2009年06月08日

参考文献

富山県史 通史編V・W、史料編X
高岡史料 上・下巻 高岡市 明治四十二年
高岡市史 中巻 高岡市 昭和三十八年
戸出史料 戸出村 大正八年
戸出町史 戸出町史編纂委員会 昭和四十七年
氷見市史 氷見市史編集委員会 昭和三十八年
氷見市史2 通史編 平成十八年
小矢部市史 下巻 小矢部市史編集委員会 昭和四十六年
出町史資料 砺波市立図書館
福野町史 福野町役場 昭和四十九年
福光町史 福光町役場 昭和四十六年
小杉町史 小杉町史編纂委員会 昭和三十四年
富山市史 富山市 明治四十二年
立山町史 上巻 立山町 昭和五十年
加賀藩史料 第拾壱篇 昭和十二年
新修泉佐野市史 第六巻史料編・近世T
本願寺史 第二巻 本願寺史料研究所 昭和四十三年
町吟味所御触留 桂書房 平成四年
越中から富山へ 高井進 山川出版 平成十年
高岡詩話 津島北渓
越中の人物 奥田淳爾・米田寛 巧言出版 昭和五十三年
越中の文学と風土 廣瀬誠 平成十年
冨山の文学碑と昔ばなし 森清松 昭和五十八年
大伴家持と越中万葉の世界 高岡市 雄山閣 昭和五十九年
富山市の文学碑と拓本 富山いしぶみ研究会 桂書房 平成七年
寺島蔵人と加賀藩政 長山直治 桂書房 平成十五年
石門心學提要 柴田寅三郎 心學脩正舎 大正十五年
石門心学者の子育て論 小嶋秀夫
三則説教幼童手引書 柴田遊翁 明治六年
藩財政改革家石田小右衛門研究のあゆみ 林 基
憚悟爐文庫目録 中川すがね 平成四年
加賀藩における海保青陵と本多利明 長山道治 石川県立金沢錦丘高等学校『紀要』第15号
本多利明 塚谷晃弘
地方官僚と儒者の経済思想 田中喜男 日本経済評論社 平成十三年
上田作之丞に於ける師道の研究 毎田周一 昭和十三年
『霊の真柱』以後における平田篤胤の思想について 田原嗣郎
伴信友の学問と『長等の山風』 佐伯有清・関 晃
大国隆正の学問と思想 芳賀登
幕末変革期における国学者の運動と論理 芳賀登
幕末国学の思想史的意義 松本三之介
五十嵐篤好全 稲垣湊 昭和十六年
贈従五位五十嵐篤好翁事歴 昭和六年
五十嵐篤好その和歌と人生 『秋桜』第11号 平成六年三月
海商能登屋藤井家五代之記 正和勝之進 平成八年
老の路種 上田耕 昭和十一年
越中ばんどり騒動 玉川信明 日本経済評論社 昭和六十年
佐藤信淵 嶋崎隆夫
水戸学の背景 瀬谷義彦
半佛先生遺稿 保田定貫 明治二十五年
中嶋棕隠と越中 書香会 昭和七年
越中の聖跡と越中に来た先哲の跡 飛見丈繁 昭和二十年
雲龍山勝興寺系譜 荻原樸 明治二十七年
勝興寺沿革史
近世北陸農業史 昭和六十二年
日本農業全集19 平成九年
農政全集 五十嵐篤好 昭和二年
日本思想体系 岩波書店 
日本の名著 中央公論社
近世漢學者著述目録大成 関儀一郎・義直 東洋図書刊行会 昭和十六年
越佐名家著述目録 新潟県立図書館 昭和四年
日本漢文学大事典 近藤春雄 明治書院 昭和六十年
新釈漢文体系 明治書院 昭和五十年
應響雑記 上・下 田中屋権右衛門 桂書房 昭和六十三年
藩法集4・6 創文社 昭和三十八・四十年 
富山藩士由緒書 桂書房 昭和六十三年
三百藩家臣人名事典 第三巻 新人物往来社 昭和六十三年
日本人名大事典 平凡社
富山大百科事典 北日本新聞社 平成六年
書府太郎 上巻 北國新聞社 平成十六年 
加能郷土辞彙 日置謙 昭和十七年
角川日本姓氏歴史人物大辞典 角川書店
明治維新人名辞典 吉川弘文館 昭和五十六年
国史大辞典 吉川弘文館
日本史大事典 平凡社
日本歴史大辞典 河出書房新社
その他、拙書や富山県立図書館等を活用する。http://plazasv001.tkc.pref.toyama.jp/index.html


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第六章 浄土真宗の異安心と門徒

一、本願寺派の三業惑乱
発端 本願寺八世蓮如の「御文書」に「こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて」「弥陀如来今度の後生をたすけたまへとふかくたのみ申さん人は」とある。この「たのむ」という語の意味を巡り、本願寺派内に留まらず全国の信徒を二分する争論が勃発した。これに深く関わったのが越中国の寺院である。
 七代能化職(学林の総長)の智洞は「たのむ」を弥陀の救いを希って求める「祈願請求の欲生」とし、身(体)・口・意(心)の三つの行為(三業)をそろえて頼むのが本則であると論じた(三業帰命説)。これを学林派・三業派・新義派という。一方、安芸国の大瀛と河内国堺の道隠(堺空華)は、「たのむ」と「信ずる」は同じことであり、弥陀の願いを間違いないと信じて頼りにすることを言っているのである(「帰依信順の信楽」)。三業をそろえて頼むのは「自力」の所業であり他力往生の本義に反する(一念帰命説)、と断じた。これを在野派・聞信派・古義派という。
 三業の説は二代能化職知空、五代能化職の義教(氷見町円満寺、元禄七年〜明和五年)や学友の芳山(氷見町西光寺、元禄十一年〜安永四年二月二十三日)が唱え(『閲寮壁聞』)、宝暦十二年六代能化職の功存は『願生帰命弁』を著して提唱した。これを寛政九年に七代能化職智洞は本願寺派全体に広めようとする。
越中国門徒を二分 氷見の西光寺には芳山が宗学塾の尺伸堂を設立し、義教の門人も預り大勢力を形成していた。十世義霜(宝暦十年〜天保三年)の頃には、射水郡と砺波郡から多くの入門者があった。越中真宗本願寺派の録所である古国府の勝興寺では住職の闡郁(宝暦八年一月十三日〜天保二年九月二十九日)が三業説を唱え、越中国の西半分は三業説一色となる。一方、新川郡浦山村の善功寺では住職の僧鎔(享保七年〜天明三年)が宗学塾の空華廬を創設し、古義派の学説を展開した。新川郡・射水郡からの入門者が多く、その結果越中の本願寺派門徒は東西で二分されるに至った。
幕府の裁定 本願寺では両派の抗争が激化し、法主の本如が若年で宗門の指示は朝令暮改で混乱を極め、全国でも両派が争う。ついには京で暴動・流血の事態を招き、幕府としては静観し得なくなった。享和三年四月京都二条城で京都所司代は大瀛・道隠と智洞に討論させ、更に文化元年両派と本願寺役人、越中国からも闡郁と義霜を江戸に召喚し、寺社奉行所で討論させた。寺社奉行は龍野藩主脇坂中務大輔安董で、この時の手腕が認められ、天保八年に老中になる。
 幕府は文化二年四月に本願寺本如の親書を宗意安心の基準とさせ、智洞等の学林派に回心状を提出させたが、足掛け四年にもわたる取調で智洞・大瀛を含む十人以上の病死者がでる大事件になり、同三年七月に天下を騒がせたとして両派関係者の処罰が下る。智洞は八丈島へ遠島になるがその前に病没、道隠は退隠、義霜は僧籍剥奪の上で越中・江戸・京・大坂への出入りを禁止、本願寺には百日間の閉門、勝興寺には三十日間の閉門であった。
 義霜は仏法を崇拝する心から生ずる帰命の一念なら、その心が身・口に顕れるのは当然である、主張し回心せず、再度入獄を余儀なくされ、天保二年に獄死する。
 能化職は文化四年に廃止し、文政七年に任期一年の勧学職を置いた。
越中国内の動揺 本願寺派の越中国内門徒(加賀藩領)は、藩が把握している数で八万人である。闡郁は本如の叔父である。闡郁に従っていた越中・能登の門徒に動揺が走り、加賀藩は越後との国境を厳重に固めた。文化三年一月八日に越中国の門徒は金沢へ向け出発する。闡郁の釈放・帰国の仲介を藩に求め、自らも江戸へ赴き出願するために関所通行手形を下付してもらうためであった。その数、九日に千六百人、十一日に一万六千人、風聞では二・三万人に膨れ上がる。金沢では照円寺等の寺々に分宿し、酒は一滴も口にせず、食糧は平等に分配し、畳障子に傷一つ付けなかったと言う。加賀藩では前田斉広が参勤のため不在で、早飛脚をもって江戸へ急報する。その内容は闡郁を帰郷させるように取り扱うのが一番であるが、門徒の出方によっては鉄砲の使用もやむを得ないと考えるというものであり、奥村左京はまず穏便に対応して帰郷させるようにし、やむを得ぬ場合の備えはしておくよう回答する。直ちに派遣された横目足軽山村直右衛門の説得で、門徒達は十二日昼九ッまでに越中へ帰った。二月十二日に藩は門徒に向け願書は確かに藩主へ渡したことを伝達する。江戸藩邸では闡郁の救済に全力をあげていた。
 同二年四月二十六日に智洞が回心状を提出したため、新義派の邇遠等は江戸で土井大炊・牧野備前守に駕訴し、所司代預かりとなって帰郷する。小久米村など氷見各地では藩や西方仲間御同行衆中に宛てて、在来の安心を継続しないと子々孫々の極楽往生がふさがれてしまう、と嘆願書を提出する。高岡町では専福寺や広済寺等が新義派、称念寺の順珍等が古義派に属し、町奉行の荒木五左衛門と寺島蔵人は、文化三年一月二十日に町役人へ門徒への申諭を命じた。富山藩でも同二年十二月十三日に町奉行より本願寺や江戸へ行くことを禁じる達しがある。
 本願寺では十一月に本如が三業帰命は誤りであると「御裁断書」で明示し、全国へ使僧を派遣し転向を求める。しかし七月七日に氷見の門徒多数が勝興寺に集まってこれに抵抗し、翌月射水郡加納・七分一・柿谷村等三十三ヶ村の村役人が連名で、十村に宛て使僧の越中下向延期を願い出た。使僧が入国できたのは、同十四年五月になってからであった。
二、大谷派の頓成事件 
発端 本願寺派の騒動を静観していた大谷派にも教義を巡る争いが勃発する。能登国羽咋赤崎村長光寺に生まれた頓成(寛政七年〜明治二十一年)は新川郡上市稗田村円満寺の霊暀(安永四年〜嘉永四年、宗学塾の洗心寮を設立)に師事し、京の高倉学寮で学ぶ。信心の性格について「機」(衆生)と「法」(阿弥陀仏)の二種の深信心がある。救われがたい身であると深く信じ、そのような自分を阿弥陀仏は必ず救ってくれると深く信じることであるが、頓成は、自己を反省してわが身は根機つたなく永久に苦海を脱することが出来ない、と深く信ずる(機の深心)ことは自力であり他力安心ではない、と主張する(二種深信)。本山の学寮では、天保十二年以来澄玄による取調が数度あり、頓成は回心状を提出するものの、嘉永三年に澄玄を不正義と断じて、本山での討論を求めた結果、澄玄は退隠・閉門に追い込まれる。憤慨した学寮の学生は京都所司代に訴えたため、事は公になる。幕府では江戸に関係者を呼んで訊問し、本山に頓成の再審査を命じ、訴願者を処罰した。審理の結果、同五年頓成は主張を異議とされ、法主厳如が説諭するが回心せず、ついに幕府から江戸で百日の牢入りの後、豊前国四日市への流刑が申し渡される。
 明治維新に伴う大赦令で帰郷するが回心せず、明治七年破門になる。しかし自説は曲げず、ただ称名すれば救われると自ら思って称名に励むのは自力であるが、日頃の信仰生活の中で、口と心は自ら一つであり、自ら励む思いを成さずに、ただ称名念仏していれば、これが往生の正因である(口称正因の説)と、明治十二年に説き、本山から改めて破門された。
越中国内への波及 頓成は井波町に住んでいたこともあり、また明治八年四月から一ヶ月間立山町千垣の祐教寺に滞在していたため、井波・福光・福野・氷見・中新川に支援者が多かった。特に井波の量明、中新川の皇覚や法民、氷見町常願寺の松谷無障、赤毛西念寺の鶴松東鳳、仏生寺広西寺の小谷重玄などは門人である。一方でこの説に反対する門徒は砺波郡に多く、感情的な縺れを生んだ。
 加賀藩では慶応元年に益善寺等の訴えがあり、西念寺に法話の差し止めを命じるが止めず、翌年に奉行所から召喚される。
三、大谷派と日蓮宗の宗論
天保十年四月に氷見では浄土真宗大谷派の空観と日蓮宗の日鑑が宗論をした。
 空観は尾張国養源寺の住職で、安政四年に本山の学寮で寮司になる。明治二十二年に寂。日鑑(号・通義・遊方・如猿、通称・永称院)は越前国の出身で、下総国の本円寺・武蔵国の本栄寺・和泉国の妙満寺、そして冨山の正顕寺等に移り住んだ。
 この両者の宗論は教義の内容以上に関心を呼び、同十二年に真宗の霊城は日鑑と権実の異目を論じた。
権実二教 仮の方便説と真実にして究極の教え。権教は人々を真実に導くための方便として設けられ、仏の悟りのままを打ち明けた根本的な教えに至れば廃される。
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第五章 後期儒学と尊王論の普及

一、儒学の普及
 越中国内では寺子屋で四書五経を書いて諳んじ、私塾や郷学で古人の言行録や漢詩文、及び『史記』や頼山陽の史論に親しみ、地域によっては陽明学を学んでいた。
 井波町では、安政頃に金沢から田川才助が寄留して漢籍を講じる。医者とも浪人とも記され、藩に度々上書し、海保青陵の著書を薦めた。慶応頃には瑞泉寺十八世勝智(号・應正院)の招きで、小川元永(号・大夢)が漢籍と歴史を講義した。美濃国原見郡佐波村の観音寺住職で儒学に詳しかった。
 氷見町では、文政十年と翌年にかけ度々富山から藩医で儒学に造詣の深い岡田瑞仙(随筌)が来て、『論語』『蒙求』『孔子家語』の講釈を順次行った。同時期に同じく富山藩の成田梅甫(号・照翁)が縷々来訪したため、町人は漢文の読みを質問していた。天保六年五月二十九日に医者の大井玄洞が久保屋六三郎宅で素読講釈し、同十年十二月二十三日に富山から広徳館の佐伯健蔵と備後国儒者宮原龍(字・子淵、号・栗邨)が来て詩を調筆する。同十四年九月一日京から仁科白谷(名・幹、字・礼宗、亀田鵬斉の養子)が来た。安政四年十月に習学所を本川町宮の側風雅堂の跡に建て、金沢より織田左近家来渡辺六郎の兄で朱子学を学んだ渡辺竜之介(号・清軒) を家付きで招致した。落成式では孔子の聖像前に町人代表一同が供物・焼香している。翌五年一月十九日七ツ頃に三・四十人ほどで講釈を開始すると、学問の要や五倫の道等基本から始め、二月十九日には『論語』の「巧言令色」から「三省」まで進んでいる。その他にも富山や金沢などから儒者が来るたびに、町人たちは疑問点を質していた。
氷見習学所.BMP
 高岡町でも文化十一年に医者の長崎蓬洲と粟田佐久間が発案し、富山から儒学者でもある島林文吾(字・季華、号・雄山・林文、富山藩眼科医)を招いて、安乗寺で『孟子』や『唐詩選』を用いた勉強会を開く。町からは医者の子弟などが多く参加した。その他にも長崎蓬洲・後藤白雪・富田徳風が集い『春秋左氏伝』を会読する等、町内では儒学の旺盛な学習活動が見られる。
 修三堂では富田徳風が折橋甚助(号・雄山・清狂)の弟三郎(後に喜右三衛門、名・寛、号・桐陰)を娘婿にし堂内に住まわせ管理を任せる。堂で学ぶ者は百余人を数えたという。原松洲(本姓・大泉、名・簡、字・南史、号・優所、通称・清介、安永五年〜文政十二年十月十九日)も修三堂で講義する。祖は伊達家の出で、江戸の生まれ。学問のみならず武技にも優れ、丹波国福知山藩の朽木家に仕え越後国柏崎で開塾し、史学に長じていたという。『周易筆記』二巻等がある。修三堂の主宰には富田家出身の日下(茶木屋)庄三郎が就任するが、天保二年四月二十三日に没する頃には活動を停止する。
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 文政八年に町奉行大橋作之進(名・成之)や桑山玉山(梅染屋武兵衛次)が尽力し、谷内(白銀町)にあった詩亭養老軒(浄光庵)を取り壊した古材で敬業堂を建設し、十一月一日に富山藩広徳館の小塚外守(名・之則、号・南郊)を招き、町奉行が臨席して開堂式を挙行した。扁額は海保青陵に感化された八家の村井豊後守長世によるもので、翌年明楽(明代の音楽で京を中心に流行するが安永頃に衰退)の演奏家で煎茶人でもある八橋山通仙(名・方嵒、号・茶顛)を招いて二月に孔子を祭る演奏会を開いている。通仙には米屋亮蔵(新田節斎)等十数人が入門し、慶春楽を奏す。翌十年に高岡を発った。
DSCF0641.JPG     
 天保頃には高澤達(字・原夫・仙之助、号・菊礀)が度々来て漢詩を教えた。また中には大橋侗斎(鷲塚屋八左衛門、天明七年十二月〜万延元年五月)等のように、京で漢詩を村瀬栲亭や梅辻春樵に学んだ町人もいる。
『近思録』「道體」より
 宇宙の原理であらゆる事物の生成・存在・運動の根元である太極が動いて陽が生まれ、動が極点に達して静になり、再び動になる。太極は陰と陽に分かれて両儀が成立し、変化合一して火・水・木・金・土の五行を生じる。この気が順次排列して四季の移り変わりができる。
 五行は陰陽にまとまり、陰陽は太極にまとまる。太極は人の感覚で把握できないので無極である。五行は生まれてくると、それぞれに性格を異にする。無局という真実なものと、陰陽五行という純粋なものとが自然に混ざって凝り固まる。そこで乾・坤ができるのであるが、乾の道で男を作り、坤の道で女を作る。この男女の気がこもごも感じあって万物を生み出す。これ以後は万物が際限なく次々と生まれてくる。
 この中で人だけが男女二気の優れたものを受け、心の働きは最も霊妙である。人は形ができると、その心が活動して知の働きが起きる。心に備わる五行の性は外物に刺激されて動き、そこに善悪の区別が生じる。聖人とは中正(偏りの無い)仁義により、五行の動きや万事をきちんと定め、心の静かなことを第一とする。そこに人極(人の極到)が立ってくる。ゆえに聖人は天地と同じ徳を持ち、日月と同じ明るさを持ち、四時と同じ順序で進み、鬼神と同じように吉凶を示す。君子は中正仁義の道を修めて吉を得、小人は中正仁義の道に背いて凶を得る。
 したがって天の道を立てる時は陰と陽、地の道を立てる時は柔と剛、人の道を立てる時は仁と義を言う。また始めを原ね終わりに反るがゆえに、死生の話が分かる。
 誠には行為がなく、そのかすかな動きに善悪がある。徳は慈しむことを仁といい、事の宜しきに適うことを義といい、事の筋道を礼といい、事物の道理に通じることを智、道を守って違わぬことを信という。これらの徳を性として、それに安んじる人を聖といい、徳の本来の姿に戻り、それを失わないようにしてしっかり抑えておく人を賢という。発現の仕方が微妙で見ることが出来ず、隅々まで拡がって涯の窮められないものを神という。
二、皆川淇園の門人
皆川淇園の思想 皆川淇園(名・愿、字・伯恭、通称・文蔵、享保十九年十二月八日〜文化四年五月十六日)は、東福門院御殿医皆川春洞(名・成慶、号・白洲)の長男として京に生まれ、弟は富士谷家に養子へ行った成章である。伊藤錦里・三宅元献・大井蟻亭に学ぶ。
 これまで多くの儒者がそれぞれ自説を展開し、一派を形成してきたが、これは原典の読み方の違いによるものであり、もともとの古聖の意は一つである。字義・文理を明らかにすることで不動の訓詁を確立し、抱含する思想を解明すべきである。天地人の間に共通する神気が物に感じて心中に象を生じ、この象によって音声が生まれ、この音声の中に言葉の意義が存し、その言葉を文字にしたのが書である。言葉には古今用いられ方が異なるといえども、原理は万古一轍である。
 淇園は『易経』の研究を通じてこれを解明しようとし、富士谷成章に影響を与えた(高岡木町の鷲塚屋八左衛門こと大橋侗斎は成章門人)。丹波亀山藩や膳所藩等から招きがあり、平戸藩の松浦守清(号・静山)は寛政三年に入門している。柴野栗山(阿波藩儒者で幕府の寛政の学政を担当)や赤松滄洲(赤穂藩儒者)と三白社を結成して詩を吟じ、京に学問所を開設せんと企図し、享和三年幕府に建設地の給付を申請する。これは文化三年に平戸・宮津・膳所の諸藩が援助したことで成り、弘道館と命名する。経・史・文翰・国学の四科を備え、試験で卒業を認め、優秀者を教授に選んだ。
皆川淇園と越中国 門下に福野の上保吉左衛門(号・路麿・梅園・子遵)、高岡町の富田徳風や寺崎蛠洲(三木屋半左衛門)、富山藩広徳館祭酒の大野十郎(名・鼎、字・國寶、号・拙斎)等がいる。高岡町の修三堂掲額と時鐘の銘を草しただけではなく、実際に越中国を訪れ、寛政九年四月に魚津で蜃気楼を実見した。門人の多い高岡町にも立ち寄ったと思われる。

越中高岡新造報時鐘銘并序平安皆川愿撰并書
金沢候封内越中高岡本名関野自瑞龍公老後営兎裘為改今名其民屋敷千実為封内一大都先是天明二年春其宰寺嶋某以其未有報時鐘欲作之以恵民時請之桧公府既獲聴允未果会免職其事寝文化元年其孫寺嶋兢復来宰高岡以祖志之所在因與其同官荒木直哉相共謀之以其地傘匠街民及木街民舊有蒙恩卹賜宅地之故咨以其鎔鋳建造之事二氏喜奉其旨迺僉自乞為之宮之為貸費資不日而就既而其鐘生釁而聲嘶矣坂下街民有綿賈号鍋屋者卒出自傘匹街民之族心温其工敗奮任其事自請廨署更設冶場干梅山又募民戸銭既復督鋳再之而竟成其質純完聲又洪亮官吏歓欣民庶抃躍盖凡用銅五千六百二十五斤工千一百人十一人而畢云鐘口径三尺七寸唇厚六寸高五尺四寸併紐高六尺五寸重三千七百二十斤於是高岡庶閭正富田弘寺崎
一貫以其素為予門人馳書京師乞予為之銘銘日
良宰孝思  善継曽規   賢僚輔贊  致彼嘉咨    金木裼力  鋳建是孜
其功既就  恵同天施   一都衆庶  獲莫失時    茲勤厥績  徴之萬祀
文化三年丙寅三月既望

時鐘銘.BMP
 後藤白雪(名・璜・内記、号・菊亭・春秋園)は畑久平の弟で、越前国から大坂、京へ遊学し、後藤衡陽に就いて医者修行をし師の名をもらう一方で、皆川淇園に就いて儒学を学ぶ。高岡に戻って毎夜『水滸伝』の講じて七・八十人を集めた。なお子息の藤九郎は文政初年に情死している。
 三木屋寺崎蛠洲(名・一貫、字・孟恕・伯道、号・紫苑斎・鶯幽霊、宝暦十一年〜文政五年七月)は京で村瀬栲亭や皆川淇園に学び、詩や俳諧を能くし、軽快洒脱を身上とした。『狐の茶袋』編纂に努める。子息の敬孝(通称・二一郎・清作、号・女青)は儒学・地理学に詳しく、長崎浩斎も就いて学んだ。
宮永兄弟 淇園門下の三宅橘園(文景先生、名・邦、字・元興、号・威如斎・不知老斎、通称・又太郎、明和四年〜文政二年、石川郡松任の出身、十三歳で詩六百余首を成す)に学んだ砺波郡下川崎宮永正好の子息三人がいる。菽園(名・坦、字・叔蕩、通称・直三郎、寛政七年〜慶応三年)は三男に生まれ、十五歳で『礼記』を読了、文化十一年に京の橘園に学び、頼山陽と交遊する。大坂で古賀精里門人の篠崎小竹(天明元年〜嘉永四年)、江戸で佐藤一斉(安永元年〜安政六年、朱子学・陽明学を兼学し洋学にも造詣が深く海防を唱える)から影響を受けた。小竹の推挙で熊本藩大坂藩邸にて経学を講じた後、嘉永六年に帰郷、福光の前村礼蔵(通称・武右衛門、文化六年〜慶応二年、歌人・国学者の因幡国鹿野光輪寺向陽軒を招く)の懇請を容れ移住し、石黒氏城址の栖霞園で儒学を講じた。福光では大勢がここで学んでいる。
 五男の才五郎(名・虞臣、字・渕晦、号・半儒・半仏道人・大倉、寛政九年〜安政二年四月五日)は二十歳で橘園に学び、江戸で延岡藩や龍野藩に仕えるが、龍野の善定村大法寺で剃髪し、赤坂城址大倉山で庵を結ぶ。天保七年の飢饉の際には姫路で施行し、高野山で仏教と儒教を三年考究する。各地を廻り易を研究し、篠崎小竹の元に寓した。その後も全国を廻り、一橋家からの仕官も断って、弘化三年に美作国東南条郡野村で開塾する。嘉永二年に帰郷し金沢の竜造寺でも教え、安政二年四月五十九歳で没。その説く所は簡単明瞭である。善は必ずしも福ではなく禍は必ずしも淫ではない、などと言って善者を勧めず悪者を懲らしめないのは小人の心であるとし、善は必ず福を獲り、淫は必ず禍に遭うと断じた。
 六男の暘谷(名・寅、字・東作、通称・恒右衛門)は金沢で医者修行し、文化十三年橘園に入門した後江戸で医術を学び福光で開業する。親孝行者として藩から賞せられた。子息は良蔵(名・正純)。弘化三年に没。
三、廣瀬淡窓の門人
廣瀬淡窓の思想 廣瀬淡窓(通称・寅之助・求馬、名・簡・建、字・廉卿・子基、号・青渓・苓陽・遠思楼主人、天明二年四月十一日〜安政三年十一月一日)は豊後国日田郡豆田村に、代官所御用達貞恒(通称・三郎右衛門、号・長春庵桃秋)の長男に生まれ、父や長福寺法幢・椋野元俊・頓宮四極・松下筑陰等に学んだ後、寛政九年に筑前の徂徠門亀井南冥・昭陽父子に就くが、同十一年病で戻って養生する。文化二年に家督を弟の嘉貞(号・南陔)に譲り、長福寺学寮に開塾する。翌年八月借家で成章舎を開いた。月毎に門人へ試験を課し、その結果で等級を定める手法を採り、この方法は全国に広まった。同四年桂林荘を豆田裏町に設け、入門簿を作成する。入門者の身分は問わなかった。同十四年に堀田村の伯父貞高(通称・平八、号・秋風庵月化)の隠居所西隣に咸宜園を新築し、書庫を遠思楼と名付け、塾生と起居を共にした。文政元年日田代官の用人格になり、塾を弟の譲吉(号・旭荘)に任せるが、旭荘は天保七年に堺で自分の塾を設けたため塾経営に復帰し、弘化元年に門人矢野範治(号・青邨)を養子にして補佐させる。嘉永四年旭荘の子孝之助(号・林外)を養子にした上で、安政二年に塾を青邨に譲った。青邨は文久二年にこれを林外に譲る。
 淡窓は眼が不自由で大きな字しか読めず、読書の量を瞑想黙思で補った。敬天を根本に据え、天は善
悪禍福・因果報応・吉凶命数・政刑教化の主催者であり、天の命ずるところを欽若敬畏し、奉順聴受することは、殊途同帰・百慮一致の大道である、と説いた。また各藩が困窮している現状を打破するには、国の本なる風俗を革めることであるとし、上に立つ者の尊倨高大の風・君臣ともに誇張矜伐・秘密主義・門地の高下に拘泥・先例に因循・君臣皆文盲不学を厳しく戒め、財を生ずる道はただ「謹」「倹」あるのみと断じた。更に農兵を取り立て、学問を振興し、庶民の奢侈を禁止すること等を示した。
淡窓の門人 越中国から廣瀬家への入門者は慶応四年まで九人、明治二年から四年まで四人(全て僧)いる。文化七年七月二十三日八尾(?)の蜷川左近。天保十五年十一月十五日高岡町の佐渡良益、当時二十二歳で、師匠の坪井信道から指示されて入門する。後に坪井信良として御典医になる。弘化三年四月二日新川郡利田村出身の谷口貞三、後の画家として名を成す藹山が松本出雲守家来内として三十歳で入門する。ここからの帰途に南画を専門にすることを決心し、京で志士と交わり、頼三樹三郎や西郷・大久保達とも談じ、桂小五郎を画室に匿った。同年五月九日礪波郡城端町の東祐哉二十四歳(東源五右衛門倅) が入門、同四年一月二十一日富山橘向の高桑璋太十歳が入門する。淡窓没後の万延元年六月二十七日富山永福寺の神川が入門。文久三年九月十一日新川郡東塚原村教順寺の僧云二十二歳が入門する。維新後に林太仲の片腕として、合寺を断行する原弘三である。慶応四年九月二日砺波郡太田村から五十嵐義三郎二十二歳(間右衛門倅)と安念嘉次郎二十四歳(安次郎倅)が入門する。嘉次郎の紹介者は釈普寂こと後の首相清浦奎吾である。
 更に淡窓の門人劉石秋(通称・三吉、字・君鳳、号・平川、寛政八年〜明治二年)は安政五年から翌年四月まで高岡町に留まっている。医者の土肥俊造(名・敏、字・遜志、号・松軒)は京で石秋に学んだ。更に福野を訪れ、福富(二日町屋)平左衛門(字・真平、号・有章・翠園)・錦園父子と交際を深めた。
 淡窓の弟旭荘(文化四年五月十七日〜文久三年八月十七日)は、万延元年に越中入りし、五十嵐篤好等から大歓迎を受ける。高岡・放生津・氷見を廻り、牧野村東弘寺で宿泊した際に、「高柳山六勝」を作る。富山へも入るが、黒っぽい米と甘ったるい濁り酒、それに夜の蚊と昼の蝿に辟易したと不満を述べながら、氷売りに興味を示している。氷売りについては、嘉永五年に富山入りした曽我耐軒(古賀洞庵・松崎慊堂門下)も同様に注目している。なお万延元年九月二十七日には高杉晋作も越中に入っていた。
四、頼三樹三郎の越中来訪
頼山陽の史学 頼山陽(名・襄、字・子成、通称・久太郎・憐二・改亭・徳太郎、号・三十六峰外史、安永九年十二月二十七日〜天保三年九月二十三日)は、父で広島藩の朱子学者で勤王家として高名な頼春水(名・惟完、字・千秋・伯栗、通称・弥太郎、号・霞崖・拙巣・和亭、延享三年六月三十日〜文化十三年二月十九日)の長男に生まれ、叔父の頼杏坪に学んで詩文の才を見せる反面、情緒不安定の傾向があり、寛政九年に江戸の尾藤二洲の下で学んだ際にこの傾向は強まった。同十二年九月に脱走して連れ戻される途中に、播磨国鵤でまた脱走、十一月広島で座敷牢に入れられ廃嫡される。それで緊張が解けたのか読書に明け暮れ、『日本外史』『新策』を著す。文化二年五月に幽閉が解かれると、父の友人である神辺の菅茶山(楠正成に思いを馳せた詩を作る)が営む廉塾に塾頭として入るものの、養子に入ることを断って同八年閏二月に上坂し、父と懇意である篠崎三島と養子の小竹を頼る。小竹の紹介で京に移り蘭医の小石元瑞が保証人になって新町で開塾した。以後全国を廻りながら、執筆活動に力を入れた。文政十年には市川米庵を通じて松平定信へ『日本外史』を献上している。『日本楽府』や『日本政記』等史論を多く著した。学風は朱子学であり、実用の学たることを強調する。特に歴史を一般の人々にも読んでもらうことを企図して、事件や人物を面白く描くことに心掛けた。記述には、勤王の精神が通底していた。
 山陽と親交のあった京の中嶋棕隠(名・徳規、安永八年〜安政二年)は、天保五年に飛騨から神通川に沿って越中入りし、富山から越後国に出てから高岡に戻り、瑞龍寺で閑雲に会い、町で長崎浩斎や津田半村等と交わった後、十一月に福野の上保吉左衛門、福光で石崎善右衛門(号・無莫)や前村礼蔵を訪れ、旧交を温める。翌年一月末に高岡へ戻り、半村宅で鮭を食して金沢経由で帰京した。弘化二年三月にも越中入りし、小杉の松永太郎兵衛(号・兎玉)を訪れ、分家の与五郎(号・陶庵)とともに五日間歓待する。
頼三樹三郎 頼三樹三郎(名・醇、字・子厚・子春、号・鴨崖・百城・古狂生、文政八年五月二十六日〜安政六年十月七日)は、京の三本木で山陽の三男に生まれ、天保十一年に大坂で後藤松陰や篠崎小竹に学ぶ。同十四年羽倉簡堂に伴われて江戸の昌平黌に入学するが、尊王の志が昂じて短慮にも弘化三年三月に上野不忍池で弁天堂の石燈篭を倒し、寛永寺の抗議で退学になる。翌月から東北を廻り、九月三厩口から松前に渡り、江刺で松浦武四郎と一日百詩百印を楽しんだ。翌年八月本州に戻り、嘉永二年正月に帰郷して門人の教育に力を入れる。一方で、尊王家梁川星巖や梅田雲浜等と交わり、同六年にペリーが来航すると悲憤慷慨する。安政二年九月に母が没すると、尊王の実践に奔走し、同五年一橋家の徳川慶喜擁立を画策して、四月に星巖と謀議、大老井伊直弼を失脚させるべく水戸藩に勅書が降下するよう近衛忠熙に説く。七月星巖宅で西郷吉兵衛(吉之助)や大楽源太郎等と議し、翌月に水戸藩へ密勅が降下する。このことが安政の大獄を引き起こし、十一月捕えられ六角の獄に投ぜられる。同六年正月に江戸へ送られて福山藩邸が預かり、評定所で糾問される。福山藩では山陽の門人石川和助等が助命に奔走するが、十月七日死罪が申し渡され、伝馬町の獄で斬首される。遺骸は南千住の小塚原に曝された。
頼三樹三郎の越中入り 三樹三郎は嘉永元年蝦夷から戻る途路に越中に入る。各地で歓迎を受け、後に碑が建てられた(宇奈月の愛本橋東側、富山の舟橋北町、高岡の祖父川橋近く)。
 魚津郊外加積村の美浪家に数日間滞在し、富山に入ると稲垣碧峰を訪れ、加藤竹窓や小西有実と交歓する。稲垣碧峰(名・克、字・子復、通称・藤兵衛、文化十年〜明治十二年)は俳諧に長じた父勘四郎の子として舟橋今町に生まれ、天保元年上京して浦上春琴に入門する。詩画合一を目指し、帰郷後町年寄に就任しながら度々上京している。弟の加藤竹窓(名・良、字・良吉・静處、号・香業、文政九年〜嘉永五年二月十三日)は藩士加藤家に入り、大野介堂に学ぶ。天保十三年に上京して貫名海屋に入門し、頼三樹三郎と知り合う。弘化二年豊後国で帆足萬里等に学び、広徳館の訓導に就任した。小西有実(名・文二、号・石峰、文化十三年〜明治二十年九月二日)は広徳館訓導を務め、寺子屋・私塾臨池居を営む小西有斐の長男に生まれ、昌平黌に留学して、佐藤一斉・塩谷宕陰等に学ぶ。元治元年広徳館の学正に任じられた。
 小杉の高岡町津田家が営む酒造屋で宿泊し、高岡町では頼山陽に学んだ片原町医者山本道斎の書堂牛馬堂に身を寄せ、七ヶ月間町人たちと親しく接し、飲んでは作詩する毎日を過ごした。道斎の妹婿逸見文九郎(号・方舟)や瑞龍寺十八世閑雲、津田半村等が訪れ、時局を論じ合っている。三樹三郎は『牛馬堂記』を残し、帰京後も書簡を往復した。寺崎家では同家所蔵の上杉景勝による軍扇檄書を鑑賞している。
 山本道斎(名・奎、字・仲章、文化十一年五月二日〜安政二年十二月二十二日)は医者の山本一覚長男、七・八歳で四書五経を読んで奇童と呼ばれ、叔父の藩医内藤玄鑑養子として明倫堂に入学する。十三歳で前田斉泰御前に『詩経』を講じ賞せられる。実家に復した後、江戸で昌平黌に学び、京の小石家で医を研鑚する傍ら頼山陽に師事し、長崎で蘭方を通じて欧州の形勢を知った。弘化元年に帰郷して医業に励みながら、史学で古今興廃を研究し、長崎で書写した蘭書を解読する。著書『静思録』や志士と交わした書簡は、安政の大獄に連座することを恐れた遺族により焼却されたという。道斎の元には藤本鉄石も訪れている。また津島東亭・土肥知言・長崎浩斎・笹原北湖等は大いに触発されたという。弟の甚造は寺崎敬孝、良順は眼科医松田三知の養子に入った。
 逸見文九郎(名・在綱、字・有秋、号・方舟・舫斎、通称・又一、文政八年八月一日〜明治八年)は蔵宿高原屋の十四代目で、十歳で四書五経を修め、十一歳で書画を認められ『越中集』にも載る。京で梁川星巖・藤本鉄石・頼三樹三郎等と知り合い意気投合する。金沢の勤王開国派小川幸三と義兄弟の契りをし、蛤御門の変以後の政変で元治元年八月十五日に逮捕、十月二十六日まで金沢で投獄されている。東條琴臺が松田三知を訪れた際に内外の形勢を質問し、三樹三郎とは書簡・詩文を往復させ、文久元年に上京して三樹三郎の兄頼支峰と巣鶴楼で故人を偲んだ。明治二年東京で三樹三郎の墓前に参じている。高岡町奉行永原好知(通称・恒太郎)と交友し、妹婿は長崎浩斎。弟は中條屋川上三六(名・宜方、字・士正、号・達堂、天保元年三月五日〜明治三十年九月八日)で、兄とともに逮捕投獄されたが、藩は町政の停滞を危惧し一ヶ月で釈放になる。
 塩屋(鶴来屋)津田喜三次(弥右衛門、字・操・子薫、号・半村・鶴堂・松斉・寿芳園、寛政九年〜明治四年二月)は中川の南家で生まれ、文政頃酒造業津田家へ養子に入る。富山藩医島林文吾の講義を聴講し、京で頼山陽に師事する。廣瀬旭荘と会し、長崎浩斎等と漢詩を吟じあった。娘は高峰精一に嫁ぎ、譲吉を生む。
 閑雲(雪荘、号・真巖、安永七年〜安政六年)は鳳至郡山是清村に生まれ、幼くして総持寺に入り、江戸や京で仏道修行しつつ、亀田鵬斉等に漢籍や詩文・書を学んだ。帰郷途路に射水郡下村の海翁寺で『碧厳録』や儒学を講じていると、瑞龍寺十六世活湛がこれに感じ入り法嗣にする。なおも京で修行するが尊王の志士と交流を持ち、文政五年に帰郷し住職となる。
越中尊王家の歌
・碓井次郎左衛門(寛政二年〜明治元年十二月)石動生まれ、嘉永三年二月藤本鉄石の決起に軍用金を贈る。
いにしへゆ 思ひたぐひて越路なる 白嶺の雪を常にかも見よ
・加藤謙二郎(天保三年〜慶応三年三月九日)泊生まれ、江戸で井上文雄に学び、安政四年上京し中沼了三に師事、慶応三年三月九日十津川に潜伏し、川原で自刃。
遠津川 瀬々の白浪たちつれて
むかしにかへせ 君が御世をば
・宮永良蔵(天保四年〜慶応三年十二月)福光の宮永暘谷が父、医者修行のため上京し志士に感化、慶応三年十二月新撰組に捕縛され、二十二(二十五)日に没。
大君に 事へぞまつる其日より
我身ありとは思はざりけり
妻りき 
はかなしと 思ふ命はながらへて
あるにかひなき 池のにをとり
五、水戸学と能登屋
水戸学 徂徠学を反映して「分」の原理を道徳の基軸に置く名分を説く。朱子学の正名論では君主・臣下それぞれの立場で道徳的責務を遂行するが、名分論では名の体系の秩序を絶対視し、封建秩序が尊王より発することを説いた。
彰考館と青山家 水戸藩の彰考館では、水戸光圀が編纂を命じた『大日本史』を通じて、朝廷の下における徳川家と幕藩体制のあり方を考察していた。彰考館総裁の立原翠軒(名・万、字・伯時、通称・甚五郎、号・東里・此君堂)は、寛政九年に編集方針を巡り門人の藤田幽谷(安永三年〜文政九年、朱子学者)と対立して辞任する。これが立原・藤田両派の対立に発展し、水戸藩の分裂と天狗党の乱(元治元年三月二十七日〜十二月二十日)へ拡大していく。彰考館は本館である江戸史館(江館)と分館の水戸史館(水館)に分かれていたが、意見の対立が表面化した。水館総裁代役藤田東湖(文化三年〜安政二年、幽谷の子息)は江館総裁川口長孺(号・緑野)を弾劾したのである。憂慮した江館総裁青山延于(号・拙斎・雲龍)は文政十二年九月に水館の廃止を図るが、東湖や会沢正志斎(名・安、天明二年〜文久三年、幽谷の門人)等に擁立された徳川斉昭が十月藩主に就任すると、翌年一月に江館が廃止され、延于と正志斎は弘道館教授頭取を命ぜられる。
 青山延于(安永五年〜天保十四年九月六日)は立原翠軒に学び、寛政六年に彰考館雇となり、文政六年に江館総裁として『大日本史』の校訂にあたる。天保元年に水戸へ帰り総裁を辞し、書院番・通事・小姓頭兼弘道館教授頭取を歴任する。文政六年に那珂湊沖に異国人が現れた際には筆談を試みている。『十八史略』の体裁に倣って、『大日本史』を簡略化した『皇朝史略』『続皇朝史略』を出版して、初学者の便を図った。
長子の延光(字・伯卿、号・佩弦斎・晩翠・春夢、文政四年十月二十三日〜明治三年九月二十九日)は文政七年に彰考館入りし、天保元年十一月水戸で総裁代役、同十一年四月弘道館教授頭取に就任する。弘化三年に彰考館で『大日本史』を校訂し、嘉永二年には徳川斉昭の跋文を代作する。『国史紀事本末』『野史纂略』『学校興廃考』等の著作がある。天狗党の乱では鎮圧を指導した。
天狗党の乱
 水戸藩では、密勅の取扱いをめぐり、尊攘派が激派と鎮派に分裂し、藤田小四郎(天保十三年〜慶応元年、東湖の四男)達が筑波山に挙兵する。一方で市川三左衛門と鎮派の弘道館諸生が藩内を掌握し、事態の拡大を危惧した幕府追討軍と鎮圧に向かう。筑波勢は那珂湊・大子・下野・上野・信濃・飛騨へ向かい各地で交戦するが、越前新保で残兵八百二十三人は加賀藩に降伏した。慶応元年二月三百五十二人が斬罪に処された。
青山勇の能登屋滞在 青山延光の長男である勇は近侍・小姓頭取を務め、明治期には内閣属官を歴任する。『先考行状』を編纂した。安政頃に水戸藩内の政争が激しくなり、安政七年に桜田門外の変が発生して藩内が騒がしくなるが、この頃勇は全国見聞の過程で北陸を訪れ、射水郡伏木の能登屋(藤井家)に滞在した。能登屋は廻船問屋であり、水戸藩とも付き合いがあったのであろうか。勇は能登屋で『孝経』『論語』等を用いて禁欲について講じ、水戸や江戸で起こっていることについて話をした。嘉他郎こと後の三右衛門(能三、弘化三年〜大正二年四月二十日)も聴講し、また漢文を学ぶことを通じて、人に尽くすことの大切さを教え込まれる。
六、陽明学の教授
陽明学とは 陽明学は明代に王陽明が、行動の根本原理を称える実践の学として主唱し、到良知(英知を致す)・知行合一(言行の一致)・事上磨練(事に揉まれる実践)の三綱領を立てた。天保頃に大塩平八郎、幕末から明治では佐久間象山・吉田松陰・雲井龍雄・横井小楠等がいる。
富山の陽明学 嘉永五年四月に伊勢国から医者の近藤士専(旧姓・太田、号・潜庵、文化十年〜慶応四年二月十五日)が富山に来て、陽明学を講じた。斎藤拙堂(名・正謙、字・有終、通称・徳蔵、寛政九年〜慶応元年七月十五日、昌平黌で古賀精里に師事し津藩の有造館で教授、洋学に関心があり種痘を採用する)の門に学び、天保八年二月十九日大坂の自塾洗心堂で陽明学を講じていた大塩平八郎(名・俊素、字・子起、号・連斎・中軒・中斎、寛政五年〜天保八年三月二十七日、元大坂町奉行所与力、頼山陽と知己)の乱にも参加したという。砺波郡下山田の河合平三が天保十二年頃に学んだという伝えがあるが、年代が合わない。
新川郡での普及 新川郡に陽明学が普及している。魚津町の三ヶ屋作兵衛は本町金屋の商家に生まれ、酒造を業とした。幼い頃より読書を好み、聖哲の教えを学んだ。特に陽明学を貴び、博覧強記であったことは、巡検上使の接伴役に当たり賞讃されたことからも分かる。末三ヶ野の開拓に尽力するが、土地所有を巡る争いが起き、明治二年十月に勃発した「ばんどり騒動」への関連から入牢、家財没収の中に没した。
 塚越村の漢方医で肝煎役の宮崎重右衛門は陽明学の塾を開いていた。宮崎家の歴史は鎌倉時代に遡ることが出来、越後との境である宮崎から移住した一族の本家筋にあたる。勤王を家訓とする宮崎家では代々陽明学を学び、郡内へも広めていった。子息重治は利田村長や県会議員を務めている。重右衛門の弟である忠次郎も陽明学を学び、その長男の忠次郎(名・久明、天保三年〜明治四年十月二十七日)も重右衛門に入門した。全国を渡り歩き、箱館で榎本武揚と知り合い影響を受けたともいう。明治二年のばんどり騒動で主将に担がれ、ただ一人処刑された。同門が浅生村の寺松伊七郎や塚越村の馬場宗三郎・桜井与三兵衛達であり、いずれもばんどり騒動の指導者である。
 新川郡では、明治八年から大正七年まで米騒動が二十二回と頻発している。その背景には陽明学の気風が残っていたのかもしれない。
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第四章 国学の普及と浸透

一、平田篤胤の思想と門人
本居宣長と平田篤胤 本居宣長(通称・健蔵、号・春庵・舜庵・中衛・鈴屋、享保十五年五月七日〜享和元年九月二十九日)は、伊勢国松坂に生まれ、元は小津栄貞の名で小児科医であった。後に先祖の苗字に復し、本居を名乗る。堀景山(朱子学者であるが、荻生徂徠や契沖を尊重)に入門し、宝暦八年から『源氏物語』『万葉集』『古今集』『日本書紀』等を講義し国学の道に入る。明和元年正月江戸の賀茂真淵に入門誓紙を差し出し、書簡で教授を受けた。この時より『古事記』を生涯の仕事と決し、古語を明らかにすることに傾注した。寛政四年に加賀藩の招聘を断り、紀伊藩に召抱えられる。
 平田篤胤(通称・大角・大壑、号・気吹之舎、安永五年八月二十四日〜天保十四年閏九月十一日)は、秋田郡久保田で秋田藩大番組頭大和田祚胤(百石)の四男として生まれ、幼名は正吉。二十歳で江戸に飛び出して、寛政十二年(二十五歳)松山藩士平田篤穏(五十石)の養子になる。享和三年頃に本居宣長の著書を読み、文化元年に真菅之屋と号して自立し、同十三年気吹之屋と改めた。文政六年に松山藩も致仕し国学に親しんだ。本居宣長に入門したと主張しているが、すでに没後であり、当然門人帳には名は無い。文化二年に宣長長男で、失明にも拘らず動詞の活用を明らかにした本居春庭に入門している。
 平田篤胤は本居宣長の門人を自称しつつ、多くの点で主張を異にする。そのため各地の宣長門人は、宗家で宣長養子の本居大平に門人か否かを問合せ、大平もまた篤胤の説を否定している。本居宣長は人間自然の心情を、人間の真実としてそのまま尊重し、善は善神、悪は悪神の所為としてそのまま受容する。契沖が現実の世界のみならず出家にも失望し、和歌の世界に心の平安を見出したのに対し、宣長は生活とは和歌のことであるとする。しかし篤胤は叙情より現実を重視し、歌論は後退した。この視点から、悪の根元を宣長が禍津日神によるもので、荒ぶる神が和むのを待つしかないと考えたのに対し、篤胤は神を善神に一元化し、悪事の責任は人にあると断じた。人の本性についても、宣長が良くも悪しくも生まれついたままの心であるとしたのに対し、篤胤は是非善悪を知る心であるととらえた。この世の騒乱・吉凶については、宣長が神のなしたまう御所為としかとらえなかったのに比し、篤胤はこの世における人々の行為を死後において神が審判し、来世では善事は賞せられて永く福を与えられ、悪事は罰せられて禍を受けるのであるから、現世は神が我々の善悪を試すための寓世であり、幽世こそが本世であると主張した。また死者の霊は夜見の国に行くか否かに関し、宣長が行くとしたのに対して、篤胤は人の生まれる根本因は産霊神の御霊によるのだから夜見ではなく、大国主神が支配する幽冥へ行くのだとした。
 篤胤の説は当時にあってかなり新奇であり、そのため外国の伝説まで引いて自説を補強しようとする。例えばアダムやエバの話は、皇国の古伝の訛り、インドの阿修羅王の伝説は、須佐之男命と大国主神についての話が混合したもの、帝釈天は、邇々藝命であり、大梵自在天神は、産霊大神と伊邪那岐大神との故事を混合したもの、老子にある自然の概念は、惟神と同じであり、上皇太一神は、天御中主神のこと、盤古はインドで梵天王だが、皇産霊神のこと、天皇・地王とは、伊邪那岐・伊邪那美の二神のこと、人皇とは、須佐之男命のこと、易を制作した太旲伏羲は大国主神のこと、天子は、邇々藝命のこと、暦法の始めは、伊邪那岐命であり、尺度は、大国主神が自身の身長を基準に伝えたもの、という調子である。これは宣長説へのはっきりとした決別であり、単に古伝を墨守することを厳しく批判した。                   篤胤の説で特徴的なものに「幽冥」がある。ここに入った死者の霊に対し、生前の行為について、大国主神が審判する。いわゆる妖怪は幽冥に属する存在であるという。天皇と大国主神は等しい重さであり、更に、天之御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神は顕・幽の両世界を当分に見下し、宇宙の全ては、天之御中主神により総括的に支配されると考えた。この説はキリスト教からの影響であるともいわれる。
古学する徒はまず主と大倭心を堅める必要があり、そのためには霊の行方の安定を知らねばならず、天・地・泉の三世界形成の事実と神の功徳、更にはわが国が四海の中心であり、主上が万国の大君であるということを、事実に即して熟知しなければならないとする。これは霊の行方を知ることで大倭心を固め、幽冥を知ることで真の道を知って正しく生き、極楽よりはこの世が楽しみであると感じてほしい、との思いであった。そのため宣長が儒学を「漢意」と批判したように、篤胤は仏教を「仏徳を成たる人を尊とし、仏徳に至らざるは君親と云へども尊敬すべき謂なき由」(『玉襷』)と排斥し、君臣の大義を強調するため、垂加神道と協同して孟子を非難する。
篤胤門の拡大 篤胤は、享和三年に『呵妄書』を著し、太宰春台の『弁道書』を批判することで名が知られた。太宰春台(延宝八年九月十四日〜延享四年五月三十日、名・純、称・弥右衛門)は平手政秀の裔で、代々加賀藩八家の横山家に仕え、父が太宰家へ養子に入り、信濃国飯田藩士になるが辞して朱子学を学び、後に荻生徂徠に入門する。篤胤は更に宣長没後の門人である伴信友の『日本書紀考』(『日本書紀』後世改刪説)を剽窃し、神道への接近を図るため、俗物と批判していた吉田家を一転評価したり、吉田家とは対立関係にあった神祇伯の白川家と接触する。また文政六年に関西に旅行して著書を、朝廷へ献上し、和歌山の本居家を訪ね松坂で墓参する一方で、水戸の史館に採用を願い拒絶されたり、というように、どうも自身の名をあげることを目標としているところがある。結局、天保十二年に江戸で尺座の設立に関与したため国許へ帰還するよう幕府から命ぜられ、秋田藩に十五人扶持・金十両で戻ることになり、久保田で門人教育に専心するが、同十四年に没。篤胤の門は婿養子の鉄胤が継承する。
 篤胤の門人は全国に思想を拡散していった。当初篤胤は門人三人から始め、最後には五百五十三人、没後の門人は千三百三十人を数えるまでになる。これは宣長門を上回り、その背景には鉄胤と門人による出版と地方への普及活動があった。
 大国隆正(寛政四年十一月二十九日〜明治四年八月十七日)は、江戸の津和野藩邸で生まれ、平田篤胤に入門しながら、昌平黌に学んで古賀精里の指導を受けた。文政十二年五月に脱藩し、野々口と改め、瀬戸内や中国地方の各藩で活動する。我欲・我意を捨て、人を助け、下を救うことが上の者のするべきことである、と倫理意識を説く一方で、外国の風俗に影響されることなく古法を維持すべきであり、儒仏の禅譲放伐・出家受戒を批判し、天壌無窮の神勅こそ「天地の公中」を示した神道である、不変なるはただ、皇統のみ、これこそ神議であり、国之御中主神と称え申すべき神は、大日本国の天皇において外なし、と篤胤説を発展させていく。日本国は世界の六大国の一つであり、天皇は至尊なるにより、外国の国王と同列ではなく、将軍家が等しいのであるから、わが国は万国の総本国であり、万国ことごとく、天皇に帰順する、と主張する。更に、天孫降臨が天地の大革命であり、禅譲放伐などは地方の小革命に過ぎず、唐土は女人先言・下剋上の国、日本は改言の国・万世一系の国で「つぎつぎ」が強調されている国である。したがってわが日本の古説が真の公法であり、西洋の公法は真の公法ではない、とオランダのフーゴー・グロチウスの『万国公法』を批判する。その上で、尊王攘夷こそがわが大日本国の大道であるとし、天皇は地球上の真主総帝であるべきで、万国に秀でた国体の証であると断じた。ただし攘夷には小攘夷と大攘夷とがある。わが国の採るべき道は大攘夷であり、武力を用いず、正理をもって相手を諭せば、西洋人も次々とまことの道を悟り、天皇を世界の総王とあがめ、大将軍家を諸国王の上において敬い、天皇から官位を受けて喜ぶようになる。そうなれば世界は治まり平和になる、と隆正は考えた。
二、加賀藩と富山藩の国学
石黒千尋 加賀藩を代表する国学者に、物頭役を勤めた石黒千尋(初め克己、通称・萬五郎・左門・嘉左衛門・九十九、号・竹之舎)がいる。国学を京の加茂季鷹門下で同藩の田中躬之に学んだ後、平田門に入門し、天保年中に旅の途次に藩を通過した鈴木重胤や橘守部の指導を受けた。
 鈴木重胤(通称・勝左衛門、号・橿廼舎・厳橿本・府生・桂州、文化九年五月五日〜文久三年八月十五日)は篤胤に入門を希望し、大国隆正に学ぶ。皇祖天神による国土万物の生成行為(産霊)から導き出された「修理固成」を研究した。「修」とは士農工商の職業分担、「理」とは仁義礼智忠孝といった一身一家一国を治める倫理の実践、「固」とは各自の職分の精励、「成」とは国家の成就を目指す無限の努力である。更に堕胎の禁止、奢侈の戒め、夫婦の道、子供の養育、五人組の心得、肉食の禁止等を説いた。天保十四年に秋田の篤胤に会うため神戸から金沢を経て訪れるが、すでに没後であり、霊前に入門した。しかし篤胤の説を批判することが多くなり、安政四年に平田鉄胤と対立し、翌年絶交する。最後は江戸の自宅で暗殺された。
 橘守部(通称・元輔、号・蓬壺・波瀲舎・池庵・生薬園・椎本、天明元年〜嘉永二年五月二十四日)は独自の体系を築いた国学者で、神祇の復興を強調し、新運到来を予言する。本居宣長説を批判し、『日本書紀』を重視し、伝説と史実を弁別する。また長歌・短歌・散文に一定の句格・構造のあることを実証し、語学・文法を研究した。著書の『三大通弁』では幽冥観を示す。経営者と使用人の関係と心得についての研究もある。
 さて千尋は、嘉永五年に明倫堂で国学講釈御用の役に就き、次のように自説を展開した。天皇は万国の王と同位ではない。鎖国は神民に富と幸福を与えない。儒は狭い考えであるが、蘭学で謂う所の窮理は認めるべきである。開国し西洋の技術を導入して、農民を武装し学制を改め、精神面を強化するため国学を取り入れるべきである。外国と交易すればわが国が富むだけではなく、外国も富むのであり、やがてわが国に服従するようになる。これこそ復古の善政ではないか。わが国は、天皇のしろしめす国であり、諸神が擁護し給うのであるから、寸地も蕃人は侵すことが出来ない。実に神国の神国たる所以である。
 維新後には、皇学講師や文学教師の任にあたり、明治五年八月五日に六十九歳で没。
富山藩の神学 富山藩では国学より前に吉川神道が早くから普及している。吉川惟足(通称・源十郎・五郎左衛門、元和二年二月二十八日〜元禄七年十一月十六日)は吉田家に入門し、朱子学を用いて神道を深めた。神道には、行法神道(神職の祭祀・行法)と理学神道(身を修め、家を整え、天下を治める道)があり、後者が一般の人々にとって重要である。万物の根元を太極といい、それが流転して陰陽を生じ、変合して五行となり、これら三者が交感して万物を化生する。全ての事象に、理(万物に内在する根源的・本質的なもので、「道」のこと)・気(物質的要素で事物に個性を与え、清明混濁の差を生じる)二面がある。人が天賦の理を受けながら本然の姿を発揮できないのは、気に混濁があるからであり、私欲を没却し、修養に務めることで、聖人君子たり得る。中心の神は、国常立尊であり、天地に先立って存在する、太極・混沌・虚無太元尊神で、天地万物が生成する際には、この神が宿っている。人も太極の理と陰陽の気を受けて成立しているのであるから、肉体の中に必ず根元の理を宿している。心は神明の舎であり、人の心に、国常立尊が内在しているが、個々の気質や欲望で自己に宿る神の明智を曇らせている。本来の人間性に立ち帰るには、心の内なる神と一体の境地に入ることであり、そうすれば、神的な本質が発揮され、人間存在の根元から発する明智によって、理非曲直を判断することが可能となる。神人合一に達する道は、「敬」即ち謙虚な真心のこもった生活態度であり、「祓」を通じて実現する。具体的には、邪念妄想を祓い除き、心の清らかさを保持する(内清浄)、肉体を清める(外清浄)を行う。大切なのは誠意と謹みであり、祈りも真心によってのみ、神に感通する。それは一定の作法により表現されねばならず、行法や祭祀の意義はここにある。五倫の道を実践する時の核心は、君臣の道であり、謹みの心で君臣の道を守り、天皇を中心に国を治めることである。
 この思想は、朱子学者でありながら、吉川惟足から吉田神道を学んだ山崎闇斎(名・嘉、字・敬養、通称・嘉右衛門、元和四年十二月九日〜天和二年九月十六日)により普及され、垂加神道が発展した。垂加とは闇斎の号であり、垂加霊社のことである。闇斎は土金の伝を言い、土がしまって金になるように、心身が緊張した状態で保持せよ、謹みこそが人の生き方の基本である、と説いた。
 さて、富山藩に吉川惟足が諸国神社巡りの途路に訪れ、神明社の吉尾伊勢守宅に逗留し、『日本書紀』を講じた。惟足は江戸で幕府に仕えるが、その後も天明頃まで吉川家は吉尾家や山王日枝社の平尾大和守、鹿島社の近尾河内守と交流を持ち続けた。
 同じく吉田神道を学んだ、橘三喜(号・為証庵、寛永十二年〜元禄十六年三月七日)も、諸国歴訪の途中に富山を訪れた。三喜は平戸出身で江戸浅草に塾を開き、吉田神道の普及に努める。富山では特に言相方(加持・祈祷の方法)を平尾・近尾・吉尾の各家及び、布市村の山内美作に伝授したという。
 その他にも、長崎の諏訪神社青木永弘(青木賢清・金春院の末)が富山に来て講義をし、明和・安永頃に能登国正院村八幡社桜井伯耆守が来て、平尾・近尾・吉尾各家始め家老・藩士が集い聴講した。安永から天明の始め、会津の社家で吉川家に学んだ深澤要人がたびたび訪れ、平尾・近尾・吉尾各家に逗留し講義をする。藩主前田利久も神拝式を伝授されたという。
田中大秀への入門者 田中大秀(通称・弥次郎・弥兵衛・平兵衛、名・紀文・大秀・八目満・旧紀文、号・三酉・千種園・香木園・湯津香木園・荏野翁・磯堂、安永六年八月十五日〜弘化四年九月十六日)は、飛騨国大野郡高山で薬種商の次男に生まれ、伴蒿蹊や本居宣長に学び、和歌や俳句も能くする。伴蒿蹊(享保十八年十月一日〜文化三年七月二十五日)とは京の商家に生まれ、近江八幡の本家へ入るが、三十六歳のときに養子に家督を譲って剃髪、京に移り、和歌・歌学を武者小路実岳に学んだ学者である。大秀は浄土真宗の影響も受け、『古事記』を解釈する一方で、古典復興を説き、飛騨国総社を建てた。『竹取物語』『蜻蛉日記』『栄花物語』『万葉集』『紫式部日記』『土佐日記』『落窪物語』等を研究し、橘曙覧に影響を与えた。
 文化九年四月から六月にかけ、越中・加賀の各地で講演し、六月下旬に立山登山をする。高岡では富田徳風に会い、万葉の遺跡を遊覧する。門人には越中関係者も多く、富山藩の青木又一郎(号・北海、後に致仕)、富山藩主前田利幹の側室菊園(梅林院・梅園、広徳館で子女の教育にも務める)、杉森半次郎(佐伯知言)、高木吉兵衛(允胤、和算家)、高沢岳斎(一昔)、稲積玄長(弘中重義の門人)、恵民倉賑窮料掛の岡順吾(正寛、百四十五俵)、杉崎彦右衛門(後藤令彦)、高岡からは粟田勘四郎(良哉)、今石動から倉原孫次兵衛(恒安)がいる。富山では弘中重義が開いていた文会にも顔を出している。弘中重義(号・自軒)は藩医であり、上京して小沢蘆庵に和歌を学んでいたこともあり、富山藩主前田利謙と生母自仙院及び姫達に歌道を教授していた。文化十年四月に隠居し、五月稲積玄長と八月末まで大秀宅に滞在した翌年六月に没。大秀は天保十二年にも来遊し、三月二十一日五十嵐篤好と会った。
富士谷御杖の来訪 富士谷御杖(名・成寿・成元、通称・千右衛門、明和五年〜文政六年十二月十六日)は、国語学の大家富士谷成章(元文三年〜安永八年)の長男で、皆川淇園の甥にあたる。代々筑後柳川藩京都留守居役を勤め(二百石)、父と淇園から学んだ。文化元年に『百人一首燈』を著し、歌論に神道を含める。即ち、人は所思所欲をそのまま言行に表現すれば、必ず時宜を破り禍を招くので、言外に言霊として宿らせ、詞は倒語して心中思っていることとは別方向にそらして表現する。それが和歌である。その際に理と対立する欲を慰める方法が神道であり、神道の抑制をすり抜けて、一層激成された鬱情を慰める方法が詠歌である。御杖には、人は神を身内に宿したもので、神とは人の身内に宿ったものと映り、神道とは身外に出しがたき所欲であると考えた。そのため『古事記』は言霊により古人の心を説話として表現した作品であり、本居宣長のように、全て事実としてみる見方は間違いであると断じた。
 越中各地で御杖に師事し、五十嵐篤好もその一人である。文政四年御杖は富山城下を訪れ、磯部御庭に富士の築山(元禄十五年前田正甫の時に作る)を見て、駿河の如きと驚いたという。この時に岡順吾(名・正寛、号・富士の屋、百四十五俵、文政十年七月に四十五歳で没)を訪れ、親交を深めている。富山の天満宮で歌を贈答し、神通川の舟橋や駕の渡しに関心を示す。九月十日に立山の新雪を見て、新川郡沼保村十村の伊東彦四郎祐寿と交流した。しかしその途次の十二月に柳川藩から謹慎の命が下り、急ぎ帰藩し蟄居する。
荒木田久老の来訪 荒木田久老(延享三年〜文化元年、名・正恭、号・五十槻園)は、伊勢神官度会(橋村)立身の次男に生まれ、荒木田久世の婿養子として内宮権禰宜を務める。賀茂真淵に師事し万葉研究を継承した。天明六年七月十四日越中入りし、舟見・富山・石動に宿を取る。十七日夜に倶利伽羅峠を越えた。
ひさかたの白雲のへにあふぎみる
 たかきたち山みれどあかぬかも
立山の みねたかければ
ながれいづる かたかひ川の
  瀬音たかしも
 海量(近江国、賀茂真淵の門)
秋ながら君が見るべき立山の
  高嶺の雪は積り初つつ
 松田直兄(天明元年〜安政三年)
ありそ海の 
 うへに朝ごとたつ市の 
 いよいよ行けばいよよ消にけり
 良寛(宝暦八年〜天保二年)
片貝の渡瀬ふかし立山に
 たなびく雲は雨にかもあらむ
立山にとこしく雪に月影の
 かがよふ見れば玉にかも似る
砺波山夜越えに越えて見渡せば
 沖つ汐瀬に月おし照れり
 荒木田久老
見るがうちに 
 千代やへぬらん波間より 
生帰り行く松のむらだち
 前田斉泰
越中各地の国学者 
@ 砺波郡 河村信友(又は達、幼名・辰次郎、号・田守、寛政二年〜安政二年七月十一日)は、砺波の中町で四日屋吉左衛門の次男に生まれ(別説・文化六年)、西町の不動島屋河村源助の養子になる。算用聞役・山廻役・新田裁許等を熱心に務め、六百六十石の持ち高が二十四石に激減したとされる。京で加茂社の賀茂季鷹と同松田伊予守直兄に国学・歌学を学ぶ。松田直兄は子息の内直と天保十二年に田守を訪問している。また富士谷御杖とも交友があった。五島雅右や五島正訓、清水有道は田守の教えを受けた。
 津沢の中島敬(通称・武十郎、字・季就、号・其風)は、下川崎村宮永正好の十男に生まれ、中島家へ養子に入る。勤王の志が深く、維新後は国学に傾倒し、仮字を訂した。
A 射水郡 氷見では町人一般にも国学が浸透し、神職の活躍が目立つ。安政三年に氷見庄内神主からなる神主組合は、神道古典研究のため平田篤胤の『古史伝』を購入するための費用を村々に願い出て、十二町村など四十一か村から資金を集めることに成功する。平田門に入門する者が多く、更に六人部是香に師事している。六人部是香(通称・縫殿・宿禰、号・葵舎、文化三年〜文久二年)は山城国乙訓郡向日神社に生まれ、父が早世したため伯父の節香に養育され、文政六年九月篤胤門に入門する。時の、孝明天皇へ御進講の栄に浴した。その説は産須那社の尊崇にあり、悪事を為した者の魂は凶徒界に陥り、種々の艱難辛苦を強いられると説いた。
 泉天満宮の大森定久(文化三年〜明治十九年一月)は、生まれてすぐに家職を継ぎ、従五位下出雲守を称した。安政四年十月五十一歳の折に上京して、六人部是香に師事した。典礼の研究と語学を専門にし、歌に精通する。安政六年三月に帰郷して「梅の舎」を開き、国学・和歌を広めた。明治元年五月に神祇官神祭方御用、同二年八月から十二月まで能登の気多神社、同三年三月に立山の雄山神社、同四年三月能登石動山伊須流岐比古神社で復飾した神職へ神道の本義と祭典の作法を教諭した。同五年十月能登一宮気多神社権宮司に就任し、神事祭儀を故事により正した。著述は多い。「寇よらば 布都のみ玉の太刀はきて 君のみ為と 御さき仕へむ」「稲の目の ほがらほがらとあけゆけば みそらにほしは なくなりにけり」
 北八代箭代神社の高沢秀足、瑞穂、瑞信の三代とも国学に秀でた。秀足には『友の舎歌集』があり、瑞穂(幼名・司馬之助、文政五年〜明治三十年)は五歳で父を失い叔父に養われ、江戸で武家奉公しながら安政元年三月に伊予国三輪田元綱(文久三年足利氏木像梟首事件首謀者の一人)の紹介で平田門に学ぶ。帰郷した後も学問は継続し、安政四年に大森定久・関守一と上京し、六人部是香に入門する。維新後に射水神社、上総国玉川神社、相模国鎌倉宮と寒川神社で神職を務め、権田直助、御巫清直、角田忠行に神道を学ぶ。帰郷し、自宅で「鞆之舎」を設立して、神道の古典を講じた。『万葉集』を研究し、故地を実地調査する。また神前の拍手の意義を論じた『拍手の一言』がある。瑞信(弘化元年〜大正四年)は権田直助門下の井上頼圀に学んで、父の『万葉集』研究を継承し、明治四十二年『万葉越路廼琹』を著して、北陸の万葉遺跡を孝証した。
 長坂の長坂神社神職上水友世は文化八年に十二町の神職吉川家に生まれ、養子に入る。文久二年に上京して神道を研鑚し「鹿の舎」で国学を広めた。子息の友之が継ぎ、安政六年三月に国見村等に持宮がある能登飯川村神職野村朝清の紹介で平田門に学ぶ。後帰郷し、書物で医術を学んで種痘を施した。祭政一致を主張し、神仏分離に熱心であった。
仏生寺御田神社の平井正武(文化五年〜安政五年)は、文政六年に家職を継ぎ、陸奥守を称す。国学の研究に力を入れ、藩主前田斉泰にも神道を説き、銀三枚を拝領する。「くずのはの うらさやかりし我身にも かかるめぐみの 露はおきけり」はこの時の歌である。南朝を「あはれその世にだにあらば笠置山さして御楯とならましものを」と偲んだ。「白梼の舎」を設立し、「神代略図」(縦一・八m、横九十p、絹本に着色)という『古事記』神代の巻三十場面を絵巻とした画幅を用いて講話をした。弟の正明が養子に入って継承する。斎藤弥九郎に神道無念流の剣を学び、帰郷後は能登の鹿島郡田鶴浜村に道場を開き、神職の傍ら青年に剣を教えている。泉村の大森大和守や伏木村の尾崎信濃守等も入門したという。
 高岡町の関守一(幼名・敬之輔、字・時敏、通称・新一、号・靱舎)は、天保元年十二月十三日に関野神社境内で生まれる。父は関正峯。金沢で西坂成莽に漢学を学び、安政四年に氷見の大森定久と上京した。そこで六人部美濃守是香に入門し国学を学ぶ。帰郷後に越中社家触頭に就任し、慶応三年四月従五位上下総守に叙される。明治元年三月に金沢藩神祇取調係になるが、命により上京して神祇官に就任する。戻ってから神祇係として祭典式編修にあたり、藩から賞せられた。関野神社神職にあった兄の豊後守が退隠を希望するが、自らは川巴良諏訪神社外村社五社の祠掌となることで兄を留任させ、同五年五月に射水神社の権宮司に就任する。同八年に新川県下神道事務局副長と兼ね、九月射水神社を高岡古城公園内に遷座する。同十四年神官第八区富山教会一等講師になり、翌年三月四日に没。神道の儀典を明らかにし、和歌を能くした。
B 富山 金乗坊の静教は本居宣長の門で歌学を学び、天保元年に『詞のしをり』を著す。天保五年十二月十日氷見に招かれ、十人の受講者に小倉百人一首と詞の「手尓葉」について講じた。
 岡順吾は父の代に窮民救済の多大な米・銭献上が賞せられ、士分に取り立てられた。富士谷御杖や田中大秀に学び、五十嵐篤好とは親友であった。文政九年に篤好が訪問した際には、同じく御杖門下の山王社平尾旨定を交えて会している。
三、五十嵐篤好と門人
父、五十嵐之義 五十嵐家七代目之義(通称・孫六、字・子往)は、射水郡御扶持人並北野村甚助の次男で、安永四年九月に内嶋村五十嵐家の婿養子となる。翌年の四月二十八日十村に就任し、農政・郡治に努め、賞されること七回、寛政九年閏七月禄高十石を加増、文化二年十二月十八日に十石、同十四年十二月にも十石を加えた。各地で開拓に力を尽くし、新川郡で舟倉野の新開に多大な貢献をしている。富士谷御杖に学び、歌を能くした。
 学問について次のように言っている。読書は幼少者に強いてはならない。生まれつき柔弱な者に強いれば虚労の症となり、二十四・五歳で亡くなる例は少なくない。学者に成っても早世したら何の意味があろうか。健康であれば十四・五歳で読書をさせよ。今日の儒学者は我慢ばかり言って、実践には用を成さない。四書五経を一通り学ぶだけなら、そんなに時間は必要ない。暇があれば何でも読むのが良かろう。しかし「ことごとく書を信ずれば書なきにしかじ」と孟子が言っているように、本に書いてあることが何でも正しいと思いがちである。それでは誤りも信じてしまって良くない。手前に君子の心を定めて書を見ることである。見識の無い者は口先ばかりで、長じると悪口者となる。慎むべし。
 之義は文政二年三月十九日に突然解任される。世に言う十村断獄である。獄中での環境と心労が災いし、五月九日に五十九歳で没した。
五十嵐篤好と国学 八代目の篤好(幼名・小五郎、通称・小豊次、寛政五年十二月十六日〜文久元年一月二十四日)は、文化三・四年から文政元年まで算学を石黒信由に師事した後、文政二年から天保八年にかけて国学と書を、天保九年から安政四年にかけて歌学を学んだ。その間、文政九年・二十歳に『筆算算法』を著し、文政二年父と共に舟倉野の御開、天保七年宮野新開と十二貫野の開拓、弘化四年石田野・柳沢・中山を開墾するが、この内には失脚の日々があり、その都度逆境を逆手にとって、学問に勤しんだ。
 十村断獄で能登島向田に十ヶ月間流された折には、同地の総社伊夜比盗_社神職である舟木丹後守正連に就いて国学を学び、蔵書の古典や本居宣長著作等を読破し、『群書一覧』を写した。更に、文政三年本居大平に入門するため、来訪した大坂の小嶋屋平七にその旨を依頼するが、返答はどれだけ待っても来なかった。そこで同五年八月に父の師である富士谷御杖の門人となるが、翌年に御杖が亡くなってしまう。文政十一年に望月幸智が富山藩布瀬十村高安定重邸に来た際には、「言霊」について教えを乞うた。
 望月内記幸智は代々近江国甲賀郡油日村で医者を務め、江戸の産霊廼舎で言霊を教諭している中村孝道の門人であり、本居門の古典解釈に批判的であった。子息直方(寛政四年正月十一日〜文久元年五月十八日、医者で寺子屋師匠)も国学を学び、孫の大輔(大石凝真素美)は言霊学を弥勒菩薩信仰と結びつけた。天保五年に篤好は中村孝道の『言霊惑門』を入手し、不審の点を江戸の孝道へ書簡で訪ねている。
 天保元年に御家流の書を高田源祐から学んだ篤好は、翌年『天朝墨談』五巻を著す。同六年から八年まで農政研究に力を入れ、『耕作仕様考』等を著しながら、農民へ新農法を試して教える。だが惣年寄役役料請求に不正があるとの訴えがあり、責任をとって同九年七月から十一月まで謹慎するが、この時に歌道を集中して学び、和歌の読みを研究する。嘉永五年九月に石川郡へ出張した後、安政二年十二月に射水郡、同三年に大聖寺領、同五年正月射水郡と勤務先を忙しくする。同五年六月に突如閉門を仰せ付けられるが、この理由には諸説ある。備後国福山の老農民で木綿の耕作に詳しい生養亘を同三年に招いて農事について講演してもらったのが咎められたから、同五年六月に豊後国で木綿の耕作法に長じた千住弘太夫が来たので留めて教わったのが咎められたから、という二説が巷間伝わる所である。いずれも理由と人物の存在に根拠は薄弱である。千住弘太夫については「五十嵐篤好手記」に「炮術諸流日本修行 備後福山千住弘太夫 三木流 武衛流 西洋新流」とある。別に同四年大国隆正が小杉の賀茂神社近くに訪れたので会しようと高岡町の門人津島之篤からも篤好にも誘いがあった、という説がある。隆正の説は過激と映りやすく、かつ安政末頃高岡町の関野神社に立ち寄っているので、このことが洩れた可能性は高い。ただし処罰がなぜ篤好にだけあったのかは分からない。同六年五月二十一日に閉門が解除され、万延二年一月二十四日金沢出張中に倒れた。
五十嵐篤好の思想 篤好は富士谷家や本居家の学説をおもしろいが分かりにくいので、望月幸智の論が優れていると考えた。わが国の言語には霊力が備わり、それは神の創造なるもの故であるから、自在に複雑な思想を表すことが出来る。鳥獣はコン、ヒヨといった二・三音しか出せないが、人は七十五出せる。これには老若・貴賎・智愚・古今・都鄙の区別は無い。文字の意味が分かれば書籍に書かれたことが分かるように、声の霊を知れば詞は解せられる。
 天の性は善であり、地の性は悪である。人は天地の性を受けているのであるから善悪を有している。したがって平田篤胤の説は誤りであり、国学全体の恥である。人に悪があるからこそ教えがあり、善悪は物の表裏である。例えば強盗を捕らえて処刑することは善であり、生かすことは悪である。しかし善悪は用い方によって、善も悪になり、悪も善になる。人には情欲があるからであり、本居宣長はこれを無視したため説を誤った。情欲に負けないよう、強く堅く為さんがために教えがある。教えによって学問をするのは、ただ悪事をしないのみにとどまらず、本心を磨いて光を出すようにせねばならぬ。世界各国で風土により人の気質が違うため、教えには若干の違いはあるけれども、根本には違いが無いのである。人性に情欲の潜む限り、悪が出てくるのは当然のことである。その上で大切なことは、この悪と善とが絶えず四・六の割合で均衡を保っていることである。これが破れると乱が起き、悪が生じ、世は混沌の深谷に沈む。そうなってしまうと「祓」が必要になる。これはとりもなおさず善悪を四・六に調えることであり、悪のみを祓うことではない。場合によっては善をも祓う必要がある。神典には「よしはらひ」という言葉がある。これは善も悪も四・六から外れたのを、祓い捨てるという意味である。ここに初めて真の治、真の善が生まれる。このことに気づかなかったのは、神代より言挙げせぬ国であったからであり、あえて露に言うことを、言挙といって嫌ったのである。言葉には一々神霊が宿っている。そうであるから出鱈目に言挙げすることは慎まなければならない。慎めば言に宿る神霊が助け下さり、慎まねば禍が下る。ゆえにわが国では、例え教えであっても言挙げしなかったのであり、他の宗教のような経典は無いのである。
 わが国は北極出地三十度より四十度までの国であり、春夏秋冬の四時が正しく行われ、昼夜も四・六を外れることが無い。天照大御神ことよさし給ひし大御言のまにまに、君臣の位が定まり、動くことなくその職分を守り、尊卑が混じることは無かった。例えば風雨が烈しく、世間は闇になろうとも、やがて晴れては元の天は天、地は地であること、太古より変わらない。治乱はあっても、君臣が位を換わるなどということはなく、太古のままであるのは、天地と等しいのである。これがわが、皇国の神国なる所以である。
五十嵐篤好と宮永正運・正好の農業観 五十嵐篤好は農政家でもあり、天保八年に『耕作仕様考』で「農事勢子は乍恐御政事の第一に御座候」と著し、農書を引用して体系化した。特に参照した書が、宮永正運の『私家農業談』である。
 宮永正運(号・桃岳、享保十七年一月二十五日〜享和三年六月十八日)は砺波郡下川崎村で、持高七百五十石乃至千石といわれる宮永正長の長男に生まれ、和歌・漢詩・本草・茶道・連歌・禅・俳諧に造詣が深く、安永八年砺波郡と射水郡で蔭聞横目役・五箇山加祢山裁許、翌年に山廻役を務め、産物所助役の任に就き、郡・改作奉行や算用場、大聖寺藩からも訪ねがある。天明五年以降に農業の書籍を脱稿していき、技術面にとどまらず、農民の心構え、農業の尊厳、美食への警告、使用人と苦労を共にすること、敬神崇祖等も説いた。これを子息の恒右衛門正好(号・叔蕩・子蕩)が加筆発展させる。
 正好も漢詩・俳句・和歌を能くし、山廻役を務めながら、郷里の発展に尽くし、家財を激減させる。文化十年に父の遺稿を纏めた『養蚕私記』の中で、養蚕が国を潤し、農家を豊にするとある。更には同十三年の『農事談拾遺雑記』で土地柄に応じた耕作方法を採ること、湿田は休閑させるばかりでなく、稲田は麦・菜種→大豆→稲田へと田畑輪換というように乾田化し二毛作を行うことを提案している。また農家を一つの経営体として捉え、良き使用人と牛馬の良し悪しが農家の経営を左右するので、充分配慮するよう記し、飢饉に備える視点から為政者と農民の心得を説く。実はこの頃正好自身の経営が危機に陥っていたのである。正好の甥久兵衛は水戸の中納郡青柳村に開田し、水戸藩から賞せられる。また正好の子息や孫達はそれぞれの分野で足跡を残した。
 さて、五十嵐篤好は宮永父子の業績も押さえつつ、富山は高山が多く田に雪解け水や流砂がかかるため、水口に「かんなべ」という穴を掘り水温を上げる工夫をすること、緑肥としての上免草を奨励、早・中・晩の品種組み合わせが大切、特に早稲種の育成が重要であること等を記した。
五十嵐篤好の交友と門人 篤好は石黒信由が天保七年に航海術の書『渡海漂的』を刊行した際には、序文に国学者の立場で、この書が編まれたのも、素盞鳴尊の大霊による、と記す。万延元年に豊後国日田から廣瀬旭荘(兄は咸宜園の廣瀬淡窓、漢学者で佐久間象山・吉田松陰・頼三樹三郎・桂小五郎等と親交がある)が来た時は、篤好が金沢で出迎えた。田中大秀門下で飛騨国船津の篆刻家大森旭亭(冨山の小西有斐等は門人、文政十二年七十三歳で没した時には門下で富山の西中野白山社境内に碑を建立)と交流し、絵が巧みであったため、篤好はこれを讃じた。新川郡の伊東祐寿(通称・彦四郎、号・駒峯庵)とも懇意で、文政二年に能登島で辛苦をともにした間であった。祐寿は享和二年に完工する愛本新用水を開いた、沼保村の十村である。富士谷御杖とは国学を通じて親しかった。天保五年に七十九歳で没。
 高岡町医者の長崎浩斎とも親交が厚く、天保十一年には、神武天皇御即位以来二千五百年にあたるため、長歌を共に読んだ。弘化五年九月七日には当時珍しく、浩斎五十歳の誕生日を祝している。この縁で子息の長崎言定(通称・周蔵・元周)が、天保十二年と弘化三年に上京する際長歌を贈り、学問成就を励ました。言定は篤好から言霊学説を学び、嘉永二年に富山藩の前田利保へ歌道を説いた。篤好はこれを祝して歌を贈っている。
 福野野尻の菊池静斎(通称・六郎右衛門、号・隠鳳)は田中東仙に素読を学んだ後、富山藩の大野拙斎や岡田淳之に儒学を学ぶものの、国学の修得に転じ、篤好に就いた。安政元年に六十九歳で没。
戸出の吉田友香(通称・仁兵衛・久兵衛、号・静屋、文化五年〜明治八年十一月))は代々蔵宿を務め、組合頭や算用聞役等を歴任しながら、米質の改良に尽力して、弘化二年には藩から金二百疋を受けた。慶応二年十二月に公職を辞した際にも、藩は銀二枚を給して功を労った。友香は篤好に師事して蔵書五十三種・八十八冊を写本し、篤好の書いた『湯津爪櫛』を万延元年に出版する。静屋の号は篤好から授けられたという。子息仁平(号・琴堂)も郷里に活躍した。
五十嵐篤好門人.BMP
四、佐藤信淵の思想と昇庵による献策
佐藤信淵とその思想 佐藤信淵(通称・百祐、字・元海、号・椿園・松庵・融斎・祐斎・万松斎、明和六年〜嘉永三年一月六日)は、出羽国雄勝郡西馬音内で佐藤信季(通称・庄九郎、号・玄明窩)の長男に生まれる。佐藤継信の子孫と伝えられ、信季は諸国を巡り、蝦夷地に渡り、秋田藩にその開拓を進言し、藩政改革を上書するが、反対派により捕縛されることを察知し、信淵と江戸へ逃れたという。天明の飢饉に窮する諸国を見聞し、下野仁田村の錫山開坑のため招聘され、日光の鯨村猿橋家に滞在中の天明四年に没した。信淵が十六歳であった。
 信淵は宇田川玄随に蘭学・本草学、木村泰蔵より天文・地理・暦数・測量、井上仲竜より儒学を学び、享和の頃まで諸国を巡って学識を深めた。文化五年(四十歳)に阿波藩家老集堂家に請われて徳島へ赴き、戦術や砲術を講じて、海防を論じた。三年後上総国山辺郡大豆谷村に退き、平田篤胤や神道方吉川源十郎に入門する。これが幕府から睨まれることになったようで、江戸に居づらくなり、各地を巡って諸士との交際を深め、諸藩からの招きを断りながら、武蔵国足立郡鹿手袋村で経済書等の著述に専念した。天保十一年には綾部藩に勧農作を献じ、かつ盛岡藩で藩の顧問的存在であった新宮涼庭(天明七年〜嘉永七年、丹後国出身で長崎や京で学んだ漢方・蘭方医)との討論が評判を呼び、涼庭が家老の横沢兵庫に紹介し、藩主南部利済から熱心な招きがあったため断りきれず、天保十二年に五人扶持で仕官した。しかし従来から他藩の招きを受けずにきた手前、翌年に辞してしまった。弘化二年に老中水野忠邦の諮問があり、翌年正式に赦されて江戸へ入り、嘉永三年まで著述に力を入れた。
 信淵は天地運動の全ては、皇祖産霊神の神機に係ることであり、諸思想は神意、産霊神は生産力そのものであることを思索の前提とする。その上で経済とは国土を経営し、物産を開発し、部内を富豊にし、万民を救済することであると定義して、国の指導者は一日も怠ってはならないと警句する。また貧困の原因を、平和が長く続いて人々が奢侈に走ったためであると考え、次の四つを提示する。第一に君主は恭倹の二徳を守って自覚し、財を節約し国家万民のため用い、有能の士を採用する(創業)。第二に気候や土性を調べて各種産物を開発し、領内を豊饒にする(開物)、第三に生産物の流通を促進して行き渡るようにし、利益を上げる(富国)、第四に君主は神意を行うという難事を実行し、万世衰微することなく、永久に全盛ならしめねばならない(垂統)。
 更に三台・六府の制と八民の制を示す。士農工商をやめて一民に一業を授けて兼業を禁止し、一切の売買・賃借・雇用の私営を禁止して、租税を廃す替わりに専売制を導入して利益を公が収め、金銀を民に支払うことで、経済の危急を救うというものであり、これは周や唐の制度から着想した。
 三台とは太政台・神祇台・教化台であり、六府とは本事府(草民)、開物府(樹民・礦民)、製造府(匠民)、融通府(賈民)、陸軍府(傭民)、水軍府(舟民・漁民)である。
 本事府で食糧と衣服を作り、開物府は生産に従事し、製造府で修造・製作する。集められた生産物は融通府で全国に廻し、価格を平準化させ、外国と通商し国内に利潤を収める。陸軍府は兵を司り、親衛六営一万八千人・内衛六十三営と外衛百八十営の九万人、計十万八千人の常備軍と予備数万人を備え、これらを訓練する。水軍府は水軍の戦法を研究して港と諸島に備えて海上を警備し、且海外諸蕃を征伐する。
 その他、窮民の救済や捨子の保護、間引きを禁じ、教育を普及させるため、広済館・療病館・慈育館・遊児館・教育所等を設置することも企図した(教化台)。
 一方で、樺太の占領と韃靼の帰化を説き、皇大御国は大地の最初に成立した国で、世界万国の根本であるから、全世界ことごとく郡県とし、万国の君長は皆臣僕となさねばならない、神州の雄威を以って蛮夷を征圧すれば、世界を統一することなど難しいことでは無い、と主張した。
佐藤昇庵を富山藩が招致 信淵の子息信昭(号・昇庵・升庵)は文久三年に生まれ、江戸で父と同居し、薫陶を受けながら、安政四年に信淵の説く「垂統」についての詳細を、信淵門人大久保融と纏めた(『垂統秘録』)。更に佐藤家の伝承を『佐藤家譜略記』に留めた。盛岡藩の江戸屋敷で鍼医者を務め、父が辞したため、天保十三年に家督を相続する。時に盛岡藩では冗費節約のため、江戸邸の藩士を盛岡に移住させることを進めていた。しかし昇庵は江戸での交友関係から、辞職覚悟でこれを断り続ける。それでも文久二年十一月には移り、慶応元年本道医師として五人扶持を給されている。だが奥羽で戦乱の火蓋が切られる頃、藩を辞して三河国に赴き、遠州屋の娘婿として暮らしたという。
 さて、富山藩では家老の富田兵部が経済混乱の責任を取り自刃し、財政は破綻に瀕していた。安政四年九月に前田利保は盛岡藩を通じて昇庵を招き、信淵の垂統についての講義を依頼する。昇庵は講義のみならず、藩主前田利聲に宛てて富山藩の産業政策を献策した。昇庵の講義では『垂統秘録』『物価余論』を採り上げ、明治維新後に富山藩政を一手にすることになる林太仲も、この時十七歳、講座を聴講したという。
 献策の概要は以下の通り。越中各地と飛騨から流れる川が富山で神通川に合流して海に注ぐから、舟運は必ずこの地をよぎる。寒冷で土質は良くないものの、田畑は良く開け、米粟は多く産出する。海岸は狭いものの漁労人口は多い。売薬業者が数千人いて、全国の情報を集約できる。売薬の利益は莫大であり、富山市中数万人を養うに充分である。したがって藩営の専売制を実施すれば、十年を経ずして隣国から財が集まり充ちるようになる。以前から税額が高いことで全国有数であり、農民の利益が少ないばかりか、年貢も納められなくなりかねない。人口は富山町を除いて六万人程度であり、一万石に付き六千人に過ぎない。江戸では加越能第一の産物は人であるといわれるくらい流民が多い。このままでは田畑が荒れ、蝦夷地のような荒野に成り果ててしまう。宗教では一向宗に帰依し、外では王法を唱えて藩主を崇敬していると見せかけ、内心はただ阿弥陀と親鸞のみを尊信帰依している。藩が用金を集めようとすれば不仁であると罵倒し、苦乱強弁して額を引き下げようとするのに、本願寺へは競って多く寄付しようとする。こういうことは恐るべき悪弊であり、いつ一向一揆が起きるか分からない。富山藩第一の病巣である。
 以上を総括し、次の諸点を提示した。売薬は富山藩の宝であるが、弊風を改めないと廃滅してしまうので、産物会所の下に支配すべきである。漆樹の植樹を農民が持高一石につき一本行えば、一時に十万本が可能になる。漆樹一本は水田一石の利益と同じである。手間賃・肥料代として漆百本につき金一両ずつ渡し、漆一升につき二十匁ずつ上納してもらうとよい。藩では早速漆苗を神通川沿岸堤防に植樹した。売薬に関しては、すでに弘化元年二月反魂丹役所は町奉行支配から産物方支配に変更して機能強化を図るとともに、他藩の富山売薬差し止めを解除すべく全力を挙げていた。
佐藤昇庵1.JPG
佐藤昇庵2.JPG

万葉歌碑
・氷見布施(円山)布施神社境内
享和二年五月十八日高岡町年寄服部叔信(名・輗、号・楓翥・淳卿、槇屋から天野屋へ養子、詩・画・篆刻)建碑、撰文・山本有香(名・忠良、号・封山・蘭卿、通称・中郎、高岡町茶木屋日下家の生まれで京油小路で開医)、書者 題字・花山藤公、撰文・内藤元鑑(号・愚山、字・孟章、高岡片原町で開医の後、親戚内藤宗安の養子として加賀藩医)
・東岩瀬諏訪神社入口
嘉永六年若林喜平次(号・楓斉)建碑、書者・千種有功(号・千々廼舎、左近衛中将正三位、朝廷絵師岸岱を介して依頼、岸岱は東岩瀬出身で母が若林家の出である岸駒の子で共に御所出入)、碑文は京の石工が彫り、廻船で大坂から運搬する。
伊波世野に秋はぎしのぎ馬なめて
はつとかりだにせずや別れむ
         大伴家持
みやびたる むかしのあとに
いわせのに かはらてにほへ
あきはきのはな
         千種有功
・新庄荒川堤(富山)
安政三年には建碑済、同五年埋没
太刀山にふりおける
たち山
雪を常夏にみれどもあかずかんからならじ
・雨晴(高岡)
安政五年肝煎宗九郎建碑
馬並めていさうち行かな渋谷の
きよき磯みによするなみ見に
過渋谷崎見岩上樹歌
磯上之都萬麻乎見者根乎延而
年深有之神佐備爾家里
     大伴家持
・中市(富山)浄土真宗金乗坊
十九代西塔公章(富山藩主の和歌の師)
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第三章 本多利明の思想と上田作之丞の政策

一、本多利明の思想と加賀藩
本多利明の経歴 本多利明(本田とも署、幼名・長五郎、長じて繁八、通称・三郎右衛門、晩年は理明、号・北夷・魯鈍斎、寛保三年〜文政三年十二月二十二日)は越後蒲原郡辺りに生まれ、祖先は加賀藩の出身で、浪人して越後国に来たとも言われる。十八歳で江戸にて和算を関孝和正統で幸田親盈門下の今井兼庭に学び、寛政六年孝和百年忌を主催し碑を建立した。また幸田門下の千葉歳胤に天文・暦学を学び、漢訳洋書を通じて研究する。山村才助・司馬江漢・朝比奈厚生・野村立栄は同門である。このことは利明が通商・航海を主唱する因となる。また工藤平助から蝦夷地の情勢について知識を得、北方のロシアとは開国・交易をもって対処することを持論にする。さらに経世論の観点から熊沢蕃山・新井白石・荻生徂徠の学風を学び、水戸藩の立原翠軒や小宮山楓軒と交際があった。
 明和三年・二十四歳の時に、江戸音羽一丁目に家持町人の身分で算学と天文を専門とする私塾を開く。人々は利明を「音羽先生」と呼んで親しんだという。奥羽や常陸に旅し、天明の飢饉の惨状を見分する。享和元年に蝦夷地へ渡航し、文化五年には高齢を理由に幕府からの召抱話を断り、門人の最上徳内を推挙した。徳内は幕府の蝦夷御用を務め、利明に高田屋嘉兵衛の船がロシア船に拿捕された情報を伝えている。
本多利明の思想 利明の思想は天明の飢饉を教訓とすることで、寛政頃に出来上がる。航海術に関する天文の実践的知識は石黒信由にも影響を与えた。以下に思想の大要を記す。
国民人口が増加するには国内産業の拡大が必要である。しかし国内産業の拡大には限界があり、人口増加には際限がない。これを補うため他国から金銀を取り込む交易が必須となる。そのためには海外へ渡航せねばならないので、天文・地理、算術を学ばねばならない。
 国民人口増加の根源は夫婦にあり、人口増加率は十九・七五倍であるから、西欧では王侯でも一夫一妻である。当然食糧を増産せねばならず、これを開業(殖民)と貿易に求めれば、わが国はイギリスと並ぶ二大富国・大剛国になるであろう。そうすれば天からの預り者である人々を餓死させるなどということは無くなる。これはまさに永久不易の善政にして、自然治道の制度である。
 天下が治まると武家は増殖し奢侈になる。その上に商民や僧工遊民も増えれば、農民だけでは支えきれなくなる。為政者は農民人口を増加させることに留意し、四大急務を採用すれば、人口は三十三年で十九・七五倍に増加し富国になるであろう。四大急務とは、焔硝で岩石を破砕し河道を通して新田を開くこと、金銀銅鉄山から産出される鉱産資源を管理し異国に流出しないようにすること、船舶を建造して渡海、運送・交易をすること、周辺諸島・小笠原・蝦夷地を開発すること、である。そのために渡海技術や天文・算術を学び、利益を収奪する商人には委ねず幕府や藩が管理せねばならないこと、異国との交易は戦争同様であるから是が非でも利益をあげねばならぬことを強調する。別に小急務に四条を建て、新銅より金銅を絞り取る方法、潮汐の鹵塩より焔硝を抜き取る方法、屋根瓦を鋳鉄瓦に替えること、紙張障子を厚板玻璃障子(厚板ガラス)に替えること(船舶採光と蝦夷やカムチャツカでの採光防寒)を付加した。更に世界を寒国と暖国とに分けて考察する。前者の東アジア諸国は米を主食に草木の葉枝・幹根を次食、肉食を慰食としているため、温和・惰弱であり、家は木造のため、子供は草木のように智恵が脆く淡白である。一方後者の西洋諸国は肉や油を主食に、果実・穀類を次食としているため、勇猛で知性があり、家は石で出来ているので、子供は金石のような賢く才がある。
 また蝦夷地は雲霧が深く湿地の多い寒国であるが、遍く焼き払えば百穀豊熟の良地となる。この開拓には奥羽・越後・佐渡・加賀・能登よりの移住者と囚人を用いればよい。やがて「カムサスカ」に都を移し、「西唐太島」に大城郭を建立し、「山丹」「満洲」と交易し、国号を古日本と改め、仮館を据え、貴賎の内より大器英才で徳と能を兼備した人物を選挙して郡県に任じて地方の開拓に力を入れれば、数年で世界第一の大良国となる、というように思いは拡大していった。そのためには西欧諸国に倣った改革が必要であり、賢君明主・英傑の仁政が必要であるとする。
 加えて町並みとゴミ問題や仮名文字をローマ字に改める論などを展開し、慈悲を根本としたキリスト教を自然治道の理にかなったもの、西洋の英雄は自然治道の体現者であり、神・儒・仏の道も本来はキリスト教に淵源があるとまで言い、わが国に真の治道を得ない原因は支那の思想・文化を崇拝したからと、地動説を例に挙げて難じた上で、西洋式に万事切り替えることを主唱する。
本多利明と加賀藩の関係 文化六年三月二十六日に、加賀藩は生涯合力米二十人扶持を支給するという条件で招く。藩士としてではなく、いわば政策顧問のような立場としてであった。特に期待されていたのは対ロシアの海防であり、六月二十一日に用意が出来次第金沢へ赴くよう伝達があった。当時海防は焦眉の急で、文化四年六月から七月にかけ藩は海岸の調査と武具の点検を命じ、非常時の出動及び人夫の動員計画を策定していた。馬廻組金森量之助知直(千七百石)三十二歳が、四歳の娘と身重の妻を残し自刃したのはこの時である。海防令は同五年九月に、藩主前田斉広が帰藩して直接指揮を執ることで解除されるが、日本海の航路を扼する加賀藩として警戒を怠ることはできず、同六年七月八日利明主従三人は江戸を出立して十九日に金沢へ着いた。七月二十八日に御目見、八月七日に十五人扶持が支給される。十一月四日に学校方御用戸田五左衛門就将宅で講演し、異国の風土や大洋廻船、蝦夷地について話すとともに、新川郡の布施川・片貝川の川原を開発し上田にすること、宮腰・大野・黒津船・木津・高松などの砂浜にサツマイモを植えること、大船を建造すること等を提案した。前田斉広にも西欧諸国について話し、軍艦の模型を城内二の丸の能舞台に陳列して操縦法を説いた。
 しかし一方で藩士の反感は根強く、水車で木を挽かせる装置の模型を作り上覧することになった時には、何物かにより大切な箇所を破損され動かなくなる、等といった陰険な嫌がらせを受ける。そのため同七年三月に江戸へ戻ってしまった。但しその間に入門する藩士は少なくなく、その中には大橋作之進成之、長谷川源右衛門猷、遠藤数馬高m、宇野八兵衛、萩原武左衛門、近藤作右衛門、中西惣兵衛直救、河野久太郎通義、三角風蔵などもいる。上田作之丞もその一人であった。
二、上田作之丞の思想と実践 
上田作之丞と本多利明 上田作之丞貞幹(後に耕、字・叔稼・竜郊・竜野・幻斎、天明八年〜元治元年四月十一日)は、八家の一つ本多家に徒士頭として仕える上田清右衛門貞固(二百五十石)の次男として生まれ、親戚の大屋理左衛門の子息が中西惣兵衛であったため、就いて算術を学んだ。寛政十年に父が亡くなり兄の八百記が家督を継ぐ。翌年の地震で叔父の杉一家が同居した縁で、享和三年に杉家の養子として虎之助と名乗るものの、文化二年に復籍した。翌年兄が勤務中に納得できない指示に従わず口論したため改易処分が下り、八百記はそのまま上京した。そのため作之丞に一家の生活がかかった。弟の三郎兵衛は榊原家の養子になり、作之丞は母と瑞光寺に三十日間いた後は五・六年間に転居を十一度も繰り返す。新坂の上に寺子屋(拠遊館)を開塾して十余人を相手に素読、同四年には算術も教え、門弟も二十人になるが家計は苦しかった。それでも学問を修める目標は捨てず、榊原家の厄介人という立場で藩校明倫堂に入学し、二度の賞与と銀二枚・金一両を受けたほど励んだ。同六年に本多利明に入門する。
 本多利明は作之丞の力量を高く評価し、著述の作業を手伝わせた。作之丞も利明によく仕え、よき相談相手でもあった。利明には娘「てつ」がいた。この娘は才女であり、天文・算学に通じ、尾張藩広式で手習い・琴・三味線を教授していたこともあり、加賀藩でも江戸屋敷で姫達に教えていた。当然のごとく作之丞に婿養子の話がある。迷いに迷った作之丞ではあったが、上田家再興のため家名を捨てることが出来ず、断念する。しかし諦め切れない利明は、江戸に帰った後も、書状で江戸へ来るよう作之丞を誘っている。
学者への道 そうこうしている内、同十四年には塾の生徒が七十人ほどになり、自身も明倫堂の生徒身分であったが、小松習学所の教授に就任する。更に本多家へ七人扶持で復帰して儒学を教授する。ここに至り、明倫堂を退学し、小松習学所は常勤を辞して月に二回の非常勤になった。文政三年には兄が帰参を許され、百石で家を再興、後に二百五十石に復す。塾は私塾になり、門人は数百人に上る。この中には本多一門や人持数十家もあり、影響力を増していた。そのため讒言にあい、異端の学者扱いを受けるが、藩は小松の郷学に白銀三枚で雇用し派遣した。同七年に免じられるが、明倫堂の助教として推挙される。だが他の助教から一斉反対を浴び、この話は流れた。藩内では異端の儒学者という風評が強まり、我慢の限界に達した作之丞は、今後も講義は継続することを条件に本多家を致仕し、浪人身分となった。
著述活動と黒羽織 天保三年頃から著述に力を入れ、同七年から八年にかけ飢饉の状況を視察する。同八年に明倫堂助教大島清太が作之丞を批判し、同九年七月から翌年四月まで全国見聞の旅に出る。
 藩主に就任した前田斉泰の元で舵取りをしていた奥村栄実は、天保七年に小生産者の自立を主張していた寺島蔵人の一派を一掃して産物方を無力化し、財政再建を進めるため銭屋五兵衛に金融を依頼した。
 寺島蔵人兢(安永六年八月十三日〜天保八年九月三日)は、定免制を採用し、藩が農民に貸し付け農地の再興を図るとともに、給人と知行地を断絶させ、十村が収納にあたる改作法を理想とし、文政元年に本多利明と交流のあった関九郎兵衛による「御国民成立」を批判する。関九郎兵衛重秀は八家の村井長世の臣善左衛門の子であり、自身は村井家から藩士の身分に替わる。文政元年百五十石。文政初期は利明の門人達が活躍していた時期であり、経費の節減と政務の改善に努め、困窮藩士・農町民の救済と生活の安定を図ることを目指していた。金沢で芝居と茶屋町を公認したのもこの一環であった。一方で十村を断獄し(文政二年三月〜三年六月)、郡部を藩の直接指導下に置こうとした。蔵人はこれを厳しく批判し、文政二年三月から七年二月まで藩政から遠ざけられるが、復帰後は教諭方として前田斉広の耳となり手足となり風俗心得方の御用に専念していた。友人には海保青陵と親しかった者もいるが、思想上の影響は無かった。しかし斉広の薨去後は、天保七年十一月五日に本多政守に預けられ、翌年四月二十二日に能登島へ配流される。
 奥村栄実は仮名の読みに造詣が深い国学者でもあり、農民の借財を減免する高方仕法等の見返りに協力を得て手上高・手上免といった申告納税額の増加を進め、産物方に替わって物価方を設置し、新規株立の運上銀や冥加銀を廃止し、物価の安定を優先させた。これを批判したのが上田作之丞の一派、通称黒羽織党である。
 作之丞の門人に関沢六左衛門房清(後に安左衛門、号・遯翁)がいる。天保の飢饉には自費を投じて救済にあたり、サツマイモの栽培を提案する人物であり、八家の長連弘(三万三千石、大隈守)に作之丞を紹介する。天保十四年に奥村栄実が没し、長連弘がその後任として藩政を担うことになった。作之上の門人達(関沢房清、水原保延、近藤信行等)も要職に連なり、綱紀粛正と緊縮財政を進め、海防施設の建設に力を入れる。藩営の産業振興策を実施して、銭屋五兵衛を河北潟干拓の水質悪化を理由に失墜させた。財政の改善にはある程度の成功を見るが、しゃれた服装に揃いの笠、会合の際には黒羽織といった出で立ちで、あちこちで不和の種を作ったため、嘉永七年六月に黒羽織党は失脚する。作之丞も嘉永三年に九州を見聞して藩に報告したことで白銀二枚を受けるが、黒羽織の失脚に連座して毎年銀十枚支給される替わりに教授することを禁じられた。安政五年には徘徊指留となり、『因果物語』を記して自伝とする。元治元年四月十一日に七十七歳で没し、子息は江戸の羽倉簡堂に入門した。羽倉簡堂(寛政二年十一月一日〜文久二年閏八月二十一日、字・士乾、号・外記)は大坂に生まれ、二百三十俵取の旗本。古賀精里に学び、攘夷論を展開している。
 黒羽織失脚後の藩政は横山隆章が担当し、商人の支援で財政再建にあたるとともに、海防に務めるものの、安政五年の一揆や大災害の続発で借財の増加を余儀なくされ、文久二年頃から黒羽織の復権が始まったが、やがて時代は急展開し、明治維新を迎えることとなる。
上田作之丞の思想 作之丞は、聖賢の学は貴重であるが何分古い外国の話なので、これに没頭しても益は無い。書籍で大意を理解したら、これを社会に生かさねばならない、と拠遊学館学則で謳う。門人から見ても、作之丞の学風は韓非子・老子・朱子等を寄せ集めた「鵺学」に写った(『聖学俚譚』)。それは天保の飢饉における惨状を目の当たりにしたからであり、領主の仁政と輔弼者の責務を強調する。株立を増やして運上銀を徴収するために、町や村の役人の数を増やすことは、かえって経費を増やし、賄賂が横行しかねないとし、これは士道の退嬰化にも原因があると断じて、明倫堂にも言及した。また農業を軽視した結果が、農民に借金をさせ、頭振を発生させ、働き手が商工業に流れる元になったと指摘し、十年後には農民人口は十人に一人まで減るであろうと予測する。商の本質は「天下之融通」であり、倫理に則り利益を上げるのならば正当だが、大商人は欲のまま行動した「姦」であると批判する。領内人口からすると、本来米不足はあり得ないはずなのに、商人が米場という博奕場を通じて移出するから不足し、物価を騰貴させ、あげくは藩財政を窮乏させる。藩は藩士への払米をそれまでの年二回から十月の一回にすると仲買に示して米を掌握し、米価を安定させて凶作に備え、小利を求めず、毎年甚だなる「凶歳」と言っていれば他国の米が入り、領内の米は出ないのであるから、数年で富国を達成でき、九年で米の貯えが出来るであろう、と主張した。
 それゆえ治世・修身の根源に職分・分限の遵守があり、格物致知は誠心の畏敬から起こると考え、「敬」「礼」は「譲」「倹譲」の徳を生むと説き、商人には小生産者の自立を助成する心を持つよう諭した。また人は万物の霊であるから、落魄者はただ時運に合わず、凶作・水難などに遭遇した「良民の乞食」であるので、仁政が必要であるとしつつ、武芸や学問を忘れ琴・碁・書画・木石を愛好する武士、農業に励まず詩歌管弦に現を抜かす農民、妓娼と博奕行為に手を染める工・商人は、「姦民の乞食」として問題視している。
 作之丞は飢える領民を一人も出さないことに藩と藩士の存在意義があると考えた。したがって天保の飢饉は失政であった。この観点から加賀藩の経済運営について、銀札を発行して商人発行の私札からなる銭札の流通量を年々減らし通貨発行権を回復する、飢饉や不景気の際には城普請・河川堰堤の補修等の公共事業を行い、武家は参勤道中の糧持人を雇用し、屋敷の除雪を依頼する、流通を停滞させず雇用を確保する、藩士は救米を提供し組合頭を通じて配る、農民には耕作助成金を多めに配分する、参勤時の衣服は江戸ではなく領内で誂える、富札を公認する、等といった提案をし、藩の貸与銀の免除や農民への年貢皆済の強制を止める等徳政実施を主張して、収支を試算する。更に米の良否は土地本来の磽薄によるもので、肥料の多寡ではないから、奉行になる者は幼年時からこのことを良く知っていなくてはならないと指摘した。
上田作之丞と越中国 作之丞は自らの見聞を広めるため全国各地を旅行するが、越中国にもくまなく回った(『老の路種』等)。新川郡では岩瀬、石割村、下山、舟見村で椎茸に関心を示し、上市や魚津など、射水郡・砺波郡では伏木、高岡、放生津、氷見など、小杉、太閤山では西瓜に言及し、福光や今石動など、富山では八尾や四方などへ足を伸ばす。更に各地で学問教授を行い、多くの人々に影響を与えた。
 一 砺波郡と新川郡
 天保八年に砺波郡を訪れた際には、高岡町の手崎屋彦右衛門が享和二年以降七百十七石余を取得したことを知り、農民の税率を商人より少なくすべきであると考えた。また在郷町が多く、村が町のようであったという。他方で天保期の新川郡上市村を美しく、柔和温順である絶賛し、農商の共存を高く評価している。この頃の上市は新川木綿生産と流通の中心地であった。農商の共存は弘化二年頃の砺波郡金屋岩黒村・青島村でも見られた。福光村近く細木野村の祭礼を見聞した作之丞は、商人が正当な値段で商売をしている様に感心している。山村で若い農民が柴山を焚き、傍らの山腰を焼いていたので訪ねた。来春になれば蕎麦を蒔くので、焼けた草茎も肥料となるとの返答であったが、事を始める(開物)準備と時機を逸しない実効性にいたく感じ入った。また新川郡鹿熊村の灌漑計画を例にあげ、新田開発は人口の増減に応じてするべきであり、新田裁許等の係りを増やせば逆に農民負担が増加することを指摘し、倶利伽羅山を切り通して船を通す計画に警告を発した。
 今石動では、文政から天保にかけて教授する。今石動・城端・氷見町裁許(通称今石動奉行所)の与力・足軽、更には町人たちも参集し、『孟子』の「謹痒序之教申以孝悌之義」から「申義堂」と名付けられた。木の額は今も石動小学校にある。安政元年には鉄砲町の松永家を使い、町人を対象に教諭する。作之丞は「婦負・新川二郡の間は古学の変風有りて、学者全く句読文字の中に陥り、実学絶えてなし。我其の迷ひを開かんと思ひ、種々談説すれども益なし」と記している。
 二 射水郡
 @ 氷見 天保六年五月二十日新任与力の明石主計(百石)と来て、二十二日に初講義をする。田中屋権右衛門は『應響雑記』に「学授の噺并世俗人情の噺等、甚面白ク肺肝ニ銘し」たという。以後しばしば訪れ、その内講義をした記録のみ拾い出すと次のようになる。
  天保六年閏七月十九日〜二十二日 『孝経』 
      九月十九日〜二十三日 『論語』「学而」「為政」
  天保七年三月二十一日〜二十三日 『論語』「八佾」の一部
      六月十七日〜二十二日 『論語』「里仁」「公冶長」
  天保十四年四月十三日〜二十日 『論語』「八佾」(少々残す)、『詩経』「周南」「召南」「邶風」
  天保十五年十一月一日〜五日 『孟子』「梁恵王章句」
  弘化二年五月十五日〜二十五日 『老子』下巻(十五日〜二十四日)、
   『孟子』「公孫丑章句」下「滕文公章句」上(二十日から)、
   『中庸』(二十五日)
      九月二十六日〜二十八日 『孟子』「滕文公章句」、『近思録』「道体」、『大学』(二十七日)
  弘化三年四月二十二日〜五月五日 『孟子』「離婁章句」上下、
    『近思録』「為学類」(「論学」「為学大要」)
  弘化四年三月八日〜十九日(?) 『孟子』「萬章」、『近思録』「致知」(「格物窮理」)、『荀子』
  嘉永四年九月二十七日〜十月四日 『孝経』
 この教室は氷見町人の「仲間」「社中」により維持され、経費は「上田先生頼母子」から捻出する。作之丞も毎回講義に力を入れ、日に二回、時には夕刻まで及ぶこともあった。出席者は天保十四年二月には二十人程度を維持しているが、弘化以降は減っている。
 天保六年九月の『論語』では、視聴言動の内、視聴は先方よりこちらへ向かうもの、言動はこちらから先方へ向かうものであり、まず視ることを第一とすべきであることを示諭した。
 同七年六月の講義では、「朝に道を聞いて夕に死すとも可なり」という句に関し、次のように説いた。元来体を自分のものと思うのが愚かなことである。自分の物と思うから万物に欲心が起きる。全ては相対的で、人の物も明日は我が物になるかもしれないし、親子の関係でも、子が父母を見れば親、子の子から見れば子は親である。我が家の庭前、築山、樹木を面白く思うのは、自分の物にしたという欲心から生じたものである。我が身、我が物ならば、生死も思うままであるはずだし、手足、視聴、言動の理も知っているはずなのに、どうして生まれて死ぬのか、手足がなぜ動くのか、全然分からないではないか。人身のみではなく、万物について理を悟れば、朝に聞き夕に死するも、厭うことはないのである。
 また同月の講義では、学授について次のように説いた。学授とは単に文字を知り、書籍を熟読することではない。ただ現状を顧みて善悪の理をわきまえる規矩準縄であることを知り、ひたすら問い、ひたすら学ぶべきである。学授とは衣類を収める箱に薫物を入れれば、いつのまにか香りが移り、清浄になるようなものである。悪事に染まるのは油燈のようなものである。外見は明るく、光り輝き、美麗であるが、しばらくすると油が無くなり、光が弱くなってやがて消えてしまうのだ。
 同十四年四月の講義では、聴講者から仁義あるいは性善悪の意味について質問があった。『易経』に天の道は陰陽、地の道は剛柔、人の道は仁義とあり、これで五常の道は全てである。天の道が陰陽であるとは、形象なく、暑さは陽で寒さは陰といった類である。地の道が剛柔であるとは、形象があり、剛柔の二つに限られ、即ち山海・草木・金石の類である。人の道が仁義であることについて、天地の有無の物を人身に受け、本心の性質により、それぞれ配当されることを義といい、老若・貴賎・男女に応じて、その人々の宜しきように心を用いるのを仁という。そうであれば礼智信は自然とこの中に含まれるのであり、五常を短く軽く言う時には、「これほどにせよ」という七文字に収斂される。文字・名目書面に関わらず、自得することが学授である。
 嘉永四年九月二十五日には学授大意易簡の歌を吟じて見せた。
俗わしの物じゃの里をふり捨て、ならぬあり家をとわんとぞ思ふ
俗わしは当時の人情、物じゃはこう言う物じゃなと、根元も知らず人に聞き、或は己が思い込みにて、道に違の理を求め、内心危ぶみ覚束なき事はみな学問にあらず。学問は何事もなく実事にかけ、こうせねばならぬという理を、私心を去り求め、危なからざるを事々物々に用いるの外他なし、という意味を込めた学授の歌であった。 
 またこの時期の講義中で、一族について次のように解説している。親戚は一家のこと、親類家は父夫方、戚類家は母妻方、親とは此方より彼方へ、戚とは彼方より此方へを意味し、婚とは嫁娶をいう。婚の字は周の世に出来、それまでは朝でも嫁に行ったのであるが、周の世に至り夕暮れに嫁すのが一般的になったことが由来であるという。姻とは同じ家から再び嫁娶することをいい、初めての場合は婚姻とはいわなかった。この元に重縁を一家とする考え方がある。縁が薄い、或は一家の続きを婣といって区別した。九族とは自分を含む前五代と後五代の九代の血筋をいう。
 A 高岡 作之丞と高岡町との縁も深く、たびたび訪れては、天保二年に上から下まで相応の言行あるべきを論じた秘策を献じ、同七年の飢饉では、高岡町の戸数を四百八十戸・人口二万四千二百人、一人一日の米高二合五勺として、窮状を五段の中、富の下に当たり、今年の荒餓を加えても極貧には至らないと観察している(『済急問答余譚』)。弘化初年には大仏裏に広がっていた桑畑を借りて学舎を建て、桑亭と命名した。嘉永頃まで町人の多くがここで学んだという。
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第二章 海保青陵の思想と加賀藩

一、海保青陵とその思想
海保青陵 海保青陵(名・皐鶴、字・万和、通称・儀平、宝暦五年〜文化十四年五月二十九日)は、丹後国宮津藩家老角田市左衛門の長子として江戸で生まれる。角田市左衛門(号・青渓)は武芸に秀で、太宰春台(徂徠学を経済学の点から発展させた)門下の大塩平(与)右衛門や荻生徂徠門下の宇佐美恵助(号・灊水、『読荀子』を校訂・『弁道考』『弁名考』を出版)に学び実学を貴んだ。伯母が藩主青山家の継室で藩主の母である。藩の内紛にあっては勝手方であったためその渦中にあり、宝暦六年に隠居し、二歳の青陵が家督を継ぐものの、同八年に父子とも暇を願い、明和八年尾張藩に招かれる。ただし市左衛門には青山家から生涯二十人扶持と金百両が毎年支払われ、藩に子を一人残すように言われていたこともあり、青陵は尾張藩で御目通り・留書に召されたものの学問中であることを理由に辞退し、安永五年弟に角田家三百石を相続させ、自身は祖父の父方海保を称して天明二年青山家(宮津から美濃八幡へ移封)に百五十石の儒者として戻った。
 青陵も十歳で父と同様灊水に入門し、十五歳で『礼記』を鄭玄の注で読むが疑いを持ち自分で注を打ち直す。灊水は青陵に徂徠学の手法として古典の解釈を通じて天理を明らかにするため、秦漢以後の本を読ませず、青陵の打った注の誤りを指摘するに止めたという。十六・七歳に奥医師桂川甫三の元で一つ年上の子息甫周と兄弟のように生活した。甫周や堀本一甫は父の門人で、二人とも後に法眼・奥医師になる。やがて甫周は前野良沢や杉田玄白等と『解体新書』の翻訳に務め、来日した植物学者ツンベルクから賞賛される。青陵はこの甫周より洋学的な「理」について厳しく教えられた。安永五年・二十二歳の時に灊水が没し、尾張藩を致仕して日本橋檜物町に開塾して経世論を研究する。天明二年からは丹波篠山藩主世嗣青山春橘と次男久之助に書を講じ、藩財政について父と研究する。同九年藩を辞し全国を遊歴する。寛政四年の秋に父が没した後も変わらず、全国各地で書を講じた。同七年に大坂で開塾して翌年京に移し、同十三年尾張藩で細井甚三郎(号・平洲、上杉鷹山の藩政改革にも関与)に替わり江戸で儒学者として就職するものの、病気を理由に享和四年に辞して各地を歴訪し続けた。文化二年夏に金沢、翌年三月高岡、七月四日に立山登山し各地を訪れ、福野に寄ってから京へと戻る。
経済論 青陵は万物の背後で統一する天理の存在を前提に、儒教の他に老荘や法家思想・仏教・西洋の思想に関心を抱き、治国安民という経世的観点から学問をとらえた。そのため今の世は富国を第一とし、仁政によって国を運営する時代ではないと断じ「王道」を否定し「覇道」を説く。そして経世済民に奉仕し世に役立つ者を活智であり、王道を説く儒者は死智であるとした。その上で聖人とは「天の理を得て身に行ふ人」と定義づけ、一切の偏見にとらわれず、知恵は知恵からも自由であるときに生きた知恵が働くと考えた。ゆえに孔子は善悪二つの外に自由な空位を一つ作り、そこに立って善悪を用いるのが理であると生きた知恵を教えたが、それらさえも外から見る工夫をするのが真の空位であり、執着を絶つということであるとする。これが釈迦や老子、それにギリシアの四元説(水・日・土・気)だとした。智恵を養うのに三つの段階があり、まず己を贔屓目無しに見ること、次に自己中心から解放すること、そうして「皆利我」が許される「養生主」に到る。
 形あるものは下がり、形なきものは上がる。この均衡が必要であるが、治世が長く続くと富は次第に下へと降りる。これを上に持ち上げる工夫が必要であり、そのため利息や運上を取るのも天地の理であるととらえ、国を富ますには農業生産を拡大するといった王道的方法だけではなく、他国の財貨を自国に吸い込むオランダのような覇道的手法が必要であると説く。そこで各藩は商売の元手を大坂商人から借り、売買取引をして利益をあげることを主唱する。これを説明するのに、武士は商行為から超然ではないことを君臣関係が取引関係であると例えた。領主は国を民に貸して利息を受けている。家臣は自分の智力を主君に売った対価として禄を得ている。したがって利を得ることへの偏見を除き、すぐれた智者が治国安民を図り法治を制度化しつつ、人々には生産・交易に目を向けさせ諸国間の経済競争に勝ち抜いて国富を増やすことが重要であると説く。これが具体的には藩による専売制として実行に移された。
二、海保青陵による加賀藩への献策
 文化二年夏・青陵五十一歳の折に加賀藩へ来る。青陵には今日二十五冊と名前だけ分かる十七冊の著書があり、その内の十二冊で加賀藩に言及している。『万屋談』『養心談』『稽古談』『升小談』『陰陽談』『綱目駁談』『枢密談』『養蘆談』『東贐』『新墾談』、特に滞在中の終盤に藩から遠慮せずに建言してほしいと依頼され記した『経済話』がある。
 青陵の目には、加賀藩の法は旧式で時代に合わず守りにくいと映った。また利家・利長の時代から支出が百倍になっているのに、藩の生産は変わっていないのであるから、財政の悪化は当然であると断じた・その上で金銀が重要であるとの認識をもち、米札を発行して金銀同様価値を倍にして運用し、利を生み出すことを提案する。これは大坂で升屋小右衛門こと山片蟠桃が米札を仙台藩の財政再建で用いたことが背景にある。加賀藩では宝暦五・六年に藩札発行で懲りた上に、安永三年の幕令で新規藩札発行が禁止されたため、政策からは外されていた方法である。しかし青陵の提案を受け藩は、文化十一年に「銀子手形之印紙」という名目で、事実上の藩札発行に踏み切った。
 青陵は加賀藩にはせっかく山や海があり、産物が豊富であるにも関わらず、他国へ移出入をせず、大坂へ廻米した代金のみで江戸の支出を補っている。財政支出が拡大している今日にあり、諸藩との通商で利を獲得する方法を採るべきである、と強調する。更に世間では加州米は悪米の代表のように言われているが、当地に着てみると実に良い米である。それは悪い米を大坂へ廻し、良い米を住民が食べているからである。これを良い米は残らず大坂へ廻し、加州米の半額ほどである越後米を買うようにすれば、たちまち二・三十万石の利は出るはずである、と指摘し、加賀・越中の材木や塩を移出すること、城端・小松の絹を京で売れば年に二万五千両は入ることを提案した。
 藩の産業に関しては、鉛・明礬・礐石(礜石か)・硫黄・朱・薬草・金銀銅・瑪瑙・水晶等の資源開発、薬物・煙硝・織物・酒等を改良・増産して、藩の保護下に移出することを提案する。そこで加賀藩は、文化八年に「他国出御制禁産物之品」を公布し、紙・大豆・葉タバコ・米・木綿・蝋・薬種など十七種類を移出品に定め、鉛・漆・塩硝・硫黄・酒・塩・絹など二十七種類は移出を禁じた。その中には青陵が出すべきであるといった物も含まれている。
 また三州には良港があるのであるから、これを整備したら長岡藩にとっての新潟のような存在になる。そのためには大坂に倣い施設を充実させて北国第一の港を完成させるべきであり、大坂の大商人を相談相手とせよ、と提案した。
 青陵の献策は、取捨選択されて実行に移されるものの、寺島蔵人は批判的であり、安政四年に上田作之丞は、青陵の来藩は四十年早かったと記している(『国事経緯弁略』)。文化十年に御勝手方太田数馬が江戸廻米に替わる造酒廻漕を進言し、同年産物方役所の再設置されることになり、青陵と親しい村井長世が登用される。江戸廻米三千四百石を能登七尾で酒に醸造し、立山の木材で酒樽を製造して販売するものの売れ行き不振で一年限りであった。また年間十万石の廻米を、正保以来上方船才許で大坂・江戸へ廻していたが、この運賃が米百石につき十五〜二十九石もかかるため、摂津神戸二ツ茶屋村の船を直雇いする。しかし加賀藩では天保の飢饉と財政の悪化で、藩による産業の育成と営業は縮小を余儀なくされ、重農的な政策へと転換することになった。
 金沢で青陵は、富津屋七左衛門、浅野屋彦六、楠部屋金五郎、富田景周(二千三百石)、富永権蔵(千五十石)等、越中国でも十村の折橋二郎右衛門等と交流があった。
三、越中各地の見聞と講義
 文化三年三月五日に海保青陵は越中国高岡町へと移り、七月上旬まで滞在する。招かれて四月一日に町人へ『老子』・『中庸』・『孟子』等を講釈し、修三堂の開講式(五月三日)で『論語』の「学而」を講義する(謝金は二百疋)。富田徳風は青陵が来たことを新保屋と野尻屋から聞いたため宿を訪れて依頼したことにしている。「学而」には孔子の訓戒や金言が盛り込まれ、いわば学規のような内容である。また額の題字「修三堂」「求益」を揮毫する。その間に三木屋半左衛門(村瀬栲亭や皆川棋園に学んだ寺崎蛠州)や蘭方医で儒学に詳しい長崎玄庭等の高岡町人や修三堂に文台を寄付した戸出村の川合又右衛門、自在竹を寄付した加納村の扇沢権六と交流した。ただ高岡町奉行の寺島蔵人は病気であったためか接触していない。高岡町では時鐘の銘を認め(採用されたのは皆川棋園の銘)、上牧野の宗良親王遺跡に「八宮樸館塚」と撰した。高岡には青陵の絵(発田家所蔵の立山の図)や書(穂田家所蔵の六曲屏風)が残っている。
 七月四日に立山登山し、あわや転げ落ちるところであったという。山中に四泊・室堂に二泊した青陵は立山の開発に着目し、芦峅辺りの村民に銀や鉛等のありかを聞き出すこと、地獄谷では明礬や硫黄が燃えてなくなってしまうこと、賽ノ河原辺りに明礬・礐石・硫黄があれば宝物が産出すること、剱岳は緑青で塗ったような山であるから金銀玉宝がたくさんあるに違いないことを指摘し、山師を派遣して探査すべきであると提議した。そこで藩は硫黄を掘り出し、天保十五年から万延二年まで東岩瀬の道正屋三郎右衛門、滑川の湊屋八兵衛・鍛冶屋太吉に払下げ、大坂へ四万斤売り出す。
 このついでに青陵は富山まで足を伸ばし、富山藩の儒者市河小左衛門こと書家として名高い市河寛斎と会う。新川郡では沼保村の十村・伊東彦四郎を訪れ、彦四郎が手がけた愛本用水について談じ宿泊する。その後砺波郡を訪れ、福野で『書経』の「洪範」を論じて金沢へ戻り、山代・山中で入湯して帰京した。福野には文化十一年に山田正秀(六兵衛、伯芝・喬柜堂)と上保路磨(吉左衛門、梅園・子遵)の招きで再訪し、「洪範」の講義を続けた。路麿は皆川棋園の門。文化十年に青陵の著書『洪範談』の序文を書いている。「洪範」については文化八年に京を訪れた戸出の竹村屋武田茂兵衛(尚勝、義郷、竹坡)にも講義をしている。茂兵衛は高岡木町の鷲塚屋(大橋家)と組み砺波郡の農民に蝦夷の鰊を販売し、たびたび上京していた。文化八年に上京した際、青陵と会いその著書七冊読んで感動し、理の淵源は「洪範」であると聞いて、上京の度に青陵から学んだという。講義では、家が豊になれば国も豊になる、「則用之家、用之国」であることが強調され、青陵の『洪範談』を自費で出版するに到る。同十年に茂兵衛が新田開発を任された折には、自筆本『新墾談』を贈り、「ウツカリト掛レバ大キニ損失ノアル」と心構えを諭した。青陵はまた福光にも文化七年に訪れ、石崎喜兵衛(寅、子温・節斉)等を指導した。喜兵衛は訓言を筆写し、常に座右に備えたという。
洪範とは大原則(九疇)であり、五行(水・火・木・金・土)、五事(貌・言・視・聴・思)、八政(食・貨・祀・司空・司徒・司寇・賓・師)、五紀(歳・月・日・星辰・暦数)、皇極(皇が法を立て五福を衆民に遍く与える)、三徳(正直・剛克・柔克)、稽疑(卜・筮を執行する者を選ぶ)、庶徴(雨・暘・燠・寒・風)、五福(寿・富・康寧・好徳・終命)・六極(凶短折・疾・憂・貧・悪・弱)を指す。青陵はこれらと『周礼』(十分の一税、贖刑・売爵)で法即ち天理・治世の準則を認識し、老荘と仏教はその運用技術、法家思想はそれらを現実に行ったものと説明した(『洪範談』)。
 海保青陵の思想は、加賀藩では限定的にしか容れられなかったが、越中国内を広く遊歴し、その薫陶を得た人々は少なくなかった。町や村の指導者はこぞって青陵を訪ね、招いて、指導者としての心得や社会を見る眼を形成していった。
海保青陵.BMP
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第一章 石門心学の受容と普及

一、石門心学の成立
石田梅岩以前 「心学」という語は唐の韓愈が、「心を修める学」の意味で用いており、宋代で「心即理」を唱えた陸象山と、「到良知」「知行合一」「一心の本体究明」を目指した王陽明の、いわゆる陸王学を心学とも呼称されていた。後に朱子学もまた心学であると主張される。
 わが国では、藤原惺窩や林羅山がこれを受け入れ、慶安三年には『書経』を引用して、誠を中心に天理を重んじ私欲を去るべきこと、を説いた『心学五倫書』が編まれる。同書は儒教のほかに仏教や伊勢神道の影響も見て取れる。寛文七年頃に『心学十戒之図』という、仏教的世界観に儒教の用語を散りばめた書も編まれた。また貝原益軒や中江藤樹は、心の上の学問こそが真の学と心学を説明し、仮名混じり文で人々への啓蒙を図った。大坂の陣で軍功をあげた経歴を持つ鈴木正三は己を思う一念を滅却することを修行の第一と考え、『万民徳用』で武士・農民・職人・商人皆日常つとめる世法が仏法であると説き、人々の職業倫理を強調する。
石田梅岩による心学 享保年間になると町人の力が増し、脅威に感じた荻生徂徠は、『政談』で積極的に武士の帰農と町人の抑制を主張する。一方で町人の側でも西川如見は『町人嚢』で仏教・儒教・神道に深入りせず遊芸に嵌まらぬよう戒め、三井高房は『町人考見録』で謙の徳と積善の要を説いた。
 石田梅岩(諱・興長、通称・勘平、号・梅岩)は、貞享二年九月十五日に丹波国桑田郡東懸村に農民権右衛門の次男として生まれ、十一歳に京の呉服商へ奉公に出る。神道に傾倒して無駄を惜しむことに倫理的意義を見出し、商売の合間に読書に努め、講釈が開かれると良く聴きに行ったという。三十代半ばにふと不安に襲われ、自己の性をどうして知ることができるのか疑問をもち、朱子学の性理学に禅と老荘的な思想を加えた小栗了雲(名・正順、通称・源五郎、号・売炭黙叟)から指導を受ける。その結果、「人性は目なし」(我なし、即ちただ生まれつきのままありのままということ)であり、人はそれを知り、性のままに行うときに心は常に安楽である、と「発明」(悟了)した。
 享保十四年・四十五歳で自宅がある車屋町御池上ル所に塾(講席)を開く。門人にはあらかじめ課題を与えておき、月々日を定めて集まって、これをもとに日常的な問題にひきつけ討論する。門人には商人の子弟が多く、特に謝礼も紹介も不要であった。講義には『四書』『孝経』『小学』『易経』『詩経』『大極図説』『近思録』『性理字義』『老子』『荘子』『和論語』『徒然草』『六諭衍義』及び自著の『都鄙問答』と『斉家論』を用い、田舎荘子や謡曲等の講釈も行う傍ら、大坂などへも出講した。
思想の概要 梅岩が説くところによれば、学問の要は心を尽くし性を知るにある。神儒仏の教えは心を磨く磨ぎ草であると考えた。性は朱子学の性理説に由来し、「我ニ在ルノ理」である。松は緑、桜は花、羽ある物は空を飛び、鱗ある物は水を泳ぐようなものである。また性は天地を貫く理と一体で常に善であるが、心は気としての形即ち肉体に属し、時に私心私欲で本然を失うものとする。形は仮の物に過ぎないのだから、その奥にある普遍的実在としての性を知ることが重要になる。元文元年に刊行した『都鄙問答』で町人には町人の道があること、商人は社会に取り必要不可欠の職分であり、商売の利は武士が主君から受ける俸禄と同様であるとした。更に「実ノ商人ハ先モ立、我モ立ツコトヲ思フナリ」と不当な利を得ることを禁じ、正直を重んじた。これは実利とも不可分であり、売り物に念を入れ粗相せず売れば、品物が良いため買う側も金銭を惜しむ心が止むと説く。また正直と倹約の道は一つであり、真の倹約とは我がために物を惜しむことではなく、余る物を世に施すためである。三つを二つで済むように遣り繰りすれば、一つは他の必要な人へ回るのであるから、「倹約をいふは他の儀にあらず、生れながらの正直にかへり度為なり」と、性を知ること、学問することの意義に結びつけ、実践を通して人々に安心・喜びを知らせようとした。
 梅岩は簡素な独身生活を暮らし、延享元年に『斉家論』二巻を著した後、九月二十四日六十歳で没した。その思想はやがて門人の活躍で武家や公家にも信奉者を見出す。
手島堵庵による普及活動 梅岩の思想は斎藤北山(諱・全門、通称・仁介)、木村南冥(諱・重光、通称・平介)、富岡以直(通称・忠助)、杉浦止斎(諱・宗恒、通称千輔)、小森売布(諱・由正、通称五一)、神戸亀州(諱・友周、字・宗伯)等が受け継ぎ、京とその周辺諸国で活動する。更に手島堵庵は門人集団を組織化し、全国へ普及を図る。
 手島堵庵(諱・喬房、信、字・応元、通称・近江屋源右衛門)は享保三年五月十三日に京の商家に生まれ、父の宗義も子孫のための教訓書『商人夜話草』を書き遺すほどの人物であった。同二十年・十八歳の砌に石田梅岩の元に入門し、二十歳で開悟したという。家業に努めた後、四十代半ばで嫡男の建(後に和庵、字・子和、号・巴陵、富岡以直に学ぶ)に家督を譲り、『中庸』『徒然草』等約二十種の書籍について、
平易な文と歌句を用いて、女子・子供を含んだ門人に講じる傍ら、講舎の組織を完成させた。
しつぢがわるふは生まれはつかぬ 直が元来うまれつき 
めにも見えねば音にもきかず
されどなしともおもはれず
なひとおもふはそれははや思案
有の無のはみなまよひ
われをたてねば悪事は出来ぬ
しれよこゝろに我はなひ
へちた事には善事はなひぞ
しれた通がみなよいぞ
寐てもさめても立ても居ても
無理をいふまひむりせまひ   『児女ねむりさまし』
 堵庵は人を真の人たらしめる本質を天より等しく付与された性であると考え、教化理念の中核に据える。私欲ばかりでは災害を招くと、正直と信を固めることを説き、「無理言わず、無理せぬ」ことが一家和合の要件であるとした(『町人身体はしら立』)。また性を知るために個人的心掛け、処世訓の必要を感じ、修身の要語を歌謡にして普及させた。これは後に道歌と言われるようになる。更に七歳から十五歳までの子供に向け、家庭における日常の行儀や心掛けを説いた印刷物を頒布する。朝起きたら手水を使い、その後に神と仏壇に拝礼する、食事や外出時の作法・心得では、両親・祖父母・神仏への尊敬従順を第一に、嘘偽りを戒め殺生をしない、衛生面には留意する、といった内容である。教材に工夫を凝らし、農民や庶民向けにくだけた短い文言や絵入りの「施印」、子供には『新実語経』『男子前訓』『女子前訓』、女の人には『女冥加訓』、子守娘には『子守唄』といった具合である。
 塾を『論語』の一節を取り「会輔」と名付け、規約を作り、守るべき禁誡を定める。朝倉町の建物を五楽舎と命名して講学の場とするが、収容しきれなくなり修正舎、時習舎、明倫舎を設立する。これらを三舎といい、心学修行に一応の功を認めたら「石田先生門人譜」に登録して、「断書並口上」「知本心者可守之大略」が渡される。奥義に達した者には三舎連署の印鑑が渡され、全国で道話を説き、初心の修行者を善導することが許された。また道話を行う講席と会輔・静坐といった修行をする道場を兼ねた心学舎を全国に設立し、梅岩の筆跡と自著『諸国舎号』二冊、『会友大旨』一冊を分与するとともに明倫舎を中心に厳格な統制下に入れた。堵庵は著書を二十点余り著し、天明六年二月九日に没す。
二、高岡町での心学の普及
修三堂の設立 文化三年に高岡町奉行が後援し、高岡町人有志が出資して、高岡町の影無の坂に講堂をつくる。富田徳風は、『易経』の「君子は其の身を安んじて而して後に動き、其の心を易めて而して後に語り、其の交を定めて而して後に求む。君子は此三者を修む」から、これを修三堂と命名した。開講式は五月三日にあり、海保青陵を招いて『論語』を六十三人が聴講した。修三堂は町の公民館として、文化の普及に活用される。特に手島堵庵に学んだ脇坂義堂を講師に招き、石門心学が高岡町に普及するきっかけを作った。更に『修三堂湯話』(高岡湯話)を編集し、聖人を引かずとも高岡町人の中にも偉人はいることを、方言交じりの口語表現を用いて知らしめ、そこから人々の徳義を高めることを企図する。この手法はまさに石門心学そのものであった。
富田徳風 横町屋富田家は代々由緒町人・町年寄を務め、九代目が弥三右衛門美宏(可広)である。字は子順、号は徳風・松斎・冬青・晴雪窓・幸廼屋等と称す。明和三年九月に生まれ、寛政九年町年寄に就任、文化九年三月に苗字を名乗ることが許可された。二十歳のとき京へ留学し、皆川淇園や本居宣長に入門する。『宜深誌』『冬青園常盤帳』『四十七字麓之志留辺』『南瓜集』等を著して、自ら人々の先頭に立ち実践した。米価高騰の折には毎夜ひそかに困窮している家に銭を投げ入れたり、公用で金沢へ行く途中に竹橋の大火に遭遇したため懐中から罹災者に施したり、寛政十二年の高岡大火では自宅改築用の資金を公用と窮民へ寄付したり、延享三年の火事以来七十年間放置されていた瑞龍寺山門の再建に尽力するなど、多くの逸話がある。自ら修三堂を主宰し、文化四年十二月『修三堂湯話』に序文を書いている。同十四年二月(または正月)に五十二歳で没。
 『宜深誌』上下巻は五代目弥三右衛門可氏(号震風)の家訓を元にしたもので、その第一条に富田家が受け継いでいる思想が滲み出ている。「人といふ物は常に苦労して物を勤むれば心に思慮分別する事有物なる故に、おのづから善心生ずる物なり。常にらくをするものは淫乱放逸なる心いで来て、あらぬ悪念もきざす物なり。昔よりこゑたる 地の民は材智あらず、やせたる土の民はおのづから善にむかふといへり。勤・謹・和・緩、この四字を平生不可忘」
 脇坂義堂 京の町屋に生まれ、名は弘道、通称は青貝屋庄(正)兵衛。手島堵庵に入門し、布施松翁から多くを学ぶ。
 布施松翁(名・矩道、通称・松葉屋伊右衛門、享保十年十二月二十二日〜天明四年七月七日・六十歳)は呉服商の家に生まれ、宝暦七年に三十三歳で富田以直に入門した手島堵庵の道友で、性の本体を無為に求めつつ、実践の場では陽明学の知行合一を強調し、堪忍を諸徳の根源であるとした。また人々の生活に密着した様々な教訓を例話で諭す手法をとった。
 義堂も師の方法論を受け継ぎ、天明頃高槻城下で遊説するが、神仏儒教への言及には慎重を期せとの社約に反して伊藤仁斎の古学に基づいた経典解釈を批判したため、高槻藩への心学者出入りが禁じられてしまう。そのため堵庵から破門された。その後占いと教学思想を盛り込んだ教訓書を著したりするが、江戸へ下り中沢道二を頼る。
 中沢道二(名・義道、通称・亀屋久兵衛、享保十年八月十五日〜享和三年六月十一日・七十九歳)は京の機織業の家に生まれ、四十一歳で家督を譲った後に東嶺禅師や東寺の霊元禅師に仏教を学ぶ。やがて布施松翁の勧めで手島堵庵に入門し、代講を勤めるまでになる。五十五歳で堵庵から江戸へ下るよう指示され、日本橋に参前舎を設立した。道は主観的な心でありながら客観的な規範であることを説き、笑い話を交えて語る手法を確立した。泉・大垣・須坂・山崎等各藩から入門があり、大奥や松平定信からも引きがある。寛政二年に石川島人足寄場が建設された際、講師を委嘱された。
 義堂は道二の元で、享和三年から人足寄場で教諭を行い、大垣・庄内等の各藩に依頼され江戸藩邸で進講する。江戸で東海道の破損修築を幕府に訴え、自らも蹴揚の山道に石燈篭数基を門人と建設した。また駿河・高岡・金沢と遊説に出かけ、心学普及のきっかけを作った。このような活動が認められ、文化十四年に破門が許され「石田梅岩先生門人帳」に登録される。また孝心に厚く、母が亡くなると生前愛好した布袋の像を祀ると、門人からも布袋象が次々に贈られたため、堂内は布袋像で溢れたという。著書には『御世の思澤』『売卜先生安楽伝授』『孝行になるの伝授』『民の繁栄』『忍徳教』等二十部五十巻あり、教訓書として多くの人々に読まれた。文政元年に没。
 日常の生活に励みながら、無為の境地に達することを目指し、堪忍と知足安分を説く。更に『撫育草』では町人とその子供・丁稚向けに心掛けを二十八句で説いて親子間の親密な関係を強調し、子供は親の教えを理解して心服すること、親は幼児を厳しさだけではなく温和に育てることを心掛けること、子供には穏やかに接しながら必要なことは厳格な態度でしっかり伝えること、等を記した。
三、富山藩による普及活動 
 石門心学は富山藩では藩の手で普及が図られた。それは町人道徳の向上と、社会の安定を図るためであろう。文政三年三月二日の申渡では、翌三日より寺町の円隆寺で心学講授があるので、聴聞希望者は参加するようにとある。忠孝の道話であった以外に具体的なことは不明だが、参加者は少なかったと見え、七日に奉行所から町中へ用事は他日に振替え出席するよう触れがあった。また十八日には反魂丹商人は親方より連人共へしばらく隙を遣わして聴聞に出席させるようにと達しがある。また町々には出来るだけ出席できるように工夫すること、町々丁頭一人ずつ日々出席することが伝えられ、講釈は二十日まで行った。二十二日には船橋向極性寺で心学を講釈するので出席するよう申渡しがある。
四、石田小右衛門による富山藩の財政再建
富山藩の財政事情 富山藩は寛永十六年立藩の時点で人件費が財政を圧迫し、リストラを繰り返しながら、新田開発を急ぎ実収高を上昇させて、かろうじて維持していた。
 寛永十六年 家臣俸禄九万石
 寛文六年 同七万八千石
 明和三年 同七万二千石
 文化十四年 同六万四千石
 天保五年 同五万五千石
 朱印高十万石 実有高 寛永十六年 十一万二千石 寛文四年 十三万六千石 実収米 二万八千石
 天保四年まで財政を十年間分平均すると、歳入が年に収納高二万四七二六石、運上高一万二八四両、歳出が年に三万七五八両二歩かかり、累積の借財が三十万両になってしまった。特に天保二年四月の大火と不作が藩に決定的なダメージを与え、幕府から金五千両を借りる始末、同四年九月に夜中、大勢の物乞いが横行し、翌年は凶作であった。
 そこで藩主前田利幹は、天保四年の冬より五年間の財政改革を発令し、この時に西本願寺が財政再建に成功したとの話が伝わっていたため、これを参考にするべく、富山町人で本山出入りの商人で長町人の黒瀬屋六右衛門、米屋喜兵衛、中屋健吉を通じて内々に伺ったところ、石田小右衛門を紹介された。
石田小右衛門とは 石田小右衛門は、新田義貞の家臣を先祖に持つ摂津国川辺郡小坂田村山岸家の分家で、豊嶋郡東市場村岸上家に生まれ、名を敬起といい、知足、後に知白斎と号した。岸上家は富農であり、天保頃には相当の勢いがあった。家訓は浄土真宗の教えをもとに、勤勉・正直・倹約を旨とし、米の仲買に際しても短期的な利益より、長期的な視点で考えることをモットーとしていた。その教えのもとに三人の子供達が育ち、長兄の忠太夫は麻田藩士として財政面で活動し、次兄治左衛門は一時一揆を企てたとして追放になっていたが、帰国後に家老の中村伊兵衛と協力して、藩の財政再建にあたっていた。小右衛門は末弟であり、若くして大坂天満の乾物仲買で寒天問屋の大根屋石田家へ養子に行く。そこで堅実な商売をして養家を立て直し、大川ざらいの折には四百両の寄進をしたという。小右衛門の残した家訓には、
朝は粥 昼一菜に夕茶漬け 後生大事に身のほどを知れ
とあり、大根の絵が入っているという。岸上家、そして小右衛門の手腕を見込んだ岸和田藩は、文政十一年に財政改革を依頼した。これが小右衛門のコンサルタントとしての始まりであった。天保元年に西本願寺の改革のため、店を息子の小十郎と実兄の治左衛門に託して京へ移住し、以来兄とも協力しながら十以上の諸藩・旗本・寺院等の改革に携わり続けた。活動の拠点は近畿地方であるものの、富山藩からの懇請を容れ、遊説に出かける。氷見町の田中屋権右衛門『應響雑記』天保四年十月十八日には、石田小右衛門が西本願寺の借金七十万両を三年未満にことごとく解消し、更に二・三万両の余りを生み出して海内に功名を響かせ、大名方仕送りもする隠居であることが記されているように、この時代の有名人であった。
思想の基盤は石門心学にある 富山に来てから小右衛門は「演舌」会を寺院等で連日開く。その内容は国恩と仏恩に感謝し、質素倹約を旨とし、御恩報謝の気持ちを難渋している殿様に、献上という形で表そうというものであったが、岸上家の教えや小右衛門の歌からも読み取れるように、石門心学の影響がある。富山の人々には心学の素養があり、仏教への帰依は深く、藩内三百余の寺院のうち二百三十余寺・実に八十%が真宗である。したがって西本願寺の再建に当たった人物で、全国的に著名な小右衛門ときたら、それはもう富山では熱烈に受け入れられた。
石田小右衛門の富山での活動
@天保四年の演舌
 さて、小右衛門は天保四年十月十五日に富山入りする。町や郡からは小杉辺、追分茶屋まで迎えに出て、幟が立つなど大歓迎であった。ここまで駕籠で来た小右衛門は、降りて徒歩で御福新町より舟橋見付御門へ進み、諏訪川原、平吹町、旅籠町、越前町、一番町、二番町、高札のある西町、中野町の角より藩士九百石の生田左近宅から宿泊所に定めていた反魂丹役所へ着いた。当日は雨天であったため、足駄履きで町々を悠々と行進し、着いたのは夕方だったという。領内には事前に小右衛門が来ることを触れてあったため、どんな人物かと人だかりができて、前日より店を借り切って、そこから眺める人もいたようである。
 翌十六日は一日休みを取り、十七日から活動を開始する。早速登城し、前田利幹と二人だけで会談すると、利幹は翌日から質素倹約を自ら実践したという。休んだ十九日を除く二十二日まで城中で家中に「演舌」、二十三日に町役所で中坊主以下の半数と格式町人半数に演舌、二十四日通坊・金乗坊で町人に演舌、二十五日町役所で中坊主以下の残りに演舌、夕方には御郡役所で四方・西岩瀬・八尾の三宿町年寄や御扶持人十村、長町人と長百姓の格式町人・百姓に演舌、二十六日から二十八日まで通坊・金乗坊で町人や寺院に向けて演舌、二十九日は休みとして、十一月一日・二日に八尾の聞名寺、三日笹倉村の妙順寺、四日布目村の長専寺、五日布市村の常福寺で演舌、六日は御城で食事会が催されるが、その夕方に通坊で演舌、七日は休んで、八日に富山を出立し、西岩瀬の専林寺で演舌をした後に伏木古国府の勝興寺で十一日まで逗留して、寺改革の仕法を立てから帰京した。
 富山での逗留中は、藩から肩衣、時服、裃、脇差が渡され、これを着けて寺院等で演舌した。また演舌の節は、中坊主組の面々が茶などを出して、小右衛門が異動する時には町廻り・野廻り・足軽が前後を警護して、反魂丹役所下役小見付などが付き従っていた。町役所や御郡役所で演舌する時には高座に毛氈を敷いて、その上に座った。小右衛門の助手に専応寺と称した真宗の僧が常に同道し、演舌もしている。町方の寺院で演舌した際は、勘定奉行、改革方懸り下役などが詰め、町奉行、郡奉行、町奉行下役、郡方頭取は継肩衣で出役した。
 藩は小右衛門に改革を委ね、家中からの借米二分五厘はやめることにする。藩に銀を貸していた鎰屋九右衛門も取立てを猶予した。また家中・領民に男女を問わず演説会への参集を触れたところ、大勢が集まり小右衛門の道話に聞き入り、感動の連鎖を生み、仏の来迎を拝するようで、藩への献金が相次ぐ。婦負郡の農民からは五年間に五石ずつ差し上げたいとか、太物屋清次郎と嘉右衛門からは、火災にあってこれだけしかないのですが、と断った上で百五十両を寄付、中には通坊・金乗坊で、草履や草鞋をない、俵を編んで上納したいと差し出した農民の願書を、助手の専応寺が高座の上で高らかに読み上げると、人々は皆感服したという逸話も残っている。
A天保五年の演舌
 天保五年四月十四日に小右衛門は再び富山入りし、野口村の願念寺で休息した後に演舌してから、城下に入った。夕方に宿泊所の御郡役所に着き、翌日に登城して前田利幹と会見した後、十六日から二十日まで通坊・金乗坊で演舌、二十一日と二十二日には城中で演舌、二十三日は休んで、二十四日から二十七日まで登城して演舌、二十八日に町役所で中坊主以下に演舌、二十九日に布目村大安寺に泊まりこみで演舌、五月一日萩嶋村正栄寺で昼休みそこそこに演舌、この日に八尾入りして三日まで聞名寺で演舌、六日に富山に戻って、七日に通坊、八日に永福寺、九日に本寿寺と北代の極楽寺、十日に海岸寺・円隆寺、十一日光厳寺、十二日通坊および常楽寺といった具合に精力的に演舌をこなしていたが、さすがに疲れがたまって、十三日に休んだ後に臥せってしまい、藩医の木村東詮の往診を受け、帰京した。
 今回の改革では、家中から五年間の半知借上げを反対意見もなく申渡し、三十三万八千貫文程の銭札について毎月七日に金百両ずつ償還するよう指示している。婦負郡と新川郡の高持百姓からは、村々から一万五百石、十村からは五百石、四百余ヶ村の肝煎から千三百石を五年間借り受け、演舌の場で目録を読み上げた。
また寄付が前回を上回り、町の搗米屋からは五年間に金子三両ずつ、妻から一両ずつ、倅からも一両ずつ差し上げたい、などというものもあり、通坊へは献上が相次いでいる。八尾より銭で作られた鷲一羽、これまた銭で作った「イワス」に止っている。大根を両手に差し上げた絹の大黒が一体、銭で作った米俵二つと同じく銭の縄目皿が付いている。銭で作った福助一人。輪島製の八升入り大盃一つと八升入りの瓢箪一つ。室屋町からは金銀銭で作った看板。稲荷町からは神輿に小判を釣って周りを銭で作ったもの、天幕簾や祇園囃子。舟橋向からは麒麟一羽、銭で作ってあって、歯は一朱金、足は二朱金、象一匹、銭と一朱金で作って、鼻や体は大根。山にいる亀を銭や銀で作ったもの、同じく松に「さい」の作り物。三番町からは、銭で作った幟一本と金銀などで作った桜の造花。一番町と宗為町からは銭で作った陳太刀、下げ緒も銭で作っている。西町からは孔雀一羽が、銭や小判十五枚ばかりで作って、銭で作った「まとへ」(纏か)、銭などで作った鯛二疋、中野両町から米と金銭札などを多数、その他。このような凝りに凝った寄贈であった。稲荷町の玉輿と祇園囃子に三味線を弾かせ、次の唄が歌われたという。
 上辺がよければ下までよいぞ 君の御恩は忘られぬ うれしう思うはいついつまでも 御恩たりとや はやありがたや 君の代の千代までかけて 石田畠で万作じゃ これへめでたい玉のこし よいとさ よいとさ よいとさなあ
 藩は六月に家中の精勤と領民の冥加に感謝の意を表し、銀主の鎰屋九右衛門にも迷惑をかけないことを誓う。九月には飛騨国舟津町の北沢屋に十一月までの借用金三百両を、改革中のため待ってほしいと、これまた懇切丁寧、慇懃な書状を発した。この年の献上米は野積谷などから三千五四三石余あり、千石町の御蔵へ運びこまれる。
B天保六年の演舌
 三度目の富山入りは、天保六年二月二十五日で、これまで同様に群衆が迎え、夕方に宿泊所の御郡役所に到着した。翌日に登城してから日々、通坊、八尾、西岩瀬、四方などで寺院を使い演舌している。この間は御郡役所を奉行二人の宅に移して、月番を立てて仮の役所にしていた。
 やはり所々では金銀銭の寄付が相次ぎ、その内訳を読み上げるといったことをしているが、さすがにこの頃には減少傾向にあったようである。三月七日に富山を出立し、勝興寺に立ち寄ってから、京へ戻った。
 八月に藩は改革年限中の役知等の一割減を発表する。石田小右衛門はこの後も諸藩の改革に尽力し、弘化元年には麻田藩の財政を岸上家などの富農に委任させ、藩札の運用と信用借入で支えた。
富山藩のその後 この改革最中の天保五年十月に家老蟹江監物、浅野大学病死のため嗣子の浅野直太郎、御勝手方物頭加藤左門など財務担当者二十二人が処分を受ける。この中には後に明治維新後に藩政を牛耳る林太仲の父も含まれていた。これは藩札発行を巡る争いで、家老近藤丹後によるクーデタであった。近藤は御勝手方・御改革方主附に就任する。前田利幹は天保六年十月に隠居し、前藩主の子息利保に後を託して翌年薨去した。利保も富山入りした同年中、小右衛門へ丁重な書状で頼んでいるが、諸藩からの依頼がひきもきらぬほど多忙の小右衛門が富山に四たび入ることはなかった。
 石田小右衛門による改革はある程度の増収を見たが、いかんせん演舌にとどまり、構造的赤字体質を変えるまでには至らない。結局家中・町在からの調達と金銀札への依存を深めていく。
 天保七年に大凶作がおき、同九年一月に近藤丹後などが失脚し、三月に幕府から三万両、翌年八月に二万五千両の供出を命ぜられた。どうにもならずに領民へ二千石の五カ年間上納を依頼し、閏四月には家中に翌年までの半知借上げを命じる。家中は困窮にあえぎ、十二月藩は生活資金を貸与した。これを知った幕府は天保十二年十月に参勤交代を免除するほどであった。
 前田利保は就封後に人材を登用し、産業養成と流通の円滑化を図り、資金を貸与することで利息収入を上げるなど諸政策を、反対をものともせず断行するが、確実に財政は破綻へと向かっていた。
posted by ettyuutoyama at 18:52| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

はじめに

 幕藩期の歴史は江戸を中心に記述されがちであるが、地方には地方の歴史があり、今日と断絶することなく連綿と続いている。越中国は藩政期に各地で町人・農民による文化が成熟し、人々は学ぶことに旺盛であった。大人も子供も、武士も庶民も、僧侶も神主も、藩校・郷学・私塾・寺子屋・学塾へ通っていた。武士にとっては学問することが出世の糸口であり、子供たちにとってはこれからの生活の知恵を身につける場であり、大人たちは教養を楽しんだ。
 近世のわが国には多くの哲学思想家が生まれ、政治・社会・経済学説を唱えている。経済の要は人々が落ち着いて生活できるため、良き政を為政者が行うことにあり、そこには文化に対する深い洞察が必要あった。商売は「あきない」で、商売人には高い倫理意識と長期的な視野が必須であり、ただ銭儲けをすることではない。農民には国の根底を支えている自覚が求められていた。そのため漢学の素養は、教養であると同時に実学であった。医者が儒学に造詣が深いのは当然であり、現代のごとく文理は分岐していない。また人々は学者の学説に接することで我が身を省み、指導者層にあっては「公」は「私」に優先することを確認した。
 当時は儒学の全盛期だが、医学に関しては蘭方を学ぶ医者も少なくなく、やがて彼ら蘭方医が加賀藩と富山藩に登用され、蘭書の翻訳、化学実験、兵制改編などにあたる。また測量についてもヨーロッパの道具が導入され、算学に通じた人たちにより正確な地図が作られ畳の上で一覧できるようになる。天文学も発達し、暦の改正がなされた。
 指導者にいくら教養があっても、庶民になければ国に活力が生まれないことは、世界史を覗けば直に分かること。その点わが国は違っていた。幕藩政末に欧米から訪れた外国人の多くが知見し、驚きを日記に書き残している。単に識字率が高いだけではない、文化と教養が人々の自治意識を高揚させ、幕藩政末期の動乱期でもさして動揺しない自信を持たせるとともに、やがて迎える明治の御世での富国強兵・殖産興業推進へ大いに寄与したことは言を待たない。そこから充実した社会生活の前提が物質文明ではなく、精神文化にあることを認識させられる。
 郷土の先人が従来からの技術や思想を尊重しながら、蘭学・洋学を意欲的に取り入れ、しかしながら決して盲信することなく、慎重に接合していった努力や知恵を、今に生きる私たちは忘れるべきではない。

■注記
 ● 文中の用語の使い方、使用した漢字、句読点などは、原則として引用した文献に合わせました。
 ● 主な使用文献は各部の最後に一括掲載し、直接引用した史料のみ適宜表示しました。
 ● 文中の年月日は旧暦を使用しています。
posted by ettyuutoyama at 18:40| Comment(0) | 歴史講座 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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