2009年06月15日

参考文献

【参考文献】 本文中に記したため除いた文献もある。
和田尚軒『越中礪波誌全』(明治三十二年か、佐伯新聞舗)
飯沼和正、菅野富夫『高峰譲吉の生涯』(平成十二年、朝日新聞社)
永森規一『斉藤家の遺物と祖先』(平成八年)
木村紀八郎『剣客齋藤弥九郎伝』(平成十三年、鳥影社)
野口武彦『江戸の兵学思想』(平成三年、中央公論社)
篠原宏『陸軍創設史−フランス軍事顧問団の影』(昭和五十八年、リブロポート)
澤田平『和時計−江戸のハイテク技術』(平成八年、淡交社)
前田利保『龍沢公御随筆』(綿抜豊昭編、平成六年、桂書房)
永井義男『蘭方医・長崎浩斎 大江戸謎解き帳』(平成十年、祥伝社)
ジョン・バワーズ(金久卓也、鹿島友義訳)『日本における西洋医学の先駆者たち』(平成十年、慶応義塾大学出版会)
宮地正人編『幕末維新風雲通信』(昭和五十三年、東京大学出版会)
楠瀬勝「江戸時代末期の郷紳の学問と技術の文化的・社会的意義〜石黒信由遺品等高樹文庫資料の総合的研究〜」(『富山大学人文学部紀要』第五号、昭和五十六年)
同上「慶応三年『敦賀より京都江之糧道御開』計画と糧道筋測量」(楠瀬勝編『日本の前近代と北陸社会』平成元年、思文閣出版)
竹松幸香「石黒信由の文化的相互交流」(『富山史壇』第百二十九号、平成十一年七月)
野積正吉「石黒信由の測量器具と文政五年金沢町測量」(『富山史壇』第百三十四号、平成十三年三月)
木越隆三「縄張人石黒信由の惣高廻り検地」(『富山史壇』第百三十七号、平成十四年三月)
飛見丈繁『越中の近世医家』(昭和四十一年)
正橋剛二、篠原治道、松田健史「黒川良安先生共訳の『医学原理』の序文」(『北陸医史』第十二巻第一号、平成三年)
正橋剛二『筏井四郎衛門と自然登水車〜わが国江戸時代文化年間の永久機関』(平成三年、丸善)
同上「各地医学塾門人帳中の越中人」(『近代史研究』第十八号、平成七年、富山近代史研究会)
同上「『高岡詩話』にみる医史学的記述」上(『北陸医史』第十六巻第一号、平成七年)、下(第十七巻第一号、平成八年)
同上「長崎敬明の法橋允許(印可)状をめぐって」(『醫譚』第六十八号、平成七年五月、日本医師会関西支部)
同上「長崎蓬洲の年譜について」(『醫譚』第六十九号、平成七年十一月)
同上「長崎浩斎稿『錢甥雑記』について」(『醫譚』第七十号、平成八年五月)
同上『富山県医師会史料ノート第一集〜明治中・後期医事資料〜』(平成八年)
同上「続各地医学塾門人帳中の越中人」(『近代史研究』第二十号、平成九年)
同上「種痘医横地元丈の江戸派遣をめぐって〜資料の再検討と問題点の指摘」上(『富山史壇』第百二十三号、平成九年七月)下(第百二十四号、平成九年十一月)
同上「長崎浩斎稿『未曽欺録』について」(『醫譚』第七十七号、平成十三年七月)
同上「適塾門人佐渡賢隆と『蘭訳千字文』」(『適塾』第三十四号、平成十三年十二月)
同上「江戸後期高岡見在蘭語関係医事資料について」(『近代史研究』第二十五号、平成十四年)
舘秀夫「高岡の優れた先人〜人呼んで高岡医者という」(『高岡市医師会記念誌』、昭和五十九年、高岡市医師会)
舘秀夫『とやまの医学史』(平成五年)
寺畑喜朔「黒川良安の加増にかかわる書状」(『北陸医史』第五巻二号、昭和五十九年)
同上「嵯峨寿安の黒川自然先生小伝」(『醫譚』第五十四号、昭和六十年四月)
同上「黒川良安先生の遺墨について」(『北陸医史』第十巻第一号、平成元年)
同上「佐渡家の阿波加脩造について」(『北陸医史』第十二巻、平成三年)
同上「長崎家六代言定に関する資料」(『醫譚』第八十五号、平成六年五月)
津田進三「杉田玄白門人高峰幸庵について」(『日本医史学雑誌』第四十一巻第二号、平成七年五月)
同上「黒川良安について」
高瀬重雄「坪井信道と黒川良安〜書簡にみえる両者の関係〜」(『富山史壇』第百二号、平成二年五月)
同上『北前船 長者丸の漂流』(昭和四十九年、清水書院)
太田久夫「高峰家と高峰譲吉」(『北陸医史』第十八巻第一号、平成九年)
大橋清信「高峰精一と越中蘭学の源流」(『富山史壇』第百七号、平成四年五月)
大西紀夫「蘭方医・長崎浩斎の江戸遊学」1(『富山女子短期大学紀要』第三十五輯、平成十二年三月)、2(第三十八巻、平成十五年三月)
赤祖父一知「維新期の富山藩洋方医について〜とくに戊辰戦争従軍藩医を中心として〜」(『醫譚』第八十五号、平成六年五月)
渡辺誠、布村克志「加賀藩・富山藩の天文暦学」(昭和六十二年、富山市科学文化センター)
渡辺誠「石黒信由考案の磁石盤の特徴とバーニア目盛について」(『富山史壇』第百四十号、平成十五年三月)
神島達郎「近代医学教育の礎を築いた黒川良安」(『越中人譚』第四号、潟`ューリップ、平成十年)
米原寛「黒川良安−北国に科学する人」(田中喜男編『風のあしおと〜近世加越能の群像〜』昭和五十七年、静山社)
尾佐竹猛「黒川良安の事蹟〜佐久間象山との交渉を中心に」(日本医学史学会講演、昭和十四年三月十四日)
「佐渡家文書」(高岡市立中央図書館所蔵)
「蓮湖魚毒説」(加越能文庫、金沢市立図書館所蔵)
『黒川良安先生略傳』(富山県新川郡教育会、大正十年)
『黒川良安翁百十年祭』(中新川郡教育会、平成十一年)
『富山市醫師會五十年史』(富山市医師会、昭和三十三年)
『石川県写真史』(石川県写真史編纂会、昭和五十五年)
『石川縣史』第貳編(石川縣、昭和十四年)、第参編(昭和四年)
『稿本金澤市史』學事編第二(金沢市役所、大正八年)
『富山県史』通史編・近世上、史料編V・近世上(富山県)
『富山市史』上巻(富山市、昭和四十二年)
『しんみなとの歴史』(新湊市、平成九年)
『日本洋学人名事典』(竹内博編、平成六年、柏書房)
『洋学史事典』(日蘭学会、昭和五十九年)
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第六章 天保期の蘭(洋)学

 蘭学者は身分や藩等を越えて「蘭学社中」という仲間集団に帰属意識があった。そして「社中」を通じて「日本」という共同体を遠望していた。それゆえ、日本の国益に尽くしているのだという衿持を持っていたのである(前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学』平成十八年、平凡社)。
 加賀藩・富山藩とも西洋の知識は江戸藩邸からもたらされていた。当時から江戸は情報の集積地であって、長崎から多くの海外情報が書籍を通じて一般民衆にも伝わっているし、当然参勤交代で江戸へ赴任した藩士が帰国の際、土産として持ち帰った結果地方へも広まっている。
 向学心旺盛な人々は蘭学・洋学に関心を強く持つ一方で、一定の距離を置くバランス感覚も持ち合わせていた。十代目富山藩主 前田利保(寛政十二年〜安政六年)は、天保八年物産方を設置し薬草栽培を行い、自らも岩崎常正、宇田川榕庵に本草学を学んで、大名・旗本の同好会である赭鞭会を毎月主催するほどの学問好きであった。
 『前田文書』は次のように記している。

 御十代利保公、天保年間ノ頃、蘭学ニ執心セラレ、其頃江戸市街ニ宇多川榕庵ト云ヘル蘭学家ニテ舎密学ニ秀デタル人アリケルヲ、折々聘セラレテ、其学ヲ勉強セレケル故ニ、蘭書モ追々購求セラレケル。其後旧幕ノ奥医師畑中善良、外ニ薩藩曽将酋トカ云ヘル仁モ折々召さサレケル。就中同席ニハ筑前博多公黒田備前侯ト懇親セラレ、蘭書ノ林娜(リンネ)氏トイヒル書ヲ一部、両公ニテ購求セラレ、屡前後ヲ繰替熟覧セラルゝ事モアリ。尤此書ニハ甚ダ勉強セラレ、該訳解数多抜萃セラルレドモ、惜哉完全ナラズ。又物印満(ウエンマン)草木図解ノ訳書ヲ以、和漢ノ草木品類ニ適当セラレシ訳解ヲ許多アレドモ、其全ク纏リタル不見ヘバツニ其書目ヲ洩シヌ。
 
 また『前田利保行略』には、「宇多川榕庵、小野蘭山、曽将道ニ従テ蘭学ヲ修メ花戸及ビ江戸近傍ノ草木ヲ聚メ、猶白々ニ諸処ニ採収シ、浅近ナル草木ノ名ハ大抵覚知シ、常ニ座右ニ諸書ヲ積ンデ、其名ノ当否ヲ正明ニセンコトヲ之レ務メトス」とある。
 著書には、よく知られているもので『本草通串』『本草通串証図』、和歌でもサークルを主催し鳳凰連と名付けて『詩の大綱』等を出版し、本草関係では他に『蘭説直見』『蘭説直見或問』がある。 
 このような学問好きの利保は、蘭学をどのように観ていたのだろうか。『龍沢公御随筆』に所収されている「世物語」にはこうある。
 
 今の世は西にかたむいたやうで、蘭学が流行して、かのごつとの造化の説をなま聞にしていふ者がたんとある。其内天文は、みな漢も和も我しらず蘭説に引入られて、天経惑門など、もと西洋の説に拘泥ながら、異端とも思はぬ事じゃ。世界を中に置て南さがり、空がぐるゝと回る事だとするが原及びない天上の事ゆへ、心にはかる斗で、どうでもいはるゝものじゃ。
 又仏法でも天文の事が伝はらねば蘭説に随って解くけれども、蘭説の天文では立に天をまはす事故天上に極楽なく、地中に地獄がない事じゃ。是をば弁へず、この天文の説を用へながら地獄じゃといふて説示し、三十三天など云て、尤らしく法文するはおかしい事じゃ。
 
 まさに天保頃の人々の感覚を代弁していると見ていいだろう。

前田利保 寛政十二年に八代目藩主前田利謙の次男として江戸に生まれた。母は利謙正室の侍女で江戸町屋の娘である。文化八年閏三月五日に九代目利幹の養子となって、文政元年九月に富山へ入る。天保六年十一月十五日藩主に就任した。領民救済に腐心し、財政危機と藩内対立に苦悩しつつ、安政六年八月十八日に富山で没。六十三歳であった。赭鞭会 医薬神の神農が赤い鞭(赭鞭)で草を叩いて汁を舐め効き目を調べた、という故事にちなんで命名した。 
曾盤(宝暦八年〜天保五年二月二十日 字士放、煥郷、号庸山、昌遒、占春、永山、永年) 父は庄内藩侍医の曾昌啓、祖は福建省の出で、長崎に代々住み、医者・通事を務める。江戸に生まれ、多紀藍渓に医を、田村藍水に本草を学ぶ。寛政四年薩摩藩江戸邸で侍医となった。子息の愿も薩摩藩医で本草を能くする。
天経惑門 著者は明の遊子六で、清初(1675年)に出版。地円説など西洋の天文学を基に書かれ、須弥山説をとる当時の仏教界に衝撃を与えたという。渋川春海が改暦の参考に用いる。
三十三天 六欲天の一つで、須弥山の頂上にある天。中央に帝釈天、頂きの四方に各八天人がいる。もとはヴェーダ神に由来する。

明治維新直前の洋学 それが攘夷の嵐が吹き荒れる頃になると、蘭学・洋学に対する捉え方が変化してくる。国学が全国的に普及する一方、洋学研究が当然になり、それは医学の分野に止まらず、軍事研究を通じて流入してきた。慶応頃に洋服は外国人だけのものではなくなり、横浜等の開港地からじわじわと人々の生活に取り入れられてくる。幕府海陸軍ではイギリス軍やフランス軍のユニフォームを真似た軍服が作られ、将校の中には髷を落としたものもいた。加賀藩と富山藩にも洋服は軍服の形を借りて入っている。
 もちろん人々には新しい物好きの面はあったに相違ないが、南蛮貿易の頃とは異なって、寺子屋や私塾による教育が一般に普及した結果、識字率が高かったこと、国学や儒学等の哲学思想の訓練が伝統・歴史感覚を涵養したことにより、徒な西洋礼賛にはつながらなかった。西洋の文物の流入がキリスト教への改宗を伴うものではなく、この点で支配層が改宗して西洋を丸ごと受け入れ植民地になっていった諸民族とは本質的に異なるところである。
 明治の文明開化以前よりわが国には優れた文化があり、越中国にも歴史があり、文化が根付いている。したがって西洋文明をしっかり受けとめる素地と土台は出来ていたのであり、維新以降の急速な欧化に対応し得たといえるだろう。
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第五章 絵画と写真

 越中国では藩政期に蘭画や写真術が入った形跡が無く、全て明治以降のことである。しかし加賀藩として観るならば、写真術は化学研究とも相俟って深化・普及している。
絵画 加賀藩の西洋画で残っている最初は、寛政三年「阿蘭陀畫寫」六枚である。これは一六一七年にオランダの詩人Joost van den Vondelの寓話集”De Vorstelijke Warande Der Dieren"(Amsterdamの出版業者の求めで作成し、原版はBrugesの銅版彫刻家Marus Gerartsが製作。挿絵が百二十五枚あり、そのうち百十六枚が驢馬の図)にある驢馬を模写したもので、矢田四如軒が描き、山口爲範がアルファベットを写した。字形には誤りが見られるものの、日本画の趣は微塵に感じさせない出来栄えである(『石川縣史』第三編、五百頁を参照)。
 加賀藩と富山藩の絵師で蘭画(洋画)を描く人はいなかったが、泥絵を用いた真写法はあった。
 遠藤高mの多くの著書に『写法真術』六巻や『真写弁』、『鏡影発理』がある。『写法真術』(文政元年〜嘉永三年)には、文政元年に西洋の書籍を参考に考案した写法のことが載っている。これはカメラ・オブスキュラの原理で、実際に描いた絵を障子の穴から人に見せて感想を聞いているし、竹沢御殿から河北潟北面を見た絵も描いている。
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遠藤はこの写法を観積法と名付け、西洋の立積(立体図)と同法であると説明した。遠藤は加越能三州図や金沢分間絵図の作製で中心に位置し、石黒信由や西村太冲とも親しいことから、両人の影響も強かったと思われる。妻の定や母にも自画像があり、嘉永三年に三男の遠藤勘(勧)三郎は、両親の肖像画をこの手法で描いているし、ハワイやカムチャツカへ漂流した次郎吉等の絵を『時規(とけい)物語』に載せている。
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(参考) 加賀藩の洋算
 洋算が加賀藩に入るきっかけは本多利明の招聘と、短期間ながら金沢に来たことであろう。その後軍艦操練のため萩出身の戸倉伊八郎が雇われ、西洋数学を講義し、和算の瀧川友道に学んだ関口開が戸倉に触発され、外国語を独習して英米の数学書を研究している。明治二年『英人ハットン数学書』、『英人チャンバー算術書 上下』、明治三年『點竄問題集 上下』、明治四年『数学問題集 上下』など、明治十四年六月まで多数出版した(明治十七年四月十二日、四十三歳で没)。
写真術 まず大野弁吉という発明家を紹介しよう。享和元年十月に京の五条通り羽根細工師の子として生まれ、叔父で延暦寺吏人の佐々木右門の養子になり、佐々木薫(別名義時)と名乗る。中村屋弁吉とも称して、一東または鶴寿軒と号した。未確認の伝説では、蘭館出入りの従僕となり、シーボルトの身辺雑用をしていたところ、シーボルト事件が起こったため急ぎ退避しなければならず、妻が加賀国石川郡大野の中村屋の生まれであるため、天保二年に移住して稲荷町に居住した、という。蘭館職員名簿にはその名がないため事の真偽は分からない。洋算を教えながら、さまざまな発明をなしている。そのいくつかを列挙するならば、精巧な彫刻、四条派の絵画、ゼンマイ仕掛けの飛び蛙、水素ガスを入れた飛ぶ鶴、蟹の置物、等があり、ライターやピストルまで発明したそうだ(これらの中には他人の手になる者もあるかも)。著書に『一東視窮録』があり、そこにはボルタ電池の仕組みや真空ポンプの原理、エレキテル、無尽灯、自噴水、歩度計、盃台等の図面が記されている。他の書物から引き写されたものもあるが、それでもこれだけ勉強した人物はそういない。
 弁吉には写真術の心得もあり、蘭館で身に付けたそうだが、写真機を製作して、天保十五年以前に三十歳の妻うた(明治十九年没)を撮影している。水戸の徳川齊昭とも写真術を通じて交流があり、嘉永三年に齊昭が印影鏡(ダゲレオタイプ)で弁吉を撮影している。また文久二年に当時十五歳の藤井信三を撮影し、米林一光は弁吉に入門して写真術を学んで小池兵治に伝授した。本多家家臣高山一之も写真術の伝授を受け、明治三年に上堤町に写真館を開業している。銭屋五兵衛とも親しく、何かと支援を受けていたようだ。事件後には遺族を慰め、写真も残している。また福沢諭吉や大鳥圭介、渋沢栄一等とも親交があったという。壮猶館舎密方御用手伝への就任を打診されるが固辞し、福井藩からの誘いも断る。明治三年五月十九日に七十歳で没した。
 また金沢の黒岩翁が写真術を独自に習得し、廃藩直前藩主に従って上京、春木町の江戸屋敷に住み、後に本郷弓町で開業している。
藤井信三(弘化三年〜明治二十三年十一月十九日、号鏡水) 石川郡大野村出身。弁吉に学び、維新後に弁吉の親書を持って上京し、星亨を訪ねて、明治三年に開成学校に入る。横浜税関文書課長に就任し、致仕後は弁護士に転身し、更に富士製紙会社の設立に参加した。弁吉撮影の写真は曾孫の伸三がニエプス百年展に出品した際、郵送途中に紛失したという。
米林八十八(文化十年〜明治二十二年、別に一光) 京より弁吉家の番頭を務め、共に移住する。天保六年まで弁吉の下で修業し、嘉永頃に七尾等で奇物営業をし、文久頃藩御用器械師となる。維新後に硝子店を開いた。門下には大聖寺藩舎密方の小池兵治があり、明治九年仲町に開業する。
高山一之 本多周防守家来で二人扶持・銀八十目であったが、文久三年に銀百二十目に加増される。弁吉に学び、明治二年巽御殿で藩主前田慶寧と養嗣子利嗣の写真を撮影したという。 
舎密局と写真局 壮猶館内にあった舎密局は、慶応三年春に卯辰山で養生所が創設されたことから、子来坂の側へ移された。主な仕事は化学実験をして諸薬品を精製することで、硫酸・硝酸・塩酸の他に、舎利別(bitter saltか)・丁幾(caryophilliか)・越幾斯(spiritか)や蒸留水・膏薬類も作っている。責任者は既に記した高峰精一(蚕の蛹から硝酸カリを取り出すドントル、パーカッションカップに成功する)で、係員には丘村隆桑や遠藤虎次郎、旗文次郎等がいる。この内丘村隆桑は、本名が丘村隆介といい、平村の嶋村で生まれた。流刑人(桑原君平か)に学び、勧められて金沢や長崎に留学する。その後に帰郷し、文久二年十一月十五日壮猶館舎密方御用手伝に就任し、化学実験に明け暮れる日々を過ごした。廃藩後には『養蚕弁論』を著し、石川県へ産業振興の建白書を提出している。
 写真局は慶応三年に舎密局の横、玉免ケ丘に設立され、明治四年まで存続している。割場附足軽の吉田好之助は明治三年二月に修業より戻って、写真係御用に就任した。廃藩後は金沢の観音町に撮影所を設け、富山で写真館を始めた赤尾清長とも親交を持っている。
遠藤虎次郎 吉田好二に写真術を学び、明治五年頃金沢の殿町で写真館を開いた。 
旗文次郎 維新後は金沢の博労町で薬品店を開業し、写真材料も扱った。 
吉田好之助(別名藤原芳貞、通称好二) 二十俵を受け、村沢家から吉田千右衛門の養子。慶応四年に御軍艦方留書を命ぜられるが病気を理由に辞退する。明治二年五月藩から他国修業を命ぜられ、写真術を学んだ。鈴木真一の孫弟子にあたる。 
(参考)ガラス製造
 中新川郡出身の村山源次郎は横浜でガラス製造技術を習得し、帰郷後に富山中町で開業している。
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第四章 洋書の翻訳と兵学の流入

壮猶館 加賀藩では洋書の翻訳に力を注ぎ、その中心となったのは大橋作之進成之である。西村太冲に天文学、本多利明に航海術や海外の知識を学び、文政四年六月十四日に高岡町奉行に就任して、町人教育の振興を図るため、有力町人に働きかけ敬業堂という学校を建設する等、実績をあげた。天保九年七月十八日組外番頭に就任し、三社の自宅を改造して西洋砲術を研究する。そこで藩は嘉永六年八月作之進に西洋流砲術稽古方棟取を命じ、金沢上柿木畠の弓術練習場を廃した上で拡張して火術方役所の所管に入れた。翌年一月に新築を開始し、八月竣成をみて壮猶館と名付けた。
 主宰には、安政元年大橋作之進・前田主馬・岡田與一・横山内蔵助・中村蔀、同二年成瀬主税、岡田條之佐・芝山平右衛門・堀半左衛門、同三年三浦八郎右衛門・小幡和平・武田喜左衛門・姉崎石之助が就任し、藩士はここで最新の砲術を学んだ。蘭学には鹿田文平・安達幸之助(後に英学へ移る)、英学には三宅復一・岡田秀之助があたり、更に幕臣秋山安房家臣で蘭兵学者の佐野鼎(万延の遣米使節団に参加)を稽古方惣棟取に招いた。教員は五・六人で、学費は無料であったが、私費寄宿生も五・六十人いた。学生の総数は不明であるが、安達幸之助が教員の時に最隆盛であったそうである。学科には砲術・馬術・喇叭・合図・洋学(文久二年設置)・蘭方医学(文久二年六月会読開始、明倫堂から蘭方医試験を移管)・洋算(明治元年設置)・航海・測量学等があった。
 更に藩は慶応元年七月に諸士子弟約五十人を洋学修業のため長崎へ派遣することを企図し、実際には十五人程度が赴いた。その中には後の高峰譲吉(十歳)もいる。能登七尾から啓明丸で出立し、玄界灘で暗礁に乗り上げ紀州藩船に救助され、船の修理等で結局四十日かけて着いたという。
壮猶館の会読割 安政元年十一月左之通り会読割
 三、八朝 五ツ半時ヨリ 砲術發揮火機篇
 三、八夕 九ツ時ヨリ 舶砲新論 
 五、十朝 五ツ半時ヨリ九ツ時ヨリ但十五日并大ノ月晦日除之 練卒訓語
 五、十夕 九ツ時ヨリ 熕砲用法 
 右當廿八日ヨリ始リ候
軍艦所 壮猶館の下に航海学を学ぶ西町軍艦所と所口に設置された七尾軍艦所があり、通称梅鉢艦隊を運航する訓練を積んだ。明治四年七月廃止。
黒川良安弼字 父の玄龍が帰郷の後、良安は長崎で高島秋帆等に就き、医学・博物学・天文学・地理学・歴史学・兵学・数学(洋算か)・論理学などを学んだ。秋帆からは書「日進」の二字を贈られ、扁額に掲げている。天保十一年六月二十四歳の時に帰郷することとし、途中萩の青木周弼を訪ねた後に大坂に立ち寄るが、この地で腸チフスに罹ってしまい緒方洪庵宅に滞在することになる。八月にようやく金沢へ着き、江馬雀々翁を訪ねる。才能を惜しんだ江馬は河野久太郎や長谷川源右衛門、加藤九八郎、大橋作之進と相談し、良安を寺町に住まわせ長谷川の推薦で青山将監の手医師(六人扶持)にする。同十二年春、江戸の坪井信道に入門して塾頭になるが、これは緒方洪庵と青木周弼の推薦によるものであった。また佐渡良益を信道の養子にするよう尽力している。頭の解剖を行い、同十五年六月六歳年長の佐久間象山宅へ移って蘭学を象山に教え、替わりに象山と幕臣杉原平助から漢学を教わった。弘化二年二月父母の強い要請で帰郷し、翌年に金沢木倉町で開業する。佐久間象山は良安を信道の辞を添え、自身の松代藩へ推薦し江戸へ招こうとするが、これを知った青山将監は急ぎ加賀藩へ推薦し、七月二十九日御医者として新知八十石を給することにした。同四年御匙に就任する。
 さて加賀藩に就職した良安は天然痘予防に乗り出す。嘉永三年二月十六日明石昭斎を使者に立てて、福井藩の笠原良策より種痘を分苗してもらい、これを自ら長男の誠一郎等に試してみる。また藩主嗣子前田慶寧も幼い多慶若(安政五年四月十九日生まれ)を差出した。結果は良好で、一般への普及を進めていく。翌年河原町に移り、十一月久しぶりに城端を訪れた。
 同五年八月二十八日に干拓中の蓮湖(河北潟)で魚が浮かび、作業を進めていた銭屋五兵衛が逮捕される事件が起きる。そこで良安は黒川元良(名は哲、二十人扶持)、津田淳三、明石昭斎と小舟で漕ぎ出し湖水腐敗の原因を洋書と突き合わせつつ検討し、水底の撹拌や下流を広く深くして新しく河口を開き海に通じるようにすべきことを提案する。
 軍事にも関心を持ち、同六年九月参勤の御供で江戸へ行った折りには、十一月平尾邸内での大砲鋳造に参画する。また韮山代官江川太郎左衛門から砲術や大筒鋳造法について学び、翌年四月に帰郷して八月壮猶館の翻訳方御用に就任した。
 評判が伝わったのか、幕府からの要請を拒めず、安政四年に一時的だが二十人扶持・金十五両で蕃書調所教授手伝へ出向し、杉田成卿や村田蔵六(後の大村益次郎)、箕作阮甫、川本幸民等と共に翻訳を担当している。
 しかし十二月には藩に復し五十石の加増を受け、文久三年に帰郷して軍艦御用を兼務することになった。この時期藩は七尾に軍港や造船所(川崎造船所の前身)の建設を企図し、二百五十トンのイギリス製汽船發機丸を購入した。良安はその仕様書を翻訳している。また医者としても活動を継続し、壮猶館では蘭医書の会読を担当する。元治元年藩主嗣子前田慶寧に従い上洛し、佐久間象山と旧交を温めている。象山は幕命で上京していて、西洋風馬具を付け加賀藩屯所建仁寺に訪ねてきたのである。蛤御門の変が勃発する直前であった。象山遭難はこのすぐ後のことである。慶応元年金沢種痘所頭取に就任し、同三年養生所詰となる。翌年には藩命で製造人体解組(人体解剖模型)の使用法を研究するため、かつて父がそうしたように嫡子誠一郎と長崎へ赴いた。誠一郎はそのままフランスへ留学(明治七年普仏戦争勃発で帰国、その後駐イタリア公使や行政裁判所評定官等を歴任)する。 
 良安は明治二年に帰郷し、翌年医学館主任教師・文学二等教師として、それまでの静淵の号に加え藩知事前田慶寧より自然の号を賜っている。しかし翌四年に廃藩が決まり、八月致仕して公職から退いた。晩年は十八年に東京へ上り、二十三年九月八日七十四歳で没した。 
 また新川郡泊の稲坂家へ養子にいった弟安仙の子譲斎も良安に学び、慶応元年八月に英仏学を志海防主付の許可を得て横浜へ赴いている。
青木周弼 坪井信道に学び、長崎で種痘術を修めた後、朝廷侍医となる。弟の研造(蔵)も信道に学んだ。
長谷川源右衛門猷 百五十石扶持藩士。父は百石扶持の儒者で明倫堂都講準左衛門。書物奉行や南土蔵奉行等を務め、救世策を講じて国防を説いた。本多利明にも師事し、航海術を学ぶ。地理学にも通じ、居室の天井に地球儀を吊していたといわれる。嘉永二年没。
青山与三知次(将監、号碧鮮堂、洪水軒、清陰亭、淇水) 父は隼人、祖父勇次の跡を継ぐ。七千六百五十石を取り、文政六年に家老職、同九年近習御用を兼任する。安政二年に没。斎藤三九郎を招いて大砲を製造した。
加藤九八郎 小原平左衛門の子息時雍で、人持組菊地大学の家臣。同家臣加藤九太夫の養子に入る。柴野美啓に和算、西村太冲に天文暦学を学び、符天暦を校正した。壮猶館に勤務し、製薬・測量・鋳造を担当する。門弟に宮北敬典等がいる。安政六年没。
河野久太郎通義(寛政四年〜嘉永四年、号淡水) 長家の下で百八十石を受ける。文武に秀で、石黒信由に和算を学び、本多利明からは天文や測量学等を書状で学ぶ。近江国の鉄砲鍛冶国友藤兵衛や幕府天文方の足立信頭とも交流があった。高島流砲術を学び、免許皆伝となる。また江戸から翻訳兵書を入手した。二十九歳の時に父と酒二升を携えて西村太冲のもとを訪れている。金沢分間絵図や時法改革、文政八年の彗星観測に参加し、黒川良安が指導する書物研究会でも学んでいる。 
明石恬(字玄憺、号昭斎) 明石随説の四男。江戸で坪井信道に学び、良安にも就く。長家に仕え、藩命で『鋳造大ス奇法』等を訳した。安政六年に四十九歳で没。
津田淳三(文政七年〜明治十二年十月) 藩老横山家家臣長屋権作の子息で、天保十年藩医津田家へ養子に入る。十六歳の時に京で儒学を学び、後に大坂で緒方洪庵に就く。適塾の塾頭も務め、帰郷後は藩侍医に任じられた。黒川良安にも学び、妹婿になった。慶応三年金沢卯辰山養生所後に金沢医学館教授に就任する。 
西洋兵学
 @幕末の西洋兵学 文化以降にわが国の沿岸に異国船が出没するようになり、アヘン戦争の情報が伝わると、国内で海防論議がたけなわとなる。それ故に幕府は天保十二年天文方にオランダの兵書を翻訳するよう命じ、同十四年には宇田川榕庵等により『海上砲術全書』が編纂された。こういった雰囲気は民間でも同様で、弘化三年鈴木春山が『兵学小識』、同四年高野長英が『三兵答古知幾(タクチイキ)』(安政四年鈴木春山も『三兵活法』として出版)、藤井三郎(加賀藩医)が『舶砲新編』、杉田成卿が『熕礟用法』というように、次々と発刊されている。
 これまでのわが国の兵学では、戦国の合戦や朝鮮での戦闘経験を基に、遠方より鉄砲を撃ち、接近して弓を射、最後に槍で決する、という手法を善としていた。しかし西洋を相手では勝手が違う。そこで山鹿素水は『海備全策』『海備セ言』で短兵接戦を説き、藤森弘庵は『海防備論』で沿岸防衛を説いている。しかし情報不足は否めず、近代西洋兵学の本質は理解し得ていない。
 西洋の近代軍事思想が理解される契機となった本に、高野長英訳『三兵答古知幾』と鈴木春山訳『三兵活法』がある。ともにプロイセンの参謀本部将校ブラントが著したものをミュルケンがオランダ語に訳したものを原本にしている。本書によれば三兵とは歩兵・騎兵・砲兵のことで、歩兵は散隊(散兵線)が横隊や縦隊より展開性と運動性に優れていることを指摘し、砲兵の破壊力と騎兵の運動性を生かしつつ、歩兵が最終的に勝利の鍵を握っていることを強調する。こういった考え方は、ナポレオンの採った戦法を分析して得たものであり、ジョミニやクラウゼヴィッツにより展開されていた。なおナポレオンは文政九年天文方高橋景保がカピタンの話を聞き『丙戌異聞』の中で言及し、天保八年に小関三英が伝記『那波列翁伝』を訳して紹介している。幕臣福地源一郎(桜痴)にも慶応三年に訳した三十七則の『那破倫兵法』がある。ここには攻勢防御や決勝点での兵力集中等が載せられている。すでにこの時期には幕府軍が再編成され、フランス教師により訓練されていた。また神奈川奉行所や日田の西国郡代所等ではイギリス式の調練が行われ、諸藩にもオランダ・イギリス・フランスといった国々の兵制が浸透している。
宇田川榕(寛政十年三月九日〜弘化三年六月二十二日、号榕庵、榕菴) 美濃国大垣藩医江沢養樹の長男で江戸に生まれる。文化八年に父の師で津山藩医宇田川玄真の養子になる。同十一年馬場佐十郎からオランダ語の基礎を学び、同十三年吉雄俊蔵(常三)に半年間オランダ語文法を学んだ。翌年に津山藩医となり、『ショメール日用百科事典』を読んで植物学の造詣も深めた。文政九年に幕府の蕃書和解御用として翻訳事業に参画する。天保四年にはリンネの植物分類学を紹介している。同八年ラヴォアジェ化学の体系を紹介し、元素の概念を詳述する。また温泉水の定性分析等化学や電気の実験に明け暮れた。更に西洋の音律や楽譜の研究もしている。
藤井三郎質(文政二年〜嘉永元年八月二十八日、号泉梁) 父は伊勢国庵芸郡野田村の医者藤井周朔長男俊(安永七年四月二十八日〜弘化二年八月八日、字士徳、号方亭)で、兄は宇田川家門人で金沢にて蘭書翻訳に功のあった藤井方亭俊。宇田川家に学んで、文化六年江戸で加賀藩医に就任する。三郎も藩医を継承し、天保十一年に幕府天文台へ出役した。渋川敬直の『英文鑑』を改訂したともいわれ(疑問視する向きもある)、カルテンの著書を『舶砲新編』十一巻として翻訳・出版した。
A加賀藩の兵書翻訳 それでは加賀藩における翻訳事業はどうであったかを見ていこう。兵書翻訳は黒川良安を中心に壮猶館で行われており、良安の娘婿津田淳三は軍器取調係に任じられ、クリミア戦争のセバストポル戦記を訳し、明石昭斎は歩兵操典を訳している。浅津富之助(天保九年〜明治四十二年)は江戸で近代砲術を研究する下曾根信敦に入門し、村田蔵六や高島秋帆からも教えを受けた。壮猶館では英学も教授しながら赤松小三郎と分担して『重訂英国歩兵練法』を訳す。更に軍艦李百里(李白里)の修理に当たり長崎から上海へ赴き、そこからイギリスへ渡っている。また長連恭の手医師明石格庵は幼時に英学を江戸で学んでいて、慶応三年には幕府の海軍伝習所で通訳をしています。
 壮猶館では翻訳書を用いて句読や会読、講義の聴講を行っていた。ちなみに文久二年七尾に設立した軍艦所には毎日三百人が出館し、その内費用自弁の寄宿生が五・六十人いた。
 現在金沢市立図書館に所蔵されている兵書を次に挙げておく。
 「太鼓打方譜」(写二〇丁、十八cm×十七cm)
 「開ケ」「止レ」「進軍」「打方」「打方止」「カケ足」「常足」「集合」「退軍」等での太鼓の打ち方を図示したもの。
 「調練作法次第帳」(安政五年写、十丁、二十四cm)
 「調練之次第」(文久三年写、十七丁)
 「壮猶館歩兵稽古法」(木版刷)
 文久三年に壮猶館が刊行した六冊揃のうち二冊、即ち「小隊の部2」(五十四丁)と「大隊部下」(五十七丁)が現存する。
 また新湊の石黒信由ゆかり高樹文庫に所蔵されている兵書も挙げておく。
 「三兵答古知幾 存巻十一」の写本
 「舶砲新編 存目録巻一、三上・下巻、巻九上巻、巻十上巻」蘭、伊炎葛爾ソ著、藤井三郎訳の写本
 また大橋作之進は河野久太郎や加藤九八郎と共に翻訳書を講究し、藩命で小川家の群吾郎・権之助・兵左衛門も参加している。
下曾根金三郎信敦(文化三〜明治七年六月五日、号威遠、桂園) 長崎や江戸で町奉行を務め、ロシア使節プチャーチンを応接した筒井政憲の次男で、養子に出る。天保十二年幕命で江川太郎左衛門と共に高島秋帆に学ぶ。芝赤羽橋で兵学を教授し、家塾を膺懲館と称し翻訳も行い、号令の和訳に努めた。嘉永六年にペリー艦隊が再渡来した折には銃隊を率い警護に当たった。安政三年講武所砲術師範となり、文久二年に甲斐守に昇って一橋慶喜の上坂に随行する。同三年六月歩兵奉行を兼任し、慶応二年陸軍所修業人教授方頭取になる。著書に『経済弁』『歩操軌範』等がある。趣味が菓子づくりで、甘納豆の創製者ともいう。 
 坂本保富『幕末洋学教育史研究〜土佐藩「徳弘家資料」による実態分析』(平成 16年、高知市民図書館)を参照。
嵯峨寿安(天保十一年〜明治三十一年十二月十五日、号萩浦) 京で医学を学んだ東岩瀬の嵯峨健寿の次男に生まれ、金沢で黒川良安に学び、江戸で村田蔵六に医学と洋兵学を学ぶ。帰郷後に壮猶館で翻訳に従事し、辞して蒲生君平の著書を読む。函館のロシア領事館でギリシア正教司祭と意気投合して両国語の交換教授をした後帰郷する。明治二年ロシア留学の藩命が下り、三年五月函館でロシア艦に乗りシベリアを横断する。四年四月ペテルスブルクに到着し、廃藩後も止まって、十月に岩倉使節団の参議木戸孝允を案内する。七月春に帰国し、開拓使御用掛に就任するが、九年に辞して東岩瀬で医院を開く。二十年になってようやく上京し、文部省でロシア語辞書の編纂事業や参謀本部で翻訳の業務にあたる。三十年には広島の第五師団で開かれたロシア語研究会に招かれている。
B加賀藩の西洋式兵備 加賀藩と富山藩は士卒の調練を西洋式に切り替えていく。その担い手は、加賀藩においては壮猶館、富山藩においては廣徳館であった。
 異国船が近海に出没するようになる文化以降、加賀藩では海防の準備を急がねばならない。しかし長年太平が続いたため、藩には満足な銃砲・火薬の備えがない。そこで藩主前田齊泰を中心に、財政危機の最中にありながら、防衛力の強化に乗り出す。
 天保七年藩老奥村丹後守栄美は、上申書で蘭学の「武備」に関わる書物から「蛮夷之戦法」の状況を学ぶことの重要性を説き、また同年六月には火矢方小川群吾郎から沿岸防備の貧弱さが報告され、更に同十年十二月海防手当方足軽井上源兵衛から、西洋砲との実力差を指摘した報告書が上がってくる。この頃清国とイギリスの間で戦端が開かれており(アヘン戦争)、この情報が伝わると幕府は諸藩へ沿岸防備を督す。弘化二年五月と六月に大小将横目より軍装改新の上申があり、能登中居村鋳物師北村重兵衛は一貫目玉大筒を製し、十月に城内で公表します。青山将監知次は、氷見仏生寺村斎藤三九郎を配下に加えて臼砲(モルチール)を製造し、七月末石川郡打木浜で試射に成功した。更に藩老長大隅守連弘の配下である河野久太郎は弘化四年七月に打木浜で試射に成功、火矢方小川群吾郎や小川七郎左衛門は、江戸から職人を連れ金沢に逗留中の下曾根門人である松下健作正綱(浜松藩士松下壽水の子息)指導下に臼砲や榴弾砲(ホーヰッスル)・野戦砲(カノン)等を製造し、同年九月に能美郡湊浦で試射に成功する。
 河野久太郎 モルチール 十二貫目玉筒 筒重六十八貫目 鉄丸重五貫三百目 台重七十貫目
 ホーヰッスル 六貫目玉筒 筒重百三十五貫目 鉄丸重二貫二百目 車台重二百貫目
 カノン 百五十貫目玉筒 筒重二十六貫五百目 鉄丸重九十八匁 台重三十一貫五百目 但シ、モルチールトホーイッスルノ台車ト金具ハ不十分。 
 小川家 モルチール 十二貫目玉筒 口径六寸六分 二挺 
 ホーヰッスル 六貫目玉筒 口径五寸二分 一挺 
 ハンドモルチール 三貫目玉筒 口径四寸 二挺
 松下健作には九月二十四日に藩から金三十両、下職一人にも三歩が支払われた。
斎藤三九郎(文化九年二月十六日〜明治九年六月十二日) 氷見仏生寺村斉藤家の三男で、兄の弥九郎(篤信斎)を頼り、練兵館で修練する。新左衛門則道とも名乗った。天保十二年八月一日水戸弘道館の落成式に出場し、神道無念流を披露している。高島流砲術も学び、天保十二年五月の徳丸ケ原での演習に兄と共に参加する。水戸藩の実弾演習にも加わった。帰郷してからは長谷川猷の推薦で青山知次に仕え、弘化三年臼砲鋳造が命ぜられる。翌年に長崎に留学した。嘉永四年五月藩老横山遠江守隆章に仕え六十石大砲方となる。安政元年十月から翌年六月江戸で下曾根金三郎に砲術を学び、同三年六月から壮猶館高島流砲術師範を務め、同五年十一月から慶応元年四月京で御門守備にあたる。

 嘉永六年には黒川良安に砲術・大筒等鋳造方研究のため江川家へ入門することが命ぜられ、大筒鋳造方が仰せ付けられる。また大橋作之進も同四年鉄製砲の製作に成功した。中居鋳物師の村山四郎兵衛は同六年に江戸で砲二十門、文久元年に壮猶館御用で鈴見鋳造所にて二十九栂(ドイム、一ドイム=一センチ)砲一門と砲架を製して、以後も砲丸の鋳造に従事する。金沢鋳物師武村彌吉貞敬も火矢方隠密方として文久頃に三十四封加農砲以下数十門を製し、鈴見村鋳造所で大砲数十門を製している。
 高岡町金屋に集住する鋳物師達も、西洋式砲の製造を模索する。弘化三年に藤田勘右衛門が越前国敦賀の鋳物師河瀬甚右衛門から依頼を受け、武生の月光寺の総高一丈八尺五寸の阿弥陀如来像(武生大仏)を鋳造するが、その縁で同末年から元治元年まで丹後国宮津藩の大筒鋳造を請け負うことになる。この時の四分の一設計図が高岡市立中央図書館に所蔵されていて、これには「陸用青銅製五メ戔弾當熕ホ五本ドウ」とあり、口径五寸・全長壱丈三尺・重量七百六拾九メ目である。喜多萬右衛門等も、嘉永の頃に火術方の大橋作之進や家中の本多周防守、横山内蔵助等から野戦筒と砲丸の注文を受けている。他にも大筒図が残っていることから、当時高岡の鋳物師達は総出で大砲と砲丸を作っていたことが分かる。
 火薬製造に関しても壮猶館を中心に硝石作りが進められ、また領内の各十村には資源探査を指示する。これと併行して藩の組織変更も行われ、まず足軽の銃卒化を断行した。安政三年一月二十八日足軽弓組を廃して豊島流やがて酒井流で銃卒を編成する。元治元年七月以降には更に徹底させ、諸士にも大筒稽古を義務付ける。文久二年九月二十七日には藩主より西洋兵器採用が告示された。しかし一方で急激な西洋化に危惧を覚えた前田齊泰は文久三年十二月奥村伊予守栄通(本家で支家から養子へ行く)の提案を受け、「西洋流偏信之者」へ厳重注意をする。これに反発した本多播磨守政均や長大隅守連恭、奥村内膳直温(甥・支家)は海防方主付を辞職する意向を表明した。齊泰は翌元治元年二月に本多播磨守を罷免し、長大隅守を説得するが固辞され、結局三月六日藩主が退き、嗣子慶寧が名代となって、長は留任した(奥村内膳は五月七日三十四歳で没)。最早誰にも流れは止められない。慶応三年正式に慶寧が襲封し、藩組織の改編が徳川慶喜による幕政の大改革に倣って猛烈な勢いで進められた。慶応四年四月十日には在京藩士の惣髪・摘髪を許している。
 九月一日 小松城武具奉行職を廃止する。
 十月四日 輪島・正院・所口の馬廻組を廃止する。
 二十日 定番附同心を廃止し、組附与力を明組与力に加える。
 二十八日 馬廻組を銃隊馬廻組とし、先手物頭を廃止する。銃隊物頭、炮隊物頭を置く。射手を廃し、銃隊馬廻に加える。     
 三十日 定番馬廻組と組外組を全て銃隊馬廻組に編入する。
 十一月八日 足軽子弟千余人を銃手・鼓手に編入する。
 十日 在職中にのみ頭役へ百五十石を給す。
 十二日 諸有司・老病幼弱を寄合馬廻組とする。
 十三日 奏者番に城中交番宿直を命ずる。
 十九日 銃隊幹部の職俸を制定する。
 二十三日 諸士の普請役銀を廃し、兵賦を出させる。普請奉行職を廃止する。
      
 慶応二年六月に与力・徒士で大炮隊を編成し、七月一日には和式銃の異風組廃止を強行した。八月イギリス製エンフィールド銃等の施條銃を導入、同三年十月大小将組・定番馬廻組・組外組を統合し銃隊に編入する。またオランダ式練兵を採り入れ、明治元年イギリス式、三年三月には新政府の諸藩軍制統一の方針によりフランス式に変更した。元年八月士卒陪臣に西洋流大小銃砲を学ばせ、十二月平士以上の鉄砲稽古を義務化している。そのため館内の射場を改築し、標的まで五十間(一間=一.八一m)の距離を取り、一度に銃隊七卒が稽古出来るようにしている。
 沿岸には御台場を建設し、越中国では加賀藩領の生地・伏木・放生津、富山藩領の四方に設営される。その内伏木の御台場は嘉永四年二月に竣工し、五門の備砲は七月十七日に藩御細工人河村政右衛門等二人の手で串岡に新設した火矢蔵に運ばれた。金沢から今石動まで運んで船積みし、高岡の木町で積みかえたのだそうである。ただ内訳には目方百六十貫目余の六貫目筒が四挺・目方三十貫目余の一貫目筒が一挺・目方七十五貫目余の火薬入長持三棹とあり、どうも和筒のようだ。これらは非常時に御台場にまで運んで据え付けることとなっていたが、安政六年四月にロシア艦が湊内に侵入した際には用いられてはいない。慶応三年に幕府の外国奉行菊地伊予守一行が視察にきたときにはすでに撤去されている。生地には嘉永四年九月に築造され、万延元年に宮腰浦から備砲が送られてくる。この時にはこれらを入れておく倉庫がなかったため、とりあえず今年のみ村の撫育米蔵に置くことにしたが、村人から籾を入れられないので来年は別に倉庫を作って移動してほしいこと、また火薬があるので人家から離してほしいこと、の申し入れがあった。そこで翌文久元年にちょうど御台場から百八間離れた龍泉寺浦海岸近くに吉田村と芦崎村が土地争いをしていた場所があったため、ここに三間四方の半二階の土蔵を作っている。砲は臼砲(モルチール)で、六寸六分のものと空丸三十、四寸のものと空丸三十、同じく四寸のものと実丸三十、という内訳で、五門を据えることが出来たにもかかわらず、確認できるのは三門だけで、擬砲を据えたのかもしれない。なお平成七年十二月に黒部市文化財保護審議委員会の建議で復元設置されている。この時に参照された史料は金沢市立図書館所蔵の「兵学に関する図説集」(河野文庫)と「越中生地台場之図」である。外国奉行堀織部正一行は安政二年の正月に巡察し、その後元治元年十月に修築されている。放生津には大筒の搬入はなく、四方に関しては史料がない。なお、氷見沿岸には御台場設営の盛り土をした形跡は絵図から分かるのだが、それまでであったようだ。
 郷土防衛組織として、文久三年に農民・町人からなる銃卒が編成され、これを小隊・中隊・大隊に編制し、イギリス製エンフィールド銃を使った調練が行われた。越中国では今石動・杉木・小杉・高岡・伏木・放生津・氷見・東岩瀬・魚津・生地・泊に置かれ、また地方には出張所を設けている。
 艦船も文久二年イギリス製の蒸気船を横浜で買い上げ、發機丸と名付けました(長さ二十七間・幅四間・七十五馬力・二百五十噸・鋼鉄・檣二本・烟出一本)。その後上海で機関を取り替え、錫懐丸と改称する。この船は翌年五月の瑞龍院二百五十回忌法要に前田齊泰・慶寧父子を乗せて高岡に来て、伏木で観覧を許している。
杉木での調練
・慶応元年の稽古定日
毎月三々 足並・調練  七々 角打  三々・九々 太鼓稽古
 朝六ツ時から九ツ半時
・同三年
毎月三日、十七日 銃卒 三日、九日 太鼓 四日、八日 町立役人
・同四年六月
稽古定日 五、九
 引き続き二日宛日料無しで稽古したい者には許可する。
調練 十五日
C富山藩の西洋式兵備 富山藩にあっても加賀藩支配の下、兵制の改編に力を入れ、藩校廣徳館では慶応元年武を奨励し、砲戦の訓練が相当行われていたことがわかる。
 大筒稽古も弘化以降に川原で盛んに行われ、『町吟味所御触留』によれば、
 弘化四年六月十六日より七日間 布瀬川原で河上兵治が実行
嘉永元年十一月十九日、二十日 塩野で渡辺真左衛門、半田甚左衛門
 同二年七月八日、九日 大久保野で河上兵治
 同五年六月十六日 牛嶋川原で弓術稽古の上覧、十八日 同所で砲術稽古の上覧
    九月十八日 同所で大筒稽古
 同七年・安政元年 五月八日、十一日、十七日 御廊中で御旗本調練
    五月二十六日より五日間 大久保野で今村音一
    六月四日より三日間 大久保野で渡辺順三郎
    閏七月十八日 布瀬川原で調練
    九月二十二日、二十三日 大久保野で渡辺順三郎
 同三年四月から七月の六々の日 布瀬川原で高島流砲術稽古、実際は九月まで実施
    十一月十六日、十七日 布瀬川原で高島流砲術稽古、実際は雨天のため十八日、十九日
 同四年六月二十七日、二十八日 調練
八月四日から六日大仙流稽古、八日から十二日酒井流稽古、十八日・十九日高島流稽古、二十一日から二十四日稲留流稽古
 同五年三月から九月 布瀬川原で高島流大筒稽古
    十月二十六日、二十七日 布瀬川原で高島流大筒稽古
 同六年三月十五日 布瀬川原で酒井流大筒稽古
 同七年・万延元年三月から九月の七々の日 牛嶋川原で高島流大筒稽古
    四月二日 布瀬川原で高島流大筒稽古
 文久元年九月二十七日 磯部川原で川原調練
 元治二年二月二十六日から二十八日 布瀬川原で不動流火炮稽古 
 記されていないもので他にもあったと思われる。これだけ多くを試験的に行い、そのうち高島秋帆の西洋砲術が多く実施されていることが見て取れる。弘化元年正月十二日韮山代官で高島秋帆門人江川太郎左衛門英龍のもとへ、江戸参勤中の富山藩士という殿岡北海が訪れて、砲弾の製法について教示を受けている(「御参府諸用留」『江川担庵全集』別巻二)。これ以後更に四日通っている程熱心だが、この名は青木北海(天明三年正月晦日〜慶応元年六月十一日、又一、復一)が文化十一年三月に家を離れ致仕した後に称したもので、この時には藩士ではない。天保九年硝子製造に成功し、砲丸を硝子で作って水戸藩邸で射撃した伝説も残っている(『越中之先賢』第三輯)。
 また宗藩に倣い文久三年十月農・町人よりなる銃卒を編成し、城下より離れた場所には出張所を置いたようである。明治四年には全部で七番隊まであり、制服を着用していた。エンフィールド銃は着剣できるので、結構西洋的であったと思われる。
 更には硝石製造に努め、四方には御台場を築き、文久元年夏に安野屋村神通川縁り宇梠上ケ場と宇尼寺跡に調練場を設置した。 
 慶応二年十二月藩兵の編成に関し新調組が組織される。同四年閏四月から五月にかけて諸規則を整備し、六月から銃剣の訓練を開始した(最初は三隊編制、維新後は二隊、二年九月一隊に絞り込まれ、十月の職制改編で発展的解消)。同三年高島流砲術の渡辺順三郎を師範役に、廣徳館西に教練所が設立される(明治二年一月十五日廃止、学校附になる)。また製薬方・弾薬方・御筒方六十一人を任じた(明治二年一月十五日器械弾薬方は御武具器械方御用附属)。藩の武器砲筒鋳造には、慶応三年時点で小杉町新町戸破村中町の川波友太郎(文政十二年〜明治三十三年)が担っている。
渡辺順三郎尚義(号停雲) 嘉永二年に異風組入りし、江戸の下曾根家で高島流砲術を学ぶ。帰郷後に砲術師範となり、半田甚左衛門と砲筒鋳造御用掛に就任する。大久保野で試打を行い、千石町に射的場を設置した。維新後には内用方議員となり、廃藩後は師範学校教師を務める。後に旅篭町に私塾を開いた。 
 松下健作は富山藩にも招かれ、田上兵助、金岡勝任、金岡勝亮や和筒不動流の半田甚左衛門・豊太夫等が教えを受けます。更に吉田有宣は宗藩の壮猶館で高島流を見学し、帰藩後に大小砲筒を鋳造した。
 富山藩兵の練兵は、基本的にオランダ式であったようで、北越出兵時の史料にはそうある。
軍楽隊の導入 このような洋式軍隊編成の一環として軍楽隊も導入されている。壮猶館の学科には喇叭や太鼓があることから、藩兵は高度な動きを整然ととることが出来たと思われるし、また銃卒稽古にも太鼓が導入され、これが人々の西洋音楽に触れた最初であろう。喇叭はイギリス式で、明治元年に元軍螺手の吉田勝太郎と小島某等が東京から伝習に来ている。
【参考】
 御家人御鉄砲同心で、馬鹿囃の得意な関口鉄之助と白石大八が、幕末に長崎でオランダ式太鼓を学んで、江戸に戻ってからは大小名・旗本の子息三百人に教授した。太鼓は真鍮胴のものが三両、ブリキ胴のものが一両一分、桶皮胴のものが三分から二分二朱したという。また皮はよく破れ、山羊皮が五十銭、他の物なら二十五銭だったそうだ。
 御鉄砲方や講武所では最初にディンストマルス(早足の時叩く)を習得し、次にヤパンマルス(囃子を加えた日本式行進曲)、コロニヤルマルス、フランスマルスときて、最後にレジントマルスへ進んだという。また関口個人で月謝百疋を取って教えた際は、ロップル(二つ叩)、五つ叩、九つ叩、「エン、テイ」の順で教え、その後これを重複させ習得させた。 
 (篠田鉱造『増補 幕末百話』万里閣書房・昭和四年、横田庄一郎『西郷隆盛 惜別譜』平成十六年・朔北社を参照)
『戊辰戦争再現絵巻』公式サイト
Yankee Doodle アルプス一万尺
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第三章 測量・天文観察

和算の素養
 越中国では藩政期に和算が普及し、郡部では実践的な測量学の発達をみた。また高岡町や富山町では薬業の振興に伴う商業の振興により実践的な珠算実務が錬磨される。和算の理論的発展は富山町でみられ、関孝和の関流が広まった。著名な和算家には松本武太夫逸應や中田文蔵高寛、高木吉兵衛広当等があげられる。更に放生津の石黒信由は本多利明の洋算理論を加賀藩の河野久太郎を通じて学んでいる。地理学の発展も見た。
関孝和(寛永十九年〜宝永五年) 幕府に仕え、筆算を用いた代数「点竄術」や、方程式、行列式、幾何学の円理などの算法を考案した。
加賀と富山の地理学 祖先が越中国出身の有沢采右衛門は、加賀藩主前田綱紀に召され兵学を講じ、江戸での地図作りに名が知られる遠近道印(おちこちどういん)こと藤井半智長方が富山藩に藩医として就職したことから絵図の作製技術を学ぶ。正徳五年十一月七十七歳で没。子息が森右衛門武貞で金沢町割図を製し、元文四年九月五十九歳で没。その弟総蔵致貞は和算に通じ、子息の貞幹が富山藩の安達弼亮へ甲州流兵学と地図作製技術を伝えた。なお、西洋の地図は吊図であるが、わが国では畳を利用し広げて組み合わせた。 
測量学
このような和算の素養があったため、越中国では西洋の測量器具や測量法の理解が進み、導入されていった。
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   渾天儀(高岡市立博物館所蔵)
@石黒家
放生津の十村石黒家に生まれた藤右衛門信由(宝暦十年十二月二十八日〜天保七年十二月三日、号高樹、松香軒)は、三歳で両親を亡くし、祖父に養われて天明四年八月十五日に持高八十八石四斗八升を継承した。和算を中田高寛(同二年十一月十九日入門)、天文暦学を西村太冲、測遠術を宮井安泰から学ぶ。寛政七年射水郡縄張役、文化十四年新田才許に就任して、測量や絵図の製作に従事した。また享和三年八月三日には測量に訪れた伊能忠敬に会いに行き、翌日測量に同道している。文政十三年六月郡売薬方主附、加賀藩遠藤数馬の下十七年かけ三州地図を天保六年に完成させ、翌七年七月には十五人扶持郡年寄へと進んで高五百九十石七斗二升六合を差配した。しかし八月十七日に米隠匿の嫌疑がかけられ、その渦中に七十七歳で没する。
跡を嗣いだ次男信易(寛政元年九月九日〜弘化三年一月二十日)は、文化十三年縄張役、翌年には肝煎へ進み、和算家としても同五年に八幡宮へ算額を奉納し、同九年から天保六年にかけて領内六十三ヶ所を測量して地図を作成しながら、父と同様多くの門弟を有した。
しかし病気がちのため、嗣子信之(文化八年十二月十四日〜嘉永五年十二月十三日)が天保七年七月に新田才許と蔭聞役及び絵図方御用を仰せつかる。更に算学研鑽のため、弘化三年から幕臣で和洋算に通じていた内田五観より書簡で学んでいる。その甲斐もあり、測量や検地に業績をあげて加賀藩から賞せられ、嘉永三年平十村に任じられ、六月に海防のため藩の海岸巡視に随行し、翌年には加越能三州海岸絵図を作成した。
長男の信基(天保七年四月一日〜明治二年九月十八日)も父と共に十一歳の時に内田五観に入門し、更に和田寧門下で上野国群馬郡の斎藤宜義に師事する。特に円理が専門で、安政三年には倶利伽羅不動堂に算額を奉納している。また同五年に来訪した法道寺善からも叔父の北本栗や弟の筏井甚蔵と共に学んた。文久二年にはスウィフトタットル彗星の観測に成功し、同三・四年に暦を作成する。測量術にも優れ、『田地割制度』を著した。このような知識を生かして、嘉永六年七月新田才許及び測量方御用に就任すると、九月から測量・改修工事を行い、信由の三州絵図を修正した。安政五年絵図方御用に任じられ、十一月には幕府外国奉行巡察用の地図を作成する。文久元年にイギリス船海路測量御用、同三年軍艦絵図方御用に就任、慶応二年加賀国金岩港測量、同三年敦賀〜琵琶湖間の運河計画の測量に従事、五月に海岸製鉄所の見分、七月外国奉行の巡視に随行、同四年御台場建設の設計.計測といったような多忙な日々を送る。
 ではこのような四代にわたる石黒家の測量法とはどのようなものだったのか。信由は著書で三角関数表を作成し、正弦定理と余弦定理を説明し、航海術に球面三角関数を使用する必要を説いている。『航海標的』は弁財船の船乗りに実際の航海に役立つ本として編まれたもので、本多利明の門弟坂部広胖の『海路安心録』の誤りを訂正する目的もあった。それには、船が遭難して進むべき方向が分からなくなった時、夜は北極星、昼は正午の太陽高度を測って緯度を求めて帰国する方法が載せられている。また『測量法実用』等で道線方と交会法を用いた測量法を説いた。道線法とは道筋をいくつかの地点で区切って測点間の距離と方位を測り、折れ曲がった道筋では測点間の実測距離から直線距離を求め、坂道では勾配を測って斜面距離から水平距離を求める方法である。交会法とは測点の所々で磁石を据えて、遠方の山・島・岬等の目標物即ち交会点への方位を測る方法で、道線法の誤差を修正した。立山や二上山、石動山、白山が交会点とする。
 信基は、敦賀から琵琶湖までの測量に際し、四つの道筋ごとに「直高図」を書いた。これは高低図のことである。また「正面ニ山ヲ図画スル法」という一紙があり、これは等高線の書き方を示している。
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内田弥太郎五観(文化二年〜明治十五年三月二十九日、字思敬、号宇宙堂) 幕臣内田家の養子に入り、江戸に住む。号はウチダの音から付けたという。十一歳で日下誠に関流和算を学び、家塾瑪得瑪第加(マテマチカ)を創設する。天文・暦学・測量にも詳しく、高野長英と親交があった。明治三年大学出仕天文暦学道御用掛・星学局取締督務、翌年大学助教・文部省出仕・天文局督務となって、太陽暦へ改暦する実務を担当する。 
石黒家と天文暦学 信由には『応天暦立成補』『実符暦再編傍書術』『太陽距離表』『符天暦補遺』『暦法昼夜算法解』等、信基には『実符暦再編傍書術』『新暦法稿傍書術気策編』等がある。
今石動の運河計画 今石動では町の再建のため、元治元年九月小矢部川から河北潟まで荷物運搬を目的とした運河掘削計画が立てられた。慶応元年七月にはこれと連動してか今石動から竹橋までの運河計画が立てられている。ただしこれは用水を確保して田地を増やすという点にあったようである。
次に信基が参画した運河計画について見てみよう。
A敦賀〜琵琶湖〜京都運河計画
 石黒信基が関わった事業に、敦賀から琵琶湖を通り京都までを運河で結ぶ計画がある。日本海側と京を結ぶことは、平安末からの悲願でもあった。文政から安政にかけても開削計画はあったものの、湖北地域が諸藩境であるため利害が錯綜し、彦根藩と小浜藩との対立にまでエスカレートしたため取り止めになっていた。
 慶応二年八月頃、北国から京への物資輸送ルートを確保したい加賀藩は、幕府より「一手切り」つまり単独事業を許可され、翌年実行部隊である「糧道方」を編成した。ここに信基と北本栗が測量方として参加し、縄張人・手伝・竿取人・回り方・大工等を人選している。
 北本半兵衛栗(天保三年九月十九日〜明治十九年九月二十一日、号水明、乾坤一草堂主人)は石黒信易の次男で、嘉永五年二十一歳の時に高木村の北本家へ養子に入る。富山で廣徳館の佐伯櫻谷に学び、安政末年には江戸で内田五観より教えを受け、関流算学の免許目録皆伝となっている。大坂で教え、著書も出版するが帰郷し、文久三年に加賀藩郡奉行直支配として軍艦發機丸に乗船し、測量と絵図の作成に従事する。将軍徳川家茂の上洛時には海路の警備に当たり、兵庫で下船して陸路帰郷した。新田才許や礪波郡・射水郡才許里正、測量方・絵図方御用等に任じられ、維新後も数々の要職に就いている。
 さて、運河計画に関わった人々で越中関連では、無組御扶持人荒木平助や平十村折橋甚左衛門、新田才許山田六右衛門、縄張人には礪波郡頼成村弥兵衛が選任されている。弥兵衛は信濃等で和算と測量を学んだ人物で、石黒信由の著書でも勉強していたようである。また二月から四月にかけて行われた測量では、石黒家の門弟である殿村津幡江村喜兵衛(五十歳)、長徳寺村甚之助(二十七歳)、南高木村長三郎(二十一歳)、上伏間江村(筏井)甚左衛門(二十五歳)、柿谷村与兵衛(三十歳)も参加している。
 敦賀での作業は、幕府の強い意向もあり、各藩全面協力の下に行われ、四月三日に無事測量を終えた。工事費の見積もりを、加賀藩では一日一万人が作業するとして三年間の人件費を五百から六百万両程、敦賀から塩津までの開削費を百七十七万二千三百五十九両二分と算出し、運河開削の場所は新道野通り塩津までを暫定箇所として定め、幕府京都勘定奉行からの問い合わせに回答している。なおこの測量には小沢一仙も参画し、加賀藩から褒美・謝金を百両受け取ったという話がある。
 さて石黒信基と北本栗等は四月から自宅で下絵図を作製することになり、合計七人で縮尺一万二千分の一(一一〇p×二五四p)で完成させる。更に両人は翌月も加越能三州海岸に製鉄所を建設するために適当な場所を調査する任務を帯び、出張した。
 石黒家の高樹文庫には、敦賀から琵琶湖への四つの道筋と各高低図、等高線の書き方、琵琶湖から京都への掘削計画に関しても、京都東山・日岡村・藤尾道・三井寺の見取絵図等が所蔵されている。また残された図面から、異なる高さの水面を調整するための閘門(パナマ運河と同じ)を建設する構想があったことも分かる。
 以上の大計画は残念ながら大政奉還で中止を余儀なくされるが、信基の弟で上伏間江の筏井家へ養子に入った甚右衛門(後に甚造、天保十年二月〜明治四十三年十月五日)はこの経験を生かし、明治十九年に越中汽船会社社長に就任した。
敦賀から京までの運河計画 平安の末に平清盛の長男で越前国司であった平重盛による深坂峠の開削計画や、安土桃山頃にも敦賀にあった蜂屋頼隆や大谷吉継による計画があった。
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B測量器具
 高岡御馬出町の銅工錺屋清六は、石黒信由から発注を受けて、磁石盤を製作している。その中にはバーニア目盛の付いたものもある。これは元来測量器具のオクタント(八分儀)の目盛として輸入され、本多利明等が研究した。文化三年に讃岐国久米通賢が初めて使用して地平儀を製作している。清六が製作した測量器具で現存するものは、文化十一年製作と製作年不明の百二十度目盛と、天保十四年製作と製造年不明の三百六十度目盛で、後者にはバーニア付とそうではないものがある。また文政六年には時法改正の関連で、日時計を製作した。
 使用者を分かる範囲で列挙すると、石黒信由門弟菊地橘五郎與之(百二十度目盛を更に半分に分割した磁石盤)、小杉三ケの山廻役で石黒家とも交流のあった開発屋松長太郎兵衛(錺屋清六製の同様な磁任し、測量に従事した。嘉永五年 石盤、城端の小原一白製小方儀)、大野弁吉から測量を学んだ高畠村の朝倉朝右衛門(金沢南町の米林には高畠神社へ暦を載せた算額を八十八製の三百六十度一磁石盤)、放寺村肝煎で石黒信由や五十嵐篤好に学んだ清都彦右衛門(同目盛二磁石盤)、舟川新村の信由門弟藤井辰右衛門(高岡製バーニア目盛付同磁石盤、大野規行製の小方儀と象限儀)、南高木村で石黒家とも親交があり、敦賀−琵琶湖測量にも参加した津田長三郎(錺屋清六製の同盤)、朴木村の青木太兵衛(錺屋清六製の同盤)で、その他にも所持者不明の方位盤や磁石盤等が多く見つかっている。
菊地橘五郎與之 戸出、石黒信由に学び、文政二年『算学鉤致』を費用分担する。 
松長太郎兵衛 祖は楠木正成三男正儀。小杉三ケで山廻役に就任する。天保八年六月石黒家から「新開根帳」を借用する。 
朝倉朝右衛門 文政二年高畠村肝煎の家に生まれ、大野弁吉に学んで、天保八年に測量術、平三角・弧三角・切線分外較法等の免許を得る。十八歳で検地縄張役に就任し、測量に従事した。嘉永五年には高畠神社へ暦を載せた算額を奉納する。明治二十九年没。
清都彦右衛門 戸出の是戸村(放生村)肝煎、文化八年能美郡御試内検地縄張人、文久元年礪波郡縄張役となる。また『算学鉤致』の費用分担もしている。 
藤井辰右衛門 舟川新村に生まれて、文化八年能美郡御試内縄張役となる。また『算学鉤致』の費用分担をしている。 
津田長三郎 南高木村で生まれ、祖父長三郎は文政十二年から天保七年九月二十七年にかけて信由から書籍を借用している。父の十三郎も和算が出来ることで御郡縄張人に任じられた。長三郎は文久元年に二十一歳であり、慶応三年に糧道測量手伝として参画する。子息雅之は呉羽山の四十二p天体望遠鏡を製作した。
青木太兵衛 朴木村肝煎、文久元年射水郡縄張役に就任する。慶応三年一月十八日付書状で敦賀−琵琶湖測量への参加依頼を断わっている。 
天文学と暦の改定
 月や太陽の運行で暦や時間を決めることは神秘的であり、古くから陰陽師が担当していた。しかしこれには誤差が多く、それゆえ農作業への影響も避けがたいため改める必要が生じ、和算に通じた人々により精密な計算が行われて新製された。
富山には文化頃に平賀源内に学んだ浅野北水が二十八日間逗留し、天文を講じながら塩野用水について藩の相談にも応じている。また田沼家に仕えていた谷玄仲も富山で天文を講じ、その後諏訪へ移ったという。
@西村太冲篤行(明和四年〜天保六年五月二十一日、号審之、得一館)
 父は蓑谷村から城端西下町に移住してきた商人蓑谷長兵衛で、学問を志した太冲は天明三年十七歳の時に上京して医術を学び、天文暦学を西村千助遠里(字得市、号居行)に入門した。陰陽頭安倍泰邦の改暦作業に協力するも考えが違うため去った、という逸話を持つ学者である。しかし同七年九月二十二日に七十歳で亡くなり、残された門弟達は師から一目置かれていた太冲を一致して後継者に推し、以後西村を苗字とした。尚も天文学の勉学を続けたい太冲は、翌年に麻田剛立(享保十九年〜寛政十一年)の先事館に入門を請う。だがなかなか許可が下りない。剛立は元豊後国杵築藩の侍医で天体観察や生体解剖を行うが、それ以上の研鑽が許されなかったため安永元年一月に脱藩して大坂の中井竹山と履軒兄弟を頼って学問に励んだほどの苦学者である。それ故見込みのある若者に試練を課したのであろうか。ようやく翌寛政元年に許され、一年の長さが年によって変化する理(消長法)を学んだ。同門には後に幕府天文方として寛政九年に改暦を行う高橋至時(宝暦十四年〜文化元年)や、大坂長堀の質屋で、長崎の経度を日蝕を利用して測量し、恒星の観測法を伊能忠敬に伝授した間重富(三年一月十八日付書状で敦賀−琵宝暦六年〜文化十三年)等がいて、交遊は生涯続く。
 寛政十一年には加賀藩主前田治脩に召され、琶湖測量への参加依頼を断わって 同門本保以守(金沢の緯度を測定する)の後任として明倫堂で天文学を講ずることになったが、藩は陰陽についての講義を望んだため意見が合わず、京へ戻る意向を伝えた。しかしせっかくの人材を手放したくない藩は、辞職は承諾するものの説得に努め、金五両を給し城端に住むこととなる。太冲はここに文化六年まで留まり、宗林寺町で医院を開き、その間に天文観測をしていた。また来越中の伊能忠敬と接触を図るが、機密漏洩を恐れた藩により止められ、享和三年替わりに門弟で親戚の小原治五右衛門一白が会いにいった。その後金沢へ移り、文政四年七月に藩医として十五人扶持を受けて、翌年一月から門弟である遠藤数馬高mの指揮下で開始された金沢分限図作製に参画する(天保元年十二月完成)。文政六年には時制の改訂に着手し、十三分割法から十二分割法に改める。また同八年より毎年気朔暦を製している。天文学を教え、著書も多く残した。長男の十一は京で西村家を嗣ぎ、次男長兵衛は城端の実家蓑谷家を嗣ぎ、四男政行佐左衛門が藩医を七人扶持で継承して天文観測を行っている。
小原治五右衛門宗好(明和元年〜文化十年七月九日、号一白、一白庵) 父は白漆蒔絵や曳山人形の名人林好(号几好、稀雄)で、次男であったが兄が早生したため八代目になる。日蝕や月蝕等を観測し、文化九年には渾天儀を作製した。加賀藩士沢田吉左衛門へ天文学を伝授している。
遠藤数馬高m(天明四年〜文久三年、字子温、隠居号是三) 文政二年に月蝕の図を製し、加越能三州地図の製作を監督する。同四年から金沢城下町を九年かけて測量する。同六年時法改革に参画、同八年彗星観測を行い、同十年には早川理兵衛、三角風蔵等と共に高松浜と宝達山で地球の半径を測量する。町奉行に就任し、日時計の製作も手懸けた。 
本保圭之助(十太夫)以守(享保十年〜寛政六年) 宝暦二年に千八百石御馬廻役、西村遠里に学び明倫堂の天文学講師に就任する。測量学は山崎流で、築城に詳しかった。 
A天体観測
1 天体の高度測定
 季節を求めるため正確な夏至の日を調べる必要があり、文政十一年石黒信由は金沢で太陽が真南(南中)高度を測定している。
2 日蝕・月蝕観測
 暦の正確さを試すために必要で、寛政十二年に西村太冲は三人で四・五分おきに日周運動を補正しながら、太陽の欠ける方向・蝕の進行状況(三六・五分割する平行線を張り観測)・時刻(垂揺球と授時公)・太陽高度を測っている。
3 彗星観測
 西村太冲は文化四年九月四日から十月二十六日までジョバンニ彗星、文政八年八月十一日から九月七日までポンス彗星(垂球・地平経儀・子午線表・象限儀を使用)、石黒信基は文久二年八月二日から四日までスイフト・タットル彗星(象限儀・方位盤を使用)の観測を行っている。西村太冲の観測記録は金沢市立図書館、石黒信基の観測記録は高樹文庫に所蔵されている。
4 真北の測定
 文政六年に時法が改められ、翌年日時計の磁石のずれを測るため行われた。太陽の高さ・影の長から金沢城下町を九年かけて測量さが東西で同じになる時の方向と時刻を測定し、その中心をとって求めた。
B観測器具
 西村太冲は麻田派の器具を伝え、象限儀・子午線表・垂揺球儀・星鏡などがある。門下では城端の小原治五右衛門宗好が文化九年に渾天儀を作製、金沢の米室白裕は新製平天儀を作製した。白裕は土御門家触頭で、氷見町役人の田中権右衛門や婦中の舟木半右衛門とも交際があった。半右衛門は通場の十村で、白裕から天文暦学を教わり、安政五年に彗星観測をしている。
 礪波郡埴生村の松田東英は、享和元年に金沢へ赴いて、同七年に藩士寺西蔵大の手医師となり、望遠鏡や顕微鏡を作っている。天保八年遠藤高mの推挙で表彰された。弘化四年に没。なお金沢堅町の時計師与右衛門も垂揺球儀と同構造の正時版符天機を作製している。
 富山藩兵学師範の安達周蔵弼亮(公績)は安達平馬恭桂の次男に生まれ、加賀藩士小川氏忠と馬場政乗に学んで、有沢貞幹に甲州流兵学の伝符状を受けた。明和三年に富山藩の御先手廻組、後に御馬廻組に入り、兵学師範として以後代々兵学を講じた。安永二年十一月には高山での百姓一揆鎮定のため出動している。また本保以守からは天文学を学んでいて、地球儀や天球儀、渾天儀を所有している。
 更に加賀藩には本多利明により三角関数が伝わり、河北郡二日市村池田屋又三郎の子三角風蔵等も学本多利明に測量と算学を学んでいる。
三角庄右衛門風蔵(天明四年〜慶応四年) 農家に生まれ、江戸で本多利明に測量と算学を学び、藩の割場附足軽となる。遠藤高mの下で測量に従事したことでも知られている。 
C時法改正
 加賀藩では承応元年以来、生活の便を優先して独自の十三分割法(六ツと七ツ半の間に一日二回余時が入る)を採っていたが、幕府や他の藩との整合性が問題となり、文政六年八月十二分割法に改めることになった。しかし領民からの猛烈な反発を受け、翌年七月十日に推進者の隠居前田齊廣が麻疹で没したことを契機に復旧派の勢力が増す。寺島蔵人等十三人からなる教諭方と遠藤高mは解職され、齊廣の竹沢御殿も取り壊されてしまった。十二月時法も元に戻される。
 参照 加賀藩の時辰割は『石川縣史』第参編(昭和十五年) 四七六〜四八二頁を参照のこと。

越中国の時鐘 高岡町に文化元年町奉行の寺島蔵人によって作られる。二番町会所に設置されていたが、同三年に改鋳される。現在は大仏寺にある。富山藩は富山城に貞享三年藩主前田正甫の命で設置した。しかし残念ながら明治三十二年の大火で焼失してしまった。 
D暦法改正
西村太冲は天明九年二十三歳の時に『符天暦』を著し、門弟で京出身の茶室康哉は後に『修正符天暦再編』を出版する。太冲は文政八年より毎年『気朔暦』を作成し、天保七年からは四男政行が引き継いで嘉永二年まで刊行している。これは日蝕と月蝕が分かるもので、京の門弟を通じて天保二年には朝廷へ入っている。
 石黒信由には『符天暦補遺』という著書があり、曾孫信基もスウィフトタットル彗星を観測した翌年の文久三・四年に暦を作成した。
E測量家筏井満好と自然登水車
 射水郡西広上村筏井四郎右衛門満好は、源頼政の三男道右衛門尚政を祖に持つ筏井本家の二十六代目で、八男に生まれたものの、二十五代目の兄仁左衛門が病がちのため天明六年九月に肝煎役名代となり、寛政二年に跡を継いだ(兄の子息四郎三郎を総領養子とする)。石黒信由に書籍を借りながら教えを受け、自身にも実子哲次郎満直を含め門弟がいる(以後代々算学を教える)。縄張役として藩内各地で検地に従事し、天保六年十月二十四日に没した。石黒信由の娘婿説もある。
 さて満好は和算を用いて二種類の水車を構想している。第一型は動力水車の回転軸にベルトコンベアを組み合わせたもので、数個の木箱「瓶」が取り付けられている。第二型は水車と上下二本のピストンと弁付シリンダーからなる押上ポンプで、永久機関の構想である。当時ヨーロッパでは競いあって開発中であった。
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第二章 高岡町の蘭方研究と情報収集

 第一章では越中国で蘭方医学を学び、その知識を実践した人々について概観した。特に高岡町では蘭学を志す医者を多く輩出し、町内では蘭方が普通に用いられている。高岡町は町奉行が駐在しているとはいえ、実質的には町人の自治下にある町であり、技術や学問上での忌避は少なかったように思える。
 越中国は江戸や京から隔絶していて、情報が入ってこない僻地のようなイメージがあるかもしれない。しかし実際は違う。江戸や上方などへは学問修行に赴いた医者や藩士が居留し、国許に最新の情報を送っている。藩のレベルでは当然としても、町・農民に至るまで情報収集には力を入れていた。
 富山藩では薬売りの活動を通じて全国の動静をつかんでいたようだが、商人は時局の動静が商いに直結することもあり、情報には敏感であった。さらに高岡町では情報の分析会を開いて、大局を把握していたようである。そのため、異国船の襲来や攘夷を巡る動きには関心が深く、知識者の多くは、加賀藩の尊王攘夷派に関与していくことになる。
 この章では、高岡町を通じて、越中人の情報収集活動を概観することにしよう。
佐渡家
 佐渡家については前章で説明している。特に八代目佐渡養順の子息達は、全員オランダ語に通じ、読み書きにさほど不自由しない能力を有していた。この子息達の母親は蘭方医として高名な長崎浩斎の妹であり、幼い頃から薫陶を得ていた。浩斎の段階ではオランダ語の解読レベルは初歩であったと思われ、知識は翻訳書に拠るところが大きいのであるが、甥達のレベルは彼をはるかに凌駕するところまで到達し、直接オランダ語の原典にあたってそれを翻訳している。
 九代目佐渡養順こと三良は西洋医学書を翻訳し、流麗な筆記体で『蘭訳和訳蘭単語集』、”Oly van boogaard”の写しなどがある。この九代目と将軍家に仕える弟の坪井信良は弘化以来互いに書翰を往復させていた。信良の書翰には個人的なこと、弟達のことなども記され、それはそれで興味深いのだが、江戸や京の情勢について事実を知りうる地位にあった立場でもあることから、書簡をテキストに町の人々は情勢の把握に努めたといわれる(『幕末維新風雲通信 蘭医坪井信良家兄宛書翰集』(宮地正人編、東大出版会、昭和五十三年)。
 信良より三良宛の百八十通が公開されている。 
 佐渡家文書(高岡市立中央図書館所蔵) 
 できれば読めなくても実際触れてみてほしい。
 「佐渡三良宛の坪井信良の消息」
 「佐渡三良様」
 「坪井信良諸文書綴 坪井信良より佐渡三良宛」
 他にも多くの書物が残っていて、金沢市立図書館や高岡市立中央図書館に所蔵されている。
 『亜細亜洲海路図説』 弘化二年 佐渡邦
 『阿蘭使節駿河ニテ神君ニ拝謁シタル記事』 坪井信良抄訳
 『荷蘭人高麗島キュヱルパールヅ漂着記事』 同
 『海外人物小伝』1〜5 嘉永六年 時々夢斉
 『勿搦祭亜(ベネチア)之図訳畧』 天保十三年 佐渡三良
 『蘭化先生手録馬体外形図解』 天保十二年 佐渡邦
 同名 弘化二年 佐渡三良・三良邦
 『海外人物小伝』は海外の人物について絵を交えて説明している。そこには軍艦について、ナポレオンが配流されたこと、葬式が執行されたことなどが記されている。『蘭化先生手録馬体外形図解』には馬の体の名称をオランダ語も参考にして記している。
清水家 
 高岡御馬出町の薬舗槙屋。初代が尾張浪人で越前国府に居住していたが、慶長の頃に家督を甥の庄右衛門(辻庄右衛門・菓子商)に譲り、氷見に移って町人清水屋庄左衛門不石と改める。二代目九郎右衛門宗松が高岡二番町に移って、槙屋藤右衛門と改め、延宝六年に御馬出に居宅を構えた。三代目藤右衛門知久は貞享元年十二月瑞龍寺祠堂銀才許、翌年八月町算用聞を務め、薬種商土井屋を買い受けて、槙屋を屋号にした。四代目藤右衛門知高は享保十二年正月六日に算用聞、元文二年八月町年寄に就任する。五代目九郎右衛門知叔は組合頭役を務め、長女の婿養子に甥を迎え、これが六代目藤右衛門少運であり、町の重役を歴任し、明和四年閏九月町年寄に就任した。長子六郎右衛門知足も算用聞を務めたが、寛政八年八月に家督を譲られて一ヶ月で没し、弟の栄蔵(英蔵)知季が八代目として寛保九年正月二十二日算用聞や祠堂銀才許等を務めるものの、祠堂銀の不正事件に連座し文政元年十二月没する。弟の貞助叔斐が中継ぎし、文政八年に六代目三男の娘で天野屋連信三男の藤右衛門梅顛を十代目に迎えた。地子町肝煎や貯用銀才許並などを務め信用回復にあたり、長男藤右衛門知易が十一代目を継ぎ、安政六年三月以後地子町肝煎列を皮切りに重要な役を歴任した。慶応四年四月六日に没した後、弟の伊三郎知之が継いでいる。
 さて、この清水家には医学はもちろん多岐にわたる書物が受け継がれ、十代.十一代目は医学書などを写本している。
 「アルファベット(オランダ語)」 藤右衛門梅顛写
 大文字.小文字.オランダ語の小文などを毛筆で写して勉強していることが分かる。
 『水戸内乱見聞録』 藤右衛門知易写
 元治元年天狗党が筑波山で挙兵した聞き書きである。
 「聞書」 藤右衛門知易
 安政六年五月二十八日に水戸浪士がイギリス総領事オールコックが宿泊する寺を襲撃した顛末が記されている。また英仏間トウアル(ドー バー)海峡の工事計画図面が付されている。
大橋家
 木町の材木商大橋家は祖が能登の畠山に仕えた大橋祐次で、上杉軍による天正五年の七尾城陥落後、慶長頃に富山城にあった前田利長を頼った。その子息が権六(弘治三年〜寛永二年)で木町に移住し大橋屋を屋号に町人になる。二代目権兵衛(文禄二年〜明暦元年)、三代目権右衛門(寛永二年〜貞享四年)、四代目が七右衛門(正保四年〜享保四年)で射水郡鷲塚村七助の次男に生まれ、延宝七年養子に入り、二代目娘の婿として家運を盛り上げ、鷲塚屋と改める。五代目は十右衛門(元禄七年〜安永五年)、六代目十右衛門は長男だが、七代目は五代目の六男である。八代目十右衛門は分家八三郎(侗斎)次男を養子に九代目を継がせ、十代目十右衛門(安政六年〜昭和十五年、号二水)は分家八三郎(間斎)四男である。上方で漢学を修め、東京で英語を学び、尾崎行雄や犬養毅と親交があった。越中改進党に所属し、県議会議員や衆議院議員を歴任している。
 分家に五代目の七男で八右衛門(寛保元年〜文化二年)があり、寛政四年に木町算用聞等を務める。下桶屋町中野屋市兵衛三男を婿養子にして二代目八右衛門(明和五年〜天保十一年)を継がせ、三代目八三郎(天明七年〜万延元年)は京に漢学.国学を学び、薮内流茶道竹翁に師事した文化人である。号は侗斎で、天保三年町年寄に就任し、郷学の修三堂設立に尽力するなど、大いに活躍した。四代目八三郎’文化十年〜明治六年)も国学.神道に傾倒した文化人で、号は間斎、二上射水神社関守一と交際し、一角を譲り受け奥津城と名付けている。算用聞等を歴任し、文久二年苗字が許された。五男を五代目八三郎 (文久元年〜明治三十八年)にし、北國銀行に勤務、六代目八郎は正力松太郎と小学校が同期で、逓信次官・内閣法制局長官等を歴任し、大東亜戦争終戦時には日本放送協会会長であった。
 大橋家所蔵の文書は、高岡市立中央図書館に所蔵され、国内外の出来事に関心を持っていたことが分かる。
 「浦賀奉行見込書」
 「嘉永七甲寅春正月米利幹船渡来献貢記」
 「安政丁己亜夷柳営来殿之記」
 「安政五戌午亜夷一條等集記」
 「安政五六燕葊来翰抜書」
 『各国新聞紙』 英國ウイセヒ編
 『都鄙新聞』第二〜五
 『新聞雑記』 第六十九号附録
 『内外新聞』
 『鎮台日誌』、『江城日誌』前編、『東京城日誌』明治元.二年、『鎮将府日誌』等の日誌類
増田賛と武部敬之助.堅兄弟との往復書簡
 高岡以外でも、小杉町増田賛と井波町三清の武部敬之助.堅兄弟との往復書簡がある。増田家は射水郡小杉町にあり、父は絵を能くした蕉雨である。天保九年に生まれ、江戸で藤森天山に学んで、維新後には下野県に属し、判事として活躍する。武部家は十村を務める大家で、江戸の情報を収集するため、増田に資金援助していた。万延元年から明治二十八年までの書簡が残存し、時事報告が詳細に記されている。またその中には富山藩校広徳館の教官が多く江戸に赴任していることが記され、武部家が冨山藩に関心が深かったことも分かる。それは富山藩領の農政に加賀藩として砺波郡の十村が関与したことも関係があるとも言われる(『幕末維新期の青春象』桂書房、平成十年)。
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第一章 医学

 洋学はまず医学に取り入れられる。まずわが国に西洋医学が入ってきた過程を、主なものだけ年表で確認しておくことにしよう。

慶安二年(一六四九) カスパル・スハンベルヘル(Caspar Schamburger)が出島と江戸で西洋流外科の診療と教育
寛文五年(一六六五) オランダ流医学の修得証明書が出島で日本人に発行
元禄三年(一六九〇) 元木良意がドイツ人ヨハネス・ロメリン著の解剖学書の翻訳開始。出版は明和九年(一七七二)『和蘭全身區内外分合図』
享保五年(一七二〇) 徳川吉宗がキリスト教の教義を含まない洋書の流布を許可
元文五年(一七四〇) 青木昆陽と野呂元丈に徳川吉宗よりオランダ語学習の命
延享二年(一七四五) 初めてのオランダ語辞書が青木昆陽等によって編纂
明和八年(一七七一) 杉田玄白と前野良沢が人体解剖を観察して、解剖所見が西洋の解剖学書(Anatomische Tabellen)の記載と一致していることを確認 
安永二年(一七七三) 解剖学書の翻訳書の予告編として『解剖約図』を作成
  三年(一七七四) 『解体新書』を翻訳・出版
天明六年(一七八六) 大槻玄沢が西洋医学とオランダ語の学習のため芝蘭堂を開設
  八年(一七八八) 大槻玄沢がオランダ語の手引書『蘭学階梯』を出版
寛政二年(一七九〇) 杉田玄白と前野良沢がハイステルの「外科学」を翻訳、『瘍医新書』と して出版
  五年(一七九三) 宇田川元随がヨハネス・デ・ゴルデルの内科書を翻訳し『簡明内科書』 として出版(日本で最初の内科書)。桂川甫周が幕府の外科医に任命
  八年(一七九六) 稲村三伯が蘭日辞典『波留麻和解』を刊行
文化二年(一八〇五) 宇田川玄真が『医範堤綱』(解剖・生理学)を出版
文政六年(一八二三) シーボルトが来日
 七年(一八二四) シーボルトが長崎で西洋医学と植物学の講義を開始
      【ジョン・Z・バワーズ『日本における西洋医学の先駆者たち』より抜粋】

宇田川家 津山藩医を務める宇田川道紀の長男が晋玄随(字明卿、号槐園、東海)で、父が没したため叔父の玄叔の養子に入る。養父が没した後、玄叔の実娘と結婚した。没後に嗣いだのが璘玄真(号榛斎)で、苗字は安岡。杉田玄白の娘婿であったが、放蕩したため離縁。その後学問に励む。養子が榕庵である。 

 このように西洋医学を、この時には蘭学という言葉に代表されているが、積極的に受け入れながらも、蘭方医たちは決して盲信していたわけでもなかったようである。実は西洋の医療レベルは必ずしも高いものではなかった。例えば虫垂炎にはアヘンと下剤が良いとされていたり、瀉血の効用を信じていたり、膿の悪臭や腐臭が漂う中で手を洗わず手術をしたり、黒衣で手術をするのが一般的で、またそれが飛び散った血液でゴワゴワになっているほど良いと思われていたり、麻酔は聖書の教えに反する行為と解釈されていたり、といった具合である。世界的に進んでいたのは解剖ぐらいで、寧ろわが国のように、清潔な部屋で和漢方医が適切な治療と薬を投与する方が、早く確実に治癒することであろう。したがって蘭方医たちは、西洋医学の手法を東洋医学と比較し、良いとこ取りをしていったと考えられる。
オランダ語書籍の輸入法
 それではこの時代、どのようにして洋書を輸入していたのであろうか。まず西洋医書や学術書は必ずオランダ語に訳されていなければいけない。オランダで船積みされた書籍は長崎に到着する。しかしそのままだと高価なので、普通は写されて和訳・漢訳のうえ出版された。このような方法で、享保の頃には自然科学書が盛んに輸入され、幕府の蘭学取締りは形式的なものであった。

蘭学取締令 洋書の大量流入を前に、天保十年幕府は公義関係者以外の翻訳書流布を制限しようとしたが事実上無視され、天保十一年から嘉永五年まで二十種を超える兵書が翻訳された。嘉永六年にペリーの来航を迎える前であった。

越中国の蘭方医
 次に各地の医学塾に学んだ越中蘭法医について、正橋剛二氏の論文等の先行諸研究を基に概観することにしよう。
●京
 【究理堂(龍門楼)小石家】
 高岡 高峰玄台、高峰玄稑、長崎元貞、長崎浩斎、上子元城、片山文哲、土肥俊造、佐渡三良、佐渡良益 富山 岡田瑞仙
 射水郡栗原村 山本周碩、氷見町 西井恕平、魚津 村井芳斎
 【萩野元凱】
 井波 尾崎英介
 松井周平禎 字子興、文化二年三月二十二日 二十八歳
 杉谷周介駿 字千里、文政九年三月十二日 
 福光 田辺玄泰信恒 姓藤、天明元年七月
 高岡 藤岡玄釣文穠 字士繁
 富山 堀玄長惟恭 字子順、寛政二年四月八日 二十一歳
 高山養須景行 字行夫、寛政三年四月十四日 十七歳
 氷見 吉田元亮 父元達、享和元年五月二十日 十二歳
 今石動 遠藤礼三宗城 字芳壷、文化十一年十一月八日 三十七歳
 杉木新 舘柏庵維嘉 字多山、文政三年七月二十八日 二十八歳
 魚津 稲坂玄意康 字精徳、文政五年一月二十五日 二十三歳
 不明 沢田正線蔵器 字待卿、寛政七年八月十九日 二十二歳
 【済世館 賀川家】
 明和七年 尾崎栄輔
 安永二年 藤岡哲斎、八十嶌尚斎
   七年 山本柳悦、高山寿桂、渉井詮菴
   八年 関全菴
 天明二年 高柳半兵衛
 寛政十一年 伊藤元準
 享和二年 黒田順助
 文化十三年 中沢芦人
 嘉永六年 岡本三虎
 安政二年 岡本宗伯
 三年 佐久間貞斎
 文久元年 岡本了伯
 慶応元年 岡本意仲、土肥恭蔵
 【素診館 小森桃塢】
 文化十三年六月 川崎(小矢部の下川崎) 宮永豊吉正朝(農政で名高い宮永家の一門か)
      十月 福光 石野賢良、礪波郡岩木(福光) 沼田勇蔵
   十四年十一月 桜井以文哲
 文政三年五月 川崎 宮永東作寅(尊王志士宮永良三の父)
   七年二月 礪波郡答野嶋(高岡) 中嶌謙斎
     三月 礪波郡福町(小矢部) 福島友順
   十二年五月 礪波郡 岩佐秀平
 天保二年四月 桐木(福野) 丹羽三七
 【百々家】
 安政二年二月二十五日 高岡 金田間吉改貞吉
 文久元年三月二十四日 富山 神保文斎
     十月 富山 小西隆斎
   二年四月十日 高岡 内藤慶造 小川幸三(加賀藩尊王志士)紹介、父は内藤彦介
【水原三折】
 天保八年 嵯峨与八郎
   十三年 太田順貞
 弘化三年 林玄策
 【時習堂 廣瀬元恭】
 高岡 弘化二年春 片山文哲
 安政七年暮春 高峰三養
 魚津 弘化二〜四年のいつか 五島文策
 放生津新町 嘉永元年十一月一日 青木多仲
 富山 嘉永二年八月 高桑平衛
 明治二年春終わり十三日 楠界庵
 城端 嘉永七年四月没 桜井良助
 【読書室 山本家】
 文政十一年頃 高岡 上子元城(文化四年生まれ)
 天保三年頃 氷見 岡嶋玄俊 父は西井良朔
   六年 富山藩医 岡田瑞仙
   十四年 高岡 服部修徳、沢田龍岱(文政十一年生まれ) 不明 金古景山
   十五年 僧 鑑月 水橋 岩城潜龍 不明 高田一言
 嘉永二年 今石動 建部有方
   三年 越中の所化 界雄、香厳、知教、露真
 不明 岡玄伯
 安政二年 富山 田中正伯
      高岡 内藤玄鑑
●大坂
【適々斎塾 緒方洪庵】
 弘化三年九月十二日 高岡 片山文哲逸
 嘉永七年閏七月三日 高岡 佐渡賢隆
 安政四年四月 新川郡米田町(富山) 赤祖父昌斎
 その他 高岡津島元桂(号は北岳、江戸で剣術道場を開くが、二十六歳で没)
●江戸
【迎翠堂 土生玄硯】
 高岡 高峰幸庵 入門時越後高田
 立横町 鷲塚謙三 二十七歳
     池田邦太郎 明治六年四月七日 二十一歳
 富山 宮川泰順、村井文聴
 新湊町 内藤欽二 明治六年四月 二十五歳
 【安懐堂、日習堂 坪井信道】
 高岡 利屋町 佐渡賢隆
 氷見 馬島礼蔵礼 字和卿、号放鶴 加賀藩馬島明眼院門人
 不明 森良策
 その他 黒川良安、佐渡良益、高野元礼
 【芝蘭堂 大槻玄沢】
 文化十四年五月二十八日 高岡 長崎浩斎健
 不明 岩井敬治
 【蘭聲堂 吉田長淑】
 高岡 富田純良
 越中処士 藤浦恵蔵
●下総
 【順天堂 佐藤家】
 伏木 長谷川徳之
●紀伊、大坂
 【春林軒、合水堂大坂分教場 華岡青洲】
 文化二年十一月二十二日 射水郡三十三ケ村(大門) 舘玄仲改玄龍
   三年十月一日 富山袋町 西野大a 
   四年二月二十四日 射水郡中老田 瀧文亮
     六月四日 水橋 岩城猷助改謙造
     七月二十二日 射水郡小白石 石川良元
   六年一月二十九日 高岡 土肥恭蔵 合水堂
     二月二十一日 婦負郡杉谷村(富山) 多田茂三郎 合水堂
   十年二月三日 礪波郡杉木新町 中西通玄
 天保二年八月二十九日 礪波郡七社村(小矢部) 大谷俊造改玄龍
   四年六月二十一日 富山藩医 井口寿安、高野順恭改賢順
   五年一月二十二日 魚津 高松順元 合水堂
   六年十二月十五日 西部金屋村 高畠貞輔改修平
   七年五月十六日 礪波郡柳瀬村 斎藤宗玄 合水堂
   十五年四月二十六日 礪波郡杉木 高畠東済
 弘化三年四月九日 婦負郡上井沢村(婦中) 渡辺順碩
   四年五月十六日 福光 賀川玄龍
       二十二日 礪波郡倉村維屋町 毛利伯龍
 嘉永二年二月二十八日 今石動 九鬼秀達
   三年四月一日 富山西野彦祐
   四年閏四月二十八日 射水郡三十三ケ村 舘玄達 合水堂
   七年三月七日 射水郡殿村(新湊) 石須良為
     七月二十七日 東水橋 岩城猷輔 再入塾
     十月五日 氷見中町 宮崎忠蔵 合水堂
 安政二年九月五日 魚津 阿波加修吾 合水堂
 文久元年四月七日 下新川郡滑川 神保周輔
   三年二月二十七日 富山中町 黒田昂庵 合水堂
●長崎
【青嚢堂 吉雄権之助】 門人はシーボルトの鳴滝塾へも入門できたらしい。
滑川 黒川(松本)玄竜、良安
富山 畑玄周
他、高岡の山本道斉や新川の華岡修斎も入門か

ここに記した以外にも、京の古医方で山脇東洋の養寿院や吉益家にも多くが学んでいる。

上子元城 父は商人であったが子の才能に注目し金沢の藩医内藤家に預け、江戸や京で修行させた。子息元城(坦庵)は津島北溪に託し眼科を学ぶ。
土肥家 高岡町医者恭蔵伯敬(号知言)は合水堂で学び、漢詩も能くした。子の俊造は小石中蔵に学んだ。
沢田龍岱 高岡町医者。父の早雲や兄の周謙は文人としても知られている。十三歳で神農講に参加する。後に早雲と名乗り、石崎謙の妹婿であり、高岡学館の句読師にも就く。
舘柏庵 杉木新町で弘化頃より明治初期に開業する。実父は矢木村根尾宗四郎。嘉永四・五年に杉木新に移る。合薬商でもあった。
中西通玄 杉木新中町で文政・天保年間に開業する。江戸の中西家で外科を学び中西姓を称した。天保十四年に没。
斎藤宗玄 祖は小矢部の福住村から移住した。屋号は福泉屋。代々医者で、子息の宗庵は寺子屋も開いた。
高畠東済 杉木新中町で天保から安政頃に開業し、牢舎医師も務めた。西部屋又七とも称し、霊渕の号で和歌や俳諧にも名がある。弟畠伯春など一族には医者が多い。
渡辺順碩 代々医者で九代目か。十代目は順伯(嘉永元年四月三日〜明治二十六年九月十八日)。
大谷玄龍(龍玄が正しいか) 砺波郡七社村の医家。源五郎には龍玄・三折・良哉の兄弟がいる。良哉が兄の名を使って入門したのかもしれない(勝山敏一『活版師はるかなり─布告から薬袋まで』桂書房)。七社の大谷家は良哉(安政二年三十三歳で没後、妻の八百が診療にあたる)の養子俊三により継承され、『増補英和単語図解 後篇』を翻訳した。明治前後には寺子屋も開いて、読み書き・計算を教えてもいる。 
賀(香)川玄龍 福光村農家川合田屋宗七三男に生まれ、初め勝蔵。医者を志し、金沢で中野随庵に学んだ後、華岡青洲の門下に入る。帰郷し嘉永四年三月表町に開業する。安政二年十二月七日四十三歳没。 
宮崎忠蔵 父の宮崎忠蔵南禎は文化・文政頃に本川町で開業し、屋号は鍛冶屋。薮田浅野泰順長男泰治郎 (後の總一郎)を養子にするが文久元年に離縁した。合水堂に入ったのは実子の寛治郎で、嘉永七年九月に仲蔵と改め十八歳で入門する。しかし病気で帰郷を余儀なくされ、安政四年八月三十日窪村にたどり着いたところで動けなくなり、九月二十五日二十一歳で没した。
橘玄格(字叔充) 山脇東洋の次男で、富山藩医六口を受けた。天明六年没。以後代々十人扶持で仕え、安政頃に名古屋へ移ったという。

医学塾
ところで越中人が学んだ医塾の蘭方医とはどのような人物だったのだろうか。蘭方の越中国への浸透を理解するために、まずは大まかに把握しておくことにしよう。
●小石元俊道(字有素、号大愚)
 寛保三年九月十六日山城国に若狭国酒井家の藩医を父に持って生まれ、十歳で大坂の淡輪元潜(柳川藩医)に入門し、その後山脇東洋の高弟永富独嘯庵に師事する。明和六年大坂で開業し、後に京へ転じた。天明三年橘南谿等と人体解剖を行い、同六年には江戸で大槻玄沢と交際して、大坂の橋本宗吉を彼の下に入門させ、『パルヘイン解剖書』を訳させている。享和元年に大坂へ移り、やがて上京して究理堂を設立した。文化五年十二月二十五日六十六歳で没。
●小石元瑞竜(号木聖園、蘭斎、秋岩仙史)
 天明四年十一月二十日に元俊の子として京に生まれ、大坂で篠嶋三島に漢学を学ぶ。寛政十一年に父と江戸へ行き大槻玄沢に師事した。その後京で開業し、父を継いで究理堂を経営する。嘉永二年十二月十日六十六歳で没した。
●小石中蔵紹(字君厥、号蘭屋、石工斎、篷嶼)
 文化十四年七月二十三日京で元瑞の次男に生まれる。九歳で頼山陽に書を学び、師の没後は豊後竹田の角田九華に入門した。天保七年江戸で坪井信道に十年間就いて蘭学と西洋医学を学びつつ、渡辺崋山、高野長英、小関三英と親交を持った。そのため蛮社の獄の際には師から小関三英戸の関係を問われ蟄居を命じられたこともあったが、同十二年に家督を相続し、嘉永二年楢林栄建と熊谷鳩居堂の後援で種痘所有信堂を設立した。明治二十七年十二月二十六日七十八歳で没。
●荻野元凱(字子原、在中、左中、号台州)
 元文二年十月二十七日に金沢で生まれ、奥村良筑に医を学んだ後朝廷に仕えて、安永二年滝口に補され、寛政六年典薬大允に任じられた。その後幕府の躋寿館教授を経験しするがやがて辞して京に帰り、再度朝廷に仕える。その間安永五年にオランダ商館医ツェンベリーが江戸参府の折、京で面会している。また寛政十年に従五位下、文化二年に河内守に昇任して、翌年の四月二十日七十歳で没した。
●賀川玄悦(字子玄)
 元禄十三年に近江国彦根で生まれ、父は三浦長富という。賀川は母方の姓である。農業の傍ら鍼と按摩をしていたが、本格的に医術を学ぶため上京し、産科を専らとした。明和五年に阿波藩医として徳島へ赴いたが、やがて家督を養子の玄廸に譲って京の一貫町で開業する。玄悦が説いた胎児の「下首上臀」説は、シーボルトがイギリスの産科スメリーと同様の学説であるとして、美馬順三の原稿を基にフランクフルトの『医学週報』で紹介している。安永六年九月十四日七十八歳で没。
●小森義啓(字玄良、号桃塢、春鳥斎)
 天明二年四月三日美濃国安八郡外淵村に生まれ、実父は大橋政右衛門であるが、寛永三年に美濃出身の伏見の医者小森義晴の養子になって、同七年京の蘭学者江馬蘭斎に入門した。その後伏見に戻り、文化三年海上随鴎に学ぶ。同十四年にはブカンの原著を訳し、『蘭法枢機』全五巻として刊行している。また文政三年典薬寮医師・従六位下肥後守に任じられ、人体解剖も行った。同九年にはシーボルトとも交遊し、同十一年継殿助に叙任され、天保十四年三月二十三日に六十二歳で没すると、従五位下信濃守を贈られた。
●水原三折義博
 天明二年近江国八幡に生まれ、寛政の末年に京で奥劣斎に医術を、海上随鴎に蘭学を学んだ。文化六・七年頃に帰郷して開業しますが、天保六年に京へ移住する。元治元年三月八十三歳で没。
●廣瀬元恭襲(字礼卿、号藤圃、天目山人)
 文政四年甲斐国巨摩郡藤田に生まれ、祖父周平、父恭平とも医者である。十五歳で江戸の坪井信道に入門し、やがて京で時習堂を設立したが、なおも緒方洪庵や青地林宗に学ぶ。妻のイネは蒸気船を研究し、明治六年に銀座で製造所・電信機を作った田中久重の妹は妻のイネである。リーセンドの生理学や軍事関係書を翻訳し、勝海舟とも親交があった。門弟には佐野常民や陸奥宗光がいる。京都官軍病院長を務めたが、明治三年十月二十七日に五十歳で没している。
●山本中郎(号封山、蘭卿)
 寛保二年に高岡の茶木屋日下庄兵衛の次男として生まれ、加賀藩医内藤彦助に学んだ後、京の古医方吉益東洞に就いた。本願寺の侍読になり、法主から「読書室」の堂号を賜っている。儒医七代目山本貞徳に認められ養子になり、文化十年三月に没。加賀藩からの誘いも断り、常々医者としての心構えを門人に説いたという。
●山本本三郎世儒(通称永吉、字仲直、号亡羊) 安永七年六月十六日京の油小路五条上ル上金仏町に 封山の次男として生まれる。父から学びつつ小野蘭山より本草学を学んだ。蘭山が江戸へ移った後、医のみならず本草も講じる。文化七年から没する安政六年にかけ毎年物産会を開いている。その後は榕室(文化六年〜元治元年)、渓山(文政十年〜明治三十六年)が継承した。
 渓山こと山本藤十郎章夫は亡羊の六男で、嘉永四年四月一日に採薬を目的に京を出て、漢詩や絵を描きながら十八日に高岡へ着いき茶木屋を訪れ、八月二十五日まで逗留する。その間に六月七日から七月十四日にかけ能登を巡り、七月二十二日から二十八日には立山に高峰元稑と登っている(『入越日記』)。
●緒方洪庵(字公栽、号適々斎、華陰)
 文化七年七月備中国足守藩士佐伯瀬左衛門の三男に生まれ、三平や判平と称したが、天保七年に長崎留学した折には緒方洪庵と名乗るようになる。文政九年に大坂の蘭学者中天游の思々斎塾で学んだのを皮切りに、天保二年江戸の坪井信道の日習堂で四年学び、同七年に長崎でオランダ語を修得した。同九年に大坂で開塾して大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉、大鳥圭介等の多くの人士を育成しながら、フーフェランドの内科書等多くの翻訳をなしつつ、ジェンナーの牛痘接種やコレラの予防法の普及に努めている。文久二年幕府からの再三にわたる懇請を拒み切れず、江戸で奥医師及び西洋医学所頭取に就任したが、翌年六月十日に没した。
●土生玄碩義寿(字九如、号桑翁)
 宝暦十二年安芸国高田郡吉田に生まれ、父は眼科の土生義辰である。安永七年に京で楢林塾や和田東郭(泰純)に学び、帰郷して眼科を継承したが、再度学を志し大坂で三井元孺や高充国に就いている。享和三年広島藩医に就任し、その後幕府の奥医師となって、法眼の位を賜る。しかしシーボルトから散瞳薬を貰い、その礼に将軍より拝領の紋服を与えたことが発覚し、財産没収の上禁固の処分が下される。天保八年江戸深川に隠居し、嘉永元年八月十七日八十七歳で没した。曾孫の玄真は富山市で眼科を開業している。
●坪井環(後に一助、道庵、字信道、号誠軒、冬樹、晩生)
 寛政七年一月二日美濃国池田郡脛永村に生まれ、早くから両親を失い長兄の浄界に育てられた。漢学を修めるが、宇田川榛斎の『医学提綱』を読んで西洋医学を志し、広島の中井厚沢や江戸の宇田川榛斎に就いて学んた。文政十二年江戸深川に安懐堂を設立、天保三年に日習堂を建ててオランダ語と医学教育に専念する。オランダ語はウェイラントの文法書を用い、医学は自著の『診候大概』を教科書とした。また文政九年ブールハーフェの著書を訳している。天保九年萩藩医に就任して軍事にも参画し、長男の信友は家を継がずに長州藩医とし、軍事面で活躍した。家督は門弟で高岡佐渡家の信良が養子になって継ぐ。嘉永元年十一月八日に没。
●百々俊徳(本名越智内蔵太俊徳、字克明、号漢陰、確斎、冬青老人)
 安政三年に京で生まれ、父の俊亮に医を学んで享和二年に分家、開業する。皆川淇園にも学び、太田錦城、梅辻春樵、頼山陽等と交際している。天保十年四月十三日没。
 兄の俊道(字仁傑、号識名園、富春、三仏斎)は見寿院とも称した。明和八年生まれ、小野蘭山や山本亡羊にも学び、朝廷に仕えて法眼の位に昇っている。本草学に通じていた。文政元年十月二十日に没。
●百々俊範綯(通称一郎、字茅、号鳩窓、鳩巣)
 俊徳の長男で医業を継承した。明治十一年一月三十日に没。弟(三男)の菘も医者であり、共に多くの著作がある。
●大槻玄沢茂質(字子煥、号磐水)
 宝暦七年九月二十八日陸奥国磐井郡中里村に一関藩医大槻玄梁の子として生まれ、建部清庵に医を学んた。安永七年に建部亮策と江戸に出て、杉田玄白や前野良沢に就く。天明五年長崎へ留学して、翌年に江戸で仙台藩医に就任、芝蘭堂で蘭学を講じている。寛政六年十一月がオランダ正月(西暦で一月一日)のため新元会を開いたことでも知られる。文化八年には幕府天文方に蕃書和解御用が設置されたため、馬場佐十郎と共に任じられた。ショメール日用百科事典を『厚生新論』と名付けて翻訳出版する等多くの著作がある。文政十年三月三十日七十一歳で没した。子息の玄幹(天明五年〜天保八年)は長崎で志筑忠雄に学んで蕃書和解御用や天文台訳員を務め、磐渓(享和元年〜明治十一年)は高島秋帆に触発され江川太郎左衛門から砲術を学んでいる。その子息が仙台藩砲術家の修二(号如電、弘化二年〜昭和六年)と英学者の文彦(弘化四年〜昭和三年)である。
●堀内忠寛(後に忠竜、忠亮、字君栗、号素堂)
 享和元年出羽国米沢に生まれ、父は藩医堀内忠明。文政三年に江戸で古賀穀堂に漢学を、杉田立卿や青地林宗に蘭学と医学を学ぶ。その後米沢藩医になり藩医学校好生堂に蘭医学を採用させた。弘化二年フーフェランドの小児科書を『幼幼精義』と名付けて訳し、これがわが国最初の西洋小児科書になる。越中出身者の門弟はいないのだが、リセランドの生理書を青木研造や黒川良安と訳して『医理学源』の書名で刊行している。嘉永七年三月十八日五十四歳で没した。
●吉田成徳(字直心、号齣谷、蘭馨、長淑)
 安永八年幕臣馬場兵右衛門三男として江戸で生まれ、母方の叔父吉田長粛の養子になる。一時倉持宗寿の養子になったこともあった。漢方を土岐長元、蘭方を桂川甫周に学び、宇田川玄随の『西説内科撰要』に影響を受ける。文化七年加賀藩医になり、翌年ショメールの著書を翻訳した。高野長英、小関三英、湊長安、足立長雋は皆門弟である。文政七年八月十日に藩主前田齊廣の急病で治療に向う途中、金沢の宿舎で急死した。四十六歳であった。
●佐藤泰然(旧名田辺庄右衛門)
 文化元年武蔵国川崎に生まれ、江戸で旗本伊奈家に仕えながら足立長雋や高野長英に学ぶ。天保六年長崎でニーマンに西洋外科等を教わり、同九年に江戸の薬研堀で開塾した。この時母方の姓和田を名乗っている。同十三年娘婿の林洞海に塾を譲り、佐倉へ移ることにした。その際に門弟の山口舜海を同行し、転地で順天堂を開いて父方の佐藤姓を名乗る。安政六年横浜に移り外国人と交際し、明治五年四月十日六十九歳で没した。次男松本順(良順)は幕臣松本良甫の養子になり、オランダ医ポンペに学び、戊辰の役で会津に野戦病院を建てたことでも知られている。後に軍医総監に就任した。
●佐藤尚中(号笠翁)
 文政十年四月八日下総国小見川藩医山口甫僊の子に生まれ、名は舜海。江戸で寺門静軒に学び、安藤文沢に医を学び、後に佐藤泰然に就いて佐倉に同行し、嘉永六年養子になった。安政元年佐倉藩に仕え、同六年家督を嗣いで順天堂の堂主となる。万延元年藩命で長崎に赴き、ポンペより外科等を学んだ。文久二年に帰郷し済衆精舎を設立する。明治二年に東京で大学東校主宰、大学大博士、大典医、大学大丞に就任するが、五年に辞して翌年下谷で順天堂を建てている。十五年七月二十三日五十六歳で没。著書には『棋篤魯黙児(ストロメール)砲痍論』等がある。
●華岡随賢震(字伯行、号青洲)
 宝暦十年十月二十三日紀伊国上那賀郡平山の医師華岡直道の子に生まれ、父に学んだ後上京し吉益南涯に師事して内科を修めつつ、蘭外科を大和見立に学んだ。天明五年に帰郷し、漢蘭折衷医として臨床外科を専らとし、マンダラゲ(チョウセンアサガオ)の成分を基に麻酔薬を発明する。文化元年十一月十三日には乳癌(岩のように固いため「巌」や「岩」を充てたという)摘出手術に成功した。春水軒を設立して門弟の教育に努める。天保六年十月二日七十六歳で没。
 弟の良平文献(字子徴、号鹿城、中洲、安永八年〜文政十年四月二十八日)も寛政八年に上京して吉益南涯に入門、文化元年に帰郷して兄に外科を学ぶ。和泉国堺に開業し、同十三年中之島に合水堂を設立した。
●吉雄権之助永保(別名尚貞、号如淵)
 天明五年生まれ。父の吉雄幸作(耕作)永章(号耕牛、養浩斎)は享保九年本家の五代目に生まれ、元文二年稽古通詞、寛延元年大通詞に進んだが、元文二年に誤訳をしてしまい蟄居、同九年に蛮学指南として復帰、その間医学をツュンベリーから直接学び、吉雄流紅毛外科として一派をなした。前野良沢や杉田玄白とも親交を持ち、寛政十二年八月十六日七十七歳で没した。
 権之助は文化元年大槻玄幹の勧めで志筑忠雄(中野柳圃)にオランダ語を学び、オランダ人ヅーフにフランス語、ブロムホフに英語を学ぶ。同六年蛮学(ロシア語・英語)世話掛、同八年小通詞末席、同十四年小通詞並、文政元年江戸番小通詞になり、同二年と九年には年番小通詞を務めている。またシーボルトの鳴滝塾で通訳を引き受け、自宅ではオランダ語を教えていた。天保二年五月二十一日四十七歳で没。
 門弟には甥で耕牛次男定之の子俊蔵(常三、常庵、字伯元、号南皐、観象堂)がいる。文化八年に諸国を巡り蘭学を教え、同十三年尾張国名古屋に観象堂を設立した。文政九年に尾張藩蘭学心得並びに翻訳に就任し、藩奥医師として藩から二人扶持を支給される。化学実験をして鉄砲と火薬を研究していたが、天保十四年九月二日実験中の事故で没。五十七歳であった。
 
 なお本草学は大陸渡りであるため今回は洋学に含めていない。越中国では富山藩主前田利保が大著『本草通串』『本草通串証図』を編纂し、現在は富山県立図書館に収蔵されている。
越中医者の人物誌
●長崎家
 高岡町医者長崎家の初代は江戸浪人の荻原孫兵衛(享保十八年六月九日没)で、長崎に赴き蘭方医術をみっちり学んた。元禄・宝永の頃に高岡を訪れた際病人の治療に当たったところ、人々より留まるよう請われ、横川原町に住んだという(後に一番町)。長崎医者と呼ばれていたことから苗字(姓は橘)も変え、鳥山次郎兵衛の娘を妻とした。跡継ぎがいないため礪波郡和田新町源三郎の次男を養子にし、これが二代目玄澄(安永六年二月二十九日没)である。鳥山屋治良兵衛娘との長男が三代目の玄貞(号菊古翁、安永八年十一月没)であり、男児があったが早世したため、安永四年に富山藩士で町奉行を務めた吉川唯右衛門敬明(号寥山)次男の吉五郎(十一歳)を養子に入れた。四代目の玄庭(号蓬洲)であり、十六歳にして切開手術を経験、天明四年二十歳の時に上京し楢林由仙(号白龍)から外科を学ぶ。またその間には漢籍もしっかり勉強している。同年十月五日薬に詳しい実父の強い推薦で、若いにもかかわらず法橋の位を得た。文人としても優れ、春秋左氏伝の会読や修三堂の設立に参画する。文政十二年十二月九日六十五歳で没した。私生活では養父の娘理宇との結婚生活は破綻するが、再婚後子供にも恵まれ、長男玄太郎は吉川家を嗣ぐ孫三、次男哲次郎は五代目愿禎健(字確斎、号浩斎、康斎、誠意堂主人、寛政十一年九月七日〜元治元年九月十四日)である。
 浩斎は父と同様文人としても名高く、江戸で市河米庵に書、大窪詩仏に詩を学んでいる。医者としても多くの著書があり、中でも天保二年刊の『五泉堂医話初編』は江戸で大槻磐渓の校閲を受け、京でも小石元瑞の閲読を受けている。また同十年には蘭方医学に対する中傷へ反論する『蘭学解嘲稿本』を出版している。江戸での行動記録『東遊襍録』には高峯幸庵の添書で大槻玄沢の芝蘭堂に入学し、蘭書で講義を受けた。玄沢は初心者には百人一首をローマ字で書く練習をさせたそうである。浩斎の名入り専用箋の題僉周囲にはアルファベットやオランダ語が書かれている。
 子息で六代目言定周蔵(後正国、号秋江、松風水月居士、文政九年五月二十七日〜明治七年八月二十七日)は天保二年七月京で小石元瑞に漢方・蘭方医を学び、弘化元年十二月に帰郷して、嘉永三年父の隠居に伴い家督を嗣ぐ。西洋の学問を本格的に学ぶことを企図しつつ、五十嵐篤好に国学、富士谷御杖に和歌、瑞龍寺閑雲に宗学を学んた。明治元年十二月高岡学館の開設に関わり講師となり、四年三月東京で富山藩病院掛を務めた。廃藩後の五年五月七尾県十二等出仕庶務課、七月博覧会事務取調並医事掛を歴任し、十月七尾県廃止のため帰郷し開業するが、翌年十月家督を長男言定正路に譲り射水神社の権禰宜に就任している。
 富山藩士の林九郎左衛門忠義は吉川敬明の後任として町奉行に就任し、親戚でもあった関係で、浩斎の娘が嫁いで太仲を生み、言定次男志藝二(安政三年〜明治三十九年四月十日)が林太仲の養子忠正になった。

吉川唯右衛門敬明(号寥山、享保十七年〜文化三年) 富山町奉行山伏無官社人平僧支配等を務め、次男吉五郎(蓬州)のため薬方五十八種を集めた『救民要薬集諸家祕法』を著す(天明八年三月刊行、浩斎が追補)。
法橋 本来は僧位であるが、後に仏師・絵師・儒者・医者・連歌師にも用いられた。明治六年まで続き、法印・法眼・法橋の順。

●佐渡家
 祖は止観寺城主建部佐渡守で、慶長十四年に井波から高岡の下川原へ移り、更に利屋町へ転じて医院を開いた。以後代々養順を襲名し、六代目宗順は魚津大町の阿波加李仙の弟であり、佐渡家へ養子に入る。その縁で八代目千代九郎(寛政七年十一月二十三日〜安政三年八月十三日、号竜斎)も阿波加家から入っている。出産時の家伝薬「養順湯」を調合しました。妻は長崎浩斎の妹トラ(享和三年四月二日〜明治三年八月三日)で、六人の男児が共に医者の道に進んだ。
 長男三良(文政三年七月二十六日〜明治十二年十月三日)は、伯父浩斎に見送られて十九歳で小石元瑞に就くこと四年、一旦帰郷し改めて七ヵ月昌平黌で学ぶ(「佐渡家譜」による)。九代目を継承し慶応二年『和蘭薬歌上・下』等著書もある。また書庫を蒼龍館と名付けた。
 次男良益こと後の坪井信良(文政六年八月二十八日〜明治三十七年十一月九日)は、天保十一年三月小石元瑞に学んだ後、同十四年一月江戸で坪井信道の門に入り婿養子となる。また漢籍を広瀬旭荘に、蘭学を大坂で緒方洪庵に学んた。弘化から明治十年にかけて兄に宛て書簡を定期的に発信し、高岡町の有力者はこれを基に時事研究を行ったという。嘉永六年十一月師匠の長男信友(十七歳)を後見し、三十一歳で越前藩松平春嶽の公医、安政五年蕃書調所教授補、慶応二年将軍家奥医師に駆け昇った。大坂城に勤務していた際には徳川慶喜と大坂城を脱出し、軍艦開陽で江戸に戻っている。その後は水戸、静岡と徳川家に従い、静岡病院を開院した。明治七年十二月東京府病院院長に就任し、『医事雑誌』を発刊、多くの著書を刊行する。子息の正五郎は人類学者である。
 三男秀達(文政十一年五月二十三日〜明治十九年五月二十八日)は今石動の医者九鬼秀輔へ入婿し、嘉永二年二月紀伊で華岡青洲に入門、更に江戸で兄信良の下で研鑽を積み、帰郷後に開業している。 
 四男光昭(天保元年十一月二十一日〜明治十九年八月三日)はオランダ語に通じ、千字文の蘭訳があるほど。弘化年間京の窮理堂、嘉永頃江戸の兄に学びますが、短気な性格のため迷惑を掛けることしばしばで、適塾に入門した際も不始末をしでかし退塾する。その後は祖先の名を興し建部賢隆を名乗って富山に開業するがうまくいかず、心配した信良が東京に呼び寄せ警視庁へ就職させるが、まるで身が入らず四十五歳の時に帰郷してしまう。優秀な兄と弟に挟まれ、苦しかったのかも知れない。跡継ぎがいず三良の子礼吉を養子にした。  五男脩造(幼名捨五郎、通称正頴、字士栗、号酉卒夢、六無斎、天保六年十二月十三日〜大正五年五月十二日)は安政五年五月魚津の阿波加玄李の養子に入る。ちなみに玄李の妻は姉のトリ(文政八年三月二十六日〜安政四年二月二日)である。幼時に句読を金沢の高田家や上田(耕?)から学び、十七・八歳頃富山藩校廣徳館の大野欽一郎に従い大坂へ行き、渡辺太郎や広瀬謙吉に医学じっくりと教わる間にも儒学の書を次々と読破していった。安政元年三月から五年五月には大坂今橋の春日寛平や緒方洪庵、華岡準平、山岡民部にも内科・外科・眼科等を学んでいる。その後に帰郷し養父を助け、明治四年三月金沢藩文学訓蒙文課魚津病院副長、医道御用掛医務取締に就任した。
 加賀藩は魚津病院に藤井方亭を院長として派遣し貧窮患者の治療に当たっている。明治五年原田恭平が院長の時に廃院と決まったものの、脩造他五人が嘆願書を提出し、藤井方亭を院長に脩造や飯野養順、細川秀玄、広野隣斉、中村玄逸が医者に就任し、好生社と改名して存続を決めたが、六年八月十七日の病院法令改定により閉院を余儀なくされる。しかし方亭は県庁移転で富山へ移住するまで自宅で継続している。
 脩造は明治十三年一月連合町会議長になり、二十二年八月国辱の箇条があると条約改正交渉中止を意思表示するため堀二作と上京し、二千九百五人の連署した建白書を元老院へ提出している。
 教育面では文久元年に私塾を開き千字文・孝経等を教え、維新後は文明開化の理解に務めた。明治十六年九月から十九年一月明理小学校の校長に就任し、勉学の重要性を説き、学科の選定や教科書選定に力を入れ、自ら児童心得を作って毎日朗唱させる(「國に尽せよ正直で人と仲よくきまりよく仕事は自分でするがよい、これはよい子ぞよい民ぞ」)。二十六年幼稚園教育の重要性を主唱し、自分の書や詩文を売って三百円になったら開設するつもりであったという。また四十一年には下新川郡史の編纂にも当たっている。子息敬吉は長兄三良の娘婿である。
 六男立策猪六(号緑窓、天保十年七月二十二日〜安政二年六月十五日)は文学を好み、幼児より作詩して将来を嘱望されたが、十七歳で夭折した。
●高峰家
 祖先は大和国添上郡三笠卿郷士高峰刑部で、三代目の岩城慶庵が京で典薬頭半井驢庵法印に医術を学び医者になる。元和年中驢庵の江戸行きに同道した際福井藩松平家の侍医に就任することになり、国替で越後国高田へ移った。五代目元陸の代に国替があったものの同道せず高峰姓に復し、八代目幸庵寛容(字君象、号鼎亭、遵時園)は京で吉益南涯や賀川玄廸、江戸で杉田玄白や杉田立卿、土生玄碩、大槻玄沢に就き、眼科を専門としながらヨーロッパの医療器具に関心を持ち、杉田玄白の「諳厄利亜(国産科要具アングリア?)」を模造したり、「越列吉低力的乙多(エレキチイリテイト)」を製造した。文化十年冬に富山町へ来遊した際には長崎浩斎が教えを請い、『解体新書』と『西説医範眼科篇』を講じた。同十一年に高岡町に来た時には薬剤の製煉法を教示している。何とか町に残ってほしいと考えた浩斎等は同業医者の反対を押し切るために奔走し、国泰寺侍の扱いで御馬出町に住むことになった。文政八年二月二十七日四十七歳で没。長崎蓬州とはライバル関係にあったようである。
高田町年寄長野金右衛門の娘トキを養女、高岡町奉行小堀八十大夫家来松井理右衛門嫡子の藤馬を婿に迎えて九代目を継がせる。玄台と称し、昌平黌に学んだが蘭方医に転じ、詩才も豊かであった。その長男が十代目昇卜部紳(文政十年〜明治三十三年)元稑である。天保十四年三月上京して小石元瑞に、弘化二年四月江戸で坪井信道に就くこと計七年、二十三歳の時に帰郷し医業に当たる。安政二年加賀藩より壮猶館舎密方臨時御用に任じられて金沢に赴任し、百石十人扶持を受け化学実験に明け暮れる生活を送る。そのため御馬出の医院は門弟の高庵に託されることとなり、明治三十七年まで存続していた。壮猶館では蚕の蛹から硝石成分を取り出す伝統的手法を復活させることに成功する。医者としても同六年御典医として藩主嗣子前田慶寧を診察した。この折りに精一と改める。嘉永七年九月十三日に妻の実家高岡の横田西町津田家で男児が生まれる。これが譲吉である。七歳で藩校明倫堂に入学し、慶応元年から長崎へ官費留学をした。
『浩斎年譜』 文政元年に起こった両者の行き違いと、挟まれた二十歳の浩斎の苦悩が描かれている。原因は幸庵が酒席で言ったことを同席者が誇張して蓬州に伝えたことにある。
舎密 「せいみ」と読み、chemieからの造語で化学のこと。窮理とは物理学のこと。
●片山文哲逸(文政七年〜明治二十一年四月二十八日)
 高岡の医者片山文貞の子に生まれ、弘化二年に広瀬元恭の時習堂に入門し、翌年大坂で適塾に入る。明治四年三月金沢病院高岡出張所副直医、同八年新川県種痘医員、翌年射水郡医務取締役に就任した。また北海道から多量の昆布を取り寄せて「沃剥丸(ヨードガン)」を製し、十一年十月三日金沢勧業博物館で高岡坂下町の津島玄碩が製した松根油と共に天覧を賜った。
●山本仲郎道斎(文化十一年五月二日〜安政二年十二月二十二日)
 加賀藩医山本道仙は致仕した後、寛政三年魚津で開業する。婿養子の一覚(學かも、号樫園)が継承し、高岡片原町に開業した。その子道斎は叔父の加賀藩医内藤玄鑑に請われて養子に入り明倫堂に入学、十三歳の時に藩主御前で詩経を講義し賞せられる。しかし城勤めが嫌で家出し実家に帰ってしまった。しかたがないので弟の宗春が内藤家に入る。その後道斎は昌平黌へ留学し、京でも小石元瑞や頼山陽に就いて、更に長崎でシーボルトに学んだとも伝えられる。弘化元年帰郷し医院を継承し、書堂を牛馬堂と名付け、青年教育にも当たった。嘉永元年蝦夷から北陸遍歴中の頼三樹三郎が訪れ、七ヵ月間逗留して尊王を論じている。志士の藤本鉄石も来訪した。そのため安政の大獄時には処罰を恐れた家人により著書『静思録』が焼かれる。
●尾崎玄達(寛政八年〜安政六年)
 祖は能登の長氏。号を栢山・国華といい、文化頃に長崎へ赴き、オランダ人から蘭方を学んだ。また原蕉斉から漢方を学ぶが、実父が亡くなり帰郷し家督を継いだ。能書家としても知られ、寺子屋を開いている。
●高畠次郎右エ門秋平
 北般若の西部金屋高畠博道次郎右衛門の子として生まれる。祖は前田利家に仕え新川郡井見荘日谷村にいたが、致仕して現在地に移住し帰農した。秋平は医者を志し十九歳の時に上京して、内科を福井家、産科を賀川家に学んで帰郷して開業、門弟も持ったが、改めて門弟数人と大坂へ赴き京で開業し、寛政二年十一月から橋(稿)本白敏に就いてオランダ語や蘭方医学を学んでいる。門弟の篠島貞輔を三年華岡青洲に学ばせ娘と見合わせ分家させた。自らも西村太冲に算学、泉伏翼に書を学び、江戸で宇田川榕シに化学を学ぶため旅立つ直前に急死する。弘化二年一月二日六十一歳であった。
福井家 福井柳介輗(享保十年〜寛政四年十一月三日、別名立啓、啓発、字大車、号楓亭)は京または奈良に生まれ、菅隆伯に医術を学び、六朝・唐・宋の医書を研究した。江戸の躋寿館(医学館の前身)で「霊枢」を講じる。同四年に製薬所の監に就くが、六十八歳で没する(九月二十七日説もある)。長子榕亭(宝暦三年〜弘化元年)が嗣ぎ、御典医で丹波守となる。
●長崎文景 
 福野の生まれで、長崎で蘭学を学んだ後に、文政五年から天保八年にかけて、石動の糸岡で開院したといわれる。著書には『医方秘々訣』『諸方抜萃』等があり、多くの奇行があったそうである。
●松田東英(寛政元年〜弘化四年十月二十五日)
 埴生村河内屋伊兵衛の次男で、京や長崎で蘭方医の修行をし、杉田立卿に入門、文化五年金沢町医者で眼科の松田東英の娘婿になり名を就、字を将卿、号を芹斎とした。養父は同十二年に藩士寺西蔵人の医者になり、自身は同十四年に二代目を名乗る。文政七年著名な蘭方医で藩医吉田長淑の門人になり、天保頃には反射レンズの原理で望遠鏡や顕微鏡を作って寺西秀周や前田斉泰へも献上した。同十二年五十石を得て、大野弁吉とも交流を持ち、次女は銭屋五兵衛の次男に嫁ぐ。
●洲崎勇造
 天保十三年に井波町で生まれる。安政五年三月京で産科の松岡周輔に入門し、西洋医学各科を学んだ。文久元年十一月に帰郷し開業、その後、明治八年七月から十年十一月にかけ京の松岡周吉を招いて研究を深め、十三年十一月医会を組織し医事交聞会を創設、二十年十月には井波病院を開いた。子息の勇橘は慶応二年十一月に生まれ、冨山で開院している。
●西井俊造忠(文化九年〜明治二十八年二月、字快安、号三谷)
 大聖寺藩士山口良太夫の子息に生まれ、医者の西井家へ養子に入る。岐阜の明善院で眼科、京の小石元瑞から蘭方を学んで、福井藩医に就任したものの致仕し、氷見で開院して医業に励んだ。弘化二年に再度上京して元瑞に教えを請い、嘉永三年には長崎から黒川良安へ受け継がれた人種痘法による痘苗を用い種痘を行う。また漢詩に優れ、明治十二年致誠小学校初代校長に就任した。
●高野家
氷見で代々元礼を襲名する医者で、文化十三年八月十日生まれで安政五年八月十七日に家督を嗣いだ元礼は、江戸に留学し、坪井信道に学ぶ。安政七年(万延元年)三月三日に起こった桜田門外の変では、負傷者の救護にあたっている。その後宇波に帰って医業に尽力し、明治二十八年三月二十五日に没。子息定行(天保十四年八月二十一日〜大正十二年十月十六日)は、医者でありながら、山の小学校初代校長として活躍している。
●林勘三郎(文化十年〜明治十二年五月十九日、号暁峯、別名篁) 
 堀岡新村に生まれ、大聖寺藩儒坂井梅崖に学んだ後、江戸で詩を菊地五山に学び、医を志し長崎で修学して帰郷、外科として医療に努める。玉子の白水で消毒し、蘭医学や漢籍の本を多く集めたというが、現在散逸してしまった。砺波郡高木村で没するが、酒好きが祟ったといわれた。長男右内は医者で詩人、次男秀二は小学校教員、射水郡役所勤務。
●石川俊斉(天保二年〜明治十七(別二十)年二月、名は興学・子亮、号華陵)
 専光寺村に生まれ、父が没し、十七歳で京に遊学、頼支峰に漢学、二十五歳で長崎で蘭学を学ぶ。三十三歳で帰国して、高岡の町医者松田三知の養子になった。しかし病気になり帰郷し、癒えた後に再び開業し、明治六年に新川郡医務取締に就任する。本郷高月町へ転居し、その後富山市柳町へ移った。
●内藤家
 放生津で代々町医者(高岡の内藤家や加賀藩医内藤家は分家)を務めていたが、六代目の立斎は長崎で蘭方を学び、加賀藩医に就任した。その子息欽二(嘉永二年〜大正十五年)は高岡の待賢室に学んだ後、明治六年四月二十五日に迎翠堂へ入学して医を学んた。泉田又右衛門や山本瑞圓と共に教育にも励み、その後越中自由民権運動に参画して稲垣示の同志として活躍した。
●前田良策
 文政三年氷見胡桃原村に生まれ、天保十二年三月から嘉永元年十二月まで高岡の高峰玄台に内科と種痘術を学び、江戸で坪内信良に眼科を学ぶ。更に広島で研鑚し、帰郷して嘉永五年に中村で開業した。種痘の普及に努め、明治十三年泉村に移る。子息良斉(嘉永三年〜昭和二年)は中村大橋に開業した。
●石川家
 祖は南朝遺臣。小杉小白石の石川芳昌子息昌嘉(宝暦二年〜安永七年三月十四日)は、兄が旗本牧家へ養子に入ったため家を継ぎ、加賀藩医の中村正白興孝に医術を学んだ。嗣いだ子息弥平豊一は天明五年六月十二日に江戸で学ぶため旅立つが行方不明になってしまう。そこで弟の昌純(安永二年〜文化九年七月九日)が家を継ぐため興孝に学び、養子の話を断わり帰郷して御郡方医師となった。長男芳蔵が出家して武蔵国神岡仁崇院住職となったため、弟の良逸(寛政四年〜嘉永二年四月十四日、号斎、春生堂)が父の親友の横井自伯に医を学び、更に上京して奥道逸法橋に入門する。また賀川家にも学んで大坂で開院するが、文政四年に紀伊春林軒で学び直す。文政五年に帰郷し医業に励んだ。門下には冨山の井本元貞や高岡の堀井勝二等がいる。
 子息一秀(文政九年〜明治九年一月二十五日、号格致軒、玉孤)と乾昌徹(天保七年七月二十五日〜明治二十一年八月二十八日、号五柳園主碧波、丸々坊)は共に加賀藩医筆頭森快安徳に学び、近畿や江戸へも留学して、帰郷後は兄が往診、弟が外来と分担して患者を診た。兄は良元を称し、藩校明倫堂医学試業御用も務め、嘉永三年内経素間陰陽応象大論を講じている。乾はオランダ語を診療の合間に勉強し、また囲碁・茶の湯・宝生流謡曲・俳諧・漢詩にも通じていた。白石小学校の創設にも尽力し、明治十二年からコレラの無料診療も行っている。五男日出鶴丸(明治十一年〜昭和二十二年)は生理学者として知られている。
●松本(黒川)玄龍
 祖は飛騨国松本村黒川治兵衛(屋号松本屋、正徳三年十月没)で、現在の中新川郡山加積村を開墾して黒川村と名付けた。四代治兵衛(文政六年十二月没)の長男治兵衛は苗字を松本に改め、三男玄龍(玄達、元達、号遊翁)は医者を志す。まず上市村町医山田玄東に、次いで千垣の漢方医幾島にも学び、文政七年四月に滑川大榎村で開業した。しかし知識の不足を感じ同十一年三月一念発起して田畑屋敷を売り払い、長男良安を除く子供達を親戚に託して、妻と三人で長崎へ留学する。三十九歳の時であった。父子共に吉雄権之助にオランダ語を学び、シーボルトにも就くが、折しもシーボルト事件が発生し、疲れた権之助は天保二年五月に急死してしまう。しかし更に学び続けた後、同五年二月良安を親友高島秋帆等に委ねて夫妻で帰郷した。大榎村で開業した後に富山へ移り、柳町や旅篭町で長崎玄龍として医業に励み、弘化元年前田利保より御目見医者・公事場附を命じられた。同三年隠居して金沢に移住し、遊翁と号す。安政五年六月十六日六十九歳で没した。
●華岡修斎
 祖は椎名家の家臣で、代々山廻役を務める石坂家の嫡男に生まれたが、二十歳代で家を出て、長崎でシーボルトに学んだという。加賀藩の駕籠医を経て冨山や入善で開院したが、一所にはいられず出奔、しかたがなく金川七郎左衛門次男の嘉右衛門が娘婿として入った。
●臼井典膳
 小森桃塢に学び、天保末年に富山へ移住し、荒町で医院を開くが、振るわなかったという。ただし専門の蘭方医は珍しく、門弟は多く抱え、その中の奥津里庵と弘中自貞は藩医として、支那訳蘭方医書を研究していた。また「カミツレ」「セメンシーナ」「キナキナ」等の薬名を使っている。安政頃六十余で没。
カミツレ matricaira chamomilla キク科、防腐・駆虫作用があり、頭髪の手入れにも用いた。
セメンシーナ semen-contra キク科ヨモギ属、駆虫作用がある。
キナキナ quinaquina アカネ科、アンデス原産で解熱作用がある。
●高桑元吉(号金龍、雲峰)
 祖は志摩国鳥羽にいたが、富山に移住して茶舗稲垣喜兵衛に雇われる。後年独立して鳥羽屋を屋号に茶を商った。父の平兵衛(後に壽平、号天淵、菊陀)は和歌や水墨梅花を能くし、京へも遊学していたそうである。また父祖以来献金した功で藩主前田利保に士籍入りを認められた(四十俵)。その子息が元吉で、九州に赴き亀井昭陽や帆足萬里に就き、長崎では蘭学を吸収する。その際に坂本龍馬とも知り合い、開国の急を感じたのだという。帰郷してからは殿町で医塾を開き、水薬を用いた。慶応頃に藩命で長崎に行きロレロから武器を買い付けたものの、藩がこれを認めず江戸藩邸で服毒したという話があるが、事実からは相当離れているように思われる。
●岩城家
 祖は隆平治部大夫中条彦次郎で、上杉家の侍医を務めていた。孫の英信(号慶安)は越後国高田藩医でしたが、次の道常の時に主君で徳川家康の孫松平光長が改易となって、伊予国松山へお預けになってしまう(延宝九年七月)。これを契機に富山藩へ移ったようで、五年後の貞享三年の侍帳には岩城仙庵とある。同一人物であろうか。元禄三年には六十六歳で五十人扶持でした。次の常隆(号慶庵)は致仕し滑川に居住する。孫の隆春の時には子息と思われる寛信(号玄瑞)が宝暦三年一月十三日に東水橋に招かれ、分家した。天明四年五月六日没。子息の隆則(号宗寿、玄瑞)は文化元年十二月一日に三十三歳で没し、正則(寛政七年一月十五日〜安政元年十二月、号硯寿、宗寿)が跡を継いた。文化八年に上京して古方医の吉益南涯に学び、同十三年に帰郷して地域医療に尽くす。家伝の妙薬に「薬王樹」がある。弟の嘉寛(号猷輔、硯寿、玄寿、子誠)は享和三年に生まれて文政四年八月に春林軒に学び、一旦帰郷の後嘉永七年七月二十七日に師の華岡青洲没後教授役として赴いたそうである。なお、高岡に移った高峰家とは血縁関係にある可能性がある。
●亀谷龍二(かめがい、嘉永二年〜昭和十五年一月二十七日、号寛・守拙・三杉道人)
 冨山の岡田呉陽に学び、十八歳で代師範を勤めたほどの秀才で、昌平黌で三年間学びながら、蘭方や漢学を身につける。病気で帰郷を余儀なくされたが、無料施薬や寺子屋を開く等地元に貢献し、明治維新後に私立の小学校、漢学塾研精書院を開くなどした。
●城川哲周
 七代目が東水橋に開院し、以後医者を代々務めた。金沢で蘭方と漢方を学び、子息の哲周は富山で蘭方と漢方を学ぶ。冨山藩から誘われるが断り帰郷した。その子息は良哲で、冨山の佐伯慎蔵に学んだ後、明治元年に金沢で黒川良安、翌年卯辰山の養生所で津田淳三に就く。
【北越へ出兵した富山藩蘭方医】
 富山藩の藩医には蘭方医(洋方医)が多く、藩政末期には主流を形成していた。京で究理堂や読書室に学んだ岡田瑞泉、天保四年春林軒に入門した井口寿安(天保九年分限帳で十人扶持本道)と高野順恭(賢順、同十人扶持小児医本道兼)等である。慶応四年北越出兵者の中にも参陣している。翌明治二年九月に金沢より高峰精一を招き、富山藩西洋医学校を設立した。担当した藩医は弘中高庵、高野順庵(本道・漢方)、大内弘麿、廣瀬榮山、赤祖父昌斎、織田壽三(代々御鍼)、織田秀教、織田秀立、吉田三重等である。また漢方医を解任し、一等・二等士族無役にした。十月に常備隊を組織した際には医者組以上の無役で青龍・朱雀両隊を編成する。
 富山藩の蘭方医の初めは、延宝三年幕府医法眼西玄甫にある。オランダ語に通じ、外科を専門としていた。この時の藩主は二代目前田正甫である。蘭方に関心を持ち、西の高弟杏一洞と茂野一庵を招いた。杏一洞は長崎に生まれ、延宝頃に藩に召し出される。五十人扶持・乗物料十両その上に両親へ二十人扶持という破格の好待遇を与えられた。従兄である村田小左衛門の子林子を婿養子にする。元禄十四年八月に没し、林子は二十人扶持(後に三十人扶持)を相続し代々医者を継承、実子景高(号白翁)は十人扶持で儒者となった。茂野一庵(旧林)は一洞と同門で、天保元年に招かれる。外科・四十五人扶持で、元禄三年には四十三歳である。以降各家について見てみよう。
●杏家
 前出林子は養父の弟一貞橘仙を養子にし継承させ、その後に生まれた一得を養子に出す。一仙は養父の代番を務めた後享保九年七月家督相続、二百石に昇格する。寛保二年没。実子一貞橘英は百二十石を相続し、明和九年没。実子一洞橘茂は安永二年に相続し、飛騨出動二番手に入っている。文化三年六月実子一山橘良へ家督を譲った。一山は実子が病弱なため弟岩蔵を養子とし、これが一洞秀春で同十一年八月相続したが、兄の遺児一貞を養子にし跡を継がせた。文政十年に相続している。
●赤祖父家
 祖先は平安期の官人赤染時用で、その子孫が赤祖父姓を名乗って越後国三条で守護に任じられる。戦国期に越中国に移住し、竹島や牛丸といった家臣と奥田荘に帰農した。寛永末頃に初代伝兵衛が加賀藩の十村に任じられ、万治三年富山藩領に組み込まれた際も引き続き任じられる。天明二年、八年、明和五年には御扶持人に昇格する。この分家が新川郡米田村(現在は富山市)の牛松家で、三代目の四男が義正(号昌斎、天保元年十二月〜明治二十三年八月十三日)で、富山殿町の高桑元吉に蘭学と医学を学び、安政四年大坂の適塾に入門した。慶応元年富山藩の命で長崎に留学し、精得館に入ってオランダ医者ボードインより学んで、同四年五月に富山藩医として長岡まで従軍する(六番隊)。明治二年九月には富山藩西洋医学所で教え、廃藩後に富山古鍛冶町に開業した。九年公立金沢病院富山分院(後の石川県富山病院)医員に就任し、種痘施行に功績をあげる。なお子息龍太郎は高岡で開業している。
精得館 養生所を改名、ポンペ・フォン・メールデルフォールト(一八二九〜一九〇八)が担当。
●高野家
 初代の惇庵は飛騨高原郷の郷士で、豊臣家に仕えていたが、主家の滅亡後に富山へ避難し、医院を開いた。妻も医者である。四代目順庵の時に城中へ出仕し、五代目邦俊(邦教)は御典医に就任するが、参勤の途次親不知で乗篭とも浪にさらわれてしまう。九代目常昌の弟順作は長崎へ留学し蘭方を学んだ。十代目常済は前田利保の小児保育を担当している。 
●弘中家
 初代養栄重勝は松平筑前守家来弘中藤右衛門の次男で、医者を志し長崎で外科修業中の元禄八年富山藩への就職が決まる。二百石扶持の上に御薬種料金十両という好待遇であった。享保十八年八月没。養子が自軒重遠で、柴垣源助の三男。享保十六年養父の代番を務める。明和三年九月に没。実子が養栄重則で、相続時には幼少のため十五人扶持のみ、その後も二十人扶持にしか回復しなかった。病気がちで文化十年に隠居し、文政十一年六月に没。養子が浅井道壽次男自軒重義で、文化五年十二月に養父の代番を務め蝦夷出張準備に当たる。文政十三年十月に没。実子が重巽で、その跡が自貞こと第一郎弘斉である。天保二年正月に相続し、同五年六月に本道兼帯。小森桃塢に学び、慶応四年五十八歳の時に北越へ一番御先手で出兵した。翌年明治二年には西洋医学校設置に参画する。子息が文人大内白月である。
●廣瀬榮山敏篤
 安政七年には三十二歳で、七人扶持外科本道兼ねている。北越へは二番手御先手で出兵した。 
●村山家
 祖の村山意慶は揖帯刀の子息で越前に住み、小松に召し出され慶安四年四月五十石を得るが、一時致仕して江戸へ出て、寛文十一年に帰参二百石を受けた。延宝八年没。子息意俊は百石、次の春意は六十石、そして曾孫の意春実正は享保十八年八月六十石で医者になっています。延享三年十月に百石へ加増され、安永五年十月に没。以後代々医者を嗣ぎ、意徳実許は百石で天明二年十二月没。意慶実友は八十石本道で寛政三年四月没。養子意春実断は幼少のため九人扶持のみで、天保四年四月没。意徳実明は九人扶持、意慶実明は安政七年には三十歳で外科・本道とあり、北越へは三番御先手で出陣した。
●山本家
 初代山本養貞は長崎に生まれ、筑前国医者鷹取養巳に学んで、元禄八年外科として富山へ移住する。享保六年没。養子が町医者堀道得の次男で養琢正治である。享保十年一月二十二日に富山藩より二十人扶持の外科として招かれた。元文三年没したため、甥にあたる堀平助子息養琢正綱が養子になるが寛保三年に没し、正治の子養貞世周が嗣いだ。まだ幼少のため七人扶持であったが、明和四年二月五日に藩医として十五人扶持を受ける。安永二年高山で百姓騒動が勃発し、鎮圧のために出動した。享和三年正月に隠居し、実子佑琢篤が家督を相続します。すでに寛政十年二月父の代番で参勤の御供に従い、文化五年十二月には蝦夷への出動準備に当たる。その子息が養質で天保六年に父の代番を勤める。安政七年には五十七歳で養琢を称した。北越へ御馬廻で出動した養豫と同一人物であると思われる。
●松本祐専
 富山藩医で藩のエリート部隊新調組に参画し、四十一歳の時に北越へ出兵した。
●堀家
 祖は柳田権右衛門で、二十五俵の御徒歩組として前田正甫に従い江戸へ行くが、宝永頃に致仕した。その子が平輔で、母方の姓を継ぎ医者になる。以後代々町医者として活動し、養説は京の伊良古将監に外科を学んた。子息の禮蔵は長崎で吉雄献作に学んで、天保三年十二月藩医に任じられる(十八俵外科)。玄達信直は慶応四年五月北越へ三番隊で出動した。
●西野家
 富山町の志甫屋喜右衛門次男は医者を志し、文政三年十一月華岡青洲に学んで分家した。春林軒では塾頭を務めたそうで、西野大aと称した。娘鶴の婿養子に入ったのが射水郡下村佐伯惣三郎次男の祐で、必然として医者になるため嘉永三年に華岡青洲の元へ入門した。了a時亮と名乗り義父の没後に藩医になる。慶応四年五月には北越へ四番隊で出陣している。廃藩後は外科・産科を専門としたが、明治十二年九月七日コレラで没した。
●放石荘安安義
 加賀藩医から富山藩医に転じ、嘉永六年富山梅沢町大法寺で行われた薬品会にも出品している。門弟に城川良哲等がいた。慶応四年五月三十七歳の時に北越へ五番隊で出兵したが、六月二十二日福島村で任務遂行中従卒藤次郎ととも戦死し、富山県初の靖国神社合祀者となった。
●須加家
 須加源五左衛門三男の三琢は医者になり、寛政頃に富山へ来る。享和元年に藩の御出入になり、同三年七月中奥御産方、文化五年八月五人扶持を給され、文政二年十二月に七人扶持で正式雇用された。天保二年一月二十日没。子息三順は浅草御屋敷に御産方として勤務し、天保八年四月富山へ引越す。三琢は江戸詰めで安政二年には七人扶持本道であった。正健忠隻は五人扶持外科で、明治元年十月に五十三歳で長岡へ出陣する。大房善太左衛門隊に属していた。子息の忠愛は富山の総曲輪に医院を開いたむ。
●横地家
 横地才記秀証は学問を能くし、天明元年閏五月二十五日廣徳館の助教役、同四年六月十九日中坊主組に属し、寛政二年八月四日廣徳館監生役を務め、同七年二月三日与外組格で五人扶持本道に就任する。ここから医者としての経歴が始まり、同八年十人扶持御匙加役へ進む。同十二年十一月九日没。すでに弟を継承者に指名してあり正沢重惇となるが、医療未熟と自分で言うくらいで、医者としてより六人扶持中屋敷番や本丸番を務めている。元丈重一は文政元年に生まれ、長じて本道藩医に就任した。嘉永三年に隠居前田利保の命で江戸へ種痘研究に赴いた(福井説もある)。この頃ジェンナー牛痘法が清より伝わっていた。そこで福井藩医の笠原良策は厚意で富山へ分苗し、これを元丈が親友の須川義続の長子菊子と長子成秀の両腕に接種して成功し、以後全ての幼児に接種することとされた。門弟には下村の広瀬文哲等がいる。明治元年十月には北越へも出陣した。養子が西野了aの次男一則で、八年に新川県種痘医に就任している。

笠原良策(文化六年〜明治十三年八月二十三日、字子馬、号白翁) 越前国足羽郡深見村の医者笠原竜斎の子に生まれ、江戸の磯野公道に古医方を学んで帰郷する。改めて上京し、日野鼎哉に蘭学と蘭方医を学んだ。藩主松平慶永に建言し、種痘の苗を移入することを企図する。嘉永二年に長崎から取り寄せ、除痘館を設立した。金沢や富山にも分苗している。著作には『牛痘問答』『牛痘鑑法』がある。維新後は東京へ移住した。 
posted by ettyuutoyama at 18:18| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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