵
古川兵衛二十三歳
吉田光鷭惟広二十九歳 
高木吉之丞則知三十九歳
吉田作摩広好五十三歳
杣田元輔光忠見日流柔術、山口流剣術、四十一歳
富田又作詮安五十九歳
渡辺亦人義継二十歳
板倉安衛亨文学、六十歳
小西文二有実文学、五十一歳
中村新光貫白井流剣術、五十一歳
堀内守蔵文学、三十歳
高野庵常盛漢医、四十六歳
弘中第一郎弘斉洋医、五十九歳
三等教師試補 俸十六俵
西村政蔵唯正文学、四十五歳
杏七四郎景業山口流剣術、四十二歳
久郷哲之助義篤三十八歳
河村左仲如貫民弥流居合、新調組、三十六歳
生田舎人信證中條流剣術、新調組、四十歳
甲山彦三郎敦三十八歳
戸田権三郎勝重
杉山茂慶通
野崎筧清永
小西善二有義三十六歳 
安達三左衛門常規三十三歳
織田寿三秀成御鍼本道兼而、五十九歳
広瀬栄山敏篤外科本道兼而、四十二歳 
三井善作楽哉庶務方兼、五十一歳 
森田央義和
松田権五郎信照二十歳
四等教師 俸十五俵
奥野雄輝氏輝三十九歳
森田金治氏貞三十一歳
高田収蔵種方近侍、三十六歳
永辻周作真貞二十五歳
浅野金八郎清堅二十四歳 
須藤八郎楽保十七歳
古市勝衛之賁二十六歳、新調組、二十六歳
渡瀬普
清水栄六瑯三十三歳 
松田健太郎忠直二十九歳 
赤祖父昌斉
大野篤次郎貢二十五歳
浅利伝兵衛義明三十歳
佐々左門孝曹三十一歳
渡辺岩松義成二十七歳
安達栄蔵敬直二十五歳 
瀬川良馬直刻馬術、新調組、三十一歳 
浅岡成輔四十四歳 
板倉貞佑義典三十五歳
守川直兵衛三十歳
四等教師補 俸十二俵 
佐伯文平有成文学、二十六歳
吉川多仲朝次二十七歳
島田昌太郎敬充二十六歳 
杏庄治有忠
佐々木乙摩元良二十八歳 
織田寿丹秀成
三羽元三郎明良三十九歳
杉谷静二十六歳
藤沢健次郎
小塚勝弥貞慶二十歳
松田乙松一芳
中川達二清宗
山田小六清純測量方、新調組、三十七歳
石原新之助陣吉二十六歳
多田実時敏二十五歳
村粂之丞一誠二十五歳 
富田勝衛詮照二十三歳
多村安左衛門訓導、御料理人、三十二歳 
岡本又作昭節十九歳 
平尾君平 
石黒平作
林平八郎 
高橋権五郎吉綱
栄松弥道
その他、村上吉十郎義忠 明治二年五十二歳 付寮番長から算教師に転席
posted by ettyuutoyama at 17:28| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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